今日は、人間の心に描く〝理想〟というものの力についてはっきりと悟ることにしよう。
そこで第一に、〝理想〟とは何だろう。
誰でもが口でいいながら、本当にその意味を知っている人が少ないようだ。
「それは理想的でない」とか、「そういうことは自分の理想にない」という。
言葉は知っているがしかし、使っている言葉の本当の意味、正しい理解を持っている人がまた極めて少ないようである。
心理学の方では、理想とは「継続せる組織のある連想である」とこういうふうに定義づけている。
いい換えれば、なかなか立派に組み立てられた考え方が、終始変わらず保たれている場合、それが一つの理想と名づけられるものになる、と考えてよい。
哲学的にいうと、理想というものは立派な〝宗教〟である。
もっとも、多くの人々は、宗教というものの意味すら知らない。
宗教の〝宗〟、これは心という意味である。
今の若い人達は知らないが、昔、我々が青年時代に教わった教育勅語の中に、皇祖皇宗というのがある。
皇祖とは肉体の繫がりの先祖であり、皇宗とは霊のつながりの一番水上であるという意味である。
その宗なるものは、つまり広い意味において、魂をつくり上げ、心をつくり上げるという意味で、広く解釈しなければいけない。
そして、どうして理想が立派な宗教かというと、理想が楽しければ楽しいほど、何の神様、仏様という信仰を求めなくても、自己自身の人格の全体が、極めて壮厳な事実でちりばめられて、自然に立派なものにされるからなのである。
これは、普通の、いわゆる宗教なるものを信仰したときよりも、遥かに現実的な救われを自分自身が知らない間につくられてしまう。
第一、理想は階級が高く、積極的であればあるほど、その人は非常な生々とした勇ましさで、人生を常に活きられるのである。
いわんや、この理想に信念がつけば、万難を突破しても、その人の理想の完成、成就へと勇往邁進させ、そして、必ず成し遂げられるという尊い事実がある。
だから、こういうことを考えると、理想というものは、立派な宗教であるといっても毫も差支えない。
だから、いい換えると、何らの理想もなく、人生に漫然として生きている人は、哀れ惨憺たる人間である。
たとえ、その人が、どんなに熱烈な信仰心を持って、神や仏を崇めていても、結局は、極めて、はかない人生に生き終わるだけが、そのすべてである。
だから、立派な理想を持つ人は、神や仏という目標を定めて、信仰なんかする必要はない。
なぜかというと、もうすでに、その立派な理想の中に活きている活き方が、自分では気が付かなくても立派な宗教的な生活をしているからである。
もっとも、いわゆる現代人の信仰なるものは、いつもいうとおり、第二義的なものばかりであるといっても決していい過ぎではないような、神や仏にすがりつき、依頼するというような、実に横着で、打算的な態度で信仰している。
神詣でや仏参りをしても、まず頼むことは自分のことである。
「どうぞ丈夫でありますように。
商売繁盛するように」と。
無事息災、家内安全、商売繁盛……他人のことなんかちっとも考えやしない。
神詣でや仏参りに、自分を捨てて、他の人の幸福を希求するような祈りをしている人は、ほとんどいやしない。
神詣で念願われのことならずこれは私の自作だが、神や仏の前で、もしも頼むことがあるとするならば、「この世の中の多くの人々が、もっともっと幸福に活きられるように見守って下さい」ということ。
これ以外私は頼むことはない。
が、しかし、いずれにもせよ、この見地から立脚して、厳かに考えなければならないのは、人生を有意義に活きるためには何を措いても、自分の理想を、階級の高い気高さで、常に、心の中に抱かなければいけない。
宇宙本体の力は、人間の心の状態を鋳型として、これを現実化させる自然現象を現わすのだ。
だから、健康に対しても、運命に対しても、その理想が確実な姿で、階級の高い気高さをもって、描かれていなければいけないのだ。
宇宙本体は、そのとおりに現実に造り出そうとする自然傾向があるのだからである。
そしてまた、それが峻厳なる宇宙法則なのだ。
そういうことを考えただけでも、今、私のいった言葉が、本当だと気が付くだろう。
実際なんだ。
真面目に考えなければ駄目だよ。
理想はその人を偉大にも、はたまた極めて価値なくもする原動力を持っている。
昔の諺に、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」というのがある。
自分の人生を、気高い内容と、価値の高い標準で持つ人は、その理想が現実になる前から現実になったと同じような、人生境涯で活きているのと同様である。
だから、どんな場合があっても事情のいかんを問わず、理想は野心的であってはならない。
野心的である場合には、成就しない場合が多いばかりでなく、一つの力で心がまとめていられない結果がくる。
野心的な理想というのは、往々にして心の統一を破る。
そしてそのために、結果を不良にするのである。
だから第一に、諸君が自分の心の中から除かなければならないのは、「人間というものは、偶然の動機で此の世の中に生まれて来たんだ……」などという妄念である。
これは非常に厳かなことなのである。
この世、このとき、我というものが生まれたのは、何万年も前から、我というものが、この世、このときに生まれ出るような、元があったから出てきたのだ。
ただ、自分が、自分というものの存在を意識したのが、極めて短い時間であったというだけの条件で、この世に生まれたものは偶然の動機だと考えたら、それはあまりにも、自己を観る観方が、大きな誤解で行なわれているといわなければならない。
えてしてそういう人間は、活きることに対する苦しみや悩みを、まず感じるから、そのようなことを、心の中に描くのだ。
「人間というものは、生きてるかぎり、苦しい生存競争を到底逃れられない」とか、「人間なんてものは、苦しみ多い娑婆で、生き死にということをやっているのだから、楽しみなんて求める方が横着だ」というふうに余儀なく考えてしまうのである。
そういう人間は、はっきり、〝ノイローゼ〟という名をつけるに至らなくても、すでに、我々の哲学でいえば、立派に〝ノイローゼ〟になっている人間だといいたい。
なぜかというと、常に、人生を悩みと悶えの泥沼の中に叩き込み、自分で浮かび上がろうと努力していないからである。
考えてみなさい。
宇宙を司る宇宙本体の力が、我々の心が取る態度と、まったく同じ態度で我々に臨む、という事実がある。
何遍もいっているこの事実、これは峻厳なる事実なのである。
事情に同情して左右されない。
これを考えれば、「まったくそうだ」とすぐ肯けるはずである。
「人間は万物の霊長だから、健康的にも、運命的にも、始終豊かな、感謝する生活が出来るように作られている」そうするには、何を措いても、まず、第一に、心の生活を豊かにすることに、自分の考えをおかなければならない。
心の生活を豊かにするには、もちろん、心で思ったり、考えたりすることが、功利的であってはいけない。
終始宇宙本体と同じように、〝真〟〝善〟〝美〟であらしめると同時に、理想もまた、終始、気高いものを心に描いていなければいけない。
そして、宇宙を司る宇宙本体から、尊い力を、我が生命に受け入れる用意を、始終、疎かにしないようにしなければならない。
論より証拠、そういう心構えをしてみなさい。
常に、優れた、恵まれた、人生を活きることができる。
否、それは当然のことなのである。
そこで、理想を気高いものにしようとするのには、第一に必要なことは、「我というものが宇宙本体と常に一体である」ということを信念しなければならない。
信念するのであって、ただ思っただけではいけないのだ。
いい換えると、見えざる〝力〟との結合を決して忘れてはいけない。
すぐ孤独になるからいけない。
川が流れるのは水源があるためだ。
水源のない川はあり得ない。
我々の存在は、我々の命の持つ源がこれを保っている。
その源が宇宙本体である。
その宇宙本体と常に結ばれている自己を、明瞭に意識して活きると活きないとでは、結果において、どれだけ大きな差が出来るかわからない。
だから、理想は常に気高く、本当に価値の高いものでなければならない。
と同時に、もう一つ忘れてはならないことは、出来ない相談のもので、理想を心の中に描いてはいけない。
そうすると、それは空想になる。
人生に関することでも、運命に関することでも、健康に関することでもだ。
もっと卑近な例でいえば、職業上のことであろうと、現在の人生を活きる仕事のことであろうとだ。
だから、一番手っ取り早いのは、諸君が、何かしら不都合を感じたり、不満を感じる場合があるならば、そういう方面から考えないで、それが完全に成就した姿を、自分の心に描きなさい。
ああなったらいいなあ、こうなったらいいなあ、という念願だけを、心に炎と燃やさないで、ああなったらいいなあというものが、すでに、成就してしまったときの気持ちや、姿を、心に描くのだ。
これは、紙一重の相違だけれども、そこに微妙な相違があるのである。
なりたいなあ、という気持ちよりも、なっている姿を、心に描いたときに、現実からほど遠いことでも、霊の世界では、もうそれが、本当になっているのと同じことになるのである。
諸君らは、見える形のものにならないと、それを事実として承認しないという態度の中に、非常な見当違いがあるのである。
だから、理想の中に描く絵はもう、確実に、現実化したものでなければいけない。
字を書くのでも、絵を画くのでも、そうだ。
一枚の紙を手にしたとき、そこにすでに、己れの描こうとするものが、形が紙面に現われていなければ、立派なものが描けないはずである。
ただ筆を持って、墨を付けて、いい加減に描いたのでは、碌なものは出来はしない。
だから、自分の理想は常に、現実のものと同じように、自分の心にはっきりと明瞭に描きなさい。
そして、その描いた絵は、決して取り替えないようにしなければいけない。
昨日と今日とでは、まったく、形が変わったものにしたのではいけない。
だから、そうした、たのもしい理想をつくるのには、常日頃の心の思い方、考え方、いい換えれば、絶えず描かれている心の中の〝想像〟というものを、上手にコントロールしなければいけない。
ある意味からいうと、人間の心の中に、絶えず描かれている思い方、考え方から組み立てられている〝想像〟というものは、〝人類進歩の源泉〟だといってもいいのだ。
〝想像〟が、やがては〝理想〟という立派なものを、心の中に形造るということが真理なのだ。
もしも人間に想像作用がなく、漫然として、ただ生きているとしたら、恐らく、芸術も、科学も、哲学も、宗教も、否、あらゆる一切が、何らの進歩もしないといい得る。
だから、理想を創る原動力的な想像の作用は、非常に効果ある事実を、普遍的に、人生に働きかけているといえるわけである。
その〝想像〟というのは、いかなるものかというと、心理学では、「想像というのは、過去および現在の人生経験と、全観察とを土台として、それを組織的に、合理化して考えるという考え方である」と定義している。
想像作用というものは、人間の観念活動の中に、何人にも存在する心理現象なのである。
すなわち、我々はいつも、何事かをこの心で思い考える。
そして、その思いや考えの中に、現在の事実を中心として、それを、いろいろと心の中で脚色し、あるいは敷衍し、または現在、自己の人生に全然存在していない事実をも、いろいろと、広く大きく思い考える。
これを〝想像〟という。
シェイクスピアの『真夏の夜の夢』という戯曲の中に「恋をもつ人、詩を思う人たちの胸の中はあの噴火山の煙のように、種々の想像で一杯である」と書いてある。
が、しかし、人々に心というものがある以上、事実から遠く離れた世界や人生を、いろいろと思い考える想像の作用は、誰にでもある。
ところが、その想像の作用というものが、やがて、組織的で、しかも現実味を多分にもつと、立派な理想の根帯をなし、さらに、その結果、宇宙の創作の力と合体して、それを事実化するという実際の様子を、多くの人は余り知らない。
もっとも、哲学者や、精神科学者や、詩人や、文士、さらに、発明家などは、このことを心得ているものがかなりある。
ゲーテも「想像の分量が豊富なときに書いたものは、期せずして、人の心を動かす力がある。
そして、そういうものを、世間の人は、名篇とか傑作とかいう。
だから文豪とは、想像力を他の人よりも豊富にもつ人のことである」といっている。
要するに、詩人は詩的に、哲学者は哲学的に、普通の人よりも高級な組織で、その想像が組み立てられる点と、その想像の内容が統一されている点に相違があるのである。
ところが、多くの人々が心の中で思ったり、考えたりすることは、こういう定義で決定出来ぬほど、散漫で、放縦なのだ。
自分の欲念から希望する人生状態や、その他の事柄を、無制限に、自己を本位として拡大し引き伸ばして、無鉄砲に、当てどもなく考えるという場合が多い。
こうなるともう、想像という立派な定義の中に入れて、論ずべきものでないほど、考え方が滅茶滅茶になっている。
そういう考え方を、想像だなんて思っていたら、もちろん運命は破壊されるし、健康も良くなくなるしで、一切合切、人生の価値というものを、ブチ毀しにしてしまうのである。
いかに、観念の世界が絶対に自由とはいいながら、これに、ある程度の制約を与えないと、至極、我がままの出来る点があるだけに、よほど慎重に自己監督を施さないと、心の中の想像作用が奔放で放縦になる。
想像というものが理想を創る下絵なのだから、例えば、健康に関する想像のごときも、ただ単に、体を丈夫にして、自由な肉体的享楽を、欲しいままにしようという第二義的なものであってはいけない。
いつもいっているとおり、健康な体を作って、人の世のために、現実の貢献をしようというような、非常に階級の高いものでなければいけない。
人生事業に対してもまたしかり。
銀行の預金を増やして、妾や別荘をこしらえることばかり考えては駄目だ。
人の世のためになる自分として、充分に働けるようにしよう、という気持ちならいいけれども、富や地位を作って、自我本位の人生欲望だけを充たすための、いわゆる〝欲望〟から出発した富や地位であってはならない。
そのような〝向下的想像〟は、断然、排すべきである。
決して、第二義以下の想像は、正しい人生というものをもたらさない。
モデルが完全であってこそ、作品もまた完全なものが出来る。
想像は、つまるところ、人生経験のモデルである。
だから、健康に対しても、人生事業に対しても、常に気高い内容でもって、心にはっきりと描かれなければいけない。
どんな場合にも、自分の魂を汚さない、最高、最善のものを自分に、正確に、保持しなければならない。
いうまでもなく、かりそめにも、怒りや、悲しみや、怖れが、その中に入ってはいけない。
憎しみや、嫉みや、貪欲や、身のほどを忘れた不当、不正というものが入ってはいけない。
それらのものは、哀れ惨憺、自分の人生に、毒汁をブッ掛けることになる。
取越苦労はいけない、と正科の講習会のときに、積極観念の養成の講習でいった。
もちろん、それもいけない。
結局、心配とか、病とか、煩悶とか、苦労とか、人生になくてよいものを、形を変えて、自分の人生の中に引っ張り込むことになる。
要するに、こうした事実を考えると、自己の想像作用を、正確に、そして適当に使うことが巧妙になればなるほど、理想も高級となり、自己の人生を、非常に値打ちのある、高い階級にする。
これは決して、神秘でも、不思議でも、奇跡でもない。
人類の生命本来の作用は、絶え間なく、永遠に、伸びよう、
広がろう、向上しようとするように、宇宙本体の意図のもとに作られているのである。
これが、厳として、動かすべからざる宇宙法則なのだ。
だから、考えてみれば、健康になるのも、幸運の持主になるのも、わけないことであると同時に、それが、なんと、人間としての当然として与えられた感謝すべき権利であるということがわかる。
だから、反対の人生、不健康や不運命に生きている人は、人間にのみ特権的に与えられた権利を、自ら踏みにじっている人だといっていいだろう。
よく、これから耳にいれる、想像作用の暗示誦句を、嚙みしめて味わってみよう。
そうすると、なるほど、今までの自分に、大いなる誤解があったことに気が付くから。
想像力の誦句私は今正に喜びと感謝に満たされている。
それは宇宙霊は人間の心の中に、想像という特別の作用を賦与して下されているからである。
そして宇宙霊は、常に我々を我々の想像する観念どおりの世界へと、真実に導き入れるべくその準備を尽されている。
だから心して想像の作用を正確に応用すれば、それはとりもなおさず、幸福の楽園へのよき案内者を作ったのと同様である。
かるがゆえに、私は能うかぎり可能的で高級なる想像の絵を心に描こう、はっきりと明瞭に……ただしどんなことがあっても、夢にも自分の生命を腐らし泥ぬるような価値のないことは想像するまい。
そして宇宙霊の定めた約束どおり、その想像の中から正しい人生設計を現実化する気高い理想を作り上げよう。
自分というものが、こうやって、生きていることを常に感謝することが、一番大切だ。
「私は今まさに喜びと感謝に満たされている」そうすると、現在が、病であることも、不運であることも、感謝して考えなければいけないことになる。
それなのに悪くなりはしないか、悪くなったらどうしよう、死んだらどうしようとか、運命にしたがって、これ以上悪くなったらどうしよう。
ああでもない、こうでもない、と取越苦労を散々やって心の中を、汚く、自分の生命を腐らし、泥をぬるような、価値のないことばかり想像していると、いい運命が来るはずがない。
暗示の誦句を、一言一言味わってごらんなさい。
よく出来ているから。
その文句を唱えているだけで、自分が救われてしまう。
それを、覚えようとしない。
子供が覚えて大人が覚えない、こんなわけのわからない話があるか。
大人になればなるほど、覚えられるはずではないか。
私は、六十越してから、記憶力が非常に良くなった。
記憶力が悪くなってる者は、結局、もう霊柩車に乗る用意をしている人間だ。
使わなければ鈍る。
鉄なお断つべき正宗の名刀といえども手入れをしなければ錆び朽ちる。
人間の頭脳またしかり。
「俺は齢をとったから覚えられない」なんてことをいっているかぎり、ますます覚えられやしない。
齢をとったから覚えられないんじゃない。
齢をとり、億劫になるから、覚えようとしない。
ただそれだけだ。
為せば成り為さねば成らぬものなるを成らぬはおのが為さぬためなりしっかりしなさい!おっさんやおばさん!さあ!生きかえろう。
想像力の誦句私は今正に喜びと感謝に満たされている。
それは宇宙霊は人間の心の中に、想像という特別の作用を賦与して下されているからである。
そして宇宙霊は、常に我々を我々の想像する観念どおりの世界へと、真実に導き入れるべく、その準備を尽されている。
だから心して想像の作用を正確に応用すれば、それはとりもなおさず、幸福の楽園へのよき案内者を作ったのと同様である。
かるがゆえに、私は能うかぎり可能的で高級なる想像の絵を心に描こう、はっきりと明瞭に、ただしどんなことがあっても、夢にも自分の生命を腐らし泥ぬるような価値のないことは想像するまい。
そして宇宙霊の定めた約束どおり、その想像の中から正しい人生設計を現実化する気高い理想を作り上げよう。
理想の誦句人の生命は常に見えざる宇宙霊の力に包まれている。
したがって、宇宙霊のもつ万能の力もまた、我が生命の中に当然存在しているのである。
ゆえに、いかなる場合にも、またいかなることにも、怖れることなく、また失望する必要はない。
否、この真理と事実とを絶対に信じ、恒に高潔なる理想を心に抱くことに努めよう。
さすれば、宇宙真理の当然の帰結として、必ずや完全なる人生を作為される。
今ここにこの天理を自覚した私は、何という恵まれた人間であろう。
否、真実、至幸至福というべきである。
したがって、ただこの上は無限の感謝をもってこの真理の中に安住するのみである。
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