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Part3「センス」とは「知識」からはじまる

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Part3「センス」とは「知識」からはじまる

すべての仕事において〝知らない〟は不利

センスとは何か、センスがいかに必要な時代かがわかったところで、「どうやってセンスを身につければいいか?」という本題に入りましょう。

「センスがよくなりたいのなら、普通を知るほうがいい」と述べました。そして、普通を知る唯一の方法は、知識を得ることです。センスとは知識の集積である。これが僕の考えです。

文章を書くことをイメージしてみましょう。「あいうえお」しか知らない人間と「あ」から「ん」まで五十音を知っている人間とでは、どちらがわかりやすい文章を書けるでしょう?

どちらが人を喜ばせる文章を書けるでしょうか?

ひねくれた人は「あいうえおだけで素晴らしい文章を書ける人こそ、センスがある」と言うかもしれません。

「あいうえお」だけ使ってハッとするフレーズを生み出せる人もいるでしょう。

しかし、五十音を全部知っている人と勝負をしたらどちらが勝つかは明らかであり、そこを否定する余地はないと僕は考えています。

仮に一発勝負であれば、あいうえおしか知らない人が勝つかもしれませんが、何回にも及ぶ勝負であれば、最後に勝つのは五十音全部を知っている人でしょう。

さらに、あいうえおだけで素晴らしいフレーズをつくれる人は、言葉の知識が非常に豊富であり、五十音も知っているはずなのです。センスがいい文章を書くには、言葉をたくさん知っていたほうが圧倒的に有利である。これは事実です。

文章というたとえを使いましたが、これは仕事や生きるということにおいても同様だと思います。知識があればあるだけ、その可能性を広げることができるのです。

知識というのは紙のようなもので、センスとは絵のようなものです。紙が大きければ大きいほど、そこに描かれる絵は自由でおおらかなものになる可能性が高くなっていきます。

道路を掃除する人は、「きれいな道路」という価値を生み出す仕事に就いているのですから、きれいにするとはどういうことかを知っていなくてはなりません。

コンビニで働く人は、「便利さ」という価値を顧客に与える仕事に就いているのですから、便利とはどういうことかを知っていなければなりません。

きれいな道路、あるいは便利さというのは、どのくらい価値あることなのか。どういうことをするとその価値がキープできるのか。そうした知識がなければ、マニュアルどおりに動くしかなくなります。すべての仕事は価値を創造していくことで対価を得ています。

ひらめきを待たずに知識を蓄える

「他とは全然違うもの」実はここに、大きな落とし穴があることに、みなさんは気づけるでしょうか?プロローグでも触れましたが、企画を考えるとき、特に学生は「誰も見たことのない企画にしたい」と言います。そうやってひらめきを待つのです。

しかし僕は、手始めに、「誰でも見たことのあるもの」という知識を蓄えることが大切だと思っています。世の中に、「誰も見たことのない、あっと驚く企画」というのは実はゴロゴロころがっています。

しかし、「あっと驚く企画」には二種類あります。世の中で一番少ないのは、「誰も見たことのない、あっと驚くヒット企画」。僕のイメージとしては二%程度だと思います。

次に少ないのが、「あまり驚かない、売れない企画」というものでイメージとしては一五%くらいあります。

次は「あまり驚かないけれど、売れる企画」。これは意外に多くて、イメージとしては二〇%

そして一番多いのは、「あっと驚く売れない企画」。イメージとしては残る六三%、半分以上を占めています。

つまり、「誰も見たことがないような、あっと驚く企画をつくりたい」と思っている人は、たった二%の「あっと驚くヒット企画」にばかり目がいき、全体の六三%を占める「あっと驚く売れない企画」には目をつぶっているのです。

まずは「あっと驚く売れない企画」の多さに、目を向けましょう。「あっと驚く売れない企画」は、コアなターゲットに向けたもの以外、社会に求められないことがほとんどです。

そうして現実の厳しさを知ったところで、「あまり驚かないけれど売れる企画」に注目するといいでしょう。

たとえばiPhoneは、かつてなかった商品とされますが、固定電話、携帯電話という流れに沿ったものです。

AKB48はおニャン子クラブ、モーニング娘。の流れを汲むものでしょう。

インターネットにしても、飛脚、郵便、電報、テレックス、ファクスという通信手段の流れのなかにあります。

つまり、過去に存在していたあらゆるものを知識として蓄えておくことが、新たに売れるものを生み出すには必要不可欠だということです。まずは知識をつけましょう。過去の蓄積、すなわち「あっと驚かないもの」を知っていればいるほど、クリエイティブの土壌は広がります。そのうえで、あっと驚くアウトプットを目指すべきなのです。

たとえ話をすれば、「わくわくする冒険の旅がしたい」という時、天から「南へ行け!」というひらめきが来るのを待って目的地を決める人はいないのと同じようなものです。

たいていの人は、「ヨーロッパはこういうところ、見たこともない秘境はこのあたり」という知識をもった上で、「じゃあ、ネパールへ行こう」と目的地を決めます。

雑誌やテレビでネパールを見たことも聞いたこともない人はほとんどいませんが、ネパールで新鮮な旅をすることは十分に可能です。もちろん、僕が言いたいのは、「あっと驚かないものをつくれ」ということではありません。

「新しいひらめきなんて無理だからあきらめろ」と言っているのでもありません。方向性を決めたあと、企画をブラッシュアップしていくときは、あっと驚くものを目指すべきですし、最終的なアウトプットは、新しく、美しく、尖ったものであるべき。しかし、アウトプットの前段階においては、知識にもとづいた方向性の決定が大切だということです。

イノベーションは、知識と知識の掛け合わせである

イノベーションは、ゼロベースで何かをつくることではありません。『アイデアの接着剤』(朝日新聞出版)でも書きましたが、「1から2をつくる」「AにBを掛け合わせてCにする」そういった意味合いの言葉だと思います。

世の中にすでにあるAというものと、自分が見たことのあるBをくっつけて、Cというものを生み出す。これを高い打率でできれば優秀なクリエイターになれるはずです。どんな人であっても、ゼロからいきなりCがひらめくことは非常に稀です。

Aを知悉していれば、Aダッシュを生み出すことが可能です。Aに対する知識とBに対する知識が、「思いがけないこの二つを掛け合わせたらどうなるだろう」という発想を引き出し、Cを創造します。意外な掛け合わせを生むには、より多くのD、E、F……という知識を蓄えていくことも大切です。

「あっと驚かないけれど、新しいもの」とは実はAダッシュであり、いきなりXまで飛んでしまうと、市場ではまったく求められないということもあり得ます。「あっ!」より「へぇー」にヒットは潜んでいる。僕はそう感じるのです。

ワープロと固定電話を使っていた人にとって、携帯電話やパソコンは「へぇー」でした。しかし江戸時代の人にスマートフォンを渡した場合、「あっ!」と思うでしょうか?おそらく「あっ!」ではなく「え?」という反応であり、結局のところ欲しがりはしないのではないでしょうか。

「どこがいいの?何でもできるったって、この中から小判が出てくるわけじゃねえんだよな?じゃあ、いらねえよ」と言われそうです。

仮に僕が「この電話で、いつでもどこでも遠くの人と話せるよ。使い方はまず……」と説明を始めたら、江戸時代の人には、「いや、狼煙があるからいらねえよ。だいたい、いつも持ち歩いてなきゃいけねえなんて、いやだ」と拒絶されるかもしれません。

あっと驚く心の裏には、恐怖も潜んでいます。

たとえば「明日、火星に連れていってあげるよ」と言われたとき、「行きたい!行きます!」と即答する人が何人いるでしょう?これが数カ月後であれば、「行きたい」と答える人はたくさんいると思いますが、明日となると話は別です。スケジュールが空いていても、一瞬ためらいを感じる人は多いのではないでしょうか。

ほんとうに安全なのか、もうちょっと確認したい。食事は宇宙食だろうけれど、どんなものなのか?トイレは?アメニティは?ケネディ宇宙センターから出発なら、英語が流暢じゃないとまずいのか?新しいものを疑う気持ち、どんな感じかを事前に確かめてから行動したいという気持ちは、原始時代、危険と隣り合わせに生きていた人間の本能に根ざしていると僕は思います。

また、確かめたい本能がなければ、「食べログ」や「トリップアドバイザー」といった口コミサイトがこれほど人気を集めるわけもありません。

新しいものに接した時、過去のものや過去の知識に照らし合わせて考えるのが自然だということです。僕たちはまた、未来と過去が引っ張り合いをしている世界に存在しています。

人が未来に引っ張られる進化だけの生き物であれば、骨董好きな人などいないし、一定のサイクルで、古いファッションがリバイバルで流行することもないでしょう。

古いものに慈しみをもち、古いものに対して「美しい」と思う感情が、未来へ、新しいものへと進もうとする力に拮抗して、バランスを取っているのだと僕はとらえています。

このバランスを加味した上で企画を考えないと、あまりにも先進的で攻撃的な、誰もついてこられない独りよがりの企画になってしまいます。

エンジンと電気モーターの力によりガソリン代の軽減とエコを実現したハイブリッドカー。

既存の照明器具で使えるのに寿命は遥かに長いLED電球。メール、チャット、SNS、電話などが一体化した機能を備えながら、はるかに手軽なLINE……。みんなが「へぇー」と思うものは、ある程度知っているものの延長線上にありながら、画期的に異なっているもの。「ありそうでなかったもの」です。

従来の考え方を遠ざけ、独創性ばかりにこだわりすぎると、文字通り「独りよがりのクリエイティブ」になってしまいます。ものをつくる人間は、新しさを追い求めながら、過去へのリスペクトも忘れないことが大切なのではないでしょうか。

過去から学ぶ際には、何を手がかりにするかを見極めることが肝要です。新たなアウトプットの見本やヒントとなるのは何か?それを知る糸口となるのが、知識に他ならないと僕は感じているのです。

豊富な知識があるということは、センスを磨くためのよき師をたくさん持っているようなものです。たった一人の師ではなく、より多くの、しかも優れた師に学んだほうが、力が伸びていくことはいうまでもないでしょう。

センスとは、知識にもとづく予測である

よきセンスをもつには、知識を蓄え、過去に学ぶことが大切です。同時にセンスとは、時代の一歩先を読む能力も指します。はるか遠い未来に飛んでしまっては、消費者は未知のものへの恐怖や違和感を覚え、ついてきてくれないと述べました。アウトプットそのものは時代の半歩先であるべきです。

しかし、半歩先のアウトプットをつくり出すためには、一歩先、二歩先を読むセンスがなければならないのです。過去を知って知識を蓄えることと、未来を読んで予測することは、一見すると矛盾しているように感じます。

しかし、僕の中でこの二つは明確につながっています。知識にもとづいて予測することが、センスだと考えているのです。一例として、経営センスについて考えてみましょう。

「先々の事業計画のために、このベンチャー企業を買収しよう」などと、先を読む能力に長けた経営者がいます。彼らは優れた経営センスがあり、非常に感覚的だと評されることが多いようです。

実際に、「社長はどうして市場の先行きが予測できるのですか?」というインタビューに対して「長年の勘です」と答える経営者もいます。

しかし僕の見たところ、こうした社長はおそらく、市場についての膨大な知識と経験を蓄えており、それをもとに自分なりの予測を生み出して、経営判断をしています。

一連の思考プロセスを言語化するのが難しいために「勘です」と答えているだけのような気がします。

もう一つの例として、占いを考えてみましょう。非常によく当たる有名な占い師は、「超能力がある」などとされます。

しかし、彼らの言動を見ていると、「自分の持てる知識を総動員して説得にかかっているな」と感じることも少なくありません。さらに占いにはいろいろあり、統計学のように思えるものもあります。

僕はあるとき風水に興味を持ち、一〇冊ほど本を読んでみて、はっとしました。「風水って占いに見えるけど、実は気の流れにまつわる知識の集大成なんだな」気功の気、霊気の気ではなく、大気の気。風水とは、文字通り水と風、そして湿度や温度といった天候や地質の知識にもとづいて打ち出された未来への指針なのです。

いつの間にか「玄関に黄色い置物を」というミニマムな話としてとらえられるようになってしまいましたが、もともとの風水とは、都市計画だったようです。「どうしたら人が病気にならず、戦で攻められたときに守りやすく、水の流れと風の流れに沿った美しい都ができるか」と考えたとき、過去の例、湿度、風の向き、土地の構造といった知識を参考にした上で導きだされたものなのです。

単純に言えば「風通しが悪くてカビが生える環境に都をつくったら、疫病が流行する。病人や死者が多い都は栄えない」というのは合理的かつもっともな話。

そうならないための都市計画を立て、人々にわかりやすく説明するために「東や北に龍を置け」というイメージを用いたのではないかと僕は感じています。

そして、よく当たる占い師というのは、センスがよい人であったと想像するのです。現代においても、ごく身近なところで知識にもとづく予測はできますし、予測する必要があります。それがセンスを磨くことにつながっていきます。

たとえば、僕は代官山に事務所を構える際、建物ができる前に契約してしまいました。更地に仮囲いができて基礎工事が始まっていた頃、プレートに書いてあった施工主にすぐ連絡し、「ここにできる建物に興味があるので、図面を見せてください」とお願いしました。

太陽が降り注ぐ心地よいオフィス。屋上に上がればまるで海辺にいるような開放感。グッドデザインカンパニーは、こうして出来上がっていったのです。事務所を構えるのは、大きな決断です。

どんな建物ができるかもわからないのに、「この土地がいい!なんだか気持ちいいから」という理由でいきなり決めてしまった僕について、「センスで決めた」という人もいるでしょうし、「直感がすごい」と言ってくれる人もいますが、実際は知識によるものです。

事務所のある場所は高台で、陽がよくあたるし風が通って気持ちがいい。さらに第二種中高層住居専用地域だから、将来的に、まわりに騒々しい商業施設が建つこともありません。

時折、「部屋から東京タワーが見えるからこのマンションを買ったのに、目の前に高いビルができて見えなくなっちゃった」と不満を言う人がいるようですが、こういう人は知識による予測をしておらず、残念ながらセンスに欠ける人かもしれません。

知識がなくても、調べたり人に聞いたりすればわかることなのに、そのひと手間を惜しんで選択を誤ってしまったかもしれないのです。

たとえば目の前が首都高速道路のマンションだったら、うるさいかもしれないけれど、ビルが建つ可能性はかなり低い。「東京タワーが見える部屋」という希望がかないます。首都高速道路の改築予定があるなら、どのエリアが対象になるかの知識を得ることが、予測を正確にする助けとなります。

また、山手通りなどをよく観察しているとわかりますが、長靴のようなL字型に建物が建っている土地があります。これはたいてい、道路拡張のために区画整理が行われる予定がある土地で、数年後に取り壊しに応じる建物しか建ててはいけない決まりです。

「広い通り沿いにお店を出したい」と思っている人は、このような通りに目を付けておくと、そこはやがて広い通りになるかもしれません。

こうした都市計画は何十年も前から決まっているものなので、知っているか知らないか、あるいは調べるか調べないかで正確な予測ができるかどうかが決まります。

知識の蓄えと予測の繰り返しで、センスは磨かれていくと僕は思うのです。

客観情報の集積がその人のセンスを決定する

センスが知識で成り立つことは、もうお伝えし尽くしたように思えます。ただし一点だけ付け加えたいのは、知識ならなんでもかまわない、というわけではないこと。

わかりやすい例としてファッションを考えてみましょう。学生時代から、「なんということのないセーターを着ているけど、すごくセンスがよくておしゃれだな」と感じさせるAくんがいるとします。

彼は何も考えずに「なんということのないセーター」を選んでいるのに、不思議とセンスがいい──洋服に興味がない人たちはそんなふうに思っていますが、明らかに違います。

Aくんは実はファッションについてとても勉強していて、洋服やそのときの流行をよく知っています。

さらに、自分の体型、個性、雰囲気など客観的な情報もきちんと集積しており、その二つの知識を合わせて服選びをしているのです。

一方、「いつも流行のど真ん中の服装をしていて、ファッションが好きなのはわかるけれど、センスはなさそうだし、おしゃれにも見えない」というBさんもいます。

BさんもAくん同様に、ファッションについてとてもよく勉強しているでしょう。

しかし、彼女の知識は非常に偏っており、「今、何が流行っているか」という点に絞られています。もしかしたら「モテ服はこれ!」という情報も入手しているかもしれませんが、自分の体型、個性、雰囲気といった客観的情報は持っていません。

その結果、自分に何が似合うかという目的にかなわない服装をしてしまうので、センスがよくも見えず、おしゃれにも見えないのです。

この例からおわかりいただけるとおり、センスをよくするためには、単に流行の情報を集積するだけではいけません。数値化できない事象を最適化するためには、客観情報ほど大切なものはありません。センスの最大の敵は思い込みであり、主観性です。

思い込みと主観による情報をいくら集めても、センスはよくならないのです。僕たちはみなそれぞれ、自分なりの思い込みを持っています。考え方、これまでの生き方がその人の一〇〇%をつくり出しています。ファッションに限らず、ビジネスにおけるプランや企画においても、僕たちはなかなか主観性の枠から自由になれません。

なかなか自由になれないからこそ、意識して思い込みを外すべきだと僕は感じます。思い込みを捨てて客観情報を集めることこそ、センスをよくする大切な方法です。僕は半ば冗談、半ば本気で「学校にセンスを教える授業があればいいのに」と言いますが、これは学校教育こそ客観情報の集め方を教える効率的な仕組みだと考えているからです。

歴史の知識、数学の知識は客観情報として与えられるのに、美意識にまつわる知識はすべて自己学習として放置されており、その結果、客観情報を集められるAくんと集められないBさんという差が生じてしまう気がしています。二歳の男の子がものすごくセンスのいい服装を選べるかといえば、無理でしょう。

もちろん子どもにも多少の差はあると思いますが、Aくんのような子どもも、Bさんのような子どももほとんどいないはずです。先天性のセンスというものが仮にあったとしても、それはわずか数パーセントであり、後天的要素が非常に強いのです。

ピンクが好きだからピンク色の服を買う、アウトドアが好きだからアウトドア用品を買う、機能性が高いものが好きだからスポーツメーカーの服を買う、とにかく安いものが好きだから安い服を買う。どんな理由にしても、人は好き嫌いでものを選んでいます。

好き嫌いというのは主観にほかなりません。そこに「どの服が自分にふさわしいのか」という客観性を加えれば、数値化されない事象を最適化するセンスの力が発揮されることでしょう。あなたが幸いにAくんのタイプであれば、客観情報を引き続き集積することです。

残念ながらセンスに自信のないBさんのタイプであれば、「好き」という主観を外して客観情報を集めてみましょう。AくんともBさんとも違い、「好きなものもないし、知識もない」というのなら、真っ白なキャンバスのようなものですから、客観情報はそれだけ集めやすいと言えます。

ただ、知識獲得の努力をこれまでにしていないことは自覚しておいたほうがいいと思います。「センスのいい家具を選びたいのに、選べない」という人は、もともとインテリアについてさほど知識がありません。それなのに何軒かインテリアショップを見て、せいぜい五~六冊の雑誌を眺めたくらいで「私にはわからない」と言ってしまいます。

しかし、パッと見ただけでセンスのいい家具を選べる人は、おそらくインテリア雑誌の一〇〇冊や二〇〇冊には軽く目を通しています。

あるいは、お店を回ったり、詳しい人に話を聞いて、それに匹敵するような情報を得ているはずです。勉強のような辛い努力ではなく、趣味として楽しんでいたかもしれませんが、結果、膨大な知識の集積が行われているはずなのです。

さらに、「自分の部屋」について客観的に見る目も持っているので、ふさわしい家具が選べるのです。センスに自信がない人は、自分が、実はいかに情報を集めていないか、自分が持っている客観情報がいかに少ないかを、まず自覚しましょう。

いくら瞬時に物事を最適化できる人がいたとしても、その人のセンスは感覚ではなく、膨大な知識の集積なのです。センスとはつまり、研鑽によって誰でも手にできる能力と言えます。決して生まれつきの才能ではないのです。

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