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THEREBIRTHOFEVERYTHING第2部すべてが生まれ変わる

第5章買い物の未来シアーズの成功と没落その物語は腕時計に始まり、ヘッジファンド・マネージャーの手によって幕を閉じた。

そしてその間に国のかたちを変えた。

そう、「シアーズ・カタログ」の話である。

リチャード・ウォーレン・シアーズは1863年12月7日、ミネソタ州スチュワートビルで生まれた1。

母は専業主婦で、父は金採掘の夢破れて鍛冶屋となり、その後馬車職人となった。

しかし一家が経済的に安定したのも束の間で、リチャードがティーンエイジャーになってまもなく、父は牧場投資で全財産を失い、一家はその打撃から立ち直ることができなかった。

追い打ちをかけるように数年後に父は急死し、まだ16歳のリチャードが母と妹たちを養わなければならなくなった。

リチャードはなんとか独学で電信を学ぶと、鉄道の仕事を見つけた。

駅長を目指して働きはじめたが、家族を養うには収入が足りず、いつも稼ぎを増やす方法を探していた。

それが見つかったのは1886年のことだ。

シカゴの卸売業者が腕時計を1ケース、ミネソタ州レッドウッド・フォールズの宝石店に出荷したが、宝石店側が受け取りを拒否した。

このため腕時計はシアーズが勤務していた駅にしばらくとどまっていた。

チャンスに目ざといシアーズは、時計業者に連絡をとり、自分が売る、と申し出た。

卸値は12ドルだったが、小売店は通常その2倍の売値を付けていた。

シアーズは妙案を思いついた。

売値を下げればいいじゃないか。

こうして値引き販売が誕生した。

タイミングにも恵まれた。

1870年代のアメリカでは、鉄道網が一気に拡大しようとしていた。

史上初めて一般市民が1日に何百キロも移動できるようになったのだ。

しかし問題は移動中の時間管理だった。

当時はすべての都市に固有の標準時があり、アメリカ全土で300ものタイムゾーンが存在していた2。

1883年には列車を時刻表どおりに走らせるため、鉄道会社が標準時を設定することにした。

そこでアメリカを四つのタイムゾーンに分け、各都市の時間をそれに合わせた。

突如として駅員には、列車を時刻表どおりに走らせるためには腕時計が必要になった。

誰もが腕時計を求めた。

しかもシアーズは1個14ドルという破格の安値で売った。

結局シアーズは最初の1ケースで5000ドル(現在の価値にして12万ドル)の利益を得た。

こうして23歳で起業家としてスタートを切ったのだ。

最初の1ケースで得た利益を元手に新たなケースを注文し、R・W・シアーズ・ウォッチカンパニーを設立した。

地元紙で商品を宣伝し、事業範囲の拡大にも乗り出した。

1887年にはアルバ・カーチス・ローバックという若い時計修理工を採用した。

二人はパートナーとなり、事業は発展した。

4年後には二人は初めての通信販売カタログを制作した。

全52ページで、時計や宝飾品が並んでいた。

2年後にはカタログは196ページに成長し、拡大していた農村部で特に好評だった。

商品も時計と宝飾品にとどまらず、乗馬用の鞍からミシンまでありとあらゆるものを掲載し、買い物のあり方を未来永劫変えてしまった。

それからの10年、郵便公社の強力な後押しもあり、会社は成長を続けた。

農村部の郡の多くには郵便配達が普及しておらず、それが激論を呼ぶことになった。

アメリカ連邦議会は郵便配達を行き渡らせるコストは高すぎると考えており、地方の小売業者(当時圧倒的な勢力を誇っていた個人経営の店)は、それまで謳歌してきた自然独占を必死に守ろうとした。

しかし1896年には議会で「農村部無料郵送法」が可決され、この新たな市場がひらけた3。

シアーズは一気に空白を埋めようとし、自動車の普及もその追い風となった。

まもなく道路網が整備され、通信販売業者はアメリカ中のすべての家庭にサービスを提供できるようになった。

こうしてシアーズ・カタログはアメリカ史上有数の大衆化の推進力となった。

通信販売カタログが登場するまで、地域の小売業者はあらゆる手を使って商品の流通と価格をコントロールしていた。

富裕層には質の高い商品を取り置き、貧困層にはクズをあてがった。

そんなルールを書き換えたのがシアーズだ。

シアーズのカタログは顧客を差別しなかった。

価格は明確に表示され、階級、宗教、肌の色に関係なく誰もが同じ価格を支払った。

このアプローチは成功した。

ジャーナリストのデレック・トンプソンは《アトランティック》誌にこう書いている4。

「10年も経たないうちにシアーズ・カタログは500ページを超えた。

まもなく『消費者のバイブル』と呼ばれるようになり、まるでアメリカ経済そのものの目録のようだった。

人形や洋服、コカインや墓石、さらには組立用住宅まで扱っていた。

テクノロジー・アナリストがプラットフォームを話題にしはじめる何十年も前に、シアーズは元祖プラットフォーム・テクノロジーとして存在していたのだ」通信販売の絶頂期だった1915年には、カタログは1200ページになり、取扱商品数は10万点、年間売上高は1億ドルを超えていた。

ただ、これはほんの始まりにすぎなかった。

というのもシアーズは通信販売に続いて小売業にも進出したからだ。

1920年代には都市化の波が押し寄せた。

アメリカでは多くの国民が田舎から都市へと移り住み、シアーズはその変化をうまくとらえた。

20年代の終わりには、全米の主要都市に300店舗以上を構えていた。

30年代半ばには、国内消費の1%をシアーズが占めるようになった。

この驚異的成功には、いくつか重要な要因がある。

文明評論家のジェレミー・リフキンは、経済の重要なパラダイムシフトには共通点があると指摘する5。

「同じタイミングで三つの重要なテクノロジーが登場し、融合することで、新たなインフラが生まれます。

それによってエネルギーの使い方やバリューチェーン全体の経済活動のあり方が変わります。

三つのテクノロジーとは、経済活動を効率化するコミュニケーション技術、新たなエネルギー源、そして新たな移動手段です」(傍点は筆者)シアーズに大成功をもたらしたのは、まさにそんな変化だった。

アメリカ郵政公社という新たなコミュニケーション技術、テキサス州で生産される安価な石油という新たなエネルギー源、そして自動車という新たな移動手段が登場したのだ。

しかしパラダイムシフトは繰り返されるものであり、この話の結末は誰もが知っている。

誕生から132年後の2018年秋、シアーズは破産した6。

2013年から2018年までの間に1000店以上を閉鎖し、売上高は60億ドル減少し、その残骸をオーナーであったヘッジファンドは二束三文で売却した。

いったい何が起きたのか?ウォルマートの登場である。

ウォルマート、そしてアマゾンディスカウント販売の先駆者はシアーズだったが、ウォルマートのほうが上手だった。

非収益化の面でも大衆化の面でも、シアーズを圧倒した。

ウォルマートはシアーズより地価の安い場所に店を建て、従業員の賃金を低くし、安価な商品を販売した。

だが何より重要だったのは、エクスポネンシャル・テクノロジーの可能性にいち早く気づいたことだ。

デレック・トンプソンは《アトランティック》誌の記事の続きに、こう書いている。

「シアーズの悲劇をふりかえると、成長期には非常に巧みに使いこなしたコミュニケーション技術が、その凋落においても重要な役割を果たしているのが皮肉である。

1980年代にウォルマートをはじめとする先端的小売業は、デジタル・テクノロジーを活用して買い物客が何を買っているかを把握し、その情報を本部に伝え、一番売れるブランドや商品を大量に注文した。

『効率的に安く売る』という点でウォルマートが圧倒的成功を収めるなか、シアーズの凋落は速かった。

1980年代初頭にはシアーズの総売上高がウォルマートの5倍だったが、1990年代初頭にはウォルマートがシアーズの2倍になっていた」しかし小売業の破壊的変化はこれで終わりではなかった。

当然ながら歴史は繰り返す。

ウォルマートがシアーズを破壊していたころに誕生したアマゾンは、両

者のモデルの最大の強みを融合させた7。

シアーズに大成功をもたらした郵便サービスと、ウォルマートに大成功をもたらしたコミュニケーション技術を活用したのだ。

エブリシングストア(なんでもそろう店)を倒したエブリシングストアが、また別のエブリシングストアに倒された。

だが苦境に陥ったのはシアーズとウォルマートだけではない。

ここ10年の小売業界は「変わった」などという生易しいものではない。

アマゾンやアリババといったeコマースの巨人が業界のデジタル化を牽引し、エクスポネンシャルな成長で新たな高みを目指している。

一方、ブリック&モルタル型といわれる店舗を構える小売業では、シアーズと同じように破産する企業が続出した。

その数は2017年だけで6700社に達する8。

次の表を見るだけで、どれほどすさまじい大変動が起きているかわかるだろう9。

eコマース革命は始まったばかりだそして今の破壊レベルも確かに不安をかき立てるものではあるが、eコマース革命はまだ始まったばかりであることは頭に入れておいたほうがいい。

ネットでの小売り売上高は2009年第1四半期の340億ドルから2017年第3四半期には1150億ドルに成長したものの10、まだ小売業全体の10%を占めるにすぎない11。

それはまだインターネットにつながっていない人がたくさんいるからだ。

ネット接続人口は2017年の38億人から12、2025年には82億人に達する13。

その大多数は小売店やショッピングモールには足を運ばないだろう。

これから見ていくさまざまな理由から、買い物は居心地のいい自宅からモバイルデバイスを使ってネット上で済ませるようになる。

広い視点からとらえると、コミュニケーション、エネルギー、輸送分野のイノベーションが融合する小売業界は「炭鉱のカナリア」であり、リフキンの言う「新たな経済的パラダイムシフト」の震源地なのだ。

一つ確実に言えるのは、「買い物」という体験がこれまでとはまるで違ったものになる、ということだ。

AIが小売業と「買い物体験」を根底から変えるAIが小売業に及ぼす影響がどれほどのものになるのか、本当に理解している人はいない。

しかし何が起ころうとしているかを少し理解するだけで、それが不当ともいえるほどの優位性をもたらし、AIを活用する者と破産に追い込まれる者に市場を二分することがはっきりわかるはずだ。

AIはカスタマーサービスから商品配送まであらゆる側面にかかわり、小売業を安く、速く、そして一段と効率化する。

またショッピング・エクスペリエンスも一変させる。

あらゆるストレスを取り除き、いずれ私たちがAIに買い物を完全に委ねれば、もはやエクスペリエンスそのものが消える。

まず基本的なところから始めよう。

買い物とは欲望を購入という行為に転換することだ。

大方の人は店に行き、必要なものを買う。

オンライン市場を使う人もいる。

欲望が満たされることもあれば、満たされないこともある。

パーソナルアシスタント(個人秘書)を雇う余裕のある恵まれた人は、自分の好みを知り尽くした相手に何が欲しいか伝えるだけで、「まさにこれが欲しかった」というものが手に入るかもしれない。

そんな余裕のない大多数の人のためにあるのがデジタルアシスタントだ。

今まさに小売業界における「黙示録の4騎士」が、私たちの財布をめぐって戦っている。

音声作動式、AI支援型のコマース・プラットフォームとして優位に立とうとしのぎを削っているのは、アマゾンの「アレクサ」、グーグルの「グーグル・ナウ」、アップルの「シリ」、そしてアリババの「Tモール・ジーニー」だ。

ここに伝統的小売業が一つも含まれていないという事実に注目してほしい。

4騎士はすでにAI領域の力比べに数十億ドルを投資しており、他社が今から追いつくのは不可能だろう。

このような市場の変化は以前もあった。

ノキアは携帯電話市場で世界のリーダーだったが、スマートフォンが登場し、最終的に市場から撤退に追い込まれた14。

なぜか。

それはノキアは電話業界で戦っていたのに、それがいきなりコンピュータ業界に変わってしまったからだ。

アップルやグーグルが新たなライバルとなってしまうと、もはや追いつくことは不可能だった。

小売業者が続々と破綻に追い込まれるだろうという予測は、ここから来ている。

テレビドラマ『スタートレック』で、カーク船長がエンタープライズ号のコンピュータに話しかける姿を見て育ったベビーブーム世代には、デジタルアシスタントはSFのように感じられるかもしれない15。

だがミレニアル世代にとってはオートマジカルな世界が当たり前に一歩先へ進んだにすぎない。

こうした世代が消費者として成熟期を迎えると、音声によるコマンドで購入される商品の売上高は現在の20億ドルから、2023年には80億ドルに急増すると予測される16。

小売業界での買い物はまだ多くの面でストレスフリーとは言えないが、データからは明らかなトレンドが読み取れる。

アマゾン・エコーで買い物をする消費者の平均購入額は1700ドルと、アマゾン・プライムを使う消費者の1300ドルを上回っている17。

デジタルアシスタントの潜在的な破壊力を最も顕著に示すのは、2018年に行われた「グーグル・デュープレックス」のデモだろう18。

毎年開かれるグーグルI/Oカンファレンスは7000人の参加者を集め、3日間にわたって基調講演、コードを学習するコードラボ、そしてイベントのハイライトともいえる双方向型のデモが行われる19。

シリコンバレーのプロダクトデモでは、これまで数々の伝説が生まれてきた。

数十年前に黒いタートルネックを着たスティーブ・ジョブズが「ちょっと待った、もう一つある」と語った内容は、すでに歴史に刻まれている。

だが2018年、穏やかな語り口で知られるグーグルCEOのスンダー・ピチャイは、それをしのぐ伝説をつくったかもしれない20。

マウンテンビューのイベント会場、ショアライン・アンフィシアターのステージをゆっくりと歩きながら、ピチャイは日常的なこまごまとした雑事の大部分には、まだ電話が使われていると指摘した。

「車のオイル交換をしたいとき、平日に突然配管工を呼ばなければならなくなったとき、あるいは散髪の予約をするときには電話をかけないといけない。

私たちはAIがこの問題を解決できると考えています」それからピチャイは会場の巨大なスピーカーで、あらかじめ録音しておいた次世代音声アシスタント「グーグル・デュープレックス」による電話のやりとりを流した。

背後の巨大スクリーンには字幕も映し出された。

1本目はレストランの予約、2本目はヘアサロンを予約するための電話だった。

聴衆が大笑いしたのはヘアサロンへの電話で、自然言語能力を持つデュープレックスは会話の途中で「うーんと……」といったとびきり長い間投詞まで挟んだ。

どちらの電話でも、受けた店員はやりとりの相手がAIだとはまったく気づいていなかった。

確かにAIが正体を明かさなかったために、「AIが受付係をだませるなら、他にはどんな人をだませるのか」といった批判が沸きおこった。

カンファレンスの直後からデモに対する反発が高まり、デュープレックスは「グーグル自動予約システム」に名称変更された。

しかしデュープレックスの成功は、AIが私たちの消費の現場にどれほどシームレスにとけこめるか、そして今後もどれほど便利なものになっていく可能性があるかをまざまざと見せつけた。

これはほんの始まりにすぎない。

小売業においてAIが次に破壊する分野はカスタマーサービスだ。

最近のゼンデスクの調査によると、すぐれたカスタマーサービスは購入の可能性を42%高める一方、お粗末なカスタマーサービスは52%の確率でその顧客を永遠に失うことにつながるという21。

つまり消費者の半数は一度でもカスタマーサービスのやりとりで失望すると、二度とその店で買い物をしなくなるのだ。

企業収益への影響はきわめて大きい。

カスタマーサービスもまたAIが完璧なソリューションを提供できる分野だ。

ピチャイがデモで見せた消費者の代わりに電話をかけるテクノロジーは、小売業者の電話対応にも使える。

この技術の開発には二つの方向性がある。

まず人間によるカスタマーサービスを続けたいと考えている企業向けには、テルアビブのスタートアップ企業、ビヨンド・バーバルが「AIカスタマーサービス・コーチ」を開発している22。

このシステムは顧客の声の抑揚を分析するだけで、相手がカンカンに怒っているのか、心から興味を持っているのか、そのあいだだとすればどのあたりなのかを判断できる。

ビヨンド・バーバルのアプリは30カ国語以上で7万人以上を調査した結果に基づき、人間の気分、態度、性格に関する400種類のマーカーを識別する23。

すでにコールセンターに導入され、人間の販売担当者が顧客の感情を理解し、上手に反応できるようサポートしている。

それによって顧客により心地よいサービスを提供するだけでなく、収益力を高めるのに貢献している。

たとえばビヨンド・バーバルのシステムは顧客の言葉の選択や話し方から、その買い物客としての特性を判断する。

相手がアーリーアダプター(新しい商品をいち早く手に入れる人)ならば、AIは販売担当者に最新かつ最高の商品を進めるようサインを出す。

一方、保守的な消費者であれば、絶対にまちがいのない商品がいい。

もう一つの方向性はニュージーランドのソウルマシーンズ社などが進めているもので、人間によるカスタマーサービスに完全に置き換わることを目指している24。

ソウルマシーンズはIBMのスーパーコンピュータ「ワトソン」を土台に、生身の人間のようなカスタマーサービス・アバターを開発している25。

共感力を重視する同社のAIは、感情的知性の高いコンピューティングという分野のパイオニアの一つだ。

この点については後で詳しく見ていくが、重要なのは「40%」という数字である。

ソウルマシーンズのテクノロジーを使うと、カスタマーサービスの顧客とのやりとりの40%を、顧客を非常に満足させつつ、人間が一切介入

することなく完了することができる。

しかもシステムはニューラルネットワークを使って構築されているため、一つひとつのやりとりから学習しており、40%という数字は今後さらに改善する見込みだ。

顧客とのやりとりの件数も増加している。

ソフトウエアメーカーのオートデスクはすでに新製品すべてに、ソウルマシーンズが開発した「AVA(オートデスク・バーチャル・アシスタント)」という名のアバターを搭載している26。

AVAは画面上の小さなスクリーンの中で待機していて、いつでもいらだつユーザーをなだめ、問題のトラブルシューティングを行うなど、テクニカルサポートの待ち時間をなくした。

またダイムラー・ファイナンシャル・サービスはソウルマシーンズのつくった「サラ」という名のアバターを採用している27。

サラは車を買うためのローン、リース、保険といったきわめて面倒な作業で顧客をアシストする。

もちろん「分散型自律組織(DAO)」が自動運転タクシーを運営する時代が来れば、DAOのAIがダイムラーのサラにローン、リース、保険について相談を持ちかけるようになるかもしれない。

人間が一切介在しない、AI対AIの話し合いだ。

これはAIだけの話ではない。

重要なのはAIと他のエクスポネンシャル・テクノロジーとの融合だ。

ここまでの話にネットワークやセンサーといった要素を加えれば、破壊のスケールはさらに広がり、ストレスフリーなショッピング・エクスペリエンスの実現に大きく近づくことになる。

レジ係が消える2026年のショッピング2026年4月、シカゴは雨降りで冷え込んでいる。

あなたは母親とランチの約束があったが、上着を忘れてきてしまった。

ダウンタウンへと向かうウーバーの自動運転車のなかでネットを検索すると、最近話題の新しいエコフレンドリーなビーガンレザー・ジャケットを売る店が出てきた。

ビーガンレザーとは幹細胞から育てられた革で、製造工程で牛を一切苦しめない。

あなたはスクリーン上で「興味がある」ボタンを押すと、すぐにスマホをポケットにしまい、ジャケットのことは忘れてしまう。

店のAIがスマホのAIと接続し、自動的にタクシーの行き先が変わる。

タクシーが止まると、あなたは昔懐かしい「職人の店」の前に立っている。

今でも人間の職人を使っているという意味だ。

入口ではあなたの選んだビーガンレザーのジャケットを手に、シルビアという女性が出迎えてくれる。

ジャケットを着てみるとサイズはぴったりだが、驚くにはあたらない。

2カ月前にスマホに搭載された改良版Wiiセンサーを使い、身体の隅々まで採寸したのだから。

今時の靴には重量センサーが標準装備されているので、体重が変動すればボディマップが自動的にデータを修正する。

あなたが店に到着するずっと前に、スマホと店のコンピュータはあなたの体形やサイズを把握していたのだ。

精算の順番を待つ必要もない。

さまざまなカメラやセンサーがあなたとジャケットを追跡し、あなたが店を出るときにジャケットの価格が自動的に銀行口座から引き落とされる。

あるいは暗号通貨口座かもしれない。

しかもセンサーはあなたがこの店を訪れたのは初めてだとわかっているので、次回使える25%割引の電子クーポンを送ってきて、また来店するように仕向ける。

あなたの取引が完了すると同時に、店の陳列棚に埋め込まれたセンサーが店のAIにアラートを送る。

AIはメーカーにジャケットをもう1枚注文し、従業員に空いた棚を補充するようにテキストメッセージを送る。

しかもビーガンレザー・ジャケットが売れたのはここ2日で3枚目だ。

このトレンドに気づいた在庫管理システムは、売り切れに備えて人気のサイズを数枚追加で注文しておく。

ここに挙げたシナリオは、それほど遠い先のものではない。

IoT(モノのインターネット)の影響がこのまま広がっていくだけで、ほぼ実現してしまう。

しかもインターネットに接続されるデバイスが増え続けるなか、放っておいてもこの未来は到来するだろう。

そのインパクトは絶大だ。

マッキンゼーの調査によると、2025年までにIoTは小売業に4100億ドルから1兆2000億ドルの価値をもたらすという28。

しかもここに挙げたテクノロジーのほとんどはすでに存在する。

顧客をレジ待ちのイライラから解放する自動精算機能は、すでに実用化されている29。

アメリカでその事実が知られるようになったのは、アマゾンが2018年1月、シアトルに「アマゾン・ゴー」1号店を開いてからだ30。

翌年にはさらに7店がオープンし、2021年までにさらに3000店増える予定だ31。

《ニューヨークタイムズ》紙はアマゾン・ゴーの回転式ドアを通るのは「地下鉄の改札を通るようなもので、店での買い物は万引きをするような感覚に近い」と描写している32。

お客は店に入るときにスマホでQRコードをスキャンするだけで、あとはすべてAIが引き受ける。

カメラが通路を移動するお客を追跡し、陳列棚に埋め込まれた重量センサーが商品の動きを追跡する。

お客は欲しい商品をつかんでカバンに入れ、家に帰るだけだ。

買い物代金は店のドアを通るときにアマゾンアカウントに自動的に請求される。

ここでのテーマもストレスフリーなショッピングだ。

レジの長蛇の列は買い物客の意欲を削ぐ。

しかもレジ係には人件費もかかる。

アマゾン・ゴーには、酒類コーナーの近くで身分証明書をチェックする店員が一人いるだけだ。

マッキンゼーは自動精算によって必要な店員の数を減らすことで、小売業は2025年までに年間1500億ドルから3800億ドルの費用を削減できると見積もる33。

当然ながらキャッシュレスならぬ「キャッシャーレス」の未来を追求するのは、アマゾンだけではない。

サンフランシスコのスタートアップ企業、v7ラボはあらゆる小売店のキャッシャーレス化を支援している34。

アリババがキャッシャーレス店「フーマ」の実験を開始したのはアマゾンより2年も前だ35。

スマート陳列棚テクノロジーもすでに実現している36。

無線ICタグと重量センサーを使い、商品が棚からなくなったことを探知する仕組みだ。

このイノベーションは万引きを探知し、在庫補充を自動化し、在庫が常に適切な場所にあるかチェックする。

現在、インテル製のスマート陳列棚にはスクリーンが埋め込まれている。

いずれスマート陳列棚にはAI機能が搭載され、お客と対話もできるようになるだろう。

買おうとしているセーターがドライクリーニング専用か確認したければ、棚が教えてくれるようになる。

小売業で一番大きく変わるのは、効率性だろう。

とりわけサプライチェーン・マネジメントの効率性は劇的に変わる。

シスコの2015年の調査は、IoTソリューションがサプライチェーン・マネジメントに1・9兆ドル以上の効果をもたらすと予測したが、その根拠は十分ある37。

AIは人間が気づかないようなデータのパターンに気づく。

これはサプライチェーンのすべての構成要素(在庫レベル、サプライヤーの質、需要予測、生産計画、輸送管理など)が根本的に変わるということだ。

しかも急激に。

小売業と製造業ではすでに70%の会社が、ロジスティクス業務のすべての側面をデジタル化している。

それ以上に重要なのは、こうした破壊的変化はロボットが登場する前に起きているということだ。

だがひとたびロボットが登場すれば38……。

小売業はロボットなしには回らなくなる2016年8月3日、ロールプレイングゲーム「ダンジョンズ&ドラゴンズ」でふらふらになったプレーヤーたちの祈りが聞き届けられた。

その日、ドミノピザは「ドミノズ・ロボティック・ユニット(略称DRU)」を投入したのだ39。

世界初の宅配ピザロボットであるDRUは、『スターウォーズ』に登場するR2‐D2と巨大な電子レンジを合体させたような風貌だ。

LIDAR(レーザー強度方向探知ならびに測距)センサーとGPSセンサーを使って移動し、温度センサーが温かいものは温かく、冷たいものは冷たい状態に保つ。

DRUはすでにニュージーランド、フランス、ドイツなど10カ国で導入されていたが、2016年8月が記念すべき出来事だったのは、宅配サービスに使用されたのは初めてだったからだ40。

しかもそれで終わりではなかった。

すでに市場には10種類以上の宅配ロボットが存在する41。

たとえばスカイプの創業者だったヤヌス・フリスとアーティ・ヘインラが立ち上げたスターシップ・

テクノロジーズは、汎用宅配ロボットを開発した。

現在はカメラとGPSセンサーしか備えていないが、まもなくマイク、スピーカー、そしてAIのサポートする自然言語処理能力を搭載し、消費者とコミュニケーションができるモデルも登場するだろう。

2016年以降、スターシップは世界20カ国100都市以上で5万回の配送を担ってきた42。

同じように、グーグルの自動運転車の開発に携わった技術者の一人、ジャジュン・チュウが共同創業者となったニューロは、小型の自動運転車両を開発した43。

セダンの半分の大きさで、車輪にトースターを付けたような外観だが、その用途ははっきりしている。

ニューロの車両は食料品の配達用で、現在は12袋ほどを運べる(バージョン2・0では20袋まで運べるようになる)。

2018年からは大手スーパー、クローガーの一部店舗で配送を担っている44(2019年にはドミノピザもニューロと提携した45)。

こうした配送ロボットが一般道を走りはじめる一方、頭上でも動きがある。

2016年にいち早く名乗りをあげたのはアマゾンだ。

「プライムエアー」と銘打って、ドローンを使って注文から30分以内に配送する計画を発表した46。

すぐにセブンイレブン47やウォルマート48からグーグル49、アリババ50まで、多くの企業が後に続いた。

実現性を疑問視する声も多いが、連邦航空局(FAA)のドローン担当部門の責任者はこう語っている51。

「(ドローン配送は)懐疑派が思うよりずっと早く実現する可能性がある。

(企業では)本格運用の準備が進んでおり、FAAは企業からの申請を処理している。

できるだけ早急に進めたいと考えている」配送ロボットがあれば店に足を運ぶ手間は省けるが、昔ながらの方法(直接店に行く)のほうがいいという人には、店内で買い物をサポートしてくれるロボットもある。

しかも登場したのは、かなり前のことだ。

2010年にはソフトバンクが人間の感情を理解するヒューマノイド「ペッパー」を発表した52。

ペッパーはとてもかわいい。

身長120センチほど、白いプラスチックのボディに黒い目、黒い線を引いたような口、下半身は人魚の尻尾のような形をしている。

胸にはコミュニケーション用のタッチスクリーンがある。

実際ペッパーはたくさんの人とコミュニケーションをしてきた。

かわいい風貌は意図的なもので、人々の生活をできるだけ楽しくするというミッションとマッチしている。

すでに1万2000台以上が販売された53。

日本ではアイスクリームを売り、シンガポールではピザハットでお客を出迎え、カリフォルニア州パロアルトの電気店では顧客とダンスを踊る。

重要なのは、社会で活躍するヒューマノイドはペッパーだけではないことだ。

ウォルマートは在庫管理のために在庫補充用ロボットを54、家電量販店のベストバイは24時間営業の一部店舗でレジ担当ロボットを55、そして住宅リフォーム・生活家電チェーンのロウズ・カンパニーはお客が商品を探すのを手伝いながら在庫を確認するロウズ・ボット(車輪付きの巨大なiPad)を使っている56。

ロボティクスが最大の恩恵をもたらすのは倉庫業務だ。

2012年にアマゾンが7億7500万ドルでキバ・システムズを買収したとき57、わずか6年後にはアマゾンのすべてのフルフィルメントセンターに4万5000台のキバロボットが配備され58、クリスマスシーズンには毎秒306アイテムという驚異的ペースで作業をこなすようになっているとは誰も思わなかった59。

他の小売業も負けてはいない。

あなたが衣料チェーンのギャップにジーンズを注文すれば、すぐに「キンドレッド」ロボットが仕分け、包装し、出荷するはずだ60。

ゲームセンターのクレーンゲームでぬいぐるみを取ったことがあるだろうか。

キンドレッドはまさにそんなイメージで、拾い上げるのがぬいぐるみではなくTシャツ、ズボンなどに変わるだけだ。

それを小さな郵便受けが並んでいるようなドロップオフゾーンに置いていく(そこからさらに仕分けと出荷作業が続く)。

ここで重要なのは、大衆化が起きているという事実だ。

キンドレッドのロボットは安価で導入するのも簡単で、小規模企業がアマゾンのような大手に対抗するのに役立つ61。

ロボットを導入するか否か、存続を目指す小売業に選択の余地はなさそうだ。

2024年にはアメリカの最低賃金は時給15ドルに上昇する見込みだ62(法案はすでに下院を通過した。

ただし賃金引き上げは2025年までかけて徐々に実施される予定だ)。

それでもまだ低すぎると考えている人も多い。

人件費が上昇するなか、ロボットはあらゆるところへ浸透していくだろう。

店の経営者にとって、病気になったり遅刻したり、簡単に負傷したりする人間の労働者を雇うのは次第に割に合わなくなっていく。

ロボットは休みなく働く。

休暇も取らなければトイレにもいかず、医療保険や産休も不要だ。

今後はテクノロジーに起因する失業が深刻化していくだろう(この点については第3部で詳しく見ていく)。

だが小売業においてはロボティクスは企業と消費者の両方に大きなメリットをもたらす。

3Dプリンティングが小売業にもたらす「四つの変化」2010年、ケビン・ルスタギは不満を抱えていた。

友人のアマン・アドバノ、キット・ヒッキー、ギハン・アマラシリワーデナもそうだ。

4人はMITを卒業し、社会に出たばかりだったが、そこで着なければならない洋服が大嫌いだった。

ビジネススーツはなぜこんなに着心地が悪いんだ?スポーツ選手は最高のパフォーマンスを引き出すためにさまざまなハイテクウエアを着ることが許されるのに、会計士はチノパンしかはけないなんて理屈に合わない。

そこで4人は企業社会にも最高のウエアを届けることにした。

NASAの宇宙服の技術をワイシャツに応用する、ミニストリー・オブ・サプライというアパレル会社を立ち上げたのだ63。

2011年に3万ドルを目標にクラウドファンディングサイトのキックスターターでキャンペーンを実施したところ、50万ドルが集まった。

こうして事業は船出した。

まもなくワイシャツ「アポロ」を発売した。

ごくふつうのボタンダウン・シャツに見えるが、まるで違う。

体温をコントロールし、発汗や臭いを抑えられる「フェーズ・チェンジ素材」を使っている。

また着用者の体型にぴったり合い、1日中ズボンの中にすっきり納まった状態がキープされ、シワにもならない。

《テッククランチ》は「要は魔法のシャツだ」と簡潔に評価している64。

魔法のシャツに続き、品ぞろえは魔法のズボン、スーツなどにも広がっていった。

ミニストリー・オブ・サプライは現在、男性用と女性用の高機能スマートウエアを展開する。

そこには音声コマンドに反応し、自動的に着用者の希望温度まで引き上げる能力を持ったインテリジェント・ジャケットのシリーズもある。

最近は製造面でもハイテク化を追求している。

おしゃれな店の集まるボストンのニューベリー通りに開いた店舗では、お客が待っているあいだに3Dプリンティングで高機能シャツやスーツやブラウスをつくってくれる。

所要時間は90分程度だ。

プリンターはすばらしい代物だ。

針4000本と10種類以上の糸を使い、お客の望みどおりの素材や色を使って仕上げる。

端切れなどゴミは一切出ない。

ボストンまで行けないよ、という人もご心配なく。

最近ではスマホさえあれば3Dプリンティングの洋服を注文できる。

ファッションデザイナーのダニット・ペレグが2015年に初めてウェブ販売を開始したのを皮切りに、5~6人のデザイナーが同じサービスを提供するようになった65。

リーボックは製造部門のスピードと品質を高めるために66、ニューバランスはアスリート向けのカスタムメードのインソールに67、3Dプリンティング・テクノロジーを活用している。

他のファッションブランドの多くも後に続こうとしている。

しかも、これはファッションだけの話ではない。

3Dプリンティングはいまやありとあらゆるモノの小売業に広がっているからだ。

オフィス用品チェーンのステイプルズは何年も前から3Dプリンティング・サービスを提供している68。

最近はオンライン版として、顧客が自宅からオフィス用品のデザインをアップロードし、店員が店で印刷し、できあがった製品を自宅に届けるサービスも開始した。

フランスのホームセンター、ルロイ・メルランはさらに先を行く69。

お客は同社の店舗で希望どおりの製品を印刷できるのだ。

長さ25センチの平釘が欲しい、狭い場所で使えるような曲がったソケットレンチが欲しい、といったニーズも、すべて対応してもらえる。

そしてこれはあくまでも現時点の状況だ。

これからの10年で、3Dプリンティングは主に四つの面で小売業のあり方を変えていくだろう。

1、サプライチェーンが消える:3Dプリンティングがあれば、小売業は原材料を購入し、倉庫や店舗で商品を自ら印刷できるようになる。

これは卸売業者、メーカー、物流業者が不要になることを意味する。

2、ゴミが消える:完全にゼロにはならないかもしれないが、消費者が環境にやさしい商品を望み、小売業者が原材料費を抑えようとするなかで、必要な材料を必要なだけ使用する3Dプリンティングは最適なソリューションといえる。

3、交換部品が消える:たとえば農家にとって、収穫期にトラクターが故障し、交換部品の手配に2~3日かかるというのは最悪の事態だ。

3Dプリンティングならこの問題を解決できる。

しかもトラクターに限らず、コーヒーメーカーからスケートボードの車輪まで、あらゆるものに使える。

これは単に部品業界が消滅するというだけでなく、私たちが購入する商品の寿命が格段に延びることを意味する。

4、商品はユーザーがデザインする:もちろんアップルのような会社は今後も存在しつづけるだろう。

圧倒的なデザイン力を武器にとびきりおしゃれな製品を市場に送り出し、常に買い手の心をつかむような会社だ。

しかしファッションから家具にいたるまで、デザイナーではなくユーザーが商品をデザインするのが当たり前になるだろう。

ただそうなると、最後の疑問がわいてくる。

そう遠くない将来、アレクサが商品を注文し、3Dプリンターがそれをつくり、ドローンが玄関先まで届けてくれるようになったら、わざわざ買い物に出かける人がいるだろうか?小売業の最後の望みは「体験」1998年、ビジネスコンサルタントのジョセフ・パインは《ハーバード・ビジネスレビュー》誌に寄せた記事「エクスペリエンス・エコノミーへようこそ」で、200年間の経済発展を興味深い指標をもとにふりかえっている70。

誕生日ケーキだ。

農業経済の名残か、かつて世の母親は農場でできる素材(小麦粉、砂糖、バター、卵)を混ぜ合わせて誕生日ケーキを一からつくっていた。

コストはすべて合わせても数十セントだった。

モノづくりを中心とする工業経済が発展するのに伴い、母親たちは1~2ドルを払って、材料がすべて入ったケーキミックスを買うようになった。

その後サービス経済が広がると、忙しい親たちはパン屋や食品スーパーにケーキを注文するようになった。

費用は10~15ドルと、ケーキミックスの10倍程度だった。

そして今、誰もが時間に追われる1990年代の親たちは、ケーキもつくらなければ誕生日パーティも開かない。

代わりに100ドル以上払って、レストランのチャッキーチーズや娯楽施設のディスカバリーゾーンやマイニングカンパニーなど、子供の思い出に残るような機会を提供してくれる会社に祝い事そのものを「アウトソース」する。

そこにはケーキは無料で付いてくることが多い。

新たな「エクスペリエンス・エコノミー」の時代へようこそ。

「できあいの材料」を「できあいの経験」に置き換えるエクスペリエンス・エコノミーは、まったく新しいタイプのニーズを満たす、まったく新しいタイプのビジネスモデルだ。

人類史の大部分を通じて、誰もできあいの経験など望まなかった。

それは生きることそのものが貴重な経験だったからだ。

身の安全を守り、温かい居場所を確保し、食料を確保すること自体が冒険だった。

それを変えたのがテクノロジーだ。

産業革命が始まったときには、地球上の最も豊かな人々にもエアコンはなく、上下水道もなかった。

自動車も冷蔵庫も電話もなかった。

もちろんコンピュータも。

今日アメリカでは貧困層でもこうした便利な道具や設備を使っている。

豊かな層ならもっと多くの恩恵を享受している。

だから私たちはモノがあることを当たり前と思うようになった。

その結果、直接的で記憶に残るリアルな経験に、モノを所有する以上の価値を見いだす人が多くなった。

小売業者はこのトレンドをうまく活用している。

スターバックスはコーヒーショップという身近な存在をグローバルビジネスに発展させた。

アウトドア用品店のカベラスは、ショールームを人工の滝まで備えたアドベンチャー施設に転換させた。

そして今、エクスポネンシャル・テクノロジーの融合が、エクスペリエンス・エコノミーを新たな次元に引き上げようとしている。

ショッピングセンターを展開するウエストフィールドが、小売業の未来を見通した10年ビジョン『デスティネーション2028』を見てみよう71。

五感をここちよく刺激する植物があふれ、スマート更衣室にマインドフルネスのワークショップもある。

スマート洗面所では一人ひとりの顧客に合わせた栄養や水分補給のコツが表示される。

眼球スキャナーやAIが顧客を識別して過去の購入履歴に基づいた効率的な買い物ルートを提案する。

そしてマジックミラーを使い、さまざまな新製品を試着した姿を見られるようにする。

未来のショッピングセンターは言わば、パーソナリゼーション(個別対応)を徹底した「ハイパーコネクテッドなマイクロシティ」だ。

ウエストフィールドの『デスティネーション2028』は、娯楽、健康、教養、パーソナライズされた商品のマッチングサービスを融合して、顧客が「よりよい自分」になれるようサポートするという目標を示している。

それによって消費者にわざわざ買い物のために外出する動機づけを与えようとしているのだ。

その成否は非常に大きな意味を持つ。

アメリカには1100カ所のショッピングモール(広大な敷地に多数の小売店が点在する施設)と、4万カ所のショッピングセンター(一つの建物内に多数の小売店が入居)がある72。

ミネソタ州にあるモール・オブ・アメリカは約52万平方メートルの敷地に500店舗が並ぶ、さながら小さな町のようだ73。

中国最大のモールは約65万平方メートルと、アメリカの国防総省より広い74。

ウエストフィールドのビジョンに描かれたようなすぐれたエクスペリエンス・エコノミーに脱皮することで、こうした商業施設に存続の機会が生まれるのかもしれない。

だが事業の中身は今とはまったく違うものになっているだろう。

うまくいけば小売業は「コンバージェンス産業」になる。

消費者は商業施設に足を運ぶことで、いくつもの恩恵を享受できる。

買い物は健康、娯楽、学びなど多くの機能を兼ね備えたエクスペリエンスになる。

そうでなければ、次項で見ていくように買い物もまたAIにアウトソースされ、ショッピングモールそのものが過去の記憶となるだろう。

ショッピングモールはもういらない本章の前半で2026年のショッピングについて思考実験をした。

そこではセンサー、ネットワーク、AIが結びつき、ショッピングの様相が一変していた。

ここでもう一つ、実験をしてみよう。

時計の針をさらに数年先へ進め、小売業にさらに五つのテクノロジーが加わったと考えるのだ。

2029年のショッピングときは2029年4月21日。

テキサス州ダラスは晴天だ。

明日は大切なチャリティ昼食会があるが、着ていく服がない。

だがモールに出かけるのはまっぴらだ。

無駄な労力は使いたくない。

先週スキャンしたばかりなので、最新の身体データは登録されている。

そこでVRヘッドセットを装着し、AIと会話をする。

AIには「ジャービス」という気の利いた名前が付いている(著者の一人がどうしても『アイアンマン』へのこだわりを捨てきれないからだ)。

あなたは「明日の昼食会に着ていく服が欲しい」と言うだけでいい。

すぐにバーチャル・ブティックにテレポートされる。

移動時間はゼロだ。

高速道路の渋滞に巻き込まれることも、駐車スペースを見つけるためにうろうろすることも、ベビーカーを押す人の群れに気を遣う必要もない。

代わりに自分だけのパーソナル・ブティックに足を踏み入れた。

すべての商品はあなたのサイズだ。

ここでいう「すべて」は誇張ではなく、この店からは地球上のすべてのデザイナーのすべてのデザインにアクセスできる。

ジャービスに上海で人気のアイテムを見たいと言えば、すぐにファッションショーが始まる。

ランウェイを歩くモデルは全員あなたにそっくりで、違いは上海の最新流行を身につけていることだけだ。

電話が鳴った。

親友からだ。

彼女も自分のVRセットを通じて、あなたのいる店にやって来る。

二人のおしゃべりをAIは聞いている。

あなたの発言が、そのままコマンドになる。

「新しいワンピースに似合う黒いパンプスが欲しい」。

そう言うと、あなたの足にぴったりの靴が並んだ陳列棚が姿を現す。

だが好みに合うものが一つもない。

「このワンピース、あなたが持っている『ジミー・チュウ』の黒いサテンのパンプスに似合うんじゃない?」と友人が

言う。

問題ない。

バーチャル世界にはあなたが現実世界で所有しているすべての衣類や服飾品のデジタルコピーがある。

ジャービスに頼むだけで、すぐにサテンのパンプスを履いた自分の姿を見られる。

明日の衣装を選び終えると、AIが代金を支払う。

3Dプリンターが倉庫で新しい洋服を製作し、ドローンがそれを自宅まで送り届けてくれる前に、デジタルコピーはバーチャルイベントでいつでも着られるように、あなたの個人クローゼットに追加される。

費用はどうかと言えば、中間業者が一切入らないので、かつて店で払っていた金額の半分程度だ。

では現在に戻り、今見てきた未来を個別に見ていこう。

3Dボディスキャンはすでに存在する。

赤外線深度センサーと画像技術を使えば、体の表面の正確なデジタルコピーを作成することができる。

リーバイス75や百貨店のブルーミング・デール76などは一部店舗に「イメージングブース」と称するバーチャル試着室を設けており、ナイキ、ボス77、アルマーニ78といったブランドもそれに続こうとしている。

大手ブランドだけではない。

男性用カジュアルウエアのサブスクリプション・サービスを手掛けるボムフェルは、ファッションに詳しい人間のスタッフとAIを組み合わせ、80以上のブランドから商品を選べるようにしていて、購入済みの商品は利用者の自宅まで届ける79。

ネット小売業も負けてはいない。

アマゾンは2017年に3Dボディスキャンを手がけるスタートアップ、ボディラボを買収した80。

「プライム・ワードローブ」の新たなサービスとして、洋服のカスタムメードを提供することが目的だ。

AIファッション・アドバイザーもアリババとアマゾンのおかげですでに現実化している。

アリババが毎年実施する「独身の日」のセールでは、「ファッションAIコンセプトストア」がファッション専門家や各店舗の在庫情報を踏まえ、深層学習を使ってユーザーに商品をおススメする81。

それは1日で250億ドルに達する売上高のかなりの部分を稼ぎ出す。

アマゾンのショッピング・アルゴリズムも同様に、ユーザーの好みやソーシャルメディアでの行動データに基づき、個々のユーザーに最適な洋服をおススメする82。

ではVRシステムそのものはどうか。

現時点ではマイクロソフトとロンドン・カレッジ・オブ・ファッションが共同開発した「ホロラックス」がある83。

このVRゴーグルを装着すると、世界中で買い物ができる。

たとえばロンドンのハイストリートにあるプラダの店で買い物をしようと思えば、いつでもできる。

こんな具合に買い物が非物質化、非収益化、大衆化、そして非局在化する未来、わかりやすい言葉にすると「ショッピングモールの終わり」は間近に迫っている。

もちろんそれから数年も経てば、自動運転の空飛ぶタクシーがウエストフィールドの『デスティネーション2028』に連れていってくれるだろう。

わざわざ出かけるだけの価値がある経験ができるかもしれない。

そうだとすればモールは完全な終わりを迎えることにはならないかもしれない。

いずれにせよ小売りの世界は根本的に変わる。

では、同じ変化が広告業で起きたらどうだろう?

第6章広告の未来SNSマーケティングは終わるエミー賞を受賞したアメリカのテレビドラマ『マッドメン』の舞台は、1960年代の広告代理店だ。

強烈なエゴが渦巻き、ランチから酒を飲み、最新のテクノロジーを使いこなす。

紙メディア、テレビ、ラジオ広告が牛耳っていた時代だ。

マッドメンの栄華は長く続いた。

半世紀近くにわたり、この三つのメディアは企業が商品を世の中へ送り出すルートを支配し、広告代理店はその波に乗った。

だがそれもインターネットと呼ばれるまったく新しい岸辺に打ち上げられるまでの話だ。

ドットコム革命が始まった当初、それが広告業に及ぼす破壊的影響を理解していた者はほとんどいなかった1。

だがほどなくして「クレイグスリスト」によって新聞の案内広告欄が、そしてバナー広告によって実入りのいい雑誌広告が立ち行かなくなった。

続いて登場したのがビデオ録画機、フールー、ネットフリックス、アマゾンなどの有料デジタル動画サービスだ。

こうしたイノベーションによって人類はついに退屈なテレビコマーシャルから解放された。

そして現在、インターネットの登場から20年も経たずに、グーグルとフェイスブックだけで地球上のあらゆる紙メディアを上回る広告収入を稼ぐようになった。

2017年、グーグルの広告収入は950億ドルを超え2、フェイスブックのそれは390億ドルに達した3。

両社をあわせると、世界の広告支出の約25%を占める。

オープンソースのeコマース・プラットフォーム、モバイルデバイス、そしてオンライン決済インフラの進歩を味方につけたソーシャルメディア・マーケティングは、伝統的な広告産業そのものを駆逐したといえる。

それも15年足らずのうちに。

しかもそのスケールたるや、すさまじい。

2018年の世界の広告産業の規模は5500億ドルを突破し4、それに押されてグーグルの時価総額は7000億ドル5、フェイスブックは5000億ドルを超えた6。

これほどの規模に成長したのは、両社の事業が私たちの個人データや、私たちの検索が生み出す有益な痕跡を土台としているからだ。

痕跡とは、私たちの「いいね!」や「悲しいね」、欲しいモノ、友達関係、私たち(そして友達)が最近何をクリックしているかといった情報だ。

だが広告産業におけるさまざまなテクノロジーのコンバージェンスの勢いは収まらず、変化はこれからも続くだろう。

広告は当面、これまで以上に私たちのプライバシーに踏み込み、ますますパーソナルになっていく可能性が高い。

だがそれも長くは続かない。

それほど遠くない将来、ソーシャルメディア・マーケティング市場そのものが消滅するだろう。

それまでに要する時間を、私たちは10~12年と見ている。

理由を説明しよう。

空間的ウェブの時代がくる人類史の大部分を通じて、万人が同じ世界を見ていた。

あなたにとっての現実は私にとっての現実と同じだった。

だが今、デジタル世界と物理的世界の境界は薄れつつある。

私たちを取り巻く世界では、情報の層が幾重にも重なりはじめている。

正しい装備を身につけていない者には何も見えない。

だがARメガネを装着すれば、これまで何もなかったところに豊かなパーソナライズされた双方向的データが浮かび上がる。

いまやあなたの世界と私の世界は、まったく違うものになった。

「現実世界2・0」、「ウェブ3・0」、あるいは「空間的ウェブ」の世界へ、ようこそ。

空間的ウェブを理解するために、最初のウェブ(1・0)からふりかえってみよう。

当時のドキュメントはスタティック(静的)で、コンテンツは読み取り専用だったため、広告主が消費者に接触する最適な手段はバナー広告だった。

一歩進んだウェブ2・0になると、マルチメディア・コンテンツ、インタラクティブなウェブ広告、参加型ソーシャルメディアが登場した。

しかしすべて2次元の画面を通じた接触にとどまっていた。

ウェブ3・0はその次の段階だ。

広帯域の5G接続、AR視覚装置、数兆個単位のセンサー、そしてそのすべてを結びつける強力なAIのコンバージェンスによって、物理的環境の上にデジタル情報を重ね合わせることが可能になった。

その結果、広告は2次元の画面の呪縛から解放された。

未来のアップルストア未来のアップルストアに足を踏み入れる場面を想像してみよう。

展示されたiPhoneに近づくと、実物大のスティーブ・ジョブズのARアバターが姿を現す。

どうやらiPhoneの最新機能を説明したいらしい。

だがジョブズのアバターはやや過剰なので、音声コマンドで浮遊テキストに切り替える。

すると目の前の空間に、新機能のリストが浮かび上がる。

新製品を見比べた結果、iPhoneの代わりにAR対応メガネ「iGlass」を購入することにした。

スマート・コントラクトも音声コマンドだけで済んでしまう。

続いて、買ったばかりのメガネを装着し、友人の家へと向かう。

友人とキッチンでおしゃべりをしながら、ぼんやりと新しい食器棚を見つめる。

メガネに搭載されたセンサーが視線を追跡し、AIはあなたの目の焦点が食器棚に合っていることを察知する。

過去の検索履歴から、最近自宅のキッチンの模様替えを検討していたことも把握している。

スマート推奨機能をオンにしていたので、視界にはたちまち友人の食器棚の値段、デザイン、他にどんな色があるかといった情報が表示される。

これは新しいタイプの広告だ。

ストレスフリーなショッピングの一環ととらえるか、新種のスパム広告と受け取るかは、あなた次第だ。

このような世界はまだ原始的なかたちではあるが、姿を現しつつある。

「ビジュアル検索機能」と呼ばれるもので、さまざまな企業が提供している。

たとえばスナップチャットはアマゾンと提携し、アプリのカメラを何かに向けると、その商品そのものか似たような商品へのリンクが表示される7。

ピンタレストも複数のビジュアル検索ツールを提供している8。

「ショップ・ザ・ルック」は、写真のなかのすべての商品に点が打たれている。

写っているソファが気に入ったら、ソファの上の点をクリックすればいい。

同じような商品をサイトが見つけてきてくれるはずだ。

一方「レンズ」はリアルタイムのビジュアル検索ツールだ。

アプリのカメラで写真を撮ると、そこに写っているすべての商品へのリンクが作成される。

グーグルはさらに一歩先を行く。

2017年にリリースされた「グーグル・レンズ」は汎用ビジュアル検索エンジンだ9。

販売されている商品を識別するだけでなく、風景全体を読み解く。

花壇に植わった植物の植物学的分類、公園を跳ねまわっている犬の種類、通り沿いに建つビルの歴史など、こちらが知りたいと思うことをなんでも教えてくれる。

最も進んでいるのは家具大手のイケアだ。

イケアのスマートフォン用ARアプリを使うと、居間の完全な配置図がつくれる10。

すべての家具の大きさが正確に反映された、居間のデジタルマップができるわけだ。

新しいコーヒーテーブルが必要になったら、このテクノロジーを使っていろいろな大きさやスタイルのものを試してみることができる。

欲しいものが決まったらスマート決済が行われ、イケアはあなたの希望どおりのテーブルを自宅まで届けてくれる。

組み立て方がわからなければ、ARアプリが順を追って見せてくれる。

ビジュアル検索の競争が激しくなるなか、開発スピードは一段と速まり、それが消費者の利用をうながしている。

システムを利用する消費者が多いほど、それを動かすAIにはより多くのデータがフィードバックされる。

このフィードバック・ループのおかげで、2018年秋までにビジュアル検索のクエリー数は月1

億件を超えた11。

グローバルブランドはほぼ例外なく、「カメラを向ける、撮る、買う」の世界への備えを進めている。

これがショッピングモールの終わりが近いと予想されるもう一つの理由だ。

身のまわりの世界そのものがショッピングモールになるのだから。

それはさすがにプライバシーに踏み込みすぎだ、と思うだろうか?ちょっと待った、もう一つ、本当に不気味なものがある。

ハイパー・パーソナリゼーションの不気味な力もう見つかってしまった。

百貨店をちょっとぶらつこうと思っただけなのに、店の顔認識システムにとらえられてしまった。

あなたのARメガネがぱっと明るくなる。

「サラ、ようこそ。

お会いできて嬉しいです……」しまった、設定を「声をかけないでほしい」に変更するのを忘れていた。

間髪入れずに店のテレビモニターが攻撃を仕掛けてくる。

あなたの名前を呼ぶのはアメリカ大統領のホログラムかもしれない。

「サラ、ちょっと待って。

君の毛穴は国家の安全保障にかかわる問題だ。

実はね、君のゲノム・シークエンスはロレアルの最新のスキンケア商品にぴったりなんだ」大統領の呼びかけにも応じないと、AIは作戦を変更する。

今度はあなたの母親の登場だ。

思わずぴくりとする。

母親の声は脳にしっかり刻まれているからだ。

だがあなたも心得たもので、そのまま歩きつづける。

相手はお気に入りの映画スター(あなたのネットフリックス・アカウントのデータから推定された)のこともあれば、好きなスポーツ選手(ネット検索の結果から推定された)のこともある。

一番苦手なのは、通っている教会の牧師だ。

いずれにせよ、ひと昔前の広告とは大違いだ。

これほど鬱陶しくなければ、あるいはおもしろいと思えるのかもしれない。

ばかげた空想だと思うだろうか。

だが、そうとは言い切れない。

「声」のコピーが可能になる映画『ミッション・インポッシブル』を観たことがあるだろうか。

主演のトム・クルーズが特殊マイクを使って悪者の声をマネする場面がある。

もはやそれもインポッシブル(不可能)ではなくなった。

実物をつくってしまった会社が二つある。

モントリオールのスタートアップ、ライアバード〔訳注:コトドリの意味。

人間の声や人工音をマネできることで知られる〕の新しい音声合成技術は、ごくわずかなデータをもとにその人物の声を再現できる12。

たった30個の文があればいい13。

誰が撮影したのかもわからない、サプライズ誕生パーティの動画が3分あれば十分すぎるほどだ。

また中国の検索大手、バイドゥ(百度)は、ライアバードよりさらに感度の高いAIを持っている。

3・7秒のサンプルが10個あれば、音声認識システムのトレーニングは95%の確率で成功する。

5秒の音声が100個あれば、確率はほぼ100%になる。

ライアバードやバイドゥの音声合成技術はまだ万全ではないが、この分野は急速に進歩している。

しかも目的は不気味な広告をつくることだけではない。

「このテクノロジーにはすぐれた使いみちが山ほどあります」と、バイドゥの広報担当、レオ・ツォウが《デジタルトレンズ》に語っている14。

「音声クローン技術は病気で声を失った患者に役立ちます。

マン・マシン・インターフェースをパーソナライズするのにも有効です。

たとえば母親がオーディオブックの読み上げ音声を、自分の声に変更することもできます。

ビデオゲームに登場する数百人のキャラクターに固有の声を持たせるなど、デジタル・コンテンツの質を高めることもできます。

言語翻訳の分野では、話し手の声をそのまま別言語に転換するといった使い方ができるんです」「ディープフェイク」の進化2018年、インターネットでバラク・オバマ前大統領のユーチューブ動画が広まった15。

600万回以上視聴されたこの動画で、大統領は星条旗の隣に座り、カメラに向かって熱心に語りかけた。

「トランプ大統領は底抜けのアホです。

私はこういうことは決して口にしません。

少なくとも人前では。

だがこういうことを言う人もいるでしょう。

たとえばジョーダン・ピールのように」すると動画の画面は二つに分かれる。

左側ではオバマ氏が話を続ける。

右側では俳優、映画監督、コメディアンのジョーダン・ピールが話している。

このピールの言葉が、そっくりそのままオバマ氏の言葉になっている。

動画はディープフェイクだ。

AIを使った人物画像合成技術で、既存の画像や動画(オバマ大統領が話している動画など)を、ソース(元)の画像や動画(この場合はトランプ大統領をバカにするオバマ大統領のふりをしているジョーダン・ピール)の上にかぶせている。

ピールがこの動画を作成したのは、ディープフェイクの危険性を示すためだ16。

その必要性を感じたのは、ディープフェイクがあまりに蔓延しているからだ。

政治家のニセ動画、有名人のリベンジポルノなどが作成されるのは、今に始まったことではない。

しかし初期のものは本人に似ていたとはいえ、ニセ物であることは検知できた。

カーネギー・メロン大学の研究者らが最近開発した新たなアルゴリズムは、これまでよりはるかに本物そっくりのディープフェイクを作成できる17。

ここで使われているAIは、ある動画に映っている人物の頭の角度、表情、視線を別の動画にそっくり移せるだけでなく、まばたきの数、わずかな眉の動き、目に見えないような肩の揺れといったディテールまで再現できる。

画像のゆがみもはるかに少ない。

結果は圧倒的だった。

動画を見た被験者のほとんどが、それを本物だと思ったのだ。

この技術には好ましい活用法もあるが(それについてはエンターテインメントについての章で詳しく述べる)、マイナス面はおよそ看過できない。

「フェイクニュース」に悪用され、個人の評価を貶めたり、暴動の引き金になったり、場合によっては世界的な政治問題にまで発展したりするリスクもある。

司法制度への悪影響も懸念される。

ディープフェイク技術が存在することで、「証拠の音声を押さえられた」人々がそれは自分ではないと否定しやすくなる。

実際に確かめようがないためで、それこそが問題なのだ。

ただ広告に限って言えば、問題(百貨店で母親のふりをしたマーケターにつきまとわれることなど)は一時的なもので、長くは続かないだろう。

そう遠くない将来、広告そのものが消えてしまう可能性があるからだ。

さらば広告、ようこそJARVISかつてのマッドメンもその現代版も、広告の目的という点では同じだった。

商品を売ることだ。

だから広告は商品のメリットを売り込む。

これを買えばセクシーになれます、成功します、若返ります、といった具合に。

だが何を買うか意思決定をするのが、私たちではなくなったらどうだろう。

たとえばそれがショッピング用ジャービスだったとしたら18?「ジャービス、歯磨き粉を買っておいて」と言うだけで、買い物が終わってしまう未来を想像してみよう。

ジャービスはテレビを観るだろうか?深夜番組のコマーシャルで白く輝く歯の映像を目にすることはあるのだろうか?もちろん、ジャービスはテレビなど観ない。

歯磨き粉を買えと言われた瞬間に、市販されているすべての歯磨き粉の分子構造や価格を検討し、歯を白くする効果を立証する研究成果や口臭を消す効果に疑問を呈する研究成果をチェックし、公表されている顧客満足度の報告書も調べるだろう。

そして少し先のことになるかもしれないが、私たちのゲノムを評価し、味蕾を最も心地よく刺激するフレーバーも調べるかもしれない。

それから何を買うか決定する。

さらにその先には、歯磨き粉を注文する必要さえない未来が待っている。

ジャービスはコーヒー、紅茶、アーモンドミルクから歯磨き粉、制汗剤まで、私たちが日常的に使うアイテムのストックをモニターし、私たちが買い足さなければと思う前に注文するようになる。

新しいモノを買うときはどうだろう。

息子から誕生日プレゼントにドローンを頼まれたら?必要な機能を具体的に伝えるだけでいい。

「ジャービス、100ドル以下の操縦が簡単で、写真が上手に撮れるドローンを買っておいて」と。

ファッションはどうか。

AIに洋服の選択を任せられるだろうか?あり得ないと思うかもしれない。

だがAIはウィンドウショッピングをするときのあなた

の視線を追跡し、日常会話に耳を傾けて好みを把握し、ソーシャルフィードをスキャンしてあなたや友人のファッションの嗜好を調べることができる、と聞いてもそう思うだろうか。

それほど詳しい情報を把握していれば、ファッション用ジャービスは広告の助けなど借りなくても、私たち一人ひとりの嗜好に完璧に合致した洋服を選べるはずだ。

私たちが向かっているのは、AIが買い物の意思決定の大部分を担うようになる未来だ。

自分が欲しいと思っていたことにすら気づいていなかった商品やサービスとの驚くような出会いがたくさんあるはずだ。

サプライズは嫌いだという人はその機能をオフにして、退屈だが落ち着いた暮らしを選択すればいい。

いずれにせよ伝統的な広告会社の存立をおびやかし、消費者には大きなメリットをもたらす変化であるのはまちがいない。

第7章エンターテインメントの未来ネットフリックスのコンバージェンスとはデジタル・エンターテインメントがどのように発展してきたかを理解する方法の一つは、ネットフリックス創業者兼CEO、リード・ヘイスティングスの四つの重要な決断をふりかえることだ。

最初の決断は1999年のことで、ヘイスティングスはすでにコンピュータ科学者から起業家に転身していた1。

最初に興したソフトウエア会社を上場させ、その後かなりの高額で売却していたので、新しい会社に注ぎ込む元手はたっぷりあった。

ヘイスティングスはある興味深いアイデアを思いつく。

インターネットでDVDレンタルの注文を受け、郵便で配達したらどうだろう、と。

結局ヘイスティングスは挑戦することを決め、ネットフリックスが誕生した。

二つめの決断はその数カ月後のことだ。

ヘイスティングスは「延滞料は一切取らない」という、さらにすばらしいアイデアを実行に移すことにした。

ネットフリックスの飛躍のきっかけとなったのは三つめの決断だ。

それは「キュー(順番待ち)」という機能で、ユーザーが観たい映画のリストを作成しておくと、レンタルしたDVDを1本返却するたびに、ネットフリックスが次の作品を送ってくる仕組みだ。

DVDは一度に3本まで借りられたので、ユーザーの手元に観る作品が一つもないという状況にはならなかった。

この便利さが決め手となり、消費者はこぞってネットフリックスを使うようになった。

これはプラットフォーム・ビジネスの走りであり、映画レンタル産業を一変させ、ネットフリックスはその覇者となった。

創業した1999年に23万9000人だったネットフリックスの会員数は、わずか4年後には100万人に達した。

しかし本当の意味で産業を根本的に変えたのは、ヘイスティングスの2007年の四つめの決断だ2。

郵送サービスからブロードバンド通信網を使ったストリーミング・サービスへの転換である。

2018年秋の会員数は1億3700万人に膨れあがり、専門家の予想では今後数年で倍増が見込まれる3。

いまやネットフリックスはストリーミング市場の覇者だ。

ストリーミング・サービス会員の51%がネットフリックスに帰属し4、年間売上高は45億ドルを超え5、時価総額は1500億ドルに達する6。

だがそれ以上に破壊的なのは、その資金の使い方だ。

ネットフリックスはコンテンツをつくっている。

しかも大量に。

2017年にはオリジナル映画とテレビ番組の制作に62億ドルを投じた7。

これはCBS(40億ドル)やHBO(25億ドル)を上回り、年間投資額が80億~100億ドルのタイムワーナーやフォックスといった重量級のライバルに迫る金額だ。

翌年にはコンテンツ投資額を130億ドルと2倍に増やし、大手の一角に食い込んだ8。

しかしここでも重要なのは金額より、その資金を使って何をしたかだ。

2018年に映画会社大手6社は合計75本の映画を制作したが、ネットフリックスはこの軍資金を使って映画80本と、テレビ番組700本以上を制作した9。

エクスポネンシャル・テクノロジーがエンターテインメント産業に及ぼす影響を理解するために、まずネットフリックスに目を向けるべき理由はここにある。

エクスポネンシャル・テクノロジーによる破壊の歴史をふりかえるうえで、ネットフリックスがレンタルビデオ大手だったブロックバスターをやっつけた話はすでに伝説となっている。

ブロックバスターが5000万ドルでネットフリックスを買収する機会を棒に振ったのは、コダックが自ら発明したデジタル写真技術を生かせなかったのに匹敵するほどの大失策だ10。

しかしネットフリックスがブロックバスターに勝利した原因は、たった一つのコンバージェンスだった。

レンタルビデオをつぶすためにネットフリックスが活用したのはインターネットという新しいネットワークであり、それによってDVDを自宅のソファから注文できるようにしたことだ。

だが今日ネットフリックスはブロードバンドと人工知能を筆頭に、いくつものエクスポネンシャル・テクノロジーを融合させ、1兆ドル規模のエンターテインメント産業そのものを制圧しようとしている。

しかも攻撃を仕掛けているのはネットフリックスだけではない。

「誰が」「何を」「どこで」ストリーミング・プラットフォームは急増している。

大手テクノロジー企業のほとんどはこの分野に参入している。

テクノロジーが融合した副作用として市場の融合が進んでいるのだ。

2018年にはアップルが10億ドルをオリジナルコンテンツ制作に投じ11、アマゾンは50億ドルを投下した12。

スリング、ユーチューブ、フールー、さらには芝刈り機の修理方法を披露してフェイスブックで300万人のフォロワーを獲得した男性までが、ハリウッドから顧客を奪おうとしている。

本章ではエクスポネンシャル・テクノロジーのコンバージェンスが、これからの10年でどのようにエンターテインメントの世界を変えようとしているかを見ていく。

ここでは「誰が」「何を」「どこで」という三つの変化が進行している。

つまりコンテンツの制作者、その内容、ユーザーがそれを観る場所が変わりつつある。

銀幕が世の中に登場して以来、エンターテインメント産業は基本的に資金力があり、配給網をコントロールしたひと握りの映画会社とテレビネットワークが牛耳ってきた。

テレビの広告収入と映画チケットの売り上げを合わせると、年間3000億ドル弱の市場規模があった13。

技術、人材、資金調達と配給ルートといったいくつかの希少な資源を掌握することで、少数のハリウッドスタジオとテレビネットワークがこの市場を実質的に支配してきた。

しかし加速するエクスポネンシャル・テクノロジーは、希少な資源を潤沢なものに変えてしまう。

エンターテインメント産業も例外ではなかった。

それによって三つの重要な変化の一つめ、「誰が」コンテンツを制作するかが変わった。

ユーチューブとスーパークリエイターの登場2000年代初頭、携帯電話にビデオカメラ、編集システム、オーディオレコーダーが標準装備されるようになると、多くの人が当然の、それでいて予想外の行動に出た。

こうしたツールを使ってコンテンツをつくりはじめたのだ。

それもとんでもない量を。

それは「ユーザー生成コンテンツ」と呼ばれるようになり、文章によるものはブログ、オーディオ形態のものはポッドキャストとなったが、問題は動画だった。

ユーザー生成型動画の収まるべき場所、さまざまな動画を自由に共有するためのハブとなる場所が存在しなかったのだ。

企業は競ってこの空白を埋めようとした。

その筆頭がグーグルだ。

グーグルはなんとか一番手になろうとしたものの、同社の動画共有サービスは法的泥沼にはまってしまった。

弁護士は権利問題を不安視していた。

ユーザーが自分のものではないコンテンツを投稿したら、グーグルはどうするのか、と。

一方、ユーチューブはそんな問題とは無縁だった。

ペイパル出身者3人が立ち上げた当時のユーチューブには、アイデアと活動場所のガレージとクレジットカード1枚しかなかった。

弁護士の言い分など気にするほどの会社ではなかったのだ。

しかし、そんな状態は長くは続かなかった。

グーグルが「誰が何を投稿できるか」でつまずいているうちに、ユーチューブは一気に勢力を伸ばした。

共同創業者のジョード・カリムが記念すべき1本目として、『動物園のボク』と題したかなりいい加減な動画をサイトに投稿してから6カ月も経たないうちに14、ブラジル出身のサッカー選手ロナウジーニョが投稿した動画が初めて視聴回数100万回を記録した15。

それをきっかけに大手ベンチャーキャピタルのセコイアキャピタルが350万ドルを出資し、ユーチューブはそれを使ってネットワークを充実させ、自らの地位を盤石なものにした16。

それから約1年後、グーグルはユーチューブと競争するより協力するほうが得策だと判断した。

そこで自社の動画共有サービスを打ち切り、16億5000万ド

ルでユーチューブを買収した17。

ユーチューブは「インターネットの進化形だ」というのがその理由だった。

実際には、そんな生易しいものではなかった。

ユーチューブでは日々、数十億人のユーザーが数十億本の動画を観ている18。

若者世代には圧倒的にテレビよりユーチューブのほうが身近なメディアだ。

一方、ユーチューブがコンテンツ配信を大衆化したおかげで、長年続いてきたハリウッドによるタレントの独占は崩壊した。

その結果ソーシャルメディア・インフルエンサーという新しいタイプのスーパー・クリエイターが誕生し、伝統メディアをおよそ伝統的ではない方法で揺さぶっている。

たとえば料理番組だ。

いまやゴードン・ラムゼイやレイチェル・レイのような有名シェフのライバルは、『バビッシュとビンジング(BingingwithBabish)』のようなユーチューブの料理番組だ19。

ホストのアンドリュー・リアが有名なテレビ番組や映画に出てくる食事を再現する動画は、エピソードが公開されるたびに100万人以上が視聴する。

『犬とクッキング(CookingwithDog)』は日本人女性が黙ったまま料理をし、飼い犬のプードル、フランシスがそれにナレーションを付けるという趣向で、数百万人を楽しませている20。

『酔っ払いのキッチン(MyDrunkKitchen)』はタイトルどおりの内容で、80万人以上の固定ファンがいる21。

しかも、この新たなスターたちは大金を稼いでいる22。

2018年、ユーチューバーのローガン・ポールはおふざけビデオブログで1450万ドルを稼ぎ、ゲーマーのダニエル・ミドルトン(DanTDM)は1850万ドルを懐に収めた。

どちらも特異な例ではない。

ミュージシャンも、おもちゃで遊ぶ子供たちもがっぽり稼いでいる。

『ライアンのおもちゃレビュー』でスターになったライアンという7歳の少年は1年で2200万ドルを稼ぎ、《フォーブス》誌の最も収入の多いユーチューブ起業家ランキングの1位に輝いた。

さらに金儲けに目ざといベンチャーキャピタルも参戦している。

アップフロント・ベンチャーズ、コースラ・ベンチャーズ、ファーストラウンド・キャピタル、ローワーケース・キャピタル、SVエンジェルなどはいずれもユーザー生成コンテンツに投資している。

つまりスーパー・クリエイターは有名なハリウッドスターに負けないぐらい稼げる存在になったということだ。

テクノロジーのコンバージェンスが続けば、破壊のスケールは一段と広がる。

スマートフォンのビデオカメラはいわば民衆蜂起の手段で、大衆はそれによって作り手になった。

ユーチューブをはじめとするプラットフォームが、こうした作り手に活躍の場とカネを稼ぐ手段を与えた。

だが今ではバンブーザーのようなアプリベースのサービスによって、誰でも自分だけのライブ動画配信ネットワークを持てるようになった23。

この変化によって、クリエイターはエンターテインメント産業のエコシステム全体をコントロールする力を手に入れた。

ブロックチェーンはこのプロセスを後押しする。

アーティストは自らの作品の変更不能なデジタルレコードを作成することができるようになり(海賊版の作成は不可能になる)、また取引コストがゼロあるいは無視できるほどわずかになるので、マイクロペイメント(小額決済)というコンテンツ・クリエイターの夢が実現する。

これこそインターネットが誕生して以来、物書き、アーティスト、映画監督、漫画家、ジャーナリストらが待ち望んできたことだ。

仲介業者の手を一切借りず、作品を直接ファンに届けられるようになる。

クリエイティビティの世界が真の実力主義になる(少なくともそう言われている)。

こうしたエネルギーを取り込もうと今、新たなコンテンツ・プラットフォームが続々と誕生している。

ニッチ市場がそこら中にある。

ソフトウエアのコーディング、ロボットの組み立て方、猫の飼い方など、他人のやり方を見たり聞いたりできることならたいてい専門チャンネルがあり、オンデマンドかライブストリーミングで視聴できる。

しかもアプリを使えば、ファンと従来は考えられなかったほどの充実した交流ができる。

何より驚かされるのは、クリエイターがこれほど力を持つようになったというだけでなく、力を持つようになったクリエイターの「正体」だ。

AIクリエイター2016年6月、どうにも不気味な短編映画『サンスプリング』がネットで公開された24。

これはニューラルネットを使ったAIに何百本というSF映画の台本を読ませたうえで、独自の作品を書かせたものだ。

その2カ月後には20世紀フォックスが間もなく公開予定のホラー映画『モーガンプロトタイプL‐9』の予告編を公開した25。

これもAIの手を借りたもので、今回使われたのはIBMのワトソンだった。

この任務を遂行するため、ワトソンは100本のホラー映画の予告編を観て、視覚、音声、構成を分析して人間が何を怖いと感じるかを理解した。

『モーガン』にも同じ分析を当てはめた結果、ワトソンは映画の重要な場面を特定した。

最終的には人間が介入してワトソンが抽出した場面をまとまりのある順番に並べ直したものの、ワトソンのおかげで予告編の制作期間は10日から1日に縮まった。

機械化時代に突入しているのは映画だけではない。

ジョージア工科大学の研究者らは、ビデオゲームの冒険内容をプレーヤーの好みに合わせて作成するAI「シェヘラザード」を開発した26。

現在のAIを使ったビデオゲームは、もともと一定数のデータセットが入っている。

つまり物語の展開には限りがある。

それに対してシェヘラザードのデータセットは無制限、つまり数限りない冒険を可能にするマシンなのだ。

一つ重要なのは、アルゴリズムだけで動くわけではないという点だ。

シェヘラザードには人間という助っ人がいる。

コンテンツ作成はAIとクラウド(群衆)の協力によって進められる。

ここでエンターテインメントの二つめの変化が出てくる。

つまり制作されるコンテンツの内容の変化だ。

パッシブメディアからアクティブメディアへ次に目を向けるエンターテインメント産業の大きな変化は「何を」の部分、つまりコンテンツの内容がどう変化するかだ。

ここからはコンテンツがこれまで以上に「コラボラティブ(協力的)」に、「イマーシブ(没入型)」に、そして「パーソナライズ(個別化)」していくことを説明する。

それぞれの特性を順番に見ていくが、まずは「パッシブ(受動型)」メディアの終焉というところから始めよう。

パッシブメディアとは、情報が一方通行であることを指す。

たとえば従来型の新聞、雑誌、テレビ、映画、そして本書のような書籍だ。

アクティブ(能動的)メディアはその逆だ。

情報は双方向に流れ、ユーザーの意見が反映される。

アクティブメディアは決して新しいものではない。

すでに多くの企業がユーザーをデベロッパーと見なしている。

ウィキペディアで「ユーザー生成ゲームプレー・コンテンツ」のページを見ると、95本のゲームタイトルが並んでいるが、明らかにそれで全部ではない27。

『ドゥーム』や『マリオ・メーカー』といった人気タイトルには簡単に使える「マップエディター」が含まれており、それを使えば誰でも自分のレベルをつくり、ネットで公開することができる。

だがシェヘラザードのようなAIゲーム・テクノロジーは、こうした双方向性をまったく新しい次元に引き上げる。

しかも話はゲーム分野だけにとどまらない。

マッシュアップ・マシンはAIを使った参加型ストーリーテリングのプラットフォームだ28。

人工知能とクラウド(群衆)知能を融合し、インタラクティブなアニメ映画を制作する。

しかもそのプロセスにも双方向性がある。

ユーザーがコンテンツをカスタマイズする過程で、AIはそのユーザーのスタイルを細かく学習し、アイデアを提案するなどストーリー作成を支援する。

AIのクオリティは高まりつづける。

人間を支援するなかで、コンピュータ自体のストーリーテリングの能力は一段と向上する。

近いうちにその役割は、単にコンテンツを作成するために関連性のあるトピックや印象的なミームを探してくることだけではなくなる。

小説や映画をまるごと消化するなど十分なストーリーテリングをインプットすることで、ダイヤモンドと鉄くずを見分けられるようになる。

ディープフェイクとリアル・フェイクそれと同時に、私たち人間の能力は退化していくかもしれない。

ディープフェイクはその可能性をはっきりと示している。

政治やポルノの世界の気がかりなトレンドだったディープフェイクは、エンターテインメントの世界にも広がりつつある。

こうしてまったく新しいコラボラティブなアクティブメディアが生まれている。

2018年にカリフォルニア大学バークレー校の研究者らは、プロのダンサーの身体をアマチュアの身体の上に重ね合わせる、AIを使った動作移転技術を開発した29。

素人レベルのチャチャチャが、プロのなめらかな動きに変わるのだ。

これで誰もがフレッド・アステアのように踊れるようになる。

身体全体のディー

プフェイクだが、重要なのはここに大衆化という要素が加わったことだ。

第1世代のディープフェイクはAIを使って画像をフレーム単位で移転しており、複数のセンサーやカメラを必要とした。

だがカリフォルニア大学のダンスフェイクに必要なのはスマートフォンのカメラだけだ。

このようなフェイク技術はエンターテインメントにさまざまな可能性をもたらす。

たとえば死者の復活だ。

ハリウッドの映画会社が、今は亡きロビン・ウィリアムズ、マリリン・モンロー、2パックにいつごろ新たな命を吹き込むだろう。

往年のスターを起用した新作映画ができるのは、いつごろになるだろう。

おそらくそれほど遠い先ではないだろう。

またディープフェイク・テクノロジーを応用して「リアル・フェイク」、つまり私たち自身の分身をつくるという可能性もある。

すでにアップルのシリ、アマゾン・エコー、マイクロソフトのコルタナなど、AIを使ったパーソナルアシスタントは存在する。

たとえばあなたがパートナーと口論になり、切実にアドバイスが欲しいと思ったとする。

だが「シリ、彼氏がカンカンなんだけど」と相談しても「なんと言っていいかわかりません」ぐらいの回答しか返ってこない。

だがパーソナルアシスタントが自己啓発業界のカリスマ、トニー・ロビンスだったらどうだろう。

想像をめぐらせる必要もない。

ロビンスは2018年に実在の人物の「AIペルソナ」を制作するライフカインド社と組み、まさにそれをやっている30。

AIペルソナは音声と写真を使ったシミュレーションで、身のこなしから記憶まで本物と区別がつかないほどだ。

ロビンスを再現するため、ライフカインドは800万枚の画像に加え、書籍、動画、ブログ、ポッドキャスト、ライブイベントなど過去のすべての作品も取り込んだ31。

その成果をロビンスはこう語る。

「ロボットというより、動くAIです。

(まだ)顧客相手のセラピーはできませんが、(いずれ)それも実現するでしょう。

音声だけ聞いていると、すでに妻でさえ私ではないと気づきません。

でも何より興味深いのは、AIそのものです。

ある人物がどう考え、何を感じ、何を生み出すかをとらえる能力は驚異的です。

記憶力は私のそれとは比較にならない。

また私の開発した(自己啓発)モデルがすべてインプットされているので、あなたを見れば心の中で20%は不安、30%はワクワク、40%は夢中になっているといった判断ができます。

しかも瞬時にそれができてしまう」コンテンツがかつてないほどアクティブになっているだけではない。

こうした活動からもわかるように人間と機械の知能が融合し、エンターテインメントはまったく新しい領域へと広がっている。

「ホロデッキ」が現実にジュール・アーバッハはロッド・ロデンベリーと同じ高校に通った32。

ロッドは『スタートレック』の生みの親として知られるジーン・ロデンベリーの息子だ。

アーバッハとロデンベリーは親友になり、毎日のようにおしゃべりをした。

その内容は「ホロデッキだ」とアーバッハは語る。

「ぼくらはホロデッキのことばかり話していました」テレビドラマの第2シリーズ『新スターレック』に登場したホロデッキは、ホログラムを使ってユーザーが望むエクスペリエンスをつくり出す。

完全没入型の仮想空間で、現実と区別がつかない。

いつしか本物のホロデッキの開発がアーバッハの目標になった。

この目標に向けて、まずはビデオゲーム、続いて3Dゲーム、最終的に3Dレンダリング(データを使った画像や映像の生成)を活動領域としてきた。

アーバッハが共同創業者となったオートイは、レンダリングをデスクトップではなくクラウドで行う方法を生み出した33。

オートイが登場する以前は、『猿の惑星』のような特殊効果をたくさん使う映画は、たった1コマを作成するのにスーパーコンピュータを何時間も動かす必要があった。

それがオートイのソフトウエアを使えば、Wi‐Fiでクラウドに接続したタブレットフォンを使ってリアルタイムにできてしまう。

続いてアーバッハは、ライトステージの共同創業者となった。

写真のようにリアルな360度の画像キャプチャに特化した会社だ。

これは人間をホログラムに転換するのにも必要な技術で、オートイが特殊効果の作成に必要な基本画像を提供する。

しかしホロデッキを実現するためには、克服すべきハードルがまだ二つあった。

最大の壁は光だ。

私たちがモノ見るとき、実際にはそのモノから跳ね返ってくる数兆個の光子を見ている。

つまり人工的に数兆個の光子を正しい角度と強度で目に投射できれば、どんな現実でも再現できる。

ここで登場するのが、数兆個の光子を発生させる世界初のディスプレー・テクノロジーを持つ、カリフォルニアのスタートアップ企業ライトフィールド・ラボだ34。

最初に開発したディスプレー(キューブ)は縦横10×15センチほどの小ぶりなものだが、投影できるホログラフィー像には5センチの厚みがあり、30度の範囲から見ることができる。

キューブを組み合わせて18インチ(25センチ)・ディスプレーをつくり、それをさらに組み合わせて壁パネルをつくれば、壁も床も天井もこのキューブで埋め尽くされた部屋が完成する。

そのキューブの一つひとつが30センチ先にホログラムを投影すれば、スタートレック風ホロデッキの完成だ。

とはいえ、まだ完璧ではない。

ホロデッキの映し出すものには、実物と同じ感触がある。

つまり最後のハードルは触覚だ。

この点においてもライトフィールドは前進している。

光を使ってモノを見えるようにするのと同じ方法で、音を使って触れるようにしている。

超音波(医師が使っているのと同じテクノロジーである)を室内に投射すると、音波そのものがモノに物理的存在感を与える。

現実のモノとそっくり同じ重量感はないが、触知できる。

オートイのソフトウエア、ライトステージの画像キャプチャ、それにライトフィールドのプロジェクターを組み合わせることで、ホロデッキの基本要素はすべてそろう。

完全没入型エンターテインメントの完成だ。

「没入」の未来コンテンツの三つめの変化を特徴づけるのが没入で、カギを握るのは「注意(アテンション)」だ。

注意という面ではパッシブメディアよりアクティブメディアがすぐれており、没入型メディアはさらにすぐれている。

その理由は感覚入力だ。

より多くの五感を巻き込む活動ほど、注意力は高まる。

企業があらゆる手を使って、私たちの五感を仮想空間へ引っ張り込もうとするのはこのためだ。

触覚を刺激する触覚グローブはすでに登場しており、性能は着実に向上している。

かつての「スメロビジョン」(映画の上映中に匂いを感じさせるシステム)と同じことをテレビで実現できる匂い放出装置や、自宅のリビングでコンサートホールのような経験ができる3Dオーディオシステムも存在する。

触覚チェアは前後左右に自在に動くようになり、映画『レディ・プレーヤーワン』に出てきたような全方位トレッドミルを使えば仮想空間で激しいダンスもできる。

スタンフォード大学の神経科学者、デビッド・イーグルマンはさらに先へ進もうとしている。

かつてVRの先駆け「セカンドライフ」をつくったフィリップ・ローズデールと組み、触覚を手だけでなく上半身全体に広げようとしている。

ローズデールの最新の作品「ハイ・フィデリティ」は、完全没入型VRだ35。

イーグルマンのスタートアップ、ネオセンソリーは、ハイ・フィデリティで使える「エクソスキン(外皮)」を開発した36。

腕、背中、おなか部分に数センチおきにマイクロモニターが配置された長袖シャツだ。

「VR世界で雨が降っていると、雨粒を感じることができます。

あるいは他のアバターに触れられたら、それを感じることもできます」とイーグルマンは説明する。

シグナルの伝達はとびきり速く、エクソスキンを装着している人は瞬時に刺激を感じる。

ロサンゼルスに拠点を置くドリームスケープはそのさらに先を行く37。

触覚デバイスを没入型VRと組み合わせ、複数人の集団がエキゾチックな経験を共有できるようにした。

シロナガスクジラと深海を泳いだり、エイリアンの動物園で奇怪な生き物に触れてみたり、といった具合に。

ドリームスケープがAMCシアターズと提携したことから、大型スクリーンで大作映画を観る代わりに参加型映画で絶叫するという日もそれほど遠い先ではないだろう。

アーバッハのホロデッキは、その次の飛躍になるだろう。

超音波を使って触覚を再現できれば、無骨なグローブを装着せずに触覚デバイスと同じレベルの経験ができるようになる。

ホロデッキを動かすAIは私たちの感情に敏感に反応する。

またAIが生み出す環境は驚くほどインタラクティブだ。

つまりホロデッキのエクスペリエンスには、エンターテインメントの主要な三つの変化がすべて融合されることになる。

これはエンターテインメントにとほうもない変化をもたらすはずだが、これで話は終わりではない。

エンターテインメントはもっと、ずっとパーソナルになる。

パーソナライズの未来

2028年の夜2028年。

長い1日も終わりに近づいているが、まだゆっくりしているヒマはない。

45分後には夕食に出かけることになっている。

とりあえず腰を下ろし、1杯飲みながら娯楽番組でも観たい。

リモコンを手に取り、チャンネルをザッピングしようか。

あるいはコーヒーテーブルの上にホログラフィックなCNNを浮かべて楽しむか。

ありがたいことに、こんな問いを考える必要すらなくなる。

というのも、あなたのパーソナルAIは、すでにあなたに何が必要かわかっているからだ。

AIは日がな1日あなたと過ごすだけでなく、すでに感情をモニタリングし、理解する能力まで身につけている。

だからあなたの気分の浮き沈みをかなり詳細に把握している。

今朝はスマートミラーに映し出された不機嫌な表情をとらえ、ランチタイムに妻と言い争うのを聞き、帰宅する車では弟からの電話を無視したのに気づいた。

この最後の部分が特に重要なのは、AIはあなたと長い期間一緒に過ごしてきたので、弟からの電話を無視するのは本当にストレスを感じているときだけだとわかっているからだ。

そのうえさまざまなセンサーが神経生理学的指標を常時追跡しているので、AIはあなたの感情の変化だけでなく、それが身体や脳にどんな影響を及ぼすかも詳細に把握している。

しかもAIはこうした情報をもとに、適切な対策を打つことができる。

あなたがリビングに足を踏み入れると、壁にはオーウェン・ウィルソンのコメディ映画のお気に入りのシーンが投影されている。

不思議なのは、あなた自身にはオーウェン・ウィルソンのファンだという自覚がなかったことだ。

だが過去5年、特に意識することなくウィルソンの昔の映画を何本か観ていた。

いずれも記憶に残る名作ではなかったが、大笑いできるシーンは必ずあった。

AIはそれに気づいていた。

しかも過去の感情履歴によると、ストレスが高まった場面の78・56%において、笑いが気分回復の即効薬であったこともわかっていた。

こうして今、あなたの目の前にはオーウェン・ウィルソンの映画のほか、同じようなスタイルのコメディ映画の場面が次々と映し出されている。

終わりが近づくと、AIはあなたのスマホに保存されていた動画をいくつか挿入してくる。

妻と一緒に笑っている動画だ。

あなたにとって大切なものを思い出させてくれる楽しい記憶だ。

このマッシュアップはとても効き目があった。

1杯飲み終えるころには、あなたのイライラはすっかり消えている。

昼に口論した妻とも仲直りをして、ディナーに出かけるころには、先ほどまでとはうって変わって元気になっている。

感情コンピューティングここに挙げたテクノロジーの大部分はすでに存在しており、「感情コンピューティング」という範疇でくくられる38。

コンピュータに人間の感情を理解し、シミュレートすることを教える科学だ。

ここではまさにコンバージェンスが起きている。

認知心理学、コンピュータ科学、神経生理学が交差する新しい学問分野であり、そこにAI、ロボティクス、センサーといった加速するテクノロジーが組み合わさっている。

感情コンピューティングはすでにさまざまな分野に広がっている。

eラーニングではAIが学習者が退屈していることを察知すると、教材の見せ方を変える。

ロボットを使った介護の現場では、介護の品質向上に使われている。

ドライバーがイライラしてきたら、車の安全機能を追加発動させるなど、ソーシャルモニタリングの手段としても使われている。

だが最も大きな影響を及ぼしつつあるのが、パーソナライズの進むエンターテインメントの分野だ。

顔の表情、手の動き、視線、声のトーン、頭の動き、発話の頻度や長さなどは、すべて感情的情報がたっぷり含まれたシグナルだ。

次世代センサーを深層学習技術と組み合わせれば、こうしたシグナルを解読し、ユーザーの気分を分析できる。

しかも基本となるテクノロジーはすでに存在する。

MITの感情コンピューティング・グループの責任者であるロザリンド・ピカードが興したスタートアップ、アフェクティバの感情認識プラットフォームは、すでにゲーム業界とマーケティング業界で活用されている39。

カスタマーサービス用チャットボットにはユーザーが混乱しているのか不満を持っているのかを教え、広告会社には広告の感情訴求効果を測定する手段を、そしてゲーム会社にはリアルタイムにプレー内容を調整する手段を提供する。

ホラーゲーム『ネバーマインド』では、ユーザーの表情やバイオフィードバックを通じて、不安感を探る40。

ユーザーが怯えていることがわかると、難しいタスクや超現実的コンテンツを追加して、さらにスリルを高めていく。

同じく感情コンピューティング分野のスタートアップであるライトウェーブは、個人だけでなく、集団全体がどのような感情を抱いているかもとらえることができる41。

すでにシスコがスタートアップ企業のプレゼン評価に活用したり、DJのポール・オーケンフォルドがシンガポールでのコンサートで聴衆の反応を確かめたり、映画『レヴェナント:蘇えりし者』の試写会で観客の反応を確かめたりするのに使われた実績がある。

感情コンピューティングはモバイル分野にも進出している。

つまりスマホがユーザーの気分、所在地、一緒にいる相手、相手との雰囲気など現実世界で起きていることに基づいて、コンテンツを用意するようになっている。

ウビーモ42やクループ43といったスタートアップ企業は、感情系アプリケーションの開発プラットフォームから、徹底的にパーソナライズされた感情的コンテンツの配信サービスまで、起業家に必要なものをすべてそろえている。

コンバージェンスがさらに進行すれば、まったく新しいパーソナライゼーションの可能性が生まれるだろう。

既存のコンテンツのなかからユーザーの気分に合ったものを選ぶだけでなく、ユーザーの気分にぴったりのコンテンツを個別につくるようになる。

ゲーム業界に広がりつつある、AIを使ってユーザー好みの冒険を作成するストーリーテリング・テクノロジーは、伝統メディアにも浸透しつつある。

2018年5月には20世紀フォックスが、1980年代の児童書シリーズ『きみならどうする』(学研刊)を使った大規模な映画イベントを開いた44。

映画の上映中、観客は希望する筋書きや構想をスマホで投票し、作品の方向を決めていった。

残念ながらスマホを使うという手法は、観客が映画に集中する妨げとなり、《ハリウッド・レポーター》誌に「映画館の楽しみをぶち壊しにする最悪の方法」と酷評された45。

だがスマートフォンをインターフェースとして使うのは、一時的なソリューションにすぎない。

まもなく劇場内に知覚や感情コンピューティングの設備が設置され、観客の感情に応じたストーリーテリングは通常機能になるだろう。

AIはあなたがどんな筋書きを好むかを、あなた以上に理解するようになる。

あなたがある作品を気に入ったという事実しか覚えていなくても、AIはなぜそれを気に入ったのかまでわかっている。

意味解析やバイオフィードバックを通じて、一見どうということのない会話が、あなたの古い記憶を呼び覚まし、懐かしいという感情を引き起こしたこともわかっている。

心拍数、まばたきの数、瞳孔の拡張反応、どこを見ていて、どこを見ていないのかも把握する。

この膨大なデータがあるからこそ、そう遠くない将来にはあなた自身が好みの冒険スタイルを選ぶ必要はなくなる。

AIが私たちの気分をこれまでの経験、神経生理学的反応、所在地、社会的選好、希望する没入レベルなどと照合しながら、最適なコンテンツを瞬時にカスタマイズするようになる。

これが最後の変化につながる。

「誰が」「何を」つくるかではなく、「どこで」コンテンツを経験するかが根本的に変わるのだ。

スクリーンのない世界へここで物語の歴史をざっとふりかえってみよう。

歴史学者によると、ストーリーテリングそのものは人類がたき火を囲んでいた時代から存在したが、その対象が大衆に広がったのは印刷技術が登場してからだ。

本、新聞、雑誌は大衆向け情報媒体の第1世代で、400年にわたってエンターテインメントの世界の中心にあった。

続いて登場したのがラジオで、それまでのメディアとはけた違いに身近で、即時性があった。

無声映画や発声映画の影響力も大きかったが、国民全体が一斉に耳を傾けた最初のテクノロジーはラジオだった。

続いて白黒テレビが登場し、映像が即時に共有される時代がやってきた。

続いて登場したカラーテレビは、白黒テレビの改良版というより真打ちだった。

この巨大な箱は、半世紀にわたって私たちのリビングルームの中心を占拠してきた。

続いてプラズマスクリーンが来た。

毎年コンスーマー・エレクトロニクス・ショー(CES)が開かれるたびにプラズマスクリーンは薄く、安くなり、解像度は上がっていった。

続いてコードが消え、プラズマスクリーンはどこにでも取り付けられるようになった。

ではプラズマスクリーンを破壊するイノベーションは何だろう?その答えは、ARを手がけるマジックリープの事業目的にある46。

「スクリーンそのものを消滅させる」。

マジックループの初代ARメガネはあまりにもオタ

ク的なハードウエアで、スクリーンの破壊にはいたらなかった。

しかしその後はかなり魅力的になり、用途も広がってきた。

マジックリープが目指しているのはスクリーンの非物質化であり、寝室の壁、手のひら、ブルックリン橋の橋脚など、ユーザーがスクリーンにしたいと思う場所をすべてスクリーンにしようとしている。

では、それを破壊するのは何か?ARスマート・コンタクトレンズかもしれない。

もうヘッドギアをかぶる必要もなくなる。

スクリーンはあなたの角膜の上にあり、映像は網膜の裏に投影される。

それを破壊するのは何か?目に何かを装着する必要さえない、ホロデッキかもしれない。

ではホロデッキを破壊するのは?スティーブ・ジョブズがよく言っていたように、ちょっと待った、もう一つある。

じっくり見ていこう。

まず、やっぱりスクリーンで観たいという人もいるだろう。

ただスクリーンのテクノロジー自体も変化する。

すでに有機発光ダイオード(OLED)が発光ダイオード(LED)に置き換わりつつある47。

当初の売りは画像解像度の高さだったが、最大のメリットは柔軟性だ。

LGはすでに筒状に畳める19インチのOLEDディスプレーを開発しており、他社も続こうとしている。

電話でも同じ動きがあった。

中国の研究者は、硬いシリコンの代わりに可鍛性のあるグラフェンを使うことで、腕に巻き付けてブレスレットのように装着できるスマホを開発した48。

柔軟性に加えて、最近は触覚的フィードバックを返すタッチスクリーンも登場している。

肌にきわめて弱い電流を流すという方法で、タッチスクリーンのほうから私たちにタッチしてくるのだ。

ただスクリーンには場所という本質的制約がある。

スクリーンを使うというのは、エンターテインメントを自宅のリビングや地元の映画館という特定の場所で観ることを意味する。

もちろんタブレットやスマホを使えばスクリーンを移動させることはできるが、スクリーンサイズが犠牲になり、のめり込みにくくなる。

巨大掲示板のような大きなスクリーンのためにつくられたコンテンツを切手ほどの大きさのスマホの画面で見ても、ストーリーに集中しにくい。

だがARの登場によって私たちはスクリーンのない世界へと移行しつつある。

ARの巨大市場が出現する移行は急速に進んでいる。

今後5年でARは900億ドル市場を生み出すと予想される49。

アップルCEOのティム・クックは最近、《インディペンデント》紙のインタビューでこう語っている50。

「ARはスマホと同じぐらい大きな市場になるでしょう。

スマホは万人が使うものです。

iPhoneは特定の層、国、バーティカル・マーケットに限られたものではありません。

あらゆる人のためのものです。

ARも同じで、それぐらい巨大になる可能性を秘めています」この成長の結果、私たちの現実世界の上に新しい情報のレイヤーが投影される。

つまり世界がスクリーンになる。

ARで『スターウォーズ』ゲームをプレーするというのは、職場に向かう途上で、あるいは自分のデスクや食堂、トイレでも帝国との戦いが続くということだ。

そんな未来が垣間見えたのは2016年、任天堂が「ポケモンGO」をリリースしたときだ51。

それをきっかけに史上最大のキャラクター捕獲大会が幕を開けた。

1日あたりのユーザーは500万人、月間ユーザーは6500万人に達し、売上高は20億ドルを超えるなど、ゲームは記録的ヒットとなった52。

その後、アプリケーションの数は爆発的に増えた。

かつては厚みもサイズも大きかったARメガネは薄く、軽くなった。

しかも一気に小さくなる日も近そうだ。

グーグルやサムスンのような大企業からモジョ・ビジョンのような資金力のあるスタートアップまで、さまざまな企業がARコンタクトレンズの開発に取り組んでいる53。

ヘッドアップ表示装置の機能を持ったこのコンタクトレンズを使えば、ARメガネはもはや不要になる。

ブレイン・コンピュータ・インターフェース(BCI)ではARコンタクトレンズは使いたくないという人はどうなるか?アーバッハの予想ではあと10年もすれば、ホロデッキの初期バージョンがディズニーランドのようなテーマパークや超富裕層の邸宅の娯楽室で使われるようになるという。

だが自然界の現実投影システム、すなわち人間の脳を直接操作できるようになったら、ホロデッキも不要になる。

それが「ブレイン・コンピュータ・インターフェース(BCI)」の世界だ。

ここまで見てきたように、ARコンタクトレンズを使えば身のまわりの情報レイヤーとほぼシームレスにインターフェース(相互作用)できる。

そこに触覚グローブを追加すれば、シミュレーションの手触りも現実に近くなる。

シミュレーションの場を街中から屋内に移し、光子や超音波のレイヤーを重ねれば、エクスペリエンスはさらに没入型になる。

しかしBCIはそれとはまるで違う。

私たちが日常的に現実世界をとらえるのとまったく同じ方法で、すなわち脳を使って現実世界を生み出すのだ。

BCIはもともと、意識はあるものの身体が完全にまひして動かせない「閉じ込め症候群」の患者を支援するために開発された。

脳波図(EEG)センサーを使って頭皮から脳波を読み取ることで、手を使わず脳で制御するインターフェースが実現する。

すでにEEGを使ったBCIデバイスはゲームの世界に浸透しはじめた54。

このテクノロジーが『テトリス』や『パックマン』といった従来型のアーケードゲームや、『ワールド・オブ・ウォークラフト』のようなマルチプレーヤー・ゲームで使えることを立証した研究もある。

その結果、いまや『マインドバランス』や『バクテリアハント』といった新しいBCI専用ゲームも誕生している。

2017年にはワシントン大学の研究者らがさらに一歩踏み込み、「ブレインネット」を発表した55。

複数の参加者が思考を通じて相互作用できる、世界初の脳と脳を接続したブレイン・トゥ・ブレイン・コミュニケーション・ネットワークだ。

脳波図(EEG)を使って脳のシグナルを「読み」、経頭蓋磁気刺激(TMS)を使って脳シグナルを「書く」ことで、被験者は相互に接続した状態でテトリス風ゲームをプレーした。

EEG、TMS、そして点滅する電球だけを通して意思疎通と共同作業を行ったのだ。

まったく新しいタイプの「ハイブマインド(集合精神)ゲーム」であり、これから探究が始まろうとしている未知の領域だ。

BCIはゲームだけにとどまらず、伝統メディアの映画にも使われるようになった。

2018年5月、イギリスの芸術家で映画監督のリチャード・ラムチャーンは、『ザ・モメント』と題した27分の短編映画を発表した56。

比較的安い(100ドル)EEGヘッドセットを装着して観ることを前提として制作されたこの作品は、観客の頭の中で起きていることに応じて、観るたびに場面も音楽もアニメーションも変わるようになっている。

BCIはエンターテインメントを私たちの気分だけでなく、脳に合わせてカスタマイズする可能性を示している。

コンピュータと大脳皮質を直結させるこのテクノロジーの開発は、本書が設定した「これからの10年」という時間軸をおそらく超えるだろう。

それでもこれがコンテンツ・クリエイターにとって何を意味するか、指摘しておくべきだろう。

遅かれ早かれ、メディア企業と神経科学の研究機関の融合が始まる。

それはエクスポネンシャル・テクノロジーの融合が市場の融合を引き起こし、エンターテインメント産業を今とはまったく違う姿に変えていくことの必然的結果なのだ。

第8章教育の未来「画一的教育」は終わる映画館で融合しているテクノロジーは、「学校の教室」にも到達しつつある。

しかもギリギリのタイミングで。

教育をマクロの視点から見ると、大きな問題は二つある。

量と質だ。

量の面ではとほうもない不足が生じている。

現在アメリカでは160万人の教師が不足している1。

世界の状況はさらにひどく、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の推計では2030年にはなんと6900万人の教師が不足するという2。

その結果、現在世界で2億6300万人の子供たちが基本教育を受けられていない。

質の面でも同じような難題に直面している。

現代の教育システムはまるで現代的ではない3。

今とは違う世界のニーズに対応するため、別の時代につくられた制度だからだ。

18世紀半ば、アメリカでは鉄道の全国的普及にさまざまなかたちで影響を受けながら、標準化された「製品」をつくるための工業的教育制度が広がっていった。

生徒たちは始業ベルの音に迎えられ、教室から教室へと移動していった。

テストという名の品質管理によって、社会のニーズに合致した若者が育っているかが随時確認された。

その社会のニーズとはどのようなものか。

当時のそれは「従順な工場労働者」だった。

工業的教育の象徴は、教壇に立つ賢者だ。

この画一的モデルは、すぐれた教師や学校が希少な資源だった時代に生まれた。

効率的ではあったが、一人の教師が教室いっぱいの生徒を教えるという仕組みは、2種類のやる気のない生徒を生み出す。

ついていけないグループと、退屈するグループだ。

この問題に拍車をかけたのが、行きすぎた品質管理だ。

教師はテストのための授業をせざるをえなくなり、生徒たちの標準化はかつてないほど進んだ。

残念ながら、テストが測っているのはきわめて限られた範囲の能力でしかない。

その多くは大人になってから生きていくうえで、まったく必要のないものだ。

その証拠に、あなたは最後に多項式を因数分解したのはいつだったか、覚えているだろうか?子供たちをバッチ処理するというのは工業化時代の名残であり、教育的には大失敗だ。

生物学的原理に照らしてもそれは明らかで、誰もが違うようにできている。

先天的、後天的の両面があるが、結果は同じだ。

私たちは違う個性の持ち主であり、全員を夢中にさせ、最大の学習効果を引き出すような画一的手法などありえない。

こうした問題が重なり合えば、2015年のアメリカ教育省調査で、1日あたり7000人、つまり26秒に1人の学生が高校を中退しているというのもうなずける4。

年間では120万人に達し、この半数以上が中退の最大の理由として「退屈だから」を挙げている5。

しかしテクノロジーのコンバージェンスは、質と量の問題にまったく新しいいくつもの解決策をもたらす。

現在エンターテインメントの世界に大きな影響を与えつつあるテクノロジーはすべて、教育業界でも同じ働きをしている。

これから見ていくとおり、画一的教育はアプリストアにはとてもかなわない。

年10億人の「アンドロイド教師」が生まれる2012年、MITのメディアラボの創設者であるニコラス・ネグロポンテは、エチオピアの僻地にある二つの村に、まとまった数のソーラー充電装置とモトローラ製タブレット端末「ズーム」を置いてきた6。

タブレットには初歩的な学習ゲーム、映画、本などがあらかじめ入っていて、その状態で箱に梱包されていた。

それを大人ではなく、子供たちに手渡した。

子供たちは読み書きができず、このようなハイテク製品を見たこともなかった。

そして何の指示も与えられなかった。

ネグロポンテが知りたかったのは、シンプルなことだ。

この結果、何が起こるだろう?ネグロポンテは数十年にわたり、この答えを追い求めてきた。

「子供たちに教育的アプリやゲームの搭載されたノートパソコンさえ与えれば、自分で読み書きを学び、それと同時にインターネットの使い方も学習する」という奇想天外なアイデアを、誰よりも熱心に説いてきたのがネグロポンテだった。

この主張を証明しようと、何年も前に非営利団体「すべての子供にノートパソコンを」を設立していた7。

100ドルのタブレット・コンピュータを開発し、それを必要としている子供たちに渡すことが目的だった。

しかし、まださまざまな疑問があった。

安価なタブレットだけで、問題を解決できるのか?実際に子供たちはどれだけの教育や指導を必要としているのだろう?アプリやゲームで遊んでいるだけで、本当に子供たちは学ぶことができるのか?エチオピアでの実験は、こうした疑問への答えを見つけるためのものだった。

フタを開けてみると、答えが見つかったどころの話ではなかった。

ネグロポンテは《MITレビュー》誌にこう語っている8。

「子供たちは箱で遊ぶんじゃないか、と思っていました。

だが4分も経たないうちに、一人が箱を開け、しかも電源スイッチを見つけ、電源を入れた。

5日後には子供たちは1日あたり平均47個のアプリを使うようになっていた。

2週間後には村中でABCの歌を唄っていた。

そして5カ月後にはアンドロイド(のオペレーティングシステム)をハッキングしていたのです」もちろん、コンピュータを使って読み書きを学ぶというのは目新しい発想ではない。

私たち二人が2012年に出版した『楽観主義者の未来予測』(早川書房刊)では、ニューキャッスル大学の教育テクノロジー教授、スガタ・ミトラの研究を取りあげた9。

ミトラの研究は、機能的リテラシーがない(文字が読めない)ことは、コンピュータ・リテラシーを身につける障害にならないことを示している。

ミトラがインドのスラム街の子供たちにネットに接続できるコンピュータを与えたところ、たちまちデバイスの使い方を学習し、ウェブサーフィンをして、基本的な読み書き能力を身につけた。

ネグロポンテのエチオピアの実験の成果は、それ以上だった。

「すべての子供にノートパソコンを」チームが胸をおどらせたのは、タブレットが自律的学習をうながし、クリエイティビティを解き放ったためではあるが、それ以上にそうした能力を解き放てるほど子供たちがテクノロジーを使いこなしていたことに感動したという。

団体の最高技術責任者(CTO)のエド・マクネリーは《MITレビュー》誌にこう語っている10。

「子供たちはデスクトップを完全にカスタマイズしていました。

だから一人ひとりのタブレットの見た目はまるで違っていました。

あらかじめそれをさせないためのソフトウエアを仕込んでおいたにもかかわらず、うまくすり抜けたという事実は、子供たちが学習に不可欠なクリエイティビティ、探究心、発見能力を持っていることを明確に示しています」2017年、Xプライズ財団はこうした取り組みを新たな次元に引き上げるため、賞金1500万ドルを賭けたコンテスト「グローバル・ラーニングXプライズ」をスタートさせた11。

賞金の主な出資者はイーロン・マスクで、グーグルがパートナーとして参画した。

コンテストは世界に2億6300万人いる、学校に通えない子供たちのためのソフトウエアを開発することを目的としていた。

賞金を獲得するためには、参加チームは子供がタブレットだけしか使わずに、迅速に独学を進められるようなアンドロイドベースのソフトウエアを開発しなければならない。

具体的には18カ月以内に、読み書き(勝者を決める試験はタンザニアで行うため、スワヒリ語)と数学の基本を学べることが条件だ。

このコンテストには世界中から約700チームが参加した。

このうち200チーム近くがソフトウエアを完成させ、そこからファイナリスト5チームが選ばれた。

5チームは開発したソフトウエアをグーグルが寄付した「ピクセルC」タブレット5000台にインストールする見返りに、それぞれ100万ドルを受け取った。

Xプライズは世界食糧計画(WFP)と組み、タンザニアのとりわけ辺鄙な167の村に住む、約2400人の読み書きのできない子供たちを見つけた。

いずれの村にも学校はなく、字の読める大人もいなかった。

それから村にソーラー充電器(タブレットの充電用)を設置し、子供たちに事前テスト(成果を測定するため)を実施したうえで、タブレットを配布した。

2019年5月、最終賞金の1000万ドルは二つのチームが折半した。

韓国のキットキット・スクールとケニアのワンビリオンだ。

どちらが開発したソフトウエアも1日1時間の使用で、タンザニアの学校にフルタイムで通っている子供たちと同等の教育成果をもたらした。

コンテストのルールに従い、優勝した2チームを含むファイナリスト5チームが開発したソフトウエアは、すべてオープンソース化された(ギットハブで無料で入手できる)。

このソフトウエアが読み書きできない人をなくす戦いにおいて真価を発揮するためには、タブレットを必要としているすべての子供(できれば大人にも)に渡すという課題もある。

ただそれこそがこのコンテストの真の目標でもある。

この独学用ソフトウエアがすべてのアンドロイドフォンやタブレットにプレインストールされるようになったら、あなたが端末を買い替えるとき、要らなくなった端末を慈善団体に寄付するという選択肢が出てくるかもしれない。

リサイクルする

ことで環境を保護するだけでなく、子供たちに学ぶ手段を提供することで社会貢献ができる。

それは教師を寄付することにほかならない。

毎年10億台を超えるアンドロイドフォンが製造されていることから、このソフトウエアは無駄になっている膨大な才能、すなわち私たちの支援を必要としている2億6300万人の若い頭脳を活かすのに大きな意味を持つはずだ12。

2030年の社会科見学2030年の歴史の授業を想像してみよう。

今週のテーマは古代エジプトだ。

ファラオや王妃たち、墓、ツタンカーメン。

もちろん、ピラミッドを直接見たいと思うだろう。

だが航空券代がかかる。

クラスメート全員分のホテルの部屋も確保しなければならない。

そのために学校を2週間休めるか。

どれをとっても実現不可能だ。

しかもエジプトに行けたとしても、訪問はできないかもしれない。

エジプトの墓所の多くは修復のため閉鎖されており、ティーンエイジャーの集団はまちがいなく入れてもらえない。

だが心配には及ばない。

VRがこうした問題を解決してくれる。

現実には、神后ネフェルタリは王妃の谷に眠っている。

一般人が一切見られないわけではないが、遺跡を保護するため、墓は何十年も一般公開されていない。

だがVRの世界ならクラスメートと一緒に埋葬されている部屋を訪ね、象形文字をトレースしたり、優美なサルコファガス(棺)を間近で眺めたりすることも簡単にできる。

一流のエジプト学者がツアーガイドにも付いてくれる。

「墓の裏側にある金細工をよく見ると、古代エジプトの神であるオシリスの彫刻に気づくでしょう……」だが墓の裏側をのぞき込むのに、2030年まで待つ必要はない。

2018年にフィリップ・ローズデール率いるハイ・フィデリティのチームは、まさにそんなバーチャル社会科見学に成功した13。

ローズデールらはまずネフェルタリの墓をすみずみまで3Dレーザーでスキャニングした。

さらに埋葬室の高解像度写真を何千枚も撮った。

1万枚以上の写真をつなぎあわせて単一の景色をつくり、それを3Dスキャンした地図の上に重ねることで、ローズデールは驚くほど正確なバーチャル墓を作成した。

続いて1クラスの児童全員にVRヘッドセット「HTCVive」を配った。

ハイ・フィデリティは複数の人が同時に同じ仮想空間を共有できるソーシャルVRプラットフォームなので、クラスメート全員が墓の中を一緒に探索することができた。

クラス全員のエジプトでの没入型社会科見学は移動時間ゼロ、旅行費用もゼロだった。

これは参加した児童にとって実り多い学習経験となった。

研究では多感覚を使う学習は他の学習形態より有効であることが明らかになっている14。

それがVRであっても変わりはない。

これはテクノロジーを使えば、質の高い没入型の教育環境を無限に生み出せることを意味する。

ただし、これはあくまでも今日の状況だ。

では未来はどうなるだろう?多くの専門家は、教育はVRのキラーアプリケーションになると考えている。

おそらくVRとAIの組み合わせになるだろう。

その理由を説明するために、第7章のバーチャル版トニー・ロビンスの話を思い出してほしい。

ライフカインド社がトニー・ロビンスの複製を作成するのに使ったのと同じニューラルネットワークがあれば、誰の複製でもつくれる。

古代ギリシャを勉強するときは、ありとあらゆるドリス式円柱を見比べるだけでなく、ヒゲをたくわえて白いトガを身にまとった男性の出迎えを受けられるかもしれない。

「やあ、私はプラトンだ。

ようこそアカデミアへ」と。

倫理学の創始者から倫理学を学べるというのは胸のおどる話だが、VRの効用はそれにとどまらない。

第3章でも紹介したスタンフォード大学バーチャル・ヒューマン・インタラクションラボのディレクターであるジェレミー・ベイレンソンは、過去16年にわたりVRを使って共感力を高める研究を続けてきた15。

共感力は道徳意識の感情的土台となる。

研究の過程でベイレンソンは、VRにはホームレス、気候変動、人種差別などに対する態度や行動を速やかに、そして大きく変える力があることを発見した16。

VRで高齢のホームレス女性として過ごしてみると、ホームレスに対する共感は大幅に高まる。

しかもその状態は仮想世界を出ても変わらない。

VRは仮想世界だけでなく、現実世界における気持ちや行動も変える。

別の言葉で言えば、VRはまったく新しいタイプの道徳教育を生み出す可能性がある。

またVRを通じて強化できる感情は、共感だけではない。

心理学者のスキップ・リッツォは南カリフォルニア大学での研究で、VRを使った兵士のPTSDの治療で大きな成功を収めた17。

他の科学者はVRをさまざまな不安障害の治療に応用している18。

こうしたことを総合すると、VRはとりわけAIと組み合わせたとき、従来の教育の最良の部分を引き出すとともに、従来の教育に欠けていた共感力や感情的スキルを育むのに役立つ可能性がある。

何より重要なのはAIとVRが5Gネットワークと融合すると、世界的な教育問題の見え方がまるで変わってくる。

私たちが直面しているのは、数億人の不遇な子供たちのために教師を育成し、学校に十分な資金をまわすという一見解決不可能な状況ではない。

最高のバーチャル教育システムを構築し、ヘッドセットとともにすべての人に無料配布するという手の届きそうな挑戦だ。

それによって質量ともに充実した教育をオンデマンドで提供できる。

2030年の学校いまは2030年で、学校はもう始まっている。

2030年の学校は、いったいどんな姿をしているのだろう?実は私たちはその片鱗を、1995年にすでに目にしている。

SF作家のニール・スティーブンソンが発表した小説『ダイヤモンド・エイジ』(早川書房刊)だ19。

この少女の成長物語の舞台は、ナノテクノロジーとAIが日常の一部となったネオビクトリア朝の未来だ。

そこで教育を担うのは『若き淑女のための絵入り初等読本』である。

本の形をしているが、実はAIを搭載し、個々のユーザーに合わせて内容をカスタマイズする学習ツールだ。

ユーザーからの質問にはその場の状況に合わせて、興味をそそるような答えを返す。

センサーを使ってユーザーのエネルギーレベルやそのとき抱いている感情をモニタリングし、狙いどおりの成長をうながすために最適な学習環境を生み出す。

AI初等読本の目的は、子供たちを社会のニーズに適合させることではない。

強く、独立心と共感力にあふれ、クリエイティブな思考のできる人間の育成というヒューマニスト的なものだ。

現在ニール・スティーブンソンはマジックリープ社のチーフ・フューチャリストとして、ARを使って自らの描いた初等読本のバージョン1・0を開発する試みを支援している20。

マジックリープのテクノロジーは、私たちの周囲にホログラムを映し出す。

2次元の画面では視覚化するのが難しい概念(たとえば人体解剖など)も、この3Dの世界なら生き生きと描き出せる。

手術室の中を自由に移動しながら、皮膚や筋肉のレイヤーを一つずつ剥がしていくバーチャル解剖をイメージしてみよう。

3D環境における豊かな学習経験は、2Dのものと比べて短期記憶から長期記憶に移行する可能性がはるかに高い。

だがARの真の魅力は、学習の場を教室から現実世界へと広げることだ。

ARとAIを組み合わせれば、何気ない散歩も歴史の授業になる。

たとえばマンハッタンを歩けば、通りに面した建物の100年前の姿を見ながら、ビクトリア時代の住人のホログラフィー像からその歴史を聞くことができる。

もちろんARさえあれば、スティーブンソンの『初等読本』が完成するわけではない。

だがARを進行中のコンバージェンスと組み合わせれば、教育の未来ははっきりと見えてくる。

今日のAI革命は、一人ひとりの生徒にカスタマイズされた学習環境を生み出す力をもたらしている。

そこに神経生理学的データに反応するセンサーを加えると、たとえば生徒の成長マインドセット(研究によって学習に必要な姿勢であると証明されている)を維持したり、フロー状態(学習効果を強化することが示されている)に誘導したりといったことも可能になる。

こうした要素を総合すると、今とはまったく違う未来が浮かびあがる。

分散型で、個人に合わせてカスタマイズできる、加速度的な学習環境だ。

さて、今日は何を学ぼうか?

第9章医療の未来娘の難病に挑んだ起業家耐えがたい知らせだった。

1992年、マーティーン・ロスブラットは娘の余命は長くて5年と告げられた1。

病名は肺高血圧症。

アメリカの患者数は2000人という珍しい肺疾患だ。

ただ、このわずかな数字は誤解を生みやすい。

肺高血圧症は、発症した人がほぼ例外なく命を落とす難病だ。

患者数が少ないのは、発症率の低さではなく危険度の高さを表している。

いずれにせよ娘に死が迫っているのは確かだったので、マーティーンはこの難病に立ち向かうことにした。

医師たち(一人や二人ではない)は口をそろえてそんなことは不可能だと言い切った。

通院の間隔は長かったので、マーティーンはその間に医学図書館に通いつめた。

学術誌で肺高血圧症の論文を見つけ、大学の教科書に戻って用語の意味を調べる。

重要な概念はさらに一般的な高校の教科書までさかのぼって調べる。

この手順をひたすら繰り返した。

娘が命を落とす前に、この治療不可能な疾患を治療する。

そんな究極のムーンショットに取り組もうと決めたのはいつだったか、マーティーンは覚えていない。

しかしマーティーンにとってはそれほど特別なことではなかった。

肺高血圧症に関心を持つ前に、すでに二つのムーンショットに挑んだ経験があったからだ。

その数は今では七つに増え、まだ増えつづけている。

現在マーティーン・ロスブラットはアメリカで最も稼ぐ女性CEOの一人だ。

そこに上りつめるまでの物語は、肺高血圧症をめぐる取り組み以上に興味深い。

マーティーンはシカゴのヒスパニック系住民の多い地域で、マーチン少年として生まれ育った。

少なくとも初めのうちは、それほどめざましい成功を収めそうには見えなかった。

まず大学を中退し、その後はバックパッカーとして世界を放浪した。

だがセーシェル諸島で偶然NASAの追跡システムを目にしたことで、とんでもないアイデアを思いついた。

衛星通信で世界を一つにしよう、と。

マーチンはその後のマーティーンと同じように、突っ走るタイプだった。

セーシェル諸島で抱いたビジョンを胸に、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の大学院に進み、法律と経営学で学位を取得した。

そこから宇宙法の専門家になり、次々と宇宙関連の通信会社に携わることになった。

そこには世界初のグローバル衛星ラジオネットワークや、1990年に共同創業者となったシリウスXMが含まれている。

後者は今も衛星ラジオ業界をリードする存在だ。

その間にマーチン青年は結婚し、ジェネシスという名の娘をもうけ、離婚し、再婚し、さらに二人の子供を授かった。

だがその後、自分という存在がまちがった体にとらわれていることに気づいた。

そこで性別適合手術を受け、マーティーンとなった。

これが自身二つめのムーンショットだ。

二人目の妻とは離婚しておらず、今も幸せに暮らしている。

だがそんななか、ジェネシスが発病した。

マーティーンはシリウスの持ち株を売却し、その資金を治療法探しに投じた。

その結果、見つけたのは肺高血圧症のためのみなしご薬〔訳注:患者数が少ないため製薬会社が開発したがらない薬〕だ。

特許を持っていたのはグラクソ・スミスクラインだが、開発は棚上げされていた。

マーティーンは科学者のチームを組織し、「薬」のライセンスを取得することに成功した。

とはいえ実態はそんなたいそうなものではなく、マーティーンらが入手したのは小袋に入った小さじ数杯分の白い粉だった。

ずっと昔にラットの実験で、多少見込みがありそうだと判断された物質だ。

いずれにせよ、こうしてユナイテッド・セラピューティクスが誕生した2。

一流の化学者100人が口をそろえて、この特許が薬になることはあり得ないと言ったにもかかわらず、その3年後、マーティーンの娘が息を引き取ろうとする寸前に、薬は発売された。

現在ジェネシスは30代半ばになり、その命を救った薬はユナイテッド・セラピューティクスに毎年15億ドルの売り上げをもたらしている。

アメリカで暮らす肺高血圧症患者の数は、かつての2000人から今では4万人に増えている3。

人体の部品交換これだけでも、すばらしい話だ。

だがマーティーンの薬は中途半端だった。

症状を抑えることはできたが、完全に治すことはできなかったのだ。

今でも肺高血圧症(ついでに言えば肺線維症、嚢胞性線維症、肺気腫、慢性閉塞性肺疾患も)の治療法は肺移植しかない。

だがアメリカで毎年、移植用に提供される肺は2000個程度だ4。

一方、タバコが原因の肺疾患だけで毎年50万人が命を落としている5。

この厳しい現実から、移植可能な臓器を無尽蔵に供給するという、マーティーンにとって三つめのムーンショットが生まれた。

「車や建物では、当たり前のように行われていることです。

古い部品を新しい部品に交換して、永遠に動かしつづける。

それを人体でも行う方法を見つけたいのです」とマーティーンは説明する。

マーティーンはこの問題に3方向からアプローチした。

まず肺移植という問題の解決に一からとりかかるのはやめ、既存の技術を活用することにした。

現在、死亡する人の肺には有害物質が多く含まれているため、提供された肺の80%以上が廃棄されている6。

そこでマーティーンは体外での肺の寿命を延ばすため「体外肺灌流(循環)」という技法を確立することにした7。

それによってすでに数千人の命が救われたが、そこで満足はしなかった8。

続いて、より重大な問題である提供される臓器の不足を、異種移植によって解決しようと動き出した9。

元気な動物の臓器を採取し、弱っている人間のものと交換するというこの方法は、長年多くの論争を呼んできた。

ただ病気、拒絶反応、動物虐待といった問題があり、ずっと傍流にとどまってきた。

マーティーンはこの可能性を追求することにした。

ブタの臓器は人間のそれに近いので、そこから始めることにした。

まず生物学者のクレイグ・ベンターの率いるヒトゲノム解析に成功したシンセティック・ゲノミクスと手を組み、これまでで最も完全なブタの遺伝子地図を作成した10。

続いてゲノム編集技術のCRISPRを使ってウイルスを発生させる遺伝子をすべて削除し、病気のリスクを排除した「クリーンな」ブタをつくった。

そして目下、人間の体内で臓器の拒絶反応を引き起こす遺伝子を封じ込めるという最大の課題に取り組んでいる。

うまくいけば移植用の臓器の供給はほぼ無限になる。

とはいえ、この方法はブタに多大な犠牲を強いるものだ。

この問題を解決するため、マーティーンは最先端の再生医療技術を使い、動物を一切使わない方法を開発しようとしている。

まずコラーゲンを使い、人工肺のスキャフォールド(足場)の3Dプリンティングにとりかかった11。

そのスキャフォールドを生きた肺に変えるため、幹細胞を使った実験を進めている。

そして最後に、移植を待つ患者の元へ臓器を運ぶのに時間がかかりすぎるケースが多いことから、マーティーンは空飛ぶ電気自動車の開発に取り組むベータ・テクノロジーズを支援した12。

この環境にやさしい車両を使い、できたばかりの臓器を迅速に患者に届ける計画だ。

60歳を迎えたときには、おもしろそうだからという理由でヘリコプターの操縦免許を取った。

そして自分の会社が設計した機体で、電気ヘリコプターの世界最速記録を出した。

こうした状況をすべて踏まえて、マーティーンは2028年ごろには臓器不全は避けられない運命から、解決可能な問題に変わると見ている。

これまでマーティーンが成し遂げてきた七つのムーンショットを考えれば、その言葉には真実味がある。

テック企業が続々参入言うまでもないが、門外漢のマーティーン・ロスブラットの医療産業への挑戦は、エクスポネンシャル・テクノロジーのコンバージェンスに支えられ、後押しされてきた。

CRISPR、ゲノミクス、幹細胞、3Dプリンティング、電気自動車など、挙げていけばキリがない。

ただマーティーンの物語は、この時代に固い決意とテクノロジーがあればどれほどのことができるかを証明するものではあるが、あくまでも事例の一つにすぎない。

これほどの華々しさはないかもしれないが、同じくらいインパクトの大きいものは何千とある。

医療システムは患者以上に病んでいるともいえる。

言葉づかいも的外れだ。

現在医者にかかる目的は、「ヘルス(健康)ケア」というより「シック(病気の)ケア」だ。

先手を打つというより、事後対応になっている。

医者は事が起きてしまってから治療をする。

いわば後衛戦で、非効率で無駄にコストが高く、ときに現実離れしている。

たとえばアメリカでは医者が責任を問われるのを恐れるあまり、患者が必要としない治療に年間2100億ドルも使っている13。

研究開発のほうも似たり寄ったりだ。

開発される5000個の新薬のうち、臨床試験まで進むのはわずか5個、そして実際に承認されるのはたった1個だ14。

医薬品が研究室から患者に届くまで平均12年、開発コストは25億ドルかかり15、アメリカの国民一人あたり医療費が年1万739ドルと世界最高なのはこのためだ16。

このまま何も変わらなければ、2027年には医療費がアメリカGDPの20%を占めるようになるだろう17。

だが実際には多くの変化が起きている。

この話はとにかく広がりがあるので、その気になれば今起きていることだけで何冊も本が書けるほどだ。

話が取り散らからないように、ここでは六つの変化に注目する。

四つはテクノロジーの変化、残る二つはパラダイムの変化だ。

テクノロジーの面では、医療のすべてのステップが様変わりしつつある。

入口である診断についてはセンサー、ネットワーク、AIのコンバージェンスによって大きな変化がある。

中盤ではロボティクスや3Dプリンティングによって医学的処置が本質的に変わりつつある。

そして出口ではAI、ゲノミクス、量子コンピューティングによって医薬品そのものが変化しつつある。

こうしたコンバージェンスの結果、いま二つの大きなパラダイムシフトが進んでいる。

一つめはシックケアからヘルスケアへの変化だ。

遡及的で、事後対応的で、一般的なシステムから、予見的、事前対応的、そして個別化されたシステムへの転換である。

二つめはマネジメント面の変化だ。

20世紀のほとんどを通じて、医療産業は大手製薬会社、政府、そして医師や看護師をはじめさまざまな医療従事者との危うい協力関係によって成り立っていた。

だが今、そこに新たな勢力が侵入している。

大手テクノロジー企業の多くが参戦し、どこも医療の世界に大きな爪痕を残そうとしている。

アップルCEOのティム・クックは(ARの可能性について語ったのと同じ《インディペンデント》紙とのインタビューで)こう語っている18。

「はるか遠い未来に、アップルの人類への最大の貢献は何だったかと考えたとき、その答えは『医療』でしょう」グーグル、アマゾン、フェイスブック、サムスン、バイドゥ、テンセントなども、アップルと競うように医療に進出している19。

これから見ていくように、こうした企業には既存勢力に対して三つの大きな強みがある。

すでに消費者の自宅に入り込んでおり、人工知能に取り組んでおり、しかも消費者データの収集と分析に精通している。

私たちが医療をこうした大手ハイテク企業の手に渡したいかという点についてまだ答えは出ていないが、この三つの強みが病気の早期発見と予後の改善につながるのは確かだ。

それはシックケアからヘルスケアへの確かな一歩である。

モバイルヘルスの時代がくるグーグル、けさの健康状態はどう?2026年1月の寒い水曜日の朝。

あなたは徹底的な監視下にある。

あなた自身はまだベッドで眠っているが、グーグルのホームアシスタントは今日の予定を把握している。

オーラリングのおかげで、あなたの睡眠サイクルがレム睡眠を終え、段階1に入ったことも把握できている20。

起こすのにちょうどいいタイミングだ。

部屋の照明は日の出をシミュレートしながら徐々に明るくなり、光波長は目覚めをすっきりさせ、気分をよくするのに最適化されている。

だが洗面所でひととおりの用事(トイレ、歯磨きなど)を済ませるころには、なにかおかしいと気づく。

関節が痛み、寒気がするようだ。

風邪の引きはじめだろうか。

国立衛生研究所(NIH)は数カ月前に汎用インフルエンザワクチンをリリースしていたが、時間がなくてまだ打っていなかった。

それがまちがいだったかもしれない。

だが悩む必要はない。

「グーグル、今朝の健康状態はどう?」「少しお待ちください」とデジタルアシスタントが答える。

診断をすべて終えるには30秒かかる。

システムが数十個のセンサーの集めてくる何ギガバイトものデータを使っていることを考えれば、かなり優秀だ。

歯ブラシやトイレに埋め込まれたスマートセンサー、寝具や衣服に付いたウエアラブルセンサー、そして身体にインプラントされたセンサー。

これらを総合したモバイル・ヘルスシステムが、あなたの身体を隅々まで調べあげる。

「あなたの微生物叢は完璧です。

血糖値レベル、ビタミンレベルも良好ですが、中核体温とIgEの値が……」「グーグル、わかりやすく説明して」「ウイルスに感染しています」「どういうこと?」「過去48時間のミーティングを調べました。

月曜日に、ジョナの誕生日パーティで感染したようです。

追加の診断をしたいので、よかったら……」どうするかはあなた次第だ。

アルファベットのヘルスケア部門であるベリリー・ライフサイエンスは血糖値から血液化学まであらゆる数値をモニタリングするための体内および体外センサーを開発している。

しかもこうした取り組みを進めているのはアルファベットだけではない。

かつては数百万ドルもした医療機器のうち、すでに非物質化、非収益化、大衆化、非局在化されたもの、つまりポータブルでウエアラブルになったものを挙げていったら、教科書1冊分にはなるだろう。

それによってどのような可能性がひらけるだろうか。

まずインパクトの大きいほうからいくと、エクソ・イメージングはAIを使った安価なハンドヘルドの超音波3D撮像装置を開発した21。

つまりそう遠くない将来、傷が治っていく様子や胎児の成長を自宅にいながらにして追跡できるようになる。

あるいはグーグルXのプロジェクトリーダーだったメアリー・ルー・ジェプセンのスタートアップ企業、オープンウォーターは、赤色レーザー・ホログラフィーを使ったポータブルMRI(磁気共鳴映像法)の開発を目指している22。

成功すれば現在1台数百万ドルするMRIが、一般人向けのウエアラブルな電子機器になり、世界人口の4分の3が新たに画像診断システムを利用できるようになる。

だがもっとシンプルな進歩のほうが、実はもっと革命的なのかもしれない。

20年足らずのうちに、ウエアラブルは万歩計という第1世代のセルフトラッカーから、FDAの承認を受けたリアルタイムの心臓モニタリングが可能なECGスキャナーの付いたアップルの第4世代アップル・ウォッチまで進化を遂げた23。

また1000万ドルの賞金をかけたクアルコム・トリコーダーXプライズの勝者となったファイナル・フロンティア・メディカル・デバイシーズの「DxtER」は、簡単に使える非侵襲的な医療センサー一式と、アプリ経由でアクセスできる診断用AIで構成される24。

DxtERは50以上の一般的な病気を高い精度で発見できる。

ここに挙げたようなさまざまな進歩は、常時オンのヘルス・モニタリングと、安価で簡単な健康診断が当たり前の未来を示している。

この動きは「モバイルヘルス」と呼ばれ、2022年には1020億ドル市場になると予想される25。

ウェブドクターはもう要らない。

モバイルヘルスはオンデマンドで対応してくれるバーチャルドクターを、尻ポケットに入れて持ち歩くという発想だ。

そんな未来は確かに近づいている。

ネットワーク、センサー、コンピューティングのコンバージェンスの波に乗り、AIに支えられた医療用チャットボットはいまや市場にあふれている。

それを使えば発疹から網膜症まで、さまざまな症状を診断できる。

しかも対象は身体の病気だけではない。

チャットボット「ウォーボット」はメンタルヘルスが専門で、フェイスブック・メッセンジャーを使って鬱病患者に認知行動療法を施す26ではこうしたトレンドは、いったいどこへ向かっているのか?それを端的に示す例が、ピーターが共同創業者となったヒューマン・ロンジェビティ社だ27。

年1回、3時間かけて「ヘルス・ニュークレアス」と呼ばれる健康チェックを実施する。

全ゲノムのシークエンシング、身体全体のMRI、心臓と肺のCT、心電図、心エコー図、そしてさまざまな臨床血液検査をすることで、健康状態を網羅的に示す。

これは二つの点で重要な意味を持つ。

一つは病気の早期発見が可能になることだ。

ヒューマン・ロンジェビティは2018年に、最初の1190人のクライアントの検査結果を公表した。

9%にそれまで発見されていなかった冠動脈疾患(世界の死因第1位)が見つかり、2・5%に動脈瘤(世界の死因第2位)が、2%に腫瘍が見つかった。

全体で14・4%にすぐに医学的介入が必要な重大な問題が見つかり、40%に長期観察が必要な症状が見つかった。

もう一つ重要なのは、ヒューマン・ロンジェビティが年1回半日かけて測定・追跡している項目は、まもなくすべてオンデマンドであらゆる人が測定・追跡できるようになることだ。

常時オン、常時監視型のセンサーによって、まもなくスマホがあなたのかかりつけ医になる。

遺伝情報を読み、書き、編集するここ10年、専門家は個別化ゲノミクスを、医療における革命ともてはやしてきた。

ゲノムさえわかれば、「あなた」を最適化する方法もわかる。

あなたのために最適な食べ物、最適な薬、最適なエクササイズメニューを提案できる。

最適な腸内微生物叢、生理学的にあなたにぴったりのサプリメントもわかる。

一番かかりやすい病気は何か、そして何より重要なこととしてそうした病気を予防する方法もわかる。

少なくとも、理論的にはそういうことになっている。

2017年、ボストンのブリガム&ウィメンズ病院のジェイソン・バッシー医学教授は、この説をじっくり検証することにした28。

被験者として集めた100人の患者のうち、半数はDNAスクリーニングを受け、残りの半数は遺伝リスクを調べる標準的方法である、家族の病歴についての質問に答えた。

バッシーはその結果をもとに、情報過多や不安といったゲノム情報のデメリットと、現実的有用性を比較したいと考えた。

個別化ゲノミクスに対しては、医師たちが情報過多になる、患者の不要な不安をあおる、そして医師と患者の双方に高価で不要なフォローアップ検査を強いるといった懸念が指摘されている。

しかしバッシーの調査結果は、そうした懸念を否定するものだった。

学術誌《アナルズ・オブ・インターナル・メディシン》に発表された調査結果によると、こうした懸念を裏づけるデータは一切得られなかった29。

むしろDNAスクリーニングを受けた被験者の20%には、すぐに治療が必要な、命にかかわる珍しい疾患が見つかった。

「ヘルス・ニュークレアス」と非常によく似た結果であり、ここでも命が救われた。

だがそれ以上に重要な結果は、スクリーニングを受けた特定の患者にかかわるものではない。

収集されたゲノム情報全体に意味があった。

遺伝情報のデータセットの規模が大きく、完全であるほど、ゲノミクスの予防効果は高くなる。

2018年にNIHが「オール・オブ・アス(AllofUs)」プロジェクトを立ち上げたのはこのためだ30。

約2700万ドルの助成金を出して100万人分のゲノム・シークエンスデータを集めようとしている。

ハーバード大学の遺伝学者、ジョージ・チャーチもこのほど同じような目的で「ネブラ・ゲノミクス」を立ち上げている31。

チャーチは「ゲノム・プロジェクト・ライト(GPWrite)」にもかかわっている。

これはさらに先の未来を見据えたプロジェクトで、ヒトゲノムを一から書くことを目指している。

成功すれば移植可能な臓器の作成や、安価な医薬品やワクチンの確保に役立つほか、ウイルスや癌との戦いにおいて新たな武器となるはずだ。

CRISPR×従来型遺伝子治療で1万6000の病を治すもう一つのフロンティアが、CRISPRを使ったゲノム編集だ。

まだ初期段階ではあるが、めざましい進歩が起きている。

近年、研究者はマウスの遺伝子を操作してコカイン耐性をつけたり32、イヌを使った実験でデュシェンヌ型筋ジストロフィーの原因遺伝子のスイッチをオフにしたり33、人間の患者用に癌の治療方法をパーソナライズしたりといった試みを進めている34。

虫を使った研究まである。

インペリアルカレッジ・ロンドンの研究者はCRISPRを使い、繁殖能力のない蚊の新種を生み出した。

この新種はマラリア原虫を持つ蚊を生存競争で打ち負かすように設計されている。

一つの種全体にかかわる遺伝子編集による医療革命と言えるだろう。

すでにこれは現実になりつつあり、2018年末にマラリアの蔓延するブルキナファソでフィールド実験が行われた35。

だが最も注目すべきなのは、どこの会社が何をしたとか、どの技術がすぐれているといった話ではない。

3万2000の最も一般的な遺伝性疾患の半数が、たった一つの塩基対の不具合、つまりたった1文字の遺伝情報がまちがっているために生じているという事実だ36。

まもなくこのまちがいは修正できるようになるかもしれない。

まだ実現はしていないが、それほど時間はかからないだろう。

伝統的な遺伝子治療とCRISPRの組み合わせによって、近い将来、私たちは1万6000の疾患を一掃する能力を手に入れることができるだろう37。

聖書ではたった一つの病を癒すことが「奇跡」とされていた。

1万6000の病を治すことは、なんと表現すればいいのだろう?ロボット外科手術の未来火星に医療は存在しない。

病院もなければ医療保険もない。

今はそれでもかまわないが、NASAは2030年代には火星に初の有人探査機を送り込む予定なので、そのときには重要な問題になる38。

火星に降り立った宇宙飛行士たちはネットワークに接続していないだけでなく、世界から隔絶されている。

一番近い緊急治療室にたどり着くのにも、9カ月の時間と重力アシストの助けを借りる必要がある。

宇宙飛行士は外傷を非常に恐れている。

まだ起きたことがない(つまり、このような事態が宇宙で発生したときの経験はゼロ)うえに、火星で起きるのはまずまちがいない。

研究によると、宇宙で深刻な医療問題が発生する確率は、一人あたり年間0・06%だという39。

複数年にわたる惑星間ミッションで、緊急事態を一切起こさないのは難しい。

イーロン・マスクがかつて語ったように「安全を最優先に考えるなら、火星には行かないほうがいい40」。

ピーター・キム博士はこの問題を解決したいと考えている。

ワシントンDCの国立小児科医療センターの外科副部長であるキム医師は、STAR(軟部組織自律型ロボット)研究チームの一員でもある41。

STARはすでに特定の軟部組織縫合手術において、人間の外科医よりもすぐれた結果を出しているロボットだ。

軟部組織の修復は厄介だ。

出血量は多く、きわめて高い正確性が求められる。

医師の習熟度と器用さにはバラツキがあるため、軟部組織の手術の30%以上は合併症を引き起こす。

宇宙でそれが起きたら、命取りになることも多いだろう。

このため他の惑星にコロニーをつくる前に、軟部組織の手術がきちんとできる方法を見つけておくことは必須である。

この点において、STARは希望の星だ。

まず器用さは標準装備されている。

またAIが使われているため、習熟度の問題もない。

現在STARは人間の医師の5~10倍の速度で組織を縫合でき、精度もはるかに高い。

未来のバージョンはさらに高度な力覚フィードバックを備え、軟部組織を見通せるマルチスペクトルカメラが複数搭載される見込みだ。

キムはこのシステムを最初の火星へのミッションに積み込み、万一宇宙で手術が行われたとしても、映画『エイリアン』の1コマのようにならないようにしたいと考えている。

ただ宇宙できわめて重要な役割を果たすとは言っても、STARが最も活躍を期待されているのはこの地球上だ。

アメリカでは毎年約5000万件の外科手術が行われているが42、このうちロボットが執刀しているのは5%に満たない43。

しかしあなたが自分の手術を担当する外科医に聞くべき最も重要な質問は「この手術をこれまで何回執刀しましたか」だ。

それ以上に重要なのは「この手術を今日、何回執刀しましたか」である。

最高の成果を出せるのは、さまざまな状態の患者に対して最も経験を積んだ外科医だ。

だからこそ10年後、あなたが手術室で人間の医師を目にしたら「絶対ダメ。

ロボットがいい」と反射的に叫ぶはずだ。

いまや何十という手術用ロボットが市場に投入されようとしている。

整形外科用の骨を削るロボットはすでに使われており、脊髄手術用のロボットは5種類が

まもなく実用化される。

それ以外にもありとあらゆる用途に向けた専用ロボットが開発途上にある。

そのほとんどがコボット(協働ロボット)、すなわち外科医に置き換わるのではなく、その補佐役になろうとしている。

だが最も有望なのは、STARのような自律型ロボットだ。

定型的処置を現在の数分の一のコストで完璧に遂行する能力を持った手術用ロボットは、手術室に非収益化をもたらす。

起業家だけにお楽しみを独占させまいと、大手テクノロジー企業も手術室に殺到している。

その最たる例がアルファベットとジョンソン・エンド・ジョンソンが設立したバーブ・サージカルだ44。

2020年に安価で従来と比べて大幅に性能の高い手術用ロボットを市場に送り出そうとしているバーブは、「外科手術の大衆化」という大それた目標をさりげなく掲げる。

わかりやすく言えば、国民の医療費負担が大幅に安くなるということだ。

大型の手術用ロボットばかりが注目されがちだが、もっとインパクトが大きいのは小型ロボットの進化かもしれない。

たとえばイスラエルのスタートアップ、バイオノート・ラボだ45。

現在の医療において、患者が抱える問題の大半は本来局所的なものだ。

その一例が肺癌や卵巣癌などの癌だ。

残念ながら局所的な癌の治療は、化学療法のように体全体に対して行われることが多い。

そうした治療法は不正確かつ非効率的で、副作用を引き起こすことが多い。

だからこそ薬の開発には莫大な費用がかかり、候補薬の90%は実験室段階でボツになる46。

しかしバイオノートは細胞組織の間をすばやく移動する(毎秒60センチ程度)、極小サイズのロボットを開発した。

かぎりなく非侵襲的で、動作はきわめて正確だ。

弱い磁場によって遠隔操作が可能で、さまざまな荷物を運び、操作者の指示どおりに必要なときに必要な場所に置いてくる。

本格的な実用化はまだ数年先だが、病気の診断、的を絞った薬の投与、体をほとんど傷つけない手術などに使われる見込みだ。

AI×3Dプリンティング×ロボットの医療がくる手術室で使われるマクロボットと体内で動くマイクロボットが手術のあり方を大きく変えるのはまちがいない。

ただ、このコンバージェンスの進む世界において、孤立したまま進化するものはない。

AIはすでに手術ロボットの世界にも入り込んでいる。

集中治療室になだれ込んでくる大量のシグナルを分析したり、自律型ロボットが患者に対処するのを支援したり、「ダ・ヴィンチ」のようなロボットを通して外科医の手の震えを抑えたりする47。

だが入り込んでいるのはAIだけでもない。

3Dプリンティングも手術室に進出している。

それもかなり前からだ。

『楽観主義者の未来予測』では、3Dプリンティングが義肢の製造、次いで臓器の印刷に使われるようになり、さらには生体工学の世界にも入り込みはじめたことを指摘した。

今では少しネットを検索するだけで、何の知識もない素人がオフィス用品店で購入した材料を使って、すばらしく機能的な義肢をつくってしまう動画がいくつも出てくる48。

一方、知識のあるプロは、臓器、耳、心シャント(血流路)、脊髄、頭蓋板、股関節、そして必要に応じてカスタマイズされた手術道具などをつくっている。

さらに3Dプリンティングによってエレクトロニクス材料を印刷できるようになったことから、身体の部位も人工的につくれるようになっている。

2018年にはミネソタ大学のチームが、光を形に転換できる球体の半導体材料を印刷することに成功した49。

究極の移植用臓器、人工眼を作成するための最大の障害を克服したのである。

細胞医療幹細胞の発見を受けて、細胞医療という概念が最初に登場したのは1990年代のことだ50。

斬新ではあったが、幹細胞を使って病気を退治するというシンプルな発想だ。

以降ここには幹細胞だけでなく、さまざまな種類の細胞が含まれるようになったが、治療法は変わらない。

患者に適度な量の生細胞を注入すれば、さまざまな機能を発揮する。

新たに髪を生やしたり、組織を若返らせたり、癌細胞を退治したり、心臓障害を修復したり、自己免疫疾患を抑制したり、筋肉量を増やしたりすることまでできる。

第4章にも登場した神経外科医で起業家のロバート・ハリリは51、2000年にヒト胎盤には幹細胞が豊富に含まれることを発見し、細胞医療分野のパイオニアとなった52。

ハリリの発見によって、この治療法の選択肢は無限に広がった。

起業した会社が大手製薬会社セルジーンに買収されると、ハリリは100人を超える科学者と技術者のチームを率いて、プラセンタ幹細胞を使った医薬品の開発に取り組んできた。

その過程で、チームはさらに二つの重要な発見をした。

一つは歳をとると幹細胞の供給が急速に減少することだ。

「幹細胞の枯渇」と呼ばれるプロセスだ(次章でさらに詳しく述べる)。

二つめはプラセンタには幹細胞だけでなく、免疫細胞も含まれることだ。

ナチュラルキラー細胞やT細胞などで、どちらも癌に対する自然免疫において重要な役割を果たす。

ただ、それも危険な細胞を発見できればという条件付きだ。

免疫システムは通常、癌細胞を成長の初期段階で破壊する。

だが年齢を重ねるにつれて、癌細胞は蓄積される。

見逃されるものも出てきて、そうなると危険だ。

この危険性に対処するため、CAR‐T細胞療法(キメラ抗原受容体T細胞療法の略)という新たな治療法が開発された53。

患者の白血球を採取し、そのCAR‐T細胞を分離して、癌細胞を見つけて殺すように遺伝子を操作するのだ。

それを再び患者に注入すれば、実質的に癌細胞を標的とする熱追尾式ミサイルのような働きをする。

残念ながら、CAR‐T細胞療法は安くない。

2017年にCAR‐T細胞療法が最初に登場したとき、患者一人あたりの費用は50万ドル近かった54。

一人ひとりのT細胞を個別に改変する必要があり、どうやって量産化するかが問題だった。

2018年にセルジーンは、ハリリをトップとして細胞医療部門を独立させた。

新会社セルラリティはプラセンタ由来の免疫細胞を使って、万人向けのCAR‐T細胞を生み出した55。

オーダーメイド治療ではなく、CAR‐T細胞を大量に、そして迅速に製造することで、現在は診断から数週間かかっている治療開始までのリードタイムを数時間に縮められる。

セルラリティの科学者らは、プラセンタのナチュラルキラー細胞(pNK細胞)の遺伝子を組み換え、腫瘍を狙い撃ちする能力の高いCAR‐NK細胞に改変する方法も開発した。

しかもプラセンタ由来のCAR‐T細胞と同じように、プラセンタ由来のCAR‐NK細胞も万人向けの治療薬につくり変えることができる。

それによってこの癌治療は、一般大衆にも使えるものになる。

これが最も重要なポイントだ。

癌は世界の死因の第2位だが、プラセンタは豊富にある。

毎年1億人以上の新生児が生まれているが、そのプラセンタの99%は現在廃棄されている。

それを廃棄せずに活用することで、このような治療薬を安価かつ大量に製造できるようになる。

新薬開発の未来従来、新薬の開発を目指す製薬会社には二つの選択肢があった56。

膨大な医学文献を調べて候補となる物質を探すか、秘境に足を運んで自然界に存在する候補(癌に効く成分を含む珍しい樹皮など)を探すかだ。

どちらも確実な方法ではなく、何年もかかるうえに、それでようやくスタートラインに立てる。

候補が見つかったら、その分析や合成などにさらに何年もかかる。

それからようやくまず動物で実験し、続いて小規模の臨床試験、さらに大規模な臨床試験を実施する。

要するに創薬は長い時間のかかる戦争なのだ。

まさに戦争という言葉がぴったりなのは、死者の数が膨大だからだ。

薬剤候補の90%が失敗に終わる。

成功したひと握りの候補が市場に投入されるまでには平均10年かかり、費用は25億ドルから120億ドルかかる57。

だがコンピュータ科学者から生物物理学者に転じたアレックス・ジャボロンコフが近道を発見したようだ58。

2012年ごろ、ジャボロンコフは人工知能の画像、音声、文字認識能力が急速に高まっていることに気づいた。

この三つのタスクには、重要な共通点があることも知っていた。

いずれも膨大なデータセットが入手可能なので、AIを訓練するのが容易なのだ。

薬理学にも同じようなデータセットは存在していた。

そこでジャボロンコフは2014年、そのデータセットとAIを使って、創薬プロセスを大幅にスピードアップできないかと考えはじめた59。

人工知能の世界に「敵対的生成ネットワーク(GAN)」と呼ばれる新たな技術が登場したことは耳に挟んでいた。

二つのニューラルネットワークを競わせる(「敵対的」)ことで、ごくわずかな命令を与えるだけで新しい結果を生み出すことができる(「生成」)。

研究者はすでにGANを使って新しいモノや世界に

二つとない人間の顔をデザインしていたが、ジャボロンコフはこれを創薬に応用したいと考えた。

GANを使い、研究者が薬の属性を口頭で説明する。

「この化合物は濃度Yでタンパク質Xを阻害し、人間への副作用は極小である」と。

あとはAIが分子を一からつくってくれるはずだ。

このアイデアを現実に変えるため、ジャボロンコフはメリーランド州ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学のキャンパス内でインシリコ・メディシンを立ち上げ、仕事にとりかかった。

「ぼくのイメージどおりに研究者とやりとりができるシステムを開発するのに、3年間本当に苦労した。

でもなんとか成功し、創薬プロセスを改革することができた」とジャボロンコフはふりかえる。

秘境を訪ね歩く代わりに、インシリコの「創薬エンジン」は何百万というデータサンプルを調べ、特定の疾患特有の生物学的特徴を確かめる。

それから最も有望な治療標的を見きわめ、GANを使ってそれに最適な分子(薬の赤ちゃん)を生成する。

「その結果、ものすごい数の薬剤標的(体内で新薬が結びつく場所)の候補が見つかり、実験プロセスもはるかに効率化しました。

AIを使うことで、通常の製薬会社で5000人の人手がかかる作業が50人でできるのです」とジャボロンコフは語る。

この結果、かつては10年かかっていた戦争が、1カ月で終わる小競り合い程度になった。

たとえば2018年末の段階で、インシリコは46日もかからずに新規分子を生成していた60。

ここには物質の発見だけでなく、薬の合成からコンピュータを使った有効性確認のシミュレーションまで含まれている。

現在インシリコはこのシステムを使って、癌、老化、線維症、パーキンソン病、アルツハイマー病、ALS、糖尿病をはじめ多くの疾患のための新たな薬を探している。

このプロセスから誕生する新薬の第1号は抜け毛治療薬で、2020年末までに臨床試験の第Ⅰ相に入ろうとしている。

AIを使って臨床試験前にその成果を予測する試みも今、初期段階にある。

それが成功すれば、従来の試験プロセスにかかっていた相当な時間と費用を削減できるだろう。

他の科学者も新規物質の開発以外に、同じく創薬プロセスの重要な要素である薬剤標的の特定にAIを活用している。

1980年から2006年までのあいだ、毎年300億ドルの投資に対し、研究者が発見できた薬剤標的はわずか五つにとどまってきた61。

問題は複雑性だ。

薬剤標的の候補のほとんどはタンパク質で、その働きを決定づけるのは構造だ(平面的な鎖状につながったアミノ酸が立体的なタンパク質に折りたたまれる)。

しかしたった100個のアミノ酸でできた(比較的小型の)タンパク質でも、その取りうる構造は1グーゴルの3乗(1の後に0が300個続く)ある。

このためタンパク質のフォールディング(折りたたみ)は長らく、とびきり大型のスーパーコンピュータ向けのとびきり難しい問題と考えられてきた。

1994年に、スーパーコンピュータによるタンパク質フォールディング解析の進捗をモニタリングしようと、年2回のコンテストが始まった62。

2018年までは成功率はきわめて低かった。

だがこの年、AI企業のディープマインドが、この問題の解決にニューラルネットワークを使いはじめた。

新たに開発したのは、膨大なデータセットをもとに、最も可能性の高いタンパク質の塩基対の距離とその化学結合の角度、すなわちタンパク質フォールディングの基本要素を判定するAIだ。

それは「アルファフォールド」と命名された63。

アルファフォールドが参加した最初のコンテストでは、課題としてタンパク質フォールディングの問題が43個出題された。

アルファフォールドはこのうち25個を正解した。

第2位のチームはわずか三つだった。

アルファフォールドの進歩とインシリコのGAN、さらに同じように創薬への活用が見込まれている量子コンピューティングのブレークスルーが重なれば、個人別にカスタマイズされた医薬品がSF世界の話から医療現場の日常に変わるのも、そう遠い先のことではないかもしれない。

だが驚くのはまだ早い。

本章で述べてきた話だけでも劇的な変化に思えるが、隣接する寿命延長という分野で起きているさまざまなブレークスルーについては、まだ一つも触れていないのだから。

第10章寿命延長の未来「老化」は克服できる本書ではすでに人間の健康寿命を延ばすことが、世界の変化のスピードに大きなインパクトを与えることを見てきた。

理由はきわめて単純だ。

寿命が延びれば、私たちの生産性が最も高い時期がより長く続き、より多くのイノベーションが生まれる。

ただそれがどのように実現するかは、まだ詳しく説明していなかった。

そこで関連する医療分野について理解したところで、今度はこの寿命延長という問題に目を向けたい。

コンバージェンスの力が、テクノロジーと死神との競争のルールをどのように書き換えているか見ていこう。

まず死、すなわち老化と呼ばれる人生時計から始めよう。

寿命延長の研究者で、NIHディレクターを務めるフランシス・コリンズはこう説明する1。

「老化とは単にシステムが動かなくなって停止する、という話ではありません。

老化はプログラム化されたプロセスです。

特定の種の生存期間が永遠には続かないほうが、進化にとっては好都合なのでしょう。

若い世代にリソースを使わせるには、老いた世代が道を開ける必要がありますから」老いた世代に道を開けさせるため、進化は安全装置を用意した。

計画的退化、すなわち老化である。

この計画はかなり念の入ったものだ。

科学者は現在、私たちが衰える「原因」は主に九つあると考えている。

いわば人体の黙示録の9人の騎士だ2。

本章では老化を克服するために使われているさまざまなアプローチを見ていく。

ただその前にこの9人の騎士と対面し、「私たちの命を奪うのは具体的に何なのか」という基本的な問いの答えを理解する必要がある。

1、ゲノムの不安定性:DNAは必ずしも計画通りに複製されるとは限らない。

通常、遺伝子発現のエラーは発見、修復されるが、100%ではない。

失敗作が徐々に蓄積し、身体を衰えさせていく。

つまり遺伝子の不安定性が遺伝子損傷につながり、ひいては生存期間を制約するのだ。

故障したコピー機を思い浮かべるといい。

読めないコピーが出てくる代わりに、故障した遺伝子コピー機から出てくるのは癌、筋ジストロフィー、ALSといった疾病だ。

2、テロメアの短縮:細胞の内部でDNAは染色体と呼ばれる糸状の構造になっている。

染色体の両端にあるのがテロメアで、特徴的なDNA配列が何千回と繰り返された短い切れ端のようなものだ。

テロメアは車のバンパーのように、染色体の中心部を保護する役割を担う。

だがDNAが複製されるにつれて、テロメアは短くなっていく。

ある限界を超えて短くなると、細胞分裂は止まり、私たちは急激に病気にかかりやすくなる。

3、後成的変化:自然は健康に影響を与える。

私たちが生きているあいだに、環境要因によって遺伝子発現のあり方が変わることもあり、それが身体に悪影響を及ぼすこともある。

たとえば環境中の発癌物質に暴露されることで、腫瘍を抑える遺伝子が機能しなくなるといったことだ。

このような細胞が無秩序に増えると癌が発生する。

4、タンパク質恒常性の喪失:細胞の中で采配を振るうのはタンパク質だ。

材料を運び、シグナルを送り、プロセスのスイッチの切り替え、さらには構造的サポートもする。

ただ徐々にタンパク質の働きは悪くなっていくので、身体はそれをリサイクルする。

残念ながら老化にともない、この能力が失われることもある。

ゴミ収集業者がストライキに入ると、有害なタンパク質が蓄積され、アルツハイマー病などの病気を引き起こすこともある。

5、栄養素を認識できなくなる:身体が健康を維持するためには、40種類以上の異なる栄養素が必要だ。

身体の機能がすべて完璧に機能するためには、細胞がそれぞれの栄養素を認識し、処理できなければならない。

だが老化にともなって、この能力が故障することもある。

たとえば歳をとって太る人が多いのは、細胞が脂肪をうまく消化できなくなるためだ。

これがインシュリンとインシュリン様成長因子1(IGF‐1)の経路に影響を及ぼすと、糖尿病を発症し、死にいたることもある。

6、ミトコンドリア機能障害:ミトコンドリアは体内の発電所のようなものだ。

酸素と食べ物をエネルギーに変え、細胞に基本的な燃料を供給する。

だが時間とともにその働きは衰える。

その結果、DNAやタンパク質を破壊する有害な酸素分子であるフリーラジカルが発生する。

それが老化にかかわる慢性疾患の多くを引き起こす。

7、細胞の老化:細胞はストレスにさらされると「老化」することがある。

細胞分裂の能力を失うと同時に、死ななくなるのだ。

この「ゾンビ細胞」は身体から排除されない。

徐々に蓄積され、周囲の細胞に悪影響を及ぼし、最終的に炎症性衰弱を引き起こす。

8、幹細胞の枯渇:老化とともに、幹細胞の供給は激減する。

ときには1万分の1に減少することもある。

さらにまずいことに、残った幹細胞の働きも一気に悪くなる。

この結果、体内の組織や臓器の修復システムが機能しなくなる。

9、細胞間コミュニケーションの劣化:身体が正常に機能するためには、細胞同士がコミュニケーションをとる必要がある。

これは血流、免疫系、内分泌系でメッセージを流すことで常に行われている。

だが次第にシグナルが伝わらなくなる。

反応しなくなる細胞もあれば、炎症を引き起こすゾンビ細胞になるものもある。

炎症はコミュニケーションを阻害する。

こうなるとメッセージが伝わらなくなり、免疫系は病原体を発見できなくなる。

私たちの命を奪う原因がわかったところで、ここからは命を救ってくれる可能性があるものを見ていこう。

寿命脱出速度ノーベル賞を狙っている人は、虫を研究しよう。

しかもでたらめな虫ではない。

線虫、それもシノラブダイティス・エレガンスを研究しよう。

ファンのあいだではCエレガンスと呼ばれている3。

「ファン」は相当な数にのぼる。

すでに6人の科学者がCエレガンスの研究でノーベル賞を受賞している。

この結果、Cエレガンスは遺伝子シークエンスが特定され、全ゲノムのスクリーニングが行われ4、さらにはコネクトームと呼ばれる脳の神経回路マップが作成された初の生物となった5。

ただこの輝かしい実績にもかかわらず、Cエレガンスの生物界における最大の貢献はこれからだと見る者が多い。

というのも生物として初めて、死に立ち向かい、しかも勝利を収めようとしているからだ。

ペトリ皿ではCエレガンスは20日ほど生きる。

2014年、バック老化研究所で活動するNIHの研究チームが、この日数の延長に挑むことにした6。

それまでの研究で、効果がある方法が二つ見つかっていた。

「rsks‐1」という遺伝子の機能を停止させると、寿命は6日延びる。

一方、「daf‐2」という遺伝子を停止させると、20日延びる。

では、両方の遺伝子を同時に停止させたらどうなるか?研究チームはそれを確かめることにした。

「(研究者らは)こうした情報を踏まえて、二つの変異を組み合わせれば、寿命は45日程度に延ばせると考えた」と、このプロジェクトに資金を提供したNIH

のディレクター、フランシス・コリンズは書いている7。

「だが驚くべきことに、実際にこのような線虫をつくったところ、100日後にもまだ生存し、動き回っている個体がいた。

実に寿命が5倍延びたことになる。

人間で言えば400歳に相当する」同じプロセスを人間の寿命に当てはめる。

それこそが寿命延長研究の主眼だ。

言うまでもなく、重要な役割を果たすのは遺伝学だ。

Cエレガンスに関する過去の研究に基づき、他の研究者はこれまでに老衰を引き起こす遺伝子をさらに50以上特定している8。

とりわけ特に重要な遺伝子が五つあり、そのうちどれを除去しても生存期間は20%延びる。

とはいえ重要なのは遺伝学だけではない。

前章でみたマーティーン・ロスブラットが進める人間用の交換部品を無尽蔵に供給するという試みも、寿命延長の重要な要素だ。

ロボティクスによる外科手術の大衆化、AIと量子コンピュータを使った創薬研究も然りだ。

重要なのは個別の技術ではなく、こうしたさまざまなアプローチを融合したときの威力だ。

それは私たちをまったく新しい方向へ導いている。

古い方向とは人生30年時代で、それは旧石器時代から産業革命が始まるまで続いた。

20世紀に入ると抗生物質の登場、公衆衛生の改善や清潔な水の普及などの恩恵によって、1950年には平均寿命は48歳に、2014年には72歳まで延びた9。

だが今日、レイ・カーツワイル10と老化学者のオーブリー・デグレイ11は「寿命脱出速度(LEV)」を話題にするようになった。

まもなく科学によって、私たちが1年生きるあいだに寿命が1年延びるようになるという考えだ。

要するにこの一線を超えると、私たちは常に追いすがる死の一歩先にいつづけることができるわけだ。

カーツワイルは私たちがこの一線を超えるのはおよそ12年先だと考えている。

一方デグレイは30年先だという。

二人を信じるべき理由はあるだろうか。

あの世には何も持っていけない、というのは人生の動かしがたい事実だ。

どれだけお金を持っていても、死んでしまっては使えない。

そうだとすれば富裕層は健康寿命をあと10年、20年、30年延ばすのに、いくら払うだろうか?いくらでも、というのがその答えだ。

アンチエイジング(抗老化)テクノロジーに投資される金額が増えている一因はここにある。

最もわかりやすい例が、グーグルのカリコ(CaliforniaLifeCompanyの略)だ。

富裕層の寿命を延ばすというだけではそれほど有意義な目標に思えないかもしれないが、それ以上に重要なのは、これまで見てきた加速するテクノロジーがすべてそうであったように、その恩恵が非収益化され、大衆化されるのにそれほど時間はかからないという事実だ。

いずれ誰もがさまざまな抗老化テクノロジーの恩恵を享受できるようになり、もしかするとあなたが生きているあいだに、そしてあなたの子供の時代にはまちがいなく、寿命を数十年延ばせるようになる。

では最も有望と思われるテクノロジーをいくつか見ていこう。

ベゾスやティールも出資するアンチエイジング薬学イースター島は辺鄙で不思議な島だ12。

奇妙な言い伝えと石像「モアイ像」があり、モアイ像自体にも奇妙な言い伝えがある。

長老たちは呪文によって眠っているモアイ像を覚醒させ、巨人の軍勢として動かすことができるという。

あるいはモアイ像自体に人間の生命力をコントロールする力があるという説もある。

生命力を奪って早死にさせたり、逆に選ばれた少数の者には若さと力強さを与えたりする、と。

1960年代半ば、ある研究チームがこの「若さと力強さ」の部分は単なる言い伝えではないことを突き止めた。

事の発端は、イースター島に住む小さなコミュニティが、こんな暮らしはもううんざりだと言い出したことだった。

いつまでもちっぽけな孤立した存在ではいたくない。

空港をつくろうじゃないかと住民たちは考えた。

ぎょっとしたのは科学者たちだ。

世界で最も手つかずの生態系が残った地域が汚されてしまう。

そこで緊急避難措置として国際チームがイースター島に向かい、植物相と動物相、微生物のサンプルをかき集めた。

そこにはこの物語の主役となる、モアイ像の下から掘り起こされた土が含まれていた。

土はカナダの微生物学者スレン・セーガルの手に渡った。

土壌に魔法の力、具体的には抗菌作用があることを突き止めたのはセーガルだ。

そしてこの土から抽出された物質を、イースター島の現地での呼称「ラパ・ヌイ」にちなみ、「ラパマイシン」と名づけた13。

可能性を秘めた物質ではあったが、ここで研究資金が尽き、ラパマイシンはセーガルが再び十分な研究資金を確保する1970年代末まで放置された。

土がさらなる魔法の力を秘めていることにセーガルが気づいたのはこのときだ。

ラパマイシンには抗菌性だけでなく、免疫抑制機能があり、臓器移植手術で役に立つ可能性があった。

こうして新たな産業が生まれた。

ラパマイシンは今では心臓手術用ステントに塗布したり14、患者が移植された腎臓に拒絶反応を起こすのを防いだりするなど15、さまざまな用途に使われるようになった。

しかも研究者らはこの魔法の土について、さらに驚くべき発見をした。

ラパマイシンには癌の成長を抑える働きがあった16。

ラパマイシンは細胞分裂を促進するタンパク質をブロックする。

これを蠕虫、ハエ、酵母菌に試したところ、癌を防げるだけでなく、寿命も延びた。

となると次の疑問が湧いてくる。

この魔法は哺乳類にも効くのか?2009年、NIHの科学者たちがその答えを示した。

ラパマイシンはマウスの寿命を16%も延ばしたのだ17。

2014年にはこうした研究成果を踏まえて、ノバルティスが人間を使った試験の実施を決めた18。

大手製薬会社がアンチエイジング薬の正式な臨床試験を実施する初の事例だった。

ただイースター島の土には本当に魔法の力があることがようやく明らかになったころには、すでに他のアンチエイジング物質の探索も進んでいた。

探索の結果、見つかった物質の一つがメトホルミンだ19。

世界で最も使われている糖尿病の治療薬で、体内への糖の放出を抑え、インシュリンの分泌を調整する。

だがそれだけではない。

メトホルミンは細胞の「燃焼率」をゆるやかにすることで、酸化ストレスを抑え、癌と闘い、さらには蠕虫、マウス、ラットの生存期間を大幅に延ばすことが最近明らかになってきた。

人間でも同じだろうか?その答えはまだ出ていないが、研究者は解明に取り組んでいる。

ラパマイシンとメトホルミンが老化の影響を緩和しようとするのに対し、他の科学者は人生時計そのものを逆転させるような物質を探している。

こうした薬は「セノリティック(老化細胞抑制)療法」と呼ばれ、老化の一因とされる炎症を引き起こすゾンビ細胞を破壊する。

現在5~6社が開発に取り組んでおり、ゾンビ細胞を退治し、虚弱体質や骨粗鬆症から心臓疾患、神経障害にいたるまでさまざまな症状を遅らせたり緩和したりする薬が新たに1ダースほど生まれている。

ジェフ・ベゾス、故ポール・アレン、ピーター・ティールらが出資するユニティ・バイオテクノロジーは最も興味をそそる会社の一つだ20。

同社は老化細胞を識別し、排除する方法を開発した。

少なくともマウスでは、という条件付きだが、効果は確かだ。

中年期以降、定期的に治療を施したところ、生存期間は35%延び、さらにこの間マウスの健康状態は改善した21。

元気がないといった軽微な症状から、白内障や腎機能障害といったものまで一般的な老化の兆候は、完全に回避されるか、開始を大幅に遅らせることができた。

ユニティはありとあらゆる加齢性疾患に対して1ダース近い治療薬を開発しており、そのうちいくつかは臨床試験の第Ⅰ相を完了し、さらに先に進んでいる。

アンチエイジング分野で目が離せない会社であるのはまちがいない。

そして最後に登場するのが、寿命延長分野で最も注目されているサミュームドだ22。

時価評価が120億ドルに達する同社はサンディエゴを拠点とするバイオテック企業で、Wntシグナリング経路に特化した研究を進めている23。

名前からも明らかなように、身体がメッセージを送る方法の一つだ24。

この経路を流れるのは、胎児の成長をつかさどると同時に、老化においても重要な役割を果たす遺伝子群にかかわるメッセージだ。

Wntシグナリングの不具合は、癌を含む20もの疾患に直結する25。

この経路が長年、あらゆる大手医薬品会社の標的となってきたのはこのためだ。

そしてサミュームドは答えを見つけたかもしれない。

同社はWntシグナリング経路のなかでも成体幹細胞の行動をつかさどるものに集中してきた。

この方法によって、いわゆる「再生医療」のための医薬品を九つ開発してきた26。

抜け毛からアルツハイマー病治療薬まで、そのすべてが現在FDAの承認プロセスの対象となっている。

だが注目を集める最大の理由は、関節炎と癌の治療における成果だ。

まず世界で3億5000万人を悩ます関節炎から見ていこう27。

関節炎に対しては、まだ治療法がない。

だが2017年、サミュームドは変形性膝関節症に関する小規模な調査結果を発表した28。

検査に参加した61人の患者は全員、Wntリバランス薬を膝に直接1回注射した。

すると全員の症状が改善した。

研究チームが6カ月後に薬の効果を測定したところ、膝の状態が大幅に改善し(痛みの減少、可動域の拡大)、しかも新しい軟骨が平均2ミリ成長していた。

「分子は(患部に)約6カ月とどまり、幹細胞を刺激し、新たな軟骨を成長させる。

しかもこの新たな軟骨は、ティーンエイジャーのものと変わらない。

重要なのは、この前駆幹細胞は80歳になっても体内に存在するということだ。

そこに適切なシグナルを送りさえすればいい」と、サミュームドCEOのオスマン・キバーは説明

する29。

これはほんの始まりにすぎないかもしれない。

「椎間板を損傷したラットの脊柱に同じ分子を注射したところ、まったく新しい椎間板が再生します。

細胞の質を調べてみると、椎間板は以前より若く、強くなっています」とキバーは語る。

ただこれを人間にも応用するというのは、また違う話だ。

マウスから人間への飛躍に成功する薬はきわめて少ない。

しかしサミュームドが開発した、肩と上腕部を結ぶ回旋腱板とアキレス腱を修復するための分子は30、すでに第Ⅰ相臨床試験を完了し、膝関節炎の薬はすでに第Ⅲ相に入ろうとしている31。

やるべきことはまだ多いが、成功すれば、私たちの身体が元気に動ける期間は数十年延びる。

サミュームドの事業のなかでも最も興味深いのは、おそらく癌の研究だろう。

癌は基本的に幹細胞の錯乱だ。

サミュームドの薬は、この錯乱を引き起こすシグナル経路を封鎖するため、あらゆるタイプの癌が標的になる。

こうした薬のほとんどは、まだ安全性と有効性を確認するための非臨床試験や、臨床試験の第Ⅰ相の段階にある。

ただ例外的使用に関する法律に従って終末期の患者への投与が行われ、めざましい結果が出ている。

ある小規模な試験では、低用量の薬剤を3回投与したところ、被験者の80%で腫瘍の成長が止まった32。

膵臓癌患者に対する別の試験では、同じ物質を使ったより長期間にわたる治療計画によって、致死率の高いこの癌を抑えることに成功した。

キバーはある女性患者の経過について、こう説明する。

「あらゆる治療が効かず、患者の体重は30キロ近くに減りました。

あとは死を待つばかりとなり、担当医は自宅に戻しました。

しかしわれわれの薬を服用しはじめて1年経った今、患者は正常な状態に回復したのです。

体重は54キロまで戻り、旅行やデートを楽しむなど、ふつうの生活を楽しんでいます。

もちろんこの薬の開発はまだ初期段階ですが、控えめに言っても幸先はよいと思います」カギは「血液」2000年代初頭、若さの泉を探していたスタンフォード大学の研究グループは、意外なところにたどり着いた33。

ドラキュラ伝説である。

若者の血に若返り効果があるという説の起源は古代ギリシャ時代にさかのぼり、ローマ時代にはオウィディウスの詩に描かれ、その後ゴシック芸術で吸血鬼の物語として復活した34。

スタンフォード大学のグループは、マウスを使ってこの説を検証することにした。

並体結合と呼ばれる、昔ながらのまがまがしい血液交換の手法を近代化し、若齢マウスの循環系を老齢マウスのそれと結合させたうえで、前者の血液を後者の体内に送り込んだ。

結果は一目瞭然だった。

若い血によって、老いたマウスは生気を取り戻した。

さらに詳しく調べてみると、効果は見た目だけではなかった。

老齢マウスのさまざまな組織や臓器は、はるかに若く健康なマウスのそれと同じ特徴を示すようになっていた。

その後の研究でもこの結果が追認され、またその逆も真であることがわかった。

若齢マウスに老齢マウスの血液を送り込んだところ、人生時計が一気に早送りされ、衰えや老化が加速したのだ。

この研究は大きな関心を集めた。

それから10年も経たないうちに、多くの研究者がこの若返りが起こる原因の解明に取り組みはじめた。

ハーバード大学のチームは、若い血液が脳内で新たなニューロンの形成をうながし35、老化にともなう心臓壁の肥厚を逆転させることを明らかにした36。

そしてついに根本原因として、「成長分化因子11(GDF11)」と呼ばれる特定の分子が、こうしたさまざまな恩恵(少なくともその一部)をもたらしていることを突き止めた。

2014年には別の研究チームが学術誌《セル》に論文を発表し、GDF11をマウスに注射するだけで、強靱さ、記憶力、脳への血流が改善することを示した37。

その後の研究によって、老化に伴う心臓疾患の抑制、筋肉修復の加速、運動能力の改善、脳機能の強化など、恩恵はさらに広範に及ぶことが明らかになった。

こうした研究成果は、起業家の関心を刺激している。

たとえばハーバード大学からスピンアウトし、起業家のマーク・アレン博士と同大の再生生物学部の教授4人が参画するエレビアンは38、GDF11をはじめとする老化抑制物質を使った寿命延長研究を進めている39。

一方、スタンフォード大学からスピンアウトしたアルカヘストは、アルツハイマー病の治療に最適な血漿を探している40。

《ワイアード》誌はこうした試みを「干し草の山のなかで針1本を探すようなもの」と評した41。

血漿には1万種類以上のタンパク質が含まれているからだ。

だが実際には、干し草というより黄金の山のなかで針を探しているというほうが近い。

若返り効果をもたらすタンパク質を探す試みは、生物学界にゴールドラッシュを引き起こしているからだ。

大手製薬会社は言うに及ばず、スタートアップ企業も健闘している。

2017年には国立老化研究所がこの分野に関心のある科学者向けに、235万ドルの研究費を確保した42。

こうして21世紀の今、空飛ぶ車や殺人ロボットだけでなく、ドラキュラまでが突如としてリアルな存在になろうとしている。

人間は数千年にわたって若さの泉を探し求めてきた。

だがこうしたさまざまな研究成果からわかるのは、それは場所ではなく時間の問題だったということだ。

若さの泉とは歴史上の特定の時期、すなわち限りある命というテーマのもとにさまざまなテクノロジーがコンバージェンスしたタイミングにほかならない。

「永遠の命は手に入るか」という問いの答えはまだ出ていない。

だが100歳の人を再び60歳に戻すこと、すなわち人間の生存期間を大幅に延ばすことは、すでに「できるかどうか」から「いつできるか」の問題に移った。

第11章保険・金融・不動産の未来未来社会を俯瞰するここまで社会のなかでも日常生活に最も大きな影響を及ぼす分野に注目しながら、未来を見通してきた。

移動手段、医療、長寿、小売り、広告、エンターテインメント、そして教育だ。

一方、第3部では一気に視点を広げて、エネルギー、環境、政府という広がりのあるテーマを見ていく。

ではその中間はどうなるのだろう。

つまり、ここまで見てきたところ以外の未来はどうなるのか?それが過去とは違ったものになるのは確実だ。

テクノロジーの加速が影響を及ぼさない分野は一つもなさそうだ。

建築、芸術から航空、会計まで何十という産業がまもなく一変するだろう。

だが第2部の最後の2章では、四つの個別分野に目を向ける。

保険、金融、不動産、食料だ。

この四つを選んだ理由はいくつもある。

まずこのうち三つ(金融、保険、不動産)はアメリカの主要10産業に含まれる。

すでに第2部で見てきた分野と合わせると、この三つの産業を見ればアメリカの主要産業を網羅したことになる(政府と安全保障については第3部で取りあげる)。

本章でこの三つとじっくり向き合い、第2部の締めくくりとなる次章では、きわめて重要であり、とんでもなく加速している食料の未来に目を向ける。

このように本章で見ていく産業は、まったく新しい未来を創り出すレースの先頭集団といえる。

それでは早速とりかかろう。

コーヒー、リスク、保険の起源1680年、エドワード・ロイドはロンドンにやってきた1。

チャンスを探していた32歳の若者の目に留まったのはコーヒーだ。

コーヒーはまだ目新しく、ロンドンではコーヒーハウスが爆発的に増えてきた。

市内には3000店舗以上がひしめいていた。

新たに参入するには、すでに競争が激しすぎるだろうか?ロイドはそうは思わず、1686年にタワーストリートでロイズ・コーヒーハウスを開業した。

当時ロンドン経済を動かしていたのは、海運業と金融業だ。

ロイズはロンドン塔とテムズストリートのあいだの狭い地区にあり、二つの産業の中心に位置していた。

この好立地もあり、開業当初から商人、船乗り、船主らの人気を集めて店は繁盛していた。

そのころのコーヒーハウスは、カフェイン入りの飲み物と、最新のニュースや情報、そして知的な対話に参加する機会を提供し、得意客をつかんでいた。

ロイズのサービスは同業者のはるか先を行っていた。

顧客に船舶の運航状況について信頼性のある正確な情報を伝えようと、ヨーロッパ中の港に通信員を配置し、彼らが集めてくるニュースをまとめた情報紙を発行していた。

ロイズに行けば、船舶、貨物、外国での出来事について詳細な情報が得られた。

この貴重なデータと貴重なカフェインのコンボが、大きな成功を呼び込んだ。

1691年には店は大繁盛し、もっと広い場所に移らざるを得なくなった。

移転先はロンバードストリート16番地だ。

王立取引所の真向かいで、まさに商人の地区の中心だった。

それまでよりはるかに広くなった店内の壁にはすき間なく黒板が配置され、中央には演壇があった。

黒板は情報紙の代わりに使われ、演壇では最新の積荷の入札価格や海運ニュースが発表された。

ブラックコーヒーと黒板に囲まれたこの場所で、ロイドはかつてバビロニア人が発明したアイデアをもとに、現代保険産業の基礎を築いた。

およそ4000年前、バビロニア人は地中海で活動する商人のために妙案を考えた。

商人が借金をして積荷を仕入れる場合、追加で一定額を支払うと保証を受けられる。

輸送中に積荷が盗まれたり嵐に巻き込まれたりしたら、貸し手は融資を帳消しにする。

紀元前4世紀には、保険料は季節によって変化するようになっていた。

海が穏やかな夏場は安く、うねりが高くなる冬のあいだは高くなったのだ。

つまりバビロニア人は現代の保険業と同じように、リスクベースの料金設定を編み出していた。

それからおよそ2000年後、このリスクベース、データドリブンな海上保険は、ロンドンのとあるコーヒーハウスで新たな発展段階に到達した。

ロイズに通っていた銀行家たちは、進んで保険料と引き換えに積荷のリスクを引き受けた。

このプロセスが「アンダーライティング(引受)」と呼ばれたのは、黒板に書かれた船の名前や航行の詳細(積荷、船員、天候、目的地)の下に、リスクを引き受ける銀行家が自らの署名をしたからだ。

それから320年ほど経った現在、引受業は数兆ドル規模の保険産業に成長した。

ロイドのささやかなコーヒーハウスは、世界的保険市場「ロイズ・オブ・ロンドン」となり、2017年には336億ポンドの保険料収入を生み出した2。

とはいえ、かつてロイズに成功をもたらしたのと同じ要因、すなわち情報と協業の急速な発展によって、保険産業は再び根本的変化を遂げようとしている。

現在、三つの大きな変化が進行している。

まず消費者からサービスプロバイダーへのリスクの移転だ。

それによって、いくつかの保険のカテゴリーがそっくり消えようとしている。

次に「クラウドシュアランス」が伝統的な医療保険、生命保険のカテゴリーに置き換わろうとしている。

そして最後に、ネットワーク、センサー、AIの台頭によって保険の価格設定や販売方法が、ひいては保険業の性質そのものが様変わりしようとしている。

だが、まずはシンプルな問いから始めよう。

ドライバーのいない自動運転車をサービスとして利用する場合、保険は必要だろうか?自動者保険は終わる保険で重要なのは平均値だ。

保険業の基本的なビジネスモデルは、リスクを評価して保険料を設定すること、つまりこれだけのリスクをカバーするにはこれだけの費用がかかる、というのを見きわめることだ。

十分な数の顧客が集まり、十分な時間が経てば、費用は平均的なところに落ち着き、引き受け手は利益を得られる。

たとえば現在の自動車保険の保険料は、ドライバーの年齢と運転歴、車両の特徴、そしてドライバーの居住地によって決定されている3。

十分な数のドライバーを集め、十分長い期間にわたって事業を存続させれば、巨額の利益が転がり込む。

だが今後10年で自動運転車が道路を走るようになり、こうした計算の前提がすべて変わったら?現在自動車保険を支えているのは、人的ミスだ。

人間は注意散漫になったり、感情的になったり、ときには不合理な行動をとったりする。

年間120万人の交通事故死の原因の90%は人的ミスだ4。

だが人間が運転席に座らなくなれば、リスクの90%は消える5。

リスク評価を事業の基盤としている保険業にとって、これだけでもとほうもない変化だ。

これをさらに一歩進めてみよう。

現在、私たちが保険を掛けるのは自家用車だ。

だが自動運転車の登場によって、車は所有するものからサービスとして利用するものになる。

それによって消費者が自動車保険を利用する必要性自体がなくなる。

会計事務所のKPMGが自動車保険市場は2040年までに60%縮小するという驚愕の予測を示しているのはこのためだ6。

市場の縮小はすでに始まっている。

ウェイモは保有車両に利用者が乗車するたびに、保険を提供する。

ビッグデータを所有しているから、自信を持って費用を算定できるのだ。

2018年にウェイモの車両は、自動運転で公道を1600万キロ走った7。

シミュレーションにはさらに80億キロ分の記録が含まれている。

走行距離が延びるほどデータが集まり、そこから得られる情報はウェイモのAIを訓練するのに使われている。

これが安全性と、圧倒的な市場優位性をもたらす。

これまで蓄積されたデータによって、ウェイモは競合のはるかに先を行く。

自動運転車への移行はまだ本格的に始まってすらいないが、伝統的な保険会社はすでに大幅に立ち遅れているわけだ。

自動運転車が、スマート交通システムとセンサー埋蔵型道路というすでに実用化が始まった二つの動きと組み合わさると、交通リスクは急減するだけでは

い。

別物になる。

たとえば自動運転車の走行を支援するLIDARセンサーが故障し、事故が起きたとき、責めを負うべきは誰か。

乗客ではないのは確かだ。

自動車メーカー、あるいはLIDARのサプライヤーかもしれない。

ウェイモ車両の5Gとの接続が切れ、突然走行できなくなったとしたら、誰の落ち度だろうか。

車両の所有者であるアルファベットか、接続業を運営するベライゾンか、それとも接続を提供する衛星の所有者であるワンウェブだろうか。

自動運転車がハッキング、あるいは盗まれたらどうなるか。

こうした問いの答えは、まだ見つかっていない。

いずれも実際に起きたらまちがいなく危険なシナリオだが、今でもテストステロン多めなティーンエイジャーの運転する2トントラックが公道を走っていることを忘れてはいけない。

飲酒や麻薬の影響下で運転して逮捕される者が毎年100万人近くいるという事実も8。

要するに従来のテクノロジーと同じように、新しいテクノロジーにもトレードオフは付き物だ。

ただ今回はそのトレードオフの一つに、今日の自動車保険の消滅が含まれているかもしれない。

「保険」の前提が根っこから崩れるエクスポネンシャル・テクノロジーが登場する以前は、保険会社にとって最大の強みとなっていたのは規模だった。

これも突き詰めると平均値、具体的に言えばそもそも平均を計算するのに何が必要かという話になる。

統計的に正確な保険数理表を作成するには、膨大なデータが必要になる。

膨大なデータを集めるためには、膨大な数の顧客が必要だ。

それだけの顧客を集めるには、膨大な数の営業要員が必要だ。

集まってきた膨大なデータを分析するには、当然ながら膨大な数の統計学者が必要になる。

こうしたいくつもの膨大を管理するためには、やはり膨大な数の管理要員が必要だ。

このようにこれまでは「膨大の法則」によって、保険業は大手企業が牛耳ってきた。

保険業は統計学が支配する世界でもあった。

医療保険と生命保険のどちらにおいても、健康な人が支払う保険料が、健康ではない人にかかる費用をまかなっている。

だが健康な人は結局、保障を受けるために不必要に高い保険料を負担することになり、契約上つねに敗者となる。

ではとびきり健康な人がこのような状況にうんざりして、ソーシャルメディアで同じようにとびきり健康な仲間を募り、データを共有して自前の保険をつくってしまったら?ほんの数人がソーシャルメディアで呼びかけるだけで、それは実現してしまう。

「ほら、私の遺伝子や運動量を見て。

オーラリングのデータやアップル・ウォッチのデータもどうぞ。

これぐらい健康な人同士で集まって、保険をつくろうよ」と。

保険ビジネスでは、一番リスクの低い顧客が離脱してしまうと、統計が機能しなくなる。

とびきり健康な人々がグループから抜けてしまうと、リスク曲線が劇的に変わる。

費用をまかなうためには残った人全員の保険料を引き上げる必要がある。

さもなければ保険会社は破綻する。

だが全員の保険料を引き上げると、残った人もみな他の保険に乗り替えようとするので、やはり保険会社は破綻してしまう。

クラウド保険の登場今まさにそうした事態が起きている。

主役は分権型のピア・トゥ・ピア保険で、「クラウド保険」と呼ばれるようになった。

クラウド保険には仲介業者はいない。

保険会社の代役を務めるのは、大量のテクノロジーだ。

アプリがデータベースにつながっており、そのデータベースがAIボットにつながっている。

この一連のテクノロジーが加入者のネットワークを運営する。

加入者は保険料を支払い、必要な場合は保険金を請求し、それをネットワークが承認する。

別の言い方をすれば、テクノロジーによって伝統的な保険会社が必要としていた四つの膨大のうち、三つ(営業要員、統計学者、管理要員)が不要になるのだ。

残る一つは顧客で、いまや医療保険や生命保険の浮いた分の保険料を好きに使える自由を手に入れた。

ニューヨークを拠点とするレモネードを見ていこう9。

クラウド保険のスタートアップのなかでも最も潤沢な資金を集めた会社だ。

レモネードはアプリを通じて小規模な加入者グループをとりまとめる。

加入者が単一の「保険請求プール」に保険料を振り込むと、あとの運営はAIが引き受ける。

手続きはモバイルで簡単に、あっという間に完了する。

保険に加入するのに90秒、保険金の請求から支払いまでは3分、いずれも面倒な書類を記入する必要は一切ない。

ここにさらに別のテクノロジーを組み合わせているのが、スイスのイーサリスクだ10。

同社は暗号通貨「イーサリアム」のブロックチェーン上で「オーダーメイド型保険商品」を販売している。

スマート・コントラクトによって従業員や書類など伝統的保険会社に必要だったさまざまな要素が不要になり、まったく新しい保険商品が続々と生まれている。

イーサリスクの最初の商品は伝統的保険会社にはなかったもので、飛行機の遅延や欠航を補償する11。

利用者がクレジットカードを使って加入すると、飛行機が45分以上遅延した場合には即座かつ自動的に保険金が振り込まれる。

書類手続きは一切必要ない。

しかもこれはほんの一例にすぎない。

クラウド保険は爆発的に増加している。

船体保険やチワワ保険など、まったく新しいニッチ分野の保険が計画段階から商品化段階へと移行している。

古いたとえを使うならば、ロイドのコーヒーハウスに通っていた船員たちが自ら黒板に保険契約を書き込むようになり、他の客は黙ってコーヒーを飲むしかなくなったような状況だ。

「予測と予防」の時代になる1937年創業のプログレッシブ保険は、リスクの高いドライバー向け自動車保険という、誰も足を踏み入れようとしなかったニッチ市場を切り拓くところから出発した12。

その後も「プログレッシブ(進歩的)」という名前のとおり、テクノロジーを武器に競争力を高めてきた。

保険業界で最初にウェブサイトをつくり、最初にウェブサイトで保険契約を結べるようにし、さらに他社に先駆けてサイト上で質の高い動画コンテンツやIP電話を使えるようにした13。

保険契約や管理のためのアプリを導入し、モバイルに進出したのも一番早かった。

こうした取り組みは保険業の近代化を後押しし、プログレッシブ保険はアメリカ有数の高収益企業となった。

だが、まったく新しい保険カテゴリーに進出するという2004年の決断は、進歩的どころではなかった。

保険業界の常識に照らすと、まさに革命的だった。

当初はそんな大それた試みには見えなかった。

プログレッシブが最初に行ったのは、ミネソタ州の顧客に「トリップセンス」と称するリサーチ・プロジェクトへの協力を求めることだけだった14。

トリップセンスは一見ただの黒い箱で、自動車の診断用ポートにプラグインすると三つの変数を測定した。

走行距離、速度、所要時間だ。

協力者は測定を完了すると箱をプログレッシブに送り返し、謝礼として25ドルを受け取った。

2008年、この実験的プロジェクトは本格的な商品となった。

「スナップショット」と名称変更した改良版が収集する情報は一つだけだった。

1秒おきに車両の速度を測定するのだ。

プログレッシブはこの情報を使って、二つの追加データを算出した。

運転した距離と、飛び出してきた猫を避けるために勢いよくブレーキを踏み込むといった「急ブレーキの回数」だ。

その理由は、スナップショットは実験的プロジェクトから過激なアイデアへと変貌をとげたからだ。

自動車保険料を過去の運転実績ではなく、運転習慣によって決定する、というのがそれだ。

これを専門用語で「ダイナミック・プライシング(動的価格設定)」という。

思い込みの強い人なら「ビッグブラザーに始終見張られているようなもの」と言うだろう。

いずれにせよプログレッシブ保険は、センサーを使って自動車保険の伝統的モデルを一変させた。

走行速度やブレーキの踏み方といったことから、ラジオの音量や周囲を走る車の台数といったあらゆる要素が、保険料に影響を与える。

いまでは自動車保険料は、車の使用頻度(頻度が低いほど保険料は安くなる)、すぐれた運転習慣(常に法定速度以下で運転する)、運転時間のリスクの低さ(日々の車通勤が深夜以降にならない)といった要因に応じて決まる。

同じ傾向は住宅保険でも広がりつつある。

従来住宅保険料は、保険に加入する時点の物件の状態によって決まっていた。

しかし保険請求の30%は、契約から何年も経った後の水害に関するものだ15。

現在保険会社は住宅の配管内に埋め込んだ温度センサー、壁内部の水漏れ探知機などのリアルタイム情報を収集しており、住宅保有者に水関連の損傷が発生する以前にリスクを通知している。

さまざまなウエアラブル・デバイスがもたらすデータによって、まもなく医療保険分野でも同じ変化が起こるだろう。

保険会社はこれまでのように手術の後始末に追われるのではなく、私たちが病気にかかるのを未然に防ぐ機会を手に入れる。

健康的生活を送れば保険料が安くなるというメリットがある半面、ビッグブラザーによる監視というデメリットがある。

こっそりタバコを吸ったら保険料は上がり、野菜を摂るよう心がけたら保険料は下がるのか。

マッキンゼーはこのようなAIとセンサーをフル活用した保険ビジネスを「ライフスタイル連動型保険」と呼ぶ16。

それによって保険会社の役割は伝統的な「発見と修復」から「予測と予防」に変化する。

保険料は加入者の選択に応じて、ほぼ完全に自動化されたプロセスによって変動する。

2030年には保険請求への対応に必要な人員の数は70~90%減少する一方、請求の処理にかかる時間は数週間から数分に短縮されるだろう17。

これは保険会社が社会の健康維持の最前線で活躍する未来を予示している。

ロイドがコーヒーと黒板でビジネスを営んでいた時代を思えば、相当な変化だ。

金融ブラジルのサンパウロ、香港、ニューヨークの高層ビル群を見てみよう。

林立する鉄の怪物のなかで、一番背が高いものはどれだろう。

その高額不動産の持ち主は誰か。

おそらく保険会社や金融機関だ。

理由は伝説的な強盗、ウィリー・サットンが銀行を狙ったのと同じである。

「そこにカネがあるから」だ。

保険業はすでに見たので、ここからは銀行業と金融業の変化に目を向けよう。

いずれにおいてもエクスポネンシャル・テクノロジーが猛威をふるい、マネービジネスのあり方を根本的に変えている。

クラウドファンディング、新規仮想通貨公開(ICO)、ベンチャーキャピタル、政府系投資ファンドで起きている変化についてはすでに触れた。

それ以外に何が起ころうとしているかを理解するために、シンプルな問いから始めよう。

私たちはお金をどうしているのか?まず「貯める」。

たいていは銀行に預ける。

そしてお金を「動かす」。

会社間でやりとりすることもあれば、個人間で貸し借りをすることもある。

お金を使ってお金を増やすために「投資する」。

そして最後に、ホラ貝を貨幣として使っていた時代から、私たちは欲しいものを手に入れるためにお金を「使う」。

エクスポネンシャル・テクノロジーのコンバージェンスによってドルやセントがビットやバイトに置き換わり、これらすべての側面が様変わりしている。

その結果、経済も私たちの暮らしも、これまでとはまるで違ったものになるだろう。

グッドマネーグンナー・ラブレスは貧しい幼少期を過ごした18。

シングルマザーであった母親とともに暮らしたのはカリフォルニア州のインテンショナル・コミュニティ〔訳注:強い社会的つながりやチームワークを目的として形成されたコミュニティ〕だ。

生活はぎりぎりで、とりわけ食べ物とお金には苦労した。

その後ラブレスはシリアル起業家となった。

最初の三つの会社はテクノロジーとファッション関係の会社だったが、そこで得た利益はすべて四つめの会社に投じた。

食料問題を解決するためのベンチャー、スライブ・マーケットだ19。

バリュードリブンな(価値観を最優先する)会社であるスライブは、環境に配慮した包装、ゴミを一切出さない配送、身体に有害なものを含まない原材料へのこだわりを特徴とし、質の高い有機食品を割安な価格で900万人の消費者の自宅に直接届けている。

とはいえスライブだけではかつてラブレスが抱えていた問題の一つしか解決できない。

もう一つ、お金の問題もなんとかしなければならない。

そこで五つめのベンチャー、グッドマネーを興した20。

スライブと同じくバリュードリブンな会社で、伝統的な銀行業の保管機能に目をつけた。

現在、私たちはお金の大部分を銀行に預けており、その特権を得るために法外な料金をむしり取られている。

預金者が銀行に支払う手数料は、平均年360ドルに達する21。

一方、大手銀行は毎年、当座貸越の対価だけで平均300億ドルを稼いでいる22。

だが本当に問題なのは、私たちの預けたお金で銀行が何をしているかだ。

銀行は預金者のお金を、たいてい相当な利ザヤを確保しながら自由に投資できる。

顧客の価値観に合致しないようなプロジェクトに投資することも多い。

たとえばウェルズファーゴは、環境への影響や先住民の反対から物議をかもしていたダコタ石油パイプラインの主要な出資者であったことが判明し、顧客の離反を招いた23。

このように銀行は巨利を稼いでいるものの、預金は預金者に恩恵をもたらすどころか、むしろマイナスに作用していることもある。

グッドマネーはさまざまな方法で、そうしたやり方の逆を行く。

モバイルウォレットであるグッドマネーはスマホ上にあり、通常の通貨と暗号通貨の両方を置いておくことができる。

どのATMも利用することができ、年会費もATM利用料もかからない。

金利はほとんどの銀行より100倍高い。

グッドマネーの顧客はオーナーにもなる。

預金をすると、それと引き換えに同社の株を受け取れるのだ。

さらにグッドマネーは利益の50%を、社会問題の解決に役立つインパクト投資や慈善的寄付に投じている。

こうした経営手法によって、グッドマネーはバリュードリブンな企業を支持する層や、当座貸越費用やブラックリストによって伝統的な銀行システムから締め出されている4000万人のアメリカ人にサービスを提供しようとしている。

だがモバイル金融市場として最も規模が大きいのは、従来の銀行利用者やグッドマネーの顧客層とも違う、第3のカテゴリーだ。

お金を保管するところがまったくない、銀行とは無縁の層である。

問題はインフラだ。

とりわけ最貧国では、銀行を設立し、維持する費用が、そこから生まれる利益を上回ってしまう。

経済性が逆転している。

ただ世界で銀行口座を持っていない人が20億人を超える一方、そのほとんどが携帯電話は持っている24。

ここで注目すべきなのがボーダフォンの経営幹部であるニック・ヒューズだ。

国際経済問題のなかでもとりわけ解決が困難な、マイクロファイナンスの問題に取り組んでいる送金システムを変えた「エムペサ」2002年の「持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD)」で、ボーダフォンのニック・ヒューズはリスクをテーマに講演した25。

そこではかなり実現困難な目標を語った。

世界中の大企業に働きかけ、貧困国を支援するためにハイリスク・ハイリターンなアイデアに研究費を投資させるというのだ。

聴衆のなかにイギリスの国際開発省の高官がいた。

プレゼンが終わると、高官はヒューズに歩みより、思いがけない提案をした。

イギリスの国際開発省は携帯電話の利用方法に注目しており、アフリカの一部では携帯電話の通話時間が通貨の役割を果たすようになっていることに気づいていた。

通常は現金で支払うモノやサービスの対価として、通話時間を渡すのだ。

国際開発省はここに可能性を見いだした。

しかも彼らには100万ドルの予算があった。

ボーダフォンが同じ金額を出資するなら、国際開発省はパイロット・プロジェクトに資金を出そう、と高官は約束した。

銀行口座を持たない人々にとって、融資を受けるのはきわめて難しい。

このため両者が考えた当初のパイロット・プロジェクトは、マイクロファイナンス(貧困層向けの小口融資)だった。

牛やオートバイ、ミシンを買うためのわずかな資金を融資し、ささやかな事業の創業資金にしてもらうのだ。

それは貧困を脱出するきっかけになることが多い。

携帯電話の通話時間を使って融資を引き出したり、返済したりできるようにすることで、貧しい国々の起業家を後押しできるのではないかと国際開発省は考えた。

この協業から生まれたのが「エムペサ」で、まず2007年にケニアで展開された。

銀行支店もATMもないエムペサが頼ったのは、昔ながらのテクノロジー、すなわち「人」だ26。

個人がエージェントとなって、各地の市場で携帯電話の通話時間を売買する。

通話時間を現金に換えることもあれば、その逆もある。

エムペサの利用者は購入した通話時間をSIMカードに、それから電話に読み込む。

こうして通話時間は通貨になり、テキストメッセージで誰かに送ることもできる。

当初は小口融資のためにつくられたエムペサだったが、爆発的成長の原動力となったのは送金機能だ。

送金手数料のかからないエムペサによって、都市部の労働者は農村部の親戚にお金を送れるようになった。

こうしてウエスタン・ユニオンのような送金業者を利用する場合にかかっていた12%の手数料を節約できたうえに、バスの運転手にお金の入った封筒を託すという昔ながらの手段を使う必要がなくなった27。

サービス開始から8カ月後には、100万人のケニア人がエムペサを利用していた28。

現在はほぼ全国民に広がっている。

MITが実施した研究によると、エムペサがごく基本的な銀行サービスを提供しただけで、ケニアでは人口の2%に相当する20万人が極度の貧困を脱することができた29。

しかもこれはケニアだけの話ではない。

エムペサは現在、10カ国で3000万人以上に銀行サービスを提供している30。

腐敗がまかり通っている国では、政府が不正を防ぐためにエムペサを使っている。

アフガニスタンでは軍人の給料の支払いに、インドでは年金の給付に使われている。

しかもいまやこうしたサービスを提供するのはエムペサだけではなくなった。

バングラデシュではビーキャッシュが2300万人以上に使われている31。

中国ではアリペイのユーザーが10億人近くに達する32。

アリペイはグッドマネーと同じように、社会的活動を推進している。

「アント・フォレスト」に参加し、日々の生活のなかで環境にやさしい意思決定をしてポイントを受け取る利用者は5億人に達する33。

このポイントは現実世界の木と引き換えることができる。

アント・フォレストは国民的ブームとなり、これまで植林された木は100万本を超える。

重要なのは、こうした動きは従来のテクノロジーの進歩のあり方を覆すものであるということだ。

これまではシリコンバレーで生まれた最先端のアイデアが、アメリカ西海岸で導入され、東海岸で採用され、さらにヨーロッパで吟味されてようやく全世界へと広がる、というプロセスをたどっていた。

だが途上国のイノベーションが先進国で破壊的変化を引き起こすなど、この流れが逆転しはじめた。

ブロックチェーンしかも破壊的変化は今後も続きそうだ。

銀行は経済のエコシステムのなかで特異な地位を占める。

お金が流れるインフラはすべて銀行に帰属するからだ。

貸す、送る、寄付するなど資金を動かしたい人がいるかぎり、信頼性の高い保管場所として銀行はそのプロセスに介入できる。

少なくともブロックチェーンが登場するまではそうだった。

ブロックチェーンの場合、信頼はシステムに埋め込まれているので、これまでのシステムはもはや不要になる。

たとえば株取引を見てみよう。

現在は買い手と売り手がいて、彼らの資金を保管するいくつかの銀行があり、証券取引所、手形交換所など、関与する仲介業者は10社ほどにのぼる。

ブロックチェーンは買い手と売り手以外のすべてを不要にする。

テクノロジーがその他一切の役割を引き受けるからだ。

小さくなっていくパイをなんとか守ろうと、大手銀行はこぞってブロックチェーンに参入している。

だがブロックチェーンを使ってこうした銀行を破壊しようとする何千人もの起業家のほうが動きは速い。

R334とリップル35は、途上国発の破壊的変化が先進国の産業に影響を及ぼすという最たる例だ。

どちらもブロックチェーンを使って、国際銀行取引をつかさどる標準的プロトコルであったSWIFT(国際銀行間金融通信協会)ネットワークに置き換わろうとしている36。

この逆方向の破壊的変化が止まる気配はない。

これからの10年、ライジング・ビリオンと呼ばれる40億人が新たにインターネットにアクセスできるようになる37。

その全員が基本的な銀行サービスを必要とするはずなので、とほうもない機会がある。

テクノロジーのコンバージェンスのおかげで、ニック・ヒューズの壮大なビジョンは最終的に、銀行以外のあらゆる人に恩恵をもたらしそうだ。

AIの侵攻クラウド融資テクノロジーと金融サービスのコンバージェンスを意味する言葉が「フィンテック」だ。

まずはネットワークとアプリによって征服され、続いてAIとブロックチェーンによって先鋭化した金融サービスは、いまや世界の富の再分配を担うようになった。

スマホを手にしたロビンフッドが、銀行からお金を取りあげ、顧客の手に渡しているようなものだ。

大勢の顧客の不満と、莫大な資金が結びついたところには、必ず機会が生まれる。

こうして誕生したのがトランスファー・ワイズという会社だ38。

恋愛マッチングサイトの改良版を使い、たとえばペソをドルに交換したい顧客と、ドルをペソに交換したい顧客をマッチングさせることで、トランスファー・ワイズは外国為替市場そのものに攻勢をかけている。

恋人が欲しい人同士をマッチングするより、両替したい人同士をマッチングするほうが簡単なこともあり、同社の時価総額は創業から5年も経たずに10億ドルに達した。

ネットワークとアプリに支えられたトランスファー・ワイズは、フィンテックによる征服の波の代表格だ。

続く先鋭化の波はAIの登場によって始まった。

昔ながらの「おい、ちょっと1ドル貸してくれよ」というやりとりを考えてみよう。

ピア・トゥ・ピア融資とも呼ばれる。

伝統的にこれはリスクの高い行為だった。

つまり貸したほうが1ドルを回収できることはまれだった。

コミュニティの規模が拡大すると、ピア・トゥ・ピアの貸し借りはさらに難しくなった。

村が町へ、町が都市に発展し、さらに都市が拡大していくと、隣人同士の信頼感は成り立たなくなる。

そこへ融資行為に信頼をもたらす存在として銀行が登場したのだ。

だがデータがあれば、信頼など必要ない。

AIを使うと、大勢の人が集まり、金融情報とリスクを共有し、「クラウドレンディング(融資)」と呼ばれるピア・トゥ・ピア市場を形成できるようになった。

プロスパー39、ファンディング・サークル40、レンディングツリー41などに代表されるクラウドレンディング市場の規模は、2015年の261・6億ドルから2024年には8978・5億ドルに膨らむ見込みだ42。

別の例がスマート・ファイナンス・グループだ43。

2013年に中国で、銀行口座を持っていない人や口座を持っていても十分なサービスを受けられない膨大な数の国民のために設立された。

AIを使って、ソーシャルメディアやスマホのデータ、学歴や職歴などの個人情報を精査することで、信頼性の高い信用スコアをほぼ瞬時にはじき出す。

この方法によってスマート・ファイナンスは銀行口座を持たない層への少額融資を含めて、ピア・トゥ・ピア融資を8秒以内に承認できる。

その実績がすべてを物語っている。

毎月スマート・ファイナンスを通じて、150万~200万件の融資が実行されている。

投資AIは投資の世界にも影響を与えている。

情報力がカギを握る投資は、伝統的に富裕層だけが参加できるゲームだった。

最良の情報を持っているのは金融アドバイザーだったが、彼らの情報を入手するためには、彼らを雇えるだけのお金が必要だ。

しかも金融アドバイザーは客を選ぶ。

投資資金の少ない投資家を管理するのは、資金をふんだんに持つ投資家を管理するより手間がかかることから、アドバイザーの多くは最低投資金額を数十万ドルに設定している。

だがAIによって競争条件は公平化された。

現在ウェルスフロント44やベターメント45といったロボアドバイザーが、資産運用サービスを大衆化しつつある。

顧客がアプリを通じてリスク許容度、投資目標、退職時期の目標などに関する質問に答えると、あとはアルゴリズムが引き受ける。

実際すでにアルゴリズムは投資の世界のかなりの部分を引き受けている。

日々、市場取引の60%近くはコンピュータによるものだ46。

市場のボラティリティが高まると、その割合は90%にも達する47。

ロボアドバイザーが新しいのは、このサービスを一般顧客が利用できるようにし、またその経済的負担を軽くしたことだ48。

プロセスに人手が一切介在しないため、手数料は大幅に低い。

通常、資産運用サービスでは利益の2%が手数料として(さらに20%が成功報酬として)徴収されるのに対し、ロボアドバイザーの手数料率は0・25%程度だ。

投資家の反応は上々だ。

2019年1月時点で、ウェルスフロントの運用資産は110億ドル49、ベターメントのそれは140億ドルに達している50。

アメリカの投資全体に占めるロボアドバイザーの割合はまだ1%程度だが、《ビジネスインサイダー・インテリジェンス》は2022年までに4兆6000億ドルまで伸びると予想している51。

キャッシュレスの未来そして最後のカテゴリーが、欲しいものを手に入れる手段としてのお金である。

ただ、その結末はすでにみなさんもご存じのとおりだ。

あなたがどこかの料金所で、最後に現金で支払いをしたのはいつのことだろうか。

あるいは現金でタクシー料金を支払ったのはいつだろう。

ウーバーやリフトなどの配車サービスを使えば、財布を持たずに移動ができる。

そこにアマゾン・ゴーやウーバーイーツのようなキャッシュレス・サービスが加われば、財布を持たない生活はまもなくニューノーマル(新常態)になるだろう52。

デンマークは2017年に紙幣の印刷をやめた53。

その前年には、モバイルバンキングを推進すると同時に、国内のグレーマーケット(非合法的市場)への資金供給を断つ狙いから、インドが現金の86%を回収している54。

ベトナムは2020年までに小売業の90%をキャッシュレスにしたいと考えている55。

スウェーデンではすでにあらゆる取引の80%がデジタル化されており、まもなく100%になるだろう56。

経済学者は経済成長を推進する2大要因として、マネーの流通量(入手可能なマネーの量)と流通速度(マネーの動かしやすさと動かせる速度)を挙げることが多い。

どちらもエクスポネンシャル・テクノロジーによって増幅されている。

その結果、変化は加速しており、それにともなって景観を圧倒する高層ビル群のオーナーにも大きな変化が起きている。

不動産市場に目を向ければ、こうした景観の変化は、ほんの始まりにすぎないことがわかるだろう。

不動産事の発端は、大手銀行と大手保険会社というおなじみのペアが、アメリカを大混乱に陥れた2008年の大不況だった57。

とりわけ大きな打撃を受けたのが不動産市場だ。

相場は暴落し、なおも下がり続けた。

続いて住宅危機が勃発し、厳しいを通り越して悲惨な状態に陥った。

グレン・サンフォードが不動産会社を立ち上げるという一見バカげたアイデアを思いついたのはそんな時期だ58。

だが実際には、まさに時代にぴったりのアイデアだった。

間接費が上昇する一方、売上高は急減しているのを目の当たりにして、サンフォードは「店舗を構える」という街の不動産屋の常識を捨てた。

ブリック&モルタル型と決別し、世界初のクラウドベースの全国的な不動産仲介会社、eXpリアルティを立ち上げたのだ59。

不動産から身軽になったサンフォードは、バーベラという仮想世界プラットフォームを使って、完全没入型の巨大キャンパス(本社)を創った(バーベラは現在eXpの傘下にある60)。

現在eXpリアルティのキャンパスには、アメリカ50州、カナダの三つの州、そして世界の400の主要な不動産市場から1万6000人の不動産エージェント(営業担当者)が集まる61。

それだけの活動が、一つの物理的拠点もなく運営されているのだ。

エージェント、マネージャーは通勤の必要がなく、顧客も来店はしない。

誰もがVRヘッドセットかノートパソコンを使い、ロビー、資料室、シアタールーム、会議室、運動場まで備えたバーチャル本社に集まるのだ。

サンフォードはeXpの時価総額6億5000万ドルのうち、少なくとも1億ドルはインフラや間接費の節減によるものだと説明する62。

サンフォードの試みは不動産業に大きな変化を引き起こしているが、それはコンピューティング、ネットワーク、VRというたった三つのエクスポネンシャル・テクノロジーが融合した結果にすぎない。

AI、3Dプリンティング、自動運転車、空飛ぶタクシー、水上都市が加われば、すべてが一気に変わる。

そこには不動産業のなかで、サンフォードによる破壊を免れた要素も含まれている。

不動産仲介業者(ブローカー)だ。

VRとAIで家を買う人生のなかで、幸運にも家を買うチャンスに恵まれる人もいる。

たいていは一生に一度のことだ。

通常それは人生で一番大きな買い物で、一番高額の小切手を切り、それまで感じたことのないような恐ろしさを味わう。

AIによってこのプロセスがどう変わるかを見ていく前に、これが現実世界を生きる人々の、不安に満ちた困難な決断であることを改めて指摘しておこう。

実際のところしばらく前から、不動産に関する決断を支援するのにAIが使われるようになっている。

ズィロー63、トゥルーリア64、ムーブ65、レッドフィン66をはじめ、多くの企業が数百万ドルをAIに投じてきた67。

おかげで物件の検索、評価、コンサルティング、管理はかつてないほど迅速かつ正確にできるようになった。

家賃、入居率、周辺の学校情報など昔から使われてきた不動産の価値を左右する変数のほか、ウェブ・クリックストリーム・データ、衛星画像、地理位置情報追跡などの新たなインプットもあり、不動産投資家はいまやどんな人間でもかなわないような分析能力を手に入れた。

そして他の産業でAIの開発競争が進んでいるのと同じように、不動産業界においても最高のデータを手に入れた企業が市場を支配することになるだろう。

AIが不動産のリサーチにおいてこれだけの力を発揮しているのなら、仲介業務も任せてしまったらどうか。

はっきり言うと、AI、VR、センサーを融合させれば、パーソナルな仲介業者ができてしまう。

将来的に、常時オンの選好追跡機能があらゆるパーソナルAIに標準装備されるようになったら、見知らぬ他人に不動産選びを依頼しようと思うだろうか。

パーソナルAIはあなたの「いいね!」や「悲しいね」と通じて、あなた以上にあなたのことをよく理解するようになる。

自宅、賃貸マンション、事務所など不動産探しの大半を、VRヘッドセットとAIの助けを借りて自宅のソファで済ませるようになる日も、そう遠い先ではない。

アップルのシリにインテリア・デザイナーの能力が追加されたようなものだ。

「ロフトはインダストリアルモダン・スタイル、床はコンクリート、近所に高級食品スーパー」。

それを聞いた不動産AIは基準に合った物件を提示し、VRヘッドセットは24時間いつでも物件を見せてくれるだろう。

売り手から見れば、見込み客は3キロ先にいることもあれば、地球の裏側にいることもある。

買い手がVRで没入型の物件訪問を繰り返すたびに、AIは学習していく。

高度な視線追跡ソフトが買い手の視線の動きを把握し、音声認識アルゴリズムは買い手の声から気に入ったか否かを判断する。

どちらの情報も好き嫌いを判断する基準に追加され、検索を繰り返すたびにAIはより好みにあった物件を推奨するようになる。

壁を青く塗ったら、居間の雰囲気はどう変わるだろうか。

VRはそんな疑問に応じて、床の色や壁紙、太陽の差し込む方向まで環境を即座に修正してくれる。

今持っている家具を、VRの映し出す物件に配置してみることも可能だ。

いずれ高度なAIは、あなたが持っている家具、美術品、本のデータをすべて集めて、ありとあらゆるバーチャルスペースに映し出してくれる。

おかげでかつてなかったほどの確信を持って、物件を選べるようになるはずだ。

要するにAIを使ったVR不動産プラットフォームを使えば、売りに出ているあらゆる物件を調べ、好きなように改築し、思い描いてきた夢の家が本当に住みたい家なのか、確かめられるようになる。

「立地」という概念が変わる不動産業界では「立地」がすべてだと言われる。

だがもう一つ、重要な要素がある。

「近接性」だ。

あなたの自宅の価値は、さまざまな場所への近接性に左右される部分もある。

大きなショッピングセンター、評判のいい学校、職場、お気に入りのレストラン、親しい友人の自宅との距離だ。

だがこれからの10年で交通手段が様変わりすれば、A地点とB地点の関係も変わる。

自動運転車、空飛ぶ車、ハイパーループによってあらゆる場所が「近場」になると、何が起こるのだろうか。

ラスベガスからロサンゼルスまでハイパーループで30分で通勤できるようになり、バーモント州北部からボストン中心部まで空飛ぶ車でひとっ飛びで行けるようになり、バージニア州の辺鄙な町からワシントンDCまで自動運転ウーバーに乗って1時間うたた寝しているあいだに着いてしまうようになったら、人里離れた場所で2倍広い家を半分の値段で買うほうがいいのではないか。

移動時間は睡眠、瞑想、おしゃべりなど、好きなように使えるようになる。

これまで地理的に不便だった場所に簡単に行けるようになれば、近接性そのものが大衆化される。

要するに、これからの10年で「最高の物件」の定義が変わりはじめる。

単にA地点とB地点の関係が変わるというだけではない。

立地そのものが増えるのだ。

キーワードは「水上都市」だ。

水上都市水上都市は私たちの直面する三つの問題の解決策として提唱されている。

海面上昇、人口爆発、生態系の危機だ。

地球温暖化によって500もの沿岸都市の存立がおびやかされるなか、水上都市は洪水、津波、ハリケーンへの防御という切実なニーズを満たしてくれる68。

それに加えてすでに人類の40%が海の近くで暮らしていることから、水上都市はこれまで何もなかったところに最高の立地を生み出すことになる69。

かつては水上都市というアイデアを巡っては大きな抵抗があったが、気候変動危機が深刻化するなか、2019年に国連はこのテクノロジーを改めて見直すことにした。

国連が検討しているアイデアの一つが「オセアニックス・シティ」構想だ70。

タヒチ島出身の起業家マルク・コリンズとイタイ・マダモンベが設計した、廃棄物ゼロ、電力は100%再生可能エネルギーでまかなう水上都市だ。

六角形の浮遊式プラットフォームをいくつも円形に並べた構造で、それぞれ約1万8000平方メートルの広さを持つプラットフォームには300人が居住できる。

最終的に約30万平方メートルの敷地が完成すると、最大1万人が居住できる。

サンフランシスコを拠点とするシーステディング・インスティテュート71が開発した二つめのデザインは、現在フランス領ポリネシアで試験運用されている72。

「フローティング・アイランド(浮島)プロジェクト」と呼ばれ、水上都市というより、未来の水上都市のデザインを検討するための実験用プラットフォームだ。

約40万平方メートルのビーチフロントの住宅と住民のための特別経済区域を設ける予定で、2021年までに10棟以上を建設する計画だ。

どちらのプロジェクトも持続可能性を重視している。

ウォーター・キャプチャー技術によって飲料水を、温室、垂直農法、養魚場などによって食料を、太陽光、風力、潮力によって電力をまかなう。

住民は電気ボート、将来的には自動運転の空飛ぶ車を使って本島に出かける。

あるいは島を出なくなるかもしれない。

必要な物資はドローンが配達し、仕事の会議にはアバターが出席できるようになれば、島を一歩も出る必要がなくなる。

エクスポネンシャル・テクノロジーは不動産業のありとあらゆる側面を非物質化、非収益化、そして大衆化している。

企業のインフラはバーチャルの世界に移った。

仲介業者もまもなくそれに続き、あと10年も経たないうちに不動産業を支えてきた立地と近接性という二つの支柱も非収益化するだろう。

今はごく少数の限られた人しか望みどおりの物件を手に入れることができないが、いずれ庶民でもすばらしい物件を手ごろな価格で手に入れられるようになるだろう。

不動産業、金融業、保険業の変化を見れば、大都市の高層ビルのオーナーだけでなく、産業のあり方が劇的に変化していることがわかる。

ビジネスプロセスは速く安くなり、仲介役はいなくなり、さまざまな機会があらゆる人に開かれるようになった。

こうして人類が生み出した最も大きな富の創造メカニズムのうち三つが、まったく新しい姿に生まれ変わろうとしている。

これもまた、あなたが思っている以上に未来が加速する要因だ。

第12章食料の未来2030年のキッチン2030年。

あなたはお腹をすかせている。

パーソナルAIがあなたの好みの履歴、必要な栄養素、予定表などを参考に、いくつかおススメメニューを挙げてくる。

最近、流行りのハイブリッド料理を検索した。

明日はサーフィンに行く予定なので、多少カロリーを多めにとっておくほうがいいだろう。

今夜はアジア・イディッシュ・フュージョン料理で決まりだ。

このハイブリッドは試したことがないので、慎重に行こう。

具体的なメニューの選択はAIに任せたほうがいい。

8分後、アマゾンのドローンが買い物袋二つ分の材料を運んできた。

それを3D料理プリンターに装着した七つの仕切りに投入する1。

袋のなかに見たことのない野菜が入っていた。

小さなコードをスキャンすると、ブロックチェーンを使った食品由来追跡アプリが立ち上がる。

謎の野菜はベトナム原産の新種のカボチャで、手元にあるのは近所の野菜工場でつくられたものだった。

残りの材料はロボシェフに渡す。

ロボといっても実際は多関節アームにインターフェースのタッチスクリーンが付いただけのものだ。

ただタッチスクリーンに触れる必要はない。

夕食を注文したときにレシピはアップロードされたからだ。

完全自動システムなので、調理中に近くにいる必要もない。

キッチンから出ようとすると、ロボットが手際よく生のマグロをスライスしていた2。

20個のモーター、24個のジョイント、129個のセンサーが搭載されたボットは人間の手先や腕の動きを模倣できる。

しかも機械学習のトレーニングに使われたのは、五つ星レストランの一流シェフが料理する動画である。

仕入先には人工培養食材のムーレス・ミート社を指定しているので、このマグロが底引き網やダイナマイト漁など生態系に悪影響を与えるような方法で捕獲されたのではないことははっきりしている3。

マグロは幹細胞から培養されたもので、動物や環境を一切傷つけていない。

そしてすべてのプロセスが自動化され、カスタマイズされているので生ゴミは出ない。

皿の上のものはすべて食べられるうえに、チョコレートを使って3Dプリンターで印刷した皿自体も食べられる。

2020年の時点で、ここに登場する技術要素はすべて実現している。

もちろん、まだあなたの自宅のキッチンにはないかもしれないが、それも遠い先のことではないだろう。

そのために自宅をどう改装すべきか検討する前に、まずは食料の未来について見ていこう。

出発点は太陽という星の中心核だ。

食料のムダをなくす食べ物はムダのかたまりだ。

形になるまでの一つひとつのステップにムダが組み込まれている。

たとえばあなたの夕食の大元にさかのぼってみよう。

ジャーナリストのリチャード・マニングは《ハーパー》誌に寄せたエッセイにこう書いている4。

「あらゆる動物は、植物あるいは植物を食べる動物を食べる。

これが食物連鎖であり、それを可能にしているのは太陽光から炭水化物(糖類)というエネルギー分を合成する、植物固有の能力だ。

炭水化物はあらゆる動物の基本燃料であり、太陽光による光合成はこの燃料をつくる唯一の方法だ。

酸素の代替物が存在しないように、植物エネルギーの代替も存在しない」食べ物が皿の上に乗るまでの旅路は、地球から1億4960万キロメートル離れた星から始まる。

光合成に使われる「太陽光」はここで発生する。

毎秒膨大な量の水素原子が核融合反応を起こしているが、地球に届くのは発生したエネルギーの10億分の1に満たない。

そして地球表面に到達したエネルギーのうち、光合成に使われるのは1パーセント以下だ。

ムダはまだまだ続く。

生育した食べ物は輸送する必要があり、それは環境に大きな負荷をかける。

クリスマスなど晴れの日の食卓を彩る料理は、食卓を囲む親戚一同より長い距離を旅してくる可能性が高い。

アメリカ人の食べる物は、食卓にのぼるまで平均2400~3200キロを移動する5。

ジャガイモはアイオワ州から、ワインはフランス、牛肉はアルゼンチンから。

それがどれだけエネルギー集約型のプロセスか、想像がつくだろう。

食事が終わっても、エネルギーのムダは続く。

アメリカでは国民の8人に一人が食事に事欠く一方で、食料の40%が廃棄されている。

畑で腐っていくものもあれば、ゴミ処理場に運ばれるものもある。

自然資源防衛協議会によると、この食品ロスの15%を「救済」するだけでも、食料の確保に苦しむ4200万人のうち2500万人が救われるという6。

食料流通の全ステップが変わるだが救いの日は近そうだ。

今、食料の流通にかかわる一つひとつのステップが根底から変わりつつある。

生産量まず入口にあたる生産の部分では、植物の持つ太陽光を食料に変える力を強化する研究が始まっている。

植物生物学の世界でモルモットの役割を果たしているのはタバコだ。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究チームは、太陽光から糖分を合成する能力を伸ばすことで、タバコの収穫量を14~20%増やすことに成功した7。

ビル・ゲイツが支援するイリノイ大学のRIPEプロジェクトは、それを上回る成果を出している8。

さらに上を行くのがエセックス大学の研究で、光呼吸にかかわるタンパク質の量を増やすことで、タバコの収穫量を27~47%増やした。

国連の予想では、2050年に90億人を超える世界人口の胃袋を満たすには、農作物の生産量を倍増させる必要があるという9。

ここに挙げたような研究によって植物の光合成能力を高めることで、その目標は半分以上達成できることが明らかになっている。

腐らないこのような改良版の作物が実験室から食卓へ移行するまでにはしばらくかかりそうだが、企業はその次のステップである輸送の改善にとりかかっている。

輸送車両のエネルギー効率が改善しているだけでなく、食料自体の「持ち」もよくなっている。

カリフォルニア州サンタバーバラのアピール・サイエンシーズは、バイオミミクリー(生物模倣)と材料科学を活用し、食料のムダを減らそうとしている10。

果物や野菜にはもともと腐敗を防ぐメカニズムが備わっている。

皮だ。

正式には「角皮素」と呼ばれる植物の一番外側の層で、水分を閉じ込めるための脂肪酸でできた、蝋様の表皮だ。

アピール社は100%天然の植物由来の材料を食品に噴霧して(あるいは食品を浸して)、人工的に角皮素をつくる方法を開発した。

においも味も色もなく、この物質でコーティングしても有機食品と見なされる。

この方法で保護されたアボカドは、柔らかくなるまでの期間が60%伸びる11。

すでにアメリカの主要スーパーのほとんどが取り扱っている。

垂直農法腐敗を防げば食べ物の持ちはよくなるが、それで輸送の問題を完全に解決できるわけではない。

そこで企業は、この輸送というステップをまるごと回避しようとしている。

農場から食卓までの食料の移動を効率化するため、農場を消費地の近くに動かしているのだ。

「垂直農法」と呼ばれる、広大な農地ではなく高層ビ

ルのなかで食料を育てようという発想だ12。

2025年までに人類の70%以上が都市で暮らすようになることを考えると、農場で育てた野菜を都市の住人に食べさせるために平均3200キロも移動させるというのは、ムダなだけでなく健康にも悪い。

土から掘り出した瞬間から、野菜の栄養価は低下しはじめる。

野菜が収穫されてから食卓に上るまでに2週間かかるケースも珍しくはないが、そのあいだに栄養価は45%も失われることもある13。

垂直農法によって真の「地産地消」が実現する。

たとえば家具チェーンのイケアは、店舗で垂直農法によって栽培した食品を、店内のレストランで提供している。

垂直農法は食品の移動時間をなくす以外にも、さまざまな問題を解決する。

完全閉鎖型の環境で栽培されることから、殺虫剤を使う必要もなくなる。

水の使用量も減る。

水栽培や空中栽培といった方法を活用することで、垂直農法では伝統的農業と比べて農作物の栽培に必要な水の量を90%抑えられる14。

地球全体で水不足が深刻化するなかで、これは大きな意味を持つ。

垂直農法は驚くべきスピードで進歩を遂げてきた。

2012年に『楽観主義者の未来予測』で垂直農法について書いた当時は、数えるほどのパイロット・プロジェクトがあるだけだった。

それが今では一大産業になっている。

最大手はカリフォルニア州のベイエリアを拠点とする、プレンティ・アンリミテッド社だ15。

2億ドル以上の資金を集めた同社は、屋内農業にスマート・テクノロジーを応用している16。

高さ約6メートルのやぐら上で育つ作物を、数万個のカメラやセンサーでモニタリングし、ビッグデータを使った機械学習で最適化する。

この方法によって、一定の面積に作付けできる量は40倍になった。

屋外の農地と比べて収穫量は350倍になる一方、水の使用量は1%以下に抑えられる。

しかも栽培するのは富裕層向けの高級野菜ではない。

プレンティの生産方法によって、通常の食品スーパーで売られている野菜のコストは20~35%抑えられる。

すでにプレンティはサンフランシスコ南部のフラッグシップ農場に加えて、ワシントン州ケントに約9300平方メートルの食品農場を、さらにアラブ首長国連邦でも屋内農場を運営している17。

中国では300カ所以上の農場の建設を開始している。

アメリカ東海岸に目を移すと、エアロファームズ社がニュージャージー州ニューアークの敷地面積約6500平方メートルの古い工場を改装し、太陽も土も使わずに年間約90万キログラムの葉物野菜を生産している18。

施設内ではずらりと並んだAI制御のLED照明が、さまざまな品種の生育に最適な波長の光を当てている。

空中栽培方式を採っており、肥料は直接作物に噴霧されるため、土壌は必要ない。

作物はペットボトルをリサイクルした生育用のメッシュ生地の上に浮いた状態で育つ。

ここでも栽培プロセス全体を管理するのはセンサー、カメラ、機械学習だ。

ここに挙げた農場はいずれもまだ世界の食料問題を解決するほどの規模ではないが、エクスポネンシャル・テクノロジーのコンバージェンスは、その追い風となっている。

プレンティ・アンリミテッドCEOのマット・バーナードは最近の取材で、テクノロジーのコンバージェンスは農業にとほうもないメリットをもたらしていると語っている19。

「グーグルはテクノロジーの進歩、アルゴリズムの進化、大量のデータの生成が同時期に重なったことで恩恵を受けました。

(垂直農業においても)同じことが起きているんです」ここにロボットも加勢している。

現在、垂直農業のコストの50~80%は人件費だ20。

だがシリコンバレーのアイアン・オックス社は、重さ約350キロの栽培用コンテナを軽々と運べる、重さ約450キロのロボットを設計した21。

要するに、農業は垂直方向に成長しているだけでなく、より強靱かつスマートになっている。

何より重要なのは、効率化が大幅に進んでいるということだ。

牧畜業のムダをなくす恐ろしい事実を告げよう。

2050年に90億人に達する世界人口の胃袋を満たすには、2009年よりも70%多くの食料が必要になる22。

その相当部分を肉が占める。

主に中国とインドの近代化によって、2050年までに世界の肉の消費量は76%増加することが予想される23。

控えめに言っても、かなり重大な問題だ。

現在、地球上の居住可能地域の50%が農地で、そのうち80%が牧畜に使われている24。

地球上で人間が利用できる土地の4分の1が、鶏200億羽、牛15億頭、ヒツジ10億頭を飼育するために使われている25。

すべて人間が殺して食べるためで、きわめて残酷であり、ムダも多い。

アメリカでは8人に1人が十分な食事に事欠くが、世界の食用作物の30%は家畜が食べている。

さらに問題なのは水の消費だ。

食肉生産には、世界の水使用量の70%が使われている26。

小麦1キログラムを生産するのに必要な水の量は1500リットルであるのに対し、牛肉1キロを生産するのには1万5000リットルが必要だ27。

つまり成牛を育てるには海軍の駆逐艦を浮かべられるほどの水が必要なのだ。

さらに食肉生産は温室効果ガス排出量の14・5%を占め、森林破壊の主な原因にもなっている28。

今、地球上ではかつてないほど大量の種が絶滅しており(この点については第13章で詳しく述べる)、その最大の要因は農業用地の拡大だ29。

ここでもキーワードは同じだ。

「ムダ」である。

バイオテックとアグリテックが融合しはじめた現在はステーキ肉を得るために、牛1頭を育てなければならない。

牛が育つ過程で、そしてと殺後の死骸の処理からも大量の温室効果ガスが発生する。

だがバイオテクノロジーの進歩がアグロテクノロジー(農業技術)のそれと融合しはじめた今、このプロセスをそっくり回避することが可能になった。

牛を育てる代わりに、たった一つの幹細胞を育てることでステーキ肉が手に入るのだ。

培養肉を育てる方法はこうだ30。

まず生きた動物から幹細胞をいくつか取り出す。

通常はバイオプシー(生検)という方法を採り、動物に危害は加えない。

取り出した幹細胞は栄養分豊かな培養液に浸す。

このすべてのプロセスはバイオリアクター(生物反応器)のなかで行う。

あと数年もすれば培養肉産業は成熟し、テクノロジーによってコスト削減も進む。

そうすれば肉を求める人口の増加に対応して、無尽蔵にステーキをつくれるようになる。

少なくとも目標はそういうことだが、超えるべきハードルはまだいくつかある。

まず現時点で、栄養分豊富な培養液は依然として動物由来で、けたたましく高価だ。

最大の目的が、動物を一切つらい目に遭わせないことだとすれば、培養液も完全な植物由来にすべきで、科学者と企業はまだ研究を進めている。

次に、培養液を的確なタイミングで的確な場所に送り込むことができないため、今できあがっているのはステーキというより、生のハンバーグやチョリソーのような「やわらかい」肉だ。

最後に、食品業界とエネルギー業界はまだこのシステム全体への電力供給のあり方を模索している。

最終的にバイオリアクターの消費電力は抑えられ、再生可能エネルギーのみで動くようになる予定だが、まだ実現はしていない。

それでも環境へのメリットはきわめて大きい。

培養肉は通常の肉と比べて、土地の使用量は99%、水の使用量は82~96%抑えられ、温室効果ガスの排出量は78~96%抑えられる31。

電気の使用量は肉の種類によって7~45%削減できる(従来型の鶏肉生産は牛肉生産よりはるかに電力消費量が多い)。

人間が使っている土地の4分の1が解放されれば、森林を再生し、さまざまな生き物の生息環境を確保して生物多様性の危機を止めたり、二酸化炭素吸収源を増やして地球温暖化のペースを遅らせたりすることができる。

信じられないような数字だが、その意味するところは明らかだ。

倫理的かつ環境にやさしい方法で、世界の食料問題を解決できるのだ。

培養肉は健康的なソリューションでもある32。

ステーキを幹細胞から育てるのであれば、身体に有益なタンパク質を増やし、飽和脂肪を減らし、ビタミンを加えることもできる。

培養肉に抗生物質を投与する必要はなく、狂牛病などの家畜の危険な病気を考えれば人間にとっての安全性は高い。

培養肉にシフトすることで、世界的にさまざまな病気に苦しむ人を減らすことができる。

また新たな病気の70%は家畜から発生することから、パンデミック(感染症の大流行)のリスクも抑えられる33。

しかも消費者やプロのシェフによる実験では、味の面ではもはや問題はないことが証明されている。

培養肉の大量生産には、まだコストがかかりすぎる。

2013年につくられた世界初の培養肉バーガーにかかったコストは、33万ドルだった34。

2018年にはメンフィス・ミーツが1ポンド(約450グラム)あたり2400ドルまでバーガーの値段を下げる一方35、アレフ・ファームズはステーキ肉の価格を1ポンド50ドルまで下げた36。

ここでもエクスポネンシャル・テクノロジーが追い風となっている。

メンフィス・ミーツは加速するテクノロジーによって、バーガーのコストは数年以内に5ドル前後まで下がると見ている。

高級アジア料理店では、人工チキンがすでに提供されている。

培養肉のコストパフォーマンスは今後、通常の肉より圧倒的に高くなる可能性がある37。

生産は自動化され、土地も人手もあまりかからない。

成牛を育てるには数年かかるが、研究室で成牛1頭分の肉を育てるのには数週間しかかからない。

ステーキだけではない。

目下ポークソーセージ、チキンナゲット、フォアグラからフィレミニオンまで、さまざまな肉の開発が進んでいる。

違いはどの細胞から培養を始めるかだけだ。

2018年末には、ジャスト・インクが日本の和牛生産者、鳥山牧場との提携を発表した38。

長年、地球上で最も希少で高価な牛肉と言われてきた和牛を幹細胞から育てることが狙いだ。

肉だけの話ではない。

牛乳についても同様の試みが進んでいる。

カリフォルニア州バークレーを拠点とするパーフェクトデイ・フーズは、牛を一切使わずにチーズを生産する方法を開発した39。

遺伝子シークエンス技術を3Dプリンティングや発酵学と組み合わせ、動物を一切使わないさまざまな乳製品を生み出したのだ。

こうした進展を組み合わせると、今とはまったく異なる食料の未来が見えてくる。

数年もすれば人類は動物界で初めて、他の動物に一切危害を加えずにそのタンパク質を摂取する種になるだろう。

私たちの孫の世代には、食肉処理場は過去の存在になる。

そして現在、80億人近い世界人口の重みでぐらついている地球は、人口が90億人を突破しても持ちこたえられるようになるだろう。

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