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Part1センスとは何かを定義する

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Part1センスとは何かを定義する

センスとは、数値化できない事象を最適化することである

「センスがよい/悪い」と、僕たちは何気なく口にします。「センスを生かす」というと、分野は多岐にわたります。

美的センスという言葉はさまざまなシーンで使われ、身近なところではファッションのセンスがあります。

「バッティングセンス」など、スポーツにもセンスが必要とされ、仕事にもセンスは必要です。経営を左右するのも、売り上げを左右するのもセンスです。

では、「センスのよさ」とは何でしょう?「服のセンスがいい」というのは、カッコいい/悪いとほぼ同じ、そう言っても差し支えないでしょう。

「経営のセンスがいい」というのは、売り上げがいい/悪い、あるいは業績がいい/悪いということでしょうか?たしかに経営センスのある社長がいる会社は、たくさん利益を出していそうに思えますし、数字はとても大切です。

しかし、業績がよくても「センス?うーん、どうだろう?」という会社もあるでしょう。たとえば、従業員や取引先を悲しい目に遭わせて利益だけ出していたら、センスがいい会社とは言えません。

逆に業績はいまひとつでも、よい人材を育成し、力の強い企業をつくろうとしている社長なら、経営センスがいいかもしれません。新商品を開発するために利益を新しい投資に回し、一時的に利益率が落ちているという会社の社長も、よき経営センスの持ち主かもしれません。業績や売り上げは数値化できますが、「センスのいい会社」というのは、単純に数字では測れないものです。

トップレベルの野球の打者一〇人を打率がいい順に並べたとして、「打率が一番の人が、バッティングセンスも一番です」と言い切ったら、おそらく異論が出るでしょう。少なくとも僕は、それほど単純なものではないと思います。

このように考えると、センスというのは数字で測ることができないものである、となります。「センスのよさ」とは、数値化できない事象のよし悪しを判断し、最適化する能力である。これが僕のセンスについての定義です。

おしゃれもかっこよさもかわいらしさも、数値化できません。しかしそのシーン、そのとき一緒にいる人、自分の個性に合わせて服装のよし悪しを判断し、最適化することはできます。それを「かっこいい、センスがいい」と言うのです。

「日本で一番売れている服」はデータを取ればある程度数値化できますが、それを着ればセンスがよくなるわけではありません。ハイエンドのブランド品を着ればセンスがよくなれるかといえば、明らかに違うことはおわかりでしょう。

数字で測れないために、センスというのは非常にわかりにくいものだと思われています。それでも確実にセンスのよい/悪いは存在し、それはどのような環境のもとにあるかにも左右されます。

まず「普通を知ること」が必要である

センスとはわかりにくいもの。特別な人にだけ生まれつき備わっているもの。天から降ってくるひらめきのようなもの。このような誤解を招く理由の一つは、センスが数字で測れないものだからでしょう。

それゆえに「斬新なアウトプットをするには、いまだかつて誰も考えなかったとんでもないことを、センスをもってひらめかなければいけない」と思い詰めてしまう人もいます。いざ商品開発となると、「普通じゃないアイデア」を追い求めてしまうこともあります。

しかし、センスがいい商品をつくるには、「普通」という感覚がことのほか大切です。それどころか、普通こそ、「センスのいい/悪い」を測ることができる唯一の道具なのです。では、普通とは何でしょう?大多数の意見を知っていることでも、常識的であることとも違います。

普通とは、「いいもの」がわかるということ。普通とは、「悪いもの」もわかるということ。その両方を知った上で、「一番真ん中」がわかるということ。「センスがよくなりたいのなら、まず普通を知るほうがいい」と僕は思います。

これは「普通のものをつくる」ということではありません。「普通」を知っていれば、ありとあらゆるものがつくれるということです。

普通よりちょっといいもの、普通よりすごくいいもの、普通よりとんでもなくいいものというように、普通という「定規」であらゆる事象を測っていくことによって、さまざまなものをつくり出すことができるのです。

たとえとして「定規」という言葉を使いましたが、数字であらわせない抽象的なものを測るのですから、「スイスアーミーナイフのような多機能ナイフを持つ」とイメージしてもいいでしょう。

小さなナイフ、ワインのコルク抜き、はさみも爪切りも、すべてがコンパクトにまとまっている道具です。スイスアーミーナイフのナイフと庖丁を比べたら、庖丁のほうがよく切れるに決まっているし、爪切りも単体の爪切りのほうが使いやすいのです。

しかしスイスアーミーナイフを一つ持っていることで、「いざとなれば何かはできる」という安心感が芽生えます。普通を知るとは、これに似ています。

「ありとあらゆる資格を持っていればいいという、資格マニアのようなものなのか?」と思うかもしれませんが、僕の意味することは、ちょっと違います。

「たくさんの道具を持っているから何でもできる」のではなく、「あれもできて、これもできるから、その真ん中がわかる」という状態になるのではないかと考えているのです。

たとえばビートルズについて聞かれた時に、僕が「すごいんだよ」と言うのと、坂本龍一さんが「すごいんだよ」と言うのとでは、説得力が違います。

音楽のプロである彼は音楽についての豊富な知識をもっていて、ありとあらゆる角度でビートルズを測ることができます。その結果の「すごいんだよ」だからこそ、説得力があります。

人はそれを察知して、「坂本さんが言うことの精度は高いだろう」と感じると思うのです。坂本さんはおそらく、古今東西のあらゆるミュージシャンを知悉した上で、「ビートルズはすごい」と定義するでしょう。

しかし、ビートルズだけが熱狂的に好きな人にとっては、ビートルズがすべてです。

ローリングストーンズと比べることも、B’zと比べることもできません。

「ビートルズ以外は、関係ない」と凝り固まってしまいます。これは別に悪いことではありませんし、「ものごとを深く見ている」とも言えます。

しかし、とても狭く偏ったものの見方であることは間違いなく、その人が言う「すごいんだよ」には、説得力がありません。数値化できない事象には、ありとあらゆるものがあります。ましてそれを最適化するとなれば、多角的・多面的にものごとを測った上で「普通」を見つけ出し、設定する能力が必要です。

数値化できない事象を測る方法をたくさん知っていればいるほど、センスがよくなります。自分が認識している「普通」の基準と、あらゆる人にとっての「普通」を、イコールに近づけられるようになればなるほど、最適化しやすくなるのではないでしょうか。

普通という定規でいろいろな年齢を測れば、いろいろな年齢の消費者の欲しいものがつくれます。つくり手が男性だろうと女性だろうと、異性が好きなものもつくることができるのです。普通を知るということは、ありとあらゆるものをつくり出せる可能性がたくさんあるということです。

子どもは自由に「センス」を発揮している

センスというものが、わかりにくく、突飛で、特別な人だけに備わっていると誤解されているもうひとつの理由は、美術、芸術、デザインといったセンスにまつわる事象への考え方の違いではないかと僕は思っています。

ほとんどの人は、子どもの頃に美術や芸術に出会います。芸術一家に生まれたとか、特別な趣味人の両親がいなければ出会えないということはありません。塗り絵やお絵描き。おゆうぎやダンスや歌。これが多くの人にとって芸術との出会いです。

学問というものを学ぶ以前に、僕たちは知らず知らずのうちに、芸術の扉をたたいているわけです。絵を描く。歌う。踊ったり体を動かしたりする。この三つは人間が原始的かつ生理的に求めてしまうものであり、美術、音楽、体育の三教科があてはまるというのが僕の考えです。

体育は苦手でも美術が好きだったり、体育と美術が嫌いでも音楽が好きだったり。実技は楽しいもので、三つ全部が生理的に嫌いという人はほとんどいないはずです。美術に特化して考えると、幼い頃は誰もが大好きだったことでしょう。保育園児や幼稚園児に絵を描かせると、みんなすごく楽しそうにクレヨンを握り、夢中になって自由な線を描きます。

ところが、無邪気に歌ったり、絵を描いたりすることを楽しんでいた子どもは、間もなく残酷な判断にさらされます。「絵がうまい、下手」「歌がうまい、音痴」数字では測れない目に見えない基準で、「○○ちゃんは絵がへたくそ」「音痴だね」と決めつけられます。「リズム感がなくて踊りがおかしい」「運動音痴」という嘲笑もあるでしょう。

時にはそれらが原因で幼稚ないじめにもあい、突然、「絵が描けない、歌が歌えない、踊りがおかしい」という谷底へ突き落とされてしまうのです。

しかし、美的センス=実技ではありません。優れた画家を育ててきた画商たちは、審美眼というセンスが非常に優れていました。彼らは絵が描けずとも、美的センスがある者たちでした。

音楽のセンスがある人が、心を揺さぶる美声の持ち主とは限りません。歌がうまくない作曲家や演奏者もいます。歌は下手、曲もつくれないし楽器も操れない。だけれど、歌のよし悪しを聞き分ける名プロデューサーはいますし、彼らは音楽センスのある人でしょう。

身体能力となると多少事情は変わるかもしれませんが、足が遅いダンサーもいれば、ダンスが下手な陸上選手もおり、運動は苦手でも体を使うセンスに優れた人はいくらでもいます。

芸術や運動のセンスを、実技だけで測ろうとする──ここで多くの人が、「センスは自分には手の届かないものだ」「芸術なんて関係ない」「センスは生まれつき決まっている」と思い込んでしまいます。

大人になるにつれ、この傾向はますます強くなります。よほど才ある者でない限り、「絵が好き、歌が好き」といつまでも言っていてはいけないような環境が世の中にある、僕はそんな気がしています。「歌が好き、お絵描きが大好きなんて幼稚だ」小学生や中学生がこのように思うのは、幼児性や子どもっぽさから脱却しようという成長の表れでもあり、一概に悪いことでもありません。

しかし、「大人っぽさ」の定義が間違っているゆえに、間違った方向へ脱却しようとしている可能性もあります。美術や音楽を無邪気に楽しむ様子は、確かに子どもっぽく見えます。しかし、大人になれば美術や音楽がまったく不要かと言えば、違います。

重要性を語られる前に、「芸術よりももっと大切なものがある」という大声に押し切られてしまう、問題はここにあるのです。

その大きな声は、おそらくこんなふうに語るでしょう。「そもそも君たちは国語や数学をやらなきゃいけない。英語も大切だし、道徳観も学ばなきゃいけない。将来に役立つ勉強をしなさい」

こうして大量の「学ぶべきこと」に揉まれているうちに、絵を描いたりものをつくったり、歌ったりすることのプライオリティが下がっていきます。

端的に言うと「受験科目でない」というだけで、実技を伴う科目は趣味のもの、どうでもいいものにされてしまいます。「将来の役に立たない」と、よけられてしまうのです。これが大人になっていく過程で起こる、芸術との訣別です。

やがて芸術は手の届かないもの、縁のないものになり、そこに関係するセンスのよさは「特別な人の才能」となってしまいます。

本当は誰もがその人なりの「特別な才能」を持っていて、幼い頃には自由にそれで遊んでいたのに。僕にはこれが、とても残念なことに思えてなりません。

美術の授業が「センス」のハードルを高くしている

美術という授業、体育や音楽の授業というのは、人間にとってとても重要な時間です。これらが「将来の役に立たない」という信念のもと、なおざりにされるのは残念です。

しかし、こうした科目の教え方にも、問題があるのではないかと考えています。特にクリエイティブディレクターとしては、「現行の美術の授業のやり方はかなりもったいない」と感じられてならないのです。

小学校には図画工作があり、多くの中学にも美術の時間があります。これらの科目を「学問」ととらえている人が、どれだけいるでしょうか?おそらく教師も生徒も、「芸術科目は学問でない」という認識ではないでしょうか。その原因のひとつは、授業時間のほとんどが実技のみに費やされることです。

しかし、美術というのは立派な学問であり、二つに分かれているというのが、僕の意見です。一つ目は芸術や美術についての知識を蓄える「学科」。二つ目は、絵を描いたり、ものをつくったりする「実技」。この二つを一緒くたにし、実技のほうにウエイトを置きすぎるあまり、「美術は学問ではない」という誤解が生じています。

僕たちは美術となると、何の練習も知識もなしに、いきなり実技をやらされますが、美術にも学科があって然るべきです。美術の歴史、美術の見方、どのような技法がどのように成り立っているか、そうした知識を学びながら実技も行っていく。そうすれば、単に絵のうまい下手だけでなく、センスを育てる土壌ができるでしょう。

「美術の知識なんて実技に関係ない」と思う人がいるかもしれませんが、学問とは体系立ったものです。たとえば経済学では、経済そのものと関係がないカール・マルクスという人物の歴史を学ぶなど、枝葉と思われる知識の部分も知っておくことが大切だという共通認識があります。

美術という学問もそれと同じく、ゴッホがどこの国の人であったか、どういう暮らしをし、どのような思想をもっていたか、どういう時代背景の中であのような絵が生まれていったのか、という知識も学んだほうがいいと僕は思っています。そうすれば美術についての感じ方、考え方、表現方法も変わってくるのではないでしょうか。

実技を「うまい/下手」で判断することだけが、美術という学問に優れているかどうかを測る尺度になり得る──僕は決してそう思いません。

たしかに美術の実技は数学のように○×で採点はできず、美術において「1+1=2」という絶対の解はありません。正しい書き順と形がきっちり決まっている漢字とも違います。歴史のように「一六〇〇年が関ヶ原の戦い」と、明確な答えがあるわけでもないのです。

しかし世の中には、経済学や経営学、哲学のように、「こういうものだ」という確固たる答えが出ない学問もあります。美術はこれらと同じ、もしくは非常に近しい学問であると僕はとらえています。

「この絵が描かれた背景について、どれだけの知識があるのか」「どうしてこのような作品が生まれたのか、体系立てて説明できるか」こうした判断基準で美術の成績が決まるのであれば、よきセンスが養われる大きな力となるでしょう。

僕たちは歴史を学ぶ時、「徳川家康が何年に何をした」という事実だけを学んでいるのではありません。事実を入口に知的好奇心を広げ、「家康はこんな人だったから、こうしたことを成し遂げた」と人間と行動について学びます。そのうえで「だから僕は何をしよう」と人生を表現することに役立てています。

美術を学ぶ時も、同じようにするべきではないでしょうか。たとえば、絵を描く時。複数の色を使う場合に最も気をつけたほうがいいのは、隣り合う色の選び方です。美術の教科書の片隅に載っていた、色がぐるりと円を描いた「色相環」を覚えているでしょうか。

隣り合う色には、色相環の反対側にある「補色」を使うか、あるいは「同系色」を使うと、きれいな仕上がりになります。より詳しく色の相性を見つけるには、書店に数多く並ぶカラーチャートの本もお薦めです。思い込みを捨てて観察してみることも大切です。木を描く際、小さな子どもはたいてい、太い幹の左右から次々と枝を生やします。

でも実は、ほとんどの植物の枝は、らせん状に生えています。象は灰色、ワニは緑色、キリンは黄色と黒で描きがちですが、象もワニも、実物は茶色っぽい色をしています。

キリンに至っては、茶色とベージュ。実際には、黄色いキリンはいないのです。こうしたコツや知識を会得していくだけで、いわゆる「上手」で「センスのある」絵は、たやすく描けるようになっていきます。

美術作品を見るときも同様です。サインが書かれた白い便器を見せられても、誰かの落書きにしか見えません。

ですが、「これは、マルセル・デュシャンという人が唱えた『レディ・メイド』という様式であり、芸術へのアンチテーゼである」と知ってから見ると、この作品が急に生き生きと見えてくるはずです。

ものの見方が増えていくことで、センスのよさが養われていきます。歴史が、「知識を学んだ上で、今の時代で自分が何をしたらいいかという礎をつくる授業」であるなら、美術とは「知識を学んだ上で、自分が何かをつくったり、生み出したり、表現したりする礎をつくる授業」であるべきです。

「歴史がうまいね、下手だね」と言わないのと同じように、美術にうまいも下手もありません。「知識を学んで今に生かす」という意味では、美術はほかのものとなんの変わりもない学問であり、誰でも学ぶことで成長できるものだと思うのです。

美術の知識が欠落すると、美的センス、すなわち美意識というものにコンプレックスを抱くようになります。服、住まいやインテリア、持ち物や雑貨を選ぶことに自信がもてなくなります。

身の回りの些細なことですが、これによって、「センス」という言葉への恐怖心が育っていってしまいます。こうなると、何かをゼロからつくり出すというとき、まず「自信がない」という状態になります。

スタート地点がゼロどころか、マイナスになってしまうのです。美術の知識を得ることでこの状況を回避できるのであれば、大人になってからでも個人的に美術の知識を得ていいのではないでしょうか。

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