見方を変える富士山は西からでも東からでも登れる。西の道が悪ければ東から登ればよい。東がけわしければ西から登ればよい。道はいくつもある。時と場合に応じて、自在に道を変えればよいのである。一つの道に執すればムリが出る。ムリを通そうとするとゆきづまる。動かない山を動かそうとするからである。そんなときは、山はそのままに身軽に自分の身体を動かせば、またそこに新しい道がひらけてくる。何ごともゆきづまれば、まず自分のものの見方を変えることである。案外、人は無意識の中にも一つの見方に執して、他の見方のあることを忘れがちである。そしてゆきづまったと言う。ゆきづまらないまでもムリをしている。貧困はこんなところから生まれる。われわれはもっと自在でありたい。自在にものの見方を変える心の広さを持ちたい。何ごとも一つに執すれば言行公正を欠く。深刻な顔をする前に、ちょっと視野を変えてみるがよい。それで悪ければ、また見方を変えればよい。そのうちに、本当に正しい道がわかってくる。模索のほんとうの意味はここにある。そしてこれができる人には、ゆきづまりはない。おたがいにこの気持ちで、繁栄への道をさぐってみたいものである。
商売の尊さ長い人生、迷わずに歩むということは、なかなか容易でない。その迷いの人生に、ひとすじの光明を与え、心ゆたかに生きる喜びを与えるのが、いわゆる宗教というもので、過去の歴史においても、人を救い、世を浄化し、そして数々のゆたかな精神文化を生み出してきた。宗教の力は偉大である。人びとを救うという強い信念のもとに、世間の求めるものを進んで与えてゆく。だからこそ、心から感謝され、そしてその喜びにふさわしい寄進が集まる。浄財が寄る。まことに宗教は尊い。だがしかし考えてみれば、商売というものも、この宗教に一脈相通ずるものがあるのではなかろうか。商売というものは、暮らしを高め、日々をゆたかに便利にするために、世間の人が求めているものを、精いっぱいのサービスをこめて提供してゆくのである。だからこそ、それが不当な値段でないかぎり、人びとに喜んで受け入れられ、それにふさわしい報酬も得られるはずである。それを、心ならずも値切られて、正当な報酬も得られないままに苦しむということであれば、これははたしてどこに原因があるのであろう。おたがいに、宗教の尊さとともに商売の尊さというものについても、今一度の反省を加えてみたいものである。
大事なこといかに強い力士でも、その勝ち方が正々堂々としていなかったら、ファンは失望するし、人気も去る。つまり、勝負であるからには勝たなければならないが、どんなきたないやり方でも勝ちさえすればいいんだということでは、ほんとうの勝負とはいえないし、立派な力士ともいえない。勝負というものには、勝ち負けのほかに、勝ち方、負け方というその内容が大きな問題となるのである。事業の経営においても、これと全く同じこと。その事業が、どんなに大きくとも、また小さくとも、それが事業であるかぎり何らかの成果をあげなければならず、そのためにみんなが懸命な努力をつづけるわけであるけれども、ただ成果をあげさえすればいいんだというわけで、他の迷惑もかえりみず、しゃにむに進むということであれば、その事業は社会的に何らの存在意義も持たないことになる。だから、事業の場合も、やっぱりその成果の内容──つまり、いかに正しい方法で成果をあげるかということが、大きな問題になるわけである。むつかしいことかもしれないが、世の中の人びとが、みんなともどもに繁栄してゆくためには、このむつかしいことに、やはり成功しなければならないと思うのである。
ファンがあるファンというものはありがたい。相撲でも、それがひいきの力士であったなら、勝てば勝ったで無性に喜ぶし、負ければ負けたで心から同情する。欲もなし得もなし。相手のどこかに、自分の好むよさを見つけて、そのよさにただ懸命に応援するのである。だから、スポーツ人でも芸能人でも、自分のファンはとても大事にするし、そのファンの期待にこたえるべく、自分のよさをより一層伸ばすために、日夜精進を重ねる。そこに、スポーツ人、芸能人の向上の大きな励みがあるのだし、ひいてはスポーツ界、芸能界の発展の一つの大きな要素がある。考えてみれば、私たちにもまたファンがある。芸能界だけではない。個人にも、お店にも、また会社にも、それぞれにそれぞれのファンというものがあるのである。そして陰に陽に力強い声援がおくられているのである。おたがいに、この事実を改めて認識し直したい。そして、このありがたい自分のファンを、もっと大事にし、その好まれている自分のよさを、精いっぱい伸ばすようにつとめたい。そこに個人の、お店の、そして会社の繁栄の鍵がある。
手を合わすうどんの値段は同じであっても、客を大事にしてくれる店、まごころこもった親切な店には、人は自然に寄りついてゆく。その反対に、客をぞんざいにし、礼儀もなければ作法もない、そんな店には、人の足は自然と遠ざかる。客が食べ終わって出て行く後ろ姿に、しんそこ、ありがたく手を合わせて拝むような心持ち、そんな心持ちのうどん屋さんは、必ず成功するのである。こんな心がけに徹したならば、もちろん、うどんの味もよくなってくる。一人ひとりに親切で、一ぱい一ぱいに慎重で、湯かげん、ダシかげんにも、親身のくふうがはらわれる。そのうえ、客を待たせない。たとえ親切で、うまくても、しびれが切れるほど待たされたら、今日の時代では、客の好意もつづかない。客の後ろ姿に手を合わす心がけには、早く早くという客の気持ちがつたわってくるはずである。親切で、うまくて、早くて、そして客の後ろ姿に手を合わす──この心がけの大切さは、何もうどん屋さんだけに限らないであろう。おたがいによく考えたい。
何でもないこと何事においても反省検討の必要なことは、今さらいうまでもないが、商売においては、特にこれが大事である。焼芋屋のような簡単な商売でも、一日の商いが終われば、いくらの売上げがあったのか、やっぱりキチンと計算し、売れれば売れたでその成果を、売れなければなぜ売れないかを、いろいろと検討してみる。そして、仕入れを吟味し、焼き方をくふうし、サービスの欠陥を反省して、あすへの新しい意欲を盛り上げる。これが焼芋屋繁昌の秘訣というものであろう。まして、たくさんの商品を扱い、たくさんのお客に接する商売においては、こうした一日のケジメをおろそかにし、焼芋屋ででも行なわれるような毎日の反省と検討を怠って、どうしてきょうよりあすへの発展向上が望まれよう。何でもないことだが、この何でもないことが何でもなくやれるには、やはりかなりの修練が要るのである。平凡が非凡に通ずるというのも、この何でもないと思われることを、何でもなく平凡に積み重ねてゆくところから、生まれてくるのではなかろうか。
敵に教えられる己が正しいと思いこめば、それに異を唱える人は万事正しくないことになる。己が正義で、相手は不正義なのである。いわば敵なのである。だから憎くなる。倒したくなる。絶滅したくなる。人間の情として、これもまたやむを得ないかもしれないけれど、われわれは、わがさまたげとばかり思いこんでいるその相手からも、実はいろいろの益を得ているのである。相手がこうするから、自分はこうしよう、こうやってくるなら、こう対抗しようと、あれこれ知恵をしぼって考える。そしてしだいに進歩する。自分が自分で考えているようだけれど、実は相手に教えられているのである。相手の刺激で、わが知恵をしぼっているのである。敵に教えられるとでもいうのであろうか。倒すだけが能ではない。敵がなければ教えもない。従って進歩もない。だからむしろその対立は対立のままにみとめて、たがいに教え教えられつつ、進歩向上する道を求めたいのである。つまり対立しつつ調和する道を求めたいのである。それが自然の理というものである。共存の理というものである。そしてそれが繁栄の理なのである。
あぶない話失敗するよりも成功したほうがよい。これはあたりまえの話。だが、三べん事を画して、三べんとも成功したら、これはちょっと危険である。そこからその人に自信が生まれ確信が生じて、それがやがては「俺にまかせておけ」と胸をたたくようになったら、もう手のつけようがない。謙虚さがなくなって他人の意見も耳にはいらぬ。こんな危険なことはない。もちろん自信は必要である。自信がなくて事を画するようなら、はじめからやらないほうがよい。しかしこの自信も、みな一応のもので、絶対のものではない。世の中に絶対の確信なんぞ、ありうるはずがないし、持ちうるはずもない。みな一応のものである。みな仮のものである。これさえ忘れなければ、いつも謙虚さが失われないし、人の意見も素直に聞ける。だが、人間というものは、なかなかそうはゆかない。ちょっとの成功にも、たやすく絶対の確信を持ちたがる。だから、どんなえらい人でも、三度に一度は失敗したほうが身のためになりそうである。そしてその失敗を、謙虚さに生まれかわらせたほうが、人間が伸びる。失敗の連続もかなわないが、成功の連続もあぶない話である。
熱意をもって経営というものは不思議なものである。仕事というものは不思議なものである。何十年やっても不思議なものである。それは底なしほどに深く、限りがないほどに広い。いくらでも考え方があり、いくらでもやり方がある。もう考えつくされたかと思われる服飾のデザインが、今日もなおゆきづまっていない。次々と新しくなり、次々と変わってゆく。そして進歩してゆく。ちょっと考え方が変われば、たちまち新しいデザインが生まれてくる。経営とは、仕事とは、たとえばこんなものである。しかし、人に熱意がなかったら、経営の、そして仕事の神秘さは消えうせる。何としても二階に上がりたい。どうしても二階に上がろう。この熱意がハシゴを思いつかす。階段をつくりあげる。上がっても上がらなくても……そう考えている人の頭からは、ハシゴは出てこない。才能がハシゴをつくるのではない。やはり熱意である。経営とは、仕事とは、たとえばこんなものである。不思議なこの経営を、この仕事を、おたがいに熱意をもって、懸命に考えぬきたい。やりぬきたい。
ノレンわけ昔は、お店に何年かつとめて番頭さんになったら、やがてノレンをわけてもらって、独立して店を持ったものである。今でもそういうことが、一部で行なわれているかもしれないけれど、それでも世の中はずいぶん変わった。生産も販売もしだいに大規模になって、店の組織も会社になって、だからもうノレンわけなどというものはすっかり影をひそめてしまった。つまり、独立して店を持つということがむつかしくなって、会社の一員として終生そこで働くという形が多くなったのである。世の中の進歩とともに、大規模な生産販売に移行してゆくのも自然の姿であろう。だからこれもまたやむを得ないことかもしれないが、しかしノレンわけによって、独立の営みをはじめるというあの自主的な心がまえまでも失ってしまいたくない。会社の一員であっても、実はそのなかで、それぞれの勤務の成果によって、それぞれにノレンわけをしてもらっているのである。だからみんなその仕事では独立の主人公なのである。そんな気持ちで、自主的な心がまえだけは、終生失わないようにしたいものである。
同じ金でも同じ金でも、他人からポンともらった金ならば、ついつい気軽に使ってしまって、いつのまにか雲散霧消。金が生きない。金の値打ちも光らない。同じ金でも、アセ水たらして得た金ならば、そうたやすくは使えない。使うにしても真剣である。慎重である。だから金の値打ちがそのまま光る。金は天下のまわりもの。自分の金といっても、たまたまその時、自分が持っているというだけで、所詮は天下国家の金である。その金を値打ちもなしに使うということは、いわば天下国家の財宝を意義なく失ったに等しい。金の値打ちを生かして使うということは、国家社会にたいするおたがい社会人の一つの大きな責任である。義務である。そのためには、金はやはり、自分のアセ水をたらして、自分の働きでもうけねばならぬ。自分のヒタイのアセがにじみ出ていないような金は、もらってはならぬ。借りてはならぬ。個人の生活然り。事業の経営然り。そして国家の運営の上にも、この心がまえが大事であろう。
追求する月に向けてロケットを発射する。轟音とともにたちまち天空高くとび立って、もはや人間の目にはとどかない。しかし追跡装置が完備して、どこまでもこれを追う。何千キロ何万キロ、月の表面に至るまで、刻々にこれを追う。追求する。だからこそ、ロケット発射の意義がある。成果がある。追求しなければ何の意味もなし。射ちっ放し、消えっ放しでは、浪費以外の何ものでもない。人間社会の人間同士の間でもこれと同じこと。人が人に事を命じる。指示する。頼む。しかし、命じっ放し、指示しっ放し、頼みっ放しでは、何の意味もない。何の成果もあがらない。命じたからには、これを追求しなければならぬ。どこまでもトコトン追求しなければならぬ。それが命じた者の責任ある態度というものであろう。追求される方も容易でないが、追求する方もほんとうは大へんである。ロケットを追跡する以上の配慮がいる。根気がいる。しかし、ともすればあいまいにすごしがちな日々、追求する方もされる方も、おたがいにこれほどの覚悟を持ちたい。勇気を持ちたい。
あなたはいま何をもとめて日々努力し日本はいま何をめざして進んでいるのだろうかともに育ちともに暮らしているこの国を愛し日本人自身のすぐれた素質を大切に思うならば政治家も経営者も勤労者も家庭の主婦もおたがい他にのみ依存する安易な心をすててみずからが果たすべき責任にきびしく取り組もうこの国日本の百年の計をあやまらないために
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