一九九五年は、日本で「インターネット」なるものが本格的にブームになった年である。専門雑誌がいくつか立ち上がり、インターネットの名がついた本がやたらと書店に並んだ。 とはいっても、一般人の間でインターネットの人気が沸騰している、というわけではまだなかった。背景にはいわゆる「マルチメディア」ブームがあった。今聞くときわめて曖昧なこのマルチメディアという言葉の持つ意味をもっとも具体的に見せたのがインターネットだったわけである。世界中を結んだネットワークに個々人がパソコンを介して自由に情報を受発信できるというインターネットのイメージは、まずマスコミや一部の企業の気を引いた。そしてコンピュータ業界全体がインターネット人気を既成事実化してしまおうと動き回る、というのが当時の構図だった。個人ユーザーの間に本当のブームがやってくるのは、九五年後半にウインドウズ 95が発表されてしばらくたってからである。 その意味では、当初のインターネットブームは、実際にはあくまで業界内のレベルにとどまっていた。ただし業界関係者は、すでにその先をにらんでいた。パソコンの普及や回線使用料の値下げが進めばいずれブームの中心は一般の消費者に移行し、「インターネット」というキーワード自体が一つの市場となるはずだ──皆、未知のマーケットの広がりをこのように夢見ていたわけである。 この予測は、あながち的外れでもなかった。インターネット先進国の米国ですでにそんな動きが現れていたからである。 一九九五年、米国内のインターネット利用者は電子メール利用だけも含めるとすでに二〇〇〇万人前後といわれ、産業界ではインターネット・ビジネスにおけるデファクトスタンダード(事実上の標準)の確立を目指し、さまざまなベンチャーが我先にと立ち上がっていた。また、その中で成功した企業が米国の店頭市場、通称ナスダック( NASDAQ)への登録を始めていた。 ぼくが、自分にとって今までで最高のアイデア──しかもインターネットを活用した──を思い付いたのは、そんな年の九月のことだった。ぼくはこのアイデアを追求し事業化した。周囲もこのアイデアを褒め称え、事業に一枚かもうとしてきた。そして、ジェットコースターを思わせる二年間の狂騒の時が訪れた。 もっとも、このジェットコースター、レールの最後が空中で途切れていたのであるが──。 周囲がインターネット、インターネットと騒ぎ始めた最初の頃、正直いって、ぼくはいささか冷ややかな目で、ブームを眺めていた。 インターネット自体は割合と早くから使っていた。ハイパーネット社では創業時からさっさと導入していたくらいである。でも、それをビジネスにするつもりは毛頭なかった。ゲームソフトを作っていた人間がこう言うのもなんだが、コンピュータが嫌いだったからだ。 ぼく自身、ゲームソフトまで制作していた経験がある。だからだろう。ぼくは、コンピュータの限界、使いにくさというのを嫌というほど知っていた。それゆえ、仕事の効率を上げるためにコンピュータを積極的に利用することはあっても、コンピュータそのもので消費者相手のビジネスをやろうという発想はまったくなかった。こんな面倒くさい代物を一般のサラリーマンや主婦、学生が嬉々として自分から使うわけはない──。まあ、そう思っていたのである。 ところが、ぼくの冷めた視線をよそに、インターネット・ブームは凄まじいスピードで加熱していった。無論、さきほども記したように多数の消費者がどっと利用し始めたというところまではまだ進んでいなかった。しかし、コンピュータ間連業界やマスメディアは、パソコンもまだ満足に普及してないこの日本の一般の方々みんなが近い将来この米国渡来の国際情報網を活用する、と声高に主張していた。そして、その主張に踊らされる企業があっちでもこっちでも出てきていた。 インターネット? 関係ないね、うちの商売とは。ハイパーネット社は IMS事業を中心に我が道を行く──。そんな道の選び方も今にして思えばあったかもしれない。 でも、実際にぼくとぼくの会社が進んだのは別の道だった。 個人的にはコンピュータもインターネットも好きではなかったぼくが、世間のこの動きに反応してしまった最大の理由。それは「恐怖」だった。そしてその恐怖の原因は、 IMSの成功にあった。 二〇歳前後から社長業一筋のぼくは、決して楽な道ばかりを歩んでいたわけではない。ここまで読んでくださった読者の方ならば、すでに詳しく記したからおわかりだと思う。カネに困ったこともあるし、社員に逃げられたこともある。ただ、根っからの起業家にして楽天家のぼくにとっては、そんな苦労自体も楽しいゲームの一環ととらえていた。何もないところから自分自身で何かを作り上げていくことに興奮と満足を覚えていた。 その感覚が、 IMSの業績が上向いて株式公開の話などがちらつき始めるにつれ、ぼくの中で恐怖や不安へと変っていくようになった。しかも、前項の最後にも書いたように、 IMSという仕事そのものにぼく自身が飽きてきた。 次の「何か」を始めたい。次の「何か」を始めなきゃ。新規事業への欲望と、現在のささやかな成功に対する将来への不安。この二つがぼくを駆り立てた。インターネットの分野へと──。 ただしここで一言いっておくと、インターネット分野への進出を真剣に考えるようになったのは、別に流行に安易に乗ろうと思ったからではない。 ぼくには一つの理念があった。それは「いかに自身の事業をつぶせるか」である。誰もが自分の事業の永続を願っている。しかし、時代が、環境が変れば、一つの事業が同じ様相で生き延びることはできない。ならば、どうすればよいか。その事業の当事者が先回りして「この事業はどうやったらつぶれるのか」を想定し、原因を先に突き止めればよいのである。 では、 IMSがつぶれるのはどんな時だろうか。ぼくの結論は、将来 IMSをつぶすのは競合企業でも、経済恐慌でもない。コンピュータやインターネットを包括したマルチメディア技術の発展と普及である、ということだった。ちょっと考えればわかるが、 IMSのサービスは、原則的にパソコン端末とインターネットで代替可能である。しかも、収集したマーケティング・データの加工のしやすさやサービスの拡張性を考えれば、むしろこうしたマルチメディアの活用の方に軍配が上がるのは論を待たない。 そんなわけで、九五年の夏頃から、ぼくはインターネットを利用したビジネスを発見しようと毎日頭をひねるようになった。 公開業務や社内の管理体制構築といったいわゆる事務系業務が増える中で、こんなに楽しい「仕事」は他になかった。社内にインターネットを完璧に利用できる環境を作り、毎日いろいろなホームページを覗いたり、わざわざ電子メールを社内に完備して、手を伸ばせば隣の社員の肩に届いてしまうような狭いオフィスの中でのコミュニケーションも電子メールでこなすようにした。さらに社員全員の名刺にアドレスを印刷した。人に会うたびに相手のアドレスを入手し、とにかくパソコンのアドレス帳を増やしていった。 朝出社してパソコンを立ち上げる。このときにメールが一通も届いていないと実にさびしい。そこで十数人の社員全員に日報をメールで送らせる。これで朝出社すると、パソコンの中はメールの山である。毎日が実に楽しくなる。メールを返信するときも、必ずさらなる返事が来るよう書いた。かくして
メールの件数はどんどん増えていく。 メールの処理が終われば、今度はホームページの「覗き」を開始する。そう、「覗く」という表現がぴったりの内容のホームページをインターネット上でどんどん発掘しては、一人ディスプレイに顔を寄せてにやついたり、つばを飲み込んだり──。どんな類のページかはあえて描写しなくてもおわかりになるだろう。小さいとはいえ、一企業のトップが真昼間から、インターネットで「覗き」をやっているというのは、かなり変態的な行為である。 という具合に、ぼくはインターネットを日々積極的に「活用」することで、新しいビジネスの種を模索した。本当にそれだけが目的なのか、といわれるといささか困るが。 ともかくインターネットの世界は、実際にアプローチしてみると、ぼくが想像していたよりもずっと間口も広いし、奥も深いということが分かってきた。それをどうビジネスに結び付けるか。さまざまなアイデアが頭の中に浮かんできた。浮かんだアイデアを検証する──その繰り返しが毎日毎時間の仕事となった。 しかし、いくら考えても自分自身で「これだ!」と納得するようなものは、さすがになかなか出てこなかった。 納得できない理由はいくつかあったが、一番大きな理由は、果たしてそのビジネス・アイデアが自分や自分の会社がやるべきことかどうかであった。つまり、ぼくの思い付いたアイデアはどれも、確かに便利な内容だがなにも我々が率先するまでもなくほかの会社でも十分できるだろう、というレベルのものばかりだったのである。 九五年の、それは九月に入ったばかりの頃だったと思う。 インターネット・ビジネスを模索し始めてからすでに二カ月ぐらいたっていた。その日、仕事を終え、六本木で少々遊んできたぼくは、秘書のいいつけを無視して就業時間中も乗り回していた当時の愛車、ダイヤモンドブラックの BMW・ M 5で首都高を抜け、用賀のマンションに戻った。部屋の電気をともさずにテレビをつけ、そのままシャワーを浴びてベッドに入ると、時計の針は二時を回っていた。 TVをつけっぱなしにしながら物思いにふけり、いつしか寝ていくというのがぼくの就寝スタイルだった。 その夜も、酒が軽く回った頭の中で、会社の仕事のあれこれや、最近付き合っている女のことなどが、ゆったりと渦を巻いていた。もちろん、インターネット・ビジネスのアイデアも、である。 一〇分、二〇分、あるいはほんの一分だったかもしれない。脳みその裏でちりちりと蠢いていたさまざまな思考がだらしなく底へと沈み、あまい眠気が襲ってきたそのとき。何かが目玉の奥の方で光った。 この手があるじゃないか そう思った瞬間、「この手」の「この」がどこかへ消えてしまった。 なんだったんだ、あれは。ぼくは眠りの淵から這い上がり、何とか「この」の正体を突き止めようと、ぼんやりとした脳にむちを入れた。数秒後か数分後か。結局思い出せない。あきらめて眠りに落ちる。「あっ、これだ」、この後に及んでまた思い出す。再び必死に起きて考えをまとめようとする。が、またその「これ」はどこかへ蒸発してしまう。 何度か繰り返しているうちに、ぼくはとろりとした眠りの海に沈んでいった。 目が覚めたのは、朝の九時ごろだった。昨晩から点けっぱなしのテレビからは、朝のワイドショーの耳ざわりな芸能レポーターの声が流れ出していた。それを無視して寝ぼけ眼をこすりながら、ぼくはトイレへと入った。仕事の開始だ。 ぼくの特技は、朝の寝ぼけた状態で一日の仕事の大部分をやってしまうことだった。この仕事というのは、いわば経営戦略と戦術の策定である。今日やるべき仕事の手順、現在の業務の改善点、その具体的手法、さらには新しいビジネスのアイデア……文字通り泉のように発想が湧いて出てくる。むりやり頭をひねっているわけではまったくないのだが、まるで誰かが勝手に水道の蛇口を開けたかのように、次から次へと思考が流れ出てくる。 前日眠りに就く前にあれこれ考えていたことが、一晩熟成されたのち明確な思考となって翌朝現れてくるのだろう。ぼくは勝手にそう思っていた。 昨日の「これ」が突然クリアな映像となって、便座に座りこんだ寝ぼけ頭の中に映し出された。 パソコンの画面だ。そこに写っているのはネットスケープか? いずれにせよブラウザーソフトだ。どこかのホームページが開かれているようだ。 奇妙なのは、画面の右隅に縦長のウインドウがネットスケープの画面に割り込んで開かれていることだった。ひとめ見てそのウインドウが、ブラウザーソフトの画面分割機能を利用したものではなく、独立した別のアプリケーションソフトであることがわかった。 そしてウインドウには、広告が表示されていた。広告を表示するだけの単純なソフトのようだ。「これ」の正体を突き止めた! ぼんやりとしたぼくの頭のてっぺんに光が突き刺さり、脊髄を抜けていった。これが、前夜思いついたアイデアだ! 卓抜なアイデアを思いついた人の話を聞くと、ほとんどの場合、入念なマーケティングのもとに理論的に打ち出されたものではなく、瞬間的に脳裏をかすめるものであるという。 ただし、それは単なる思いつきとはおそらく異なる回路で発生するものだ。ある目的や欲求をベースに、日々の情報がその人の脳に断片的に積み重ねられ、あるとき最後のキーが入力されると全体が有機的に絡み合い、新たなアイデアが誕生する。ぼくの場合は、広告やマーケティングに対するこれまでのビジネスで得てきたノウハウと経験、それにインターネットを何とか商売の道具に仕立てようとの欲求が有機的に結びついて、「これ」が閃いたのだろう。 新規事業の行方に、一筋の光が射し込んだ。問題は、トイレの中でぼくの脳みそに浮かんだ画面のイメージをどう具体的な形に落とし込むかである。この作業は、さすがに寝ぼけながらではできない。ぼくは会社に電話をしてその日の予定をすべてキャンセルし、代わりに社内会議の予定を夕方に組ませた。自分のアイデアを数時間で具体化して、社員の前で披露し、彼らの意見や反応を知りたかったのである。ぼくはパジャマ姿のまま、パソコンのスイッチを入れ、ワープロソフトを立ち上げて、メモを作り始めた。 ぼくの頭に浮かんだアイデアでは、ブラウザーソフトと広告表示用のソフトが分離して表示されていた。というよりは、要するに、ぼく自身が分離すべきだと思っていたのである。 映像メディアには、ぼくのアイデアとすでに同じようなことを実践しているものがある。そう、テレビである。ただし、テレビ──この場合、日本では NHKを除く地上波という意味だが──とインターネットには、大きな違いがある。それは「チャンネル数」だ。 テレビの場合、東京を例にとると地上波民間放送局は全部で五つ。もし、ある企業がテレビを使って広告したければ、この五局のいずれかの番組のスポンサーになり、ついでにスポット CMを適当に打てばよい。 ところが、インターネットの場合には、「チャンネル」は無限にある。世界中の企業、各種団体、宗教法人、学校、国家、市町村、個人が無数のホームページを作成し、我々はそのいずれにも基本的には同等にアクセスできる。となると、ホームページを「あるチャンネルのある番組」と見立てた場合、どのホームページに広告を打てば一番効果的かを判断するのは極めて難しい。というよりは、ほぼ不可能である。
テレビ CMのように番組というコンテンツに貼り付いたかたちの広告をインターネット上で展開するのは、きわめて非効率的なのである。個々のホームページに広告を貼り付けても、それを見てくれるのは限られた人たちだ。 それが、ホームページを見るブラウザーと完全に分離したかたちで広告表示できるとすれば、この問題は一挙に解決する。ユーザーがどのコンテンツを見ていようが関係なく広告を見せられるからである。 これが、まずアイデアの第一点目である。 ただし、問題が二つあった。 一つ。まず、広告をただ見せるだけのソフトを開発しても、競争優位性を保つことができない。 おそらくそんなソフトを開発するのに手間はかからないから、事業がうまくいけばいくほど真似をして参入してくる会社が続々出てくる。要するにサービスをもう一ひねりしないと、先行者メリットがほとんど出せないというわけである。 二つ。次に、一般に広告というのはだれかれかまわず見せればいいというものではない。確かに食品や日用品などの不特定多数の人間に宣伝をしたい商品は別だが、多品種少量化の進んだ現代消費市場においては、販売ターゲットを絞り込んだ商品のほうが数にすれば多い。 自動車を例にとると、三〇年前ならば、一メーカーのラインナップは数車種から多くて十数種。ところが現在では、トヨタ・カローラだけでも細かな仕様変えも含めると百数十のバリエーションがあるという。企業側がマーケットを細分化して、ターゲットにマッチした商品づくりをしている証拠である。 となれば、商品の広告戦略も必然的に変わってくる。不特定多数向けに宣伝するのではなく、商品の潜在需要層に確実に伝わるかたちで広告を打つ必要がでてくる。確実に買ってくれそうな人にだけ広告を見せるほうがはるかに効率的である。趣味の雑誌や業界新聞などに打つ広告というのは、こうした戦略のもとに成り立っているといえる。なぜならば、その媒体のユーザーのし好が明確に見えるからだ。 ぼくが思いついた方式では、インターネット上の特定のホームページに広告を打つわけではない。どのホームページを開こうが、広告の方は常に流れている仕組みだ。逆にいうと、特定のユーザー層に向けての広告展開が、このままではできない。 以上二つの問題の解決が、このアイデアの事業化には不可欠である。どうすればよいか、ぼくはすぐに思いついた。すなわちユーザーのデータベースを利用する、という発想だ。 先ほども述べたようにインターネットの場合、テレビに比べてコンテンツ(この場合はホームページ)の種類があまりにも多すぎる。だから、「これは二〇代向け女性化粧品だから、この年齢層の視聴者が多い × ×テレビの月曜 ◎時のドラマに打とう」というテレビ CMのようなパターンは考えられない。 そこで発想の逆転だ。テレビ CMがなぜ番組の中身に合わせて打たれるのか。それは、テレビの場合、基本的にどの番組をどんな人々が見ているか特定できないからである。この番組内容ならば、こんな層の人々が見ているだろう。広告主はそんな類推のもとに広告を打っているのである。 翻ってインターネットの場合はどうか。ユーザーはまず接続業者である「プロバイダー」と契約して、各ホームーページにアクセスする。ということは、プロバイダーと協力してユーザー側に調査をかければ、個々のユーザーのプロフィール(顔)がかなり明らかになる。 そこで、そのユーザーのし好に合わせた形でそれぞれ広告が届くような仕組みをつくってしまう。そうすれば広告主の方も、ユーザーの顔が見えることでテレビ CMよりもはるかに正確にターゲットを絞り込んだ広告展開が可能となる。極端な話、たとえば、二〇歳から二五歳までの東京都世田谷在住の女性を対象に、同区内の三軒茶屋にあるお好み焼き屋の広告を打つことだってできる。 これで問題の一つは解決する。では残りのもう一つ、このビジネスにおける競争優位性はどうすれば保持できるのか。それもこのユーザーのデータベースを利用すれば解決可能なのである。 この方式ではユーザーのデータベースが商売の命だ。いかに質的も量的にも豊富なデータベースを構築できるかが、勝負の分かれ目となる。ということは、いち早くビジネスに手をつけて、より多くのユーザーのより多くの個々の情報を集積した企業が、圧倒的に有利になる。後から参入してくるのがたとえ大企業だろうと、一夜にして大規模なデータベースを構築するのは不可能である。すなわち、先行者の競争優位が成り立つのだ。 要点をまとめるとこうなる。 まずユーザーにとってのメリット。広告がつくことでインターネットの接続料金は軽減され、インターネットは TVの民放のような存在になる。場合によっては無料化もありうる。さらに自分のプロフィールにあった広告ばかりが表示されるので、インターネットの利用価値はいっそう高まる。 次に広告主にとってのメリット。商品に完全にマッチした人たちだけに広告を送ることができるので、非常に合理的に宣伝できる。たとえばユーザーにあらかじめ酒を飲むか飲まないかということに答えてもらえば、酒を飲まない人に酒の広告をしないですむ。その分広告宣伝費を節約できる。それどころか、このシステムが進歩すれば、ある企業の会員にだけ、その会員の名前をつけて広告をするなんていう離れ業もできてしまう。(実際にこの方法は、「ワン―トゥ―ワンメッセージ」という名前で九七年に完成し、当社の倒産寸前に商品化した。たとえばある生命保険会社が、ユーザーの誕生日にそのユーザーの名前の入った広告を流し、「 ○ ×さん、 △ △才の誕生日おめでとうございます。つきましては当社の保険が……」とメッセージを流せるのである)。 最後にハイパーネットにとってのメリット。この方式は、事業を続けるほどユーザーのプロフィール・データベースを蓄積でき、どんどん競争優位性が高まる。アイデアがシンプルなだけに誰でも真似できるが、データベース利用が前提となれば、先に情報をストックした方が勝ちである。 閃いたアイデアはつぎつぎと具体的なイメージに結びついた。非常に興奮に満ち、充実した時間だった。今のうちに考えられることはすべて吐き出してしまおうという心境であった。頭から沸いてくる思いをメモにしていったが、この時ほどワープロを打つのが遅いと思うことはなかった。どんどん沸いてくる考えにキーボードをたたく手が追いつかないのである。 アイデアのすべてをメモにまとめることができたころ、時計を見た。ぼくがトイレを出てからたった一五分しかたっていなかった。九五年秋のことである。 アイデアは浮かんだ。しかしそこで止めては、ただの自己満足にすぎない。ぼくは社内会議の予定を繰り上げてもらい、早々に会社へと車を走らせた。こいつはいける──、ハンドルを握りながら、ぼくは早くこのアイデアを皆に伝えたくてそわそわしていた。渋滞気味の首都高がよけい気持ちをはやらせた。 社内会議は異様な雰囲気だった。一人で興奮しているぼく。何の話かも分からずに強制招集された社員たち。他に仕事があるところを無理矢理連れてこられて、あからさまに不満げな表情を浮かべている者もいた。 一通りこの新しいシステムについての説明を終えると、ぼくは社員の意見を聞いた。「どう思う、早く何か言えよ」 基本的にぼくはせっかちなのである。「いいですねえ、これって行けそうですよ」 こう相づちを打ったのは、営業の女子社員だ。何だか実にいいかげんに調子を合わせているように聞こえる。さらにその後、ぽつぽつ返ってきたほかの社員の反応は、「誰が作るんですか?」「そうだよなあ。それに IMSと並行して売るにはちょっと問題が」等々。
何なんだ、この反応は。ぼくはかちんときた。そんなこと、後で考えればいいじゃないか、要はこのアイデアがいいか悪いか、それが最初で、悪けりゃこれでおしまいだし、良ければそれを実現する手段はそれからいくらでも出てくるじゃないか。それにいきなり現実的な話ばかりじゃ何も進まない。「そんなの、あとで考えればいいことだろう! それよりこのアイデア自体はどう思うんだよ」 ぼくは苛立って声をあげた。 営業の答え「非常に面白いですね」。 開発担当の答え「技術的に問題はないです」。 一応ポジティブな答えが返ってきた。でも──、ぼくは不満だった。答えの内容ではなく、答え方そのものに。 もっと直感的にいいのか悪いのか、それともよくあるアイデアなのか、ぼくは社員にはっきり言ってもらいたかった。でも無理はないのかもしれない。日々の目の前の仕事に追われている彼らと、ぼくのように先のことばかり考えている人間との間にある程度のギャップがあっても当然だろう。 会社の連中はしばらく放っておこう。そのうちこのアイデアのすごさに気づくだろう。それよりもっといろいろな人たちにこの話を聞いてもらって感想を聞きたかった。 機会はすぐにやってきた。このアイデアを思いついた直後、ハイパーネットは渋谷の別のビルに移転をしたのである。移転挨拶に訪れたたくさんの客の中に、これまで多くの金融関係者を紹介してくれた Nさんがいた。 ぼくは彼をつかまえて、話をしてみることにした。 Nさんはザウルスを使って予定を管理していたり、最近 DOS/ Vラップトップ・パソコンを新調したりして、中年とは思えないほどのコンピュータ好きである。そもそも住友銀行の国重さんにコンピュータを使わせたのもこの Nさんだった。 しかしいくらパソコンの使い手とはいえ、ぼくのアイデアは単にコンピュータのソフトウエアの話ではなく、広くマーケティングやメディアに関する知識がないと理解できない。 Nさんが明快な感想を示してくれるとはそれほど期待をせずに、なんとなく話を始めたのである。 一通り新しいアイデアの説明をすると、彼はぼくの予想に反して、非常に高く評価してくれた。評価が高いということよりもこのアイデアの要点を彼は非常によくつかんでいた。正直驚いた。 Nさんのように、コンピュータ業界の外にいる人がこのアイデアの新規性を理解してくれたのは大きな意味があった。すなわち、普遍的な事業として展開が可能だといえるのだ。しかも、 Nさんは即断即決の人だった。「板倉君、これ、すごく面白いよ。銀行にすぐ話してみよう」 さすがだ。ぼくはうなった。このアイデアを事業化するためには当時のハイパーネットの地力からいって資金が一番の問題であることを、彼は直感的に見抜いたのだ。 Nさんはポケットから携帯電話を取り出し、その場から住友銀行の国重さんに電話を入れた。「国さん、板倉が変わったぞ!すごいことを考えているから一度話を聞いてやってくれ」 ぼく自身は何も変わったところがあったようには思わなかった。が、後から考えると、彼は、ぼくがただの〝ベンチャー屋〟からより大きなビジネスを目指し始めた、ということを言いたかったのだろう。実際にぼくもこの頃から、世界に通用するビジネスをなんとなく意識し始めていた。 数日後、ぼくは Nさんがオフィスを構えるホテルに出向いた。国重さんと会うためである。 Nさんのすごいところは人間関係の調整がうまいところである。ぼくとしてはどうしてもカネがほしいという状態ではなかった。国重さんと面識はあったが、住友銀行との取引はなかった。 こちらがわざわざ取引のない銀行に出向いていくのも自然ではなかったし、逆に取引のない中小企業に大手都市銀行の役員が出向くのも不自然である。 Nさんはそれを配慮して自分のホテルに場所をセットしてくれたわけだ。ぼくは赤坂にある小さなホテルの会議室のような部屋に案内された。応接セットが一セットに小さなテーブルがある。プレゼンにはちょっと都合が悪い。応接セットのテーブルは位置が低すぎて説明しづらいのだ。事業を説明するような書類は何も持っていなかったから、話をしたうえでテーブルの上に置いた紙にぼくが絵を書くしかなかった。 こんな状況でいくら国重さんといえども話を聞いてくれるのだろうか? まあいい。おれのプレゼンは下手な書類より効果があるんだ。そう自分に言い聞かせて国重さんを待った。予定の時間は一時間。この短い時間でいかに正確に簡潔に、このアイデアを説明できるかがカギだった。 ぼくはプレゼンを繰り広げた。ほとんどぼくだけがしゃべり、国重さんはうなずくだけの一時間が過ぎた。次の予定があるのか、国重さんは、時間を気にしているようだった。 やっぱり銀行には理解してもらえないか。まあ、たとえ理解してもらえても、まずは財務諸表をもってこいというところからスタートするのだろう──、このときぼくは内心こう思っていた。元々すぐにお金が集まるとも思っていなかったので、今日のところは国重さんに会えただけで良しとしようという程度に思っていた。 国重さんが突然口を開いた。「いくら必要なんだ?」 予期せぬ反応に、ぼくは反射的に答えた。「作るだけなら三億、事業化するには最低五億、予期せぬ問題の発生も考慮すると一〇億円です」 とっさに口をついて出た数字である。もちろんしっかりした事業計画などこの時点ではなかったし、いきなりそういった質問がくるとも思っていなかった。しかし、全くの的外れのいいかげんな答えをしたつもりもなかった。漠然と数字がぼくの頭の中にはあったのである。 ぼくの答えに対して彼は言った。 「NOはないよ」 そういって、国重さんは次の予定のために慌しく部屋を出ていった。 ぼくは手応えを感じていた。新しい事業に対して、そして実現のための資金調達に関して。 カネに関して手応えを感じていたが、ぼくにはこのビッグプロジェクトを立ち上げるために必ず了解を得なければならない人がいた。大株主である。当社の株式の多くはぼく自身が保有していたが、ぼく以外で一番大きなシェアを持っていたのは郡司さんである。この人のおかげでハイパーネットが存在しているといっても過言ではない。彼の意見を聞かずにぼくに何ができようか。 さっそく郡司さんを訪問した。 ぼくが新規事業について説明すると、さすが元アスキーの代表者である。ぴんと来たのであろう、彼の最初の言葉はこうであった。「いつから事業化できる?」 その言葉の意味はすぐに分かった。単純に予定について聞いているのではない。早くできないかという意味であった。つまり、この手の事業はアイデアが勝負。だからなるべく早くスタートして業界のスタンダードをとらなくてはならないということだ。 ぼくはこの質問にこう答えた。
「一年後。九六年一〇月からサービスがスタートできそうです」「もっと早くならないか」 郡司さんは即切り替えしてきた。驚いた。ぼくの周りにいる人で多分一番保守的な意見の持ち主が郡司さんであった。その郡司さんが急げというのである。ぼくはそもそも郡司さんに説明するのにやや躊躇があった。なぜなら、きっとこう言われると思っていたからだ。「確かにいいアイデアだけど、とりあえず IMSが大成功してからだな」と。 ぼくのこの事業に対する一番の問題、それは資金調達でも技術開発でもない、いつ稼動させるかという問題だったが、それが一気に晴れてしまった。よし、可能な限り早くスタートさせよう。 その後もコンピュータ業界の人、広告業界の人、通信業界の人と、この事業に関連する業界のあらゆる人たちにこのアイデアに対する意見を求めた結果、ほとんどの人が自分の立場から絶賛してくれたのである。 もはや、事業そのものへの成否の不安はなくなった。あとは実行あるのみだ。 新規事業を立ち上げるにあたって、ぼくには一つのセオリーがあった。それは小さくテストして大きくスタートするというものである。テストを開始するためには、事業のモックアップ(雛形)を開発しなければならない。 ぼくは、 IMSの稼動とバージョンアップに忙しい社内ではなく、社外の開発スタッフに仕事を任せようと考えていた。ただし、この開発会社を探すのは非常に難しい作業だった。 まずその会社が開発をするに値する技術力を持っているかどうか。またどのくらいの開発費とどのくらいの期間で開発できるのか。こうした基本情報を得るには、候補となった開発会社に我々のアイデアを話す必要がある。すべて話してしまえば真似をされるかもしれないし、話さなければ正確な見積もりは取れない。 さらにこのシステムの開発にはさまざまな技術を要した。まず、広告表示用のソフトウエアはユーザーの端末上、つまりパソコン上のアプリケーションソフトである。しかもインターネットを活用する。その一方で、ユーザーのプロフィールと広告を蓄積して管理するサーバーはパソコンでは支えきれないから、 UNIXやその他の大型機のデータベースマネージメント技術も必要だ。 今回の新事業に必要なアプリケーションをつくるには、このような複数の技術を同時に理解している人でなければ対応できないことは明白だった。 ところがそんな技量のある技術者というのはめったにいない。となると、それぞれを別個に開発依頼をして、最終的にハイパーネットの技術者がそれを管理し整合性を持たせるしかない。かなり面倒な開発が予想された。ぼくは機密保持の重要性を最優先課題としたため、自身のネットワークの中から信頼できるいくつかの会社に当たることにした。 二、三の候補企業に出向いたが、どこも開発に乗り気ではない。忙しくて技術者を割くことができないというのが理由だった。ぼくは、いまや当社の技術畑の大黒柱である筒井を紹介してくれた、あの長瀬さんに連絡をとった。 同じような業界に身を置いてはいるが、長瀬さんはあくまで六本木での飲み友達だった。だから知り合って数年間、会社としての付き合いはまったくなかった。ぼくはこの長瀬さんをぼくの数少ない友達の一人だと思っていたので、このプロジェクトに巻き込むのは躊躇するところはあった。仕事の関係が混じると友達としての関係に影響が出てくるのは必然だからだ。それでも他にあたる先のなかったぼくは、個人的に信頼している長瀬さんにアイデアのすべてを話した。 意外にも、彼の会社、コスモテクノロジーには非常に優秀な技術者が集まっていた。 長瀬さんは開発業務を快く承諾してくれた。それもパソコン上の広告表示アプリケーションソフトの継続的開発と簡易版データベースサーバーの開発の両方である。こちらのニーズにぴたりと合う会社が自分の近くにあったとは……。六本木で飲むのも時には役に立つものである。 一九九五年一一月、ぼくは米国へと足を運んだ。友人の是枝周樹さんの誘いで、ラスベガスで年に一度開かれる世界最大のコンピュータショー「 COMDEX(コムデックス)」を見学しに行ったのだ。ちなみにこのコムデックス、その後ソフトバンクの傘下に入った。 是枝さんとはそもそも、対戦型通信ゲームのビジネスで知り合った。これはやはりぼくのアイデアで始まったもので、ハイパーネットとは別個に外部の連中と進めていたプロジェクトだ。ぼくと同い年の是枝さんは、当時、ハイパーネットの IMS事業と似たコンセプトのビジネス、ボイスメールサービスを展開していた。ちなみに彼の父親は財務経理システムの開発で有名なミロク情報サービス(二部上場)の代表取締役会長兼社長である。 さて、今回の「旅行団」は、是枝さんやぼくを含め若手起業家が中心となったある種の団体旅行だった。我々一行は、出発当日成田空港の第二ターミナルに集合した。昔一度だけ旅行代理店のパックツアーを利用したことがあったが、ぼくは団体行動が大の苦手なのだ。 とはいうものの、今回の「ツアー」は、是枝さんのプランでちょっと変わった旅程が組まれていた。一行は、ひとまずロサンゼルスに入り、そこからなんとレンタカーで陸路を行き、数百キロだか数千キロだか離れた開催地ラスベガスを目指すのである。こんなツアーは旅行代理店ではまずやらないだろう。 ぼくは飛行機が大嫌いである。高所恐怖症ではない。乗り物酔いもしない。ひとえに落ち着きがないからである。あの狭い空間で何時間も途中下車も許されない環境が窮屈でたまらないのである。大体の話、自分で運転できないものは基本的に嫌いである。だから、操縦させてくれれば好きになるかもしれない。とはいっても、ぼくにあるのは、サンフランシスコの友人、ジェイのところで習いはじめたばかりの小型飛行機免許。さすがにジャンボジェットは手に余る。 でも乗ってしまったものはしょうがない。ぼくは時間をつぶすことにした。さて何をしよう。酒を呑みまくってさっさと寝ちまうか。とりあえず機内上映の映画でも見るか。いっそのことスチュワーデスに声でもかけるか──。 ディナーサービス後、ぼくはいずれのアイデアも採用せず、おもむろにアタッシェケースを開き、中から手に入れたばかりのラップトップコンピュータを取り出した。ウインドウズ 95の発売をきっかけに、使用機種をマッキントッシュからウインドウズに移行したばかりだった。慣れないウインドウズをこの機会にいじりまくってやれと思ったのである。 ぼくは、すでにインストールされていたマイクロソフトの表計算ソフト「エクセル」の最新版を試してみることにした。いじり始めると、ふと思った。そうだ、この際だから、例のアイデアのシミュレーションをここでやってしまおう。 ぼくは、さっそく作業に取り掛かった。最初は全体のイメージ作りから始める。縦軸と横軸にそれぞれどんな内容を書くか? シミュレーションの期間はどの程度がいいか? また期間の単位は? さらに計算式を作る場合どれを変数にしてどれを絶対値で入力するか? まるで昔やっていたゲームソフトのプログラム開発のようだ。経験は積んであるからこの手の設計はお手の物だ。後で変更する可能性のある因数はすべて表の一番上に入力するようにデザインすればよい。一通りデザインが終了して数式の確認をしたとき初めて表に数字を入力するわけである。 他にやることのない飛行機の中だけに、ぼくは作業に集中した。事業のシミュレーションは楽しい。自分で書いたプログラムが予定通り動作するかどうかという楽しみに似ている。電話回線数に対応した初期投資額、会員増加のための広告費、また広告費を因数にした会員増加、会員の一日当たりのアクセス時間、またそれを因数にした設備増強のためのコスト、代理店の数、それをもとにした売り上げ予想などなど、とにかくすべてをいったん数字に置き換え、
それぞれ関連づけてシミュレーションを行っていく。 事業計画では更に現実的なリソースの配分や提携先のメリットなど複雑な要因を含めて計画を立てなければならないが、ここでいうシミュレーションというのは、事業の基本的な構造を見るためのものである。事業の構造が儲かる要素をちゃんと含んでいるかどうかということである。 いくら会員が増えても逆に損失が増えていくようでは困るし、逆に受注が多くても会員が少なくて消化できなくても困る。そういった基本的な構造を、数字を使って検証するのである。 結果は、見事な数値を示していた。 ぼく自身の事業に対する期待値がこの予測に含まれているのは疑いない。しかしそれを考慮しても、シミュレーションの結果は上出来だった。この事業がぼくとぼくの会社に多大なる収益を数年内にもたらすことを、青白く光るディスプレイ上のデータははっきり示していた。 後はかたちにするだけだ。 いつのまにかブラインドが下ろされ、暗くなった機内ではアクション映画が上映されていた。ぼくは、たった一人、静まり返った狭い空間で興奮していた。このシミュレーションをロスへ到着したらすぐに東京へ電子メールで送ろう。ぼくに万が一のことがアメリカであっても、この事業が一緒にこの世から消えてしまうのはごめんだ。 作業が終わって、ぼおっとしながら、ぼくは腕時計を眺めた。驚いたことに、到着まであと一時間しかない。飛行機が太平洋を渡る数時間、ぼくはひたすらシミュレーションを行っていたのだ。 ロスでは、ビバリーヒルズ・ヒルトンに一泊、翌日二台のレンタカーを手配して我々は一路ラスベガスへ向かった。かつてアメリカに住んでいたことのある是枝さんの車の先導でフリーウェイに出る。後はひたすら単調な風景を飛ばすだけだ。 ぼくは、はじめこの無謀な計画に反対していた。飛行機の路線が都内地下鉄地図のごとく縦横無尽、網の目のように発達している米国である。なにが悲しくて自らハンドルを握り、何時間もかけて移動をしなければならないのだ。いくら車好きにして飛行機嫌いなぼくでも躊躇する。バケーションならまだわかるが、一応仕事である。 薄曇りのスモッグのかかったロサンゼルスを抜けてしばらく郊外を走らせ、車がカリフォルニアの山々を越える頃、ぼくは窓の外の空気が変わったのに気づいた。 景色からにじみ出そうに鮮やかな木々の緑。稜線が切り取れそうなぐらいはっきりと見える山並み。定規で引いたように真っすぐに広がった地平線。背後の空は、昼間にもかかわらず星が見えそうなほどに、青く濃い。 山を抜けると、永遠の砂漠が続く。本当に見渡す限り何もない。あるのは青い空と白茶けた大地だけだ。その青と白の境目のかなたまで伸びた道を、我々は黙ったまま何時間もひたすら走った。 日が西のかなたに沈み始めると、空はにわかに饒舌になった。太陽から離れるにしたがって、黄色、山吹色、橙色、赤、赤紫、青紫、濃紺、そして黒へと色が変わる。そこに針で穴を空けたように、ぽつんぽつんと星が輝き始める。地表に光はもはやない。ハイビームにしたヘッドライトが照らすコンクリートの路面を見つめながら四時間ほど走った頃には、もはや地空の区別はつかなくなっていた。漆黒の世界と頭上に広がる星の雨。天の川を眺めるのは、福島の高校時代以来だろうか。 正面に光が広がった。 ラスベガスだ。 中学生の頃見たスピルバーグの映画「未知との遭遇」を思い出した。ホテルから上空へ向けて何筋ものレーザー光が発せられ、地平線のかなたまでオレンジの街の灯が伸びている。暗い宇宙の銀河のような世界最大の賭博の楽園は、唐突に我々の前に姿を現した。 是枝さんが、数時間もかけた車の旅で見せたかったのはこれだった。砂漠の銀河は、ロングドライブの疲れを一発で吹き飛ばすに十分な迫力があった。 で、その日、我々が何をしたかというと、当然というか何というか、ま、御想像の通り、賭博場へと向かってしまうのであった。深夜、カジノから戻ってぼくは思った。アメリカはやはり凄い。大賭博都市でビジネスショーをやってしまうのだ。これならば、ひとが集まるのも当然だ。 仕事上の必然性がなくても、全国、いや全世界からビジネスマンがやってくる。それは、ぼくを見ればわかる。滞在期間中、カジノ出席率一〇〇%だったのだから。 昼間は、一応コムデックスの会場を回った。それにしても、大きさ広さ命のアメリカでも、これはやりすぎではないか。広い。なにしろ会場を移動するのにバスがいる。ここに一体「幕張メッセ」がいくつ入るのだろうか。 ぼくはとりあえず我がプロジェクトに関連しそうな企業のブースを覗いて回った。すでに似たような事業がすでにここ米国に存在するかどうかを確認したのである。めぼしいブースをすべて回ったぼくは、口元が緩むのを抑えられなかった。ないぞ、うん、ない。インターネットの本場米国にも、おれのプロジェクトは似た事業はない。それを確認できただけで、ぼくの米国視察には大きな意味があった。そしてこの時点で、ぼくは米国への事業進出の成功を確信した。 さて、この米国漫遊旅行には最後にちょっとしたおまけがある。 コムデックスの予定が終わると、是枝さんたちと別れたぼくは、後のハイパーネット USAの社長、ジェイ・シャアの自家用飛行機でラスベガスから彼のいるサンノゼへと向かった。 ぼくはアイデアを考え出した当初からこの事業展開の中で米国市場が大きなカギになると考えていた。そこで信用のおけるジェイと、事業化に関する具体的な相談がしたかったのである。 サンノゼ・パロアルト飛行場まで出迎えてくれたジェイの車で、ぼくは彼の新居に行った。やはり向こうの起業家は住まいもスケールが違う。ジェイの新居は、ちょっとした山二つにまたがった牧場の真ん中にあった。光の海、ラスベガスからいきなり来ると、別天地である。今日の夜はゆっくり眠れそうだ。 夕刻、ジェイは、彼女同伴で、ぼくをサンノゼの山の上にあるステーキ・レストランに連れていってくれた。分厚いサーロインステーキと格闘しながら、ぼくが一通り新規事業について話をすると、ジェイは非常に高く評価してくれた。数年の付き合いで、彼がつまらぬお世辞を言う人間でないことはよく知っている。ぼくは自信を深めた。 食後、ヘビースモーカーのぼくは煙草が吸いたくなった。同じレストランのバーに席を移動して、バーボンを一杯頼んだ後、煙草に火をつけた。 そのときだ。隣に居合わせた米国人がぼくに声をかけてきた。男は中肉中背、薄汚れたTシャツに擦り切れたジーンズ、足元は履き旧したナイキ。典型的なシリコンバレー・ルックだ。土木作業員のようだが、この格好でコンピュータ業界の大立者だったりするのがここシリコンバレーである。 Are you Japanese?(日本人かい?) Yes(ああ)
男が名刺を出したので、ぼくも慌てて自分の名刺を取り出した。互いの名刺を交換すると、ぼくの名刺を見たその米国人は驚いてこういった。 Oh, you have Internet-address!(へえ、インターネットのアドレス持ってるのか!) 日本人なのにインターネットのアドレスを持っていることに驚いている。生意気なやつだ。いまどき、インターネットに日本もアメリカもないだろう。そう思っていると、彼が切り出した。「うちの会社は来年の春にインターネットの広告ですごいことをやる。ちゃんと覚えておけよ!」(蛇足だが、彼はもちろん英語でしゃべっている) ぼくは飲みかけのグラスをカウンターにおいて、この白人の顔を見つめた。 今でこそインターネットの新規事業に広告が絡むのは当たり前の話だが、九五年当時そんなアイデアを盛り込んだビジネスは、ぼくの知る限り見当たらなかった。驚かないわけがない。 ただ、こいつの生意気な態度は気に食わなかった。ぼくは、思わず口を開いた。「ちょっと待ってくれよ、おれだって……」 ジェイはそれを聞き逃さなかった。咳払いをしてぼくの注意を促し、得意のウインクで合図を送ってきた。黙ってろ、絶対に話すな! 無言のブロックサインを受けたぼくは、開きかけた口をもごもごさせて、日本人お得意のアルカイック・スマイルでその場をごまかした。おそらく隣の白人は、英語が満足に話せないのかとでも思ったのだろう。それ以上細かい話はしてこなかった。 バーの席を立つときに、ぼくは改めて渡された名刺を眺めた。「 POINT CAST INC.」──ポイント・キャスト? 知らないなあ、なんの会社だ。 ぼくがインターネット・プッシュ技術──広告をインターネット画面に次々に送り込む技術、そう、ハイパーシステムの発想はまさにこれである──で有名になるこのポイント・キャストという会社の存在を知るようになるのは、これより半年後、九六年四月である。 米国から帰国した翌日、ぼくはすぐに新プロジェクトをどう事業化するか、自宅のパソコンを前に一人で知恵を絞った。シミュレーションの結果は上々だったが、実際に事業化するには、業務内容を綿密にチェックする必要があったからだ。 事業化にはいくつかの方法が考えられた。全体像もしくは最終的な形が何通りか考えられるという意味ではない。事業化する段階でどこからどこまでを誰がやるか、業務の区分けに関して選択肢があるということだ。 ぼくは、この事業の要素を点検してみた。メモを書いては破り、もう一度図にしてみて、赤ペンを入れ……。一時間ほど試行錯誤した後、パソコン画面に打ち出したのは次の六つの要素である。 ①システム開発(サーバー側とクライアント側) 文字通りソフトウエアの開発である。まずサーバー側のソフトウエア開発はいわゆるデータベースマネジメントの技術をつかう。このソフトに求められるのは、ユーザーのプロフィールと広告データを蓄積し、双方のマッチングを行うこと。つまりどの広告をどんなプロフィールのユーザーに流すかという情報と各広告の実際の画面データとが納められ、条件が合うユーザーに広告を送出する演算を行う。一方、クライアント側のソフトウエアは、パソコンのウインドウズの画面上でサーバーから送られてくる広告の画面データを実際に表示する役目がある。また、ユーザーのプロフィールの更新やインターネットプロバイダーへのダイヤルアップ接続の制御などもクライアント側ソフトの仕事だ。 ②特許や著作権などの申請と保持 今回の事業特有のアイデアを特許として権利化し、権利の特許申請やメンテナンスを行う。 ③データベースのマネジメントと保有 先にあげたサーバー側のシステムを運営し、ユーザプロフィールなどのデータベースの所有とメンテナンスを行う。 ④インターネットプロバイダー 今回開発するシステムの利用を前提としたプロバイダーであり、ユーザーからのダイヤルアップ接続の際に専用ソフトを必ず利用する。 ⑤会員獲得 このシステムを利用したプロバイダーの会員獲得で、ほとんどの場合広告宣伝業務を中心とする。 ⑥広告獲得 これがこの事業の一番肝心なところ。つまりこの事業のすべての収入源である広告主を獲得する。 ──改めて列記すると、思わずため息が出た。このプロジェクトは、さまざまな事業の側面を併せ持つ複合ビジネスなのだ。コンピュータのソフト開発事業であり、通信インフラの運営事業であり、設備事業であり、メディア事業であり、広告枠の販売事業であり、そしてデータベースや特許権などのライセンス事業でもあった。 とてもハイパーネット一社で手に負える代物ではない。経営資源(技術 +人材 +カネ)の面からも、事業立ち上げの速度の面からも、うちで抱え込んで実行するのは不可能だ。業務も、それから事業リスクも、アウトソーシング(外部委託)で分散する必要があるのは明白だった。 問題は、上記の業務を適当に外部の会社に分担させればよいというものではないことだ。単純にコスト面のみに絞って外部に協力を求めるのか、それともコスト面では自社で負担をするが業務は外部委託するのか、どちらか道を決めねばならなかった。 ①のシステム開発を例に取る。開発費を当社で全額負担して、外部の受託開発会社に開発を依頼すれば、すなわち業務の委託であり、コスト的には当社自身で開発したことになる。また、開発費は当社が負担せずに提携という形で外部委託して、事業の成功とともにロイヤルティという形で外部会社に成功報酬を支払うという形もある。 つまりリスクと業務の配分ということになるが、上記それぞれの事業要素を誰にどのように配分するかを、将来のビジョンを考慮に入れながらデザインしなければならない。 これは非常に難しい。そして事業の成否に関わる大変重要なテーマだ。まず、事業の利益計画を考えなければならない。事業開始直後の当社利益とリスクの軽減を考慮すれば、できる限り経済的にも業務的にも外部を利用すべきだし、逆に長期的に考えて当社の利益を重視すれば、可能な限りのリスクを負担して、当社自身でやろうということになる。もちろん後者の場合には事業として成功する確率が非常に高いことが前提となる。 事業化に要求されるスピードもこのデザインを左右する。なるべく早く事業を立ちあげて実績を作ってしまい、その後に提携先やライセンス先などの相手探しを行う場合には、小規模ではあるが当社自身ですべてを始める必要がある。逆に事業開始にはある程度の時間はかかるが、はじめから大仕掛けで大企業などと組む場合が考えられる。 事業の要素とこれらの判断基準を考慮したうえでプロジェクト全体をすっきりデザインするのは、非常に困難な作業だった。考え方がポジティブかネガティブかで、デザインそのものの方向性がまったく変わってきてしまうのである。もちろん客観的に見ても、いつサービスを開始すればいいのか、また当社のリソース──それは資金を意味することが多いのだが──をどの程度どんな方法で調達できるか、考慮すべき因数はあまりにも多すぎた。
ぼくは思わずディスプレイから顔を上げた。 おれは分不相応な事業に手を出そうとしているんじゃないか。本当に実現できるのか。 ぼくはいつのまにか自分のアイデアに振り回され始めていることに気がついた。 今の段階のシミュレーションにもしも誤りがあれば、すべてが終わってしまうかもしれない。この事業がではない、この会社自体が、である。このときぼくはそんな予感がした。 翌日朝、ぼくは自宅のトイレで結論を下した。 客観的なデータをいくら積み上げてもしょうがない。成功するかどうかはやってみなければわからない。いま、おれがこの事業を始めたいのかどうか、その主観、その信念こそが大切なのだ。で、おれはやりたいのか。 ……やりたい。 身支度を整え、マンションを出ると一一月の風はすでに冬の冷気を含んでいた。最近買い換えたボルボ・ワゴンのキーをひねり、すぐに車をスタートさせた。裏道を抜け、国道二四六号に出る。渋滞に引っかかり、車はすぐに止まった。おれはこの業務を絶対に実現させる。そう自分に言い聞かせた。 ただし──、ぼくは考えた。 これだけは絶対に初志貫徹だ。このビジネスはアイデアがすべて。だからどんなリスクがあろうとも、特許のとれそうな業務はすべて自前でやる。 渋谷のオフィスに着く頃には、ぼくはこれを今回の事業理念にしようとはっきり決めていた。 会社でスタッフを集め、ぼくは彼らと相談して、事業デザインを決定した。次の通りだ。 まず、特許や著作権やデータベースなどの知的所有権の申請・保有・メンテナンス、さらにこれらの情報を蓄積・管理するコンピュータ設備、その上で起動するソフトウエアの開発、以上三つに関しては、すべて自社でコストを負担する。また、ユーザーと広告主をダイレクトにつなぐマーケティングのノウハウは、ぼくを含めた社内のスタッフが、「入れ物」となって蓄積・活用する。最後にそれ以外の要素は可能な限りアウトソーシングを図っていく。 問題は、どのプロバイダーと契約するかだった。この時点で日本には一〇〇〇社以上のプロバイダーがあった。だが、今回の壮大にして、見ようによっては得体の知れない新規プロジェクトに、どこのプロバイダーが乗ってくれるかとなると、技術面でもコスト面でも疑問符がついた。ぼくは、とりあえずスタート時点は自社でプロバイダー業務をこなし、軌道に乗ってきたら、それを外部に売却することにした。 事業の設計はおおむね完了した。あとは、実行あるのみだ。必要なものはなにか。それは、カネ、設備、技術、ヒトである。この四つを早急に揃えよう。でもどうすれば、揃えられるのだろう。 そんなことを考えているときに、電話があった。 住友銀行の国重さんからである。 渡米前から国重さんが興味を持ってくれていたのは、無論覚えていた。ぼくの構想に彼が乗り気なのもわかっていた。しかしまだ具体的な話は何もしていない。とりあえず細かい財務資料の追加だとか、担保提供の話だろう。 秘書に代わって受話器を取ると、国重さんはいきなりこう言ってきた。「板倉くん、この事業はなるべく早くスタートさせたほうがいい。とりあえず二億五〇〇〇万円融資する。いいかい、とにかく早く始めなよ」 ぼくが留守にしている間に、住友銀の担当者が当社の財務とコミュニケーションがあったのは聞いていた。かなり細かい数字のヒアリングもあったはずだ。それにしても、いきなり二億五〇〇〇万円とは! 正直、金融機関からこんなに色よい話をもらったのは、生まれてはじめてだった。経営者として過ごしてきたそれまでの十数年間、銀行との取引はもちろんあったが、今までもっとも高額の融資は一回三〇〇〇万円だった。前にも書いたが、過去の経営危機のときには、実家の不動産を担保にしたあげく国民金融公庫からやっとの思いで二〇〇〇万円借りたぐらいである。それも、我ながらどこからひねり出してきたのか忘れてしまうほど膨大にして詳細な数字を羅列して相手に頭を下げた結果である。 本当に貸してくれるのであろうか? 返済計画はどうすればいいのだろうか? 喜ぶ前にそう心配したのも、無理はないだろう。ぼくは当惑を隠せないまま、とりあえず事業計画を練り直していくことにした。渡米のときに書いた事業シミュレーションをさらに具体的にし、かつ提携や取引先のリソースやマーケット状況まで含めた詳細なものをつくった。 事業計画というと、一般的には五年ぐらいの収支予定を記述したシートをもってそれとするのだが、ぼくが書く事業計画はいつも違っていた。商品計画、販売計画、開発計画、組織計画そして資金計画という各部分を入念に仕上げなければ気が済まないのである。実際、資金以外の上記の計画をしっかり作らなければ、本当の事業計画はできないはずだ。 商品計画には商品の詳細、特徴、既存競合商品との比較などいわゆる後に商品カタログになるようなもの。販売計画はどれほどの人員で、どのような宣伝方法で実際に販売するのか、それにもちろんそのための経費。開発計画は開発が可能であるかどうかの技術的な検証。開発のためのマンパワーの補充。さらには大まかなデザイン。そしてそれらにかかる経費。組織計画には、これらを実現するための人材の配置、指揮の方法、権限の範囲など。以上のシミュレーションがすべて完了しなければ、どれほどのお金がいつ必要で、逆にいつ利益がどれほど出るのかがは全く検討がつかない。 ぼくはこの作業の困難を思うと毎回ぞっとする。でも計画を作らなければすべては始まらない。事業計画を書き始めてまもなく、当社の財務からぼくのサインを求められた、それは住友銀行からの借入れに対する個人保証のサインである。つまりこれにサインすれば金を貸してくれるというのである。 一般的に個人保証はするものでないとよく言われる。しかしぼくは起業家である。別に自分で起こしたその会社とは運命共同体だなどと安っぽい精神論を振りかざす気はない。 起業はぼくの唯一の表現方法だ。すなわちぼく自身なのである。万が一のことがあって会社が倒産するようなことがあったときは、仮にサインなどしていなくてもぼくは人生の失敗者になる。ならばためらう必要など何もない。ぼくはすぐにサインをした。 返済については、初回の取引ということもあって、六カ月据え置きでその後毎月五〇〇〇万円の返済となった。いずれにしても追加の融資もすぐに行うということだった。 それにしても話がうますぎる。こんなことがあっていいのだろうか。とにかく期待に応えよう。 住友銀行がバックについてくれた効果は大きかった。この後、九五年末から九六年初春にかけて、多くの金融機関が盛んにハイパーネットを訪問するようになったのだ。 通常ならば、いまだ新事業の全貌も明らかになっていない(大体がぼくだってまだどんなものになるかも分かっていないのだ!)時点で、銀行だの証券会社だのが話を聞きにくるなんていうのは、少なくともそれまでのぼくの常識にはなかった。ましてやハイパーネットは可能性を秘めているとはいえ、ただの中小企業である。にもかかわらず、金融機関がうちに殺到したのは、先にも書いた通り、この年の「ベンチャー融資ブーム」があったからだろうが、決め手となったのはやはり「あの住友が動いたのだから」ということだろう。
あまりに多くの金融機関が当社を訪れるようになったため、九六年のはじめには金融機関説明会なる会を開催したほどである。九五年末からハイパーネットに対して融資の申し入れをしていた金融機関を対象に当社の事業計画を説明し、本当にその気があるところと手を組もうという話である。都市銀行の融資担当者や VCの投資担当者、リース会社など二〇人ほどが一堂に会し、ぼくはプレゼンを行った。 最初の一言はこうである。「もし担保や過去の実績を重んじるのであれば、この場から帰ってください。当社は担保もなければ、過去の事業実績もこれからやろうとするビジネスに比べればないに等しいですから」 相当強気だったのである。もっと正直に言えば、どうせ貸してくれないのだから言いたいことを口にすればいい。そう思っていた。ぼくは金融機関を前にするといつも気が抜けてしまうことがあった。ぼくは、プレゼンの最後に「何か質問がありますか?」といつも言うのだが、金融機関に関しては、まず質問が出たこともない。プレゼンの内容が良かったのか悪かったのか、さっぱり相手の反応を得られない。みんなしかめっ面で、決してそれぞれの立場をその場では表現しない。そして後から個々に質問がきたりするのである。あくまで表面上は横並びを装い、後からライバルを出し抜こうとする。ぼくの目には、彼らの行動はそう写った。 このときも反応のパターンはまったく一緒だった。しかし、後からうちの財務のレポートを見たところ、出席したほとんどの金融機関が無担保の融資を申し入れてきた。それも一行最低一億円。リースなどの特別な場合においては数億円にもなるものもあった。 少し先の話になるが、住友の話を皮切りに、あっけなく資金調達は完了した。結局九六年中に銀行からおよそ二〇億円、リースではおよそ一〇億円を調達することになった。それまでの借入れがわずか数千万円でしかなかったのと比べると雲泥の差である。結果、ぼくは、カネの心配を一切しなくなった。開発とマーケティングのことばかりを考えるようになった。 賢明な読者は、ここでもう気づかれるかもしれない。ぼくの失敗の原因が実はここにあった。 多くの金融機関はぼくにカネを貸したのではない。ある意味で最初にバックについた住友銀行の看板に貸したのである。そしてぼくは住友銀行という法人の信用を完全に勝ち取ったわけではない。「ベンチャーを育てよう」というこの時の住友の戦略の元、国重さんという個人の信用を一時的に勝ち取ったに過ぎなかったのである。 この「ずれ」が二年後、ぼくの首を絞める。しかし、九五年末のこの時点、「新事業」という熱にうかされ始めたぼくに、そんな想像が働く余地はなかった。 カネに関してはめどが立ったが、この事業にはもう一つ、絶対に欠かせない「もの」があった。電話回線である。先ほども書いた通り、我々は当初プロバイダー業務を自前でこなそうと考えていた。当然、大量の電話回線とそれを収容できる不動産が必要になる。これらが揃わねば、サービスを立ち上げることはできない。 ハイパーネットでは、 IMS事業用に五〇〇の電話回線を保有していた。これだけでも相当の規模ではあるが、新プロジェクトでプロバイダー業務をこなすにはとても足りない。 となると、大量の回線を新たに用意し、どこかのビルに敷く必要がある。これはおおごとだ。まず大規模な電話回線工事を許してくれるビルの大家さんを見つけなければならない。次に、工事予定のビルの接する道路にこれだけの NTT回線が余っているかどうかを確認しなければならない。回線が十分でなければ、道路工事もしなければならない。でも、できればそれは避けたい。──考えるだけで頭が痛くなりそうな話である。 この回線確保は、かなりの難事業であった。将来のことまで考えると必要な回線数はおよそ一万、少なくとも立ち上げ段階で三〇〇〇回線は確保しなければ業務が成り立たないのは目に見えていた。それだけの回線を確保するには、 NTT本社との交渉が必須である。 ぼくは、住友銀行の国重さんに相談した。やはり彼は実力者だ。なんと NTTの代表取締役澤田茂生副社長を引っ張ってきてくれたのだ。 九五年一二月、ぼくは新宿の西、初台にある NTT本社に行くことになった。 ぼくは椎間板ヘルニアという持病を持っている。二〇歳のとき、くしゃみをして突然腰に激痛が走り、そのままベッドに倒れ込んでしまったのがきっかけである。いわゆるぎっくり腰だ。その時はおよそ二週間動けなくなってしまった。トイレに行くのがやっとの世界である。 それからというもの、冬になると時折この持病が出る。二三歳から二七歳ぐらいまではスキーやゴルフなどのスポーツをしていたおかげか、顔を出さなかったこのぎっくり腰、仕事に没頭する日々が続き、ワークアウトをしていなかったのが祟ったのか、よりにもよって、この日の朝、数年ぶりに発病してしまったのである。 起きたときに、「やばい」と思った。ぼくは腰痛の〝ベテラン〟だから、自分自身でどれほどの症状かすぐに把握できる。歩くことはおろか、立ち上がることさえできない状況だった。 この病にかかったときに何が一番苦しいかというと、痛みそのものも大変なのであるが、それ以上に苦しいのは、「たかが腰痛ぐらいで会社を休むなんて」という周りの反応である。確かに腰痛の一種だが、ときには恥ずかしいかなトイレにも行けず、即刻入院して尿瓶の生活になる。にもかかわらず、周囲は同情するどころか、場合によると物笑いの種にする。ひどい話である。 ぼくはすぐさま、 NTT副社長のところへ同行する Nさん(国重さんを紹介してくれたあの Nさんだ)に事情を説明し、予定の延期をお願いした。ところがである。 Nさんはこう言うのだ。「だめだよ、板倉君。絶対に今日いかなきゃだめだ」「でも、ベッドから起き上がることもできないんですよ」「だったら、おれがおんぶしていってやる。とにかく今日は行くぞ」「そんなあ……」「いやいや、考えてみりゃこんな体調にもかかわらず這ってでも会いに来た、ていうのは相手に好印象を与えるぞ。ちょうどいいじゃないか」「なにが、ちょうどいい、ですか!」 困った。自分の体は自分が一番よく知っている。普通だったら、このまま救急車で病院行きの状態だ。でも、 Nさんのいうことは一理ある。今日会う人が、どれほど重要な人物であるかも十分わかる。交渉次第で新プロジェクトがスムーズに立ち上がるかどうかが決まるのだ。 しばらく電話口で考えた結果、ぼくが我慢すればいいんだという結論に達した。「わかりましたよ Nさん。行きましょう」 こうと決めれば、いきなり前向きになってしまうのがぼくの性格だ。この際だから、うまくやろう。われながら脳天気なものだ。 その日は、国重さん、 Nさん、当社の技術担当役員筒井、それとぼくでうかがう予定だった。朝、状況を聞いた Nさんと筒井がぼくの自宅に迎えに来た。 おい、こいつら本当に来たよ、ぼくは思わずつぶやいた。 二人に両肩を支えられながら車に乗せられる。近所を通りかかる人が不思議そうな目でぼくたちを見る。かなり恥ずかしい。 ぼくは運転をする筒井に、丁寧な運転をしてくれるように頼んだ。
「お願いだ。丁寧に、丁寧に走ってくれよな」「わかってます、わかってます。いつもの社長の運転の逆ですね」 いやみを言われたが、反論する元気もない。なにせ、ちょっとしたブレーキでも、悲鳴が出るほど激痛が走る。加速しても、減速しても、カーブを曲がっても、痛い。うう、やっぱり、やめときゃよかった。 世田谷・瀬田の自宅から初台の NTT本社まで、筒井は彼なりに最高の運転をしたのであろう。ぼくはそう信じている。でも一方でこう思ったのも事実だ。 筒井、お前は運転が下手だ。 NTTはやはり大企業である。車を降りて Nさんが澤田副社長の秘書に事情を説明すると、すぐに駐車場まで車椅子を用意してくれた。車椅子に腰掛けたぼくは、筒井に押されて役員専用のエレベーターに乗り、応接室へと入った。 しばらく打ち合わせをしながら四人で待っていると、そこに澤田副社長が入ってきた。何ともやさしそうな紳士である。ぼくの得意のプレゼンをしている間、終始にこにこと笑顔である。さすが NTTの副社長、などとぼくは単純に浮かれていた。しかも彼はぼくの言いたいことをちゃんと理解し、最後に回線を配備するために必要な部署から連絡させるという約束をくれた。想像以上に良い対応であった。 ぼくは調子に乗って、このサービスが開始したら NTTにもぜひ広告クライアントになってくれるように、広告部署についてもご紹介を願った。時間は無駄にしてはいけない。 その後、澤田副社長の約束どおり、 NTTの日本最大の支店、東京支店の支店長と筒井の間で煩雑にやり取りが交わされるようになった。結果、翌九六年の三月には、偶然にも国重さんが支店長を務める住友銀行日本橋支店が入ったビルにプロバイダー事業用のコンピュータ設備を置いた一六〇坪の部屋を借りることになった。コンピュータ用の空調設備を新たに備え、 ISDN 1500の光ファイバーケーブル一〇〇〇本!(これは NTTが初めて作ったケーブルだということだ。ちなみに ISDN 1500の光ケーブル一本は、通常の電話回線の二三本分に相当する)。それに、各種のコンピュータがうなり声を上げる。回線の工事、無停電電源装置の設置など、一億円近い工事費の出費を余儀なくされたが、とにかくこのときの「ぎっくり腰外交」がここに結びついたわけである。 そんなわけで回線も確保した。でも、プロジェクトを立ち上げるのにはまだ不足しているものがあった。 そう、次はヒトである。 これだけの大仕事をこなすには、強力なスタッフを新たに集めねばならない。大手企業に負けないだけの力を持った連中が欲しかった。技術がわかって、営業ができて、そして英語も使える人間。一体どこにそんな人材がいるのだろうか。 一人目は夏野剛だった。 米国に行く直前、九五年の秋のことだ。飲み屋でとある銀行の知り合いから紹介されたこの男は、東京ガスで用地開発プロジェクトを手がけているということだった。しかも米国で MBAを取得したばかりという。 色白でどこか病弱な感じのエリートサラリーマンによくあるタイプの人間だった。その彼がうちの仕事に興味があるという。ぼくは今回の事業の機密を非常に気にしていた。が、スパイというわけでもなさそうだ。そこで、そのころ毎日のように関係者にプレゼンしていた新規事業の説明会に夏野を呼んだ。 この日の説明会には、今回の新規事業に興味があって、なおかつ信頼できる筋の人間を何人か招待していた。 IMS事業でつきあいのある広告代理店の方々、それから業務委託先に考えている開発会社やプロバイダーの代表者、ハイパーネットの株主であるベンチャーキャピタルの担当者、そして夏野である。 ぼくはすでに一〇回以上はやったであろうこの事業のプレゼンを始めた。果たして皆からどんな反応があるだろうか。ぼくは反応を楽しみにしながら進めていった。 期待通りほとんどの人がこの事業に対して良い評価をしてくれた。が、そんな中でぼくの話にすばやく反応し、具体的にどの部分が優れているかをはっきり指摘した人間がいた。夏野である。 ぼくはこの事業のプレゼンのときに一つのパターンを作っていた。それはぼくの話を集中して聞いてもらうために、事業説明の最初にわかりやすいポイントを話すようにしていたのである。 最初に話すのは、もちろん、この事業によってインターネット・プロバイダーへの接続料を無料にすることができる点だ。接続無料というのはこの事業の副産物ではあるが、一般の人には非常に説得力のある言葉だからである。人間やはり「ただ」には弱い。まず最初に接続料が無料になると話を切り出す。するとみなこの事業に興味を持ち、ぼくの話を真剣に聞いてくれるようになる。そこではじめて、広告との連動について話すわけだ。 しかしながら、ぼくは、この事業の一番カギとなるのは、接続料の無料化や広告の表現形態ではなく、顧客のデータベースを保有しそれに基づいたマーケティングをすることにある、と思っていた。ただ、プレゼンを聞いて、その部分の重要性に気づく人はほとんどいなかった。 夏野は違った。彼は一発でこの事業の核がデータベース・マーケティングであることを見抜いた。しかも、会場で彼はこんな提案までしてきた。「板倉さん、データベース・ビジネスはやはり米国が本場です。米国にすぐ進出すべきです」 このプレゼンが開かれたのは、ぼくが米国に旅立つ前の話である。それだけに「米国進出」という言葉が夏野の口から出てきたときには、ぼくも少々驚いた。しかも、この時点でまだ東京ガスの社員だった彼は、「休暇をとりますから、ぼくに米国の市場調査をやらせてください」とまで言うのだ。夏野に実際どんな能力があるのか、まだ何も知らなかったが、ぼくは即決した。「夏野さん、調査の方、よろしく。それから、いつでもうちに来てください」 この日から六カ月後、夏野は会社をやめ、九六年七月、うちの役員になった。 二人目は中山佳久である。 今回の事業計画は、プロジェクトチームを作る必要があった。ぼくは忙しい当社の役員をはじめ、営業、開発、管理などそれぞれの部門から一人ずつを指名し、プロジェクトチームを結成した。新規事業部が正式に発足するまでの間、このチームとぼくが既存業務の合間を縫って定例会議を続けることになる。 そこで、はたと気づいた。プロジェクトを束ねるリーダーがいない。社内の人間はすでに本業の IMSが成長期だったのでだれもが手いっぱいである。専任で事業を進めるリーダー候補は見当たらなかった。社内にいなければ、社外で探すしかない。ぼくはその頃偶然知り合った人材バンク会社の社長から、この事業にふさわしそうな人材リストをもらってきた。五人ほどの候補者はみな M B Aを取得していた。 正直いって、ぼくは M B Aを持っていることがどれほどの価値なのかよくわからなかった。ただ、前述の夏野が M B Aの取得者だったし、すでに米国での事業展開を視野に入れていたので、米国流のビジネスを学んだ人材が有望であろうとは考えていた。 ぼくはとりあえず候補者の一人に会ってみることにした。
身長は一七〇センチ弱、丸顔のいかにもおっとりした男だ。「はじめまして、中山です」 彼はぺこりと頭を下げた。 とりあえず、どんなプロフィールの人間なのか、ぼくはいろいろと質問した。とつとつとした語り口で、彼は自己紹介をした。 歳はぼくと同じ。上智大学理工学部を卒業後、ソニーに就職、その後、退社して M B Aを取得。現在は中堅電機メーカーのユニデンで仕事をしているという。興味深かったのは、夏野をはじめぼくの知っている M B A取得者は大体社命で在職中に MBAを取得しているのに対し、中山はいったん大手企業を退職し、自費で米国に渡り M B Aを取っている点だった。一見地味だが、どうやら相当根性と集中力のある人間らしい。 そこで、ぼくは彼をちょっと試してみることにした。ハイパーネットの社業を紹介する際、あえて新規プロジェクトの話はせず、既存事業である IMSの説明だけをしたのだ。今回の人材探しの目的は、この新規プロジェクトのリーダーを見つけることである。当然、将来に渡ってうちの会社の屋台骨を支える人材でなければならない。だからこそ逆に今回のプロジェクトのあるなしにかかわらず、うちの会社に「就職」したいといってくれる人が欲しかった。中山は一体どちらだろうか。 ぼくの説明が終わり、中山がいくつか質問をした。どうやら IMSの中身以上に、ハイパーネットというベンチャー企業そのものに興味があるようだ。ぼくの仕掛けたハードルを彼はとりあえずクリアしたわけである。迷っている暇はなかった。ぼくは出会ったその日にこの男を採用することに決めた。 入社後、中山にはしばらく IMSの営業部門で会社になじんでもらうことにした。もちろん、試用期間が過ぎれば、新規プロジェクトのリーダーに指名するつもりだった。 九五年一二月も下旬に差し掛かっていた。 いいかげんプロジェクトに名前をつけなければならない。まったく新しいビジネスだけに、どんな名前をつけるか思案のしどころだ。人間にとっても名前が人生に影響を与える部分は少なくないだろう。ぼくは結婚もしていないし、当然子供もいないから、人に名前をつけるという経験はない。が、おそらく相当頭を悩ます作業であろうことは想像がつく。というのも、今回の新プロジェクトは、ぼくのいわば子供のようなものだからだ。 考えた挙げ句、ぼくは会社の名前ハイパーネットの一部を使うことに決めた。プロジェクトに社運をかける覚悟であることを示すのにもそれがいいだろう。 かくして、「ハイパーシステム」という名が誕生した。 さてと名前が決まれば、あとはプロジェクトチームの本格立ち上げだ。いよいよ採用したばかりの中山のお手並み拝見である。 第一回会議を開くその日、ぼくは中山を驚かせようとして、事前にハイパーシステムの内容をまったく伝えていなかった。プロジェクトリーダーになれるか否かは、ぼくのプレゼンのどこに興味を持つかにかかっている。 どうやら、ぼくの目に狂いはなかったようだ。中山はハイパーシステムの核がデータベース・マーケティングであることをすぐに見抜いたのである。会議終了のその時、ぼくは彼をプロジェクトリーダーに指名した。いきなりの大仕事に少々驚いたようだったが、中山はそれを喜んで受け入れてくれた。いよいよプロジェクトの発足だ。九五年一二月二六日、ぼくの誕生日である。年の瀬の夜遅く、ぼくは最高の三二歳を迎えることができた。 九六年正月。ハイパーシステムを一刻も早く立ち上げるべく、ぼくたちは精力的に動き始めた。 ハイパーシステムはかなり複雑な事業だ。それだけに、営業、マーケティング、開発、運営、設備など、各業務の事業計画をかなり精緻に固めておく必要がある。中でもシステムの開発は技術的な話が非常に多く、プロジェクト会議の分科会として技術者だけで行う開発会議をわざわざ設けたほどである。 ぼくはこの分科会でハイパーシステムの概要だけでなく、将来のハイパーシステムのバージョンアップ構想を話した。ぼく自身がもともとコンピュータソフトの開発をやっていたからよくわかるのだが、ソフトウエアを設計する場合、どんなバージョンアップが考えられるかあらかじめ考えておかなければ、いざ将来そのソフトを改良しようとするとき非常な手間がかかってしまうのである。 分科会でぼくは、事前に考えていたハイパーシステムの追加機能を思う存分プレゼンした。すると次々と構想を話していくたびに、出席していた技術者の顔がだんだんしぶくなってくる。当然だろう。ぼくの好き勝手なアイデアを具現化するのは、技術的に相当面倒だからだ。 もっと根本的な問題もあった。このハイパーシステムはいったいいつから稼動できるか、という点である。 システムに盛り込むアイデアこそ次から次へと浮かんできたが、実際に商売としてスタートできるまでにあとどれくらいかかるのか、ぼくの中に迷いがあったせいもあって、見当がつかなかった。迷っていたのは二点、最終的にビジネスを始められる体制を社内でいつ固められるか、そして市場にいつ投入すればもっとも効果的かである。 連日の会議でこの二つの迷いを払うべく、ぼくはメンバーの連中に事細かに質問をしていった。たとえば、社内の体制をいつ固められるか。ポイントはやはりシステム全体をつかさどるソフトウエアの完成時期だ。開発担当に聞くと、九六年一〇月には何とか稼動できるだろうとの答えだった。 一〇カ月も先か……。そう思いながらぼくが市場の投入時期について調査担当者に聞くと、当社の株主や取引先などのヒアリング結果を見る限り開始時期はできるだけ早い方がよい、とのことだった。となれば、稼動目標は、ソフトの開発が完全に終わる一〇月から、と自動的に決まる。とはいっても、これは当社の技術陣が仮定した開発期間にすぎない。実はこの一月の時点で、サーバー側を開発する会社は決定していなかったのである。 クライアント側アプリケーションソフトウエアの開発に関しては、すでに米国に渡る前から友人の長瀬さんが経営しているコスモテクノロジーに依頼してあった。 残るは、サーバー側のソフトウエアの開発会社をどこにするかだ。この選定には難航した。 一月も下旬に差し掛かった頃、一人のコンピュータ会社の営業マンが、ハイパーネットを訪れた。筒井のところにやってきたこの若い営業マンの差し出した名刺には、「日本タンデムコンピューターズ」という名が印刷されていた。 この会社の米国の親会社、タンデムコンピューターズは、いわゆるクライアント・サーバーシステムを管理する企業としては屈指の力を持っていた。その程度の知識はぼくにもあった。筒井に呼ばれたぼくは営業マンの話を聞くことにした。 挨拶もそこそこに、彼はこう切り出してきた。「板倉社長、うちの専務、和泉に会って今回の企画のプレゼンをしてもらえませんか」 おい、ちょっと待て。こっちはあんたのお客さんだぜ。なのになんでおたくの会社の専務にプレゼンしなきゃいけないんだよ。筋が通らないじゃないか──。かちんときて言い返そうと思ったとたん、この営業マンは殺し文句を口にした。「開発を急いでいるのではないですか」 痛いところを突かれた。彼の言う通りだ。社内には一〇月目標とはいっていたものの、正味の話、でき得る限り早くハイパーシステムを立ち上げたかった。ぼくは、口に出しかかった文句を引っ込め、代わりにこう答えた。「じゃ、いつならおたくの専務さん、会えるのかな」
数日後、一月末のある日、ぼくと筒井はタンデムコンピューターズを訪問した。 役員会議室と思われるその部屋に入ると、そこには和泉法夫専務をはじめ幾人かの技術部門のマネジャーらしき人たちが居た。ぼくは一通り名刺交換と挨拶を済ませると、機密保持契約書へのサインを求めた。 日本企業の場合、この機密保持なる契約書を見ると拒否反応を示すケースが多い。契約書にサインをするには上司の許可が必要だとかいうのはまだましなほうである。中には「我々を信用できないのか?」と怒り出してしまう会社だってある。 ばかばかしい。ぼくはこんなときいつもこう思う。サイン一つもできない会社なんか、信用できるわけないだろう。もしあなたたちに含むところがないのなら、機密保持契約書にサインするデメリットは何もないじゃないか、と。 その点タンデムコンピューターズはやはり外資系だった。和泉専務は迷うことなく文書にサインし、ぼくのプレゼンを促したのである。これは話が早い。 いつものようなぼくのプレゼンの後で、和泉専務はひとこと聞いた。「これは面白い。いつ始める予定ですか?」 ぼくは答えた。「四月です」。 開発会議での稼動目標は一〇月である。それをわざわざ六カ月も繰り上げた時期を、ここで外部のしかも初対面の人間に告げたのには、もちろん訳があった。 ぼくはそもそも一〇月スタートという予定にまったく満足していなかった。できるならば、春には世間に発表したかったのである。三カ月前に訪れた米国のコムデックスの視察やサンノゼのレストランで偶然出会ったポイント・キャストの社員の話から、九六年中にインターネット分野で新しい広告システムが次々と発表されることは十分予想がついた。 それだけに一刻も早くサービスを発表する必要があった。パイオニアとしての名を世界中に伝えることによって、ディファクト・スタンダードを確立しなければ、このビジネスのうまみは一瞬にして消え去る。 と思いつつも、ぼくがあえて一〇月完成と口にしている社内の技術者たちに、春までに完成しろと強要しなかったのは、コンピュータ関係の開発であまりプレッシャーを与えると技術者たちの反発をいたずらに買うだけで、かえって仕事が遅れてしまうことをおそれていたからだ。 ただし、外部の会社、この場合はタンデムが四月までに完成可能と返事をすれば、話は変わってくる。プライドの高い社内の技術スタッフはむしろ、完成時期を早めるのに必死になるに違いない。 さてと、タンデムはどう出るか。 和泉専務はあっさりこういった。「わかりました。御社の都合にあわせられるように最高の技術者を手配しましょう」 横に座った筒井を見た。和泉専務の言葉に少々驚いた様子の筒井の目とぼくの目が合った。ぼくは軽い笑みを浮かべた。口にはしなかったが、こう言った訳である。 ねっ、四月開始だからね。よろしく頼むぜ、筒井君! 筒井は苦笑いをしながら、軽く首を縦に振った。 さてと。タンデムは実にいい返事をくれた。サービス開始時期は一〇月から一気に四月へと六カ月も繰り上がった。筒井をはじめうちの技術陣も彼らの日程にあわせることを承知した。 でも……。ぼくはふと思った。タンデムのシステム、あれは一体いくらするんだ? 数日後、彼らから見積書が届いた。 システム全体でおよそ五億円! いくら銀行からの融資が増えているとはいえ、そんな資金が手元にあるわけはない。けれども、タンデム以外に今回のシステムを任せられそうな会社は他には見当たらない。どうすればいいのだろう。 しかしながら、この問題に長時間、悩む必要はなかった。 というのも、以前からつきあいのあった長銀系の大手リース会社、日本リースが突然、タンデムのシステムを買い上げ、当社にリースしてくれることになったからである。 こちらから強く頼み込んだわけでもないのに、なぜ日本リースがこんなにも巨額のリースを受けてくれたのか? もちろん金融機関各社が当社の将来に大きな期待を寄せているのを知っていたからだろうが、実はもっと明白な理由があった。日本リースは日本タンデムコンピューターズの販売代理店だったのである。しかもこの当時、タンデムの売り上げにおいて、日本リースの販売シェアはナンバー 1だったらしい。すなわち、うちがタンデムのシステムを導入することで、日本リースとタンデム相方に大きなメリットがうまれるわけである。 ぼくは倒産してからこれらの細かな事実を知ったのだが、こうしてみるとなぜタンデムの営業マンが突然当社にやってきたのか、そしてその直後になぜ日本リースが訪れ、巨額のリース契約を締結したのかが、容易に想像できる。確か一月に実施した金融機関に対する説明会に日本リースの担当者が来ていたはずだ。おそらくそこからタンデムに当社の情報が流れたのだろう。 いずれにせよ今となっては、確かめようがない。タンデムコンピューターズは九八年一月、コンパックに吸収合併されてしまったし、日本リースといえば、ご承知の通り、九八年九月二七日、会社更正法を申請して、事実上倒産してしまったのだから。 とにかく、九六年二月時点のぼくは、総額五億円を超すタンデムのノンストップ・コンピュータ・システムをリース契約のかたちで事実上手に入れられたことを無邪気に喜んでいた。 タンデムとの契約で、システム開発の穴はほぼ埋まったかに見えた。けれども、実はある意味で一番面倒な仕事が残っていた。とりあえず自前でやることにしたプロバイダー業務の開発である。 そもそもなぜ自前で始めようと考えたのか。それは、他人から見れば海のものとも山のものともつかないこの事業に既存のプロバイダーがいきなり協力してくれるとは思えなかったからだ。とはいうものの、もしどこかのプロバイダーが業務を受け持ってくれれば、という思いはいつもあった。 それは、まったく偶然に解決した。 きっかけは、むしろ非常に不愉快な出来事だった。あのアスキーとぼくの会社の間でちょっとした揉め事があったのである。 揉め事の内容はこの書籍と直接関係のある話ではないので特に触れないが、とにかくアスキーとは昔から随分と付き合いがある。そのまま放っておくわけにはいかない。ぼくは、アスキーの西和彦社長、それから日本興業銀行から移ってきた副社長、それにぼくの師匠筋である常務の浜田さんと数回にわたって会談した。 こちらはアスキーに不利益を訴える立場にあったわけだが、他の二人はともかく常務の浜田さんに文句を言うのは個人的に非常につらかった。ぼくがここまでビジネスを拡大できたのは、浜田さんの力によるところが大きい。彼が助言してくれなければ、最初のゲームソフト会社もうまく立ち上げられなかっ
たろう。 それでもこの問題は、ぼく個人というよりはハイパーネットという会社の利害に大きくかかわるものだった。ぼくは仕事に徹して、こちらの不利益を浜田さんたちに訴えた。 何度となくやりとりがあった後、浜田さんは突然こんなことを口にした。「板倉さん、この際だからさ、うちがハイパーシステムを使ったプロバイダーの第一号になるよ」 彼はいきなりこんな提案を出してきたのである。「おたくも、自前でプロバイダーをやるのはかなりつらいだろう。だったらそこの業務はアスキーが持つ。その代わり、というわけじゃないけど、今回の件は手打ちにできないかな」 大まかな契約内容はこうだ。まずハイパーネットは、ハイパーシステムの接続プロバイダーとしてアスキーを第一号とする。そしてサービス開始から六カ月の間、独占的にアスキーに対してこのシステムを接続する。その独占権に対する対価として、アスキーはハイパーネットに対して三億九〇〇〇万円を支払う。 ハイパーネット側としては、自前でプロバイダー業務を立ち上げる必要がなくなる上、インターネットの世界でも名の知れているアスキーをプロバイダーとして活用できる。コスト面でもマーケティング面でもこれはかなりのプラスだ。一方、アスキーにとっては新しいマーケティングシステムを向こう六カ月間独占的に利用できる。そのうえ接続料無料を訴えることで、顧客数を大幅に伸ばすことが可能となる。 提携がうまくいけば、双方にかなりのメリットがでるのは確かに明白だった。 迷いはあった。今回の揉め事も含め、浜田さんとはともかくアスキーという会社とぼくとは根本的に肌が合わない。そう感じていたからである。 ただし、確かにビジネスの面で考えれば、アスキー、いや浜田さんの提案は悪くない。 結局、どこかにひっかかるものを感じながらも、ぼくはアスキーと提携することにした。アスキーがハイパーシステムを活用したプロバイダーの第一号となるわけである。 それからが大変だった。アスキーがプロバイダーをやるということは今まで自社で用意してきたプロバイダー部門をすべてアスキーに譲渡するということになる。 いずれどこかに譲渡する予定ではあったが、これほど早く、それも設備稼働はおろかシステムもまだ開発の段階で、アスキーに渡すとは誰も予想していなかった。 今更、開発の変更はできるのか? しかし、乗りかかった船だ。もう降りるわけにはいかない。ぼくは、プロジェクト全体に号令をかけた。「プロバイダー部門をすべてアスキーに譲渡する」と告げたのである。 これは思ったよりもはるかに膨大な作業を必要とした。 たとえばこの時点で、プロバイダー事業は自分たちで行う予定だったから、ハイパーシステムの中で、顧客のデータを蓄積・活用するデータベースセンター部門と顧客がインターネット接続のために加入するプロバイダー部門が、技術の面でも設備の面でも分離していなかった。具体的にいうと、データベースセンターの設備の一部がプロバイダー部門の設備の中にあったり、またその逆のようなケースがいくつもあった。 それに、それぞれのネットワークの中でのセキュリティの面が十分に確立されていなかった。データベース事業にとって、顧客の情報をきっちり管理するセキュリティ部門は、きわめて重要である。この点も開発部門で改良する必要があった。 もっと現実的な問題もあった。既に契約が済んでいるプロバイダー設備のリース契約や日本橋の不動産契約である。これまではすべてハイパーネットが契約主体だったのを、アスキーが主体になるよう切り替えてもらわねばならない。 この作業が難航した。ぼくにしてみればハイパーネットのような未公開の中小企業との契約より、アスキーのような有名店頭公開企業との契約のほうが、はるかに安全で問題はないと思うのだが、金融機関や不動産会社はそう思わなかった。リース会社にしても不動産会社にしても、ハイパーネットの新事業のために枠を取ったのに、今更アスキーに名義を変更されても困るというのである。 我々は仕方なく、リース物件および不動産のアスキーに対する又貸しの許可だけをもらい、ハイパーネットが彼らと交わしたのとほぼ内容の同じ契約を、アスキーと交わすことにした。これは、結果としてみれば、アスキーの使用する不動産や設備の保証を当社がする形である。 これでなんとかアスキーと一緒に仕事ができる環境が整った。災い転じて福となすだ。ありがとう、浜田さん。このときぼくは本当にそう思っていた。 しかし、この契約が後にいくつかの問題を引き起こすことになる。 ぼくらは何らかの形で新しい事業を世間にアピールしたかった。ただ、果してマスコミが取材対象として当社を取り上げてくれるかどうかは、よくわからなかった。 そんな時、ぼくは「日経ビジネス」編集部を訪ねる機会を得た。当社の話を聞きたいということだった。事業部長の中山を連れ、ぼくは編集部に行った。 赤坂プリンスホテルの裏手、一見清潔そうなビルの見かけとはうらはらに雑然とした編集部の脇のソファに通される。ところどころに煙草の焼け焦げがある。ふうん、これが雑誌の編集部か。そう思っていると、やってきた大柄の男には見覚えがあった。テレビ東京のニュース番組の解説にときどき登場していたのを、何回か見ていたのである。編集長の永野健二さんだった。 永野さんがぼくの目の前に座った。それからもう一人、副編集長と紹介された小柄な男性、徳田潔さんが椅子を引っ張ってきて脇に座った。 さて、まずはプレゼンだ。いつものごとく弁舌さわやかに話しはじめると、どうもいつもと様子が違う。永野さんが、ところどころで突っ込んでくるのである。「あー、今のところ、よく分からないからもっとちゃんと説明してくれない」「うーん、あなたはそういうけど、ほんとにそうかなあ」 これがマスコミのヒトか。銀行員相手のプレゼンとはどうも勝手が違う。それでも、ぼくはめげずにプレゼンを続けた。自信があったからだ。 一通り話が終わると、永野編集長はぼくに聞いてきた。「これいいけど、誰でもできるじゃないんですか」 きつい言葉である。でもある意味で言う通りだ。今までは無条件に高い評価をするか、事業内容がさっぱりわからずにそっぽをむくかのどちらかだった。この人はどうやら事業に関して理解したうえで、なぜぼくなのか、という理由を聞きたいのに違いない。 ぼくはすぐに答えた。「確かに誰にでもできます。しかし一度始めてしまえばデータベースがどんどん蓄積されます。そして数カ月もすると誰にでもできるビジネスではなくなります」 永野さんは「あなたはどこまでいけると思いますか?」と聞いてきた。
ぼくは大きく出た。「この事業でネットスケープは超えられると思います」 そもそもぼくにしてみればネットスケープは単なるソフトウエアの開発会社にしか見えなかった。確かにソフトウエアの開発技術は当社をはるかにしのぐものだったが、それ以上ではないと思っていた。ネットスケープには競合優位性がそれほどないと思っていたのである。 それにしてもまだなにもできあがっていないのに、ずいぶんと生意気な発言ではある。けれども永野編集長は、ぼくの言葉を決してばかにせずに、次の質問をしてきた。「ウインテルの時代はもう終わりだと思いますか?」 ぼくは戸惑った。それでも、この場は強気の発言をするしかないと思い、こういった。「そう思います」 永野編集長は、帰り際に改めてきちんと取材しましょう、と締めくくった。 余談だが、永野編集長の質問に戸惑ったのには理由があった。実は「ウインテル」という言葉の意味を知らなかったのである。同席していた全員が当然のごとく知っているかのようだったので、ぼくは訳も分からずに強気の発言をしたのである。 帰りの車で中山にこの言葉の意味を聞くと、彼はあきれた顔をした。「社長ほんとに知らないんですか? パソコン業界を席巻しているウインドウズとインテルの連合軍のことですよ」 いまや当然知っていなければならないキーワードだったようだ。が、ぼくの知識体系からは、このての情報がすっぽり抜け落ちていた。まあぼくの強気の個性を打ち出すには、結果的にいい答えだったと思うしかなかった。それにしてもあの場で意味を聞かなくてよかった。 住友銀行を中心にカネは集まった。 NTTの協力で設備も整った。 MBAを持った凄腕もそろえた。開発のアウトソーシングも、タンデムをはじめ優良企業に委託できた。プロバイダー業務も、すったもんだはあったものの、アスキーに頼むことができた。九五年九月朝のトイレで思いついてから、たった四カ月しかたっていなかった。 事態は、ぼくの思惑をはるかに超える規模とスピードで進んでいた。それがぼくの実力によるものなのか、それとも別のなにかの力によるのか。もはや判断がつかなかった。 事業が急展開していたのとちょうど同じ頃、九五年末から九六年の頭にかけて、私生活にも大きな変化が訪れていた。 まず車が変わった。以前乗っていたのは BMWの M 5。車好きなら誰でも知っているスポーツ・マシンだ。値段も軽く一〇〇〇万円をオーバーする。四ドアのボディは一見普通のセダンにしか見えないが、走りの実力はポルシェにだって負けない。その意外なところがぼくの車オタク心をいたくくすぐった。 気に入って三年乗っていたその M 5をぼくが手放したのは、かつては購入の理由のひとつにさえなっていた「一見普通の」という点が原因だった。 六本木のナイトクラブに乗り付ける。店がはねればそのまま女の子と車でデートだ。ところがクラブの女の子は BMWなんかには乗り飽きている。そこでいちいち説明しなければならない。「あのな、この車は M 5といってな、ただの BMWじゃないんだよ……」。このやりとりが正直うっとうしくなっていた。車は気に入っていたが、どうやらぼくのライフスタイルには別の「わかりやすさ」が必要になってきていた。 そこで、フェラーリを買った。 F 355スパイダーという型で、色はモンツァレッド。これならば、誰もが「お、凄い車」と認識できる。クラブの女でフェラーリを知らない子はいない。説明はもういらなくなった。 さすがに 2シーターのこのスポーツカーだけでは用が足せないので、普段用としてボルボのワゴンもついでに買った。ちなみにどちらもすべて自腹である。 せっかく買ったフェラーリは、しかしほとんど出番がなかった。新事業の立ち上げや株式公開を控え、もしものことがあってはまずい、と秘書から厳しく言い渡されたのである。「ハイヤーを会社で契約しますから、ぜったいにこれで移動してください。いいですね」 それから女が変わった。 BMWとほぼ同じ期間付き合った前の子とは、九五年の大晦日に別れた。一七〇センチ近くある背の高い子で、奇麗な脚と細いウエストと豊かな胸と小作りなすっきりした顔をしていた。年は二〇歳。短大生のときに彼女がアルバイトしていたクラブで出会ったのがきっかけだった。明るくきさくな子だった。ぼくの友達にも評判がよかった。 なぜ彼女と別れたのか明確な理由は思い出せない。嫌いでなかったのは確かだ。理由なんてなかったのかもしれないし、彼女とは関係ないまったく別の理由がぼくの中にあったのかもしれない。 とにかくぼくは彼女と別れ、とりあえずその頃別のクラブで親しくなっていた別の女と年明けから付き合いはじめた。二五歳の新しい彼女は、背はさほど高くなかったが、ベルサーチェのワンピースにピンヒールといった「六本木の女」だった。少なくともフェラーリの助手席には似合った。 家も変わった。 それまで住んでいた用賀のマンションは五〇 と飛び抜けて広くはなかったが、一人で暮らすには十分だし、広いリビングと見晴らしの良いバルコニーが気持ちよかった。東名のインターチェンジのすぐそばで、車で動くぼくにとってはうってつけの場所にあった。 そこを引っ越したのは、新しい彼女に正月早々、青山通り沿いにあるペットショップ「青山ケンネル」で、「犬が欲しいの」とせがまれたからだ。 動物好きのぼくはうっかり「いいよ」と答え、檻の間から鼻を突き出しぺろぺろと舌を出して甘える上代八〇万円血統書付き生後三ヵ月のゴールデンレトリバーを買ってしまったのである。買ってから気づいた。「あ、うちのマンション、犬猫禁止だ」。 ぼくは、犬を店に預け、不動産屋を回り、港区白金の一軒家を見つけてきた。並木のある広い坂道から一本入った静かな住宅街の一角。二階建一八〇 のその家にはちょっとした庭がついており、レトリバーのような大型犬を飼うのには悪くないところだった。家賃は月五〇万円と、場所と広さを考えれば、法外な値ではなかった。 会社ではハイパーシステムの開発でむやみやたらと忙しかった九六年二月早々、ぼくは用賀のマンションをたたみ、白金に引っ越した。家の庭にはレトリバーが、そして家のソファには新しい彼女が、自分の場所を確保した。夜中に帰ってきて寝るだけのぼくにとっては、ベッドルームさえあればよかったのだが。 かくして当時マスコミに登場した時のぼくのイメージ、「フェラーリを乗り回し、白金の邸宅に住む若手起業家」は「完成」した。 仕事でも、私生活でも、この頃のぼくは、一回り、いや二回りは大きいぶかぶかの高級スーツを着せられたようなものだった。そして、自分の体をこの「スーツ」にすぐに合わせようと、背伸びをし、シークレットブーツを履き、筋肉増強剤を打ち始めていた。無論、こうした〝ドーピング〟は体に悪い。が、副作用に気づいた頃には、もはや医者も手が施しようがなくなっているものだ。ぼくの場合もそうだった。 九六年二月時点のぼくにそこまでの思慮はなかった。実体以上に大きく膨らみはじめた事業と自分自身をより大きく見せようと、ぼくはハイパーシステムのプロモーションに力を入れた。
そして──。ぼくは、六本木の巨大ディスコ、ベルファーレで発表会を開いた。 九六年二月。ハイパーシステムのサービス開始まであと二カ月しかない。そろそろ世間に向けて大々的な PRをする必要があった。この事業は広告主あってのビジネスだ。企業の宣伝担当者に情報が伝わらなければ商売にならない。 だが、雑誌や新聞、テレビに広告を打っていてはいくらお金があっても足りない。特にうちのような中小企業の場合、予算の限界がある。 ぼくは記者発表会を開こうと考えた。ただし、記者の方々に足を運んでもらい、さらにニュースとして取り上げてもらうには、ただの発表会では駄目だ。このハイパーシステムが記事にするのに十分な価値のあることをしっかり理解してもらう必要がある。こんなときは照れずに思いっきり派手にいこうとぼくは思った。 記者発表のイメージは、実はかなり前から頭の中で決まっていた。六本木の大型ディスコ・ベルファーレを貸し切り、そこでハイパーシステムを発表するのである。記者だけで一〇〇人以上、広告代理店やクライアントの方々、協力会社のトップなどを含めると四〇〇人ほどを招待。彼らをメインホールに招き、ベルファーレの大型ディスプレイにコンピュータを持ち込んで接続、ハイパーシステムを思い切りデモンストレーションする──。 派手な仕掛けで斬新なニュービジネスを紹介する。十分目を引いた上で、この事業の革新性、重要性をしっかり訴えよう。シナリオはほぼ完成していた。 ところがである。このイベントを代行してもらうはずの PR会社が納得してくれない。お笑いタレントの〝おさむちゃん〟に似た PR会社の担当者は、顔つきとは逆にやたら偉そうな男だった。おそらく大企業のクライアントばかりを相手にしているうちに、専門家づらが身についたのだろう。 ぼくは、ハイパーシステムの斬新さや合理性、市場適合性、さらにブームのインターネット上で展開されることなど、できる限りこの事業のイメージを正確に伝え、ベルファーレでの記者発表を実施するよう説得しようとした。しかし、担当者はまったく相手にしてくれない。「板倉さん、ベルファーレでプレスリリースやるのは、コカコーラとか NTTとかの大企業ですよ。それにね、その会社のイメージキャラクターになっている芸能人やスポーツ選手なんかを呼んでないと、客なんか集まりません」 なにを言っているんだ、この男は。 ぼくは頭に来た。単に馬鹿にされたから怒っているわけじゃない。 PR会社で広告畑にいるのに斬新な企画をやってみようという気のまったくのないその頭の固さ古さ、その根底にあるベンチャー企業軽視の考えに対して、腹が立ったのだ。 その点に関しては米国がうらやましい。ほんの一〇年ぐらいの間にベンチャー企業が一国を代表する巨大な存在になる。特にコンピュータ分野ではそれが顕著だ。マイクロソフトを筆頭にコンパック、デルコンピュータ、アップルなど名前を挙げたらきりがない。無論、成功した連中に力があったからだろうが、それだけでは一〇年足らずで世界の大企業にはなり得ないような気がする。彼らを育てる環境がやはり米国にはあるのだろう。ベンチャー育成の意志が存在し、その可能性にポジティブな視線が注がれている。 日本は米国と正反対だ。目の前の PR会社の社員がそれを象徴している。打ち合わせの段階から、こんな状態では先が思いやられた。が、一方でこういった人々一人一人の考え方をぼくが変えていかなければ、いつまで経っても状況は変わらない。「あなたねえ、それじゃベンチャーは育ちませんよ」 怒鳴りつけたいのをぐっとこらえ、ぼくは相当時間をかけてこの PR会社の担当者を口説いた。「そもそも何も無いところから始めるわけだから、はなから大企業のそれと比べていたらいつまでたってもベンチャーはベンチャー以上にはなれない。いいですか。ソニーだってはじめはベンチャーだったんですよ。あの盛田さんが米国で実力以上のふるまいをした結果が現在の米国での地位を築いたんだから。そのくらい知っているでしょう」 ほとんど説教である。これではまるで昔のテレビ番組「どてらい男」の西郷輝彦だ。そういえば、それこそベルファーレの VIPルームで偶然遭遇したタレントの山城新伍氏に「きみ、西郷輝彦に似てるねえ」といわれたことがあった。眉毛が濃くて目玉がぎょろりとしているところが、人によってそう見えるのかもしれない。それとも子供の頃「どてらい男」を見過ぎたのが顔に出ているのか。 最終的には、この担当者はぼくの考えを受け入れてくれた。クライアントである当社の要望だから仕方なく聞いたのだろう。でもぼくにはこの記者発表に自信があった。だからどんな理由であれ、担当者が納得してくれればそれで良かった。 とにかくこの時のぼくは自信満々だった。自分とそして自分の組織の未来に対して。そして、少なくともこの時点では、ぼくの過剰なまでの自信が会社を上昇方向に導いていた。 面白いことにこの手の自信というのは、組織の中であっという間に伝染する。記者発表計画はもちろんハイパーシステムの事業化に、当社の社員は皆盛り上がっていった。ぼくの意志と会社の組織全体が同調していた。細部の指示をしなくても、何が目的で、何が必要かをそれぞれの部門が完全に把握して、会社全体が邁進していた。 だから、発表の準備にしても、その概要を会議で伝えるだけで十分だった。全体の構成をどうするか、デモンストレーションは何分ぐらい見せるのか、質問の時間はどうするか、招待客は誰にするかなど、スタッフは皆、ぼくの意をくんで計画を立ててくれた。 こうして決まった記者発表の概要はこうだ。 まずぼくが壇上に立ち、マルチメディアやインターネットといった名前だけが先行しているこの新しい分野を市場としてみてどんな可能性があるかを講演する。マルチメディアやインターネットの定義や問題点を改めてここで言及しておくことが、ハイパーシステムの価値を最大限に理解してもらうのに必要だからである。 そしてその後にプレゼンテーションを行う。ベルファーレの大画面を使ったデスクトップ・プレゼンテーションである。手元の端末と大画面とをつなぎ、実際のサンプル広告を流す。そして画面に現れる広告であるビザ宅配の会社が登場、それで実際にオーダーをしてみせる。その後に、先に指摘したマルチメディアやインターネットの市場の問題点をハイパーシステムがいかに解決できるかを再度ぼくがプレゼンする。プレゼンが終了する頃、頼んでいたピザが会場に到着する──。 いささかやりすぎかもしれないが、ここまでつくり込めばプレゼンの内容も印象に残るだろう。あとは、フォーマルな質疑応答。そして最後にこのシステムを使ったプロバイダーとしてアスキーが名乗りをあげたことを伝える。 完璧だ。ぼくはこのとき自己陶酔状態にあった。いや、ぼくだけじゃない。企画に参加していた社内のスタッフみんなが同じような精神状態だったと思う。 記者発表は二月末。準備期間は二週間程度しかなかった。プロジェクトチームもぼくも連日連夜のほぼ徹夜の残業である。しかし誰の顔にも疲れはなかった。まるで文化祭の準備でもしているかのような雰囲気だった。渋谷のオフィスの明かりは夜明けまで消えることはなかった。 気にかかっていたのは、未だ完成していない「ホットカフェ」のデモンストレーションをどうするかであった。「ホットカフェ」というのは、ハイパーシステムの中で一般ユーザーの目に触れる部分のソフト、インターネット画面横に現れる広告表示用のアプリケーションソフトの名称である。 当然ながら、僅か二週間の日程では、正式版のホットカフェは完成しない。そこで開発を依頼していたコスモテクノロジーにデモ用の特別のバージョンを急遽頼むことにした。デモ用バージョンは見た目の動作さえ正式版と同様であればよい。
結局この「ホットカフェ・試作版」が動いたのはプレスリリース前日であった。普通ならば大慌てだろうが、そんな状況下でもぼくはどうにかなると思っていた。 まあ、いざとなれば、おれのしゃべりで何とかなるさ。それで十分観客を満足させられる──。 この自信には、少々の裏付けがあった。 二月八日、夕刊ではあったが、日本経済新聞の一面囲み記事にハイパーシステムの記事が載ったのである。『インターネット、無料で接続、ハイパーネット四月、まず都内で──画面に DM型広告』 夕方、オフィスに届いた日経の夕刊にこの見出しを見つけた時は、思わず拳を握り締め、ガッツポーズを一人で取ってしまった。それから、個々の仕事に忙しい社員たちに、大声で声をかけた。「おい、みんな、ほら、日経の一面に出たぞ!」 さすがに皆の手が止まった。「え、ほんとっすか?」「ったりめえだろ。ほら、ここ、ここ」「あ、ほんとだ!」「社長、コピーとってきます!」「頼んだぞ」 九六年二月二九日、木曜日。 準備は整った。当日はうちの社員が朝からベルファーレにはりついていた。営業担当者は招待した広告代理店やクライアントの方々の出迎えにおおわらわだった。ハイパーシステムのプロジェクトチームは例のデモンストレーションの器材の搬入とテストである。 この手のイベントがらみの作業は得意だった。本書の最初の方に書いたけれども高校時代には、複数のバンドを集めてコンサートを主催し、チケットを売り、会場を予約し、みずからもステージに上がってギターをかき鳴らしていた。久しぶりに、ライブならではの「血が騒ぐ」感覚がよみがえった。早く時間にならないか。ぼくは、一種の躁状態にあった。 開場まであと三〇分、突然、心の隅っこに転がっていた不安がむくむくと広がった。例の PR会社の担当者のひとことが蘇ったのである。「大企業でタレントでも呼ばなきゃ、ベルファーレで記者発表をやっても誰も来てくれませんよ」 ぼくは楽屋を抜け出し、ベルファーレの入口を偵察に行った。 ベルファーレは、六本木の交差点から外苑東通りを五〇 mほど北上し、信号を左に入った細い路地沿いにある。一階は表に面したがらんどうの空間で、真ん中にレセプションのある二階に通じる大きなエスカレーターと階段が鎮座する。今回の会場となるダンス・フロアは地下三階までをぶちぬいたものだ。ぼくは専用エレベーターでいったん二階まで上がったあと、入り口近辺の様子を見下ろした。不安は一瞬にして消し飛んだ。 数百人が列をつくっていた。 ちらほらと見える顔見知りの中では銀行関係者が随分と目立つ。とにかく金曜日の夜並みの行列である。もっとも並んでいる人種は普段のそれとはえらく違うが──。 おかげで会場になかなか入れない人が続出した。建物の構造上、二階に上がってから専用エレベーターで会場のある地下に降りるしかない。ところがこのエレベーターは決して大きなものじゃないから、来客者の中には三〇分以上待たされる人まで出て、レセプションにクレームが殺到した。ある記者はプレスリリースでこんなに待たされたのは初めてだといっていた。 予定時間よりやや遅れて、いよいよぼくのプレゼンテーションである。 多少の不安があったので、ぼくとしては珍しく台本を用意していた。自宅で彼女と犬を「観客」にそらで何度か予行演習を練習をしてみたが、結構つっかえたり、忘れたりしたからである。なにせ時間は四〇分もある。そして失敗は許されない。 時間だ。 台本を握り締め、ちょっとした緊張感とバンド時代に味わった興奮とともに、ぼくは薄暗い通路から、スポットライトがあたったステージに上がった。後ろには巨大なスクリーンが青白く輝いている。台本は必要なかった。言葉は後から後から湧き出てきた。ホットカフェは見事に作動した。ピザの注文も完了した。 プログラムが終了した。予定通りピザも会場に届けられた。 そして質疑応答の時間。どんな質問がくるか。あるいは黙殺されるか。プレゼンのときよりも、はるかに緊張する時間だ。ぼくの不安をよそに、裁ききれないほどの質問が会場から上がった。「海外進出は考えているのか?」「ユーザーのプロフィールを取るということだが、プライバシーの侵害になるのではないか? またその対処方法は?」「本格稼動はいつから?」「はじめから誰でも使えるのか?」「実際のところ広告の値段はいくらで、どの程度の初年度の売り上げを見込んでいるのか?」「現在すでに広告主は決まっているのか?」「ホットカフェはホットジャバに名前が似ているけど大丈夫なのか?」 自分で答える代わりに、ぼくはほとんどの回答を担当の役員や社員に振った。この場を借りて、責任ある発言をする訓練をさせたかった。それと同時に、ぼく一人でやっているのではなく、あくまで組織として強力なメンバーが支えているという印象を観客に与えたかった。 スタッフはぼくの期待にこたえてくれた。多くの観衆を前にみな的確な説明をしてくれた。 記者発表は成功した。翌日以降、ハイパーシステムに関する記事は、新聞、雑誌を問わず、多数の媒体に掲載された。記者発表に使った経費は一〇〇〇万円に満たなかったが、 PR効果は相当なものだった。 日経ビジネスにも記事が載った。三月一一日号の「挑む」というコーナーで、五ページに渡り、ぼくとハイパーネットが紹介された。『顧客マーケティングに斬新さ「いたずら者」のひらめきで速攻』 こんな見出しで始まる徳田副編集長の手による記事は、住友銀行の国重さんやアスキーの浜田さん、電通ワンダーマンダイレクトの Hさんなどにまで周辺取材した念入りなもので、一番印象に残った。記事は手放しでぼくやハイパーシステムを評価するものではなかった。ぼくの個性の問題点などにもあえて触れたうえで、ベンチャービジネスの成功者は、板倉のようにある程度「いかがわしい」人間でもいいんじゃないか、と締めくくっていた。 間接的ではあるが、テレビにも取り上げられた。 その日、ぼくは家で彼女とカラオケを楽しんでいた。 二〇代前半まではこのカラオケが大嫌いだった。ばりばりのギター小僧だったぼくはカラオケを馬鹿にしていた。しかしクラブ活動に勤しむようになり、店の女の子と遊んでいるうちにいやがおうでもカラオケ三昧になってしまった。彼女たちと遊ぶには飲むか食うか歌うか踊るかしか選択肢がないから、カラオケに行かないわけにはいかない。
おかげで、すっかりカラオケ人間になり、ついには通信カラオケを自宅に設置するに至ったわけである。 さて、自宅の通信カラオケの場合、お店と違って、イメージ画像を用意しているわけではない。だから、歌詞のバックには適当なテレビ番組が流れることになる。その夜も TVの画像を背景に、ぼくは一八番の「最後の雨」を大声で歌っていた。こういう時、一軒家は都合が良い。深夜で、酒もかなり入っていた。 突然、カラオケのバックにハイパーシステムのサービス画面「ホットカフェ」が登場した。もちろんカラーである。酒が回ってぼおっとしていたぼくは最初、何でカラオケにホットカフェが出てくるんだ、とぼんやり思った。ふと正気に戻った。バックに流れているテレビのニュース番組だ。 あわててカラオケを止めテレビ音声に切り替えると、日本テレビの「明日の朝刊」という読売新聞の朝刊のトピックスをやっている深夜番組だった。何と翌日付の読売新聞にカラーで印刷された当社の記事が載っているのである。それがそのまま映し出されたというわけだ。 日本テレビに関しては、ニュース・ショー番組にも登場した。その番組は芸能人が話題のニュースを紹介して、それに審査委員のような、これまた芸能人が点数をつけていた。これにハイパーシステム =ホットカフェが紹介された。結果は、「審査委員」の女性タレントが「これ、あたし、よくわかんないんですう」と片付けてしまったので、対抗馬のニュースに負けてしまったのだが。 記者発表は、多大なる効果をもたらした。ただし、それはプラスのものだけではない。目立てば叩くのが世の習いである。一方で、さまざまなやっかみの声、批判の声も、公私いろいろなルートから、ぼくのところに届くようになった。 しかも意外に多かったのが、ビジネスとしてのハイパーシステムの批判ではなく、板倉個人に対する誹謗である。典型的だったのが、一部の記事に載った「フェラーリに乗っている」の一行に対する周囲の反応である。「ああいう話は書かれちゃまずいよ、板倉君」というわけだ。 要するに、さまざまな金融機関から金を借りている身でありながら、放蕩の象徴のごとき「フェラーリ」という言葉がメディア上に載るのはよろしくない、という「忠告」である。金融関係者の中にはあからさまに、「板倉さん、フェラーリのために出資したわけじゃないだけどな」といってくる者までいた。 フェラーリに乗って何が悪いんだ。だいたいが会社の金で買ったわけじゃない。ちゃんと自分の個人収入で手に入れたんだ。社用車族にそんなこと言われたくない。なぜあえてインタビューでプライベートな部分まで答えたのか、わかっているのか。ベンチャー経営者が質素な生活をして二四時間会社のことばかり考えてます、などと言ったら、若手の才能のある人材がベンチャービジネスを果たして望むか。大半は大企業に逃げてしまう。おれは後進のことまで考えて発言したんだ──。 ぼくの私憤は、基本的には今でもそれほど間違ってはいないと思う。ただし、経営者の立場から考えると、この私憤はただの「正論」でしかない。予想される周囲の反応を考慮すると、決して利口な発想ではなかった。このときからちょうど一年後に始まる金融機関の融資引き上げの発端の一つは、あんがいこうしたつまらないところにあったかもしれないのだ。 三月に入り、ハイパーシステムの開発は大詰めを迎えていた。 前も紹介した通り、ハイパーシステムはかなり複雑なネットワークシステムである。 まず、システム全体が稼動するためには、プロバイダーと契約したユーザーのプロフィール(属性情報)と広告データを蓄積して、それぞれの広告の対象と判断されたユーザーに対して広告を送出するデータベースセンターが必要となる。これがハイパーシステムの中核だ。センターは、直接開発を請け負う日本タンデムコンピューターズの指定で板橋のコンピュータ専用ビルに設置した。 それからハイパーシステムのアーキテクチャーを採用したプロバイダー設備が必要だ。これはアスキーの担当である。ハイパーネットが日本橋のビルに設備を開発・設置し、アスキーに引き渡す。更にデータベースセンターとプロバイダー設備とを結ぶ専用線設備がいる。 また、最終的にユーザーの手元に広告を表示するアプリケーションソフトウエア「ホットカフェ」がコスモテクノロジーの手で開発中だった。 以上の大きく分けて三つの要素を別々の会社が開発し、最終的に結合テストをする。 開発を本格スタートしたのが九五年一二月末。稼動予定は九六年四月である。たった四カ月で果たして稼働できるのだろうか。各社をまとめる開発の総指揮はうちの筒井と九五年に東京工業大学を卒業したばかりの新人社員が中心となった。 一番大変だったのは、結合試験である。はじめて告白するが、このシステムには詳細な設計書というものが最初から最後までなかった。大企業のシステムインテグレーションの人たちには信じられない話かもしれない。もともとぼくのイメージから派生したシステムを、筒井ら設計陣がそれぞれの開発会社にホワイトボードに黒ペンで説明していったのだ。 結合試験は実際にサンプルの広告をユーザーの手元に表示し、その広告をタッチすれば、クライアントのホームページが表示されるようにしなければならない。二月の記者発表の裏で、技術者たちはほとんど寝る間もなく開発を続けた。 テストサービスの日程が決まったのは、四月に入ってからだった。予定日は四月一五日。当初の予定を一五日遅らせてのテスト開始であるが、それでも実現するかどうか未だに怪しかった。正直ぼくも半分信じていなかった。一方で、アスキーはすでに有力新聞にハイパーシステムを利用した彼らの ISP(インターネット・サービス・プロバイダー)、アスキーインターネットフリーウェイの稼動告知広告の掲載を依頼してしまった。さあ、もう逃げられない。 記者発表のときは自信満々だったぼくだが、いざサービス開始直前となると、不安で毎日そわそわした。今まで自前で開発してきたソフトやサービスとはやはり訳が違った。複数の会社で別々につくられたパーツを組み合わせ、最後に一つの大きな作品ができる。それが今回のハイパーシステムだ。足並みがそろわなければ、形にならない。ぼく一人の力ではどうにもならないのだ。 ぼくは、開発陣に現在の成果を毎日のようにこの目で確認させてくれと頼んだ。が、彼らが見せてくれるのは開発システムの画面にソースコードが出ているものばかりである。彼らに言わせれば多少の問題はあるが何とか動かせるということだった。が、もともとプログラム開発をやっていたぼくも、この辺にくるとさっぱりわからない。 四月一四日。明日は本番だ。ぼくは未だにハイパーシステムが本当に稼動するのかどうか、確信が持てなかった。完成した、との報告が未だに入ってきていなかったのだから当然である。 夜、八時も過ぎた頃だろうか。筒井がぼくの部屋に入ってきた。「できました、社長」「おい、ほんとか。ほんとにできたのか?」 彼はそれには答えず、机上のぼくのラップトップコンピュータをいじり始めた。「今からここにホットカフェをインストールします。社長自身の手でハイパーシステムの稼動を確かめてください」 インストールが終了すると、筒井はぼくを促した。 ぼくはテスト画面からホットカフェを起動し、画面上のダイヤルボタンをクリックした。聞きなれたモデムのアクセス音がしばらく続く。なるほどダイヤルアップはできる。
モデムのハンドシェイク音が消えて、またしばらくの間待つ。ホットカフェはプロバイダーへの PPP接続と同時にハイパーシステムのデータベースセンターへもアクセスする。広告を転送するためだ。普通のインターネット接続より多少の時間がかかる。 時間が過ぎていく。本当にうまく行くのか。 突然、何も無かったかのように、ホットカフェはすべての接続が完了したことを、ダイヤログボックスを使って告げてきた。 最初の広告が登場する。我がハイパーネットの広告だ。すぐに広告のボタンをクリックする。すると今まで起動していなかったインターネットエクスプローラーが自動的に起動して、さらにハイパーネットのホームページを開く。 ──ちゃんと動くじゃないか。 ハイパーシステムは稼動した。きっと問題は残っているだろう。でもとりあえず稼動した。自分で考えたくせに、なんだか信じられなかった。 ぼくは画面から顔を上げ、筒井を見た。「やったね」 筒井はちょっと笑ってから返事をした。「ええ。やりました」 サービス稼動前日の夜の出来事であった。 九六年四月一五日。ついに本番だ。 企画、資金調達、設計、開発、記者発表、営業準備。ここまですべての難関をクリアしてきた我々は、一番大切な日を迎えた。いくらシステムが稼動してもここで終わってはぼくの「妄想」でしかなかったことになる。一般のユーザーが実際に加入してこそ、ビジネスとしての可能性が確かめられるのである。 ハイパーシステムの収入源は広告だ。だから広告主がついて広告収入を上げられるかどうかですべてが決まる。しかし当然の話だが、ユーザーがいないところには誰も広告を出さない。ハイパーシステムという広告媒体にとって、ユーザー数というのは、雑誌で言えば発行部数に相当するわけだ。逆に言えば、ユーザーの会員数を獲得できれば、遅かれ早かれ広告は絶対に集まるはずである。それだけに、実際にユーザーがどれだけ集まるかがビジネスの最初のハードルだった。 当日の有力新聞には、ユーザー獲得を担当するアスキーの広告が掲載されていた。 その日の朝、新聞広告を自宅でチェックすると、すぐさま前日から泊まり込みでシステムを監視している開発陣に電話をかけ、登録の状況を確認した。「で、どうなってる?」「すごいです。新規登録のためのアクセスががんがん殺到してますよ」 まだ朝の八時すぎである。前評判と当日のアスキーの広告が効いているのだろう。それにしても予想以上の滑り出しだ。出社する頃には、ぼくは回線数の許容量のほうが心配になっていた。 午後になると会員登録数は数千という単位になっていた。テスト稼動ということでとりあえずの会員数を一万人に絞っていたが、結果的に一万人には四月一五日からわずか一〇日で到達した。 インターネット業界の方ならおわかりと思うが、プロバイダーにとって一万人というのは大変な数字である。それをサービス開始からたった一〇日間で達成したのだ。ちなみにアスキーの有料インターネット接続サービスは、一年以上の期間をかけ、ようやく二万人弱の会員数を獲得していたばかりであった。後から聞いた話だが、アスキー側には最初の一万人の枠に間に合わなかった一般ユーザーからの苦情が多く寄せられたという。 いずれにせよ一〇日で一万人である。ぼくたちはそれまでの常識を捨て去る必要があった。アスキーと協議し、テスト稼動募集を二万人に増やすことにした。そしてさらに一〇日後、我々はあっさり二万人を達成してしまった。 ハイパーシステムは順調に稼動し始めた。後はこの会員数を売り物に広告を集めれば商売としても軌道に乗る。この勢いならば、企業が殺到するに違いない。 ぼくは成功を確信した。そしてその確信をさらに強くする出来事があった。米国で株式を公開しないか、という申し入れがあったのである。 ナスダック( NASDAQ)という言葉は、ハイテク分野で事業を興した者にとって、一種独特の響きを持って聞こえる。言わずと知れたこの米国店頭公開市場で、多くのハイテクベンチャーが公開を果たし、大企業への道を歩んでいった。ベンチャーの担い手にとって、アメリカンドリームの第一歩、それがナスダックなのだ。 しかしながら、日本のベンチャー企業にとってナスダックは遠い存在だった。九六年時点では、サワコー・コーポレーションという建築会社が日本での店頭公開後に登録だけ(新株発行はしていない)したのが、唯一の例だったと思う。ただし、日本のベンチャーに実力がないからどの会社も公開を果たしていない、というわけではおそらくない。大半の企業がナスダック公開は夢物語と勝手に決めつけているだけの話ではないだろうか。 いや、別に偉そうなことを言うつもりはない。ぼくもそうだったからである。 ハイパーネットには、 JAFCOをはじめ複数のベンチャーキャピタルが出資をしていた。もちろん日本での株式公開を見込んでの話である。これらベンチャーキャピタルや証券会社とは、 IMS事業に専念していた頃から、定期的に株式公開を目指した調整会議を開いていた。ハイパーシステム構想が現実しつつあった九六年春ごろには、資金調達の規模を考え、九九年以降を目標に国内での店頭公開を目指すようになっていた。 しかし、ナスダックにいきなり公開する、という発想は、かなり誇大妄想ぎみのぼくにも、そしてもちろん金融関係者の間にもまったくなかった。 話は突然やってきた。 ハイパーシステムのテスト稼動に成功した九六年四月以降、ぼくは外部のコンサルタントとしてこれはと思う複数のビジネスマンを招き、経営会議を毎週開いていた。ハイパーシステムを軸に、企業としてどう事業を展開すればよいのか、外の知恵を入れながら戦略を立てるのが目的である。 そのなかに、黒部光生さんがいた。 五月に入ったばかりだった。その日の経営会議の議題は、米国でのハイパーシステムの展開について。米国での事業展開には日本での事業以上に資金が必要だ。ところが日本での株式公開を世紀末に控える当社には、どう考えても余分な資金がなかった。けれども、ぼくは何とか米国でハイパーシステムを展開したかった。半年前の渡米経験で、日本以上に伸びる、と確信していたからだ。 とはいうものの、カネがなければ話にならない。会議は煮詰まった。そのときだ。黒部さんが突然、こう提案した。「板倉社長、この際、ナスダックに公開して資金調達してみませんか?」 最初ぼくは、彼が何を言っているのか理解できなかった。 ナスダックに公開するには、まず米国に法人を作り、実際に事業を展開し、実績を上げなければできないのではないか。その事業展開のカネがないという話を今しているんじゃないか。話の順番が逆ではないのか……。 ぼくは黒部さんに疑問をぶつけてみた。すると黒部さんの話は、どうやら根本の部分がまったく違うようだ。もしかすると──「黒部さん。要するに、日本の、このハイパーネットそのものを、いきなりナスダックに公開する、ということですか」。
ようやくわかったか、という顔で黒部さんはうなずいた。「もちろんです」 ぼくは、身震いしたのを覚えている。 何しろ黒部さんはあのソロモンブラザーズ・アジア証券のマネージングダイレクター、つまり日本で言えば取締役である。その天下のソロモン、米国大手証券会社の取締役が、他ならぬぼくに、ハイパーネットの米国公開を勧めているのである。公式の経営会議の席だ。もちろん冗談なんかじゃない。 論理的に考えれば、ハイパーネットのような歴史の浅い会社は、日本の店頭市場よりナスダックの方が公開を狙いやすい。過去の利益を公開条件にする日本市場に比べ、米国市場の場合は、極端な話、赤字のままでも公開して資金を調達できるからだ。 本来、資金調達というのは企業の成長のためにある。株式投資をする側にとっても、投資先の企業の過去の実績より、自分が投資してからの成長の方が重要なのはいうまでもない。 日本のベンチャー企業で、国内市場を飛び越え、いきなり米国で株式公開するのは、過去に例がない。もし実現すれば、ぼくは、日本企業の新しい歴史の幕開けを担うことになる。会議が終わってからも、ぼくは一人で妄想を膨らませていた。 ──おれが、日本企業のさきがけとなるのだ。 この日から、ぼくはナスダック公開という巨大な「幻想」にとらわれることになる。ただし、このときは決して「幻想」ではなかった。遠くない「現実」、のはずだった。 ハイパーネットの日本における店頭公開プロジェクトの主幹事証券会社は野村證券だった。ぼくは彼らの機嫌を損ねるのを恐れ、ソロモンとの間で密かに米国公開プロジェクトを進めることにした。野村がソロモンと対立するのは、得策ではない。ただし、いつまでも隠し通せる話ではないから、ぼくはタイミングを見計らって、黒部さんに、野村にこの話をどう伝えるべきか相談することにした。「まったく問題ないでしょう」、黒部さんの反応はあっさりしたものだった。「野村證券とも協力して、ナスダック公開を一刻も早く実現しましょう」 ソロモンがいいと言うならば……、ぼくはそれから数日後、国内公開に関する打ち合わせのために来社していた野村證券の公開引き受け部の担当者に、恐る恐る話してみた。担当者は三〇歳の紳士的な好青年である。ぼくに対しても礼儀を崩さない。やや誉め過ぎだが、俳優のジョン・ローン似だ。ちなみにこの男、後にナスダック公開担当者として野村證券を辞めて当社に入ることになる。 あからさまに非難されるかもしれないと思っていたぼくに、彼は意外な返事をした。「わかりました。一週間待ってください」 そう言うと野村の担当者は、その日長々と続く予定だった打ち合わせを中座して、そそくさと帰ってしまったのである。もしかしたら、愛想をつかれたのか。それとも……。 一週間後、担当者が再び来社した。ただし一人ではない。連れがいた。自己紹介を聞いてびっくりした。なんとその連れは例のサワコーのナスダック登録の担当者だったのである。しかもこの新顔は、いきなりナスダックの基礎条件について説明を始めた。ぼくにしてみれば、すでにソロモンとの打ち合わせを重ねていたので、知っていることばかりである。ぼくは彼の説明に割り込んだ。「ちょっといいですか。この前こちらには説明したんですが、うちはソロモンさんとナスダック公開の準備をもう進めているんです」「ええ、うかがっています。それで野村としてもぜひソロモンと組んで、御社の米国公開を果たしたい。そう考えています」 その後、野村とソロモンは平等の立場で、ハイパーネットのナスダック公開のアンダーライター(主幹事)をやるという覚え書きを交わし、当社のナスダック公開プロジェクトが始まった。 いまや、株式市場における日米最強コンビがハイパーネットの後ろ盾となったのだ。ぼくは成功を信じて疑わなくなった。 九六年六月一九日、ハイパーシステムは本格稼動を始めた。 本格稼動の意味するところは、つまり広告の料金を請求するということである。それまでのテスト期間には一〇〇を超える有名企業がハイパーシステムへの広告を出稿していたが、それはあくまで無料の「お試し」期間だったからに過ぎない。 テスト期間中に広告効果が上がったことを証明するデータはきちんと集まった。ここまでは見込み通りである。とはいっても、テストに参加してくれたクライアントがすべて実際に料金を支払って使ってくれるかどうかはわからない。 稼動から一カ月後、最初の広告売上が計上された。九六年七月、売り上げはわずか三百万円に過ぎなかった。クライアントは、テスト期間中に比べ、想像以上に減ってしまったのである。 ぼくは、しかしこの数字を見ても楽観的に考えていた。ハイパーシステムは世界で初めてのプッシュ型──特定のユーザーに特定の広告がどんどん送られてくる──インターネット広告システムである。浸透するにはある程度の時間を要するだろう。 その後、売上高は八月が一二〇〇万円、九月が三〇〇〇万円。伸び率はきわめてよかったが、絶対額が少ない。この程度の売り上げでは、米国公開はおろか、国内で事業を軌道に乗せること自体が大幅に遅れてしまう。当初楽観的だったぼくは、この頃からあせりを感じ始めていた。 後からわかったことだが、この時の売上高は、インターネット広告市場では非常に高い水準だった。当時うちと別の手段でインターネット広告を始めた YAHOOなど他のサービスがどれだけの収入を得ていたかは知る余地がない。が、九六年度のインターネット広告市場レポートを発表した電通からの非公式な情報では、この年およそ一六億円だった同市場のシェアナンバーワンは、なんとハイパーシステムだったというのである。とにかく絶対額は少なくなかった。というより、むしろ多かったのだ。 にもかかわらず、ぼくはこの実績に大いに不満を持っていた。しかも傲慢なことに、原因はハイパーネット側ではなく、クライアントの意識の低さだと思っていたのである。 事業計画上ではすでに億の単位の売り上げを上げていなければならなかった。ところが現実の売り上げはわずか月数千万円。予想と実態の落差は、そのままぼくの焦りにつながっていた。この焦りはそのまま、いまある売り上げに対する軽視を生んだ。これは現時点でカネを出してサービスを利用してくれるクライアントに対する軽視でもある。 ──あの野村とソロモンがアメリカで公開しましょうといってるんだぜ。天下御免のお墨付きだ。なのにこんなすばらしいシステムに参加しない企業がいるなんて。まったく信じられない。うちに広告出さないのは馬鹿としかいいようがないね。参加して広告を出すのが当たり前なのに。え、そう思うだろ。 当時、部下を連れて飲みにいくと、ぼくはこんなことばかり言っていた。うちのシステムに賛同してわざわざ広告を出してくれている企業に対する感謝の念はほとんどなかった。 ぼくは、自分が「だぶだぶの高級スーツ」を着ていたことを、すっかり忘れていた。ぼくの自意識は肥大し、もはやその「スーツ」をやぶらんばかりだったのだ。 しかも、米国からはぼくをさらに増長させるような話が舞い込んできた。 九六年夏、勤めていた会社を辞め、海外担当役員となったあの夏野から吉報が入った。
何と米国第二位のパソコン通信会社コンピュサーブのインターネット接続部門である SPRYと契約ができたというのである。契約といっても、 LOI( Letter of Intent)という、日本で言えば覚え書に相当するものだが、これも法的拘束力のある立派な契約書である。 当社は米国での展開のためにビジネスワイヤーを使ってハイパーシステムを米国で発表していたが、この発表は、米国に限らず、カナダ、メキシコ、イギリス、東南アジアの国々とありとあらゆる国の企業から提携の打診があったほどの効果があった。米国の新聞記事にはハイパーシステムの図まで入った記事がいくつも掲載され、記者会見などやっていないのに、日本以上にメディアに紹介された。さすがデジタル先進国である。コンピュサーブとの LOIは、その効果の現われだった。 これで米国でも大量のユーザーを確保できる──。ぼくは直ちに当社の技術陣をコンピュサーブに送り、接続のための打ち合わせを開始した。さらにこの頃、米国進出を考えてすでに設立を済ませてあったハイパーネット USAの営業体制を強化する指示を出した。 米国でもハイパーシステムは評価された。ぼくはもう鼻高々であった。このままいくと、日本より米国の売り上げの方が大きくなってしまうかもしれないな。とにかくはやいところ、クライアントをつかまえなきゃ。まずは米国の広告代理店を開拓しよう──。日本の市場も固まらないうちから、ぼくは海の向こうでの成功を信じきっていた。 企業というのは、こうした経営の脇の甘さから簡単に崩壊するものだ。今では、ぼくにもそれがはっきり分かる。やれナスダック公開だ、米国進出だと浮かれていたのとちょうど同じ頃、ハイパーネットの経営には早くも暗い影が立ち込め始めていたのだ。 もっとも、それが暗い影であることに気づいたのは、会社がつぶれてからだったのだが。 話は多少前後する。最初はヒトの問題だった。 ハイパーシステムをきっかけに、ぼくは海外、とりわけ米国での事業展開を強く意識していた。 が、問題は事業展開のスピードである。特にハイパーシステムのようなインターネット分野のビジネスでは、このスピードが大きな意味を持つ。少しでももたつけばすぐにライバルが同じようなビジネスを展開し、あっという間に市場を奪われるかもしれない。ぼくは限界までスピードを追求した。当初一〇月予定だったハイパーシステムの開始時期を六カ月も早い四月に繰り上げたのもまさにそのためである。 さらにインターネット先進国、米国の市場でハイパーシステムを展開するには、当然、よりいっそうのスピードが要求される。そうなると、やはり米国市場を専門に扱う新たな組織が必要となる。 九六年の春頃から、当社の経営会議では、誰が米国市場担当となって、組織を率いていくかがしばしば議題となった。考え方は二つ。ぼくが日本を誰かに任せて米国に専念する。もしくは、ぼくに変わる誰かを採用して米国を担当させる。 ソロモンブラザーズの黒部さんは、ぼく自身が米国に渡り、ハイパーシステムを展開するべきだと主張した。経営者が専任するくらいじゃなければ米国での公開はおぼつかない、と言いたかったのだろう。説得力のある意見だった。一方でハイパーネットの役員たちは強硬に反対した。日本はどうなるのか、というわけである。「社長、まだ日本の売り上げだってちゃんと立ってないんですよ。いま、ここで社長が離れるのは絶対にまずいです」、彼らの意見も正論である。ぼくは迷った。 結局、ぼくは新たに米国担当者を採用することに決定した。やはり日本が心配だったのだ。そこで思い出したのが、あの夏野である。九五年の終わりから、彼はこの事業に興味を示し、無給で渡米して調査をしたり、企画会議に参加していた。 ぼくは東京ガスに勤めていた彼に率直に「うちに来て欲しい」と話した。しばらくの説得の後、ぼくは彼を取締役副社長に据えることを条件に加えた。米国での活動をする上で、「 Executive Vice President」というタイトルは必要だったのである。もちろん、半年以上にわたってハイパーネットの外部コンサルタントの一人として本業の合間に経営に参加していた彼には、それだけの大仕事をこなせるだけの力があるようにぼくには思えた。「板倉さん、ぼくはそんな器じゃないです」、夏野にこの話を持ち掛けると、最初はこう言って辞退しようとした。今までどおり、コンサルタントとしての関係を希望していたのだ。しかし米国のビジネスを担当させる以上、彼の立場が外部のままでは都合が悪かった。「夏野君、君しかいないんだよ。頼む、うちの役員になってくれ」 最終的に彼は承諾した。七月、彼は会社を辞め、取締役副社長、海外担当重役という肩書きで、米国を舞台に仕事をしてもらうことになった。 今まで、ハイパーネットの短い歴史の中で、外部から入社していきなり取締役になった者はいない。一番最近取締役になったのは筒井だが、彼にしても社員として最低一年は仕事をしてから、役員に上がった。 けれどもこのときのぼくは経営のスピードを第一に考えていた。もはやそんなのんびりしたことはやっていられなかった。ぼくは、躊躇せず思い切った人事を社内に発表した。夏野は予定通り、取締役副社長、海外担当に就任。一方、筒井を取締役副社長、技術担当に昇格した。上下関係をつけず、担当分野で住み分けようという考えである。筒井も特に異存はないようだった。 問題は、その直後に起きた。 この人事に対し、多いに不満を感じている人間がいたのだ。中山である。 ハイパーシステムの事業部長として九五年末に入社し、これまでのハイパーシステムの驚異的なスタートアップを仕切ってきたのが彼だった。新聞や雑誌など様々な取材にもぼくに代わって的確な対応をしてきたのも彼だった。 不満が出ないわけがなかった。夏野も中山もそれぞれ米国での MBA取得者であり、日本での学歴、職歴もひけをとらない。年齢もほぼ同年代だ。しかも夏野はまだ何の仕事もしていないのに対し、中山はすでに当社に来て半年、ハイパーシステムの立ち上げという重大任務で大きな功績を上げていた。にもかかわらず、今回の人事は、実績のある中山をかたちの上では飛び越すものだった。 中山は、ぼくにはっきり言った。「このままでは納得がいきません。実績のまったくない夏野さんの抜擢は、感情的な部分を除いても、ぼくは反対です」 中山の言うことは確かに正論だった。ぼくはなんとか中山を説得しようと試みた。彼は重要なスタッフだ。ハイパーシステムの展開には欠かせぬ人材である。ここでいなくなられては困る。「中山、これはあくまで米国進出を狙った上での人事だ。君に対する評価とは何の関係もない」「そういう問題じゃないんです」、中山は納得しなかった。「板倉さん、どうもわかってもらえそうにないですね」 ねじれた感情は元には戻らなかった。彼は辞表を提出した。そして最後にこういった。「ぼくは夏野さんに対して嫉妬しているのではない。ぼくは板倉さん、あなたに嫉妬しているんだ。たとえば仕事でハイパーシステムの説明をする。そうすると、どこへ行っても、すばらしい、誰が考えたのかと質問される。その度にぼくはあなたに嫉妬した」 規模の小さなベンチャー企業の場合、たった一人の社員の存在が大きな意味を持つことがある。だからこそ、優秀な人材に逃げられるのは、経営者として最大の失態の一つだ。そして、ぼくはその失態を犯してしまった。中山は社内で数少ないぼくに苦言を呈することのできる男だった。しかしもう遅かった。九六年八月のことである。
しかも、同じ頃、ある意味でもっと大きな問題が外部で生じていた。 あの浜田さんが、突然アスキーを辞めてしまったのだ。 アスキーがハイパーシステムを利用する最初のプロバイダーになった最大の理由は、同社に浜田さんがいたからである。 何度も書くが、ぼくが二〇歳のとき最初の会社を起業したときも浜田さんが仕事をくれた。ハイパーネットを設立するときのよきアドバイザーでもあった。こう言ったら失礼かもしれないが、一五歳も年上の浜田さんを、ぼくは勝手に友達だと思っている。友達と先輩の中間というところだろうか。尊敬できる親戚のおじさんのような存在だ。趣味もぼくと同じく車だった。仕事の話よりも車の話をしている時間の方が多かった。 ぼくが浜田さんを好きな理由はいくつもあるが、仕事の面でいうと、ぼくのような〝小僧〟の言うことをまじめに聞いてくれること、ぼくのような〝非社会的〟なキャラクターをむしろベンチャービジネスをする上での有利な条件だと思ってくれていること、この二つの点が大きかった。 いずれにせよ、ぼくはいつも彼に元気づけられてきた。アスキーとのプロバイダー契約も浜田さんがいたから実現した。ぼくはアスキーと仕事をすることには躊躇していたが、浜田さんが担当してくれるならば、まったく問題なかった。しかし、そんな甘えがぼくを油断させたのだろう。ぼくは九六年に入って結んだアスキーとの契約で大きなミスを犯してしまった。 ハイパーシステムの運営事業主体としての当社と、そのアーキテクチャーを利用してプロバイダー事業を行うアスキーとの間の契約。これは六カ月間の独占契約だった。ここまでは問題なかった。 ミスを犯したのは、次の契約である。すなわち、ハイパーネットはアスキーに対して利用者の接続時間一分につき八・三三円を支払う。 これは、ハイパーネットにとって大変なリスクである。うちの広告収入がどうであれ、アスキーに対して固定的に支払いが発生するのだ。そこで、三カ月に一度、この単位料金の見直しを行うこと、アスキーが獲得するユーザー数に当社が制限を加えられること、以上二つを契約の付帯条件としておいた。が、ハイパーネットが一方的に事業リスクを抱え込んでいる現実に変わりはない。 それでも、ぼくはアスキーの窓口が浜田さんであることで、勝手に安心していた。 この契約は確かにうちのリスクが大きい。でも、ハイパーシステムの広告収入が思うように伸びなければ、単位料金を下げてもらえばいいだけだ。それに広告収入が大きく伸びれば、今度はうちにとって非常に有利になる。どんなに広告収入が増えても、アスキーに対する支払いは一定だからだ。だいたい向こうには浜田さんがいる。大丈夫だ。 しかし六月、前触れもなく、突然浜田さんがアスキーを辞めた。 何があったのかは分からない。アスキーでは有力な役員や幹部社員が飛び出すのが珍しくない。ぼくもときどき冗談で、そしてちょっぴり本気で、「浜田さん、辞めないで下さいよね」と聞いたものだ。「辞めないから安心しろ」と彼は笑っていた。 冗談は現実になった。 そしてそのときはじめて気がついた。おれはアスキーではなく、浜田さんその人と仕事していたんだ。企業ではなく、個人と仕事をしていたんだ──。 けれども実際の契約は、ぼくと浜田さんの間で取りかわしていたわけでは、もちろんない。あくまでハイパーネットとアスキーが契約していたのである。 浜田さんがアスキーを去った六月はちょうど契約を見直す三カ月目だった。 我々はそれまでにユーザーの接続状況を分析して、いくつかの傾向をつかんでいた。中でも注目したのは、直接収益に影響するユーザーの接続時間の「偏差」である。 調査結果は驚くべき事実を示していた。 ユーザー全体では一カ月間の平均接続時間はおよそ一七〇分ほどあったが、それはあくまで平均である。その偏差を見ると、月に六〇〇分以上接続する全体の五%のユーザーと、わずか一〇〇分未満の九〇%のユーザーによる平均値だったのである。 つまり、ほとんどのユーザーは一〇〇分以下の接続であり、わずか五%のヘビーユーザーのために平均接続時間が伸びているのである。一方、当初の契約では、誰が何分接続しても一分八・三三円である。 これは非常に困ったことである。なぜなら広告媒体としてみた場合、ある特定のユーザーが長時間接続しても、一人は一人である。接続時間は関係ない。だからあるクライアントの広告を表示する広告料金はたとえそのユーザーがどんなに長時間接続していても一人分しか徴収できない。ところが、ハイパーネットがアスキーへ支払う料金は、分刻みで値段を設定しているから接続時間の多いユーザーの分が多くなる。 まずこの部分から見直さなければならなかった。しかも、当初の広告収入は事業計画を大きく下回っていた。となれば、基本料金である八・三三円も見直す必要がある。 そこで、我々は新たな条件を提示した。まず基本料金を一分三円に、そして、ユーザー一人当たり月間三〇〇分までの料金しか支払わないという条件を付加する。以上が新たな契約の内容である。 新たな契約では、もしあるユーザーが三〇〇分以上接続しても、三〇〇分までの料金しか支払わないし、逆に三〇〇分未満の接続であれば、その接続時間分しか支払わない。これならば、広告媒体としての価値(つまり会員数)と経費(アスキーへの支払い)のバランスはとれるはずだった。 とりあえず、契約の件は片付いた。だが、今後浜田さんのいないアスキーとハイパーネットはうまくやっていけるだろうか。ぼくのこの不安は、裏を返せばアスキーの不安でもあったに違いない。 そして両者の不安は、やがて不信という言葉に置き換わることになる。 トラブルはこれで終わったわけではなかった。今度は IMSで事故が起きたのである。 ぼくはしばらくの間、 IMS事業にあまりかかわっていなかった。が、 IMSは順調に受注を伸ばしていた。ハイパーシステムがマスコミに注目された相乗効果もあって、顧客数が右肩上がりに伸びていたのだ。ぼくの仕事といえば、営業面やシステム稼動の面でトラブルが発生したときのクレーム処理くらいしかなかった。本音を言えば、ハイパーシステムがらみの仕事の忙しさにかまけていたのである。経営者として IMSに目が行き届いていなかった。 事故は、そんなときに起きた。「すみません、社長」 ある日、ぼくのもとに報告に来た IMS営業マネジャーが泣きついてきた。「代理店さんとトラブルです」 仕事上の細かなトラブルだったら昔から慣れっこだ。ぼくは聞いた。「え、どんなトラブルだ。いいからいってみろ」「いや、まあこっちのミスなんですが」「そりゃそうだろ。で、要はどことトラブったんだ?」「そ、それが、……電通です」「なに?」
電通、と聞いてさすがに声が裏返った。一体何をしでかしたんだ? 担当者の話をじっくり聞くと、事故のあらましはこんな内容だった。 IMSは、前にも説明したように、新聞や雑誌に掲載された企業の懸賞広告やキャンペーン広告に消費者が電話で応募できるシステムである。当然、広告には電話番号が記載されている。そして、その番号はうちで保有する大量の電話番号のひとつを任意に選び出したものだ。当然、その番号に間違いがあったら、大変なことになる。懸賞やキャンペーンが成り立たなくなるのだ。 今回のミスはまさにこれだった。うちの担当者が、取引のある電通の子会社、電通ワンダーマンダイレクト(電通ワンダーマンケイトージョンソン)に間違った電話番号を伝えてしまっていたのである。その番号は、すでに他のキャンペーンで使われていたのだ。 不幸中の幸いというべきか、この事故は、実際に広告が新聞・雑誌に載る前に発見されたので、実質的な被害は発生しなかったようだ。 しかし電通グループは怒り心頭だった。間違いを見つけたのがうちの担当者ではなく、向こうの人間だったというのもまずかった。そして、どうやら相手は、一〇〇万円の慰謝料を請求する、というところまで話がねじれていたのである。 ぼくは首を縦に振らなかった。何しろ実害がどこにも発生していなかったのである。 IMSはこれ以外にも多くのトラブルを起こしていたが、こちらに非があって、かつ実害が発生した場合には、すぐさまクライアントの要求する賠償を受け入れていた。実際 IMSの年間売上高のうちの数%が、この手の賠償やそれに準ずる値引きによって失われていた。 ところが今回は実害が発生する前の失敗である。ぼくは営業に誠意を持って謝り、始末書を書き、具体的な再発防止の対処法をもって先方をなんとかなだめるように指示した。 最初、先方の態度は変化しなかったが、ぼくは営業に指示を出し、電通ワンダーマンはもちろん電通本体にまで謝罪にいかせた。その結果、慰謝料の件は何とか矛を収めてもらった。が、それからである。電通ワンダーマンからの IMSの受注は激減し三カ月とたたずにゼロになってしまった。素直に謝罪しない取引先には仕事を出さないということだろうか、とぼくは思った。最初の非は確かにこちらにあったが、釈然としない気分だった。 ただ、後日この件に関して、知人に相談したところ、とにかく目の前の理屈よりも先に慰謝料を払ったほうが、ビジネス上は得策だと諭された。確かにそのアドバイスは正しいと今では思う。しかし、このときのぼくは、本当にそれでいいのだろうかと、かなり憤慨していた。 ハイパーネットは、広告代理店の単なる下請ではない。世界に存在を示せるようなベンチャービジネスをこれから展開していこうというのだ。こんなところで目先の利益のために納得のいかないおカネは払いたくない──。すでにハイパーシステムの事業展開と、ナスダック公開を見据えた米国進出、この二つにすっかり頭が占領されていたぼくは、そう思っていた。 まったく愚かな話である。本当の経営者ならば、数年間かけて育ててきた IMSをもっと大切に扱うはずだ。ビジネスの社会で、その場その場の取引が理不尽かどうかは必ずしも問題ではない。問題は結果なのだ。ぼくは、自分の論理とプライドと引き換えに、大事な客を失ってしまったのだ。これはなによりの損失だった。 でも、このときはそうは考えていなかった。 ぼくは、もはやハイパーシステムと米国進出という言葉に完全に溺れていたのである。そんなとき、冷水を浴びせかけるような最大のトラブルがぼくを襲った。 ついにハイパーシステム本体で事故が起きたのだ。 そもそもの原因は、当社がシステム開発を委託していた会社に仕事を急がせすぎたことにあった。前述の通りスタート時期を早めたからだが、その結果、システムには細かな欠陥がいくつも残っていたのだ。 実はテストサービスから常にトラブルが発生していた。が、それまでは些細なものであったためそれほど問題にならなかった。しかし今回は違う。何といっても広告の履歴データが出力できないのである。 ハイパーシステムは、ユーザーの属性にあわせて広告を送り出すのが特徴である。その広告効果を正確に測るには、何人のユーザーに、いつ、どの広告を何回表示して、その結果、何人が実際にその広告画面をクリックして、クライアントの提供するホームページにアクセスしたのかという詳細な履歴データが必要となる。そしてこの顧客の履歴データの存在こそが、クライアントがハイパーシステムを使って広告を出す「意義」なのだ。このデータがクライアントにとってあらゆるマーケティングの材料となるからである。逆にいえば、この履歴データが何らかの理由で出力できないとすれば、クライアントにとってハイパーシステムに広告を出す意味はない。 九六年九月、ハイパーシステムにとってその最悪の事態が表面化した。システムのトラブルで、各広告の履歴データが一切出力できなくなったのである。 ちょうど毎月広告収入が伸びていた時期だった。すでにクライアントの多くが継続的に毎月一定額の広告を出してくれた。そしてハイパーネットでは、このように継続的に毎月広告を出してくれるクライアントの数を徐々に積み上げていくことで、効率的に売り上げを伸ばしていこうと考えていた。その意味では、彼ら「継続クライアント」は大切な上顧客であった。しかも一方ではナスダック公開の話が進んでいた。ハイパーシステムの真価を問われる大切な時期なのである。 事故はよりにもよってそんなときに起きたのである。 広告の効果が測定できないとわかると、広告を継続してくれる予定だったクライアントのほとんどが、広告を出す意味がない、と一〇月からの広告を見合わせた。 もはや売り上げの絶対額が小さすぎるなどと贅沢なことをいっている場合ではなかった。ハイパーシステムの売り上げそのものがほとんど無くなってしまったのである。事態は緊急を要した。ぼくは社内スタッフと協力会社の尻をたたき、システムの改善を促した。 システムは二週間ほどで復旧した。だが一度失ったクライアントの信頼を取り戻すのは簡単ではなかった。しかもこうしたシステム・トラブルは、九七年に入ってもなお、頻繁に起きたのである。 それにしても、九六年の春から秋にかけての自分と自分の会社を振り返ってみると、改めて思う。「こんな実状でよく米国公開などと口にできたものだ」と。 幹部社員は逃げ出す。提携先の重要人物が辞めてしまう。それまでの基幹事業はトラブルで大事な客を失う。おまけに肝心のハイパーシステムまで事故が起きて、売り上げが落ちる。これだけ並べると、株式公開を予定している会社にはとても見えない。知らない人が聞けば、つぶれかかった会社の話だと思うかもしれない。 しかしトラブル連発だったにもかかわらず、ぼくはこのとき自分の会社が米国で成功することを確信しきっていた。いや、ぼくだけじゃない。周りに集まった多くの名だたる企業が、少なくともこの時点では、ぼくと同じ判断を下していたのである。 それは、ハイパーシステムがトラブルに巻き込まれていた真っ最中の九六年秋、何度となく開かれたナスダック公開プロジェクト会議に集まった面々を眺めればよくわかる。
出席者は、野村證券、ソロモンブラザース、当社の弁護士事務所である米国のピルズベリー、アンダーライター側の弁護士事務所であるシンプソンサッチャー、会計監査をするプライスウォーターハウス、ハイパーネット USAの社長であるジェイ、それにわれわれ経営陣と社内の公開プロジェクトチーム。以上総勢二〇名ほどの錚々たるメンバーが毎回白熱した会議を繰り返していたのだ。 すべてのスタッフがそろう会議は決まって野村證券渋谷支店の大会議室を使って行われた。その部屋は多分一〇〇人ぐらいの講習ができるほどの大きさで、一番奥には黒板と一段高い演台が用意されていた。そこを二〇人ほどで贅沢に使っていたわけだ。 簡単な折りたたみテーブルが、縦横一〇メートルぐらいに「コ」の字に並べられ、片側に野村證券とソロモンブラザーズのスタッフ、そしてその反対側にはそれぞれの弁護士事務所のスタッフ。多分この会議に弁護士は五、六人参加していただろう。両者の真中の列にはぼくを中心にわれわれハイパーネットの役員と公開プロジェクトスタッフ。その他の野村證券渋谷支店のスタッフは遠慮してだろうか、「コ」の字型に置いたテーブルの外側の折りたたみ椅子に座っていた。 学生時代、一〇〇〇人の観客の前でコンサートをしていたときも、二〇〇人の広告代理店関係者のまえでマーケティングの講演をするときも、六本木できれいなお姉さんを六人同時に相手しているときも、物怖じすることのないぼくだが、この会議の時ばかりは毎回緊張した。自分とハイパーネットの将来を大きく左右する創業以来の大プロジェクトだったせいかもしれない。 うまく公開できればハイパーネットは数十億円のキャッシュを確保できる。ぼく個人も一晩で計算上は億万長者だ。それになんといっても、日本の企業史に残る「日本初、ナスダック公開をハイパーネットが果たす!」という名誉を手に入れられる。 ところが会議はすべて英語である。米国のナスダックが相手だけに、集まったメンバーも米国人が中心だ。当然の話だが、これには参った。 ぼくは、この会議を何回かこなすうちに、英語に対する苦手意識が非常に強くなった。もともと英語のヒアリングはなんとかできたし、文法はでたらめだが、ビジネスの領域でも相手にきちんと意志を伝えられた。一般的な日本人からすれば、むしろ「英語のできる」ほうかもしれない。自分でもそう思っていた。 ところがこの公開準備会議では、難しい財務的な単語や、非常にフォーマルな英語の言い回しなどが次々と出てくる。日本人もいれば、ネイティブアメリカンもいる。会議で交わされる英語はぼくにとって速度も内容も理解を超えていた。 幸いにもぼくを助けてくれる当社の優秀な役員がいたので会議の方はそれでもなんとかなった。でも、米国での公開にあたっては、ぼく自身が英語を使わねばならない〝舞台〟に立つ必要があった。〝ロードショー〟である。 映画のロードショーのことではない。ナスダック公開前に全米およびヨーロッパなど二〇カ所以上の都市で、投資家向けにプレゼンを行うのだ。連日の会議で英語に対する苦手意識が染みついてしまったぼくにとって、できれば避けたい仕事であったが、社内外の誰もがそれを許さなかった。口をそろえて「板倉さんの英語力なら大丈夫」、そういうのである。 もちろんぼくは彼らの言葉をストレートに受け取ってはいなかった。英語は下手だけど代表者自らしゃべるというのが、投資家にアピールする上で必要だということなのである。そんなことはわかっている。それでも大変な仕事に変わりはない。 ただ、基本的に目立ちたがりのぼくは、表向きは嫌がりつつも、心のどこかでこの大仕事をクールに決めてやろう、と思っていた。「ロードショー」の話が会議に出て以来、ぼくは自宅で犬を相手に毎日「フォーム F― 1」という公開目論見書(プロスペクタス)を暗記して、演説の練習をした。うちのゴールデンレトリバーもまさか下手な英語で株式公開の説明を受けるとは思ってもみなかっただろう。 このように、ナスダックの公開準備会議は毎日のように開かれ、事務作業も着々と進んでいった。会計監査のためにプライスウォーターハウスからは数人の会計士が当社に机を置き、当社の管理部門の何人かは公開準備室なる新たに借りたフロアーにて連日遅くまで仕事をしていた。特別なトラブルが起きない限り、ナスダック公開までは時間の問題であった。 ハイパーネットは公開時に数十億円の資金調達をする予定だった。この資金によって当社は財務体質を改善するつもりだった。銀行からの融資など間接金融に頼り切りだったのを直接金融による自己資本に切り替えるわけだ。システムトラブルに加え、国内のインターネット広告市場がなかなか拡大しないがために、ハイパーシステムの実績は当初の計画よりもずいぶんと下回っていたが、事業を開始してわずか数カ月だ。ぼくからすれば、これからいくらでも対策を打ってそれを改善することは可能に見えたし、なによりハイパーシステム自身の外部評価は依然として高かった。 ぼくも社内のスタッフも、そして周囲の企業も、ナスダック初公開という刺激的なプロジェクトに参加することで完全に舞い上がっていた。 もっともぼくも浮かれてばかりいたわけではない。海外進出をするにあたって、新たにスタッフを増強する必要があった。中でも、財務関連の取締役の採用は、ナスダック公開を実現する上で必須課題である。つまり CFO(チーフ・フィナンシャル・オフィサー =財務担当役員)の設置だ。 CFOになるべき人物に求められる条件は、まず日本と米国の両方の会計に明るいこと。当然英語も堪能であること。しかもできれば米国でのビジネス経験がほしい。九月頃、連日の会議で CFO候補の条件を議論しているときに、ぼくは一人の男を思い出した。 その条件にぴったりの人間がいる。森下賢二だ。 彼はぼくの飲み友達だ。公認会計士で、同時に米国の CPA(サーティファイド・パブリック・アカウンタント =米国の公認会計士)でもある。大手監査法人で会計士をやり、ロサンゼルスの系列監査法人でも三年勤めた経験がある。まさに今回の採用のためにしつらえたような経歴の持ち主だった。 ぼくより二歳年上の森下は、ころりとした体型の見てからにおっとりした性格の温和な男だった。中学、高校を開成で過ごし、なぜか東大にいかずに慶応大学に入学。その後公認会計士の資格を取ったという。いかにも東京のお坊ちゃんで、人を押しのけようといった野心のようなものがまったく感じられないタイプである。 ぼくはすぐさま彼に連絡を取った。確か自分でコンサルティング会社を起こしているはずだ。 彼はその会社のクライアントであるデジタル衛星放送の番組製作会社の取締役に就任していた。しかも就任直後だというではないか。何ともタイミングが悪かった。 それでもめげずにぼくは森下を口説いた。何度か交渉する中で、彼が最終的に当社への移籍を決めたのは、やはりハイパーシステムの概要をプレゼンしたときだった。データベース・マーケティングの重要性がわかっていた森下はこの事業の発展性を見抜き、当社への移籍を決意したのである。 ぼくは彼を口説くときに、女性を口説くときと同じテクニックを使った。すなわち、「口説けたこと」を前提に話をどんどん先に進め、相手に納得させてしまうのである。そう、こんな具合だ。「それじゃあ、公開プロジェクトの担当者は森下さんが決めればいいよ」「あははは、板倉さんは強引だから。話がもう先に進んでるよ」「それから、自分が CFOなんだから自分の報酬は自分で決めなくちゃ」「え? あ、なるほどね」「ところで、ハイパーネット USAの取締役にもなってもらった方が、後の仕事はやりやすいよね」「確かにね」
「そうだ、部下にどんな人が必要かなあ」「まあ、幹部に会ってみてからだよね」「じゃあ、とりあえずうちの部長連中と話してみてよ。そうだ、部長の一人からハイパーシステムのプレゼンをしてもらってださいよ」「うんうん」「とにかく公開したら役員みんながタックスヘブン(税金天国)に別荘なんか持ってさあ」「いいねえ」「あっ、机は財務部門の一番奥にあいてるところがあったでしょ。あそこでいいよね」「うん、いいですよ」──といった具合である。 森下は九月中に正式に CFOになった。そして同時にナスダック公開プロジェクトの責任者にも就任した。すでに紹介した公開プロジェクト会議にも、実はこの森下がすべて参加していたのだ。 またしてもトラブルだ。 九六年一〇月。ぼくがデスクで電子メールの処理をしているとき、夏野が部屋に入ってきた。「今、いいですか?」 ぼくに話しかけているのではない。部屋の入口横のデスクにいる秘書に確認しているのである。夏野は悪い知らせを伝えるとき、いつもこうする。いい知らせのときは、秘書を飛び越してぼくの目の前にどかどかとやってくる。気づいていたが、知らない振りをしてパソコンに向かっていた。「社長、いいですか」 いつもならば、満面に笑顔を浮かべて、なかなか用件を言おうとしないのに、わざわざぼくに確認をしている。表情が暗い。ぼくは平静を装って、顔を上げた。「なに?」「いやね、コンピュサーブが断ってきたんですよ」「はっ?」「あのー、 LOIをキャンセルしたいって」 会話はあっけなかった。夏野がここまで率直に話すということは、すでにそれなりの対処をしたということだ。いまさら騒いでも状況は好転しない。 わずか二カ月前に交わした LOIを、コンピュサーブがなぜ一方的に破棄したいと伝えてきたのか。ぼくは理由を知りたかった。しかし、夏野によれば、先方はこちらが納得するような理由を明確に示さずに、解約を主張するだけだという。 当社はすでにハイパーネット USAに相当の投資をしていた。社員数はこの時点でおよそ二〇人に達していたし、米国の大手広告代理店との代理店契約も進んでいた。更にハイパーネット USAとして用意する必要があるデータベースセンターの準備も着々と進行していた。すでにサイは振られたのである。 態度を変えない先方に対し、我々は米国での訴訟を検討した。 LOIといえども、細かいところまでつめた数字を交えた文書に基づく契約である。当然法の下で損害賠償や契約違反について争う用意はあった。 けれども、我々が経営会議で最終的に下した判断は、「泣き寝入り」だった。この件について訴訟するには大変な費用と時間がかかるし、それ以上にまだ米国での実績が何もない当社のような企業がコンピュサーブを相手取って訴訟を起こしたとあっては、その後の米国展開にマイナスに働くと判断したのだ。 悔しいがしょうがない。ぼくたちは次の相手を探すことにした。当時はこのコンピュサーブ以外にもいくつかの米国のプロバイダーからラブコールがあった。だったら、裁判ざたで時間をつぶすより手っ取り早く次の相手を選定した方がよい。ところが、新しい「結婚相手」はなかなか決まらない。いずれのプロバイダーも固定支払いを求めてきていたからである。米国は日本ほどネットワーク運営コストが高くないからプロバイダーが求める金額も相対的に安い。それでも、支払いを固定するのは非常に危険だった。 あるプロバイダーはユーザー一人当たりにつき月に七ドルの要求をしてきた。確かに計画通りの広告収入が達成できれば、このくらいは支払える。しかし、ユーザー数ばかりが増え、広告収入がそれに見合わなかった場合、当社の支払いが増えるばかりだ。事実、日本ではトラブルのせいもあって、広告収入が当初の予定を大幅に下回っていた。 結局、我々は、自前でプロバイダー業務をこなすことに決めた。 調査の結果、米国では、インフラを持たなくてもプロバイダー業務を始められることがわかったからである。 米国のプロバイダーの多くは、自前では通信設備を持っていない。代わりに大手のキャリア(日本でいうと NTTや DDIといった通信インフラを持った企業のこと)から設備を借用してプロバイダー業務をこなしているのだ。キャリアと契約すれば、メールサーバーやユーザー認証のためのサーバーを設置してインターネットへのゲートウェイを設けるだけで、プロバイダー事業ができる。 これが日本の場合だと、プロバイダー業務を始めるには、はるかに手間とカネがかかる。自前のモデムやサーバーなどの設備を自前の不動産に設置し、さらに全国各地にアクセスポイント用の不動産を確保してそこにモデムなどの設備を置かなければ事業はスタートできないからだ。 米国でのプロバイダー事業は、設備産業というよりユーザー獲得やユーザーサポートを中心にしたマーケティング・ビジネスなのである。 問題はどの程度のコストがかかるかだが、これも予想をはるかに下回った。パシフィックベルからの提示金額は、ユーザー一人当たりわずか月間二ドルである。これならばユーザー獲得のためのマーケティング費用やユーザーサポートのための費用を考えても、既存のプロバイダーに支払うメディアフィーよりもかなり安くできる。それに第三者が絡まないから、広告収入が期待通りでなかった場合には、ユーザーの増加を制限することによって収支をコントロールできる利点もあった。 ぼくは、夏野に自前でプロバイダー事業を始めるよう指示した。いよいよハイパーシステムの米国進出だ。後は、広告収入を確保できるかどうかである。 当社では、ニューヨークの広告業界の街、マジソンアベニューにオフィスを拡張し、営業を開始した。スタッフには、グレイ・コミュニケーション、 JWトンプソンといった大手広告代理店からヘッドハンティングした優秀な人材が揃っており、彼らが代理店契約に走った。数週間後、彼らから日本に寄せられたレポートの内容は、ぼくに大いなる自信をもたらした。 この時点で、ハイパーシステムはまだ動き出していない。当然ユーザー一人もいない。にもかかわらず、次々と広告の依頼があったのである。しかも、 P& G、ユナイテッド航空、アメリカン航空、ゼネラルモータースなど誰もが知っているような大企業が五〇社ちかくもアプローチしてきたというのだ。それだけではない。ホームページでショッピングサイトを持っている小さなベンチャー企業からも受注があった。 ナスダックはもう間近だ。ぼくは思った。 その思い込みに拍車をかける出来事が起きた。 舞台は、東京は渋谷区・笹塚、甲州街道沿いのビルにオフィスを持つ米国企業の応接室。
この企業、名をマイクロソフトという。 九六年一二月某日、ぼくはパソコン販売大手、ソフマップの鈴木慶社長に連れられて、マイクロソフト日本法人本社へと向かった。同社の成毛真社長と面会するためである。 鈴木社長は、 YEO( Young Entrepreneur Organization)という若手起業家の会での知り合いだ。その鈴木社長のところに、一週間前ハイパーシステムの広告クライアントになってもらおうと訪問したとき、「板倉さん、来週成毛さんに会うから一緒にこないか」と誘われたわけである。 鈴木社長の来社目的は、ソフマップの子会社、ソフマップフューチャーデザインの新作ソフト「クオービス」のデモンストレーションだった。これはアプリケーションソフトを開発するための優れものツールである。子供のブロックおもちゃのように、あらかじめ用意されたソフトウエアの部品をつなげるとアプリケーションが出来上がってしまう。 クオービスの目玉はその動作速度にある。通常のソフトウエアは、おおざっぱに言うと板を積み重ねたような階層構造で成り立っているため、その規模が大きくなればなるほど、動作が遅くなる。ところが、クオービスで開発したソフトは、ブロック状の「部品」を階層構造をつくらずに横につなげたような形で成り立っているため、いくらその規模を大きくしても動作速度は低下しないのである。 成毛社長を前に、鈴木さんはパソコンのディスプレイ上にクオービスでつくった地図ソフトを開き、ぐいぐいとスクロールさせてみせた。何のストレスもなく地図の画面はどんどん動いていく。 実はぼくはこのクオービスを鈴木さんのオフィスで何度も見ていた。そのため横でやることもなく、彼の説明をぼんやり聞いていた。突然、成毛社長はぼくに話を振ってきた。「それで、板倉さんのほうは? なんか面白いことやってるんだよね、最近」 どうやら成毛社長はぼくの新規事業の情報をすでに入手しているようである。「ええ、その件もちょっと話したくて、鈴木さんにくっついてきました。今度開発したハイパーシステムというインターネットを利用した広告システムのプレゼンをさせていただければと……」「ずいぶん評判だね」 そう言って、成毛社長は、ぼくに話をするよう促した。ぼくは、すぐにハイパーシステムの基本的な特徴を丁寧に平明に説明し、持ち込んだノートパソコンで実際にサービス画面を披露した。 もう何度やったかわからないほど繰り返してきたプレゼンを、ぼくは成毛社長の前で繰り広げた。 プレゼンを終えたときに、成毛社長は、「この五年間で見たソフトの中で一番すばらしい!」と声を上げ、いきなり席を立って部屋から出ていった。 トイレにでもいったのか? 唖然としていると、五分ほどたって戻ってきた成毛社長の後ろには、三人の男が連なってやってきた。名刺を交換する。広告宣伝部長、次がインターネット部門統括責任者、最後が──おい、ちょっと待てよ、古川亨会長じゃないか! しかも皆さん、ちゃんと説明を受けていないらしい。どうやら成毛社長が、面白いものがあるから見にこいよと誘ったようだ。 ぼくは、もう一度簡単にプレゼンをした。すると途中で古川会長がさえぎり、「板倉くん久しぶりだね」「え……」「お宅の会社のことはよく知ってるよ。調べたから」「調べた、と言いますと?」、いきなりなんだ。ぼくは虚をつかれて、声が上ずった。 古川会長はその太い眉をぴくりとも動かさずに、ぼくの記憶ではこう言った。「実は、〝ビル〟から調べろ、と言われたんだ」〝ビル〟? このマイクロソフトの社内でビルといえば、ただ一人しかない。そう、創業者ビル・ゲイツ会長のことである。 あのビル・ゲイツがなぜうちの会社を? 古川会長の話によればこういうことだった。わりと最近の話だが、ビル・ゲイツ会長がアスキーの西和彦社長と会った(二人は旧知の仲である)。そのときインターネットのプロバイダーサービスの話になり、西社長が彼に自慢したのだという。こんな具合に。〈マイクロソフト・ネットワークは日本では全国展開してるのに二〇万人ぐらいしかユーザーが集まっていないだろう。うち(アスキー)はたった六カ月で、しかも東京だけのサービスで一〇万人を超えてしまったんだぜ〉 世界一の負けず嫌い、ビルはすぐに古川会長に連絡し、アスキーの会員増にはいったいどんなカラクリがあるのか、調べてくれと話をした。そこで日本のマイクロソフトが調査をしてみると、ハイパーシステムなる新しい広告システムをアスキーが利用し始めてからユーザー数が一気に増えたことがわかった。しかもそのシステムを実際に開発・運営しているのは、アスキーではなくハイパーネットというベンチャー企業であることも……。 話は予想もつかない方向に進んでいた。あっけにとられるぼくに、古川会長は質問した。「ところでこのハイパーシステムの権利関係とか、そのあたりはどうなってるの?」「ええっと、すべての権利を当社で保有しています。当社自体は、アスキーはもちろんコンピュータ業界の企業からの資本は一切入っていません」。そう言ったあと、こう付け加えるのも忘れなかった。「いつもアスキーの子会社だと勘違いされるんですが」「ふうん、そうなんだ」 古川会長はうなずいた。「アスキーとは関係ないんだね。じゃ、ソフトバンクとは?」「もちろん関係ありません。うちは独立系ですから」「あ、そう」 古川さんは、一体何を考えているんだろう。ぼくの頭の中にいくつもの疑問符が浮んだ。 卓上のパソコンで「ホットカフェ」をいじっていたインターネット部門統括者が唐突に声をかけてきた。「これ、ブラウザーはどうしてるの?」 ぼくは我に返った。ここは慎重に答えねばならない。「インターネットエクスプローラーを起動するようになっています。でもユーザーの設定でネットスケープナビゲーターが起動する場合もありますが……」 この答え方には、ぼくなりの配慮があった。エクスプローラーはご存知の通りマイクロソフトの製品。そして当時ネットスケープ社のナビゲーターを必死に追いかけている最中だった。だからこそ、ぼくはあえて中立的な発言をしたわけである。「なるほど」彼はうなずいたあとにこうつぶやいた。「うちのエクスプローラーだけで動くようにならないかなあ?」 冗談に聞こえてしまうこの言葉が、ちっとも冗談でなかったりするところがマイクロソフトのマイクロソフトたる所以だ。ぼくもジョーク交じりではある
がこう答えておいた。「それもいいですねえ。マイクロソフトでもホットカフェを配ってくれませんか」 その日、残りの時間は、古きよきアスキーの昔話をして帰路についた。古川会長も、成毛社長も、もともとアスキーの出身だ。ぼくも二〇代前半でゲームソフト開発をしていたときには、しょっちゅうアスキーを訪れていた。だからその頃からご両人とも何回か顔を合わせていた。古川さんがぼくに向かって「久しぶり」といったのも昔から面識があったからだろう。そんな訳で、ぼくは先方の覚えている範囲で適当に話を合わせた。 この日の面会をきっかけに、マイクロソフトからハイパーシステムでの広告依頼があった。とりあえず当初の目的は達成できた。とはいっても、ぼくの関心はもはやそこにはなかった。帰りの車の中でも、心ここにあらずであった。鈴木社長には舞台をさらったような気がして悪いとは思ったが、正直な話、このときぼくの頭の中を占めていたのはこんなことだった。 あのマイクロソフトが、あのビル・ゲイツがぼくのことを知っていた。そしてぼくのビジネスを調査していた──。 それが何を意味するのか、このときはまだ想像もつかなかった。 ニュービジネス協議会(通称 NBC)という組織をご存知だろうか。 NBCは一九八五年、ベンチャービジネスの振興のために発足した。 NECの関本忠弘氏、アサヒビールの樋口廣太郎氏、そして CSKの大川功氏と代々大物経営者が会長職に就いている。ベンチャービジネスを束ねた組織としては規模の面でも権威の面でも日本で一番力のあるところだろう。 この NBCの恒例行事が、毎年暮れに開催するベンチャービジネスの表彰式だ。表彰タイトルは一〇種類以上あり、中でも最高の賞がニュービジネス大賞である。候補企業は、付き合いのある金融機関やベンチャーキャピタルなどの推薦で決まる。 一九九六年、ハイパーネットはいつのまにかこの NBCの表彰候補に挙げられていた。うちの株主で、日本長期信用銀行のベンチャーキャピタル、 NEDが推薦したのである。とはいっても、推薦の応募そのものは簡単にできる。応募用紙に必要事項を記入するだけなのだ。 その後、応募用紙を参考に審査委員会がそれぞれの会社の成長性、独自性や財務状況などを調べ、最後に経営者を面接、その結果で受賞を決定するという手順らしい。 九六年九月、「 NBCのニュービジネスの賞におたくを推薦しといたから」という連絡を NEDから受けたとき、ぼくはほとんど流して聞いていた。 仕事ではトラブル続き、一方でナスダック公開準備は着々と進む。結果、毎日一五時間労働、といったこの時期のぼくにとって、とれるかどうかも分からない賞の存在に気を払う時間も余裕もなかった。それに入賞したからといって銀行の融資枠の拡大やベンチャーキャピタルの増資がセットになっているわけではない。要するに、事業には直接なんのメリットもない──。そう思っていたのである。大体の話、入賞するなんて想像だにしていなかったのだ。 一〇月、書類審査や調査が進行して、それぞれの賞の候補企業が決まり、最後に最終面接がある。再び NEDから連絡があった。「板倉さん、御社が最終候補に選ばれました。しかもかなり有力です。ぜひ最終面接に出向いてください」。 相も変わらず忙しかったが、賞が取れそうだとなると話は別だ。もともと目立つのは大好きである。商売に直接結びつかなくてもまあいいや。ぼくは都内のホテルで行われる面接に臨んだ。 ホテルに到着後、待合室に案内された。一〇人ぐらいで一杯になるような小さな部屋に、折りたたみの机と椅子が置いてあった。 数人の中年男が緑茶を黙ってすすっていた。満員のエレベーターに乗ったときのような生ぬるい空気が顔を覆う。ポマードと汗の混じった臭いが鼻の穴に侵入してきた。部屋を間違えたのか。ぼくはドアの外に立てられた看板の文字を見直した。「 NBC待合室」。確かにここだ。 しかし、その部屋にいる面々はベンチャー経営者には見えなかった。人を外見で判断するのは間違っている。年配の方が起業してはいけない、という法はない。でも、少なくともぼくの知っている「起業家」たちとは、ずいぶんと趣を異にする方々だった。やはり世間は広い。ぼくの知らない世界がずいぶんあるのだ。そう思って、ぼくは隅っこの椅子に座った。 緑茶を飲んでいるおやじさんたちともときどき目が合うが、誰も口を開かない。面接の前で緊張でもしているだろうか。ぼくはダブルのスーツの内ポケットから煙草を取り出し、とりあえず一服した。地方の商工会議所の待合室にいるようだった。 四本目の煙草に火をつけようとすると、ドアが開いて、名前が呼ばれた。 就職試験を受けたことがないぼくにとって、目上の人々に面接されるのは初めての経験である。妙に天井の低い長い廊下を歩き、ドアを軽くノックして会場に入室した。入り口から五メートルほど奥に、細長いテーブルが用意され、数人の審査委員がこちらを向いて座っていた。一人はテレビや雑誌などでおなじみの三菱総合研究所の牧野昇氏、その他にも名前は思い出せないが経済界の有名人が並んでいた。ハイパーネットを推薦してくれた NEDの中島省吾社長の顔もあった。 このとき何を質問されたのか、ほとんど記憶にない。おそらく、当たり前の質問ばかりをされたのだろう。急激に成長していますが、理由はなんですか? ハイパーシステムはどうやって思いついたのですか? 海外展開をしているそうですがスタッフはどうやって集めましたか──。 それでもぼくはいくつかの質問に無難に答え(たはずである。というのもどう答えたかもよく覚えていないからだ)、もはや名人芸の域に達したプレゼンを行った。最後の質問が終わって部屋を出ると、ほかの人よりずいぶん面接時間が長かったですね、と入り口に控えていたスタッフの方から聞かされた。審査員がよっぽど当社に注目しているのだな、と思ったが、少し経って、ぼくのプレゼンが長かっただけの話だ、と気づいた。 面接から何日ぐらいあとだったろうか。一一月のある日、ぼくは実に久しぶりに会社をさぼって〝カート〟に出かけた。 遊園地のゴーカートをご存知だろう。カートは基本的にあれと一緒である。ただし走る場所とエンジンの性能が違う。本物のサーキットで時速一〇〇キロ、コーナーを曲がっているときの加速 Gは最大 3 Gに達する。ちなみに F1でも 4 Gほとだ。ボディが小さく、地上高が思い切り低いから、スピードを出せばかなりの迫力である。欧米では、これで子供たちがレーシング技術を身につける。 F1ドライバーにもカート経験者は少なくない。たしかアイルトン・セナやミハエル・シューマッハもそうだ。 このサーキットでは毎月、ぼくの知り合いの外車ディーラーが場所を貸し切って、車好きのお客さん、それもフェラーリやポルシェなどの持ち主ばかりを集め、開放していた。おかげでその日は一日中、疑似レーサーになれる。ここに集う連中にとって、フェラーリだろうがポルシェだろうがサーキットへ行く間の「足」に過ぎない。それだけカートでコースを走るのは、魅力的であり、刺激的だった。 すっきりと晴れた秋の空の下、ぼくはコーナーを攻め、直線を駆け抜けた。再び急なカーブが目の前に迫る。両手で包み込めそうな小さなステアリングホイールを左に傾けると、巨人に引っ張られたように反対方向へ体が持っていかれる。ぐっとがまんして、スライドしかかったテールを修正するために、軽くカウンターステアを入れ、アクセルをぐっと踏み込む。曲がり際で殺されたスピードが一気に戻り、背中を蹴飛ばされたように重力が前方へ飛んでいく。 ピットに戻ってカートを降り、いささか冷え過ぎのコーラのプルトップを引き抜いて飲みかけると、バッグの中で携帯電話が鳴った。「もしもし?」 カートの甲高い走行音で、何をしゃべっているのか聞き取れない。ぼくはトイレに入って、もう一度電話を耳にあてた。「もしもし」
「もしもし、社長ですか」秘書の声である。「ハイパーネットが NBCの大賞を受賞しました」電話の向こうの秘書はそう話した。 予期せぬ場所で予期せぬ話を聞いて、なんだか無性にうれしかったことを、ぼくはよく覚えている。会社をさぼって遊んでいると、こんな吉報が舞い込んでくる。こんなこともあるんだな。トイレから出たぼくは、高い空を見上げながら、大きく息を吸い込んだ。 NBCの表彰式の招待状がオフィスに送られてきた。一九九六年一二月一〇日・一一日。場所は横浜・桜木町の巨大埋め立て地、みなとみらいにあるパシフィコ横浜である。「ニュービジネスメッセ’ 96」という NBCのイベントの一環がこの表彰式というわけだ。 同封されたパンフレットに記された式の進行表を眺めているうちに、視線が止まった。 ビル・ゲイツがスピーチをする。 この頃、マイクロソフトではネットワーク用の OS「ウインドウズ N T 4・ 0」を発表することになっていた。おそらくビルはその発表のために来日し、ついでに NBCの大会にも出席することになったのだろう。 何かある。ぼくはその瞬間、予感がした。おれとビルとの間に何かある。 社内では、ハイパーシステムのプロジェクトチームが立ち上がって以来、一つの冗談が繰り返されていた。行き詰まったとき、トラブルがあったときは、呪文のようにこの冗談が誰かの口から飛び出した。──このプロジェクトはビル・ゲイツの目に留まり、いつか板倉社長あてに電子メールが届くぜ。 How much HYPER SYSTEM?(いくら出せばハイパーシステムを買えるんだい?) ってね。 招待状の封を切ったその日の午後、ぼくは、渋谷のオフィスから銀座の広告代理店へとハイヤーで向かっていた。ぼくがハイヤーで移動するようになったのは、前にも書いたかもしれないが、九六年一月からだ。 IMSの成長で売り上げが伸び、ハイパーシステムの開発が本格化した頃、「もう自家用車通勤は許しません」と秘書から命じられた。最初は無視していたが、銀行の融資額が増え、ビジネスが大きくなるにつれ、そんなことも言ってられなくなった。 とはいっても、ぼくはわがままだから、気の合うハイヤー運転手がなかなか見つからなかった。しかも、筋金入りの車オタクで年間四万キロは走る。ドライビング技術に不満のある運転手は論外である。わずか一〇カ月の間に数人の運転手が交代した。ハイヤー会社もさぞや迷惑だったろう。 小野さんは、最後に巡り合ったベスト・ドライバーだった。五〇歳の独身で、運転はうまいが、話もうまい。三カ月に一回、一週間の休みを取っては海外旅行に出かける。浅黒い精悍な顔つきに、真っ白な手袋がよく映える。見た目は実際よりも一〇歳は若い。定年後はフィリピンで暮らすのが夢で、ドル建て預金や将来の円相場についてよく二人で話し合ったものだ。 その小野さんが運転するハイヤーが首都高中央環状線内回りの芝公園を抜け、浜崎橋のカーブに差し掛かったとき、自動車電話が鳴った。土曜の夜中にぼくが人には言えない速度で駆け抜ける S字コーナーのところだ。もっとも、このときは渋滞で車は一分間に一〇メートルと進まなかった。「もしもし」 小野さんが受話器をとった。「もしもし、なんだこれ……もしもし? 社長、なんですかねえ、これ」 どうも電話の向こうの様子がおかしいようだ。「どうしたの」「いやあ、何か騒いでいるんですよ、多分秘書の方だと思いますけど」「ふうん、ちょっと貸して」 小野さんから渡された受話器を耳につけると、いきなり甲高い女の声がぼくの鼓膜を破りそうになった。「シャチョ、シャチョーウ!」 あまりの声量にぼくは受話器を耳から離した。「社長、社長。電話なんです。電話があって、あのお、入れちゃいました」「入れちゃったって何を?」 何をいっているんだ。さすがにぼくもちょっとむっとして言った。 電話の向こうで興奮しているのはぼくの秘書だった。 秘書はハイヤーの運転手以上にしょっちゅう取り替えてきた。二〇代の頃は容姿重視だったが、三〇代になってからはあらゆる業務をうまくこなせる「熟練工」のような人間が欲しくなった。 そしてただいま興奮中の秘書は、その意味では最高の仕事をしてくれる。もともとソフマップの鈴木社長の秘書をしていた。仕事のできる、ぼくの歴代秘書の中で最高の女性だ。 それでも彼女には多少の欠点があった。この電話の受け答えを読めばおわかりだろう。落ち着きがないのである。逆にいえば、だからこそ小さい事にも気がつき、ちょこまかと動き回って、いい仕事をするのだが。 ぼくの質問に彼女は慌てて答えた。「予定がぶつかってるんですけど、先方がその時間しかないから、っていうんです」「だから、何の話? 落ち着けよ」 閃いた。ぼくは反射的に口を開いた。「もしかして、ビルからアポがあったのか? ビル・ゲイツから」「そうなんです、なんでわかったんですか? それで、あのーあのー」 ビンゴ! 大当たりだ。「あの、要するにですね、マイクロソフトから、ビル・ゲイツが板倉社長に会いたいっていうことで、電話があったんです」「ほんとかよ……、それで」「それで、向こうから一方的に日時と場所を指定されたんです。で、その日、ほかの予定がもう入っていたんですが、私が勝手に OK出しちゃいました。……あのう、まずかったですか?」「いいよ、いいよ。分かった」 ぼくは電話を切った。「社長、ビル・ゲイツって、あの、ビル・ゲイツですか?」 小野さんはちょっと興奮しながらぼくに聞いてきた。「そう。あのゲイツですよ。ぼくに会いたいと向こうから言ってきたらしい」「やりましたねえ。でも、まえにそんな冗談をよく言ってませんでした?」
「そう、そのとおりになった」 広い後部座席でぼくは興奮していた。どうも落ち着かない。シートの尻の位置が定まらない。窓の外を見る。気がつくと車は浜崎橋のコーナーを抜け、汐留方向にするすると動き始めていた。 座り直して腕を組むと、疑問が湧いてきた。 なぜおれに会いたいんだ? あのビル・ゲイツが日本の小さなベンチャーの社長にわざわざ会いたいといってきている。一体どんな理由があるというのか? 世界一の資産家で、コンピュータ業界を事実上牛耳ったアメリカ人が、なぜおれに会いたいんだ。 ぼくは我に返った。興奮は引いた。疑問が興奮を上回っていた。 銀座で用事を済ませ、文字通りとんぼ返りで渋谷に戻った。「ちょっと役員を集めてくれ」 ぼくはオフィスに入るとすぐに秘書に告げた。 しばらくして夏野、森下、大内、それに幾人かの幹部がぼくの部屋へ入ってきた。「実はさあ、ビルが会いたいって」 ぼくは率直に結論から話し始めた。「えっ」 声を上げた者もあったが、あまりに唐突だったので、事態を飲み込めないやつもいる。「来ましたか」 夏野である。こんなとき一番勘が働くのはこの男だ。「マイクロソフトから電話があって……ね、そうだよね」 ぼくは秘書からの説明を求めた。電話を受けた本人の話をここで聞いておこう。「はい」「すげえだろ、おれが会いたいって言ったんじゃないんだぜ」 ぼくは興奮を装っていたが、頭の中では別のことを考えていた。 ビル・ゲイツ会長は抜け目のない人間だ。海の向こうの小さなベンチャーを何の見返りもなく善意で育てようとするような人のいい実業家ではない。あらゆるメディアで書き尽くされたことだが、ナポレオンのごとき征服欲を持ち、たとえ相手がどんなに小さかろうとも、自分にとって不利益だと考えればあらゆる手段を使って撲滅する。それがビル・ゲイツだ。 アルバカーキーからスタートした小さなベンチャービジネスを世界最強のマイクロソフトに育て、巨人 IBMからコンピュータの主導権を奪ったという歴史がなによりの証拠だろう。 ぼくはビル・ゲイツ会長の無慈悲な側面を詳細な具体例で知っていた。米国はシリコンバレー、そこのあるベンチャー事業に注目したビルが、結果としてその事業を奪い取ってしまい、ベンチャー自身は倒産する。そんな出来事を本で読んでいたのだ。『シリコンバレー・アドベンチャー』(日経BP社)。著者にして主人公であるのはジェリー・カプラン氏。ペンコンピュータで一世を風靡したシリコンバレーの起業家だ。その頃、うちの社内で結構流行っていた本だ。皆の読後感は一言、「これは他人事じゃない」。 ビルが見込んだベンチャーの運命は二つに一つ、買収されるかつぶされるかである。前者は起業家としての夢はなくなるが金にはなる。後者は何も残らない。さて、ぼくの運命はどちらだろうか。そもそも、本当に「見込まれている」のだろうか。 幹部に簡単な報告を済ませると、ぼくは秘書にアポイントメントの内容を確認した。「ずいぶん高飛車だな」「ええ、そうですね」 一二月某日午後、場所は先方指定。しかも面会時間はたったの一〇分! まあこれがビル・ゲイツなのだろう。おそらく来日前にすでに分刻みの予定が決まっているわけだし、それにぼくとのアポなんてものは急遽追加したものに違いない。会ってくれるというだけでよしとしよう。 困ったのは、秘書も電話で話していたように、その時間はすでに別の予定が入っていた。予定表に目を通す。思わず眉間に皺が寄った。 「◎時、東急エージェンシー社長に面会」、罫線の上にはそう記されていた。 ハイパーシステムの広告営業を強化するために、ぼくは大手広告代理店のトップを回っていた。そしてその日は、業界第三位の東急エージェンシーの社長にようやくお目通りを願えることになっていたのである。大手広告代理店のトップとのアポなんてそう簡単に取れるわけではない。しかも、少なくともこの時点、うちの事業に確実に利益をもたらしてくれるのは、ビル・ゲイツ会長ではない。広告代理店だ。 一瞬、ほんの一瞬、ぼくは迷った。そしてすぐに秘書に指示を出した。「悪いけどさ、東急エージェンシーの社長のアポ、キャンセルしといてくれない」 これは仕事の原則からすれば明らかなルール違反だった。東急の件はこちらからお願いした。ビルの件は向こうの一方的な要求で、しかも東急より後の話だ。けれども──。ぼくは自分に言い聞かせた。ビルはめったに日本に来ない。来ても会えるとは限らない。これは千載一遇のチャンスだ。 ぼくは、非常に忙しい合間を縫って会う時間を頂いた東急エージェンシーの社長に電話でのキャンセルとは別に手紙を書いてお詫びをした。もちろんビル・ゲイツ会長のことは一言も触れなかった。その後同社には何度となくアポイントメントを試みたが、かなわなかった。 ぼくが一瞬迷ったあのとき、もし、もう一つの道を選んでいたら、今ごろどうなっていただろうか。東急エージェンシー社長とのアポを優先させていたらどうなっていただろうか。ビル・ゲイツに会わなかったらどうなっていただろうか。 いまさら考えてもしかたがない。商売に、もし、は禁物なのだ。 九六年一二月一〇日。会場のパシフィコ横浜には、「ニュービジネスメッセ’ 96」の出展企業のブースが並んでいた。ハイパーネットも参加していた。大賞を受賞した企業が出展しないのはやはりさびしい。うちの営業はここぞとばかり会場に乗り出していった。表彰式は明日だったが、ぼくには用事があった。ビル・ゲイツ会長のスピーチを聞きたかったのである。 ぼくは講演会場へと向かった。 キース・リチャーズのギターが暗い会場に鳴り響いた。ローリングストーンズの「スタート・ミー・アップ」。ウインドウズ 95のテーマ・ソングだ。さあ、王様のおなりだ。壇上にスポットがあたり、われらがビル・ゲイツが登場した。会場がどよめき、波打つ拍手が鼓膜を震わせる。もはやこれはスピーチではない。コンサートだ。ビルはどんなパフォーマンスを見せてくれるのか。
講演はビデオテープを巧みに使った非常に完成されたものだった。が、平板で、内容に乏しかった。一九七〇年頃からのパソコンの歴史を語り、その未来は明るいという結論。なにもビル・ゲイツ会長にお話いただかなくても結構だ。会場全体も最初の盛り上がりと反比例するように後半から尻すぼみに沈み、最後にはずいぶんとざわついていた。 しかしぼくは、彼のステージでの話なんてどうでもよかった。数日後に会う「生」のビルを見ておきたかっただけなのである。どんな声なのか、どんな風にしゃべるのか、どんな風に笑うのか。ぼくはその一挙手一投足を頭にインプットした。 さてその日の夕方。 すっかり日が暮れた桜木町のインターから首都高横浜線に乗り、小野さんの運転するハイヤーで、ぼくは東京へ帰路についた。道路は渋滞していた。さすがにつかれた。ぼくは少し眠ろうと思ったが、隣車線の巨大な米国製のワンボックスカーに気がついた。確か NBCの会場につけてあった奴だ。あたりが暗いので室内ライトを点けた車内がよく見えた。 ビル・ゲイツ氏が座っていた。 ビルは一番後ろのシートに一人で座り、新聞に目を通している。前列にはおそらく彼の部下たちなのだろう、数人の外人が談笑していた。 芝浦の合流点を過ぎ、車が動き始めた。小野さんがアクセルを踏み、ハイヤーが加速すると、小型住宅のような件のワンボックスは、後方へと消えた。 翌日、授賞式である。ぼくは再び、パシフィコ横浜へと足を運んだ。 一年で一番昼間の短い一二月の陽が西に傾き始めた頃、ようやく NBCの授賞式の時間になった。ステージに案内されると、すでにあの審査委員会の待合室同様、ぼくよりはるかに年配の人たちが壇上に席を並べて座っていた。おそらく他の賞の受賞者なのだろう。ぼくは一番の上席と思しき椅子(一応大賞だから)に誘導され、まるでピアノ演奏発表会の少女のように、きちんと手を膝に置き、足をぴたりと閉じて上品に座った。この手の席にじっと座っているのはつらかった。 授賞式はつつがなく進行し、ぼくの番になった。 ハイパーネットはニュービジネス大賞と通商産業大臣賞のダブル受賞である。話によると通商産業大臣賞は過去三年間該当企業がなかったそうである。何がどう評価されたのか、今となってはわからないが、少なくともぼくの会社は公式に評価された「印」をここに授かることになったわけだ。 NBCの代表である大川功 CSK会長が壇上に進んだ。彼から賞状とトロフィを受け取る手順である。まず賞状を渡された。最後に賞状をもらったのはいったいいつの話だろう。くそ真面目な顔でぼくは受け取り、深々と頭を下げた。 するといきなり大川会長は踵を返し、すたすたと壇上を降りようとした。「あれ?」ぼくは小さな声でつぶやいた。「トロフィは?」 スタッフに事前に聞いた話では、賞状以外にトロフィを受け取ることになっていたはずだ。しかし大川会長は、躊躇せず会場を去ろうとする。場内の何人かも異常に気づいたのだろう。最前列あたりがざわついた。脇にいたアシスタントの女性にぼくは目配せをした。気がついたようだ。彼女はびくっと肩を上げ、慌てて大川会長を呼び止めた。 ああ、と、大川会長はうなずき、悠然とこちらに戻ってきた。何事もなかったようにトロフィを持ち上げ、ぼくに渡した。手渡すときに目が合った。顔は口をへの字に結んだままだったが、目だけが笑っていた。 やられた。ぼくは脱帽した。大川会長を知る人ならば分かると思うが、彼はときどき「ぼけ」た振りをする。とんでもない。この人はそうやって他人の反応を見ているのだ。これも、あきらかに彼の演出なのだ。まったく食えない人である。 そんなこんなで授賞式は終わり、その後に大賞受賞者のぼくの演説である。中身は、……省略しよう。さすがにぼくのプレゼン話は皆さんもう飽きたことと思う。 NBC大賞受賞から数日後。 ビル・ゲイツ会長との面会の前日。ぼくたちは、ハイパーネット社の全資料、それからハイパーシステムに関する全資料をすべて英訳し、さらに限られた時間の中で簡潔に説明できるように、うちの海外担当スタッフと副社長の夏野とで資料を作成した。 ハイパーネットには英語圏で生活した経験のあるスタッフに恵まれていたので、作業進行には苦労はなかった。ただし気になっていることが一つあった。 実は資料作成の前日に、ビルとの面会の情報を得た米国ハイパーネット USA社長のジェイや、 NASDAQ公開のための弁護士事務所の弁護士から何度か電話をもらった。 Don’ t speak too much , So many people have failed by speaking with Bill Gates too much in Silicon Valley. ビルに多くを語るな。それでつぶれた奴がシリコンバレーにはうようよいる──、というわけである。ありがたいご忠告だ。「シリコンバレー・アドベンチャー」を読んでその一端を垣間見たつもりだったが、米国のビジネスマンがこれほど真剣に忠告するほどだとは思わなかった。 当然、ぼくたちの間では、資料を作る際にどこまで情報をディスクローズするかということが問題となった。議論と資料作成は深夜まで及んだが、情報の制限についての結論は面会時間が限られているという点から意外と簡単に片がついた。要するに新聞や雑誌などすでにマスコミで記事になった水準の情報を要約すればよい、ということである。 翌日。面会場所は東京近郊のマイクロソフトの施設だった。ぼくと副社長の夏野(彼は M B Aを取得していることもあって英語も得意だし、この日の資料はほとんど彼が作成した)、それに入社したばかりのこれまた英語のできる営業社員と三人で、少し早めに車で移動することにした。 渋滞などを予測していたが意外とスムーズに目的地に到着してしまった我々は、しばらく近くのレストランで時間をつぶすことにした。時間にして約三〇分、そこでの「議題」は誰がどんな内容をどの程度話すかということにつきた。「どうしようか」 ぼくが切り出した。「社長の挨拶の後、夏野さんが内容の説明をして、たとえば……」「じゃあ、おれは、『 Nice meet you』だけしゃべろうかなあ」「それを言うなら、『 Nice to meet you』ですよ。社長」 新人のくせにいちいちうるさい奴だ。ぼくの英語はいいかげんだが、ハイパーネット USA社長のジェイだってぼくが自分で作った友達だ。全く通じないわけじゃない。「社長の言葉で話すのが大切だと思いますよ」 夏野の指摘は説得力がある。つまり英語がどうであれ、代表者自らの言葉が重要だというわけだ。「うん」、うなずいてから、少し考えた。ナスダック公開準備のところでも書いたが、ぼく自身決して英語が話せないわけではない、特にコンピュータ関連の話題については多少なりとも自信があった。が、ここにいる二人には一歩譲る部分があった。それに慣れない英語でぼくがプレゼンすると、相手(つまりビル)の反応を的確につかむ余裕がなくなるだろう。
ぼくは言った。「いや、やっぱり夏野が全部話してくれ」 夏野が基本的にすべてのプレゼンを行うことにし、ぼくはその様子を観察することにした。 時間だ。オフィスを訪問すると、マイクロソフトならではの非常に丁寧な対応で、施設内の会議室へと案内された。その部屋は廊下と会議室の間をスモークガラスで仕切ったもので、そこに木製の扉がついていた。 しばらくすると、成毛社長と古川会長が部屋に入ってきた。 ぼくは挨拶もそこそこに、なぜビルがぼくに会うことに決めたのか彼らに質問したが、明確な回答はなかったような気がする。そのまま二人としばらく話をした。 約束の時間はすでに一〇分以上過ぎていた。本来の予定であれば、もう面会の時間がなくなっている。どうしたんだろう。内心いらいらが募り始めた丁度そのとき、スモークガラスの向こうに人影が浮かんだ。 ビル・ゲイツ会長のご登場である。 会議室に入ってきた彼は普段着であった。テレビ、雑誌、それからこの前の講演。何度となく見かけた顔ではあるが、はっとさせられたのは、その〝目〟である。眼鏡を通して見える大きな瞳は、ガラス玉のようで、それゆえ冷たささえ感じられた。あるいは、単にぼくがそう思い込んで見ていただけなのかもしれない。 名刺交換を済ませ、席につく。資料を手渡し、ぼくたちは説明に入った。夏野の出番である。さすがに彼も少し緊張しているようであった、いつもは流暢に話す英語が途切れ途切れになる。話の骨子もまとまっていない。 しかしビルはあまり気にしていないようだ。おそらくこちらが日本人であることを見越して聞いているのだろう。夏野の話を聞きながら、ビルは手渡した資料の上に左手で丹念にメモを取っていた。夏野にプレゼンを任せたおかげで、ぼくはビルの顔の表情やどの部分のメモを取るかなどをじっくり観察することができた。 資料をもとにした説明が終わる。今度は持ち込んだラップトップコンピュータで、実際にデモンストレーションである。 電源を入れ、ウインドウズを立ち上げ、ソフトウエア「ホットカフェ」を呼び出す。このソフトがコマーシャルを随時画面上に流す。しかも他にソフトウエアを立ち上げていようと、コマーシャルを流す場合はその画面が必ず最前面に表示される仕掛けだ。そのさまをデモしているときだった。 Wow! See it! (おい、見ろよ!) ビルは感嘆したように、成毛さんと古川さんに顔を向け、画面を見ろとうながした。彼の口癖、 Cool は出てこなかった。 ぼくは、ビルの一挙手一投足をじっくり観察していた。彼の反応はなにかわざとらしく感じた。あのビル・ゲイツ氏がこの程度のしかけで驚くわけは一〇〇パーセント有り得ない。そう思って眺めていると、ビルは再び画面に向かい、操作を続けた。 突然、彼は声を上げた。 I can’ t see the web! (ウェッブが見えないぞ!) 不安そうな顔つきでビルの様子を眺めていた夏野が、びくっとする。 Why? (どうしてだ?) ビルは、ぼくらの方を向いて、画面を指差した。 ホットカフェの画像がインターネットエクスプローラーのウインドウと重なったために、インターネットのホームページの一部が隠れて見えなくなっている。なるほどこれで「ウェッブが見えない!」と怒ったわけか。 つまり、ホットカフェはそのアプリケーションの性格上、ユーザーがウインドウの大きさを変更したりできない。だから、縦のドット数が多いディスプレイでは上下どちらか(または両方)に空きが出る。すると W E Bブラウザーを画面全体に広げていると、ちょうどホットカフェが表示されている部分だけが隠れて、その上下だけが表示されてしまうわけだ。 実際にはホットカフェを画面の左右どちらかに貼り付けてしまえば、画面の上から下までホットカフェが占有する形になって、たとえ W E Bブラウザーを画面全体に広げていても、ウインドウズが勝手に WEBブラウザーを含むすべてのソフトのウインドウをアジャストしてくれるので、実用上全く問題は無いのだ。 しかしビルはそれについてけちをつけてきたわけだ。 Yes. But (いや、それは……) 夏野があわてて説明を始めようと、遮るようにビルがまくしたてる。 …… ビルの早口は、すでにぼくの英語の理解力を超えていた。もはやけちをつけているのかどうもわからない。とにかく興奮して声を上げながら、トラックボールをいじっている。画面を凝視しながら、どんどんしゃべる、そして時折、口を休めずにぼくたちを「一体これはどういうことだ」と言わんばかりに見る。 O, Ok! But 夏野が返答しようとするが、ビルのおしゃべりは止まらない。まさにマシンガントークだ。あせる夏野。叫ぶビル。呆然とする周囲。 ぼくは、この予期せぬ出来事をうまく納める方法がないものかと、わめきながらパソコンをいじっているビルを見ていた。 待てよ。 ぼくはふと思った。 彼は遊んでるんじゃないか? 相手は天下のビル・ゲイツだ。考えてみれば、いまおそらく話題にのぼっている話がハイパーシステムの本題にたいして影響のないことぐらい分かっているはずだ。まあいい。あんな早口で喋られたんじゃ、どの道、ぼくには手も足も出ない。もう少し様子を見るか。ぼくはビルの英語が聞き取れないのをこれ幸いと、その場を静観することにした。 と思ったとたん、余計な奴が突然、口を挟んできた。 Yes, Sir. We provide Internet marketing system and This software (その通りです。当社はインターネットマーケティングシステムを提供できるのです。このソフトはですね……) 一緒に連れてきた営業の新入社員である。きっとこの状況をじっと見ているのにしびれを切らしたのだろう。いきなりビルに負けない早口で、対抗し始めてしまった。 もう大変である。ビルとうちの新米はめちゃくちゃな言い合いになっていく。夏野が遅れてはならじと慌てて割り込み、新米を「おまえっ、うるさいよ」とばかりににらみつけて話す。が、新米も止まらない。当然ビルも止まらない。 なんだかウッディ・アレンの映画の一コマのようである。ぼくはおかしくなってきてしまった。笑いを堪えるのに必死である。ふと、古川さんと成毛さん
の方を見る。二人ともあきれた顔で、しかしちょっぴり笑みを浮かべている。 ビルめ、完全にうちの連中をからかってやがる。もはやぼくにはそうとしか見えなかった。 いま(おそらく──だが。なにせ何をいっているのか少ししか聞き取れないので)議論になっている「ホットカフェ」、これ自体は単なる広告表示ソフトだ。だから、ハイパーシステムが持つさまざまな「価値」からすれば、ホットカフェのこうした「見てくれ」に対する評価自体はたいした話ではない。 ビル・ゲイツ会長にそれがわからないはずはない。おそらく彼はハイパーシステムの「肝」がどこにあるのかをちゃんと理解したうえで面会に臨んでいたはずである。でなければ、そもそもぼくに会いたいなどと言ってくるものか。 ビルのメモを取る瞬間がそれをはっきり証明していた。夏野が説明する間、彼は技術的なことには一切メモも取らず聞き流していたが、ことマーケティングとの連動や広告とハイパーシステムの関係となると、実にこまめにメモを取っていたのである。 何がどうなったのかよくわからないまま、〝早口三人組〟のしゃべくりが一件落着し、その場の空気がようやく和み始めたそのとき。ぼくはその日二回目の英語を話した。ちなみに一回目は当然名刺交換のときの Nice to meet you である。 Are you interested in customizing our HOT CAFE for your Internet Explorer exclusively? 我々のホットカフェの広告をタッチしたときに起動するブラウザーソフトを御社のインターネットエクスプローラーだけに限定するよう改造するという話に興味がおありか──。 ぼくはこう申し出たわけである。マイクロソフトさんのインターネット分野での競争相手、ネットスケープ社のブラウザー「ネットスケープ・ナビゲーター」では、うちのサービスは利用できないようにする用意がありますよ、と。 ぼくたちにとって、ホームページを表示するためのブラウザーソフトがどこの製品だろうとどうでもよかった。ネットスケープでもマイクロソフトでもどちらでも構わない。利用者と広告主が増えてくれればそれでよい。それがハイパーネットの立場だった。実際ホットカフェはどちらのブラウザーであろうと起動できるように設計されていたのである。 しかし、インターネット市場でネットスケープと熾烈な競争を繰り広げているマイクロソフト側にとってみれば、うちと独占契約を組むのは悪い話じゃないはずだ。短期間で集まった二〇万人以上のハイパーシステムの利用者たちが、すべてマイクロソフトのブラウザーを使うとなれば、売り上げの面、その後のマーケティングの面で、かなりのメリットが生まれるだろう。 そこで、ホットカフェをウインドウズ 95にバンドルしてもらえないか、というのがぼくの提案の意味することであった。そう、ぼくは、濡れ手で粟に、自社ソフトを世界で一番確実にマーケットに配布する手段を手に入れようとしていたのである。あとは、目の前の大人物の返事次第だ。 ビルの返事は短く、そして明確だった。 YES この一言で面談は終わった。「われわれに良いお話を持ってきてくれてありがとう」と会釈して、ビルは退席した。 ぼくは腕時計を見た。予定時間はたったの一〇分だったが、いつのまにか開始から一時間以上たっていた。ビルのこの後の予定は大丈夫だったのだろうか? さてと。これから何が起こるのだろうか。この件に関しては、座して待つのみである。 最後に成毛さんが苦笑しながら口を開いた。「すいませんねえ、うちのボスは技術の話になると社内の人間と社外の人間の区別がつかなくなるから」 われわれはマイクロソフトを後にした。 ビル・ゲイツ会長との奇妙な面談から数日後、ぼくは成毛社長と再会した。九六年一二月一九日。場所は、成毛社長がときおり開く私的な集まり、通称’ 50フォーラムである。 このフォーラム、読んで字のごとく一九五〇年代生まれの人たちの集い、らしい。らしい、というのは、ぼくも直接その意味を聞いたわけではないからだ。当日の参加予定者は、アスキーの西和彦社長やカルチュアコンビニエンスクラブ( CC C)の増田宗昭社長、ソフマップの鈴木慶社長、それに西川りゅうじん氏など、錚々たるメンバーが揃っていた。 一九六〇年代生まれのぼくは、それまでこの’ 50フォーラムとは何の関わりもなかった。その存在自体は聞いてはいたのだが──。それがその日突然参加することになったのは、ふたつのきっかけがあったからだ。ひとつは前にソフマップの鈴木社長とマイクロソフトを訪問したとき、ぼくの方から「一度参加してもよいですか」とお願いしたこと。そしてもうひとつは、ぼくの友人でインターキューというインターネット・プロバイダーサービスを展開する会社の会長、熊谷正寿氏に誘われたからである。 紳士的でちょっと顔の大きい熊谷さんは、ぼくと同じ一九六三年生まれ。仕事での出会いをきっかけに、六本木あたりでしばしば飲む仲だった。彼とは仕事だけでなく女の趣味まで似通っていた。同じクラブの同じ子をそれぞれ別の日に指名していたこともある。 そんなわけで、ぼくはその日’ 50フォーラムの会場へと向かっていた。今日もまた小野さん運転のハイヤーだ。たまには運転しないと腕が鈍るのだが、酒も出る席だ。しょうがない。 自動車電話に熊谷さんから連絡が入った。「もしもし、熊谷ですが」「ああ、板倉です」「いま、会場に向かってるところ」「こっちもだ」 どうやら話したいことがあるらしいのだが、言いにくそうな感じである。よくわからないが、会場に着く前に何かを伝えたかったようだ。お互い移動中の電話であったため電波状態が悪く、結局きちんと話を聞くことができないまま、ぼくは会場に着いた。 そこはマイクロソフトが契約している高級マンションの一室だった。入室するとすでに何人かの経営者が立食スタイルで話をしていた。六〇年代生まれのぼくとしては、一〇歳前後年上の人たちの集まりに飛び込むのは多少の遠慮があった。でも実際にのぞいてみると、半数ちかくの出席者とは面識があったので、とりあえずほっとした。ぼくは、ドリンクの入ったグラスをとり、リビングルームへと移動した。 驚いたのはその直後である。 そこにはすでに一五人以上の人が集まっていた。「板倉くんおめでとう!」 いきなり数人がぼくに声をかけてきた。 CC Cの増田社長、ソロモンブラザースアジア証券の黒部さん、ソフマップの鈴木社長、そしてもちろん今日の主催者マイクロソフト社長の成毛さん。彼らがぼくに向かって笑顔を投げかける。 いったい何が起きたのか。さっぱりわからずに当惑していると、黒部さんが口を開いた。「板倉さん、いま成毛さんから聞いたんだけど」
「はあ」「ビル・ゲイツがハイパーネットを買収したいといっているらしいんですよ」 えっ、思わず絶句した。何の話だ、そりゃ。 増田さんが追い討ちをかけた。「今年はいい年だったね! NBC大賞は取るし会社は売れるし」「ほんと、すごいじゃん、だってあのときも、成毛さん、べた誉めだったもんね」 前回マイクロソフトに同行した鈴木さんも相槌を打つ。 「……」「実はね、この前、ビルと会った後の話なんだが……」 突然の話に事態がよく理解できないでいたぼくに、成毛さんが近寄ってきて話し始めた。確かこんな内容だった。「帰国後、ビルはマイクロソフトの役員連中にハイパーネットのことを電子メールでレポートしたんだよ、そうしたら社内で議論になって、最終的にハイパーネットをマイクロソフトの事業部にしたらどうかって話になっちゃってさあ、おいおい待て待てって状態なんだよ」 なるほど──。「事業部ですか」「でもそりゃちょっとねえ。で、たとえばハイパーシステムの海外の権利をうちに譲るとかね、そう言った方法はないかなってね」 成毛さんも間断なくどんどん話す人である。ぼくの突っ込むすきはない。ときどき合いの手を入れるのが精一杯だ。「あっ、そうですか」 ぼくはそう言うだけだった。 しばらく黙っていると、今度は黒部さんが口を開いた。「板倉さん、これはすごいことですよ。億万長者に一瞬にしてなるってことですよ」 そうかもしれない。そうかもしれないが、じゃあハイパーネットそのものはどうなるんだ。おれの仕事はどこへいってしまうんだ。ぼくはますます混乱した。 そこに、ようやく熊谷さんが登場した。ぼくは、彼に近寄って小声で事態を説明した。 熊谷さんは頭を掻きながらこう言った。「実はさっきの電話はそれを伝えたかったんだよ。ここにくる前に成毛さんと会っていて、その話を聞かされたんだ」 その後、アスキーの西和彦社長もやってきて、ぼくと二言三言話した。彼もぼくがビルと会ったことは知っているようだった。 わずか数日の間に、ぼくの知らないことが、ぼくの知らないところで、静かに、しかしおそろしく早い速度で動いているようだった。ぼくは、適当に飲み、適当に食べ、適当に話しかけてくる人の話に適当に相槌を打っていた。何を飲み、何を食べ、誰と、どんな話をしたのかはほとんど覚えていない。とにかく混乱していたのだ。 帰りのハイヤーの中、ぼくは珍しく無口になって、今日の出来事を思い出していた。 疑問はいくつもあった。本当にビル・ゲイツはうちを買収するつもりなのか。それは米国だけなのか、日本も含めてなのか。そのときぼくとスタッフたちの処遇はどうなるのか。 疑念はもっとあった。なぜ、当事者であるぼくが知る前に買収話があそこまで広がってしまったのか。企業買収は、完了するまでトップシークレットではないのか。それをあの辣腕ベンチャー経営者たちが、みな事前に知っているというのは何を意味するのか。 嬉しくないか、というと──、やはり嬉しい。なにせ、あのビル・ゲイツ会長が認めてくれたのである。とてつもないカネを手に入れられるかもしれない。それとも、ビルとの共同事業になるのだろうか? こんな具合に、もはや自分で自分が何を考えてどう感じているのかさえ、わからなくなりつつあった。 急に酒が飲みたくなった。女の子を侍らせて酒が飲みたくなった。 ぼくは、自動車電話をとって会社にかけた。夏野が出た。「もしもし、板倉だけど」「あ、社長。どうでした、フォーラムの方は?」 「……電話で話すと長くなる。で、残ってる役員を集めて、六本木のいつものクラブに向かってくれ。おれ、先に行ってるから」 役員連中を呼び出すのは、もはや口実である。ぼくは、単に女の子とぱあっと酒が飲みたいだけなのだ。でも、このまま一人で飲んでしまうと、今日の混乱を会社の皆に伝えられなくなる。電話を切って、ぼくはネクタイを緩め、小野さんに声をかけた。「あ、小野さん。悪いんだけど」 勝手知ったる、といった感じで彼は笑った。「あそこですね、六本木の。一五分で着きますよ」 その店は、六本木の交差点から外苑東通りを東京タワー方向に少し歩いた左側の路地にあった。いわゆるクラブだが、プロのホステスが揃った店ではなく、アルバイトの若い女の子が多い。まあ、キャバクラとクラブを足して二で割ったようなところか。「板倉さんいらっしゃいませ、今日はお一人ですか」 入口で、もはや顔見知りとなった黒服のマネジャーが声をかけてくる。 こういわれるたびに、「ちょっと来店しすぎかな」と思う。でもまあ、相手は水商売。客の名前なんて一回で覚えるわけだから、ま、気にするのはよそう。「いや、後で四、五人来るから」そう言って、さっさと中に入る。 少し暗めの店内は、壁一面がピンクに塗られ、ピンクのソファが置いてあり、ピンクの光が照らされる。女の子の制服もピンクのミニだ。ピンク尽くしで店の子が皆可愛く見えるのがこの店の特徴である。おそらく、そのあたりのマーケティングがしっかりしているのだろう、景気の善し悪しにかかわらず、ここ数年この店は常に繁盛していた。 ぼくは、顔見知りの仲のよい(といっても店の中で、の話だが)女の子を指名し、うちの社員たちが集まるのを待った。一〇分たったか二〇分たったか、ようやく連中の到着だ。夏野、森下そして大内の三人だ。丁度いい。こいつらなら、おれの話が分かるだろう。「で、何なんですか?」 いきなり夏野が聞いてくる。興味津々、という表情だ。森下も、大内も顔を寄せてくる。「実はさあ……」 もったいぶって、話し始めると、
「こんにちはぁ」 細身の脚が二本、目の前に止まる。「わあ、なんか、皆、結構マジな話、してました?」 女の子は精一杯の営業スマイルで話に加わろうとするが、ぼく以外の三人はあからさまに(邪魔だなあ)という顔をしている。可哀相に。おれはお前らにこんな話をするより、ほんとはこの子と馬鹿話をしたいんだけどな。「実はさあ……」 今度はぼくの携帯電話が鳴った。話はなかなか始まらない。「もしもし」「イタさん? 熊谷ですけど」 会場で口にできなかった話の続きがしたいんだな。ぼくはすぐに察した。熊谷さんが続けた。「今何してんの?」「六本木にいるんだけどさ、来る?」「行く行く」 二つ返事で彼は電話を切った。 さて、話の続きだ。もう一度最初から、「実はさあ、マイクロソフトの成毛さんのところでね……」 ぼくは、今日の一連の出来事をでき得る限り正確に再現して伝えた。「ふうううん」 夏野は顔中「驚きました」という表情をしながら何度もうなずく。森下は口をぽかんとあけたままだ。大内は黙ってぼくの方を見ている。「これ。……決まりだね」 話し終わると最初に森下が言った。彼は公認会計士という肩書きからは想像できないほど短絡的なところがある。ぼくのこの話だけですべてが決まったと思ってしまうのだ。 夏野が首を傾げた。「いや、なにかあるなあ」 ぼくと同じような懸念を抱いているようだ。 しばらく会話が続いた。これはよい話か、悪い話か。結論など出るわけはない。なにせ分析に必要な何の材料もないのだ。ぼんやりとした危険な予感とビル・ゲイツ会長が認めてくれたという高揚感、頭の中ではこの二つの感情が、コインの裏と表のように交互に現れた。結局、ぼくの混乱が皆に伝染しただけだった。 気がつくと同席した女の子たちは皆つまらなそうな顔をしていた。これはまずい。「悪い、悪い。難しい話、いま終わったから」ぼくがご機嫌をとろうとすると、どたどたと足音がした。熊谷会長の御到着だ。ぼくはソファから手を挙げて声をかけた。「やっほ ー、熊谷ちゃん」「おう、イタさん。あ、皆さんおそろいですね」「どうもどうも久しぶりです」「こちらの方こそ。あ、ぼく、ロックにして。あと水ちょうだい」 ヘネシーを喉に流し込むと、熊谷さんはぼくに尋ねた。「で、イタさん。どうするの?」「そんな、突然言われてもねえ」「でも……、すごいじゃん」「まあねえ。でも、まだわからないからね」 そう、本当にわからないのだ。どうすればよいのか、そもそも何が起こっているのか。ぼくには何もわからないのだ。そんな状況で友達とはいえ外部の人間に多くを語るのは、賢明ではない。とりあえず何回か乾杯して、何回か女の子を代え、そして店を出た。 白金の家に着いたときには、時計は午前零時を回っていた。 玄関を開けると同時に、レトリバーが大きな体で抱きついてきた。部屋着姿の彼女が奥から現れた。「ただいま」「おかえりなさ ~い。殿!」なぜか彼女はぼくを殿と呼ぶ。そのころ、彼女は仕事を辞め、この家に住んでいた。 いつもなら愛想よく返事をするところだが、今日は彼女も犬もぼくの目に入ってこない。 そのまま台所に向かい冷蔵庫を開け、ミネラル・ウォーターを飲み、それから熱いシャワーを五分ほど浴びた。バスタオルで体を拭き、喉が渇いたのでもう一度、ミネラル・ウォーターを飲んだ。歯を磨き、ベッドに入った。 眠れない。 頭の後ろがぼおっと熱くなっている。おれは嬉しいのか。不安なのか。時間に反比例するように、どんどん目が冴えてきた。 こんなときにやることは一つだ。 ぼくは CDラックから、バン・ヘイレンのアルバム「 5150」を取り出し、ジーンズと皮のブルゾンに着替えた。ドライビングシューズを履き、駐車場へと向かう。猫の小便防止用にかけてある灰色のカバーを丁寧に剥ぎ取ると、中から艶やかな真紅の車体が現れる。この瞬間、いつも女の服を脱がせているような気分になる。 一二月も末だ。気温は零度近いだろう。暖機に時間をかける必要がある。ドアを開き、低いシートに体を沈め、足を投げ出し、キーを挿し込んで、セルモーターを回した。 V型八気筒四〇バルブエンジンがくぐもった重い音を立て、背中の向こうで細かく振動を始める。煙草に火をつける。この一服が最高だ。一瞬、今日の出来事が頭をよぎる。 水温系の針が七〇をさしたのを確認して、おもむろにクラッチを踏んでギアを左前方のローポジションに入れる。パーキングブレーキのレバーを持ち上げ、ボタンを押してリリースする。エンジンは吹かさずアイドリングしたままクラッチをゆっくり繋ぐ。回転数をまったく変えずに車はするすると前進を始める。一四〇〇キログラムの車体に三八〇馬力のエンジン。スタートはあっけない。 首都高速天現寺の入路に向かうまでの約一キロ、油温が九〇度近くになるのを待つようにゆっくり車を走らせる。料金所の手前で電動幌を空ける。冷たい空気の固まりが頭の上から跳び込んできて、胸の辺りをすべり落ち、股間を抜け、足元へと流れる。全身の神経にスイッチが入る。
料金所の係員は見てはいけないものでも見るような目つきでカネを受け取り、領収証をよこす。その領収証を車内に適当に放り投げる。アクセルを踏む足に力が入る。瞬時に本線に入る。 この瞬間、経営者の肩書きも三二歳の分別も全てが後方へと捨て去られる。 首都高目黒線から環状線内回りに入る。芝公園の S字を抜けた辺りでタイヤが十分温まる。オーディオを ONにする。バン・ヘイレンが両脇のスピーカーからけたたましく叫び出す。動脈を流れる血がぐつぐつと煮えてくる。 浜崎橋から横羽線を経由してレインボーブリッジへと向かう。世界で一番スポーティな V 8は八五〇〇 rpmで快音を響かせる。横羽線から一一号線レインボーブリッジへの分岐の S字でいったん三速にヒール&トウで減速する。道は斜め上を向きながら左方向へ大きくねじれる。自ら発した快音が壁にぶつかって再び耳に届く。 レインボーブリッジに入る左コーナーに達するまでに、一気に六速までシフトアップ。すぐに減速してコーナーをかわすとそのまま橋を抜け、横浜方面へ分岐する。湾岸線へ合流して東京湾トンネルを潜る。ナトリウムランプのオレンジ色の世界を駆け抜ける。ここが最も好きな場所だ。フェラーリサウンドが幾重にも反射して全身を包む。三車線の広い道に他の車はほとんどいない。再び加速して六速までシフトアップする。 右後方から鉄色のスカイライン G T― Rがものすごい勢いで接近してきて、こちらの脇にぴたりとつける。運転席の相手と目が合った。〝ランデブー〟を楽しめそうな奴だ。ときにこちらが、ときに向こうが、前になり、後ろになる。お互いのリズムが合い、体が心なしか軽くなったような気がする。奴さん、なかなかの腕だ。 大黒ふ頭が近づく。横浜ナンバーの GT― Rは、一瞬、爆発的な加速で前に出た。そしてハザードを素早く二回。それに合わせてこちらも遅めのパッシングを一回。そのまま彼は三ッ沢方向に直進、こちらは左に曲がって長いループへとお別れだ。 大黒ふ頭のパーキングエリアで車を止め、料金所を抜けてからここまでの数十分間ほどの「旅」を反芻しながら一服する。 このときだ。今日の出来事の整理がなぜかできてしまう。「そうだ、先方からの連絡を待とう。こちらからコンタクトする状況じゃない。それまでは今までのとおり事業を進めればいい。惑わされないようにしよう」 空を見上げる。オリオン座はすでに傾き始めていた。星がやけにたくさん見える。空気が澄んでいるせいだろう。それを確かめるように深呼吸を繰り返し、ぼくは行きの三倍の時間をかけ、ゆっくりと帰途についた。 九六年一二月二二日。ついに米国でハイパーシステムが稼動し始めた。 筒井の手柄である。 一〇月、ぼくは技術担当役員である彼を米国に派遣した。コンピュサーブのキャンセルなどで遅れに遅れていたプロバイダー事業の自主立ち上げと、そしてもちろんハイパーシステムの稼動。これが筒井に課せられた使命である。 米国でのハイパーシステム稼動は、当社にとって最重要課題のひとつだった。なにせナスダック公開の成否がここにかかっている。いかに、日本でのビジネスが順調だろうと、米国での展開に躓きがあっては、とても現地での上場はおぼつかない。しかもその日本のビジネスが、さまざまなトラブルの影響で必ずしも予定していた成果を上げていない。だからこそ、米国の事業は、より一層の重みを持つようになっていた。筒井も結果を出すまで帰れない。事実上期限なしの長期出張だ。妻子を東京に残し、彼はシリコンバレーにアパートメントを借りた。仕事が好きでたまらない男だったが、さすがにこの任務はハードだったろう。 それから二カ月間、筒井とは頻繁にメールのやり取りをして状況を確認していたが、かなりの苦労がうかがえた。果たして本当に立ち上がるのだろうか。そう思っていた。年末も押し迫った二二日の午後一〇時、渋谷のオフィスに一本の電話が入った。秘書はすでに帰宅していない。来年の計画書を作成すべくディスプレイとにらめっこしていたぼくは、受話器をとった。「もしもし」「やりました! 社長!」 電話口の筒井は鼓膜が破れるほどの大声で怒鳴った。「動いた、動きました!」「そうか、動いたかあ……」 ついに連中は動かした。ハイパーシステムを動かしたのだ。 正直いって、ぼくはまさか二カ月で本当に立ち上げられるとは予想していなかった。というのも、彼らはさまざまな制約を受けながら開発することを強いられていたからだ。プロバイダーの自主運営もそうだが、実はもう一つ大きなハードルがあったのである。 米国では、日本のシステムの一端を担っているタンデムコンピューターズを利用しなかったのだ。 前述の通り、日本におけるハイパーシステムの開発を担っていた協力会社の一つが、このタンデムコンピューターズだった。同社の本拠地は米国だ。当初から米国進出を念頭においていたぼくは、タンデムの和泉専務に「米国で事業展開するときもお願いします」と声をかけてあった。 しかし、タンデムのシステムは日本で問題だらけであった。バグの余りの多さでトラブルが続出した。しかも同社の技術者はそのトラブルの多くを自前で解決できず、うちのスタッフにずいぶんと頼った。この調子で米国のシステムをつくられたのではたまらない。我々は米国タンデムをキャンセルし、自主開発でシステムを構築した、というわけだ。筒井たちの努力がなければ、とても年内の稼動は不可能だった。 筒井からの電話を切ったあとも、ぼくはしばらく机の前で考えごとをしていた。ようやく米国でもハイパーシステムは立ち上がった。それでも心は晴れやかにならなかった。 とても手放しでは喜べない状態だったからである。米国での事業展開には、すでに問題が山積していたのだ。 第一に、タンデムをキャンセルした関係で、ハイパーシステムはそのスペックの三〇%ぐらいの機能しか実現していなかった。たとえばハイパーシステムの一番の売りである「ターゲティング機能(ユーザーのプロフィールに合わせて広告を送り出す機能)」が使えなくなっていた。とりあえず、全ての広告をユーザー全員に送出することにした。これでは、見た目はハイパーシステムだが、中身はほかのインターネット広告とほとんど変わらない。 第二に、プロバイダー事業の自主開発で予想外のコスト負担が発生していた。自主開発にはやはり限界があった。コストダウンを図るうえでも、外部のプロバイダーを新たに探す必要があった。 第三に、広告暮集活動についても、ニューヨークの大手広告代理店を中心に営業をかけた結果、最初はともかく他の地域でのクライアント獲得がはかどってなかった。今後この広いアメリカをどう攻めていくのか、具体的な策はまだ何も決まっていなかった。 手をこまぬいているわけにはいかない。ぼくは三三歳の誕生日を迎えた二日後の九六年一二月二八日、夏野を連れて米国へと渡った。ハイパーシステムの立ち上げからほぼ一週間がたっていた。 サンノゼのオフィスにはニューヨークのメンバーを含む多くの社員が戦略会議のために集まっていた。秋から長期出張している筒井もそこにいた。我々は米国のハイパーネット事業の問題をどう解決するか、話し合った。現在満たされていない機能をどう使えるようソフトを改良するのか。それに全米の広告主
をどう集めていくのか。「日本とは違うんだ。米国は地域が基本になる。ニューヨークのマジソンアベニュー(広告代理店が集まった街である)だけ攻めても駄目なんだ」、ハイパーネット USAのマーケティング担当者は言った。「まず全米を四つの地域に分ける。そしてそれぞれの地域に支店を設け、それぞれに数人の営業マンをつけて……」 彼の言う通りだった。しかし、そこまでの営業展開をするだけのカネが当社にはない。現実には、到底無理な提案だった。 「OK. But 、夏野、話してくれよ」 最初自分で話そうとしたが、すぐに夏野にバトンタッチした。 ぼくは焦っていた。目の前の問題に答える余裕がなかった。夏野が英語で何かしゃべっているようだったが、その声は遠かった。 米国での事業展開を根本的に考え直さなければならない。ナスダック公開だって控えているのに、こんな状態じゃ埒があかない。どうすりゃ広告をとれるんだ。大体、カネがないじゃないか。いや、そもそもカネを集めるためにナスダックに公開するんじゃなかったのか。話が逆だ。でも、こんな状態ではとても公開なんて……さまざまな思いが頭の中で絡まった。絡まったまま放置された。解決の糸口は何一つ見えてこない。後頭部が熱くなってきた。「ねっ、社長」 突然、夏野がぼくに同意を求めてきた。 なにも聞いていなかった。一瞬の間があって、ぼくは口を開いた。「とりあえずサンノゼに限定してテストサービスという位置づけにしておいたほうがいいな」 深い考えがあっての言葉ではなかった。最も現実的な妥協策を口にしただけだった。「そうですね」夏野がうなずく。表情が少々暗い。それでも米国のスタッフが落胆しないように話してくれるだろう。 夏野はかなり回りくどい言い方で、ぼくの発言を米国スタッフに伝えた。肩をすくめる者、手を広げる者、テーブルの上で手を合わせうなずく者。でも皆、納得したようだ。そりゃそうだ。先立つものがないのだ。現実的なところから改善していくしかない。 今振り返ってみると、米国での事業展開は常に行き当たりばったりだった。 プロバイダー業務の問題。広告営業の問題。現地でのシステム開発の問題。いずれの作業も最初は米国の企業と提携して外部委託するはずだったのが、スタートとほぼ同時にごたごたが起きて、結局自前でやる破目になった。が、日本でも一社でこなすのは難しいこれらの業務を、ハイパーネットのような弱小ベンチャーが異国の地で単独で展開するのは所詮無理があった。 考えてみれば当たり前の話だ。でも企業の失敗というのは、たいていの場合、目の前の「当たり前」が見えていないときに起きるものだ。それにしても米国での事業展開がこんな状態なのに、一方では日本でナスダック公開会議を連日のように開いていたのである。 数時間に渡った会議の終わりに、ぼくは米国におけるハイパーシステムの今後の方針を打ち出した。すなわち、自前のプロバイダー業務を、ここシリコンバレーのサンノゼに限る「地域限定」サービスと位置づけ、とりあえず同地区での広告主獲得を含めた事業の成功を目標とする。他の地域に関しては、ここでの成功の目鼻がついた時点で改めて論議する。 やはり米国は広い。考えていたよりもずっと広い。 翌日、ぼくは、筒井と夏野とそして数多くの問題をサンノゼに残し、日本に帰った。大晦日の成田は、正月を海外で過ごす家族やカップルでごった返していた。年末のどこか浮かれた空気の中、ぼくは迎えに来てくれた小野さんのハイヤーで東京へ戻った。 急いで帰国したのにはわけがあった。韓国の財閥が提携をしたい、といってきていたのである。 米国でハイパーシステムを発表したのが九六年六月。この記者発表に反応したのは米国企業ばかりではなかった。ヨーロッパ、そしてアジア。さまざまな国のさまざまな企業からさまざまなアプローチがあった。中でも熱心だったのが韓国の企業である。それも中小企業ではない。いずれ劣らぬ大財閥だ。九六年夏頃から三星(サムスン)グループ、現代(ヒュンダイ)グループほか三社ほどの財閥が当社に連絡をとってきた。 どことどんな契約をむすぶのか。九六年の秋から冬にかけて社内で何度か議論した。結論はなかなか出なかった。 韓国で六番目ほどの規模のとある財閥は、数億円のライセンス料を契約時に支払うから、韓国国内での独占使用権を譲れといってきた。このときのハイパーネットにとって数億の契約金は喉から手が出るほど欲しい。魅力的な提案だった。 一方で韓国屈指の大財閥、サムスンは、あくまでジョイントベンチャー方式の提携がしたいと打診してきた。サムスングループにはチェイル・コミュニケーションズという韓国最大の広告代理店があった。ハイパーシステムの展開と広告代理店は切っても切れない関係だ。チェイルと組めば、韓国での将来的な成長は半分約束されたようなものである。しかも、サムスンの話はこのチェイル経由での申し入れだった。 ぼくは悩んだ、目先のカネか、それとも将来の成長か。 年末の米国出張から帰ってから正月が明けるまでの数日間、九六年から九七年と年をまたいで、ぼくはどこと組むか一人でずっと悩んでいた。思えば贅沢な悩みである。世界的な大企業との提携について悩んでいるのだから。しかも選択権はこちらにある。 でもこのときのぼくには、その悩みを楽しめるほどの余裕はまったくなかった。 すでに多くの企業がぼくの事業に投資をしたり、業務提携を結んだりしていた。ハイパーシステムは、もはやぼく個人の持ち物ではなかった。しかも周囲の期待が膨らむ一方で、実際の成果は思ったより上がっていない。ごたごたも多い。米国も問題山積だ。 とにかく一刻も早く健全経営を宣言できる状態に脱却したかった。 ならば、どちらの財閥を選ぶべきか。 夜は目がさえて眠れなかった。おかげで昼間は霞がかかったように頭が働かなくなった。フェラーリで暴走してストレスを解消する気にもなれなかった。クラブで女の子をくどいて発散する気にもなれなかった。それに考えてみれば正月だ。その手の店はやっていなかった。 犬でもつれて散歩にでもいくか。ぼくは一年ですっかり大きくなったレトリバーに引っ張られながら、葉が落ちてすかすかになった白金の並木坂を下った。いつもは外車の路上駐車が目立つその通りも、正月の今日は静かでがらんとしていた。 ハイパーシステムの事業を本格的にスタートしてから、ほぼ一年が過ぎていた。そのたった一年の間に、通常の起業家がへたをすると一〇年かかっても出会わないようなことを、早回しでビデオを再生したようにぼくは七倍速で経験してしまった。 六本木ベルファーレで記者発表をした。日経新聞の一面に記事が載った。ソロモンやら野村證券やらが米国ナスダック公開の話を持ってきた。米国での事業進出が決定した。多くの米国企業がアプローチしてきた。ニュービジネス大賞と通商産業大臣賞をもらった。しまいには、何が目的か未だによくわからないのだが、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長が面会を求めてきた。 すべてが現実だった。 一方で、さまざまなトラブルが起きた。有能なスタッフが意見の違いから去っていった。頼りにしていたアスキーの浜田さんが同社を辞めた。電通と電通の関連代理店を怒らせた。そのせいか、 IMSの受注が極端に落ちこんだ。高額なタンデムのシステムは期待に反してトラブル続きだ。そのせいでハイパーシステム
の一部が機能しなくなり、見込んでいた広告売り上げが立たなくなった。現地企業との協力関係をうまく築けず、米国進出ははかどっていなかった。 これもすべて現実だった。 坂の下を抜け、いかにも下町といった風情の小さな商店街のコンビニに寄り、雑誌をちょっと立ち読みした後、飲み物とドッグフードを買って、ぼくは犬と家に戻った。 九七年一月六日。その年最初の経営会議を開いた。 正月明けだというのに、皆無口だった。なぜ無口なのかわかっていたが、あえて口にしなかった。スタッフが会議室に全員そろったところを見計らい、ぼくは立ち上がって、精一杯大きな声で挨拶した。「明けましておめでとうございます」 なにかに打たれたように全員が大声で返事をした。「おめでとうございます」「最初の議題だけど」 スタッフを座らせると、ぼくは立ったまま話を始めた。「韓国の提携先はサムスンにする」 皆黙ったまま、ぼくの方をじっと見ている。「正月にいろいろ考えたけど、サムスンにする。夏野、それでいいよね」 ほんの二日前に米国から帰ってきたばかりの夏野に、ぼくは話を振った。彼は正月休み返上で、米国における広告営業活動の組識作りに奔走していた。 「OKです。じゃ、すぐにサムスンとチェイルに連絡を取ります。それと……」 その後しばらくは、夏野が温めていた韓国での事業展開の方策を彼自身が語った。国土が狭く大財閥の市場占有率の高い韓国の場合、一度チェイルのような財閥系有力代理店と確固たる関係を築けば、かなり計画的に事業を展開できること。インターネットがこれから急速に普及することは目に見えているから、市場の将来性は明るいこと等々──。 夏野の話が終わると、窓を開けたわけでもないのに、部屋の空気が変わっていた。 久しぶりにポジティブな業務目標が生まれたのである。誰にとっても目の前に仕事が、しかも前向きな仕事があるというのは救いである。 夏野の率いる海外戦略部門は、直ちにサムスンとの契約に走った。それから一カ月後、二月に基本合意が固まった。サムスングループと当社は韓国に共同出資で合弁会社をつくることになった。資本金は一〇億ウォン。出資比率は向こうが四九%、当社が五一%である。 新会社の名はハイパーネットコーリア。当社はこの新会社に技術支援の義務を負う代わり、ライセンス契約を結び、全売上高の五%をロイヤルティとして受け取ることができる。さらに当然株主だから、このライセンス料とは別に先方の利益を配当という形で得られる。 ハイパーネットコーリアの財務的な支援はサムスングループの広告代理店チェイル・コミュニケーションズが一括して行う。すなわち我々に資金負担はない。我々が貸すのは「知恵」だけというわけである。これならば、同社がうまく立ち上がらなくても、当社の損失は株の出資分だけで済む。逆に軌道に乗れば、放っておいてもロイヤルティ収入が増える。 米国で事業を全部自前でやろうとしてなかなか立ち上がらなかった経験を生かして、負担の少ないライセンス方式をとったわけである。ちなみにこの発想は、のちに国内における事業見直しをするときの改革案のヒントともなった。 とにかくこれでアジア進出の糸口ができたのだ。新年に入ってぼくは初めて笑うことができた。 けれども、これがぼくの起業家としての最後の光明だった。そしてこれから一年かけて、ぼくは頂点から滑り落ちていく。 最初はソロモンブラザースからの電話だった。 それは九七年一月のまだ前半のことだった。 韓国進出の準備を進める一方で、相変わらずのナスダック公開の準備会議が毎日のように開かれていた。夏野と韓国がらみのミーティングを終え、社長室に戻ると、キーボードの上に秘書からのメモが置いてあった。「ソロモンブラザーズから TELあり。 ●日 ■時来社します」 いやな予感がした。基本的にソロモンの連中との仕事は、定例の準備会議で済んでいるはずだからだ。個別にうちを訪れる用事は、たった一つを除いて、ない。 ハイパーネットに好材料はなかった。コンピュサーブの契約撤回、システムトラブル、米国での予想外のコスト増、日本での広告収入の伸び悩み。例外は韓国財閥との提携くらいか。 そして会議を通して、ソロモンはそれらのトラブルを基本的に皆知っていた。彼らの用事が、その「一つ」でないことを祈るしかなかった。「どうもいつもお世話になっています」 その日、いつも会議で顔を合わせているソロモンの担当者は、ぼくの部屋に入ってくるなり、頭を下げた。よそよそしく見えたのはぼくの気のせいだろう。「こちらこそお世話になっていいます」、さっと挨拶した後、ぼくは単刀直入に聞いた。「で、何かまずいですか」「まずい」とあえてこちらから言ったのは、相手に本題を話しやすくするためだ。 誘い水に彼は乗ってきた。「ええ、実はね、社長。ちょっと遅らせたほうがいいんじゃないかと思いまして」 「……」 予感は的中した。やはり、「たった一つ」の用事で訪れたのだ。三カ月後、九七年三月に予定していたナスダックの公開を延期しろ、というわけである。「何が一番の原因ですか?」 ぼくは驚かなかった。それより山積した問題のなかで何が一番なのかを知りたかったのだ。「ええ、米国の株価も良くないですし、それに思ったほどの事業の成績が……」 ソロモンの説明によれば、公開延期の理由は二つ。米国の株式市場の低迷、そして公開水準に満たない当社の業績である。 どちらが本当の理由なのか。多分両方とも本当の理由だろう。
それまで好調だったナスダックのインターネット関連銘柄の株価がここのところ急激に下がっている話は、ぼくも米国のスタッフから聞いていた。米国では、「ブームの終焉」を唱える向きも登場していた。 このときから数カ月後に計上されるハイパーネットの九七年三月期の決算は、売上高で七億八五〇〇万円。経常損益はなんとマイナス九億八四〇〇万円だった。一方、ソロモンをはじめ証券会社が考えていたハイパーシステムの売上目標は半期でざっと一〇億円。実態とはかけ離れた数字であった。 いずれにせよ当社の業績が彼らの予想通りであっても、市場の低迷で株価が悪ければ、彼らの利益も少ないし、リスクも増える。逆に多少業績が悪くても市場に勢いがあれば証券会社のことだから無理やり公開させるかもしれない。しかし、市場も悪ければ業績も悪いでは、天下のソロモンも手の下しようがない。かくして公開は時期尚早だという判断になったわけである。 それにしても、この期に及んでぼくは証券会社との間に意志の疎通が決定的に欠如していたことを思い知らされた。その一つがこのハイパーシステムの売上目標の話である。九月時点で売り上げが当初の計画よりだいぶ下回っていたのは事実だ。が、ぼくもまさかこんなに高い目標を証券会社が設定しているとは思いもよらなかった。 考えてみれば、サービス開始は九六年六月一九日。わずか三カ月しか時間がない。その間にいきなり一〇億円を売り上げろというわけだ。ちなみにこの目標数値を証券会社からきちんと聞かされたのは、まさにこの日が初めてだった。こんな肝心な話を、社長と証券会社の間で事前にきちんとしていなかったのだ。これでは、株式公開などできるわけがない。 ソロモンが延期しろ、というならば、それに従うしかなかった。公開で発行する新株はいったん彼らが買い取り、市場に販売する。当事者である彼らが無理だというのならば、こちらとしてはどうしようもなかった。 ソロモンの担当者が来社した数日後、ぼくはもう一つの引き受け会社、野村證券にこの話をした。「ソロモンが延期したほうがいいと言ってきたんですよ」 野村証券の御一行にこう話すと、彼らの反応は予想していたのとやや異なっていた。 ある役員はぼくを励ますようにこんな風に言ってくれたように記憶している。「板倉社長がそれでも公開したい、というならうちは御伴しますよ」。野村なりの勝算があるのか、それともソロモンとの対抗上の発言なのか、ぼくにはよくわからなかった。それでもこの時はまだ望みがあるのかと思い、嬉しかったのも確かだ。 ただし──、ぼくは考えた。そもそもナスダック公開は目的ではなく、資金調達のための手段である。足場が固まっていないのに、無理やり公開するのはまずい。米国のインターネット関連の株価が下がっているのも気にかかる。ぼくは野村の好意的な申し出をとりあえずお断りすることにした。 それでも、ぼくの公開に対する意欲は強くなる一方だった。とはいっても、当初のように「日本初のナスダック公開企業」という〝看板〟に憧れていたわけではもはやない。事態はもっと切迫していた。そう、カネが不足していたのである。 資金繰りは厳しさを増していた。銀行からの融資はいずれも短期だったから、風向きが変わればいつ返せといわれるかわからない。そんな状況だけに早く自己資本を充実したかった。 いつのまにか、ぼくは「夢」のためではなく、「カネ」のために、公開しようと考えるようになっていた。いま考えれば、これは明らかに本末転倒だ。でも、この時は他に打開策を思いつかなかったのも事実だ。 そもそもなぜナスダック公開を目指したのだろうか。ぼくは改めて考えた。 日本国内の店頭市場に比べ、短期間で公開規準を満たせるからだ。日本の場合、事業の増収増益が不可欠だし、審査にも時間がかかる。ハイパーシステムという新規事業にかなりの事業資金を投入した当社にとって、日本国内での株式公開基準のハードルはかなり高かった。一方、ナスダック公開のために必要な条件は、米国でのハイパーシステム稼動だ。ただし、本格稼動するにはかなりの資金が必要となる。 そこでとりあえず日本で上げた売り上げと金融機関から引っ張ってきた資金を投じて、米国で試験的にサービスを立ち上げ、ナスダック公開を達成。市場から調達した資本を元手に米国での事業を拡大する。結果、多くの利益を得、それが国内の事業にも還元され、今度は日本での公開を果たす……、以上が当初ぼくと証券会社が描いたシナリオだった。 しかしナスダック公開を延期した以上、このシナリオは根底から崩れた。まず、近い将来計画していたハイパーネット USAの本格稼動は資金面からいつになるかわからなくなった。かといって米国から撤退すると、その延期したナスダック公開に大きな支障がある。これから米国で公開しようという会社が、核となるサービスを始めたと思ったらあっという間に止めてしまったというのでは話にならない。もはや米国での事業はストップできない。ところが、その米国に事業資金を投じた結果、日本における資金繰りは悪化の一途を辿っている──。 事態は、当初のシナリオとはまさにまったく逆の方向へと進みつつあった。 ハイパーシステムの事業形態を根本から変える必要がある。 おそまきながら、ぼくはそのことに気がついた。米国から戻り、ナスダック公開を延期して、ようやく気がついた。 経営者として一五年目を迎えていた。一九歳で社会人になって以来、ぼくは社長以外の仕事をやったことがほとんどなかった。経営危機も何度か経験した。そのたびに知恵と努力と人脈、そして運でクリアした。この時点のハイパーネットの置かれた状況はかなり深刻なものだった。にもかかわらず、ぼくは過去の体験から、心の奥底では「まだ何とかなる」と楽観視する部分があった。 ぼくが新しいビジネスを立ち上げたときは、いつも直前にトラブルや経営危機があった。 IMSのときもその前のボイスリンクのときもそうだった。だから今回の苦境も必ず乗り越えられる、まだそう信じていたのである。重要なのはアイデアだ。苦境を乗り切るアイデアが必要だ。 ぼくはもう一度、ハイパーネットのかかえる問題を整理してみることにした。問題はうんざりするほど多かった。 まず、ナスダック公開準備のために多くの資金を使ったが、結局延期をしなければならなくなったこと。ハイパーネット USAに予想以上に資金が必要になったこと。システムのトラブルもあって、日本での広告収入が思ったように伸びなかったこと。電通ワンダーマンとのトラブルから IMSの売り上げが伸び悩んでいたこと。 列挙して気がついた。問題の数は多いが、根本的な原因はただ一つだ。 カネである。それが決定的に足りないのである。解決方法は二つ考えられた。一つ、新たに大量の資金を調達する方法を考える。そしてもう一つ、この時点で金食い虫と化したハイパーシステムを金のかからない業態に変更する。 前者に関しては、いずれにせよ金融機関など外部の協力が必要だ。となると、自らのアイデアで解決でき得るのは後者の方だろう。では、どんな手が考えられるか。 韓国との提携話、ビル・ゲイツ会長との会談……。一連の出来事を思い出しているうちに、わりあいと簡単に解答が導き出された。ライセンス方式である。ハイパーシステムのライセンスを第三者に提供して、経費の削減を達成する。いわば、「ハイパーシステムの OEM提供」だ。 これまでハイパーシステムの事業では、あらゆることを自前でやってきた。広告募集活動、データベースセンターの運営、クライアントソフトウエアの
開発、ユーザーサポート、ブランドそれにプロバイダー事業に対する経済的負担。すべて当社がリスクとコストを負担していた。しかも肝心の広告収入はさほど上がっていない。負債が増えるのも当然である。 ハイパーシステム OEMの場合、多大な投資をしたデータベースセンターは当社自身で運営するが、それ以外のすべての業務を第三者に開放する。当社にとっては長期的な戦略のうえで大切なデータベースはそのまま蓄積できる。ライセンス方式で業務を外に任せれば、コストもリスクも大幅に削減できる。しかも、「ハイパーシステム」の普及速度は OEM化により格段に早くなるはずだ。 ぼんやりしている時間はなかった。ぼくはすぐに、社内にハイパーシステム OEMの販売に全力を挙げるよう指示した。 ここでハイパーシステムのライセンス販売について具体的なイメージを説明しておこう。 これまでは、「ホットカフェ」という統一ブランドのアプリケーションソフトをユーザーが自分の端末で操作し、そこで広告を随時表示していた。今回の OEMでは、まずこの「ホットカフェ」のブランドをライセンス先の企業や組織が自分の好みに応じて変えられるようにする。さらにライセンスを受けた企業は、自分で独自に集めた会員に対して、広告の枠を自由に販売・活用できる。すなわち、ライセンス先の企業はインターネット上に自分の会員向けの「メディア」を持てるわけだ。 ライセンスの販売先として有力なのは、すでに独自の会員名簿を持っている組織、具体的には通信販売会社やクレジットカード会社、場合によると宗教団体などが考えられた。たとえば、カード会社がうちのライセンスを受けて、自分のブランド名でインターネットプロバイダーサービスを始めたとしよう。まず広告枠をカード加盟会社に販売することで、広告収入を得、それを原資に会員に「インターネット無料提供」サービスを展開できる。会員にしてみれば、無料でインターネットが利用できるうえに、広告画面を通して自分の所有カードを使うにあたって「お得な」情報を得られる。加盟店は、カード会員に確実に情報を届けられるために、効率的な情報告知が可能になる。カード会社は、このサービスの展開を宣伝することで会員数の増加を見込める。そしてハイパーネットは、濡れ手で粟の「ロイヤルティ収入」を得ることができる。 また、既存のプロバイダーも有力な客になり得た。意外に知られていない事実だが、インターネット・プロバイダーは電子メールを使うかダイレクトメールを送る以外に会員とコンタクトを取る方法がない。会員にしてみれば、接続する段階でも、実際に接続している最中も、プロバイダーを利用しているという感覚を得られない。それに、プロバイダーも自社のユーザーである会員にリアルタイムで情報を提供できない。だからこそ、プロバイダーが OEM先となってハイパーシステムを利用する価値は十二分にあった。 彼らがハイパーシステムのライセンスを受ければ、自分の会員を対象とした「広告メディア」が瞬時に誕生する。たとえば、地域プロバイダーがハイパーシステムを導入して会員にホットカフェを提供すると、その地域限定のネット広告メディアが誕生することになる。プロバイダーは会員の利用料に加え、地域の企業に広告を出してもらうことで新たな収入源を確保できる。 OEM戦略は、ハイパーシステム稼動以来初めての大型改革だった。ぼくは自分の考えが正しいのかどうか、外部の人間の意見を聞くことにした。かつてならぼくがまず相談するのは浜田さんである。しかし、彼はもう提携先のアスキーにはいない。 そうなると、仕事上、ぼくが最も信頼を置いている人間はただ一人しかいない。 ぼくは住友銀行の日本橋支店に電話を入れた。「支店長の国重さま、お願いします」 国重さんはいった。「それ、住友銀行で、できないかなあ」 ぼくは、住友銀行日本橋支店の支店長室でその言葉を聞いた。 ハイパーシステムを OEM化して、当社のコストダウンとサービスの普及を同時に達成する──。この改革案にぼくなりの自信はあった。が、正直言って国重さんがどう評価するか、いささかの不安があったのも事実だ。住友銀行が融資してくれたのは、あくまで「ハイパーシステムをすべて自前で展開するハイパーネット社」である。業務のかなりの部分を外部に出してしまうこの発想が受け入れられるかどうか、微妙なところだった。 国重さんにぼくは自分のアイデアをできる限り丁寧に説明した。これ以上できない、というほどきっちり説明した。その説明に対する反応が、この一言だったのである。「すごくいいアイデアだ。だからいっそのこと、うちが OEM第一号になるというのはどうだろう」、国重さんは真剣な表情で語った。 この日は、単に OEM戦略に対する感想が聞きたかっただけだったので、正直なところぼくはびっくりした。もちろん住友銀行が OEM第一号になってくれるのは、嬉しい話だし、宣伝にもなる。それに住友がお客さんになれば、当社に投資している他の企業にも安心感を与えるだろう。 それにしても、いきなり国重さんの口から「うちがやりたい」という言葉が出てくるとは思わなかった。それなら話が早い。ぼくはその場で住友銀行がハイパーシステム OEMをどう利用できるか、具体的なイメージを国重さんに提案した。「まず、銀行は毎年春になると、新卒社会人の口座獲得のキャンペーンをやりますよね」、ぼくはアイデアを話し始めた。「そのときにぬいぐるみとかいろいろなプレゼントするじゃないですか」 黙ってうなずく国重さん。「あれに代って、住友銀行に口座を開設すると無料でインターネットが楽しめる CD― ROMをプレゼントするというのはどうでしょう」「プレゼントしてどうなるんだい」「その CD― ROMの中にはホットカフェならぬ──うーん、住友カフェとでもしておきましょうか、とにかく住友の名をつけたアプリケーションソフトが入っていて、受け取った新規口座加入者は自宅のパソコンでそれをインストールするとすぐにインターネットを無料で利用できる寸法です。もちろんプロバイダー業務はどこかに委託すればいいわけです」 ここまで話して一息ついたあと、ぼくは続けた。肝心なのはここからだ。「住友銀行は住友カフェのすべての広告枠を持てるわけです。これは、一つの広告媒体を独占所有するようなものです。こうすれば利用法はいくらでもあります。たとえば、外部から独自に広告を集めても利益になりますよね。銀行がそんな利益を上げるのは問題だ、というなら、こんな手もあります。住友さんともなればたくさんの取引先があるでしょう。その取引先企業に広告枠を提供することで一種の顧客サービスと位置づけ、他行と差異化できます。この手は新規の取引獲得のときにも使えます……」 こんな具合に、ぼくは思いつく限りのメリットを並べ、ひたすらしゃべった。 こんな話もした。ハイパーシステムの特徴であるユーザーの属性にあわせて広告を個別に出せる機能を使えば、銀行側で把握した個人情報、たとえば個々の預金残高などを因数にして、さまざまな金融商品の広告もできる。たとえば残高が多い人には MMCの広告をするが、残高の少ない人にはカードローンの広告をする。どうです便利でしょう──。我ながら、頭も口も実によく働いた。 さすがに国重さんは頭の回転が速い。ぼくの話を一二〇%理解してくれただけではなく、それってインターネットバンキングにも使えるんじゃないの、
と水を向けてきたのだ。 もし住友銀行がハイパーシステム OEMを導入しておけば、今後インターネットバンキングを開始する際に、他行に比べかなり有利になることは十分想像できた。なにせ自社のネットワークを持っているのと同じである。外部に委託した時に発生するセキュリティの問題に関しても、安心してサービスを提供できるはずだ。「そうだね、いろいろできるよな」 やはり国重さんは違う。ぼくは、銀行の役員とは思えない柔軟な発想に舌を巻いた。 数日後、その国重さんから電話が入った。「例の件、ハイパーシステムの OEMをうちが利用する件だけど」「はい」「吉田副頭取と会ってくれないかなあ」 びっくりした。こんなに早く OEMが実際のテーブルに乗るとは。しかもいきなり副頭取である。光が差してきたような気がした。 九七年一月のたしか一四日だったと思う。ぼくは、大手町にある住友銀行の東京本店に夏野を連れてうかがった。秘書の女性が出迎えてくれ、ぼくたちは VIP専用エレベーターで最上階に案内された。真紅の分厚いじゅうたんが敷かれたフロアの奥に通された。 見晴らしのよいその部屋には、大きなダイニングテーブルが鎮座していた。優に二〇人は食事ができるだろう。あまりに広大なテーブルだったので、最初どこに座ったらいいのか、戸惑うほどだった。住友からは吉田博一副頭取、調査部長、そして国重取締役、我々の方は夏野とぼく、計五人がその席についた。 挨拶をしてしばらくすると、京懐石風の和食が次々に運ばれてきた。食べ物にさして執着心のあるわけではないぼくの目にもかなり手の込んだ料理であることはすぐにわかった。 豪華な食事を前に、ぼくはハイパーシステムの OEM化について説明を始めた。技術的な用語をなるべく避け、わかりやすく、熱意はあるが、あくまでジェントルに。こんなに気を配ってプレゼンしたのは初めてだったかもしれない。文字通り当社の命運がかかっているのだ。 一通り話を終えると、黙って聞いていた吉田副頭取がこんなことを口にした。「ぼくは技術のことは良く分からないが、常識的に考えて、よいものはよい、と思う。その話は面白い。うちでやりたいなあ」 思わず膝の上で拳を握り締めた。吉田副頭取はこのとき確かに「うちでやりたい」といったのだ。細かいニュアンスはともかく、そういったのは強烈に覚えている。それだけこちらも真剣だったのだ。 話はそこで終わらなかった。「ところで板倉さん、この際だから融資の話を今のうちにしておいたら」 国重さんがいきなりこう振ってきたのである。 驚いたが、この話に乗らない手はない。ぼくは、当社の資金繰り上どうしても三月までに五億円ほどの資金が必要なことを率直に説明した。「板倉さん、五億なんかじゃ話にならないでしょう。一ケタ違うんじゃないですか」 副頭取の隣に座っていた調査部長はこう言った。 もう驚くどころではない。ぼくは唖然としてしまった。こちらが、五億といっているのに、銀行の調査部長が、それも副頭取がいる前で、一ケタ少ないというのである。 どう返事をしていいのかわからないまま、ぼくはあいづちを打ち、今一度、ハイパーシステムの将来性について説明を繰り返した。 この日、特に具体的な取り決めはなされなかったが、ぼくはある種の手ごたえを感じていた。 帰りの車中で、ぼくは夏野に話した。「五億の一ケタ上だぜ。五〇億だぜ」 すると夏野はこう言った。「そりゃあないでしょう。あれはケタが上がるという意味であって、せいぜい一〇億程度じゃないですか」と。 彼はつまらぬほど冷静なのであった。まあ、そう言われてみればそんな気もする。いずれにせよ、この住友銀行の OEMは何としてでも決めたかった。これが決まれば、ハイパーシステムの新たな戦略がスタートできる。それに住友が本気ならば、予想以上の規模の資金調達も可能となる。 こんなに気分が明るくなったのは、久しぶりだった。 数日後、ぼくは国重さんのところを訪れた。例の話が本当かどうか確認したかったのだ。「ああ、あの話かい。うん、五〇億円だよ。そういう意味で部長も話したんだ」 国重さんは言った。よし、住友の気が変わらないうちに早いところ話を固めなければ。 ぼくはいった。「では、とりあえずこの前五億円と話しましたが、もうちょっと大目に貸していただけますでしょうか。 OEM化で新たに資金が必要になりまして……」「ああ。すぐに検討するよ」 ただの口約束で終わらせてはならない。ぼくは決めぜりふを口にした。「うちのビジネスの将来性でしたら、マイクロソフトに聞くのが一番です。前にお話した通り、成毛社長、古川会長同席のうえで、ビル・ゲイツ会長とも面談しましたし。彼らがハイパーシステムを評価しているのは間違いないと思います」 こんなときのビル・ゲイツだ。彼がわざわざ買いに来たのだ。うちのアイデアを、うちのシステムを。ぼくにとってはまさに錦の御旗である。少なくともこのときはそう信じきっていた。しかも、マイクロソフトは住友がメインバンクのはずだ。「ぜひ行って話を聞いてきてください。融資はその上で、で結構です」 ぼくのこの一言があとでとんでもない事態を招くとは、このときは思いもよらなかった。(後日、国重氏より次の証言を得た。「このとき、調査部長や私が五〇億円と言ったとすれば、それはあくまでこの事業にはそれくらい資金がかかるのではないか、という意味であり、五〇億円を融資しようと確約したわけではない。板倉氏はこちらの発言の意味を取り違えたのでは」。) 住友銀行の融資の話はありがたかった。このままいけば OEMもなんとかスタートできるだろう。が、このときのハイパーネットにはすぐに手に入る直近の資金が必要だった。なぜなら、先にも触れたように、米国での事業展開で思わぬ出費を強いられていたからである。 そんなとき、森下から朗報が入った。 以前から付き合いのあったあさひ銀行の担当者に当社の事を話したところ、どうやら融資が決まりそうだというのだ。ぼくはすぐにあさひ銀行の融資担当
者と面会した。「板倉社長、実は当行の技術評価で御社が過去最高の得点を得られたんですよ」 彼はこう言ってぼくを持ち上げた。「とにかく融資に前向きですから、よろしくお願いします」「いやあ、こちらこそよろしくお願いします。」 経験から金融機関の技術評価はあてにならないと思っていた。が、それが融資につながるのならば、話は別である。ぼくはこの話を喜んで受けることにした。金額は二億円。しかも無担保である。 一つ気になったのは、この担当者がナスダック公開の話を繰り返し聞いてきたことである。この時点ですでに六カ月延期は決まっていた。その旨はきちんと伝えたのだが、それでも彼は、ナスダック公開は確実ですよね、と念を押してきたのである。 実際に二億の融資が実行される数日前。この担当者は、あさひ銀行が株主をしているゴルフ場の会員権を薦めてきた。千葉にあるゴルフ場のもので何と三〇〇〇万円! かなり高価な会員権である。当時のハイパーネットにとって、かなりの出費である。ぼくは当社の役員と相談した。結論は「購入」である。背に腹は変えられない。担当者はゴルフ会員権と融資の関係に関しては何もいわなかったが、ぼくも子供ではない。 さて、融資前日のことだ。 あさひ銀行の支店長が当社を突然訪問してきた。融資の話ではなかった。ぼくにゴルフ会員権のことについて確認を求めてきたのである。「いやね、うちの担当者が強引に買わせたのかと思って心配になってねえ」 支店長はにこやかに笑って、念を押した。「ちがうんでしょう、ちゃんと社長がほしいと思ったんでしょう」 ぼくもにこやかに笑って、答えた。「そうです、ぼくもゴルフ大好きですから」 確かにぼくはゴルフが好きだ。スキーや、カートのレースや、フェラーリや、バス釣りや、六本木でのクラブ活動や、犬の散歩や、仕事ほどではないが、好きだ。まちがっても高価なゴルフ会員権を能動的に買おうとは思わないが、好きだ。 でもこの日から突然、ぼくはゴルフが以前より好きではなくなった。理由はわからない。 翌日、あさひ銀行は二億の短期無担保融資を実行してくれた。 あさひ銀行からの融資と丁度同じ時期、九七年の一月の話だ。当社はナスダックの公開延期を受けて、国内での第三者割当増資を計画した。 もちろん住友の五〇億円融資が実現すれば増資の必要もなくなるのだが、あの数字で皮算用するのはさすがに危険だった。あさひ銀行からも二億円を確保したが、これとても現在の苦境を脱し、事業を展開するのには十分な額とはいえなかった。 もともと三月に予定していたナスダック公開で五〇億円程度を調達するつもりだった。日米でのサービス拡充をはじめとする短期の事業計画にも織り込んでいた。ところが今回の延期である。少なくとも短期で織り込んだ分の資金調達をしなければならなかった。 必要なのが総額六億円。今後六カ月から一二カ月間の事業成績が最良の場合と最悪の場合、それぞれの場合にいくら必要なのかを考えたうえ、短期間で調達できる現実的な金額、それがこの数字だった。 これだけの資金を増資で果たして手に入れられるか。慎重に考える必要があった。増資をするには当然臨時株主総会を開かねばならない。そこで決議された募集株数にもし失権がでたら大変なことになる。すなわち、ハイパーネットの株が増資に際して売れ残りが出たということになるからだ。その情報はたちまち市場全体に伝わり、さらなる経営危機を誘発する恐れがある。 ぼくは調達可能だと思われる金額より少し少な目に募集額を決定することにした。さて、そこで問題となるのが株価である。当社の株は最初額面五万円で発行されていたが、九六年中にナスダック公開を目的に無額面に変更していた。 ナスダック公開時点での株価の予測は、類似会社の照合などあらゆる手段で検討されたが、優に一〇〇万円を超えていた。一時は会社のネットバリューが四〇〇億円と予想されるときもあった。この時点での発行株数は、ぼくをはじめ経営陣の受けたストックオプション(潜在株)を含めても三〇〇〇株強だったから、四〇〇億円になったら一株一三〇〇万円にもなってしまう。 九七年一月時点で一三〇〇万円は高すぎる。社内外で議論した末に、当社はこの増資に一二〇万円という株価を算定した。後はこの値で売れるか売れないかである。 当社はすべての財務状況をディスクローズした書類を用意し、事業計画書をもとに募集を始めた。増資には、通常リードインベスターという投資家が必要だ。当社のような新株発行を予定した企業の株を最初に買ってもらって、値をつけてもらうのである。このリードがいてはじめて、他の投資家たちが手を上げてくれる。むろん、リードの役は皆が投資判断能力があるとみなすような者でなければならない。 当社の場合には、ニュービジネス大賞で世話になった長銀系の大手ベンチャーキャピタル、 NEDがその役を買って出てくれた。 NEDの説得力は大きかった。 まず、ぼくも参加していた有力若手起業家の組識 YEOのネットワークのつてで、若きベンチャービジネスマン、アントレプレナーに声をかけ、幾人かの事業家からの投資を受けることができた。ベンチャーキャピタルでは、 NED以外に日本生命系のニッセイキャピタルが株式を引き受けてくれた。 さらに、ジョイントベンチャー契約に調印したばかりの韓国サムスングループの広告代理店チェイル・コミュニケーションズも投資に応じてくれた。チェイルからの投資額は、実は韓国で設立する合弁企業ハイパーネットコーリアへ捻出した資本金の額に等しかった。 その後、数人の個人からの投資や、取引先企業にも引き受けていただき、口頭ベースの申し込み金額は、六億円を超えていた。 その中には、住友銀行系のベンチャーキャピタル、住銀インベストメントからの出資も含まれていた。住友銀行本体の代わりだろう。ぼくはそう解釈していた。 ベンチャーキャピタルというのは自身の資本を運用するのではなく、外部から募ったファンドを管理運営するわけだが、この時当社に出資したファンドは九〇%が住友銀行本体からの資金であった。つまり住友銀行自身が間接的に出資しているようなものだ。金額は三〇〇〇万円と決して多額ではなかったが、この時点では、まだ調査部のチェックが済んでおらず、銀行本体から出資しにくかったのかもしれない、などとぼくは考えていた。 出資比率などの調整を経て、六億円満額が無事振り込まれたのは九七年二月二八日のことだ。当社は三億を資本金に、残り三億を資本準備金として、自己資本を充実させることができた。もちろん、バランスシートの数字だけでなく、キャッシュそのものの残高も七億円近くに増えた。増資は大成功に終わった。 やはり過去の業績より、ハイパーネットの世間での評判、特にニュービジネス大賞の受賞や数々の当社のパブリシティーが功を奏したのかもしれない。後に、証券会社の公開引受部の人間にきいたところ、この増資は「小規模の店頭公開と同等の成功」ということだった。 しかし、増資成功の裏で、ハイパーネット崩壊の序曲はすでに流れはじめていたのである。
あれは一月の終わりだったか、二月の初めだったろうか。 ぼくは日本橋の住友銀行へ向かった。国重さんに会うためだ。 OEMの話、住銀インベストメントによる増資の話。相談することがたくさんあった。もちろん最大の相談事は融資の話である。 国重さんはいきなり別の話を切り出した。「いやあ、面白かった。うん」 彼が調査部長らと連れ立ってマイクロソフトを訪問したことはすでに聞いていた。面白かった、というのはそのことだろう。 マイクロソフトの件ですね、とぼくが尋ねると、彼は首を縦に振ってうなずきながら、再び同じせりふを繰り返した。「いろいろ話したなあ、とにかく面白かった」 いったいマイクロソフトはなにを話したのだろう。こんな曖昧にものを言う国重さんは初めてだ。ぼくは少々不安をおぼえた。「で、なんていってました?」「うん、先方はハイパーシステムの特許が気になっているみたいだねえ。事業については興味がないみたいだけど」「特許ですか」「うん、つまり権利関係だね」「はあ」 何が言いたいんだ。ぼくはいぶかしんだ。マイクロソフトが新事業の特許や権利に関心を持つのはいつものことである。そんなことはとうに承知だ。それよりうちへの融資の話はどうなったんだ。 そのまま黙っていると国重さんは意外な言葉を口にした。「で、板倉くん。もしマイクロソフトが同じような事業をやるっていったら?」 突然、目の前で話している国重さんの姿がはるか遠くに離れたような気がした。手を伸ばしても届かないところにいってしまったような気がした。 そんなことはなかった。国重さんはちゃんとぼくの前に座っていた。 結局、国重さんは融資の具体的な話をいっさいしなかった。 マイクロソフトが彼に何を話したのかも具体的には語らなかった。「面白かった」というだけだった。 ぼくの知らないところで、何が起きている。それが何なのか、さっぱりわからなかった。ただし、ぼくがはっきり感じたことが一つあった。 この日以来、住友銀行の態度が一変したのである。 二月以降、住友の調査部では、当社に対する新たな大型融資に向け、売上状況などの調査を開始した。が、どんな資料を見ても、ネガティブな発言ばかりをするようになった。 たとえば、韓国でジョイントベンチャーの企画があると話せば、「まだ売り上げが上がったわけじゃないでしょう」。 OEMの契約の原本を見せれば、「ま、とりあえず契約金だけは入りそうですね」。 しかも、件の調査部長は、ぼくが事業展開を説明するたびに、同じ言葉を繰り返した。「でもね板倉さん。もし、マイクロソフトがあなたと同じことをあの資金力をバックにやったら負けますよ」 なぜここでマイクロソフトが出てくるのか。彼は何をいいたいのだろうか。この論理を拡大すれば、ベンチャービジネスは成り立たない。アイデアはあるが、資金はない。ベンチャーは皆ここからスタートする。だいたいが、部長が口にするマイクロソフトからして、かつては資金力のない一ベンチャーだったじゃないか。ぼくは内心むっとしていた。 とても数週間前に五〇億円の融資をほのめかした人間とは思えない発言だった。 その後、二月に行われた調査の結果を受けて、ぼくは調査部長に約束をした。 確かに当社の足元の財務状況は悪い。しかし、新しい事業展開と海外の展開で必ず良い結果を三月までには出すことができる。それを見てほしいと。 つまり、たった一カ月半でめざましい成果を出す、と約束したのである。 ぼくは全部門、全分野にわたって直接指揮を執ってその目的の達成に当たった。とにかく今は住友を納得させるしかない。 ぼくが社員に課した三月までの宿題はこうだ。 まずハイパーシステム OEMの受注を最低一件、それに通常の広告の販売にも多少手を加えた新パッケージ(これはユーザーのターゲティングをしない代わりに通常より安い一人当たりの広告費で、ユーザー全員に広告を送出するというものだった。もちろんグロスの金額は非常に大きくなる)の受注を最低二件、さらにそれまでのホットカフェの広告枠の下に「ボタン」をつけ、そこに固定的に企業のリンクを張るという新商品、低調だった IMSの受注増、それに海外の事業展開である。 実はこのとき、ハイパーネットの事業成績は飛躍的に改善された。 まず「ボタン」については住友銀行自身が契約してくれた。海外についてはサムスングループと正式にジョイントベンチャーの契約を結ぶことができた。更に IMSは月間で過去二番目の受注の記録を達成した。 結果、九七年三月の一カ月間の受注は、ハイパーネット始まって以来最高の二億円を突破したのである。当時当社の売り上げは年間で八億円に満たなかったから、一カ月で二億円の受注というのは快挙であった。 しかも、前項で述べたように、六億円の増資も成功している。そこには住友系の住銀インベストメントからの三〇〇〇万円も含まれている。 これで文句はないだろう。三月のある日、ぼくは調査部長に対して胸を張って以上の成果を報告した。 しかし、調査部の反応は以前にも増して当社に対して冷たくなっていた。調査部長はこう言ったのである。「板倉さんよかったですね。でも足元の資金繰りは改善されていないですね」 ちょっと待ってくれ。二月の調査の時点で、ぼくがなんと言ったのか覚えていないのか。 一カ月半後の三月末までの当社の活躍を見て欲しい。確かそういった。資金繰りまで完全に回復するとまでは言っていない。そんなことができるはずはない。それができているならば、そもそもの話、銀行の融資に頼る必要などないではないか。 確かにこのときのハイパーシステムの財務状況は、決してほめられた内容ではなかった。通常ならば銀行がすぐに追加融資に応じるような状態でもなかった。そして、それを承知で融資をお願いした。これも事実だ。 もちろん、あのとき話題に上った五〇億円がなければこの会社がすぐにおかしくなってしまうわけではない。すでに六億円の増資も成功しているし、三月に入り、ハイパーネットの業績は急激に上昇していた。 それにしても、一月のあの発言は何だったのか? ぼくは、ようやくある現実を理解するようになった。
前にも話したが、ぼくは住友銀行と付き合うようになったのは、国重さんという個人との出会いがあったからだ。彼がぼくに興味を持ってくれ、ハイパーシステム立ち上げの当初から二億五〇〇〇万円の融資をしてくれたからこそ、この事業がスタートできたのだ。その後も有形無形のかたちで支援をしてくれた。日本の大銀行は概してベンチャーに冷たい。だが、国重さんは違った。ベンチャーに何が必要なのか、明確にわかっていた。そして、ぼくはおよそ銀行員らしからぬ判断力を持った型破りのこの人が好きだった。 ぼくは勘違いしていた。国重さんは親しい仕事相手ではあったが、「友達」ではなかった。いざとなれば、国重さんという「個人」から、住友銀行取締役日本橋支店長という「企業人」に、チャンネルが変わるのだ。個人の感情と企業の論理。どこでどう線を引くかということが、ぼくにはわかっていなかった。会社勤めをしたことがなく、「組織」というものに対する本質的な理解がなかった。 国重さんに対する思いを変えざるを得なかった。彼は個人ではない。あくまで企業人なのだ。最終的には所属する企業の利害を優先するのだ。こんな当たり前のことを、ぼくは一人でかみしめていた。もっと早く、せめて半年前にでも気がつけば、今の苦境はなかったかもしれなかった。 おそらく、「わかる」人からみれば、こんなことは当たり前だと思うだろう。なぜ、おまえは国重さんとつきあっているんだ。友達だからか。違うだろう。彼が有能な住友銀行の支店長だからだろう。でも、このときまで、ぼくにはこんな視点が根本的に欠落していた。 ここで追記しておくことがある。マイクロソフトに話を聞きに行ったとたんに国重さんの態度が一変した、とぼくは書いた。この印象はいまでも変わっていない。だが、同時にこう思う。あのとき、国重さんそして住友銀行が当社から手を引き始めたのは、金融機関の経営判断としては非常にまっとうだった、と。 繰り返すが、ハイパーシステムとは、インターネットと広告とを結びつけ、ユーザーには接続無料サービスを、広告主には細かなマーケティングデータを提供する、いわばアイデアビジネスだ。逆に言えば、初期段階でマーケティングデータと広告主をある程度の規模で獲得し、企業としての体力をつけておかないと、それこそマイクロソフトクラスの会社が本気で参入してくれば、あっという間にシェアを奪われるだろう。 ところが、当時のハイパーネットが誇れるものは、この手のビジネスの先駆者であることを除けば、半年で二〇万人のユーザーを獲得したことだけである。売上高は右肩上がりだったが、巨額の初期投資もあって、経営そのものは赤字が続いていた。増資は成功したが、ナスダック公開は延期された。米国での事業展開も芳しくなかった。売上高を総融資額がはるかに超え、企業としてはいつ倒れてもおかしくない状態だった。 ぼくの想像に過ぎないが、住友銀行は、マイクロソフトにリサーチをかけた時点で、以上の構造に完全に気づいたのではないだろうか。マイクロソフトは、ビル・ゲイツ会長と面会した九六年一二月時点でかなり詳細な調査を当社に関して行っていた。その後、ハイパーシステムと似たような発想のサービスを特許に抵触しない形で独自に開発できるかどうかくらいは、あのビル・ゲイツのことだ、おそらく調べているだろう。その結果、ハイパーネットに利用価値なし、とマイクロソフトが判断し、その情報が住友銀行に伝わったとすれば、当社を同行が見放したのもうなずける。そう推理すると、当時は腹が立ってならなかった調査部長の「マイクロソフト云々」の言葉も、むしろ極めて妥当な発言だった、ということになる。 残念ながら、九七年春の時点のぼくに、ここまで思いを巡らせるだけの能力も余裕もなかった。それは結局何を意味するのか。実は、うすうす感づいていた。もしかしたら……、この頃、ぼくは他ならぬ自分に対して、一つの疑念を抱いていた。 おれは、経営者に向いていないのではないか。
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