眼を開き安定打坐!
理想的な安定打坐というのは、眼を開いていても、仕事をしていても、その刹那に、心耳を澄まし、空の声を聞けば、安定打坐になれるのである。
眼を閉じて、印を組んで、座らなければ、出来ないと思ったら大間違いなのだ。
何をしているときでも、どんな仕事をしているときでも、なれるのでなければならない。
もう刹那咄嗟に出来なければならない。
その予行演習をしているはずだからだ。
そのために、静かに坐禅を組み練習しているのだから。
だがしかし、坐禅の本来の目的は、常住坐臥、人生を生活している刹那刹那に必要とするものなのだ。
急行列車の中で、窓に写るいろんな景色を、フーッ、フーッと雲烟過眼する気持ちが、とらわれのない、執着解脱の心境なのである。
眼、これを見るといえどもこれをとらえず、耳、これを聞くといえどもこれにとらわれず、いわゆる、不即不離、要らないことは、耳から入ってこようと、眼にふれようと、あるいは感覚に感じようと、つかず、はなれずでなければならない。
ところが、あなた方は見るもの、聞くもの、触れるものを、皆自分の人生に交渉を持つようにするからいけないのだ。
できている人と、できていない人の相違は、ただこれだけの相違なのである。
要らないことには、全然、心をおびやかされたり、関係させたりしないことである。
諸君でも、たまたま、そういう状況になることがある。
ただ、意識的には出来ないのだ。
無意識的に出来たんでは駄目だ。
意識的に出来なければいけない。
自分の心なんだから、自分の心を操縦出来なければならない。
ここに千人近く集まっているのに、深山幽谷にいるような状態を感じるのも、要するに、諸君の安定打坐が徹底しているからなのである。
静かで、気高さを感じさせる。
この静けさが、ふだんの心でなければならない。
心は常に「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山」、大山鳴動するといえども、心は常に微動だにしない、というようでなければならない。
自分のいのちを守る心は、しっかりとして、本当に静かで、秋の池の水のような、澄み切ったものでなければいけない。
さあ、今日の真理瞑想は、第一義的な人生の活き方に対する最も重大なことを悟ろう。
講習会を聞いている人は、天風教義が第一義的な人生への活き方を教えるのが目的だと、毎回の講習会でいっているから、覚えていると思うが、第一義的な生き方というのは、何だろう。
天風教義の目的は、どんな場合にも、たとえば身に病があろうが、なかろうが、運命が良かろうが、悪かろうが、その他の人生事情のいかんにかかわらず、いつも一切に対して、その心の力で、苦を楽しむの境涯に活きる活き方をすることにある。
これが第一義的の活き方なのである。
そして、そういう活き方をするには、どうしたらよいか。
それには、何をおいてもまず第一に、人生に対する考え方を根本的に変えなければいけない。
その根本的に変える考え方というのが、積極的だということ。
そして積極的とは尊く、強く、正しく、清く、ということは、すでに何度もいった。
自分の住む現在の人生環境や、また世界を、いやらしいとか、いとわしいとか思うような人、あるいは健康に快さを感じない人があったならば、その人くらい不幸を人生に感じている人はないといえる。
反対に、現在の自分の住む世界や環境が、たとえ他人から見てそう大したものではないと思われるようなものでも、自分が心の底から本当に満足し、感謝して活きているとしたら、その人は終始一貫、幸福のるつぼの中で恵まれて活きている人である。
私は少年のころに、あの熊沢蕃山という人の作った歌を見たときに、ああ人間これでなければいけないなあと思った。
憂きことのなおこの上につもれかし限りある身のちからためさん〝憂きことよ、なおこの上に、つもれつもれ。
俺は、決して、それに負けはしないぞ〟という気持ちだ。
この人の有名な話の中で、私の心を打ったエピソードを話そう。
蕃山は、山の上の一寒村に貧しい暮しをしていた百姓の家に生まれた人なのだ。
もっとも血筋は大変よかったらしいんだが、落ちぶれて、結局は、山家住いの身になったんだが、やっぱり血筋がいいだけに、学問を志して、自分の畠に出来た野菜を担いでは村々、町々に売って歩くかたわら勉学にいそしんだ。
山二つ越したところに、中江藤樹が住んでいた。
中江藤樹というと、儒者で我が国陽明学派の祖、その当時の優れた学者である。
もちろん、身分のいやしい者は、武士の講義する席上に入ることは許されないから、蕃山は講義の始まる時間に来て、垣根の外で、うずくまりながら、垣根越しに中江藤樹の講義を聞いていた。
そうして暫く月日が過ぎたある日、門弟が気付いて藤樹に話すと、「そうか。
それでは庭へ入れてやれ。
下郎の身だから座敷へ上げることは出来ないけれども、庭ならよいから入れてやりなさい。
そして、廊下のところで聞かせなさい」といって、講義を聞かせた。
そして講義が終わった後で中江藤樹が、「そんなに私の話が聞きたいか」と聞くと、「ハイ、雨の日も、風の日も、こうして、先生のお話を聞くのが、私の何よりのつとめだと思って参っております」「そうか。
お前の所は一体どこかね」「二つ山越した向うでございます」「そうか。
すると歩いてくると四時間くらいはかかるねえ」「ハイ、四時間はかかります」「どうだ、聞くところによると、年をとったおっ母さんとお前だけだということだけれども、うちの馬小屋が空いているので、馬小屋に来て住んではどうか。
おふくろさんも、ここで、時折の話を聞くということになれば、四時間も山を越えて来なくてもいいではないか」このとき、蕃山は何と答えたか。
涙を流しながら、「ご親切なお気持ちは、よくわかります。
けれども、私は、山二つ越えてここへ来るからこそ、辛抱甲斐があると思っております。
お宅にご厄介になっては、たいして疲れも感じないで、いながらにして、お話を聞くなんてことは、もったいないことでございます。
やっぱり、いままでどおり、働いた揚句に、二つ山越えてここへまいり、お話を承る。
これがもう一番、私の気持ちの中に、励みが出ますので、どうぞそうさせて下さい」といったという。
それを聞いて、私は、「ハーッ、これだ、これだ」と思った。
私がちょうど、十三歳のときであった。
当時贅沢三昧に暮していた私は、この物語が書いてある本を読んで、「これでは、いけないぞ!」と思った。
「今のこの境涯で、私がそのまま、いいわいいわで暮していることは、本当に罰当りだ」と思った。
そうして、家を出る決心をしたのは、十五歳のときで、私は、
「糞!男一匹、独立独歩だ。
親のおかげで、こんな暮しをしていたって何になるか。
よし、飛び出してしまえ!」と思った。
それでも、いまの時代と違って、いきなり飛び出すわけにはいかないので、「よし!乱暴狼籍してやろう。
そして親に愛想つかせてやれ!」と思い、もう手に余る乱暴をしてやった。
よく、織田信長の少年時代さながらであったなと思う。
そうして、手がつけられなくなったものだから、父が、母の兄である当時農商務省の次官をしていた前田正名に相談したら、「友人の頭山満のもとにやれ」といわれた。
それがきっかけで、私は頭山満先生のところへ、やられたのである。
そして、親のところを離れて、ものずきといえばそれまでだが、中年まで、満蒙で、自ら苦労に苦労を重ねた。
その苦労を喜びとして活きるような気持ちが出来てたことも、後年、病に冒された後に、自分自身をそのまま捨てない気になったことも、若いときにちょっと読んで感じた書物から受けたインスピレーションだと私は思う。
ところが、いまの人は、悠長に育っている場合が多いものだから、苦しみを楽しみとはなし得ないのである。
楽しみは楽しみ、苦しみは苦しみ、と別にしてしまうものだから、今の世の中は、苦しいことばかり、楽しいことなんてあるかいという。
その苦しみをなお、楽しみに振りかえる心持ちというものが、人間として、ぜひ必要だからこそ、天風教義がこの点に主力を注いでいるのである。
だから、よくいうことであるが、三年四年経った人が私にお礼をいうとき、この人は、本当に私のいうことを聞いていたな、と私が思うようなお礼をいう人は、まあ十人に一人いるか、どうかである。
たいていの人は、「ありがとうございます。
何も知らずに生きておりましたが、ご縁がありまして、先生のお弟子になって、いろいろと尊いことを教えていただいたお蔭で、この頃は、弱かった体も、すっかり丈夫になりまして、そうして、家中が皆丈夫になり、商売も繁盛いたしまして、もう、何という恵まれた幸せかと思って、本当に、明けても暮れても、先生に手を合わせて拝んでいるような始末でございます。
ありがとうございました」という。
こういう、お礼をいわれると私は、「この人、一体、どんな聞き方をしていたんだろう」と思う。
そういうお礼を言う人は、もし、それが逆になったら、きっと私を恨むだろう。
三年四年来ていても、自分の努力が足らないために、一向に体も丈夫にならなければ、運命もあまり開けてこないと、「何が天風や。
何が心身統一法や。
笑わせるぜ、べら棒め。
受講料ただ取られたようなもんや……」というだろう。
「ああ、よくわかってくれたねえ。
ありがとう」と私が言うのは、「この頃はもう、先生のお話を聞いてから、どんな苦しいことがあっても、憂いことがあっても、それに負けなくなりました。
そりゃ、まあ、時には病の出ることもあります。
けれども、今までとは違います。
病があれば、ああ、ありがたいなあ、自分の活き方が悪かったから、神がそれを教えるために与えて下されたお慈悲だと、いつも先生がおっしゃっていらっしゃいましたが、私もそう思うようになりました。
心が全然昔と違ってきまして、この頃では、憂いこと、苦しいこと、こっちから引き受けてする気が出てきてるんです。
ありがとうございます」と、こういわれると、その人を抱き締めたいような気持ちになる。
それが本当の目的だからである。
普通の考え方だと、運命が悪かったり、あるいは健康が悪かったりすれば、その感覚的なことを意識が感ずるのに、不愉快を感じないはずはないじゃないか、という理屈が成り立つけれども、お互い天風会員は、その理由は成り立たせないのだよ。
「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山」だもの。
よしんば不快な感覚があっても、頭が痛いとか、腹が痛いとか、気が重いとか、脈が早いとか、あるいは熱があるとかというような場合があっても、それはそれとして、それに取り合わないような心を、持っていなければいけない。
もう多くいうまでもなく、人間の思ったり、考えたりする思考が、良きにつれ、悪しきにつれ、深刻であればあるほど、その事柄を自分に引きつけるにふさわしい資格を、自分が作ってしまうのである。
心が積極的であれば、積極的なものを引きつけるし、心が消極的であれば、消極的なものを引きつける。
それにもかかわらず、凡人というものは、環境をやたらに呪い、運命をやたらに悲観することのみを人生の毎日にしている人が多くはないか。
そういう人間は、たとえどんなに金が出来ようが、どんなに境遇がよくなろうが、どんなに自分が高まろうが本当の幸福は感じない。
本当の幸福とは、自分の心が感じている、平安の状態をいうのだ。
いくら心身統一法を何十年やっても、幸福は向うから飛び込んで来るのではない。
自分の心が、幸福を呼ばなければ、幸福は来やしない。
だから、現在の生活の状態、境遇、環境、職業、何もかも一切のすべてを、心の底から本当に満足し、感謝して活きているとしたら、本当にその人は幸福なのである。
私の学生時代の友達で岩崎久弥という人がいた。
男爵岩崎家の子供で、私と机を並べていた。
お伴が三人もついて、二頭立ての馬車で通っていた。
この人が後継ぎになって、湯島のあの広大な屋敷に行くと、二十畳の座敷の真ん中に自分がいて、十五畳と、十畳の間が次の間、次の間になっていて、庭は東海道五十三次が造ってあるという途方もない広い庭であった。
そんな所に住んでいて気の毒だなあと思うのは、この男は表へ出られないのである。
表へ出ると、金魚の糞みたいに、十人くらい従者が、ぞろぞろついて、好き勝手は出来ず、昔の皇族と同じであった。
だから私は、よく皇族の伏見宮様に申しあげるのですが、「どうです。
もう一遍、昔のような境遇になりたいですか」「いいえッ。
とんでもない。
世界中のお金を貰ってもいやですッ」とおっしゃいます。
とにかく自分の自由になる時間がないし、自分の思うようにならない。
そんなぐあいに岩崎久弥は、その広大な屋敷に住んでいて、部屋中の壁に株の上がり下がりを書いた紙を貼りつけてある。
「おまえ、株をやるのか」と聞くと、「いや、やりはしないが、こうやって、今日は上がった、昨日は下がったと見ては楽しんでいるのだ」という。
「ほうッ。
それ以外何も楽しみはないのか」と聞くと、「うん。
外に出れば十人もお伴がつくし、変なことすれば、すぐ新聞に書かれるし、こんな家に生まれるもんじゃないよ。
あんたはしあわせだなあ。
ここへ来るにも、書生一人連れて来るだけで、自由なことが出来て」というから、「うらやましいだろう」というと、「うん、うらやましい」というので、
「心を取り変えろ、心を!金魚を見ろ。
金魚は鉢の中に飼われて自由は利かない。
そして不平不満をいわない。
あり余り、うなるほど金を持って、何の不自由も感じずに、ただ表へ出るとき、お伴がついて来るだけじゃないか。
罰当り奴。
考え方を変えろ、考え方を」それからすっかり考え方を変えて、「こういう話を、ちょいちょい聞かせてくれ」というから、「馬鹿いうな。
俺んとこへ出て来いよ。
俺んとこへ来るのなら、許されるだろう」といってやった。
そうしたら、妻君が、「先生のところへだけなら許すわ」といった。
また、この妻君たるや、日本一の金持ちの妻君なのに、普段家にいるときは、銘仙を着ている。
そして英国の女王に次ぐ、大きなダイヤモンドの指輪を持っているというから、「そいつを見せて」というと、洋ダンスのような箱を家人が二人で提げて来て、開けてみると、ザクザクと出るわ出るわ、ダイヤの指輪だの、首飾りだの、首輪だの、腕輪から膝のところに嵌める輪まで一杯。
「これ嵌めないの」と聞くと、「こんな面倒なものするもんですか」という。
あんまり、あり過ぎると、そうなるものである。
そんなに、あり余っていて、そうして幸福を感じるかというと、ちっとも感じていやしないんだ。
感じるのは、心だ。
だからあなた方も、自分の心で、すべてのことを幸福にしてしまいなさい。
だから、忘れてはならない私の厳重な注意は、「出来るだけ平素、幸福の方面から人生を考えよ」ということである。
苦しいときでも楽しい思い。
人間の幸福というのは、その人の人生に対する考え方というものを切り替えないかぎりは、どんな境遇がきても、ああ、ありがたい、嬉しいと思いはしない。
だから英国の諺に、”Ithadbettertopretendasveryhappywhenyouareblue.”〝お前が、がっかりしたときに、ああ、俺は、とても幸福だなあ、と、嘘でもいいから、そうするがよい〟先代の松本幸四郎はこの会の会員であったが、あるとき私にこういった。
「芝居でも、殿様だとか、大将になると、いい気持ちですよ。
下郎や乞食になったときは、みじめだなあと思います」だから、人が何といおうと、「俺は幸福だ!」憂いことがあったら、「ああ、楽しい!」悲しいことがあったら、「ああ、嬉しい!」こうして心を振り替えてみなさい。
そういうような気持ち、心持ちを持つように努力すると、本当の感情というものが出るようになるのである。
あなた方の感情には〝いつわり〟がある。
つまらないことに泣いたり、怒ったり、心配したりする。
そうすると、本当に泣かねばならないとき、本当に悲しまなければならないときには、悲しまないのだ。
修行を積み、本当の気持ちが出てくると、感情をいつわらなくなるのだ。
あなた方は、よくこういうことがありはしないか。
さんざん怒ったり、泣いたりした後で、よく考えてみると、何もあんなに怒ったり泣いたりしなくても、済んだのに、と思うことが。
私なんかも、その昔、悟りの開けない時分にはよく怒ったもんだ。
柄のないところに柄をつけて、女房を怒鳴ったりしたもんだ。
そうすると後味が悪いものなんだ。
女房を怒って、出ていったりすると、仕事をしていても、「いわなくてもよかったのに、いってしまったなあ……」と思う。
家へ帰ってからも、謝るわけにいかないから、機嫌をとるような気持ちで、やさしく言葉をかけると、女房も怒られているから、おもしろくないのだから、あんまりいい顔をしない。
そこでまた怒る。
昔はそういう私であった。
今、昔のことを考えると、人間の心というものは、そら恐ろしいほど不思議なもんだなあと思う。
あなた方も楽しみだよ。
今までの泥まみれの心を、綺麗な気持ちにするという〝望み〟があるから。
だから、環境を呪い、運命を悲しむことは止めなさい。
生きていることを、ただありがたく感謝しなさい!なかには、生きていることが憂いと思う人がある。
そういう人には、ちゃんと、造物主が、早く死ねるようにしてくれる。
心が振り替えられると、医者が四十まで生きられないという体が、九十まで生きていても平気なのだ。
もっとも、これで止めにするわけではなく、まだ生きているが。
まずこの前教えたとおり、一切を感謝と歓喜に振り替えていく、そして観念要素の更改を、念を入れて一所懸命やって、心の中に巣喰うダニを追っ払ってしまうことである。
そうすれば自然と、その事柄が、宇宙霊と結合する努力をしているのと同じことになるのである。
だから、幸福になるためにやるんだとか、もっとましな人生を活きるためにやるんだ、なんて当て目拵えては駄目だ。
そうして活きることが、人間としての当然の活き方なのだ。
報いを願うということは、甚だ、さもしい気持ちである。
これは英国に諺がある。
Emolumentisnotobjecttome.〝報酬は私の目的ではない〟つまり、すぐに報酬を望むからいけないのだ。
人の個性を活かす火花を閃めかして生きる活き方は、人間として、当然な活き方なのである。
火花を他からひらめかせてもらっては駄目だ。
自分自身がひらめかせなければならない。
それが、正真正銘の積極的な活き方というのだ。
当然なことをやっているのに、たとえば、あなた方が生きるために物を食べているときに、いちいち誰かに礼をいってもらいたいだろうか。
今までの活き方が間違った活き方なのだ。
だから、あなたがたに、人間としての活き方を話しているのだ。
こういうと、「そういうように活きると、幸せが来ますか。
お金が出来ますか」となかにはいう人があるかもしれない。
そんなことあてにして、この教えを教えているのではない。
また金が出来るとか、幸せになるというのは人間として当然のことである。
とにかく、何遍もいっているとおり、造物主の無限智と、人間の潜在意識との冥合を重大に考えなければならない。
それをおろそかに考えているから、すぐ結合を邪魔してしまうのだ。
スイッチを切り離してしまうからいけない。
もう耳にタコが出来てるだろうと思うけれども、自分自身の心の中の思い方や考え方がよくも悪くも自分自身をつくり上げるのだ。
「自然的活動能力」である。
これが絶対の宇宙真理である。
常に、感謝と歓喜とを心から失わないようにしよう。
そして自分の心なのだから積極的に心が変わっていくように真剣に自分の心を焼き直さなければいけない。
そうすると、自然に人生に光明がひらめいてくる。
光が閃めけば闇は消える。
真理は、まことに、当然すぎるぐらい当然である。
歓喜の世界に悲哀はなく、感謝の世界に不満はない。
同時に反対のものが二つは出ない。
歓喜と悲哀が同時に出たら困るだろう。
片方が出れば、片方が引っ込むようになっているのだ。
その証拠に、諸君が座っているときに、座ると同時に立ってみろといっても、立てない。
立つときは座ることを止めなければならない。
ふだんからの心がけに注意しなければいけない。
〝真〟、〝善〟、〝美〟以外には、心を使わない、というように心をしてごらんなさい。
これは、修行の結果によって、私自身が心を造り変えた手段なのである。
哲学を研究し、考えて考え抜いたときに、やがて「宇宙霊の心には〝真〟、〝善〟、〝美〟以外にはない」と悟った。
〝真〟とは、いつわりのない〝まこと〟。
考えてみよう。
一日中いつわり多き時間を送っているか、いつわりなき時間を送っているか。
たいていの人が、いつわり多き人生を生きている。
実際私などは、自分の商売がらでもあったが、愛想の尽きるくらい、嘘つきであった。もっとも、軍事探偵の仕事の成績が、非常によかったのもその嘘つきが非常に上手だったらしいけれど。
俺は嘘をついたことはない、というような顔をして私の顔を見ている人は、このくらい嘘つきはない。
いつか嘘の競技会のことを話したことがあるが、皆が一所懸命考えて、あれこれ嘘をいっている。
そしていよいよ決勝を決めようとするときに、幹事の一人が、「あんたは、何も言わずに、朝からそこでうずくまっているけれど、ここは嘘つきの会なんだから、何か嘘つきなさいよ。褒美の取れないまでも、黙ってただ聞いているのでは、来た甲斐がないじゃないか。何か一つ嘘を考えなさいよ」といった。
ところが、「それがですね。朝から、皆さんの嘘をつくのを聞いていて、もう感心しているんですけれども、私って人間はね、無器用なのか何かしらないけれども、生まれてから、一遍も嘘をついたことがないんです」といったら、「ああ、この人が一等だ」ということになった。
第一、自分自身に嘘ついているものね。
あなた方は万物の霊長として生まれて、心の持ち方さえ変えれば、限りない力が自分の生命の中から出てくるということを、まったく頭から否定している。
嘘だろうこれは、というぐあいに。
何でも疑えばことが済むと思っている。
しかしそれは「〝真〟、〝善〟、〝美〟」の〝真〟とはまるで逆のことだ。
私も昔はそうであった。
自分のいうことが一番確かで、人のいうことは全然駄目だと思っていたのである。
人のいうことなんか、聞く気などまったくなかった男であった。
強情張りで、皮肉屋で、唯我独尊的であった。
しかしこれは私ばかりではないらしい。
その、お仲間が大分大勢いるようだ。
それから、次に、善なることを考えることを忘れてはいけない。
〝善〟とは何だろう。
多くの人は、善いとか悪いとか、口ではいうが、しからば、〝善〟とはいかなることか、悪とはいかなることか、と問われると、困るであろう。
昔、神戸で兵庫県の大学の学長ばかり集めて講演したときに、演壇の上に立つと私は、「これから私はいわんとすることをいう前に、今日は、大学の先生ばかりだから、一つ私が質問したい。
つまり、誰でもが口にする善悪というのは、いったい、どういう限界が、そこに在るんですか」と言ったら、皆黙ってしまった。
これは大変な質問だと思ったんでしょう。
恐らくここにお集まりの大勢の中でも、私の話を聞いたことのある人以外の方は知らないと思う。
〝偏頗なき愛をもって、ものに接する行為と言葉〟が〝善〟である。
ところが諸君は、自分の家族や、身内だけには、非常な愛情を持っているが、隣の者はどうあっても、ちっとも構わない。
自己を本位として、自己の周囲だけに対して、愛情を持つだけではないか。
自分の気持ちに、人を愛するという気持ちに、偏りがあったら、その人は、本当の〝善〟を行なっている人ではない。
それから、〝美〟とは何かというと、〝調和〟ということである。
〝調和〟なきところに〝美〟はない。
どんなに名人が画いた絵でも、私が感心しないときは、調和がとれていない絵である場合である。
どんな下手な人が画いた絵でも、調和がとれているものであったならば、これは本当の美術である。
だから、この〝真〟〝善〟〝美〟の三つ以外には考えないことにしよう。
私が、あなた方と握手するときでも、必ず、「私は、宇宙エネルギーを私の体に受け入れて、あり余るほどあるから、この力をこの人に伝えてあげよう」という気持ちで手を握るのである。
わずかなことであるが〝心一つの置きどころ〟である。
だから、この真理に正しく目覚めてごらんなさい。
そうするとまったく人生が違ってくる。
第一、ふだん口癖のようにいっているとおり、人間というものは、いかなる場合があろうとも、自己が主でなければいけない。
そして主となるには、人にも物にも、わずらわされない、とらわれないことである。
私が、ヨガの哲学でこういうことを知ったとき、これがなかなか油断していては出来ない。
本当に、真剣に、絶えず、研ぎ上げなければ出来ないという、切磋琢磨の気持ちを起こさせた動機になった。
自分の心が、環境か、運命か、健康か、何かにとらわれている場合が多くはないか。
たいていの人が、職業にとらわれたり、果ては利慾に迷って、名聞にとらわれて、その他の欲望にとらわれて自我の尊さを失ってしまう。
酒飲みが酒に飲まれ、釣り道楽が魚に釣られ、ゴルファーがゴルフに釣られている。
これは、自分を正しく活かす活き方を知らないで活きているからである。
言い換えれば、自我の確立ということが、出来ていないからである。
〝自我の確立〟こそ、人間生活の最も大切なことなのである。
自我の確立が出来ていないというのは、〝自己認証〟が出来ていないからである。
ここに三島徳七という、この前、文化勲章と勲一等を貰った会員がいるが、貰ったときに「先生を、文化勲章を貰えるように推薦します」というから、「馬鹿野郎!冗談をいうな。
私が文化勲章や勲一等貰ったら、それ以上の人を教えることが出来ないじゃないか。
俺は何も、そんなものは要らないのだよ!」
といった。
お互に、よりよき世界に住もうとするときに、そんなもの要りやしないのだ。
ところが、世の多くの人を見ると、名誉に迷ったり、利慾に迷ったりしてしまう。
だから、公明正大であるべきときに、公明正大であり得なくなってしまう。
そうすると、どうしても自分の心というものが、宇宙の本質に合流合体しなくなってしまい、フーッと離れてしまう。
初歩の物理学の定義は、こういうことを我々に教えている。
〝同じきものは、どこまで行っても、同じである〟だから常に、宇宙霊と同じ気持ちになっていれば、よいのである。
そうすると、日々の人生が、どれだけ〝生きがい〟を感ずるかわからない。
そして、何をするにも、もう報酬は求めないことにしよう。
ただ恵まれるものはありがたく頂戴しよう。
けれども決してこっちからは要求すまい。
だから、会員の人にも、よく覚えがあるであろう。
「先生、何かお好きなものありませんか」「うん、何も……」「何かあるでしょう」「そりゃ、たった一つある」「それ、私が持ってきます」「いや持ってくるもんじゃないんだ」「何です?……それは……」「私の欲しいのは、私と同様に、お前が、健康も、運命も、本当にどんな場合があっても、楽しんで活きられるような人間になること。
それが望ましい。
ただそれだけだよ……」それが私の念願だ。
それが私の教えを説いている目的なんだ。
いまさら金が欲しいとか、地位が欲しいとか、名誉が欲しい、とか思ったことはない。
あなた方も、心の中を本当に豊かにしなさい。
そして、その豊かな心で人生を活きるという気持ちを自分のものにしたときに初めて、本当の人間として活きられるのである。
これを自分の〝座右銘〟にしなければいけない。
もう一度いう。
よく考えてみよ。
事業をしている人、利慾に迷っていないか、名聞にとらわれていないか、何となしに、野心的な欲望にとらわれていやしないか。
それらを当り前だと思っていやしないか。
それらを当り前だと思っている事業家は、立派な事業家だとはいえない。
自我の尊さを自分の心持ちでもって、濁らせてしまうような利慾に迷ったり、名誉にとらわれたりしているのは、立派な事業家ではない。
否、政治家もそうだ。
自分のしている事業で、世のために貢献をするというのが、最後の目的でなければならない。
私は、三世ロックフェラーと、飯を食いながら聞いた言葉が、忘れられない。
「私はね、ただ、世の中の人が、私の事業を通じて幸福になってくれれば、それでいいのです」といった。
なんで、そういう答えをしたかというと、「あなたは、お邸はどこにあるのですか」と尋ねたら、「私は、屋敷は持ちません。
ニューヨークに大きなマンションを建てまして、その一隅を私の部屋として三室使っています」と答えた。
「そんな、狭いところでいいんですか」「だって私は、手伝いの秘書と、メイドと四人きりですから」これが、アメリカ随一の金持ちだ。
日本の富の約三十倍の富を持っている人がだ、自分の会社を、五百六十余り持っている人。
そして、自動車の会社を、アメリカにも、ヨーロッパにも、十いくつも持っていて、自分の自家用車を一台も持っていない。
「自家用車なんかもつ必要ありません。
往来に出て手を挙げれば、タクシーが来ます」といった。
「これが私の時計です」といって見せてくれたのは、お祖父さんが昔十五円で買ったという、その当時とび切り上等の、日本の精工舎の時計で、ニッケルがもう剝げかかった時計であった。
「この時計ちっとも狂いません。
時計は、狂わなければそれでいいんです」だからあの人は、自分の仕事に、何も、とらわれていない。
ただ自分の仕事を通じて、世界の人が幸福になればいいんだ、という一念だけだ。
だから私は、日本に一人でもいいから、こういう気持ちを持った、事業家なり、政治家が出て来たならば、日本という国ももっと輝かしい国になると思う。
この間も、会員で、大阪の元府知事の左藤義詮君と話したんだが、戦いに敗れた国で、これだけ経済的にも、国際的にも大きく発展した国は、有史以来日本のみである。
しかも今、正に、そういう状態の発展の趨勢に立たせられた状態では、日本が世界で一番だ。
ただ諸君にいいたいのは、恵まれた幸運にいい気になって、自己研磨を怠っては駄目だということだ。
私は次代を背負って立つ青年諸君にいいたいのは、やがて少なくとも二十一世紀が来たら、日本が、思想的にも、アイディアの方面にも、また現実の事業の方面にも、必ずや、世界をリードするだけの、権威が出来ると私は確信する。
だから、青年諸君は、それを自分の〝方針〟として、今後の人生を研ぎ上げることに努力しなさい。
ただ自分だけがよくなればいいんだ、自分の仕事だけがよくなればいいんだという、小さな慾望でなく、〝世界一の日本を造るんだ!〟〝そして、世界中すべて、日本の自覚した民族のような、平和な気持ちにするんだ〟という、もっと、でっかい欲望を持ちなさい。
全人類からみれば人数は少ないけれども、天風会員、五十年間に教えた会員は少なくも百万を超えている。
だから、その半分でもいいからこの気持ちになってみなさい。
やがては、ちょうど、濁り水の中に、僅かな明礬を入れると、パーッと清くなるのと同じで、そういう人間が、必ずや、世の中に、大きな光明を点じると、私は確信している!だから、その期待と抱負を持って、これからの天風会員は活きていかれることを熱涙をふるってお願いする‼誦句を与えよう!座右箴言私はもはや何事をも怖れまい。
それはこの世界ならびに人生には、いつも完全ということの以外に、不完全というもののないよう宇宙真理が出来ているからである。
これを、第一に、真剣に考えなさい。
最近のアメリカでは、ZDということを盛んにいっているが、私は六十年前にすでにいった。
ZDとは、ゼロ・ディフェクト(欠点をゼロに)ということ。
人間というのは、あれ出来ない、これ出来ないといってはいけない。
人間は、誰でも、完全に出来るように出来ているんだから、完全に出来るという信念を持て、というのがZDの根本的な原理だ。
私は六十年前から、「自己認証せよ」ということを唱えている。
どんなに、もう、すっからかんの貧乏人になっても、それを実行しさえすれば、自然にちゃんと治ってくる。
そのわずかの事柄だけ考えてみても、この宇宙の中には、すべてを完全にあらしめたいという力が、働いているということが解るではないか。
それを、あなた方は、不完全にしてしまうからいけないのだ。
この世界ならびに人生には、いつも完全ということの以外に、不完全なるもののないよう宇宙真理が出来て、人間にその資格が与えられているのだ。
否、この真理を正しく信念して努力するならば、必ずや何事といえども成就する。
成就するように出来ているんだ。
ある人は出来ない、ある人は出来る、というふうには出来てない。
だから、正しい道を歩んで行けば、必ずや目的地に達する。
私はこの仕事を始めるに当って、もう、四面楚歌のごとく、有名な人からいわれた。
「この仕事をすることは、先ざき見込みがないからお止めなさい。
せっかく、銀行の頭取をして、順風満帆の運命にいながら、何を好んで、この身分を捨てるのですか」はたから見れば、そう見えるかもしれないが、私は一切を捨ててしまった。
そして、はたの人からは、宿なしになるだろう、乞食になるだろうと思われるようなことを、喜んでやりだした。
しかし、自分では、俺は必ず成し遂げてみせるという自信があったからだ。
この世の中に、正しいことを人に教えようとするのに、断じて、それが失敗するはずがない。
すなわち、私が、この真理を正しく信念して努力したからだ。
だから、今思うと、今日あるのは、焼きおむすびを腰にして、雨が降ろうと、風が吹こうと、大道講演していたときから、五十年の間、結局、完全、完全ということをこの世の中に広めてきたおかげである。
そりゃ、完全になるのが当り前、もっと私は大きな信念を持っているのだ。
私が三寸息絶え、万事休した何百年か後、世界中が、皆、心身統一法の実行者に必ず成るという確信を持っている!その先達となるべき青年諸君が、その信念を失っては駄目だ。
だから今日からはいかなることがあっても、また、いかなることに対しても、かりにも消極的な否定的な言動を夢にも口にするまい、また行なうまい。
そしていつも積極的で肯定的の態度を崩さぬよう努力しよう。
同時に、常に心をして思考せしむることは、〝人の強さ〟と〝真〟と〝善〟と〝美〟のみであるよう心がけよう。
私はねえ、どうやらこうやら、こういう気持ちで活きられるようになったんで、今日あるをいたしている。
これだけ心がけていれば無事なはずだ。
また、これだけ心がけていただけで、十分に人生は幸福に活きられるんだから……。
「〝人の強さ〟と〝真〟と〝善〟と〝美〟のみ」である。
だから、私が、この気持ちを持っているから、したがって私は、自分の強さを知っている。
それだからこそこれだけの尊い仕事をしている私が、病なんかで、無闇矢鱈とひっくりかえるものか、と思っている。
そして私の心には、どんな場合にも、〝真〟〝善〟〝美〟以外のものは、考えさせないようにしている。
価値のないことを考えることもときにはある。
しかし、パッとすぐ消してしまう。
だから、どんな場合でも、〝人の強さ〟と、〝真〟と〝善〟と〝美〟のみであるよう心がけよう。
たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。
たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい。
しっかりここに、うたってあるんだけれども、古い会員の中にも、病のないときには、口では盛んにこれをいっておいて、ちょっとでも病に罹ると、狼狽え、騒いでしまって、もう心どころか、生命の全体を病ましてしまう者がいる。
わかりきったことを教えているんだけれども、わかり過ぎて、忘れてしまうんだ。
否、一切の苦しみをも、なお楽しみとなすの強さを心にもたせよう。
苦しいときでも、楽しいときをおもい。
宇宙霊と直接結ぶものは心である以上、その結び目は断然汚すまいことを、厳かに自分自身に約束しよう。
およそ、世の中で、約束を破ることは、罪悪であるけれども、他人との約束を破ることよりも、自分自身への約束を破るくらい、大きな罪悪はない。
なぜならば、自分自身への約束は、天と約束したことになるから……。
座右箴言私はもはや何事をも怖れまい。
それはこの世界ならびに人生には、いつも完全ということの以外に、不完全というもののないよう宇宙真理が出来ているからである。
否、この真理を正しく信念して努力するならば、必ずや何事といえども成就する。
だから今日からはいかなることがあっても、また、いかなることに対しても、かりにも消極的な否定的な言動を夢にも口にするまい、また行なうまい。
そしていつも積極的で肯定的の態度を崩さぬよう努力しよう。
同時に、常に心をして思考せしむることは、〝人の強さ〟と〝真〟と〝善〟と〝美〟のみであるよう心がけよう。
たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。
たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい。
否、一切の苦しみをも、なお楽しみとなすの強さを心にもたせよう。
宇宙霊と直接結ぶものは心である以上、その結び目は断然汚すまいことを、厳かに自分自身に約束しよう。
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