はじめに
私はスターバックスコーヒージャパンに12年間勤めて、長く人材育成に携わってきました。その仕事を通して、私は優れた人材マネジメントの方法を学びました。
その中で感じたことや大切なことを、あますところなくみなさんにお伝えしたいと思います。今この本を手にしている方も、一度は人材育成やチームワーク、リーダーシップで悩んだ経験があるのではないでしょうか。
スターバックスの人材マネジメントがどれだけ有効であるかは、スターバックスのカフェに行き、スタッフの様子を観察していただければ実感できるでしょう。
お店により違いはありますが、おおむねスタッフは仲がよく、接客態度も他のチェーン店とは違うはずです。とくに日本のスターバックスは、本家アメリカに勝るとも劣らないホスピタリティがうまく機能しています。
アメリカでは拡大路線に走った末に、お客様に感動経験を提供するスタバらしさを見失った時期がありました。アメリカで迷走している最中も、日本のスターバックスは軸がぶれず、ホスピタリティを追求してきたのです。
しかし、スターバックスの時給は飛びぬけて高いわけでもありません。仕事量は他の飲食店のアルバイトよりも明らかに多いでしょう。決して楽ではないのに、なぜみんな活き活きと働いているのでしょうか。
今は、外食産業では時給1000円や1500円を出してもアルバイトがなかなか集まらないと言います。それは、ただ単に仕事がきついからという理由だけではないでしょう。
会社や仕事に対する吸引力がなくなってしまったからではないでしょうか。つまり、若者はお金だけでは動かなくなっているのです。私は今こそ、スタバ精神が再認識されるべきではないかと思っています。
2014年、アメリカのスターバックスは、従業員が無料でアリゾナ州立大学のオンライン講義を受けられるようにすると発表しました。
スターバックスが学費を肩代わりしてくれるのです。卒業後にスターバックスで働いて恩を返す必要もありません。これ自体が、感動を呼ぶような話です。
スターバックスは、テレビや新聞などで一切CMを打ちません。値下げ競争にも加わろうとせず、独自の料金でサービスを提供しています。
広告などにはお金をかけず、お客様やお店で働くスタッフのために使うのが、スターバックスならでは。今は、そういうポリシーが求められているのではないでしょうか。
時給が高くても企業のポリシーに魅力がないなら、若者は職場として選ぼうとは考えなくなったのです。
スターバックスが多くのスタッフに支持され、離職率が低いのは、マインドや考え方を教えるけれども、具体的な方法は各自に任せているからでしょう。
それぞれが、サービスとは何かを自分なりに考えて行動するのです。人は、期待値以上のことが提供されないと感動しないでしょう。期待値以上のことは、マニュアルでは提供できないのです。
そして、お客様を感動させることができれば、その感動がスタッフのエネルギーになり、やりがいにもつながります。
私が現場を肌で感じてつくづく思ったのは、スターバックスは自社の精神を現場に浸透させるために、優れた仕組みを作っているということ。
時間はかかっても、丁寧に人を育ててサービス面でファンを増やそうとしているから、おもてなしの国である日本でも受け入れられたのでしょう。
本書は、すぐにみなさんの役に立つ実用書を目指しています。
自分を成長させたい社会人や、部下や後輩の育て方で悩んでいるビジネスパーソンはもちろんのこと、これから社会に出る学生の方にも、自分の頭で考えて動く働き方の参考になると思います。
みなさんが、仕事を通して感動経験をたくさん得られることを祈っております。
Chapter1スタバで学んだホスピタリティ
最初のお店で学んだホスピタリティ
ホスピタリティとは、「心の込もったもてなし」「歓待」という意味の言葉です。
スターバックスがいかにホスピタリティを重視しているのかは、入社した時に受けた研修からわかっていたのですが、実際にどう表現すればいいのか、正直「わかったような、わからないような」という感じでした。
最初のお店に配属されて間もないころの話です。
私はシフトスーパーバイザー(時間帯責任者)という、ストアマネージャー(店長)になる1つ前の役職になっていました。
当時、そのお店には毎朝同じ時間に来店する女性のお客様がいました。毎日お店のオープンに合わせて来店し、いつもクリームチーズ系のベーグルを注文していたのです。
私はベーグルの種類をなかなか覚えられずに苦労していたこともあり、「いつも同じのを頼むんだなあ」と印象に残っていました。おそらく、そのビルで働いている方で、朝食をお店で食べてから出勤していたのでしょう。
朝といえどもお客様は途切れなく並ぶし、「こんなおじさんが声をかけたら怪しまれるかな」と思って声をかけずにいました。
ところがある日、その女性は開店時間を20分過ぎても現れなかったのです。
「あれ?どうしたんだろう。もしかして具合でも悪いのかな」と、接客をしながらも気になっていました。「今日はもう来ないのかな」と思っていた時、30分ぐらい過ぎてからその女性はいらっしゃいました。
思わず、「おはようございます、今日はいつもより時間が遅いですね」と声をかけました。
すると、その女性は驚いたような顔をしてから、「そうなんです。今日は電車が遅れてしまって」と答えてくれました。「どちらからいらしてるんですか」「実は、隣の県なんです。ここから電車で1時間半ぐらいかかるんですよ」「そうなんですか、それは大変ですね。毎朝同じ時間にお越しいただいているのに今日は姿が見えなかったので、勝手な想像で申し訳ないんですけど、体調でも崩されたのかなって心配していたんです」
「えっ、そうなんですか。ありがとうございます」その女性は嬉しそうにほほ笑まれました。それを見て、私も嬉しくなったのは言うまでもありません。
その日から、その女性の姿を見ると、「おはようございます。いつものベーグルでいいですか」「いえ、今日は違うのにします」という会話を交わすようになりました。
結局お名前もうかがわず、別のお店に配属されてからはお会いすることもなかったのですが、今でも思い出すと心が温かくなるエピソードです。
その経験を通して、私はホスピタリティをどう実現すればいいのか、おぼろげながらわかったような気がします。
スタバの基本理念である「人々の日常に潤いを与える」とは、そういうささいなやりとりではないかな、と思うのです。
お店に行って、コーヒーを買って飲む。それだけでも、自分が欲しいものを手に入れていることには変わりありません。けれども多くの人は、もっと心を通わせるような、ホッとする交流を求めているのではないでしょうか。
だからスターバックスに行った時に、店員がかけてくれたほんの一言が嬉しかったり、紙コップに描かれたイラストに喜んだりするのではないかな、と考えています。
この章では、スタバのパートナーがどのようにホスピタリティのマインドを養い、実現しているのかについて、ひもといていきたいと思います。
私たちはコーヒーを売っているのではない
スターバックス元役員のハワード・ビーハーは、「私たちはコーヒーを売っているのではない。コーヒーを提供しながら人を喜ばせるという仕事をしているのだ」と語っています。
人を喜ばせるにはどうすればいいのか。それが、スターバックスのミッション(使命)に凝縮されています。
最初の研修では、OUR STARBUCKS MISSION(アワー・スターバックス・ミッション)について学びます。これは、スターバックスで働くうえで守るべき行動原則です。
ミッションは6つあります。ここではすべてをご紹介しましょう。
OurCoffee(アワー・コーヒー)
私たちは常に最高級の品質を求めています。最高のコーヒー豆を倫理的に仕入れ、心をこめて焙煎し、そしてコーヒー生産者の生活をよりよいものにすることに情熱を傾けています。
これらすべてにこだわりをもち、追求には終わりがありません。
OurPartners(アワー・パートナーズ)
情熱をもって仕事をする仲間を私たちは「パートナー」と呼んでいます。多様性を受け入れることで、一人ひとりが輝き、働きやすい環境を創り出します。常にお互いに尊敬と威厳をもって接します。そして、この基準を守っていくことを約束します。
OurCustomers(アワー・カスタマーズ)
心から接すれば、ほんの一瞬であってもお客様とつながり、笑顔を交わし、感動経験をもたらすことができます。完璧なコーヒーの提供はもちろん、それ以上に人と人とのつながりを大切にします。
OurStores(アワー・ストアーズ)
自分の居場所のように感じてもらえれば、そこはお客様にとって、くつろぎの空間になります。ゆったりと、時にはスピーディーに、思い思いの時間を楽しんでもらいましょう。人とのふれあいを通じて。
OurNeighborhood(アワー・ネイバーフッド)
常に歓迎されるスターバックスであるために、すべての店舗がコミュニティの一員として責任を果たさなければなりません。
そのために、パートナー、お客様、そしてコミュニティがひとつになれるよう日々貢献していきます。私たちの責任と可能性はこれまでにもまして大きくなっています。私たちに期待されていることは、これらすべてをリードしていくことです。
OurShareholders(アワー・シェアホルダーズ)
これらすべての事柄を実現することにより、共に成功を分かち合えるはずです。私たちは一つひとつを正しく行い、スターバックスとともに歩むすべての人々の繁栄を目指していきます。
最初の研修では、この6つのミッションについて話し合います。
「どの項目が印象的でしたか?」「この目的は何だと思いますか?」「ミッションのどんな点がよいと思いますか?」このような質問を投げかけて、参加者に自由に答えてもらいます。
さらに、「アワー・コーヒー」を実現するためにどのようなことを心がけるのか、「アワー・パートナーズ」で多様性を受け入れて1人1人が働きやすい環境を作り出すにはどうすればいいのか……など、ミッションを1つずつ議論していきます。
早くから「多様性」という言葉を使っているあたり、人種のるつぼであるアメリカならではのミッションでしょう。
「お互いに尊敬と威厳をもって接する」など、かなり高尚な印象を受けます。6つのミッションのうち、コーヒーについて触れているのは1つ目だけ。それはやはり、スターバックスの目的はコーヒーを販売することだけではないからです。
「人を喜ばせる」はお客様だけではなく、従業員にも当てはまります。スターバックスでは本社の正社員も店舗のアルバイトも、すべて「パートナー」と呼びます。
ストアマネージャーも社長も「パートナー」です。そうやって、すべての人が対等な立場であり、垣根がないと示しているのです。
こういう考えは、創業者のハワード・シュルツの父親が低賃金の仕事に就き、会社に不当な扱いを受けていたという体験がもとになっています。
社員を歯車のように扱いたくない、社員には誇りを持って働いてもらいたい、という強い願いがシュルツにはあるのです。だからスターバックスは、研修などの人材育成に時間と費用をかけるのでしょう。
なぜ研修に80時間もかけるのか
「スターバックス・エクスペリエンス(体験)のクラスへようこそ。
これで、みなさんは学びの旅の第一歩を踏み出しました」ファシリテーター(講師)がそう告げると、期待に満ちた目や緊張したまなざしが一斉にファシリテーターに集中します。
これは、スターバックスに入社して初めて行われる研修の1回目のシーンです。バイトであっても正社員であっても、社長であっても(!)、全員この研修を受けることは決まっています。
私もスターバックスに36歳で入社した際に、学生さんやフリーターの方に交じって、この研修を受けました。
「学びの旅」とは、少々気取った表現かもしれません。けれども、これから80時間もかけて行われる研修は、まさにスターバックスという会社を学ぶための旅なのです。
一般的な飲食業のお店でバイトをする時は、通常は簡単な研修を2、3日受けてから、すぐに店舗に立たされると思います。
研修すらないところもあるかもしれません。働きながら覚える、という方針なのでしょう。スターバックスは学生アルバイトにも、のべ80時間、約2カ月に及ぶ研修を受けてもらいます。
もちろん、その間の時給も支払います。80時間の研修期間は、教える側にも教えられる側にも通常の給料を払います。
すぐに利益を上げるには、1日でも早く現場に出て働いてもらいたいと、普通は思うでしょう。それでも時間をかけて学習するのは、スターバックスの理念や価値観を最初に理解してもらうためです。
それも、徹底的に。
スターバックスのコア・イデオロギー(基本理念)は「お客様に感動経験を提供して、人々の日常に潤いを与える」です。この言葉には、コーヒーという単語は出てきません。
おいしいコーヒーを提供するのは大前提ですが、それは手段であり、お客様に感動してもらうのが目的なのです。
したがって、研修ではコーヒーの淹れ方を教える前に、スターバックスのミッションや歴史を学びます。
スターバックスの歴史を紹介するビデオを見ながら、「1杯のコーヒーを通じてビジネスを構築するとは、どんな意味だと思いますか?」などと、ファシリテーターが参加者に問いかけます。
「早くコーヒーを淹れてみたい」と思う人もいるかもしれません。
けれども、スターバックスのミッションや歴史を理解し、共有するのが大事なステップなのです。その理由は、何となくコーヒーを提供するだけでは、お客様に感動経験を与えられないからです。
ミッションに基づいて1つ1つの仕事をしないと、単なる流れ作業になってしまいます。時給を得るためだけの労働になれば、働く側も楽しくないでしょう。
働く側が満足しなければ、お客様を満足させることはできません。そのためにも、最初にミッションを理解してもらうことが大切なのです。
ただし、ミッションの意味を実感できるのは、実際にお店に立ってからになるかもしれません。
私は、前職で人事や人材教育を担当していたので、「スタバではどんな研修をやるのかな」と興味津々で参加していました。
初回の研修ではミッションについて参加者同士がさまざまな議論をするので、「へえ、会社の理念についてここまで共有するんだ」と感心していました。
もちろん、多くの企業では、新入社員の入社式で社長が社訓を説明するでしょう。毎日朝礼で、社訓を唱和している企業もあると思います。
けれども、たいていの企業では、社長室や会議室に社訓が貼ってあるだけ。社訓はお題目になってしまい、多くの社員はその内容を覚えていません。
私も、スタバの研修でミッションを学んでも、「最初だけ教えることなんだろうな」と心のどこかで思っていました。
ところが、最初の研修を終えてお店に配属された時、ミッションが単なるお題目ではなかったことを目の当たりにし、驚きました。
みんなが知識としてミッションを覚えていることにも驚いたのですが、1人1人がそれを体現しているのです。
「なんで、こんなに忙しいのに、みんな笑顔で働いているんだろう」「なんで困っていると、すぐに助けてくれるんだろう」最初に疑問に感じていたことが、一気に理解できたように思えました。
80時間の研修は、働く1人1人がミッションを実行できるようにするための旅だったのです。
研修は自分を変えるチャンス
スターバックスの研修は、ファシリテーターによる一方的な説明を受講者がノートを取りながら聞く、というようなスタイルではありません。
さらに言うなら、「おなかから声を出して!」「いらっしゃいませ!」と連呼するような、体育会系的な雰囲気でもありません。
まずはコーヒーのテイスティング(試飲)から始める、かなり和やかなムードの、いかにもスタバらしい研修なのです。
「今日はブレックファーストブレンドを用意しました。シトラス感があってさっぱりしているブレンドなんですけれど、みなさん飲んでみてどうですか?」などと感想を聞きます。
ちなみに、サポートセンター(スタバでは「本社」をこう呼んでいます)の会議もコーヒーのテイスティングから始まります。
テイスティングが終わると、「グラウンドルール」を決めるというステップがあります。グラウンドルールとは、研修を進めるにあたっての決まり事です。参加者が自主的に発言するような研修にするために、全員でルールを考えるところから始めるのです。
「積極的に発言しよう」「1人1回は意見を言おう」「仲間とコミュニケーションを取ろう」「休憩をちゃんと取ろう」といった案が参加者から出ると、ファシリテーターはフリップボードに書き込んでいきます。
それをホワイトボードに貼ったり、「グラウンドルールなので、地面に置きましょうね」と床にポンと放ったりするファシリテーターもいます。とことん自由な雰囲気の研修なのです。
研修の本題に入る前にも、「スターバックスで働くことや、スターバックスコーヒーについての質問はありますか?」と、いきなり問いかけから始まります。
まず質問を投げかけて、考えて答えてもらう。これは、研修中に繰り返し行われるプロセスです。そして、お店で働き始めてからも、このやりとりは日常的に行われます。
ストアマネージャーや先輩が一方的に「こうやらなきゃダメ」と諭すのではなく、相手に考えてもらい、自分の言葉で答えてもらうのが重要なのです。
さらに、研修ではチームに分かれて話し合う場面も数多くあります。参加者を巻き込みながら、コミュニケーションを密に取っていくのがスタバ流の研修なのです。ただ、研修の段階ではなかなか活発に意見は出てきません。
私が参加していた時も、「何か質問はありますか」というファシリテーターの呼びかけに対して、みな黙ってうつむいていました。
私は周囲に対する遠慮を感じながらも、沈黙をブレイクする最初の質問者でした。日本では学校でも企業でも、大勢の前で手を挙げて発言する人は少ないでしょう。休み時間や会議が終わってから質問する人のほうが多いように感じます。
しかし、質問するのは自分のためだけではありません。みんなでその問題を共有するという意味もあるのです。
同時に、「変な質問だったらどうしよう」「みんなに笑われたら恥ずかしい」と引っ込んでしまう自分を変えるチャンスでもあります。
質問力を鍛えたいなら、どんどん質問をぶつけてみるしかないでしょう。そうすることで、質問の仕方のコツをつかめてきます。
そもそも、スターバックスの研修では、ファシリテーターは質問に対して必ずイエス。
いったん受け止めてくれます。どんな発言をしても否定されることはありません。失敗しないよう立ち回るより、経験をどんどん重ねて度胸を鍛えるいい機会でもあるのです。スターバックスの研修は、自分をあらゆる面で成長させるための学びの場だと言えます。
ミッションでいつでも初心に戻る
スターバックスでは、入社した時に「グリーンエプロンブック」という、手のひら大の手帳のような小冊子を渡されます。
スターバックスに接客マニュアルはありませんが、目指しているサービスのあり方がこの1冊に記されています。
自分の接客がいいのかどうか迷った時などに、グリーンエプロンブックを読んで、今いる自分の位置や期待されていることを確かめるのです。
これには6つのミッションと、5つの行動指針が書かれています。6つのミッションは、前述したようにスターバックスで守るべき原則であり、経営理念や哲学でもあります。
5つの行動指針とは、「歓迎する」「心をこめて」「豊富な知識を蓄える」「思いやりを持つ」「参加する」です。
ミッションを体現するために大切にすべきこと、求められていることに加え、行動のきっかけになるヒントとなる言葉です。
グリーンエプロンブックは、細々と注意事項が書かれているわけではありません。
絵本のような体裁になっていて、5つの行動指針はイラストと共に「歓迎するどんな人でも親しみを感じられるように」「心をこめて接する、発見する、対応する」というように、簡単なキーワードつきで記されています。
一般的な企業では、会社の理念やミッションは全社員の集まりのような特別な時に聞くぐらいではないでしょうか。
日常的に、「この企画内容だと、お客様に夢と感動を与えるというミッションに合わないんじゃないかな」と会話の中で使われることはあまりないでしょう。
私がスターバックスに入社して驚いたのは、社長も社員もアルバイトも、みな普通にミッションを日常会話で使っているところです。
たとえば、仕事はできるのだけれども、仲間とのコミュニケーションに難ありのパートナーに対して、「アワー・パートナーズ」の中にある言葉を使い、「もう少し多様性を発揮したほうがいいね」と伝えたりします。
通常は、「仲間なんだから、仲よくやれよ」と言う場面でしょう。すると「そんなことを言っても、あいつがこんなことを言うから悪いんだ」と、つい自分を正当化してしまいます。
ここで「多様性」というミッションで使われるキーワードを用いることで、自分の行動はミッションとずれているのだと気づけるのです。
「そうだ、『多様性を受け入れる』ってあったなあ最近の自分には、それができていないのかも?」と自問自答するようになれば、後は自分で考えて解決策を導き出すでしょう。
他にも、お客様への対応に問題があった時は、「それが感動経験につながると思う?」という使い方もできます。
こういったミッションのキーワードを使うことで、最初の研修で学んだ内容に結びつけて考えられるのです。
それまで働いてきた会社では、進むべき道はしっかりしるされているけれども、そこからはみ出せないように高い塀が両側に築かれていて、禁止事項により方向を示しているという感覚がありました。
対してスターバックスでは、はるかかなたに目指すゴールがあり、そこに向かって太い長いロープがあるのです。そして、それを離さずに歩いていれば、あっちこっちに揺れながらもまた元に戻ってくる。そのようなイメージを持ちました。
その太い長いロープが、ミッションや行動指針などのポリシーであり、それさえしっかりつかんでいれば、大きくぶれても初心に立ち戻れるのです。
ミッションは掲げているだけではダメで、社員1人1人がそれに基づいて行動できるようにならないと意味がありません。
スターバックスでは店内のミーティングでも、グリーンエプロンブックをもとに、「自分たちのミッションは何か?」「自分たちの存在理由は何か?」と繰り返し話し合いが行われます。
なかには「言われなくてもわかってるよ」と感じる人もいるかもしれませんが、日常の仕事で体現できるレベルになるには、繰り返し考え、行動することが大切です。
そこまで徹底しているから、どのお店でも「スタバらしさ」を実現できるのだと思います。
助けを求めるのもスキルの1つ
どんな職業でも、コミュニケーションは最大のテーマになります。社内では、上司や部下、同僚、社外では取引先や顧客とコミュニケーションを取らなければ仕事は進められないでしょう。
スターバックスで働きたいと思うすべての人が、明るくて積極的で、「人と話すのが大好き!」というタイプではありません。
控えめで人とコミュニケーションを取るのが苦手という人もいれば、人前にどんどん出て主張するタイプもいます。最初からコミュニケーションがうまい人は多くはいません。働きながら、少しずつコミュニケーション力をアップしていけばいいのです。
スターバックスでは、パートナー同士が仕事を進めるうえで、コミュニケーションを円滑に行うために心がけるポリシーとして、3つのスタースキルを実践しています。
- 自信を保ち、さらに高めていく
- 相手の話を真剣に聞き、理解する努力を怠らない
- 困った時は助けを求める
①の「自信を保ち、さらに高めていく」は、コミュニケーションのスキルというより、仕事に対して前向きな姿勢で取り組むために、自信を保つという考え方です。
また、自分だけではなく相手にも自信を持たせ、相手の自信を高めるのだと考えるとわかりやすいでしょう。
スキルアップという努力の結果を自信に置きかえ、相手にも自信を持たせるために共感し、意見交換し、尊敬と威厳を持って対応する。
相手のためなら、少し言いにくいことでもしっかり伝える。相手が何かをやり遂げた時、さらに自信を高めるために、どう素晴らしかったのかを相手に伝える。
つまり、相手が自信を持つことにより、コミュニケーションがより円滑になるのです。これらは、少し高度なコミュニケーションスキルかもしれません。
②の「相手の話を真剣に聞き、理解する努力を怠らない」は、コミュニケーションの基本である「傾聴」にあたります。
コミュニケーションを取る時、自分の言葉を伝えるのに一生懸命になってしまいがちですが、相手の話を聞くほうが重要です。
コミュニケーションは一方通行では成り立たず、双方が理解して初めて成り立つのです。「理解する」とは、相手の話を受け止めるという意味です。
相手と自分は違う人間なので、すべてにおいて同じ考えだとは限りません。自分と違う考えでも、「それはおかしい」と否定するのではなく、「そういう考えもあるんだね」と受け止めることが大切なのです。
③の「困った時は助けを求める」。
助けを求めるのもスキルの1つというのが、スタバならではかもしれません。私自身は、このスタースキルに一番助けられました。
私が最初に配属になったのは、ゲートシティ大崎という東京のJR大崎駅に直結したタワービルに入っているお店でした。100席くらいの広いお店なので、レジでお客様の対応をするだけでも大変です。
加えて、当時は他店にはないクロワッサンやパンをオープンに合わせて焼き、サラダも手作りで販売していました。他のお店より取り扱う商品が多かったので、当時36歳の私にはなかなか覚えきれませんでした。
数種類あるクリームチーズを前にして、「えーと、ベーグルにつけるセサミクリームチーズはどれだっけ?」と近くにいるパートナーをつかまえて、よく聞いていました。
「目黒さん、それ聞くの3回目ですよ」と呆れられながらも、何度も付き合ってくれました。通常だと、わからないことがあってもなかなか聞けません。
それを、必要な時は自分から率先して助けを求めてよいと最初に示しているわけです。これは、自分のためだけでなく、お客様へのサービスをよりよいものにするために助け合おうという意図もあります。
助けを求められた側も相手の立場になって応じることで、関係性を高めることにもつながるのです。3つのスタースキルには、パートナーが互いを受け入れ、補完し合うことで安心して働くために大切な要素が含まれています。これはみなさんにも役立つスキルだと思いますので、ぜひ職場で試してください。
接客の基本は「察する」
スターバックスのお店に行った時、パートナーの視線を感じた経験はありませんか?「目を見て話す」というレベルではなく、「ご注文はお決まりですか?」と投げかける時も商品を渡す時も、やさしいまなざしで様子をうかがっています。
相手がかわいらしい女の子だと、「あれ、この子オレに気があるのかな」と勘違いしてしまいそうですが、これもスタバ流ホスピタリティの一環です。スターバックスのサービスの基本には、シンプリーサービスという考え方があります。
シンプリーサービスとは、「接する、発見する、対応する」の3つです。
お客様と接することで、ニーズをきちんとつかんで、それに合った対応をする。このサイクルを実践できるようになろうと、研修の時に教わります。パートナーがお客様の様子をうかがうのも、「何を望んでいるのか」を察するため。
それもレジを担当しているパートナーだけではなく、コーヒーを作っているパートナーも同様に行っています。
実際には、表情やしぐさを見るだけで簡単に人の気持ちを見抜けるわけではないでしょう。会話をして知ろうとすることで、お客様が何を望んでいるのかが見えてくることもあります。そして、お客様を観察して何か気づいたなら、どうやって行動に移せばいいのかを考えます。
たとえば、スーツ姿の人が夕方にお店を訪れたとします。普通のお店なら、注文をうかがって、商品を渡したら終わり。
スターバックスのパートナーはここで、「仕事の帰りかな。今日は忙しかったんだろうな」と考えます。そこで、商品を渡す時に、「お仕事終わりですか、お疲れ様です」と声をかけてみたり、紙コップにマジックで「頑張ってください」とちょっとしたメッセージを書いたりするのです。
こういった対応はマニュアルで決まっているものではなく、パートナーが自発的に考えて判断します。その行動が、どれだけお客様を励ますのかはやってみないとわかりません。
お客様が嬉しそうな顔をしていたら、「やってみてよかった」と自分も嬉しく感じるでしょう。そんな小さな喜びが原動力となって、スターバックスはホスピタリティに満ちたお店になるのだと思います。
仕事で身につく社会人基礎力
スターバックスでバイトをした学生は、就活で採用されやすい。そんな都市伝説のような話が流布していると聞いたことがあります。
スターバックスで人事を担当していた時、あるファミリーレストランの人事の方から突然、「目黒さん、ちょっと困ってるんだけど」と言われました。
「え、何かあったんですか」「うちのアルバイトで、長いこと働いている、優秀な学生さんがいるんだよ。頑張ってくれてるから、その子をそろそろアルバイトのリーダーにしようかと思ってたんだよね。
そうしたら、就活の準備を始めるからバイトを辞めるって突然言い出してさ」「はあ」「驚いて、あなたは優秀だから我々も期待してるんだ、卒業するまで続けてもらえないかって店長が止めたんだよ。
そうしたら、『僕はこれからスタバでバイトしようと思ってるんです』って言われたらしくて。なんでも、学生たちの間では、スタバで働いたら就活で優位になるって言われてるんだって?スタバでは就活生に何か特別な指導でもしてるの?」「いやいや、そんな話、初めて聞きましたよ」
その時はそう答えましたが、その後いくつかの企業の人事の方から、「スタバで働いていた学生さんを採用したんだけど、すごくいいよ」という話をうかがいました。
スターバックスで就活生に対して特別にレクチャーをしているわけではありませんが、実際にそういうアドバンテージはあるのではないかと思っています。
最初の研修から始まり、日々の業務を通じて、企業の面接官が「おっ、この子はいいな」と思うような受け答えや考え方が自然にできるようになっているようです。
多くのパートナーは、かつて顧客として体験した心地よいサービスを、今度は自分が体現しようという「プライド」や、スターバックスで働くことで成長したいという「成長意欲」を持って仕事をしています。
そのなかで、スターバックスで働いて身につく基礎力は特に2つあると考えています。
これは、実際にスターバックスでアルバイトをした人の基礎力を測定した調査研究、『企業文化が顧客接点アルバイトの基礎力成長に与える影響について』(見舘好隆・北九州市立大学キャリアセンター、中原淳・東京大学大学総合教育研究センター)でも明らかになっている結果です。
1つは目標志向性。
ゴールを具体的にイメージし、周りのパートナーに伝え、自ら達成しようとするスキルです。スターバックスでは、「どのようなステップでスキルアップしていくのか」「何が期待されているのか」「どうすれば昇給されるのか」などが、入社した時に明確に示されます。
加えて、4カ月に1回の頻度で、人事考課の面接をストアマネージャーと1対1で行います。この面接で、うまくできている点ともう少し努力が必要な点を、話し合いを通じて明確にします。
パートナーは、次の面接までに何を期待されているのか、注力する点はどこかを理化したうえで、自ら目標を設定します(人事考課については4章で詳述します)。
たとえば、「『レジ対応』はよくできるようになったから、次はエスプレッソを作る『バー操作』に進みましょう」「オペレーションの基本はマスターできたので、次はいよいよシフトスーパーバイザーにチャレンジね」といった具合です。ちなみに、目標は「SMART目標」の定義に基づいて具体化します。
これは、コンサルティングでよく用いられる、目標設定で注意すべき5つのポイントです。
- SPECIFIC=具体的か
- MEASURABLE=測定可能か
- ACHIEVABLE=達成可能か
- REALISTIC=現実的か
- TIMELY=期限が明確か
これらを指標にすることで、当事者もサポートするパートナーも、納得できる目標を設定することができます。
そうやって目的を理解し、目標を設定して、行動を通じて達成することは、すべての仕事の基礎になります。
何となく作業をするのではなく、期待されていることを把握してから作業をするという習慣があれば、どんな仕事でも能力を発揮できるようになるでしょう。
目標を達成できると、他のことを学ぶ時も、対象は違えど学ぶ要領はわかるようになります。どれぐらい深く理解すればいいのか、どのように身につければいいのか。
一見遠回りに見えるけれども、実はそれがスキルをものにする近道なのです。そして、目標達成を重ねていくことで、プロとしての誇りを持てるようになります。
「ビジネスパーソンもプロフェッショナルであれ」とよく言われるように、どんな仕事であってもプロとしての自覚を持つのは大切です。
社会人になってから多くの人が体験するコピー取りやお茶くみといった作業でも、プロとして目的意識を持っているかどうかで、取り組み方はまったく違ってくるでしょう。
こういう意識を早い段階で身につけるのは、かなりのアドバンテージになります。さらに、目標志向を持つことで、達成感や喜びも味わえます。
仕事にやりがいを感じられない人は、達成感を味わえていないのではないでしょうか。達成感は、大きな仕事だけで味わえるものではありません。
スターバックスのパートナーも、お店の目標を達成したから達成感を味わっているのではなく、日々のお客様とのちょっとしたやりとりを通して喜びを感じているのです。
どんな小さなスキルであっても、自分の取り組み方次第でやりがいは感じられるし、達成感も抱けると知っている人は、働く意義をすでに熟知していると言えます。
それが主体性にも直結するのです。スターバックスで働いているパートナーは、それを持っているから魅力的なのではないかと思います。もう1つは、本章のテーマでもあるホスピタリティの精神です。
スターバックスのパートナーは研修や普段の接客を通して、高級レストランやホテルに劣らないホスピタリティを身につけているのです。
そして、お客様に対してだけではなく、共に働くパートナーに対しても、相手の気持ちや状況をくんで行動することができます。
人に貢献しようとする気持ち、人を喜ばせようという姿勢は、社会人になってもコミュニケーションを取るうえで大いに役立ちます。
たとえば、営業担当であれば、顧客の期待に応えて満足してもらいたいと懸命に考え、相手の話をじっくり聞いてコミュニケーションを密に取るかもしれません。事務系の仕事は、それこそ人に貢献する喜びを知っているスタバ出身者なら最適でしょう。
一見地味に思える仕事ですが、たとえば伝票を迅速に処理することで、他の社員がスムーズに働ける環境を作っているのだという自負があれば、能動的に取り組めるようになります。
医療や介護の分野でもホスピタリティは求められますし、公務員や教師も同じです。どんな仕事でも、コミュニケーションや人間関係は重要です。
人とのコミュニケーションを取らずに済みそうなIT(情報技術)系の仕事であっても、社内の人間やクライアントとのやりとりはあります。
そういった場面で、スタースキルなどを通して育まれた「人の役に立ちたい」というマインドを発揮できれば、自分らしく働けるでしょう。
スターバックスでは、サーヴァント型リーダーシップという言葉が時々使われていました。サーヴァント型リーダーシップは、「奉仕するタイプのリーダーシップ」のことです。
ぐいぐい引っ張るリーダーばかりがいいとは限りません。今の時代は、奉仕型のリーダーが求められているのではないかと思います。
顧客のため、あるいは一緒に働く仲間のために、いつでも手を差し伸べようというリーダーなら、チームをうまくまとめられるはずです(リーダーについては5章でお話しします)。
この2点でわかるように、社会人になってから多くの人が学ぶような基礎力を、スターバックスでは学生という身分であっても身につけることができるのです。自分で考えて行動する習慣もありますし、自分の言葉で表現する力も持っている。
就活の面接で、「スターバックスのアルバイトでどのようなことをやってきたんですか」と聞かれた時、「私はこういうミッションに向けて、働く時はこういうことを意識して行動していました」と具体的に答えられたら、いい印象を与えるのは間違いありません。スターバックスで働く経験が、自然と人間力を高める訓練になっていると思います。
なぜスタバは離職率が低いのか
スターバックスは私がいた時から、人が辞めないと言われていました。2005年に調べた時は、正社員の離職率は10%ぐらいでした。
『就職四季報』(東洋経済新報社)によると、最近のデータは4・8%とかなり低い数字です。そして、平均勤続年数を見ると、スターバックスは8年4カ月、同じ業態のドトールコーヒーは2年9カ月。
スターバックスは日本に上陸して19年なので、好成績ではないでしょうか。これは日本に限らず、アメリカでもスターバックスの離職率は低いと言われています。
私のように、10年以上勤続の人はサポートセンターでは多くいましたし、店舗でも大学生のアルバイトがきっちり4年間働いたりするので、なかなか空きが出ないのです。
1つのお店で平均20~25人が在籍するとして、年間で辞めていくのは5人ほどでした。大学生が卒業に合わせて退職すると、新規に採用する、という感じだったのです。
スターバックスは、同業者に比べて時給が高いわけではありません。それどころか、仕事量は多いくらいです。
余談ですが、私の2人の娘が高校生になってバイトをすることになった時の話です。
私が「スタバで一緒にやろうよ」と誘ったら、「スタバは覚えることが多過ぎて大変そうだから、イヤ」ときっぱり言われてしまいました。2人とも、選んだのはコンビニでした。
その理由は、コンビニはすべてバーコードで「ピッ」で済み、覚えるのはたばこの銘柄ぐらいだから、とのこと。
それを聞いて思わず、「単にモノを販売することだけが仕事じゃないのに」と苦言を呈してしまいました。それでもスターバックスで長く働く人が多いのは、やはり仕事にやりがいを感じるからでしょう。
覚える仕事は多いですし、求めているハードルも高いのですが、その分、自分の成長を実感できるメリットがあります。そして、人の役に立って喜ばれた時、それが自分自身の感動経験になります。
人に認めてもらいたいという承認欲求は、誰もが持っています。スターバックスでは、パートナーからもお客様からも認められる場面は多いので、やりがいを実感できるのです。
もちろん、長く働いてもらえるのは企業にとってありがたい話なのですが、一方で組織が活性化されないという問題も出てきます。
実は、スターバックスの内部では、人が辞めないのは一種の悩みでもあったのです。アルバイトから始めて、順調にステップアップしていよいよストアマネージャーになるという段階になっても、ストアマネージャーの空きがないため待ってもらうようなケースもあります。
今のストアマネージャーが優秀であるなら、別の人に替える必要もないでしょう。お店を増やさないことには、ストアマネージャーの数も増やせないのです。
ストアマネージャーの上にディストリクトマネージャー(地区責任者)やリージョナルディレクター(エリア統括)などの役職を設けてはいるものの、それも数に限界があるのでポストがなかなか空きませんでした。
全体の離職率は低いとはいえ、新卒は他の企業と同じく3年で3割程度は辞めていました。なぜ辞めるのか、辞めていく社員に話を聞いて分析した結果、2つの要因があることがわかりました。
1つは、出世するには競争率が高いこと。上昇志向の強い人は、早い段階で要職に就いて、自分の力で成果を出したいと考えます。
スターバックスに入社する新卒社員も、「早くストアマネージャーになりたい」「ディストリクトマネージャーになりたい」とキャリアアップに前向きな人は少なくありません。
そういう人の中には、上が激戦区になっている現状を知ると、実力があっても早々に辞めていく人もいました。
もう1つは、単純に仕事についていけないからです。スターバックスでは覚えることが山ほどあるので、研修の段階で挫折する人もいます。
また、接客だけをやりたいのに、ストアマネージャーになってマネジメントをしなければならなくなるのを重荷に感じてしまう人もいました。
企業側としても、若くて優秀なパートナーに活躍してもらいたいと思っていても、そういう場を与えられないというジレンマを抱えていたのです。
そこで、「外部プロジェクト」という制度を発足しました。今までスターバックスで培った経験やスキルを使って外部でチャレンジしてほしい、そのために応援金としてお金をお支払いします、という制度です。
これは、いわば前向きな早期退職制度でしょう。スターバックスはアメリカに本社があるので、退職金の仕組みがありません。
アメリカでは退職金の代わりに確定拠出年金という制度があり、個人個人が年金を運用するシステムを導入しています。
その年金を運用するためのお金が、給料から天引きされるのです。日本のスターバックスでもこの制度を採用しています。
それでも、退職金をもらえないのは心もとないので、退職金とは違う名目で会社がお金を支払おうということになったのです。
年に1回そのプログラムを実行することになりました。1回目の時、「誰も名乗りを上げないんじゃないかなあ」と思っていたら、結構手が挙がりました。
なかには、「あれ、この人もチャレンジするんだ」と驚くような人も含まれていました。私もその制度を活用して新たなチャレンジをしたのです。
そのようなシステムを作らないと社内の活性化を図れないほど、スターバックスは居心地のいい職場だったのかもしれません。
合理性がすべてではない
「お客様に売ろうなんて考えていてはダメ。お客様に素晴らしい体験をさせれば、自然に売り上げはついてくるはずよ」これはスターバックスの創業者の言葉かと思いきや、アップルの上級副社長に就任したアンジェラ・アーレンツの言葉です。
アーレンツはファッションブランドのバーバリーを復活させた有能な女性で、ファッションショーで紹介された商品をショーの終了後にネットで買える試みを始めたのは彼女のようです。
これも素晴らしい体験ができるからこそ、ユーザーが殺到したのでしょう。スターバックスも、まさに同じ考えを実践している企業だと言えます。
スターバックスでは、サードプレイスというコンセプトも重要だと考えられています。一般に、人が一番長く過ごす場所(ファーストプレイス)が自宅で、2番目に長く過ごす場所(セカンドプレイス)が職場や学校になります。
第3の居場所、サードプレイスを目指そうというのが、スターバックスの創業当時からの考えです。スターバックスでコーヒー1杯で長時間くつろいでいても、店員が「お客様、店内が混んできましたので……」などとストレートに退店を促すことはまずないでしょう。
いわゆるノマド(オフィスだけではなく、喫茶店などのさまざまな場所で仕事をする人)にスタバが利用されるのも、1日中店内でパソコンを使っていてもいいからです。お客様がそれで幸せになれるのなら、スターバックスはミッションを果たしたことになります。
スターバックスでは、開店時間の10分前にお店のドアを開け、閉店時間の10分後にドアを閉めるようにしています。
このようなちょっとした配慮も、お客様1人1人のサードプレイスを実現するためには大切なことでしょう。
あるコーヒーチェーン店で打ち合わせをしていた時、店員に「もう閉店時間を過ぎている。店じまいができなくて困るから……」と、ぶっきらぼうに退出を促されたことがありました。
「閉店時間を知らなかったので……ご迷惑をおかけしました」と言葉を残してお店を後にしましたが、後味のよくないコーヒーになってしまいました。
お客様に感動経験をしてもらい、居心地よく過ごしてもらえる空間にするために、お店のレイアウトやインテリアも大切な要素だと考えます。
お店のインテリアは、ロケーションに合わせてサポートセンターにある設計チームが中心となって決めています。
いくつかのパターンにしたがって、どの位置にカウンターを設置してテーブルをどこに置くか、壁の絵を何にするのかなどを決めています。ソファの色も置く位置も、すべて設計チームが判断しているのです。
まだ店舗数が少なかったころは、行列ができるお店があちこちにあり、「いつも満席で座れない」というお客様の声がサポートセンターに届いていました。
そこで、レイアウトを変えてみたり、席と席の間隔を詰めてテーブルを増やしたりしました。ソファはかなり場所を取るので、ひじ掛けのない小型のソファを置いてみたこともあります。
すると、今度はお客様から「これじゃあくつろげない」「他のコーヒー店と変わらない」という意見が寄せられたのです。
最終的には、1つのお店で対処するのではなく、近くに新たな店舗を作って解決することになったのですが。
いくらビジネスとはいえ、合理的であればいいというわけではありません。たとえお店の回転率が悪くなっても、お客様の居心地を第一に考えるのがスターバックスであり、それを変えてはいけないということを再確認できました。
ビジネスでは効率化が常に求められますが、そのプロセスの中で、変えてはいけないもの、失ってはいけないものがあると思います。
サービス業で効率性や確実さを追求するのであれば、自動販売機に勝るものはありません。ボタンを押すだけで、瞬時に欲しい商品を提供してくれるからです。
ただ残念ながら、そこには対話やぬくもりといったホスピタリティは感じられないでしょう。
お店に足を運ぶお客様の多くは、商品の提供だけではなく、人からしか生まれないサービスを求めているのではないでしょうか。
合理性を追求するあまり、ホスピタリティを失ってしまわないようにすることも、忘れてはならないと思います。
ミッションを救え!
2009年ごろ、アメリカ本社から「ミッションを変える」という通達があり、日本のサポートセンターでは一時大騒ぎになりました。
当時、アメリカのスターバックスは業績が低迷し、経営から退いていた創業者のハワード・シュルツが再びCEO(最高経営責任者)に戻った時期でした。
アメリカのスターバックスは、シュルツが離れてから拡大路線による増収増益を追求し始めていました。マーケット拡大に出店を重視したことで、本来大切にすべきパートナーへの配慮が弱くなっていました。
その結果、お店のサービスも味も落ち、お客様に感動経験を与えるようなサードプレイスとはかけ離れてしまったのです。
そこで、シュルツは会社経営に戻り、この危機を救うために再生プロジェクトを立ち上げました。これまでにないリストラ(事業の再構築)の中で、大きくフォーカスしたのは「パートナー」への対応でした。
全店舗にコーヒーの淹れ方を一から教え直したのもその1つです。アメリカのすべての店舗を3時間ほど早くクローズして、全員でエスプレッソなどの淹れ方を再確認することになったのです。
その分売り上げは落ちますが、それでもサービスの質を向上させるほうが大事だと判断したのでしょう。同時にかなりの店舗を減らし、パートナーも解雇せざるをえませんでした。
実は、日本にも同様にコーヒーの淹れ方を再教育するよう、通達がありました。けれども、日本では継続して研修に力を入れていましたし、クオリティが落ちたという話は聞きませんでした。
協議の結果、これまでの育成を継続することで、「それぞれ淹れ方を再確認しておくように」という程度にとどめたのです。
さらに、それまでのスターバックスとは一新したという決意を示すために、ミッションを変えるということも重点事項として決められたのです。
かつてスターバックスには、コア・イデオロギーをさらに具体的にした、BHAG(BigHairyAudaciousGoals=数十年かけて成し遂げる大目標)という目標がありました。
BHAGは「25年後の目標」と定義づけ、「心に活力と栄養を与えるブランドとして、世界でもっとも知られ、尊敬される、朽ちることのない偉大な企業になること」という目標を掲げていました。
さらに、前述した「アワー・スターバックス・ミッション」とは異なるミッション・ステートメント(社訓)もありました。
これは、ハワード・シュルツが経営陣と共に議論を重ね、さらに当時の全社員の意見も反映させて作り上げた、スタバの行動哲学と言えるものです。
- 働きやすい環境を提供し、社員が互いに尊敬と威厳をもって接する
- 事業運営上での不可欠な要素として多様性を積極的に受け入れる
- コーヒーの調達や焙煎、新鮮なコーヒーの販売において常に最高級のレベルを目指す
- 顧客が心から満足するサービスを常に提供する
- 地域社会や環境保護に積極的に貢献する
- 将来の繁栄には利益率の向上が不可欠であることを認識する
これには、シュルツらの思い入れの強さが表れており、日本でも、第一号店である銀座松屋通り店のオープンの時から今日まで大切に受け継がれ、体現されてきたものです。
ところが、ミッション・ステートメントも、BHAGもコア・イデオロギーも、今後は新たな表現に変更するという方針になったのです。
当時の日本のスターバックスは、アメリカに比べて業績が悪くなかったこともあり、「なぜ変える必要があるんだ」と疑問視する人が大勢いました。私もその1人でした。
日本はおそらく、他のどの国よりもスターバックスの精神が浸透している国です。
元々茶道にあるような「おもてなし」の精神を高く評価し、サービス業では丁寧な接客をするのが当たり前だと思っているような風潮があります。
スターバックスの「お客様に感動経験を提供する」という教えは、日本人の心に響いたのでしょう。だから日本ではミッションが浸透して、お店が増えてもサービスや味はぶれなかったのだと思います。
それなのに、ミッションという企業の根幹をなすような考えを変えるというのですから、私は愕然としました。
当時の私は人事部に所属していましたが、人材育成の面からも、スターバックスのミッションの考え方は、ひじょうによくできていると感心していました。
企業として目指すべき姿がコア・イデオロギーで定まっていて、それを少し具体的にした中長期的な目標であるBHAGがあり、それに基づいた行動指針がアワー・スターバックス・ミッションで決められている。
さらにそれを実現するために、ジャストセイイエスやスタースキルといった具体的なノウハウもある。この一連の流れで教えるから、軸がぶれないパートナーが次々と育っていくのです。
最終的には、「アワー・スターバックス・ミッション」の6つのミッションだけ残すことになりました。
当時は香港にアジア・パシフィックのオフィスがあり、人事マネージャーがいて、日本を担当していました。日本語はペラペラなので、私も親しくしていました。
彼女が部下と共に来日し、「このような方針に変わります」と説明した時、私は「拒否しているわけではないんだけれど、変える意味がわかりません」と開口一番に意見しました。
彼女たちは「これから厳しい競争に打ち勝つために、ますますグローバル化を進めなければならない。そのためにスターバックスは生まれ変わる必要がある」と説明してくれました。
しかし、私はそれでは納得できませんでした。
「今までミッションが大切だと言って、トップダウンではなくみんなで意見を出し合って決める風土を大切にしてきましたが、今回はそのプロセスを踏んだのでしょうか?『こういう理由でミッションを変えたいんだけれども、どう思うか』と我々に聞いてから決めたんじゃないですよね。
会議室で一方的に通達されて、『決まったことだからしたがってほしい』と言われても、納得できないですよ。これまで培ってきたプロセスと、今やろうとしていることが違うと思うのですが……。それなのに、我々はパートナーにどう説明すればいいのでしょうか」
私がそう言うと、彼女たちは黙り込んでしまいました。私は人事マネージャーを責めようとしたわけではありません。ミッションの変更により、これまで大切にしてきた価値観まで変わるのではないかと危惧したのです。
そうは言っても、彼女たちも本社の決定にはしたがわないといけない立場ですし、それは私たちも同じです。最終的には、アメリカ本社の子会社という立場から、日本のサポートセンターもしたがわざるをえませんでした。
私は改めて、アメリカ本社から発信されたミッション改訂版に目を通しました。翻訳は間違っていなかったものの、心に響くものではなくなっていました。
今まで教わってきた人にはミッションなどの教えは深く根づいているので、これからも同じサービスを提供できるでしょう。
けれども、これからスターバックスに入ってくる人たちには、これまで受け継いできたことを伝えられなくなるのです。
そう思うと、とても悲しい気持ちになりました。そこで、翻訳を改めて自分たちにやらせてほしいと、アジア・パシフィックの人事マネージャーに交渉し、承諾をもらいました。
さっそく、私はサポートセンター内で「ミッション新生プロジェクト」を立ち上げ、ミッションに精通したメンバーを中心に、翻訳に取りかかりました。思いや考え方を変えずに、どうやって原文に合った文章にすればよいか。
メンバーはそれぞれ意見を率直に伝え合い、常に新たな視点を織り込みながらディスカッションを重ねました。
こうして、相互の意見を尊重した参加型のプロセスにより、1人1人が納得できる形で翻訳を完成させることができたのです。
グリーンエプロンブックが日常的にどのように使われるのか、私たちはよくわかっています。
気持ちの込もっていないグリーンエプロンブックを配ったら、何度も読み直してミッションを深く理解しようとする習慣はなくなってしまうでしょう。
完成した文章は申し分ないものでしたが、思いをより伝えやすくするために、私は英語版にはない文章を冒頭に入れたいと考えました。
今までのミッションやポリシーで伝えてきたメッセージを数行の文章に集約させたのです。
「私たちは〝感動経験を提供して、人々の日常に潤いを与える〟ためにここにいます。〈中略〉私たちが目指していることは、心に活力と栄養を与えるブランドとして、世界で最も認められ、尊敬される、朽ちることのない偉大な企業になることです。この姿勢と展望はこれからも変わることなく私たちが大切に育むものです。そして私たち自身がどうあるべきかを考え、これらを実現するために行動を続けていくのです。これからも、いつまでも」日本のグリーンエプロンブックにだけ、この文章は載っています。
「顧客満足は従業員満足から」生まれると、私は思います。パートナーが自分の仕事に誇りを持ち、やりがいを感じていなければ、お客様に感動経験を提供することはできません。
いつでも1人1人がミッションを理解し、納得し、自分の存在意義を確かめられるように、グリーンエプロンブックはパートナーを支えるという大事な役割を持っているのです。
グリーンエプロンブックも改訂を重ねていくので、いつかこの文章は消されてしまうかもしれません。
それでも、このミッションが浸透しているパートナーたちがいる限り、スターバックスは方向性を見失わないでいられるのではないかな、と思います。
もちろん、今でも入社したら研修をする点は変わりません。ミッションから教えるところも変わっていないでしょう。そういった大事な部分が守られている限り、スターバックスのホスピタリティは継続できると信じています。
コメント