マニュアルは、いつ、どこの、誰に、何のために、どう読ませるかを考えて作らねばならない。
単に言語表現だけを気にすれば事足りるわけではない。
この章では、読み手との関わりの観点から、マニュアルが備えるべき工夫を考えていく。
作業を構想する際に検討すべき範囲
作業を設計する時、単に作業の本体だけを考えればよいのではない。
後始末や訓練方法、事故時の対処など、さまざまな側面も考えなければならない。
それは資料10のように多岐にわたる。
仕事を構想し、人に作業を指示するのであれば、これだけ広い事項について事前に検討して、文書に明文化しておかねばならない。
考え漏らしがあると、安全の維持や、品質の保証、作業効率などに問題が現れる。

ただし、全てが現場の作業に必要というわけでないので、作業者向けのマニュアルには抜粋した部分だけを載せることが通例である。
最低限、作業手順だけを並べておけば、一応は作業を進める上で困らない。
また、マニュアルは一枚紙に収めるという原則からも、不急不要の情報は省略するべきである。
マニュアルが冊子体になってしまった場合、ページをめくらなくては情報が見えないというハンデを負う。
表紙だけは例外で、ページをめくらずに見ることができる。
特に表紙の上端部は、注目を集めることに関しては一等地と言える。
よって、冊子体の表紙の上端には最重要事項を書く。
まず第一に、危険を伴う作業の場合、緊急通報先や絶対禁止事項は、省略してはならない。
これらはマニュアルの表紙に記載せねばならない。
また同様のものを、作業現場においても壁などの目立つところに掲示しておく。
第二に、近い将来において作業方式が変更される予定がある場合は、マニュアルの表紙にその有効期限を明記する。
作業には、それを実施する目的や、そういう手順になった経緯、現象の科学的メカニズムがある。
これらの背景的な情報を知って作業する方が、安全や品質を保ちやすい。
しかし、それらは直接的には作業に必要のない情報であるので、コンパクトなマニュアルにも記載するかは悩ましいところである。
背景的情報を知らないまま作業すると、とんでもない間違いが起こることがある。
金や、銀、白金などの貴金属は爆発するだろうか。
「金の爆発に注意しよう」と言ったら、おそらく冗談と思われる。
一方で、火薬学の世界では、金が雷金という火薬となることは常識中の常識であり、かなり古くから知られていた。
錬金術師が金にあれこれ薬品をかけていじっているうちに爆発する事故があったのである。
貴金属材料を今まで使ってこなかった工場が、製品変更の都合で、急に使いだすようになると、貴金属爆発の事故が起こる。
貴金属の経験を持たない作業者に「貴金属爆発のメカニズムを知らなかったのか」と言うのは酷である。
大きな水泳プールでは、底に排水口があって、水が強い勢いで吸い込まれている。
ふたをしていない状態で人が排水口に近づくと、排水管まで引きずり込まれ、死亡するだろう。
2006年、埼玉県でこの事故が実際に起きた。
吸い込まれを防ぐために排水口を格子のふたで覆い、ふたはボルトによって確実に締結するというルールは存在していた。
しかし実際にはボルトは使われておらず、その当然の結果として、ふたは何らかの弾みで外れてしまったのである。
2019年に、山形県の水族館で、アザラシの赤ちゃんが水槽の排水口に吸い込まれて死亡した。
ここでもふたを固定するためのボルトを使っていなかったという。
事故の大半は、過去にすでに起きたものの「二の舞」である。
昔の事故の話は、事故を回避するためには絶対に必要である。
今日は運よく事故にならなくても、いつかは「一度
あることは二度ある」で昔の事故とそっくり同じ状況が生じる。
知識がなければ事故は避けられない。
以上のように、作業の本体以外の周辺的な話題が大量にある。
これを文書から省略することは危険である。
作業中に常用する一枚紙マニュアルには書ききれないにしても、別途、マニュアルに書き残し、言い伝えていかねばならない。
◆マニュアル作りでは、作業の後始末や、トラブル対策、訓練法まで、考えよう。
センス・オブ・コントロールを与える
センス・オブ・コントロールとは、自分は事態を掌握できているという感覚である。
現在の状況を知ることができて、将来の状況も見通すことができ、自分が主導権をとってコントロールできることへの自信を言う。
センス・オブ・コントロールは、自分が主導権をとれていることが大事であり、単に状況が苦しくないということではない。
自動車のドライブを楽しむなら、行き先は気ままに決め、天気のいい日に、見通しがよくて空いている高速道路を運転したい。
整備された道路だから、やっかいな出来事はまず起きそうになく、仮に起きたとしても道が広いからよけることができる。
これならばセンス・オブ・コントロールを強く感じる。
同じ運転であっても、他人から急にルートの変更を命じられたり、ごちゃごちゃした道をおっかなびっくり運転しているのでは、センス・オブ・コントロールをほとんど感じない。
会社における仕事でも、センス・オブ・コントロールが一番大事なのである。
たぶん成功できるぞと見通しがつく仕事は、たとえ労力がかかるものであっても、気分的には楽である。
逆に、成否が天候に左右されるとか、客の反応が予想できないとか、あるいは社内で摩擦があって上司や他部署から思わぬ横やりが入る恐れのある仕事は、神経を使う。
マニュアルは雑に作ると、作業の指示だけで終わってしまう。
作業者は、マニュアルに命じられるまま手を動かすだけであり、主導権を感じることができない。
ごく短時間でこなすべき単純明快な作業に対しては、作業者はマニュアルに言われるままに行動するだけでよい。
災害時の避難のように、速くかつ例外なく実行する必要がある行動は、むしろ読者は自分で考えない方がよい。
状況が複雑で手順の長い作業では、作業者が何も考えず唯々諾々と動くだけでは危険である。
全ての場合をマニュアルに書ききれるわけはなく、マニュアルにない想定外の事態が必ず生じるからである。
いざという時は、マニュアルが役に立たなくとも、作業者が自力で解決せねばならない。
日々の仕事を漫然とこなすだけでは、臨機応変な対処能力は身につかない。
よって、仕事の性質に応じて、マニュアルと人間との主導権のバランスを調整する必要がある。
主導権の配分の仕方には、資料11に示す4つの段階がある。
最も素朴なマニュアルは、状況に対して受け身の行動を説明しているが、レベルが上がるに従い、徐々に作業者が先を読むことへの支援を提供し、最終的には状況変革の主導権を握るように仕向ける。

西野カナの曲、『トリセツ』の歌詞は、序盤はトラブル発生時の受け身な対応策を指示しているが、終盤に近づくにつれ、自発的な行動を提案してくる。
バランス調整がうまくできている。
今後、職場のマニュアルは続々と電子化されていき、タブレット端末やスマートフォンで読むことが増えるだろう。
これらの機器はコンピューターであるから、作業状態を認識し、事態を先読みすることもできる。
すでに現在でも、カーナビは「まもなく、交差点です。
右折してください」という風に予告できているが、前もって言ってくれる分、運転者は心の余裕ができる。
先読み能力をさらに増強し、はるか将来を見越して作業の実現を手助けする、プレディクティブ支援レベルのシステムが、産業の現場では増えている。
予測能力だけでなく、紙の節約や検索の便利さという長所を鑑みても、マニュアルの電子化の利はかなり大きい。
そして電子マニュアルの能力を最大限に使うため、職場のIoT化が叫ばれている。
IoTのことを、「もののインターネット」だと捉えると意味が曖
昧だが、実際的なインパクトは、仕事や人や道具が今どこで何をしているかをスマートフォンで見えるようにし、さらには操作したり調整できるようにすることにある。
職場の全ての状況を即時に把握できるようになれば、目先の対症療法の域から脱し、大所高所から仕事の改善を自発的に考えられるようになる。
これぞセンス・オブ・コントロールであり、プロアクティブ支援のレベルである。
◆主導権感覚を育てよ。
唯々諾々の作業者ではダメ。
緊急事態用のマニュアル
事故や災害が起きた時の対処方法を指示する種類のマニュアルがある。
これには、他のマニュアルとは異なる特殊な配慮が必要となる。
緊急事態下では、安全の確保だけが目的となるべきである。
より正確に言えば、危害を受けず、かつ安定した状態に移り、救援を待つことが目標となる。
危害を受けないためには、異変が起きたらすぐに作業を中止し、遠くへ避難することが基本となる。
作業を中断する勇気と、逃げる勇気が必要だ。
吉田という騎手は語る。
「馬には馬ごとに特有の手強さがある。
人間の力では対抗できないと知るべきだ。
乗ろうとする馬をまずよく見て、長所と弱点を調べよ。
次に、くつわや鞍などの馬具に危ない点があって心配ならば、その馬に乗ってはいけない。
この用心を忘れない人を騎手という。
これが乗馬術の奥義である」と。
(『徒然草』第一八六段「吉田と申す馬乗り」)避難の目的は、差し当たりの被害を避け、時間を稼ぐことにある。
避難所に、水と食べ物があれば、数日は籠城できるから、とりあえずは腰を落ち着けられる。
工場では、機械にトラブルや異変が起これば、まず電源を遮断して、動作できなくしてしまう。
動かなくなってしまえば、事態は悪化しないので、逃げたり、調べたり、対策を考えたり、救援を待つ時間をたっぷりと取れる。
負けるにせよ、1秒でも遅く負ける。
拙速に勝とうとしてはいけないと、『徒然草』の第一一〇段でも言っている。
「勝たんと打つべからず。
負けじと打つべきなり。
いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし。
」緊急事態用マニュアルは、災害への拙速な反転攻勢を指示してはならない。
当事者が援軍を待ちきれずに自力で反撃を試みると、大きな被害を受けてしまうことが多い。
工場での死亡事故の事例を見ると、作業員は逃げるどころか、むしろ危険な現場に乗り込んで、それがために死亡している。
持ち場を任された従業員は「自分が頑張れば、トラブルを帳消しにできるかもしれない」という自負心があるから、あえて危険を冒してしまう。
この自負心を抑え込むには、「事態がここまで悪化したら、あきらめて、逃げて、援軍を待つ」という明確な基準をあらかじめ決めて周知しておくしかない。
ここでいう「明確」とは、判断や解釈の手間を差しはさめないほどに、具体的に指定することである。
「消火器で火を消す」という記述ではまだまだ抽象的である。
「東側の壁に設置されている消火器を取って、火を消す」とまで具体化せねばならない。
『般若心経』は、物事には固定的な本質がないという「色即是空」の考えを唱えている。
目の前に山があれば、普通は「山があるな」と思うだけだが、状況によっては「あそこは津波の避難場所として使える」とも認識できる。
あるいは「避難ルートの邪魔になる障害
物だ」や、「地震時には山崩れしそうな危険な場所」と認識する人もいるだろう。
山を見て「あれは山」だと認識できたつもりなっても、それは「とりえあえず山ということにしておこう」という思考停止であって、実は何も認識していないことに等しい。
緊急事態では人によって認識はバラバラになり、意見がまとまらない。
東日本大震災の際、宮城県石巻市立大川小学校では、生徒と職員の大半が津波によって死亡した。
事前に制定されていた危機管理マニュアルによれば、まず校庭に逃げ、次に「近隣の空き地・公園等」に逃げるという手筈であったが、その空き地とは具体的にはどこのことかは決まっていなかった。
結果、避難場所の選定の議論に時間を使い、津波に飲まれてしまうことになる空き地へ大多数の人が避難してしまった。
緊急事態用マニュアルでは、人々の認識を誘導するように、物事の呼び方には入念な工夫をする。
たとえば、津波の避難所になる、山や人工の高台のことを、「命山」と呼ぶといった慣例がある。
これなら山の機能は明白だ。
学校では、給食での食物アレルギー事故のリスクが悩みの種である。
「食物アレルギー緊急時対応マニュアル」なるものが各自治体で策定されている。
対策の切り札である注射薬は「アドレナリン自己注射薬」や「アナフィラキシー補助治療剤」「エピペン」と呼ばれるが、この医学的な名称に読者はたじろぐ。
いざという時には、居合わせた大人が、たとえ医師でなくとも、直ちに患者に注射できるかどうかが生死を分ける。
常識的には素人が人様の子どもに注射をしてよいとは思えないし、必要かどうかも症状にもよるのではないかと迷いが湧く。
だが、アナフィラキシーショックの進展は急激であり、30分ほどで心臓が停止する恐れがある。
救急車や医師を待つという態度こそが危険なのだ。
ある学校で死亡事故が起きて以降、マニュアルは、「注射して救急車を呼べ」「迷ったら打て」と、断定調で手順を指示するようになった。
明確化をさらに推し進めると、危機管理マニュアルはタイムラインという形式に行き着く。
発災の10秒後、誰がどこで何をしているか。
1分後、5分後、1時間後、1日後ではどうだろうか。
経過時間を軸にして、人々の行動を予定してしまうのである。
非常事態を経験したことがないと、その対応計画を考案することは、雲をつかむような話であるため、難しい。
しかし、今この瞬間に非常事態が起こったと仮定して、自分が何をするかを経過時間に沿って想像することは、なんとかできる。
「震度7の揺れはじめから5秒後、あなたは何をしていると思いますか?」と問われれば、「揺れている」と想像がつくし、5分後なら「電話で家族に連絡を取ろうとするだろう」とイメージできる。
ここまで想像してみると、よりましな行動も見えてくる。
「5秒後は、天井が落下するので、身をかがめて頭を守る」とか「大地震の5分後では電話は不通である。
それより身の回りの火事や津波の恐れを考えるべき」とアイデアが湧いてくる。
こうして、タイムラインに沿って、経過時間ごとにありえそうな状況と、望ましい行動を、あらかじめ台本にしておけば、実際の緊急事態でも強力な手本となるだろう。
緊急事態用マニュアルは、誰にでも理解できること、つまりユニバーサルデザインが求
められる。
簡潔で見やすく、かつ断定的に指示を出さねばならない。
点字も必要だ。
外国人が使用しても言語の違いなどが障害にならないように、多言語化やイラスト図解など非言語的な説明を用いる。
◆勝たんと打つべからず。
負けじと打つべきなり。
ユニバーサルデザインに則って書く
マニュアルは誰でも読めて、理解でき、実行できる形でなければならない。
さまざまな読者が存在するからだ。
視力や、聴力、筋力、体格、病状、知識、文化、地域、使用環境など、人によって違う要素は数えきれない。
「字が小さくて読めない」「字は読めても意味が難しくて分からない」「意味は分かっても作業を実行する技能がない」というように、何重ものハードルが存在する。
マニュアルに点字を付けることは大事である。
点字がない場合は、スマートフォンでマニュアルを撮影し、コンピューターに文を読み上げさせる。
枠や矢印などが変にごちゃごちゃしている紙面では、文字の読み取りがうまくいかない。
シンプルなレイアウトを心がけたい。
QRコードに、本文のデータをまるごと入れておくという方法もよい。
地味なところを挙げれば「年月日」の表記法ですら人類共通の方式がない。
日本は「年月日」の順で書くが、米国では「月日年」の順であり、欧州は「日月年」となる。
イスラム圏やエチオピアには、また独自の暦がある。
国際的な仕事向けのマニュアル作りは神経を使う。
読者それぞれの事情に対して、マニュアル製作側がどこまで対応するべきか。
どのような人が使えないことを甘受するべきか。
この線引き問題に対して、障害者の権利に関する条約では「合理的配慮」を求めている。
合理的配慮の定義を見ると、「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」とされている。
個々人の尊厳、社会のメンバーとしての地位が守られうるかという、社会公正の観点から考えねばならない。
言葉の違いはユニバーサルデザインの中でも大きな問題である。
これからの日本の社会で、マニュアルの説明文には標準的な日本語だけで事足りるとは考えにくい。
産業の現場では文書や看板に、英語を添えることは必須であるし、使用者人口の多い中国語やベトナム語も付けることが多い。
今は、スマートフォンの自動翻訳を使う人も多い。
マニュアルを単文スタイルで書いておけば、誤訳が少なくて済む。
いっそのこと、言葉をやめて、作業を説明するイラストや動画、完成見本を見せる方式にしたマニュアルも存在する。
ヨーロッパの国際列車の注意書きは、何語で書いても全ての客が読めるとは期待できないので、イラストが主体になっている。
同様に、全世界に販売する製品のマニュアルもイラストのみで説明するものがある。
日本国内であっても、普通の日本語で十分とは言えない。
子どもは漢字を読めないし、大人でも専門用語は分からない。
「頓服薬」と言われても意味が分からないので、「痛くなったり、苦しくなった時にすぐに飲む薬」と言い換えねばならない。
◆あなたが読めても、他人も読めるとは限らない。
人々の安全と、尊厳を守るものにする
言うまでもないが、マニュアルは危険な結果を招く手順を指示してはならない。
また、法令を守らねばならない。
深く考えないでマニュアルを作ると、思わぬ危険を呼び込んでしまう。
インターネット上には、一般人が自作の料理レシピを投稿するサイトが数多くあるが、中には危険なレシピが掲載されている。
乳幼児(特に一歳未満)にハチミツを食べさせるのは厳禁であるが(乳児ボツリヌス症の危険があるため)、乳幼児向けなのにハチミツを使用したレシピが掲載されている。
マニュアルは、商品を安全に使う方法を指南する任務も帯びるが、そこには種々の困難がある。
しかし、商品に潜む危険に気が付くように、そこを強調すると、商品の悪口を書いているようになってしまう。
だからといって曖昧に書いてはダメである。
「ここが危ない」や「こういう事故があった」というリスク情報を恥ずかしがらずに書かないといけない。
健康に関することを消費者に説明する際は、世間に流布している誤解や不安感、恐怖心が大きいので、かなり難しい。
昭和の頃の、公害や、薬害、食糧事情などの悪印象が未だに強いのである。
『広辞苑』は「無添加」の意味を「異物、特に、健康に有害な物質を加えていないこと」としている。
豆腐を作るときに用いる「にがり」は食品添加物である。
すると、にがりを用いた豆腐は無添加ではないから健康に有害だという、珍奇な結論に至る。
日本人は千年も豆腐を大量に食べてきて長寿国になっているのだから、笑い話のような誤りだが、ネット上ではこの珍説がくすぶっている。
「無添加」という言葉から、安心感と高級感を受け取る消費者は多い。
一部の食品産業や外食産業が「無添加」の3文字を表示したがるのも無理はない。
食料品店の豆腐売り場には、パッケージを一見すると「無添加の豆腐」と読めそうな商品がたくさんあるが、改めて読み直してみると、「ある物質に関しては無添加だ」という意味だった。
イメージアップのための苦肉の策である。
また、マニュアルでは差別的な用語を使ってはならないということも重要である。
書き手に差別の意図がなくても、結果として差別となってしまう作業手順も許されない。
子どもに親の名前を尋ねることは、かなりプライバシーに踏み込むことになる。
離婚や、死別、非嫡出子、事実婚など、さまざまな家庭の形がある。
子どもを対象とした業務のマニュアルでは、プライバシーに障る手順がないか厳重に点検せねばならない。
「氏名を記入してください」という指示は、事務作業では当たり前に登場する手順であるが、実はかなり悩ましい。
通名を使用している人もいれば、「氏」や「姓」という家族名の概念のない方式の国の人もいる。
家族名はあるにはあるが、そこから身分の低さがばれ
てしまうという国もある。
差別問題に対処するようにマニュアルに工夫をこらしていくと、かえって「世の中にはそんな差別があるのか」と読者に気付かせるリスクを招く。
それならば、作業の方が譲歩するべきである。
人の名前を聞きたいならば、法律上の正式名を答えさせるのではなく、本人の名乗りたい何らかの文字列を答えてもらうのが、差別問題の回避策となるだろう。
広く使われている用語だからといって差別のそしりを受けないとも限らないので、注意が必要だ。
「非正規雇用」という用語はネガティブなイメージを与える。
「有期雇用」の用語を選ぶべきだろう。
「下請法」という法律は現存しているが、最近は「下請け会社」の用語は避けられ、「取引先」や「協力会社」と言い表すのが通例だ。
「障害」という言葉を、「障がい」または「障碍」と表記する事例を近年よく見かける。
『障害のある先生たち』という専門書では次のように述べている。
「障害者が社会の中で経験する差別や排除は、言葉や表記を変えることで解消されるものではなく、むしろ表記変更を以てそうしたものがないかのように振る舞うことの問題も指摘されている。
」この本では、たとえば、学校で全盲の先生がテストの監督をする場合、今までどうしてきて、何が起きてきたかを調査報告している。
できなさそうなことでも、実際はやってきたのである。
視力や、聴力、四肢の運動能力といった心身の機能に、何らかの状態が存在するとできなくなってしまう形で作業手順を組むと、それが「障害」の問題の発端となる。
人を選ぶ作業方法を制度化してはじめて、「心身の状態」に過ぎなかったことが「障害」に変質する。
マニュアル作りが障害の元凶になってはならない。
◆マニュアルでは差別の問題が重い。
コンプライアンスは組織の防衛線
コンプライアンスとは「法律やルールを守ること」であると、単純に解釈されがちだ。
しかし、ルールは守って当たり前である。
コンプライアンスで言いたいことは、その効果であり、「組織のモラール(士気、相互信頼感)を守ることを目的としてルールを作り、現場に浸透させること」と捉えるべきである。
21世紀に入って、日本の製造業は、品質偽装や無資格者検査という問題で大きく信用を落とした。
食品や建設、自動車をはじめとする、長年にわたり信用されてきた大企業が携わる業種で、次々と問題が発覚した。
基準を満たす品質ではないのに合格としてしまう。
あるいは、合格の品質なのかもしれないが、正規の検査手続を踏まなかったり、検査者の資格を持っていない作業員が検査をしてしまう、という事例が立て続けに起きた。
あまりに多くの企業で発覚したので、企業体質や業界慣行の域を超えて、もはや国民的な職業倫理観の問題と言わざるを得ない。
ものを作っていく工程には楽しさがあるが、検査は地味である。
検査によって付加価値が増すようには見えない。
技術が進歩して不良品がほとんど出なくなると、検査をする必要が薄らぐ。
こうして、「検査は価値を生まない必要悪」や「検査は建前でやるもの」という認識が生まれてくる。
実際は、検査は大きな付加価値を生む。
何かトラブルが起きた時に、詳細な検査データが残っていれば、会社は強い立場に立てる。
たとえば、装置が故障した時、製造時にすでに不良品だったのではと疑われる。
そこで、検査データを全て公開し、さらに検査している時の光景もビデオに撮っておけば、本当に検査をしたのだと納得してもらえる。
こうした記録無しに潔白を証明することは難しく、長く不毛な裁判に引き込まれて、下手をすると敗訴するかもしれない。
データの公開に消極的だというだけで、国によっては懲罰的な判決を受ける恐れもある。
まじめな検査は大金に匹敵する。
こうした背景事情を、マニュアルの読者は理解しているだろうか。
理解していなかったから、マニュアルに「正規の手順で検査せよ」と書いてあっても、それを無視したのである。
ならば、マニュアルが読者を納得させるように、事情を説明するしかない。
「この検査で手を抜いたり、無資格者に代行させると、会社が傾くぐらいの裁判沙汰になる!」や、「○○社はここの不正で破綻した」と書くのである。
結局のところ、検査は、独立した部署や組織が担当しなければ厳正にはできない。
製造部署の人員が、検査までも担当すると、身びいきをして検査を緩めてしまう。
顧客からの苦情を受け付ける営業担当者が検査をするなら、検査に身が入る。
甘い検査をした結果、不良品を出して顧客から真っ先に怒られるのは自分だからだ。
孔子は、規則と罰によって人を指導すると、人はルールに合っている限り何をやっても
よいと捉えて、恥知らずになる(「道之以政、齊之以刑、民免而無恥」)と言っている。
最近、企業の屋台骨を揺るがすようなバイトテロが頻発している。
店内で裸になる行為や、食材で遊ぶことなどは、ルールで規制するまでもない当たり前の禁止事項である。
だが、孤立して作業していると、誰も見とがめないから、興味本位に悪いことをしてしまう。
仲間が近くにいると、互いに楽しませようとしてふざけてしまう。
批判的な第三者が存在しない限り、バイトテロを食い止めることは難しい。
たとえば、レストランではキッチンの中の様子を客に見えるようにするという対策がありうる。
◆コンプライアンスは軽視されやすい。
だが、会社はここから傾く。
品格を持ったデザインにする
マニュアルは使用者が読むものであり、会社と顧客が出会う「顧客接点」である。
企業の顔と言ってもよい。
だからこそ、分かりやすさだけでなく美しさと品格を備えるべきである。
高級品ならばマニュアルも相応の高級さがなくてはならない。
何十万円もする商品なのに、マニュアルは普通紙に印刷されていたりすることがあるが、これはいけない。
高級腕時計の世界ならば、付属の印刷物が安っぽかったら、それだけで偽物と断定される。
素人が何も工夫せず、パソコンでマニュアルを自作すると、だいたいは貧相な仕上がりになる。
美しい印刷物を作るには、プロの知識と審美眼が必要なのだ。
ただ、素人でもできることは多い。
その最たるものがフォント(活字書体)の選択である。
マニュアルの文字は見やすさを第一とする。
それには、字画同士の距離が比較的はっきりと離れていて、シンプルな、細ゴシック体や丸ゴシック体の系統を選ぶのが無難である。
明朝体は、字画の太さが不均一で、細かい装飾もあるので、視力の弱い人には見えづらい。
品格に劣る書体とは、同じ書体なのに文字の大きさや字画の太さが不揃いに見えてしまうものである。
文字の並びにスムーズさがなく、高級印刷物には向かない。
これは、画数の差が激しい漢字を使う以上、どのフォントでも、ある程度は避けられない現象ではある。
「一」はどうしても小さい文字であるし、「鬱」を線を細くせずに升目に収めることは不可能である。
しかし、良質なフォントには、俄然きれいに見せてくれるものがある。
金に余裕があるなら、有料の高級フォントを買って使うべきであるが、ある程度パソコンのフォント事情に詳しくないといけない。
設定を間違えると、自分のパソコンではきれいなフォントで編集できても、同僚のパソコンではダメといった事態がありうる。
資料12に示したものは、パソコンにて比較的利用が容易な細身のゴシック体である。
しかし、3つとも、字の大きさは同じ値で指定してあるのに、見た目はそうは感じない。
全く異種のフォントを混用すると、見た感じの字の大きさがバラバラになり失敗する。
「マニュアルに使う文字は12ポイント以上の大きめの文字にしましょう」という指示を見かけるが、ポイント数は字の大きさを厳密には保証していない。
見やすいか、そして品があるかは、紙に印刷して確認してみないと分からない。

一部の文字を太字にしたい場合は、同族のフォントから太字のものを選ぶようにするのが正攻法である。
別種の書体の太字を混用すると、字の大きさがずれるなど種々の問題を
生む。
太さのバリエーションが充実したフォントのセットを揃えるには、それなりの金を払わねばならないのが厄介ではある。
ごく太いフォントが必要になり、かといってフォントを買うわけにもいかず、パソコンの中を探した結果、カジュアルなポップ体を使ってしまった事例がしばしば見受けられる。
「わくわく大売出し」や「ぼくの絵日記」ならポップ体で書いてもよいが、裁判所の掲示板に「検察審査会」という厳粛な名称が、お手軽な印象のポップ体で印刷されていたのを見て、唖然としたことがある(資料13)

低学年の児童や外国人などの日本語初学者にとって、フォントごとの字形の微妙な違いは障害になりうる。
「令」の最後は垂直線か斜め点か、「や」「な」の部分は連綿してい
るか、しんにょうの点は一つか2つかといった違いは、統一されぬままである。
別の文字と誤解されないようにしたい。
この問題に対しては、教科書用と銘打ってある、字形が比較的標準的で運筆が分かりやすいフォントを選ぶとよい。
一方で、記号を書かせる仕事などでは、「0」と「O」や、「ハ」と「八」、「ロ」と「口」などで、明確に見分けがつくフォントでなければならない。
日本語以外でマニュアルを書く場合も、フォントの選択には同様の配慮が必要である。
特に、欧文アルファベットの場合は膨大な種類のフォントがあり、使用すべき場面や品格の度合いについて暗黙のルールがある。
大まかな傾向としては、マニュアルや工場の看板には、視認性のよいサンセリフ体が使われることが多いが、一口にサンセリフ体といっても多種多様なものがある(資料14)。
書体もさることながら、文字の間隔調整は玄妙な問題であり、その巧拙が品格に大きく影響する。
安直に、英字新聞でおなじみの「タイムズ・ニュー・ローマン」書体を選んで、パソコン任せに文字を並べれば上品、というものではない。

◆マニュアルは組織の顔である。
執筆者の氏名と、更新履歴を明記する
万物は流転する。
マニュアルや、張り紙、看板といった指示のための文書も同じで、いつまでも新鮮さを保って、正しい内容であり続けられるはずはない。
文書の有効性は、誰が、いつ、何の目的で書いたものであるかに依存する。
これらの情報を欠く文書は、従ってよいものなのかが不明であり、ともすれば仕事を混乱させる罠とも言える。
にもかかわらず、指示を書く人は、暗黙のうちに、文書は未来永劫不変でずっと有効であると仮定してしまう。
そこまで大胆でなくても、有効期限の問題は放置してしまうようだ。
作成日や、有効期限、改訂予定日まで併記してある優等生のマニュアルや看板は、滅多に見かけない。
執筆者の氏名も書かれることが少ない。
執筆者の情報は全く無いことが多いし、せいぜい作成した部署の名前、あるいは「部長」や「課長」といったポスト名だけが書かれているのが関の山である。
部署名は文書の権威を裏付けるために書かれるが、実用上はほとんど出番がない。
「コピーの原稿を取り忘れるな。
総務部長」という張り紙に「総務部長」の字があろうがなかろうが、読者にとってはどうでもよい。
読者が知りたいのは、具体的な執筆者の氏名である。
というのも、読者は小さな疑問を問い合わせたいのである。
「置き去りにされた原稿を見つけたらどうすればよいのか?」といった、指示が取りこぼしている事項を聞きたい。
それを尋ねるのに総務部長を相手にするのでは仰々しいし、おそらく部長はこの件に詳しくない。
社内であっても他部署の長を相手に公式ルートで問い合わせようとすると、儀礼に手間がかかる。
実際に書いた人の名前が分かれば、電話するなどの非公式な形でちょっと教えてもらえばよいので楽である。
問い合わせ担当者の名前だけを挙げておき、執筆者の名前は表示しない例も多い。
通常はそれで事足りるだろうが、どうしても執筆者を知りたいという事態も起こりうる。
時間の経過によって、文書の意図が分からなくなることがある。
ルールは、ルール自身の内容を語るが、ルールが制定された事情は伝えない。
今時、なぜ古臭いルールが必要なのかと疑問に思っても、その答えは執筆者以外は誰も分からないものである。
若い担当者にも、理由が言い伝えられていないことがある。
約20年前から最近まで、「情報セキュリティーのために、コンピューターのパスワードは定期的に変更するべし」という言い伝えが適切だとされてきた。
しかし、たくさんあるパスワードのそれぞれを、数か月やそこらで全く新しいものに切り替えるなど、実際に実行できるものではない。
むしろ、人々は安直なパスワードを設定するから、かえって危険かもしれない。
このような批判が長年続いていたが、ついに2017年、この言い伝えは不適切であるという真逆の評価に変わった。
言い伝えの言い出しっぺの名前が分かっていれば、その人と討論して白黒の決着をもっと早くにつけられたはずである。
執筆者の名前が分からなかったり、退職していたり、死去していたりすると、昔の事情の追跡は難しくなる。
それを見越して、文書作成の時や改訂するたびごとに、事情や意図を書き残しておくべきなのである。
マニュアルには、改訂履歴の表を用意し、いつ、誰が、何の事情で、何のために書いたかを一覧にまとめておく。
◆マニュアルに湧いた読者の疑問に、答えられる人は誰だ?
不断の改良――欠陥を「見える化」する
完全無欠のマニュアルというものは存在せず、完璧な作業手順というものもない。
どんなマニュアルであっても、さらなる改良の余地はある。
改良の努力を絶やしてはいけない。
時代の変化によって、改訂しなければならない事項は自然と生じる。
また、他社との競争に負けないためにも、手順を改善し、マニュアルをより使いやすくする努力をやめることはできない。
しかし、いつも平穏無事に作業ができている職場で、「マニュアルを改善せよ」と号令をかけても、どこを直せばよいのか誰もピンとこない。
一方、トラブルが多発している職場では、仕事に追われており、マニュアルを改善する作業に時間を割けない。
どちらにせよ、マニュアルは現状のまま放置されがちである。
すでにそれなりに出来上がっている文書を改訂させるべく職場を奮起させるには、大きなエネルギーが必要なのである。
よって、小さなエネルギーでできる範囲でジワジワと改善を始めるのが正しい。
人は作業中に、マニュアルの間違っている記述や、もっとうまい方法がある手順、失敗しやすいポイントなどを、ふと見つけるものだ。
その時を逃さず、コメントをマニュアルのその箇所の余白に直接に赤ペンで書き込んでもらう。
実際に作業で失敗してしまったら、そのあらましをそこに書いてもらう。
こうしてダメ出しコメントを溜めていく。
ある程度コメントが溜まってきたら、本部で回収し、改善のためのアイデアとして役立てる。
書き込みだらけの部分が出てきたら、要はそこの手順がダメという動かぬ証拠である。
手順の優劣が露骨に「見える化」される。
なので、コメントといっても長々と作文する必要はない。
最低限、「ここが難しい」の一言でよい。
それだけで、マニュアルの欠陥は「見える化」される。
このアナログな作業に、デジタル技術の力を使うことも可能だ。
ウェブ上の文書を大人数の集団で編集するためのシステムで代表的なものはウィキである。
インターネット百科事典のウィキペディアは、ウィキの技術を使って、膨大な人数の執筆者が大量の記事を時々刻々、作成し編集している。
自社内にもウィキやそれに類するシステムを設置して、マニュアルにコメントを付けたり改善したりするのが当世流であろう。
三人寄れば文殊の知恵。
三人どころかもっと大人数にダメ出しに参加してもらえば、マニュアルの欠陥は見つかり、それに対する妙案も教えてもらえる。
◆マニュアル改良には群衆の知恵を使う。
一人でしてはならない。
問答集は質問の羅列ではダメ
マニュアルには、ただ手順を説明するというありふれた形式以外に、問答集の形式で編集されたものもある。
これは「Q&A」や「FAQ」(FrequentlyAskedQuestions)、「よくある質問」などとも銘打たれる。
問答集形式では、読者の要望が主軸となって編集される。
内容が、「巣鴨に行くにはどうすればよいか?」といった疑問や要望が見出しとなって編集されており、答えはその場に掲載される。
この「要望→実現手順」という流れは、読者の立場からすれば一番自然であり、読みやすい。
問答集の形式は優れているが、編集がずさんで役に立たないものも多く見受けられる。
「よくある質問」や「問答集」と題してはいるが、編集に配慮がないのである。
読者から浴びせられた質問を、内容を整理せず雑多に並べ、個別に答えをただ返しただけの問答集は、読んだところで理解が深まらない。
そもそも問答集で対処するべきではないことが多い。
読者から質問が寄せられたら、作業環境の方を即座に改善し、問題を消滅させるべきだ。
そして、マニュアル上では問答せずに済ませるようにするべきであろう。
「Q:赤いランプは何ですか?」という問いに、馬鹿正直に「A:機械が正常であることを示します。
」と答えるべきではない。
赤ランプの上に「赤点灯なら正常状態」とラベルを貼る方が、はるかにマシである。
答えるべきではない質問に愚直に答えることほど、間違ったことはない。
少数派ながら、問答集でなければ対応できない質問もある。
それはマニュアルの本文でも説明しにくい事例であり、質問を浴びせられても仕方がない難問である。
2200年前の古代中国・秦の、法律についての問答集には、難問が並んでいる。
「Q:父親が子の財産を盗んでも窃盗罪に問わないと法律にあるが、義父が義理の子から盗んだら、どうなるか?A:窃盗罪になる。
」「Q:失火で公務員宿舎を焼いた場合、家の中で焼失した政府の資産は弁償しなくてよいと法律にあるが、公用の馬車に火が回って燃えたらどうなるか?A:馬車は弁償すること。
」このくらいの難問なら、問答集に並べておいても恥ずかしくない。
マニュアルでは簡潔さが命である。
重箱の隅をつつくような事例の全てをカバーしようものなら、マニュアルはパンクしてしまう。
何を書き残すべきか、選別が必要となる。
難しい事例の中で発生件数が多いものは、マニュアルの巻末に問答集を付け、そこで指示を書く。
発生件数の少ない特殊事例は、それを具体的に書くことはやめる。
読者には、マニュアルに書かれていない事態は全て異常事態であり、即座に作業を中止し避難せよとだけ指示する。
特殊な事例一つ一つに対処方法を説明して、トラブルを乗り越え作業を完遂せよと
いうのは無理であり、欲張りすぎる。
◆問答集は便利だが、それに頼るな。
読者のやる気を出させる
『うんこ漢字ドリル』がヒットしたように、読者が興味を引く題材をちりばめると、「マニュアルの読み込み」という本来はつまらない作業も苦にならない。
第二次世界大戦でのドイツの主力兵器だったティーガー戦車のマニュアルには、裸の女性のイラストが多用されている。
兵器を女性に見立てて、愛情を持って手入れさせるというアイデアだ。
米軍はこれを拝借して、ベトナム戦争中に銃の整備マニュアルに使っている。
子どもは、コンピューターゲームを買ってもらうと、すぐに熱中して、ものの数分で遊び方を学んでしまう。
本来なら取扱説明書を読まなければ理解できないほどルールは複雑だが、ちょっと遊ぶだけで、難なく体得してしまうのである。
ゲームの出だしは練習コース(チュートリアル)として作られていて、操作方法を知らず知らずのうちに一通り体験するようになっている。
それがマニュアルの一部であることに気付かぬまま、ゲームの世界に没頭していく。
ゲームを詳しく観察してみると、子どもの心理に合わせるために、細かい工夫がちりばめられ、精巧に作られていることが分かる。
ボタン一つとってみても、ゼリーがぷっくりと盛り上がったような見た目で、本能的に押したくなる。
押せば、「プヨン」とか「カチッ」と音を返してくれる。
そして簡単な課題をやり遂げると、宝物をもらえたり、褒めてもらえたりする。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」(山本五十六)これが教育の理想形であるが、その通りにできている。
韓非子が言うように、自分では分かりやすく書いたつもりであっても、読者の状況によっては伝わらないことがある。
それゆえ、相手に即して細かい工夫をちりばめる必要がある。
韓非子は「法家」を代表する思想家である。
これは法律によって世の中を治めるべきとする思想で、ルールとマニュアルを整えようとする。
紀元前3世紀頃の中国では、秦の国がこれを採用し、国力を高め、ついに天下を統一するに至った。
たとえば、「均工律」というルールは、国の工場の運営、特に労働力の平準化について定めている。
「初心者は、最初の1年半は初心者コースで働く。
監督者は初心者に仕事をよく指導せよ。
初心者は作業に熟練者の2倍の時間がかかるものとする。
初心者が仕事を速く仕上げた場合は褒美を出すこと。
仕事が遅いものは、名前を記録し、大臣に報告せよ。
」という条文がある。
数字によって明確に定められた規則であるので分かりやすい。
こうすれば、どの工場でも差が無く運営できるだろう。
初心者向けとはいえ、納期2倍とは甘いノルマのように見えるが、褒美を出すことで作業を加速させる作戦である。
人間の心理を巧みに利用している。
ただ、このルールは細かすぎるきらいもある。
これくらいの事項なら、現代でも工場ごとの現場の判断に任せることにして、明文化しないという考えもありうるだろう。
老子は、法家とは真逆の考えを持っていた。
彼は「法律が精緻化すると、盗賊が増えるものだ」(「法令滋彰、盗賊多有」)と言う。
細かいルールを決めない方が、どんな状況にも臨機応変に対応でき、うまく運営できるという考えである。
考えが正反対の韓非子と老子だが、なぜか司馬遷は『史記』で、両者は類似しているとして、伝記を「老子韓非列伝」としてひとまとめにしている(『史記』の他の箇所、たとえば「酷吏列伝」では、老子は法家の批判者として引用している。
「老子韓非列伝」とはトーンが違う)。
韓非子は、人心をつかむ巧妙なルールを張り巡らせ、世の中を治めようとした。
老子は、細かいルールを決めないことで、あらゆる事態に対処しようと考えた。
どちらも支配者と被支配者とを適合させることを目指すことに違いはない。
◆つまらないマニュアルや、やる気の出ない作業には、工夫が足りない。
マニュアルは究極的には消滅せねばならない
マニュアルはそもそも補助的な役割を持つものであり、無しで済むなら無い方がよい。
マニュアルが無くても、道具を見ればおのずからその使い方が分かり、作業場に立てば自然と正しい段取りで仕事が進むのが理想的である。
その理想に達していないから、マニュアルを仕方なく使うのである。
マニュアルをなくすには、作業内容を簡潔にし、操作対象や作業環境の中に使い方の誘導を溶け込ませるという方針で進める。
操作が難しい機械には、ボタンやレバーにラベルを貼る。
道に迷う分かれ道では、案内看板を立てる。
コンビニエンスストアで挽きたてコーヒーを販売することが流行しているが、その初期に使われていたコーヒーマシーンはラベルシールだらけにされていた。
セルフサービスの販売なので、客が機械のボタンを操作するのであるが、ボタンの説明が全部英語で書かれていて分かりにくい。
「普通サイズ」と書けばいいものをわざわざ「Regular」と表示されていた。
店員が日本語の説明ラベルを貼って、この危機を救ったのである。
実際のところ、シール印刷機は、使いにくい機械から多くの人々を救っている。
この世で最も有能な安全装置ではないかと思う。
さらに改善を進めると、人間がラベルを読まなくてもいいし、判断したり操作しなくてもいいという理想が考えられる。
客がコーヒーマシーンの前に立つだけで、機械は客が買った商品の種類をレジの機械から教えてもらって、さっさと作ればよいのである。
分かりきっている情報は機械に面倒を見させるべきである。
自動車工場の組み立てラインは、まさにこの技術思想で作られていて、作業者が次に手に取るべき道具を機械が教えてくれる。
作業環境の中にマニュアルが溶け込んでいるのだ。
このような作業環境の高度な知能化への流れがある一方で、逆に、人間が主体的に判断するべきであり、道具は道具に徹するべしという技術思想もある。
用が済んだ後に自動で流してくれるトイレを自宅に設置して使い慣れてしまうと、外出時にそうではないトイレを使った時には流し忘れてしまう。
機械の便利さに頼ることには、知らず知らずのうちにリスクを引き入れてしまうという一面がある。
コンピューターを使う仕事であれば、コンピューターが画面上で次に実行するべき手順を説明し、作業者を誘導する。
マニュアルを一切用意しないという商品も増えてきた。
スマートフォンやテレビゲームは、あまりに複雑すぎて全部を説明し切れないし、読む方も読み切れない。
システムが誘導することにして、冊子体のマニュアルが省略される傾向にある。
ただし、法令により取扱説明書に書かねばならない事項があるので、紙の説明書が完全に消滅するわけではない。
特に、安全や補償といった消費者保護の事項は紙に書き出して
ある。
また、停電時には電子マニュアルはあてにできない上に、印刷機も動かないので、災害時用のマニュアルは、紙で必要部数刷っておくことが求められる。
道具が単純明快であれば、人間は判断に苦労しない。
鉛筆に取扱説明書はいらないし、使い方を誘導する機能もいらない。
ちょっと複雑な機械でも馴染みのものなら、大半の人は説明書なしで使いこなせる。
コモディティー化した家電がそれだ。
高級品は別だが、テレビや、冷蔵庫、洗濯機などは、今やどの会社の製品も同じような操作方法で使える。
時代とともに価格が下がるにつれ、家電は標準的な機能しか装備されなくなり、使い方も同質化するのである。
機械が苦手な人は、操作方法に迷わなくて済む低価格帯製品を選んで買う。
私の自宅にあったテレビは、「機能の多さが商品の魅力」という時代の製品だったので、リモコンには数々のボタンがごちゃごちゃと並んでいた。
それらの大半は結局、一度も押されず仕舞いだった。
「多芸は無芸」である。
最近、安いコモディティー化したテレビに買い換えた。
こちらは機能が少ないから、必然的にリモコンはシンプルになる。
無名のブランドのテレビだが、図らずもデザインは垢抜けている。
スマートフォンは冊子マニュアルがなくなりつつあるが、その一方で、無駄な機能が増えているように思える。
特に、使用者の買い物や所在位置についての情報を吸い上げ、その人個人に適応した広告を出すという仕組みになっている。
ある種のスマートフォンを買って、そのまま使うと、会社の会議中にピコンと鳴って「芸能人の○○に熱愛発覚」などと教えてくれたりする。
実に小賢しい機能であるが、止め方が分からない。
止め方は調べれば分かるにしても、機能の数が多すぎて手に負えない。
マニュアル屋がコンパクト化に努力していても、誰かが変な機能を増やす。
◆作業環境が有能ならば、マニュアル無しでも間違わない。
即興マニュアル作成法
組織には人事異動がつきものである。
担当者が変わる際に、仕事の段取りを引き継がねばならない。
そのポストの仕事のマニュアルを作り、説明することになる。
しかし、人事異動の内示は遅く、ぎりぎりになって発出される。
短い日数でドタバタしている中、乏しい時間を割いてマニュアルを作るのは大変である。
非常手段となるが、即興的にマニュアルを作る方法にはいくつかある。
まず、動画の利用という方法がある。
機械の操作方法を説明する自分の姿を、スマートフォンで動画に撮り、これをマニュアルとする。
これは文字を書かなくてよいから楽である。
用語集を作ることも効果が大きい。
孔子が言う通り、最初に言葉を整えるのである。
部署ごとに特有の社内方言や重要概念がある。
言葉の説明をリストアップすることで、単なる言葉の定義には留まらず、その背後にある組織と仕事の説明に自然と入っていけるのが、用語集の面白いところである。
五十音順に並べればよいので、編集に頭を使わなくてよい。
専門用語の辞書は、教育資料としては優秀である。
自分の知らない分野について勉強を始める時に、用語集を読むことから手を付けると、情報がすっきり頭に入る。
専門用語の解説というものは、浅薄な域に留まるものではない。
深淵なことに触れるものだ。
私も、部署を異動することになって、後任者のために引き継ぎ資料をいろいろ作ったことがあるが、なんだかんだで百個ぐらいの単語をリストアップできた。
「ガンマ弾」という言葉をよく使ったのであるが、これは「新規に提案して予算を獲得する事業のネタ」という意味である。
なぜ「ガンマ」かと問われれば、「アルファが効率化係数で、ベータが消費者物価指数で、ガンマが業務政策係数で……」と予算編成術の奥深い世界について話さねばならない。
具体的なキーワードを学ぶことを入り口として、抽象的な全体構造を学んでいける。
即興マニュアルの主役は「職場暦」である。
仕事の日誌は引き継ぎ資料として貴重である。
仕事には年周期性があり、今日やっている仕事は、去年の今日にもやっていた可能性が高い。
何月に何が起こり、何をして、どんなトラブルが多いか、という暦があれば、後任者は長期的な見通しを持って仕事を準備できる。
日本型の組織はゼネラリストを欲しがる。
人事異動では、往々にして、全く別の部署に移される。
組織全体の知識と経験を広く浅く積ませ、ゼネラリストに育てるための工夫である。
ゼネラリストが不足すると、組織が縦割りの傾向を強め、機能不全に陥る。
社会学者マックス・ウェーバーによれば、かつてペルシャの財務官僚は、自分たちが身につけている会計の技術を暗号化して、門外不出のものにしたという。
予算の編成法や会計管理は、実に難しい技術を要する。
秘伝が守られていれば、自分たちが官僚の地位を独占し続けることができる。
これは政権が変わっても同様で、たとえ国が戦争に負けて滅び
ても、最高幹部の首のすげ替えが起こるだけで、官僚組織を解体することは難しいとウェーバーは言う。
実際、日本は敗戦したにもかかわらず、政府は活動を続行した。
人間は、自分の仕事を分かりにくくする挙には出ないまでも、部外者にも分かりやすいマニュアルを作ってあげるために多大な努力は払わない。
状況を放置していると、時間の流れとともに仕事は複雑になる。
新たな事業が生まれ、組織は改編され、社内方言が出現し、例外的手順が追加される。
こうした情報を理解することは、担当者ならどうということはないが、部外者には難しくなる。
こうして、いつの間にか担当者は他部署からの干渉をさえぎるバリアを手に入れ、各部署は互いに部外者を受け入れず、縦割り組織になっていく。
縦割り組織の弱点は、コストがかかりすぎることだ。
風通しが悪く、相互にろくに連絡しないから重複が起こる。
似たような人員や機材を部署それぞれが所有してしまう。
日本陸軍は潜水艦を持ち、ドイツ空軍は戦車部隊を持っていた。
あるいは、自社内で似たような商品を作り合って競合してしまう。
似た商品ではあるが、生産設備や部品を共通化していないために、無駄なコストを背負ってしまうという大企業病的症状である。
これは少し気を利かせれば防げそうなものだが、実際には珍しくない。
こうした弊害を逃れるためには、部署の間の垣根を低くし、意思疎通や人材の行き来が活発になるよう手筈を整えねばならない。
その中心課題として、ブラックボックスになりがちな仕事の段取りとノウハウを、分かりやすい形で文書にすることが挙げられる。
明文化と容易化を同時に進めるのである。
人の交流の範囲は、社内に限らず、取引先や、場合によっては「昨日の敵で今日の友」になりそうなライバルの同業他社にまで及びうる。
ライバルと合併したのに、ろくにマニュアルが整っておらず、合併の効果が得られないという悲劇は、まま起こる。
銀行業界は合併が繰り返されたが、合併初日には手続きの統合が間に合わず、銀行名だけは同じだが、書式もシステムも元の銀行のままバラバラという格好で船出した事例もあった。
◆忙しくても、動画、用語集、職場暦で引き継ぎできる。
第2部正しい作業手順の作り方
よいマニュアルは、文章表現だけを考えれば作れるものではない。
いくら表現が分かりやすくて優れていても、そこに書かれた作業手順が欠陥のあるものであれば、そのマニュアルは悪いものである。
作業工程を雑に組み立てると、大抵はまずいものに仕上がる。
工学の理論的な立場から手順の設計方法を考えていこう。
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