MENU

エピローグ]再び、

エピローグ]再び、 1997年 12月 24日  スピーカーからぼくの名前を呼ぶ声がした。  まるで市役所に住民票を取りに来たときのような平板なアナウンスである。違うのは、呼ばれたときに「恥ずかしい」とこちらが感じてしまうことだった。ここで「イタクラユウイチロウ」と名前を呼ばれるのは、破産を公表されているのと同じだからだ。  弁護士のあとについて、ぼくは破産課に入っていった。カウンターで自分の名前とサインをすると、奥の部屋に案内された。どこの会社でも見かける無表情でそっけない会議室のような部屋だった。  安物の折り畳み机と椅子が安物のパーテーションで区切られた部屋にあり、ぼくは弁護士の指示でそこに着席した。しばらくすると裁判官が部屋に入ってきた。まだ若い。おそらく同世代だろう。  ぼくは、裁判官という人種とどのように接してよいかわからなかった。当社の債権者でもないので、ぺこぺこするのも不自然だし、だからといってこの状況のぼくがふんぞり返るのもおかしい。とりあえず、普通に振る舞った。  いくつかの質問に対してぼくは淡々と答えていたが、突然その裁判官が怒鳴り出した。「君は一体何を考えているんだ!  ここにくる社長たちは、みんな涙を浮かべて債権者のために一円でも、というのに、君の態度はいったいなんだ!」  びっくりした。  ぼくは何人もの倒産した社長を知っている。でも、この裁判官の言うような「殊勝な」社長は見たことがなかった。破産者が裁判所で涙を浮かべるのは冠婚葬祭の儀式のようなものなのだろうか。どうやらここでは「すまなそうな」態度をとらなければいけないようだ。  実際この段階でどうあがいても、当社の債権者に多くの配当を期待できないことをぼく自身はよくわかっていた。泣き言まじりの態度をとったところで、ぼくの罪や債務が減るわけでもないし、債権者の配当が増えるわけでもない。でも今のぼくに反論できるものはなにもなかった。  説教が終わり、ぼくは、弁護士とともに部屋をあとにした。  霞ヶ関の雰囲気は大嫌いだ。もともと嫌いなうえに、今のぼくの感情がより一層この場所を嫌いにさせる。でもこれから何度かこの場にこなくてはならない。それを考えると憂鬱だった。  階段を降り、地下鉄日比谷線に乗った。  銀座方向に向かう列車は混んでいた。若いカップルがやけに目立つ。笑い声がする。クリスマスのあの浮かれた空気が車内に満ちていた。ぼくはますます憂鬱になって、空いた席に腰掛けた。  向かいの席に若い女性が一人座っていた。  黒のストッキングに包まれた脚を奇麗にそろえ、青山ブックセンターのカバーのかかった本を読んでいた。栗色の長い髪とはっきりした眉と二重の大きな瞳のせいで白い顔が余計に白く見えた。灰色のニットのワンピースの上に薄手のコートを羽織っていた。  ぼくの好みだった。もちろん赤の他人だ。だがその容姿から想像する彼女が、いまのぼくには理想の女性のように思えた。ぼくはしばらく彼女を眺めていた。ぼくに気づく風もなく、彼女は熱心に本を読みつづけていた。  先ほどまで頭の中を占めていたここ数年間の出来事が、いつのまにか蒸発したように体から抜けていた。ぼくの頭にあるのは、いま目の前で本を読む見知らぬ彼女だけだった。なにかが沸き上がってきた。  あんな女性をもう一度手に入れられるような勇気が、力が欲しい。  まるで小学校のとき、恋に目覚めて勉強を真剣に始めたときのように、無一文のぼくの中にある種の感情が芽生えていた。  もう一度はじめよう。とにかく前に進もう。  電車が東銀座駅につくと、見知らぬ理想の女性はぼくの前を通り過ぎ、降りていった。降り際に一瞬目があったような気がした。改札の方に向かってやや足早に歩いていく彼女を、ぼくは動き出した列車の窓からずっと眺めていた。

追記  第一回債権者集会   1998年5月 11日  最後に、債権者集会の話をしておこうと思う。  ハイパーネットとぼくの管財人は弁護士の田中早苗先生に決まった。破産宣告のときに、はじめて先生と会った。柔らかい感じの方だった。  破産宣告からしばらくの間、ぼくは管財人である田中先生からの質問や出頭に対する準備にひたすら追われていた。そして一カ月に二、三回程度、田中先生からの質問の電話をいただく。ぼくは知っている限りのことを話す。財務の細かな部分についてはぼくに対して質問はほとんどなかった。というよりぼくに聞かれてもわからないことばかりだから、この手の数字に関しては財務を担当していた大内が対応してくれた。  他にやることはなかった。時間はあっても金がない。ぼくは十数年振りに父親の家に身を寄せ、ここ数年の出来事をひたすらメモにしていた。  倒産から五カ月後、九八年五月一一日。  破産宣告のときから決まっていた第一回債権者集会の日である。ぼくは久しぶりにスーツを着て東京へ向かうことになった。行き先は、何度となく通った霞ヶ関の東京地方裁判所である。  この日を迎えるまで、債権者集会でいったい何が起きるのか、ぼくは心配でならなかった。夜中に夢にうなされて飛び起きることもあった。気持ちを少しでも整理するために、そして落ち着かせるために、ぼくはさまざまな「倒産物」の本を読み漁った。  本の多くはいわゆる「中小企業」のおやじさんの倒産物語だった。主人公や著者の方々は、このときのぼくと同様、「債権者集会」を大変恐ろしい地獄のさばきを受けるところと思っていたらしい。しかし、彼らが直面した実際の債権者集会は、参加者ゼロかせいぜい数人。ほとんどの債権者は顔を出さないという話であった。質問もなければ発言も強要されない。ほんの数分間で終わるまったくの儀式だということだ。それもそうだろう。破産してしまった人間から何も取れるわけはない。  こういった「実話」を読んで、ぼくはやや安心した。  その日は春風が時折ほほをなでる、とても穏やかな日だった。ぼくの混乱している心中をこの陽気が少なからず落ち着かせてくれた。  開会の三〇分ほど前に東京地方裁判所に到着した。建物の一階には、「破産者株式会社ハイパーネットおよび破産者板倉雄一郎債権者集会」という張り紙とともに集会の場所が案内されていた。  裁判所の入口を抜けると、急に不安に襲われた。自分が破産者であることをはっきり思い出した。  ぼくは周りに注意を払いながら、部屋へ向かった。後ろが気になってふと振り返る。もう一度前を見る。背広姿の中年男が前を歩く。あれ、ひょっとして債権者の人では……。違った。なにをびくびくしているんだ。たとえ債権者が横にいようと、東京地方裁判所でいきなり胸倉をつかまれるわけじゃない。そう自分に言い聞かせてエレベーターに乗った。  エレベーターには数人の男性が一緒に乗り込んだ。扉が閉まり、上昇し始める。皆がぼくをにらんでいるような気がして、思わずうつむいた。エレベーター独特のあのいやな〝間〟といやな沈黙といやな空気が、密閉された小箱に充満した。目的の階につくまでのおよそ十数秒が永遠のように長く感じられた。  債権者集会の部屋にたどり着くと、入り口にはすでに何人か顔見知りの人たちがいた。労働組合を結成した幾人かの社員。金融機関の担当者。一瞬動悸が高まったが、ぼくは腹をくくって歩いた。何を言われてもしょうがない身分だ。誰かがもし何かを言ってきたら、誠意を持って謝るしかない。  誰も声をかけなかった。それどころか目が合っても皆背けてしまう。挨拶する人もいなかった。なるほど、そういえば債権者集会では債権者と破産者との直接のコミュニケーションが禁止されているんだ。ぼくは読み漁った本で得た情報を思い出した。  管財人の田中先生。そしてハイパーネットとぼくの代理人である大岸先生。それぞれの弁護士に挨拶をして、ぼくは部屋の中に入った。  その部屋は、ぼくのそれまでかき集めた債権者集会のイメージとはかけ離れていた。裕に三〇〇人は入れる部屋で、前には端から端まで一段高くなった裁判官用の演台まである。その上にこれまた端から端まである長い木製のテーブル。まるでアメリカ法廷映画の舞台となる「公聴会」に出て来そうな部屋だ。ぼくとぼくの代理人が座るべき場所は、一番前の演題のすぐ下。入り口側に用意されていた。もちろん債権者の方を向いた席である。  ちょっと待てよ。「本」で読んだのと話が違うじゃないか。  とりあえず大岸先生から渡された債権者からの債権の申し立てというリストに目を通して、いや、それに無理やり集中することで、自分の気持ちを落ち着かせるしかなかった。ぼくは、債権者からの届出の総額を見た。  五九億六四〇〇万円。  ぼくが把握している当社の債権総額は、新聞でも報道されたように三七億円。それだけでもぼくにとっては天文学的な数字なのに、ここではさらに倍近くに膨れ上がっている。いったいどういうことなのだ?  リストを細かく見ていくと、とんでもない額の債権を主張している企業がいくつかあった。要するにもしハイパーネットが継続的に事業をしていた場合の予想される利益を債権として届け出ている企業があるのだ。もちろんこんなケースは管財人からの「異議」があった。  それに対し、当社の財産目録を見ると、財産の価格総額は一五億円あまり。売掛金およそ三億円。貸付金およそ三億円(これはほとんどハイパーネット USAの貸付なので財産価値はほぼゼロ)。その他什器備品や有価証券などである。確かに額面では一五億円だが、実際の評価額はわずかに五〇〇〇万円ほど。金融機関の担保になっていたり、売却とともに価値が減るものばかりだったからである。  債権届出リストを見ながら途方にくれていると、隣に座っている大岸先生が言った。「板倉さん、これだけの人に損害を与えたんだから、罪は重いよね」  ぼくは黙ってうな垂れた。ふと人の気配を感じて、顔を上げる。目の前には五〇人。いや一〇〇人を超える債権者がすでに着席していた。「倒産物」の本で読んだのとはえらい違いだ。ぼくが債権届出リストに夢中になっている間にこの部屋に入ってきていたのだろう。知っている顔が何人も見える。目線が合う。あわててぼくは下を向いた。  裁判官が第一声を発した。「それでは、これから破産者株式会社ハイパーネットと板倉雄一郎の債権者集会を始めます」  それから数分間、管財人からのレポート、裁判官からの二、三の決議を経て、債権者集会はあっけなく終わった。ぼくはその内容をほとんど覚えていない。ただただひたすら下を向いて、耳を意識的にふさぎ、自分のぬぐうことができない罪と戦っていた。  気がつくと債権者が腰を上げ、ぞろぞろと帰って行く。それもぼくの座っているテーブルの前を通って。ぼくは顔を上げることができなかった。ぼくの目には債権者の腰から下しか見えなかった。それでもほとんどの債権者がぼくの前でいったん立ち止まり、こちらをじっと見下ろしていくのがわかった。  脈が速かった。おそらく血圧も上がっていただろう。顔が火照ってくる。でも顔を上げることはできない。以前のぼくならば、たとえどんな罪を犯そう

とも、顔を上げ、胸を張っていたはずだ。しかしこのときのぼくの体は動こうとしなかった。何人かが、ぼくに挨拶してくれた。と思う。でもよく覚えていない。返事もまともにできなかった。  すべての人が部屋から出たころ、隣に座っていた大岸先生が言った。「板倉さん。行きましょう」「あっ。はい」  ぼくはそう言って、先生の後をついて部屋を出た。ちょっとした管財人との会話の後、ぼくは裁判所を後にした。地下鉄に乗り、帰途についた。

あとがき  株式会社ハイパーネットは、一九九七年一二月二四日、クリスマスイブに裁判所より破産宣告を受けた。負債総額約三七億円。そしてぼく個人も九八年一月二三日に破産宣告を受けた。いわゆる自己破産だ。負債総額二六億円。そのほとんどが会社の借り入れの個人保証である。  残されたのは膨大な時間だった。ぼくは、自分が起業してから倒産するまでの詳細な記録を残すことにした。以来一〇カ月ようやく書き上げたのが本書である。こんなにも長い文章を書くのは、もちろん生まれて初めての経験だ。  今回の倒産でぼくは多くの企業と人々に迷惑をかけた。今でもときどき投資家や債権者の方々に責められる夢を見て、夜中に飛び起きることがある。本当にお詫びのしようもない。一つの会社をつぶすということがいかに他人に影響をおよぼすのか、ぼくは身を持って知った。自己破産でゼロの状態に戻ったぼくだが、この「罪」は一生背負っていかねばならない。  そんな「罪」を背負った人間がこのような書籍を出版することに不快感を持つ人もいらっしゃるだろう。もちろん周囲からは反対もあった。ある著名な経営者は、ぼくにこう言った。二度とビジネスの表舞台に立てなくなるぞ――。自分の失敗をねたに、債権者や関係者への悪罵を連ねるのが本を出す目的だろう、こう思われる方がいてもおかしくはない。  しかし、ぼくは倒産の恨みつらみを晴らすがために本書を執筆したのではない。では、なぜ書いたのか。  ハイパーシステムを思いついた九五年秋のことだ。本文でも触れた通り、ぼくは人に教えられて「シリコンバレー・アドベンチャー」という本を読んだ。  著者のジェリー・カプラン氏は、ペン入力の小型コンピュータのアイデアを思い付き、会社を設立してコンピュータ業界で一気に名をはせる。が、そのアイデアを狙って、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長や当時アップルのトップだったジョン・スカリー氏など業界の大物、 IBMや AT& Tといった大企業が取り囲み、数年のうちに彼の会社は吸収合併という形で消失する。同書はその過程をカプラン氏自身の言葉で丹念に描写していた。  読書の習慣がほとんどなかったぼくが、偶然手にしたこの本に関心を覚えたのは、その内容もさることながら、経営者であるカプラン氏がみずからの失敗体験をわざわざ書籍のかたちで公表している、という点であった。 M B A取得者の社員に聞いてみると、米国のビジネススクールでは事業に失敗した経営者が「講師」となって自らの経験を語る授業が珍しくないらしい。またカプランのように本を執筆するケースも多いという。「経営者の失敗」をケーススタディとして伝承する文化が米国の社会にはある――、そこにぼくは強く興味を引かれた。  自己破産を申請し、事実上倒産が決定した九七年一二月、ぼくは二年前に読んだこの本のことを思い出した。そしてすぐに決意した。ここに至るぼく自身の経緯を文章に綴ってみよう――。  新聞や雑誌にはハイパーネットの倒産に関してさまざまな記事が載った。ほとんどの記事では、倒産の理由としてマーケティングの失敗、財務戦略の失敗、そして提携先のアスキーのプロバイダー事業撤退の三つを挙げていた。一流企業の広告主にこだわったがために思うように広告が獲得できず、金融機関の過剰融資に甘えたがために貸し渋りに転じたときに資金ショートを起こし、アスキーに頼り切ったがために同社のプロバイダー事業撤退で業務自体が立ち行かなくなった、という説明であった。  右の分析に的外れな部分が多いのは、本書を読み終えた方ならばおわかりになるだろう。マーケティングが失敗したのは事実だが、一流企業に絞ったから広告が獲得できなかったわけではない。ハイパーシステムの広告獲得数はインターネット広告の世界ではトップクラスだった。失敗はむしろ市場全体の成長のスピードを見誤った点にある。金融機関の過剰融資と貸し渋りに関しては間違いではないが、これは九七年から九八年にかけて倒産した多くの企業に共通の理由だ。ここにとらわれると、ほかの原因が見えなくなってしまう。アスキー云々はまったくの見当違いである。同社がプロバイダー事業の撤退を決めた九七年一〇月時点ですでにハイパーネットの倒産はほぼ確定していた。だからアスキーの撤退そのものは倒産と何のかかわりもない。  ハイパーネット倒産を報じる記事を読みながら、ぼくは考えた。企業の成功や失敗から何かを学ぶには、最後に示された「結果」だけに注目するだけでは不十分だ。その「結果」に至るさまざまな過程を丹念に追い、背景にある時代を透視し、分析する必要がある――。  ジェリー・カプラン氏の失敗の教訓をまったく生かせなかったぼくだが、今回のぼくの失敗から何らかの教訓を得てくれる人がもしかしたらいるかもしれない。そう思って、友人が貸してくれた中古パソコンのキーボードをたたくことにした。現在の日本の企業社会に「失敗のケーススタディ」を残す文化はない。この素人文章が、そういった文化を根づかせるきっかけの一つになれば……。  きれいごとめいて聞こえるかもしれないが、以上が本書を執筆した理由である。  執筆という行為を通して、ぼくは当時自分が置かれていた状況を今回改めて冷静に俯瞰することができた。そこで気づいたのが、ハイパーネットの成功と挫折が九〇年代中盤の日本経済に起きた三つのムーブメント――第三次ベンチャーブーム、マルチメディアとパソコンとインターネットのブーム、そして日本の金融市場におとずれた大改革――と連動していたことである。  ハイパーシステムのアイデアが生まれた一九九五年。この年、第三次ベンチャーブームが起こり、さまざまな新興企業が登場した。中でも注目を集めたのが、コンピュータ・マルチメディア関連のベンチャーだ。それは半ば必然だった。ベンチャーブームの背景にはマルチメディア関連の一大ブームがあったからである。ウインドウズ 95が発売され、インターネットの利用が本格化しつつあった。  そんな中、自己改革を図ろうとしていたのが日本の銀行業界であった。大蔵省の庇護の下、横並びの経営姿勢を貫いてきた銀行は、それまで企業への融資を実行するにあたって土地もしくは有価証券といった担保を求めるのが通例だった。銀行にとって融資業務は経営の根幹だが、日本においてはその根底に「土地資本主義」ともいうべき共同幻想が存在していた。バブル経済の一因がこの共同幻想に由来していたのは周知の通りである。  ところがバブル崩壊とともに右肩上がりの地価上昇の幻想は音を立てて崩れた。しかも、軌を一にして米国が閉鎖的な日本の金融市場の門戸開放を強硬に迫ってきた。日本の銀行は融資業務を本来の意味での企業戦略として捉え直す必要に迫られた。横並びの姿勢にメスを入れ、独自の融資基準を設けようとした。かくして大手都銀から地方銀行までが、当時勢いのあったベンチャー、とりわけハイテク、マルチメディア系のベンチャーに融資を実行する仕組みを次々に作り出したのである。知恵はあるがカネのないベンチャーに融資するため、独自に技術を評価したり将来性を予測するシステムを構築、審査に合格した企業には基本的に「無担保」で、銀行は融資を実行した。  ハイパーネットはこうした時代の波に乗った。当時の構図を要約するならば、「インターネット」を利用した新サービス、ハイパーシステムを開発した「ベンチャー企業」ハイパーネット、そのアイデアに銀行が「無担保で融資」を実行した、となろう。しかも、ハイパーネットがこの時代の波に乗ったとき、偶然にも以上三つのムーブメントの波動が重なり波の高さは最高点に達した。結果、ハイパーネットは明らかに世間から過剰なる評価を受けた。ニュービジネス大賞を授与され、ビル・ゲイツ会長がぼくのもとを訪れたのは、まさにその現われだろう。  しかし九七年、時代の波がプラスからマイナスに転じたことで、ぼくとハイパーネットの「栄光」も「挫折」に転じた。マルチメディアブームは一年足らず

で終息し、インターネット広告市場は、当初予想したほど成長しなかった。ベンチャーブームも沈静化した。そして、銀行は第二の改革に手をつけた。国際的にその水準の低さを指摘されていた自己資本比率を上げるために、貸出債権の圧縮に乗り出したのである。いわゆる貸し渋りの始まりだ。インターネット広告の収入が思ったほど伸びず業績が停滞していたハイパーネットは、取引銀行の融資引き揚げ攻勢にさらされた。売り上げをはるかに上回る融資を受けていただけに、ひとたまりもなかった。多額の負債を抱えたまま、九七年末、破産した。  当時を振り返ってみると、ぼくとぼくの会社は、日本における巨大な経済のうねりを世間一般にわかりやすく見せる「狂言回し」の役回りを図らずも演じていたようだ。そして、ぼくがこの狂言回し役となった理由は、そのままぼくの経営者としての成功と失敗の原因でもあった。  そもそも、ぼくは日本の企業社会において経営者を務めるうえで、致命的な欠陥を有していた。「組織」に対する理解がまったくなかったのである。社内人事、社外営業、金融機関との付き合い、広告主との付き合い、マスコミへの対応、そしてプライベートでの振る舞い。どの場面においても、企業や社会といった組織に対する根本的な理解を欠いていたがゆえのミスを、ぼくはいくつも犯してきた。そしてある意味で、これらのミスの集積が倒産につながったといっても過言ではない、と今では思っている。  なぜ組織に対して無理解だったのか。生得的な性格に加え、ビジネスライフをいきなり社長業からスタートしたというのが大きな理由だろう。人に仕えた経験はほぼ皆無。経営していた企業の社員数は、倒産までの数年間を除き、せいぜい十数人程度。結果、ぼくは大組織がどんな論理で成り立ち、その組織を構成する人間が何を行動規範としているかを学ぶ機会を逸してしまった。  ぼくのこの欠陥はしかし、別の角度から眺めると、ぼくが起業家になった前提条件でもあった。大学や大企業に入って組織に組み込まれることに興味を覚えず、あくまで個人としての自分を第一に考え、行動する――。ベンチャー経営者としてのぼくの特質は、組織に対する無知、無理解と表裏一体だったのである。  ハイパーシステムを開発して注目を浴びた一九九五年から九六年にかけ、日本経済の中で起きたさまざまな「ブーム」の根底には、組織の論理を重視する旧来の日本型経営の限界が明らかになり、それに代わる行動規範として個人主義に活路を見出そうという時代の流れがあった――、自分の体験とその後書籍などで得た知識から、ぼくはそのように解釈している。  個人がメディアを持つことを後押しするインターネットの普及、個人が経営の主役となるベンチャービジネスの台頭、いずれも「組織から個人へ」という時代の転換を象徴する出来事だったと思う。さらに象徴的なのは、こうした「個人が主役」の新興産業に無担保で融資を実行する措置を銀行というもっとも旧来型の日本型組織がとったことだろう。  以上の解釈はそのまま、一時的とはいえ都市銀行など大企業の人間がぼくに注目し、評価した理由につながる。銀行や証券会社といった旧来型組織の中で時代の変化に敏感に反応した――例えば住友銀行の国重さんのような――人間にとって、徹底した個人主義で業務を展開していたぼくは、古びてしまった規範や慣習を打ち壊す一種の「ルール・ブレーカー」であり、次世代のビジネスの旗手としての可能性を見出していたのではないか。ハイパーシステムの発表から一年弱の間に二〇億円以上の無担保融資を複数の銀行が実行したのは、その証左ともいえる。  しかしながら、時代は完全に組織至上から個人至上へと移行したわけではなかった。日本人にとって非常に大きなこのパラダイムシフトがそう簡単に完了するはずがない。ベンチャーブームはあっという間に終息し、銀行は自己資本比率の向上と国際競争力の強化という命題を突きつけられ、組織防衛を図らざるを得なくなった。  このように「組織に無理解な個人主義者」板倉雄一郎と彼の会社ハイパーネットは、奈落へと突き落とされた。銀行をはじめぼくを支えてくれていた大企業は、金融の国際化や不況といった壁にぶつかった瞬間、再び組織の論理を優先した。むろん、彼ら「法人」の判断が間違っていたのではない。間違っていたのは、当然ながらぼくの方だ。組織とそこに属する人間が逆風の環境下でどのような行動をとるのか冷徹に予測する必要があったのに、それができなかった。それこそ、ビル・ゲイツのように、個人主義的な自分を見失わずに一方で組織の論理を理解し、企業経営を推進できるだけの技量が、結局ぼくにはなかったのである。  かくしてぼくは、時代の狂言回しとなり、たかだか二年の間に人生の頂点とどん底とを経験することになった。  ここで、九五年から九七年の二年間の日本経済をさらに高みから俯瞰してみよう。インターネット・ブームや金融機関の一連の改革は、そもそもどこから生まれてきたものなのか。そう、いうまでもなく米国だ。となると、これらのムーブメントは、現在グローバル・スタンダードと皆が呼ぶ米国主導型の国際市場の枠組みに対応するための壮大なる試行錯誤だったようにも思える。  そしてその米国における行動原則は、たとえ大組織であろうと最終的には個人が責任を持つ。少なくともぼくはそう思っている。と考えると、この一連の流れはいったい何を意味するのか。  ぼくはまだ自分の経験から何を学べばよいのか総括しきれていない。ただ、本書の執筆で己の挫折の軌跡を辿りながら、ぼくはある時代の終わりと次の時代の始まりを感じた。明らかに時代は変わろうとしている。九七年末に破産してから現時点までの一〇カ月、ぼくのビジネスと関わりのあったさまざまな大企業 =組織が倒産したり、合併されたり、経営不振や経営破綻に陥った。日本長期信用銀行、 NED、日本リース、東食ファイナンス、アスキー……。  そしてぼくの感じた次の時代が現実となるのならば、いつか再びチャンスが巡ってくるのではないか――、自己破産者に転落してからまだ一年もたっていないぼくは、不謹慎にもそんな夢をいま見ている。  本文の人物、団体名は、一部を除き基本的に実名である。人物を実名描写するにあたっては以下の規準を採用した。一般に公人とみなされる立場、著名人であること、上場企業もしくはそれに匹敵する企業の取締役以上の地位についていること、ハイパーネットの役員であること、著者が直接当人に了解をとっていること、以上四つの条件のいずれかをみたした方である。肩書きや名称などは原則として当時のものを採用した。また元ハイパーネット社員に関しては敬称を省略させていただいた。本書の内容は基本として著者が直接体験したことであり、後日当事者から確認できた事象、新聞や雑誌などマスメディアで報道された内容を除き、伝聞情報は極力記さないよう務めた。  なお、本書に対するご意見、ご感想、異論、反論などは、次のホームページアドレスにお寄せいただければ幸いである。   http:// www. fbi. co. jp/ itakura/  最後に、本書を執筆するうえで積極的に情報を提供してくれた森下、筒井、大内ら旧ハイパーネットの役員や社員の方々、事実確認に協力してくれた複数のベンチャー経営者の皆様方に感謝の弁を述べたい。彼らのサポートがなければ、本書の完成は不可能だった。また発表の機会をつくってくれた日経BP社出版局のスタッフの方々にもお礼を申し上げる。  そして、喧嘩同然で飛び出して一五年、文字通り一文無しになって帰ってきた息子を家に上げてくれた父、板倉九十九にも、やや気恥ずかしいが、一言

いいたい。ありがとう。一九九八年一〇月  板倉  雄一郎

付録  ハイパーネット  年表 1991年6月  資本金 1760万円で株式会社ハイパーネットを設立 1992年3月期決算  売上高 1億 5200万円  経常損益 ▲ 2800万円          4月  ハイパーダイヤル  サービス開始 1993年1月  新サービス、 IMSの初受注          3月期決算  売上高 4900万円  経常損益 ▲ 1億 6000万円 1994年3月期決算  売上高 5400万円  経常損益 ▲ 1700万円           11月  日本合同ファイナンス( JAFCO)の出資決定 1995年3月期決算  売上高 1億 6300万円  経常損益 400万円          9月  ハイパーシステム事業の構想を思いつく           11月  住友銀行が 2億 5000万円を融資  その後 1年で 7銀行から約 20億円の融資が集まる           12月  ハイパーシステムの開発チーム発足 1996年2月  アスキーとプロバイダー契約を結ぶ                六本木ベルファーレでハイパーシステムの発表会          3月期決算  売上高 7億 700万円  経常損益 1億 9400万円          4月  ハイパーシステム  テストサービス開始                ソロモンブラザーズからナスダック公開の提案  野村證券も話に乗る          6月  ハイパーシステム正式稼動           10月  ニュービジネス大賞受賞           12月  マイクロソフトのビル・ゲイツ会長と東京で会談                米国でハイパーシステムのサービス稼動 1997年1月  韓国三星グループとライセンス契約          2月  日本長期信用銀行系の NEDなどの力で 6億円の第三者割当増資を達成          3月  取引 7銀行の要請にしたがって、総額 6億円を超す融資をいったん返済。          3月期決算  売上高 7億 8500万円  経常損益 ▲ 9億 8400万円          4月   7銀行からの折り返し融資を受けられず、いわゆる「貸し渋り」に会う          5月  東食の子会社、東食ファイナンスに 3億円の私募債を引き受けてもらう          6月  韓国でハイパーネットコーリアのサービス稼動          8月  各銀行からの融資返済攻勢が始まる                加ト吉から 1億円を融資してもらう          9月  社員の給与遅配           10月  日本リースなどリース会社からの資材回収攻勢始まる                各取引銀行も融資の全面回収方向に                 2回目の給与遅配           11月  法律事務所に会社の処理を相談。自己破産することに決定。           12月 2日  東京地方裁判所に自己破産を申請           12月 24日  ハイパーネットに東京地裁が破産を宣告。負債総額約 37億円 1998年1月 23日  板倉雄一郎に東京地裁が自己破産を宣告。負債総額約 26億円          5月 11日  第一回債権者集会が東京地裁で開催。                    債権者の債権届出総額 59億 6400万円

板倉雄一郎[いたくらゆういちろう]元株式会社ハイパーネット代表取締役社長一九六三年一二月二六日千葉県生まれ。独身。八三年、ゲームソフト会社設立。ダイヤルQ2サービス会社の社長を経て、九一年(株)ハイパーネット設立。九六年にインターネットと広告を結びつけた「ハイパーシステム」を開発。アスキーと提携しインターネット接続無料サービスを展開、注目を浴びる。ニュービジネス協議会の「ニュービジネス大賞」受賞。九七年一二月負債総額 37億円で破産。翌九八年一月、自身も同 26億円で自己破産現在、板倉雄一郎事務所( www. yuichiro-itakura. com)代表。過去の失敗経験から学んだ様々な知識を基に、株式投資や企業経営に関するセミナーの開催、講演、執筆、メディアでのコメンテーターとして活躍中。

社長失格ぼくの会社がつぶれた理由電子書籍版データ作成日   2012年 12月 25日  第 1版著  者  板倉雄一郎発行者  瀬川弘司発行所  日経BP社 © Yuichiro Itakura 1998 ●この電子書籍は、日経BP社より印刷物として刊行した『社長失格  ぼくの会社がつぶれた理由』( 2012年5月 9日発行  初版第 20刷)に基づき制作しました。掲載している情報は、刊行当時のものです。《電子書籍版について》 ●おことわり  本作品を電子書籍版として収録するにあたり、技術上の制約により一部の漢字を簡易慣用字体で表したり、カナ表記としている場合があります。  ご覧になる端末機器や、著作権の制約上、写真や図表、一部の項目をやむなく割愛させていただいている場合があります。また、端末機器の機種により、表示に差が認められることがあります。あらかじめご了承ください。  この電子書籍は、縦書きでレイアウトしています。 ●ご注意  本作品の全部または一部を著作権者ならびに株式会社日経BPに無断で複製(コピー)、転載、公衆送信することを禁止します。改ざん、改変などの行為も禁止します。また、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次