国の道
人はさまざま。だからさまざまの人生があり、さまざまの人の歩む道がある。そのいずれの道であろうとも、たとえそれがひっそりとした道であろうとも、それぞれの道をそれぞれにきりひらいてゆくことは、決して容易でない。人おのおの精いっぱいの心根がそれぞれにこもらねばならない。ボンヤリしていては道はひらけぬ。他人まかせでは道はひらけぬ。しかし、もっと容易でないのは、いわゆる国として、国家としての道をきりひらいてゆくことではなかろうか。いかにわが道をひらく精進を重ねても、国としての道がひらけていなければ、所詮はそれは砂上の楼閣。誰かが何とかしてくれるだろうでは、誰も何ともしてくれない。人の歩む道も国の歩む道も結局同じことではなかろうか。ボンヤリしていては道はひらけぬ。他人まかせでは道はひらけぬ。つまりは、われ他人とともに懸命に考えて、わが道をひらく如くに、国の道をひらかねばなるまい。そうしなければならないのが民主主義で、またそれができるのも民主主義なのである。おたがいに三省してみたい。
覚悟はよいか事に臨んでイザというとき、うろたえもせずあわてもせず、ひごろの覚悟のほどを示して決然と、しかも悠揚として事にあたるということは、まずはおたがいになかなか至難のことである。ことほどさように、つい日々をウカウカとすごしていることになるわけで、だからイザ〝覚悟はよいか〟と問われたら、なすすべもなく呆然自失、悠揚決然どころでない。しかしよく考えてみれば、日々の営みのなかにおいて、おたがいに刻々に、その覚悟のほどを問われているわけで、たとえば今日のこの交通地獄のなかでは、一歩家の外へ出れば、いついかなる危難がふりかかるかわからず、すでにここにおいても、その覚悟がうながされているわけである。すべてのことにおいて、いろいろの姿で刻々に〝覚悟はよいか〟と問われているのである。そのことをみずから察知して、自問自答するかしないかは、その人の心がけ一つであろう。ましてや昨今のわが国の社会情勢、経済情勢は、世界の動きとともに寸刻の油断もならない様相を呈しつつある。つねに〝覚悟はよいか〟と問われることを、おたがいに覚悟したいものである。
信念のもとに昔の商人は〝店是とのれん〟というものを、ずいぶん大事にした。ときには、自分の生命よりもこれを大事にした。伝来の店是とのれんを守ることに、商人としての生命をかけて、これに強い信念を置き、誇りを感じていたのである。そのことのよしあしは別として、〝武士道とは死ぬことと見つけたり〟といったあの葉隠武士の信念に一脈相通ずるようなものがある。そしてそこに土性骨といわれるものの源泉があったのである。時代は変わった。人の考えも変わった。しかし信念に生きることの尊さには、すこしも変わりはない。いや今日ほど、事をなす上において信念を持つことの尊さが痛感されるときはない。為政者に信念がなければ国はつぶれる。経営者に信念がなければ事業はつぶれる。そして店主に信念がなければ店はつぶれる。誇りを失い、フラフラしているときではない。正しい国是を定め、誇りある社是を定め、力強い店是をきめて、強い信念のもとに、自他ともに確固たる歩みをすすめたい。そこから国家の、事業の、お店の、そしておたがい個々人の真の繁栄が生み出されてくると思うのである。
わが事の思いでひとくちに漫才、落語といっても、上手下手さまざまである。同じネタでも名人上手がやれば、抱腹絶倒つきないおもしろみがあるけれども、下手な人がやればおもしろくもなければおかしくもなし。ましてや素人がやれば、あくびを殺しながらの時間の浪費。材料が同じなのに、どうしてこんなにちがうのか。持ち味もあろう、適性もあろう。修練もあろうし、くふうもあろう。熱意のちがい、真剣さのちがい、研究心のちがい、こうしたものが総合されて、天地の差を生み出しているのかもしれない。漫才ならば、下手でもせいぜいが時間の浪費で終わるけれども、これが一国の政治ともなるとそう簡単に事はすまない。同じ国土、同じ国民、同じ国富、つまり材料は同じでも、政治のやり方一つ、政治家の心がけ一つで、国家の盛衰、国民の幸不幸が根本的に左右されてくるのである。国家の運営も会社の経営も、また商店の経営も団体の運営も、すべてみな同じことが言えるであろう。他人事ではない。わが事である。わが事の思いで、今一度、政治を吟味したい。経営を吟味したい。そして個人として、また国民としてのわが身のあり方を静かにふりかえってみたい。
平和と闘争平和と闘争とは本来相容れないもので、ことばのうえでも事実のうえでも、全く正反対のものである。平和はあくまで平和であり、闘争はあくまで闘争である。ところが近ごろは、平和のための闘争などという奇妙なことばが口にされ、口にされるばかりでなく、このことばに基づいて、何かとハデな闘いが展開される傾向が強い。これはこれなりに、あるいは理屈のあることかもしれないが、いかに理屈を通しても、相容れないものは所詮相容れない。戦争の悲惨さは、もう今日世界じゅうのだれもが身にしみて体得しているところで、だから世界の人びとは、平和を得るために戦争を起こすなどという愚かな考えは、できるだけこれを避け、平和のうちに平和が得られるよう、真剣な努力を重ねているのである。われわれも、もうそろそろ大人になっていいころである。仲よくするためになぐり合いをするなどという稚気に類した振舞はもうやめて、平和な話し合いのうちに、平和な繁栄の生活が得られるようおたがいに最善の考慮をはらいたい。われわれの周囲には、日常こんな問題がたくさんあるのである。
談笑のうちにわが国も、戦後は言論の自由がゆるされて、そのために世の中がずいぶんと明るくなったが、その反面にカンカンガクガクの徒がやたらにふえて、黙々と働くという気風がいささか薄れたようにも思われる。論多くして国栄えず、とまでは言わないが、この点おたがいに静かに反省してみてはどうだろう。よい自動車は、その性能が良ければ良いほど、余計な音を発しない。小さい音で、しかもすばらしいスピードで走るのである。ところが悪い自動車は、ブウブウガタガタ大きな音をたて、そのくせなかなか速度が出ずに、すぐにエンコしてしまう。口角アワをとばし、腕をまくらんばかりの大議論をしながら、一向にものごとが進まないのは、この悪い自動車のように、どうもあまり感心した姿ではない。やっぱりよい自動車のように、最小限必要の議論に止め、それも談笑のうちにスムーズに運んでゆきたいものである。それでこそ議論がほんとうに世の中の繁栄に役立つことになるであろう。朗らかに語り合い、黙々として働く──おたがいにエンコしないうちに、国家として、また国民としてこんなことを心がけてみたい。
ピンとくる人間の身体の仕組みは、実に複雑にそして実に巧みにできている。神のみがなし得ることかもしれないが、人工衛星の構造がいくら複雑だと言ってみても、所詮、人体の神秘さにはかなわない。見方によっては、宇宙の広大さ、神秘さが、そのまま人間の身体に再現されていると言ってもよいであろう。それほどに複雑で、それほどに大きい。にもかかわらず、足の先を針の先でちょっとつついても、頭にすぐピンとくる。すみずみにまで神経がこまかくゆきとどいて、どんなところのどんな小さな変化でも、間髪を入れず頭に知らせる。だから機敏にして適切な行動もとれるわけである。人と人とが相寄ってつくった組織。商店、会社、いろいろの団体。一番大きいのが国家の組織。それらの末端をちょっとつついても、すぐにピンとくるかどうか。間髪入れずの反応が示せるかどうか。合理化といい生産性の向上といっても、本当はこの間髪入れずの反応が示せる体制から生まれてくるのである。本当の意義はこのピンにある。おたがいに、もう一度思いをめぐらしたい。会社も商店も、そして一番大事な国家についても。
政治という仕事どんな仕事でも、それはみんなが共存してゆくためにあるもので、一つの仕事は他の仕事につながり、それがつながって世の中が動いている。だから自分一人の都合だけで、その仕事を勝手に左右することは、みんなに迷惑をかけ、道義的にもゆるされるわけがない。自分の仕事は自分のものであって、同時に自分のものではないのである。中でも政治という仕事は、一億国民に、直接のつながりを持っていて、その良否は、たちまち国民の幸不幸を左右する。それだけに、政治という仕事はもっと尊ばれ、政治家はもっと優遇されてよいと思うのである。だが実際はどうであろう。先日のある放送で「大きくなったら何になる」というアナウンサーの問いに対して、一小学生が「僕は喧嘩が弱いから政治家にはなれない」と無邪気に答えている。これを笑って聞く者は、自分で自分の幸福を葬っているものと言えよう。政治という仕事が軽視され、政治家が尊敬をうけないような国が、繁栄するはずがない。この責任は誰にある。選んだ国民の側にあるのか。選ばれた政治家の側にあるのか。
求めずして〝苦しい時の神頼み〟というけれど、おたがい人間、困って悩んでセッパつまれば、やはり思わず手を合わし、神仏に祈りたいような気持ちになってくる。どうかお頼み申します、どうかこのねがいをおきき届けください──いろいろさまざまのねがいやら求めに、神仏もたいへんであろう。人情としてこれもやむを得ないとはいうものの、それにしてもおたがいに、あまりにも求めすぎはしないか。頼みすぎはしないか。頼りすぎはしないか。手を合わすという姿は、ほんとうは神仏の前に己を正して、みずからのあやまちをよりすくなくすることを心に期すためである。頼むのではない。求めるのではない。求めずして、みずからを正す姿が、手を合わす真の敬虔な姿だと言えよう。これは別に神仏に限ったことではない。日々の暮らしの上でも、あまりにも他を頼み、他に求めすぎてはいないか。求めずして己を正す態度というものを今すこし養ってみたい。個人としても、団体としても、また国家としても。そこに人間としての、また国家としての真の自主独立の姿があると思うのだが──。
大衆への奉仕大衆は愚衆である。だから、この愚かな大衆に意見を聞くよりは、偉大なる一人の賢人があらわれて、その独裁によって政治が行なわれることが、もっとも望ましい──かつての大昔、だれかがこんな考えを世に説いて、それが今日に至るも、なお一部には、達見として尊ばれているようである。たしかに大衆には、こうした一面があったかもしれない。そしてこうした考えから、多くの誤った独裁政治、権力政治が生み出され、不幸な大衆をさらに不幸におとしいれてきた。しかし、時代は日とともに進み、人もまた日とともに進歩する。今や大衆は、きわめて賢明であり、そしてまたきわめて公正でもある。この事実の認識を誤る者は、民主主義の真意をふみはずし、民主政治の育成を阻害して、みずからの墓穴を堀り進むことになるであろう。くりかえして言うが、今日、大衆はきわめて賢明であり、またきわめて公正である。したがって、これを信頼し、これに基盤を置いて、この大衆に最大の奉仕をするところに、民主政治の真の使命があり、民主主義の真の精神がひそんでいると思うのである。国家繁栄への道も、ここから始まる。
ダムの心得雨が降る。山に降る。降った雨は地にしみこみ、谷水となり、川となり、平野をうるおして海に流れる。この流れがうまくゆけばよいけれど、ちょっと狂えば洪水となり、また反対にかんばつとなる。流しっ放し、使いっ放しの結果である。そこでダムを考える。流しっ放しをせきとめて、せきとめ溜めたその水を有効に使う。ゆとりをもって適時適切に放出する。人間の知恵の進歩であろう。川にダムが必要なように、暮らしにもダムがほしい。物心ともにダムがほしい。ダラダラと流れっ放し、使いっ放しの暮らしでは、まことに知恵のない話。大河は大河なりに、小川は小川なりに、それぞれに応じたダムができるように、人それぞれに、さまざまの知恵を働かせれば、さまざまのダムができあがるはずである。個人の暮らしの上だけではない。商売の上にも、事業の経営の上にも、このダムの心得がぜひほしい。そしてさらに大事なことは、国家の運営にあたっても、このダムをぜひつくりたい。国家と国民の安定した真の繁栄のために。
日本よい国花が散って、若葉が萌えて、目のさめるような緑の山野に、目のさめるような青空がつづいている。身軽な装いに、薫風が心地よく吹きぬけ、かわいい子供の喜びの声の彼方に、鯉のぼりがハタハタと泳いでいる。五月である。初夏である。そして、この季節にもまた、日本の自然のよさが生き生きと脈うっている。春があって夏があって、秋があって冬があって、日本はよい国である。自然だけではない。風土だけではない。長い歴史に育くまれた数多くの精神的遺産がある。その上に、天与のすぐれた国民的素質。勤勉にして誠実な国民性。日本はよい国である。こんなよい国は、世界にもあまりない。だから、このよい国をさらによくして、みんなが仲よく、身も心もゆたかに暮らしたい。よいものがあっても、そのよさを知らなければ、それは無きに等しい。。、、。。
著者紹介松下幸之助(まつした・こうのすけ)PHP研究所創設者、明治。(一八九四)年27和歌山県に生まれ9歳で単身大阪に出。火鉢店、自転車店大阪電灯(株)に勤務、大正7(一九一八)年。、23昭和。(一九四六)年には21、「繁栄によって平和と幸福を=のスローガンを掲げてPHP平成元(一九八九)年に。歳で没94。
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