時刻は午前十一時、オールウェイズ・アサイン社では数時間前に出勤してきた社員らが、慌ただしくキーボードを打ち鳴らしていた。都内の一等地に構えたオフィスには、ズラリとデスクが並べられている。白を基調としたオフィスは、道路側に面した壁がガラス張りになっており、そこから強い太陽光が降り注いでいた。 しかし、照りつける日差しが眩しくなったのか、途中から誰かの手によってブラインドが閉められてしまう。 オフィスからは突然、あたたかい光が奪われ、代わりに無味乾燥な蛍光灯の光が社員たちの顔を照らした。 皆が懸命に仕事をするなか、若宮は一人で社長室にいた。あのファーストフード店を出たあと、結局帰宅はせずに、ほかの社員よりも早めに出勤していたのだ。(いつまでも気を揉んでいる場合じゃない。 CEOとして、自社の業績をなんとか回復させていかなければ) そう思いながら、今期から始まる新しいプロジェクトの資料に目を通す。 丁寧に紙面を読み込んでいると、若宮のスマートフォンがかすかに揺れた。 若宮が資料から目を離し、スマートフォンの待受画面を見ると、どうやら着信らしい。映し出される「財前」の文字とともに、若宮の手の上で画面が揺れ続ける。(こんなときに嫌な相手から……) 若宮は顔をしかめながら、スマートフォンを耳に当てた。「はい、若宮ですが……」 仕方なく応答した電話の向こうから、いつにも増して嫌味に聞こえる声が響く。「あぁ! 若宮さん! さっきから何度も連絡していたんですよ。若宮さん、全然出てくださらないんですから」「あぁ、すみません。大事な資料を読んでいて気がつかなかったみたいです。それで、なんの御用ですか? 財前さん」 ため息をつきたいのをこらえて若宮が尋ねると、財前は声のトーンを少し落とす。「何って、以前からお話している件ですよ。お忘れになったわけじゃないでしょ? あなたの会社、オールウェイズ・アサイン社さん、経営状況まずいですよね? 試算表を拝見しましたが、このままいくと債務超過は免れませんよ。うちとしてもね、困るんですよ?」 財前の話を聞いて、若宮はさらにうんざりする。(クソ、またこの話か。何度話せばいいって言うんだよ) 財前はオールウェイズ・アサイン社のメインバンクである都市銀行「東京すばる銀行」の担当者で、この会社の立ち上げのときには多額の融資を決めてくれた。設立したてで、まだなんの実績もない会社にも関わらず、力を貸してくれた恩がある。しかし、この財前という男はやっかいだと、付き合っていくうちに知ることになったのだ。いわゆる利己的なタイプと言うか、会社がよい業績を出せば擦り寄り、悪ければすぐにでも切り離すから、相手にすると面倒だと経営者の間では有名だったらしい。 それでも、その冷徹な判断と犬のような嗅覚でこなされる仕事は、銀行内でも業績に非常に貢献しており、多少の荒業は許される立場にいるという。 若宮に対しても、最初のうちは優しく生真面目な男を演じていたため、若宮が財前のこの二面性を知ったのは会社が傾き始めてから。あとの祭りというわけだ。 最近も、こんなふうに脅しに近い連絡を頻繁にしてくるようになっていた。「すみません、もう少し待ってください。会社の業績はかならず持ち直しますから……」 もう何度目かわからない謝罪は、すでに定型文と化している。 それでも、財前の攻撃は止まらない。「あのねぇ、待ってくれっていうのは以前から何度も何度も聞いているんですよ。若宮さんがそんな調子で、いつ会社が変わるって言うんですか? 明確な期日を設けてもらわないと。こっちだって遊んでいるわけじゃないんですからね」「そ、それは……」 財前が若宮に詰め寄る。(いつまでにって、そんなこと言われてもわかるわけないじゃないか。来年まで、うちの会社が存続しているかどうかすら危ういんだよ……) 若宮が答えあぐねても、そもそも財前自身、会社の建て直しの見通しが立たないことくらいわかっているはずだ。 ここで若宮に期日を明言させることで、失敗したときに「今後は融資が出せない」とでも言おうと考えているのだろう。 若宮はそんな財前の魂胆に薄々感づいていたため、電話口で余計なことを口走りたくなかった。 「……それでは、こうしましょう。今期内です」「え? 何がですか?」「我々がオールウェイズ・アサイン社さんの手助けをするかどうかを見極める期限ですよ。今が四月なので、来年三月の御社の決算月いっぱいまでに、業績をよい状態に戻してください。それができなければ、うちからの融資は今後一切お断りいたします」「十一ヶ月で会社を……」 若宮はうろたえるが、財前はそんな彼を気にもせず、冷たい声で言う。「どうせ、このままじゃ会社の存続も厳しいでしょう。見切りをつけるには、このあたりがいいタイミングじゃないですか。ねぇ?」 声を聞くだけで、財前がニヤついているのがわかった。(こいつ、うちの会社が潰れてもかまわないって言いたいのか……) 具体的な言葉にはせずとも、暗に会社の清算を促した財前の言葉に、若宮は怒りで顔が赤くなる。若宮はギュッと両手の拳を握り、今にも怒号を上げそうになるのを必死にこらえる。 結局この男にとっては、自行の利益以外はどうでもいいのだ。たとえ、それが若宮がこれまでの人生をかけて育て上げてきた会社であっても。 若宮は電話の向こうにいる男への怒りと、こんな人間に好きに言われている自分への情けなさに、しばし沈黙していたが、やがて決心したように口を開い
た。「ああ! わかりましたよ!! 今期末までにこの会社を建て直せばいいんでしょう!? やりますよ!」(自分にも一から会社を築き上げた代表取締役としての意地がある。こんな男に、勝手ばかり言われていてたまるかよ) 熱がこもった若宮の声に、財前は驚いたようだが、「その意気ですよ、若宮さん。それじゃあ、頑張ってくださいね。私どもにお役に立てることがあれば何なりと。では、失礼します」 と、最後まで若宮を小馬鹿にしたような口調で電話を切った。「クッソ……」 若宮は電話を切った途端、スマホを持った右手を強く握りしめ、拳ごと目の前のデスクに叩きつける。 ガタンと大きな音がし、普段から整理しきれていないデスク上の書類の束が、急な衝撃に決壊して崩れ落ちる。若宮のデスクの周りを大量の白いプリント紙が取り囲んだ。「今期で業績を上げないと……」 財前の思惑はわかっていたにも関わらず、その場の感情に任せて啖呵を切った代償は大きい。今期中に業績を戻すと言ったって、この会社に、そんなことができるやつがどこにいるというのだろう。 脳内では「融資が受けられなくなった未来」と、その後に待ち受けているであろう「会社を清算せざるをえない未来」の二つのイメージが、黒い煙を上げて渦巻く。 起業して以来、仲間と築き上げてきたこの会社が、誰かに奪われるか、あるいは跡形もなくなるかもしれない。そんなことを考えるだけで吐き気がしそうだった。 ぐちゃぐちゃになった机の周囲をどうにかしようという考えには至らず、ただ呆然と宙を見上げる。 今までだって、危機は山ほどあった。事業開始当初は資金繰りに苦戦し、危うく資金がショートしそうになったり、大口取引先との商談で部下がミスをしでかし取引すらなくなりそうになったり……。 そんな絶体絶命のピンチですら、決死のアイデアで乗り越え、笑っていろいろなものを許してきた。しかし、今回ばかりはそんな余裕はなく虚空を見つめるばかり。「本当に、どうすりゃいいのかな……」 半ば諦め、時計の針の音がやけに大きく聞こえ始めたころ、乱れた若宮の思考を高い声が切り裂いた。「若宮社長! 若宮社長!! いないんですか ー?」 ドアがノックされる音に、若宮はハッと我に返って返事をする。「あ、ああ! 入っていいぞ!」 若宮が慌てて部屋のドアを開けようとすると、その手がドアノブにかかるよりも先に、誰かの手によって開かれた。「西村じゃないか。どうした?」 そこにいたのは、美優だった。それも随分と心配そうな顔をしている。「社長! 大きい声出して、すみません! でもさっきからずっとお呼びしているのに、返事すらくれないから勝手に入っちゃおうか迷ったんですよ!?」 部屋に入ってくるやいなや、早口で話し始める美優の様子はまるで子犬が鳴いているようで、神経質になっていた若宮は安堵する。「そうか、ごめんな。ちょっと考え事しててな、はは」 若宮が軽く謝ると、美優も心配が解けたのか「もう、びっくりしたんですからね」と少し膨れている。「それで、どうしたんだ? 何か大事な用か?」 若宮が尋ねると、美優も思い出したように慌てて、本題を話し始めた。「あ、そうだ! 安藤さまという方がいらっしゃっています!」 安藤。その名前を聞いて、若宮は今日の予定を思い出す。(そうだ、今日は安藤さんがいらっしゃる日だった。うっかりしていたな) 先刻の財前の電話で頭が真っ白になっていたからか、スケジュールをすっかり忘れていたのだ。若宮は慌てて美優に指示する。「安藤さんか! 会議室にお通ししてくれ」「わかりました、すぐに……あの、社長……」 返事をする美優は、なぜかさっきと同じくらい心配そうな顔でこちらを覗き込んでくる。「西村? どうかしたか?」 物言いたげな部下と視線を合わせると、美優の瞳には不安の色が浮かんでいた。「あの、若宮社長、大丈夫ですか? 顔色が悪そうに見えます……。昨日と同じ格好ですし、ご自宅には帰られなかったんですか?」首をかしげながら、眉尻を下げる美優。 心配する部下に若宮は、まさか解散後も飲んだくれていたとは言えずに、「ん? そうか? 大丈夫だよ。昨日、飲みすぎたかな。今の業務が忙しくて、着替える時間がなかっただけだよ」とごまかすように笑いながら話した。 すると、美優はそのおちゃらけた若宮の対応に安心したのか、「ご無理はしないでくださいね」と表情を戻し、来客のもとへ向かうために社長室を出て行った。「部下に心配をかけるとは、俺もまだまだだな……」 バタンとドアがしまる音とともに社長室で一人になった若宮は、独り言を呟きながらため息をつく。 普段はできるだけ笑顔で取り繕っているものの、一瞬の気の緩みを社員に見せてしまったことは、 CEOとしてひどく恥ずかしいことのように思えた。 急いで来客のもとに行かねばならないが、心を落ち着かせるために、いったん自身のオフィスチェアに腰を下ろす。(そういえば、今日は識学のヒアリングの日だったか) 若宮は、今日初めて会う、安藤という男の顔を想像する。
若宮自身は安藤とは初対面だが、長く付き合いのある共通の友人から紹介を受けたのだ。その友人と久々に飲み会をしていたとき、会社の業績の悪さについて、ふとこぼしてしまった若宮に友人が勧めてくれたのが、安藤が代表を勤める経営コンサルティング会社「識学」だった。 若宮は飲みの席で交わした友人との会話を思い出す。 なんでもない大衆居酒屋で、友人と二人して、もう随分飲んでからのことだった。 普段は仕事の会食ばかりで、居酒屋に行く機会も減っていた若宮は、その日は久しぶりの友人との再会に少しばかり調子に乗って、いつもより速いスピードで酒の入ったグラスを空けていた。 日々のストレスから逃れようと飲んだくれる若宮に、友人も心配になったのだろう。若宮に識学について語り始めたのだ。「シキガク……? 聞いたことないな、なんだそれ」 ジョッキに三センチだけ残ったビールを飲み干しながら、若宮は友人が発した聞き慣れない単語に首をかしげた。 友人はアルコールで少し赤くした顔を若宮に向けながら、「それがさ、できたばかりの会社なんだけど、その安藤っていうやつが優秀なんだよ。もともと、大手の通信会社の子会社で取締役営業本部長に就いて、けっこう大きな組織を動かしてたらしくて。で、その後に独立して作ったのが、今の会社」 と説明する。 若宮は皿から枝豆を手に取り、指先で転がしながら友人の話に耳を傾けた。「へぇ、立派なやつなんだな。でも、どうせ、よくある経営コンサルなんだろ? もう、コンサルはなぁ」 今まで雇ってきた、金を吸い上げるばかりのコンサルタントたちの顔を思い出し、訝しげに返答する若宮に向かって、友人はテーブルに乗り出すように少し前のめりになった。「なんか、意識構造学に基づいた組織運営の手法? らしいんだけど、それが結構ハードな内容の分、効果は絶大らしくて」「らしい、って、お前それ誰から聞いたんだよ?」 ありがたそうに話す友人に若宮は返す。すると、「え、安藤本人だよ?」 と、さも当然かのように答える友人に、若宮は半ば呆れた。「そりゃ、本人はそう言うだろうよ……」 友人は、若宮のそんなネガティブな反応にもめげず、「いやいや、ホントすごいらしいんだよ。組織の在り方を根本から変えるっていうか」 と訴えかけた。別にその識学とやらに肩入れしているわけでもなさそうな友人は、それでもなぜか、必死な表情だった。「へぇ、そりゃすごいね」 友人の気遣いを感じ、仕方なく空返事をしていた若宮だったが、内心ではもうコンサルタントやらアドバイザーやらにはうんざりだった。(どうせ名前だけのやつだろうよ。こんな状況で、コンサルに高い金払う余裕もないっつ ーの) などと心のなかで毒づく。 気のない返事をしながら口に枝豆を一粒放り込む若宮に、友人は最後の念を押すように言った。「とにかくさ、話だけでも聞いてみろよ。会社、大変なんだろ? なんか力になってくれるかもしれないし、安藤も会社始めたばっかりで、取引先探してるみたいだし」 興味のなかった若宮だったが、それでも心のどこかで、何かにすがりたい気持ちがあるのは自分でも否定できなかった。熱心な友人の言葉もあって、じゃあ話だけでも、と安藤を招くことになったのだ。 とはいえ、長い付き合いの友人の紹介ということでヒアリングにまでは至ったが、若宮は識学について、いまいちイメージが掴めていなかった。 今までもいくつかの経営コンサルや人事コンサルを雇ってきたが、いずれも明確な結果は出していない。変わらない状況と、毎月送られてくる決して安くはない金額の請求書にうんざりとしていた矢先でもあった。 安藤とはその後、友人を通じて何度か連絡を交わし、先に説明資料だけ送ってもらっていたが、いざ手にした資料もあまり共感ができないものだった。「組織運営の誤解や錯覚」から始まり、「部下を褒めてはいけない」「社員の行動ルールを規定する」など、綺麗に、しかし無表情に印刷された文字が訴えかける内容は、およそ若宮の経営方針からかけ離れている。(期待できるかどうかはわからないが、財前に啖呵を切ってしまった件もある。時間もないし、背に腹は変えられないか) 財前との電話の内容を思い出し、眉をひそめる若宮は、曲がりかけていたネクタイを引っ張ってまっすぐに直しながら、安藤の待つ会議室に向かった。 一方の安藤はといえば、オールウェイズ・アサイン社に着いた瞬間に、この企業の組織的な問題点の多さに驚いていた。 誰の目から見ても申し分のない上等なオフィスも、いざ内側に入れば、その外観の美しささえ中身のないハリボテのように思えるほどだ。 そもそも、先ほどから自分に対応してくれている若い女性社員は、どうやら社員証を身につけていない。案内された会議室に到着するまでの道のりで、オフィス内を軽く見回してみても、社員証をつけている社員とそうでない社員の割合は半々というところだ。 社員証は、その組織に自分が所属していることを表す大事な証明書であり、多くの会社でつけることがルールになっている。そういうルールがあるのに、社員の誰もがしっかりと社員証を身につけていない会社は、「ルールを守る」ことが苦手な組織である場合が多い。 きっと、上司がつけるように指摘したとしても、「どうしてつけなければいけないのですか?」などと、異を唱える者がいるのだろう。言うことを聞かない部下の顔が目に浮かんだ。 それに加えて、先ほどからずっと鳴り響いている電話の着信音。 簡易的な造りの会議室には、黙っていさえすれば外の音が丸聞こえなのだ。 会社の電話が鳴れば、せめて三コール以内には出たいところだが、もう五コールを超えているにも関わらず、耳をつんざく着信音が依然として鳴り続けている。電話などそもそも存在していないかのように、皆がパソコンのキーボードを叩き続けている有様だ。「おい、誰か電話対応しろよ」 と我慢をしかねた男性社員と思しき野太い声が聞こえた。 ところが、「今、忙しいんですよぉ」
「鈴木さん、ちょっと出てくれません?」「ちょっと待って、今、手が離せない」 などという怠けた会話が繰り広げられているうちに、電話は鳴り止んでしまった。 安藤は驚きを通り越して、唖然とした。 もしも、あの電話が大口取引先からのコールだったら、どうするつもりなのだろう? 彼らは電話の重要性をまるでわかっていない。 極めつけは挨拶だ。社長室に向かう道のりで、社員の数名とすれ違ったり、目が合ったりしたものの、明らかに来客である安藤に対して、しっかりと挨拶をする者が一人もいなかったのだ。 挨拶は人間関係の基本だ。明るく挨拶をすれば会社の雰囲気がよくなるし、取引先への印象もよくなる。会社として、「きちんと挨拶をしましょう」という程度のことさえ、社員に言えない状況になっていることが容易に想像できた。 無法地帯と称しても過言ではない状況に、安藤の心には、かえって闘争心にも似た感情が湧き上がりつつあった。 会社を設立して、初めてのクライアントが、このオールウェイズ・アサイン社になるかもしれない。会社の代表としては、今回の契約はなんとしてでも掴みたいものだ。 しかし安藤にとっては、契約を取りつけること自体は、もはやそれほど重要ではないようにすら思えてきた。自分が今やらなければいけないことは、もちろん自社の業績を伸ばすことだが、それよりも、目の前のこの傾きつつある企業をどうにか改善し、建て直すこと。それこそが、安藤の持つ根本的な使命ではないかと思えたからだ。(この会社は、変わらなければならない。いや、変えねばならない) 安藤が確信を得たとき、会議室のドアがゆっくりと開いた。 会社の社長と言うには、まだ若く見える男だった。遠目で見れば、爽やかな青年とも言える風貌だが、近づいて見れば、目頭から深く刻まれた茶色いクマが不健康そうで、上等そうなスーツにも少しシワを寄せている。姿勢もよくなく、これでは初対面の相手に好印象を抱かせるのは難しいだろう。 安藤はすぐに椅子から立ち上がって、軽く頭を下げた。「若宮さんですね、初めまして。識学の安藤と申します。このたびは、ご連絡をいただきありがとうございます」 丁寧に挨拶をする安藤に、若宮も頭を下げる。「いえいえ、こちらこそ。お待たせしてすみません。代表の若宮です。このたびはお越しいただきありがとうございます」 手短に挨拶を済ませ、名刺を交換すると、二人とも席についた。 コンコンというドアのノック音とともに「失礼します」という声が聞こえてくる。ドアを開けたのは美優だった。どうやら来客用にお茶を持ってきたらしい。 美優が二人の前にお茶を並べている間に、若宮は安藤から受け取った名刺で彼の会社の名をチラリと確認した。硬めの紙にシックな明朝体で印刷されている。その社名を読みながら、若宮は名刺の表面を親指で軽くなぞり、そして、テーブルの上に丁寧に乗せた。 若宮は改めて安藤の顔を見る。 メタルフレームのメガネをかけ、シワ一つない深い紺色のスーツをピシリと着こなし、お手本のような姿勢でこちらに向き合う彼は、その隙のない風貌から、どこか神経質な雰囲気を漂わせていた。レンズの奥には、強く刺すような視線を放つ瞳が鎮座している。「改めて、本日はありがとうございます。友人から話を伺ってはいるのですが、詳しくご説明をお聞きできたらとご連絡したんですけど。というのも、お恥ずかしい話、ここ最近、弊社の業績が思わしくなく、安藤さんのお力を借りられるかどうか、と」 若宮は簡単にまとめたあと、お茶の入った紙コップにすっと口をつける。安藤は、若宮がその紙コップをテーブルに置くのを確認すると同時に、口を開いた。「こちらこそ、ご連絡をいただけて大変嬉しく思います。社内を拝見しました。綺麗なオフィスを構えていらっしゃいますね」「ああ、ありがとうございます。気に入ってるんですよ」 若宮は笑って返す。「事前にいただいていたヒアリングシートを拝見しました。お忙しいなか、ご記入いただき、ありがとうございました」 ヒアリングシートというのは、面談の申し入れをしたときに安藤から記入を指示されたものだ。現在の状況確認を行うために、企業の組織形態や社員数、直近の簡単な業績の推移や、若宮のここ一、二ヶ月間のスケジュールを記すような記入欄が設けられていた。 その結果を見て、安藤自らがマネジメント状況を診断してくれると言うのだ。 スケジュールなんて見てなんの意味があるのか、と若宮は疑問を覚えたものの、意図がわからないからこそ、できるだけ詳しく書いた。「いえいえ。それで、うちの会社の状況はいかがでしたか?」 若宮が尋ねると、安藤は少し間を置いて、答えた。「失礼を承知の上で単刀直入に申し上げますと、御社の業績の悪化は、このままでは今後も続くでしょう。企業としての存続も危ぶまれる状況です」 若宮がその言葉を耳にした瞬間に、二人の間に張り詰めた空気が生じる。 言葉を慎重に選びながら、けれど忖度なく出された返答に、若宮は口もとが強ばるのを感じる。 ここまで直接的に指摘を受けるなどとは、まるで想定していなかったからだ。 今までのコンサルタントは、皆、終始笑顔でヒアリングを行っていたし、まさか会社の倒産までをも匂わせる発言なんて、もちろんなかった。 それがこの安藤という男は、ニコリともせずに、随分な言葉を投げかけてきたものだ。 若宮は自身の耳に当たってくる、やや伸びてきた髪の毛をうっとうしく感じ、膝に置いていた右手を上げて撫でつけた。「それは……手厳しいご意見ですね。なぜ、そう思われたのですか? あの記入項目だけで、会社の未来までわかるものですか?」 若宮は、わざと少し困った顔をして答えた。内心の動揺を隠すためだ。 しかし、安藤はそんな若宮に気を遣う素振りさえ見せず、冷静に返す。「はい。問題が数多くありました。経営や組織、そして、若宮さん自身にもです」
「僕の問題点、ですか。というのは、例えば……?」 はっきりと答える安藤に対して、若宮は今度は多少の動揺を隠せずに聞いた。「ここ最近の若宮さんのスケジュールを拝見しました。正直に申しますと、ひどいスケジュールです。日中の予定は部下とのミーティングで詰まり、夜は夜で、飲み会の予定がほとんど毎日ですね。この飲み会はどなたと?」 アンケートシートには最近のスケジュールについての質問もあったのだ。 鋭い視線を向ける安藤に、若宮は答える。「それも、部下たちと、ですが。それが何か問題でも?」(スケジュールにまで文句をつけるのか、このコンサルは) ムキになりつつあった若宮は、少し語気が強くなった。 しかし、安藤はそれにもためらう様子はなく、「非常に問題です。そもそも、なぜ社長が自ら、自社の部下たちと飲みに行くのですか?」 と、問いただすように言った。「それは、部下と交流を深めたり、悩みを聞いて解決方法を提案したり、仕事へのモチベーションを上げるためだったり。我々みたいな中小企業の経営者なら、みんなやっていることじゃないですか」と、若宮はまた少し喉に力を入れて答えた。「それがダメなんですよ、若宮さん。社長は、部下の悩みを解決したり、モチベーションを上げたりするために存在する役職じゃない。会社の業績を上げるためにいるんです」 安藤の言葉に、若宮は口のなかに溜まった唾液をぐっと飲み込んだ。 今、目の前にいる男は、自分がこれまでずっとやってきたことを、全部間違っていたと言うのか? 部下のためを思って毎日飲み歩いたことも、イベントを計画してきたことも、何もかも間違いだったと? 若宮は、今朝ファーストフード店で感じた絶望を思い出す。急に崖から突き落とされたような気分になり、暗い感情を表情に出した若宮を、意にもかけず安藤は続ける。「たしかに、社員のモチベーション維持のため、社長自らが奮闘するというのはよくあることでしょう。しかし、そうしてきた会社がきちんと利益を上げているか? 答えは NOです。日本社会においては、起業した会社の十社に七社が設立して十年以内に倒産すると言われています。御社、オールウェイズ・アサイン社は、このままではその七社の側になる可能性が十分にあります」 話し始めたときとさほど変わらない、平静な様子で話す安藤。 ヒアリングシートと社内の様子を見て、彼の目には、オールウェイズ・アサイン社が今後たどる道のりが想像できていたのだ。 「……私の行動が間違っていたかもしれないという、安藤さんの主張は、わかりました。 では、もしそうだとしたら、私はこれからどうすれば?」 今までやってきたことがすべて間違いだったと言われたとき、若宮は虚を突かれた思いがした。思い当たる節が少なからずあったからだ。 これまで社員たちのためを思ってやってきたことが、裏目に出ていたのかもしれない。しかし、自分ですぐにどうにかする方法も思いつかない。 ……この安藤の力を借りれば、この現状を打開できるのだろうか?(いや、しかし、こんな男に俺の会社の命運を委ねるのか……?) 自分の経営に対して散々に言われておきながら、この男が結果を出さなかったら、一体どうしてくれるのだろうか。むしろ、契約を取りたいがために不安を煽る策略かもしれない。 とはいえ、安藤の言う通り、今のままでは業績の悪化が止まらないことも目に見えている。「安藤さん、あなたにうちの会社が変えられると言うんですか?」 若宮は苦し紛れに質問を投げる。 すると、安藤は真剣な目でこちらを見据え、大きく頷いた。「かならず、あなたの会社を建て直すと約束しましょう」 膝に手をつき、今にも身体を乗り出してきそうな安藤の様子に、若宮は圧倒される。『来年三月の御社の決算月いっぱいまでに、業績をよい状態に戻してください。それができなければ、うちからの融資は今後一切お断りいたします』 頭のなかで財前の声が響いた。(次の決算期までに会社を変えるなんて、きっと、俺一人の力じゃかなわない)「次の……」 若宮が事情を話そうとして迷い、言い淀むと、安藤は「なんですか?」と聞き返してきた。「次の決算期、つまり来年の四月までに会社を建て直したいんです。うちのメインバンクの担当に、それまでに会社をよい状態にできなければ、今後融資はできないと言われています。そうなれば、うちの会社はなくなるかもしれない。それでも、それでもできるとおっしゃいますか?」 若宮が目を見開いて聞くと、安藤はもう一度深く頷いた。「若宮さん、我が社の提供する、識学を使いませんか? オールウェイズ・アサイン社に、若宮さんに、そして部下の皆さんにかならずよい結果をもたらします。なぜなら、識学は組織を根本から改善するメソッドだからです」 安藤は、最後にもう一言添える。「この会社を、一緒に変えましょう」 安藤の目は一切の濁りなく、若宮を映していた。 若宮は安藤のその眼差しを見て、大きく息を吐いた。「あなたを信じていいのかわからない。わからないけれど、我々には時間がないんです。どうか、力を貸してください」 株式会社識学と、株式会社オールウェイズ・アサインの初めての契約が決まった日だった。 * * * 後日、安藤は契約書を持って、再びオールウェイズ・アサイン社を訪れた。
前回は「御社を変えるため、こちらで施策を練りますので」と言い残して帰ったのだ。若宮は、安藤の言葉を信じるしかなかった。 時刻は十三時。あたたかな陽光が降り注ぐ昼下がりに、安藤と若宮は前回と同じ会議室で対面していた。「まずは、こちらが契約書になります」 ガラステーブルに置かれた契約書を見ながら、若宮は安藤に尋ねる。「識学のメソッド、と言っても、最初は具体的に何をするんですか?」 まだ少し疑いの色が交じる若宮の言葉に、安藤は宣言するように言った。「まずは、私にどこか一つの部署を三ヶ月任せてください」「部署を任せる? 完全に、ですか?」 若宮は想定していなかった提案に目を丸くする。 経営コンサルというから、まずはヒアリングを重ねるのかと思っていたが、いきなりそこまで内部に介入してくるつもりとは。「はい、どこでもいいです。三ヶ月でかならず、結果を出します」 きっぱりと言いきる安藤に対して、若宮は頭をかく。「どこでもいいって、言われても……」 二人の間にしばしの沈黙が流れた。 どこかの部署を任せろと言われても、と困った若宮の脳裏に、一つの部署が浮かぶ。 数秒黙って考え込んだ若宮は、もう一度口を開いた。「そうだな、じゃあ、第三営業課はどうですかね」 若宮の言う第三営業課は、オールウェイズ・アサイン社のなかでも特に成績が悪く、若宮にとっても大きな悩みの種となっている部署だ。恐らく、この部署で結果を出すのが一番難しいだろうと思われた。(どうせ、ダメかもしれないんだから、とりあえず任せてみるか) 半信半疑な若宮は、もっとも難易度の高いであろう部署を安藤に一任することにしたのだ。「そこで、ですが。始めるにあたって、これだけは約束していただきたいことがあります」 第三営業課を担当することに同意したあとで、安藤が言う。「約束? なんですか?」と若宮が聞くと、安藤は自らの両手をぐっと握り合うようにして、先ほどまでより少し低い声で言った。「私が部署を担当した際に、部下の皆さんが苦しくなって、若宮さんに相談しにくることがあるかもしれません。しかし、そのときに異動することを許可したり、上司にフォローするように指示したりするのはやめてください。そして、担当部署の社員には、この三ヶ月間はかならず僕の指示通りに動くように伝えておいてください。若宮さん自身も、僕のやり方に介入することは全面的にやめていただきたい。それだけは、お願いいたします」 言いきる安藤に、若宮は渋々同意をした。(どうせこのまま続けても変わらないんだ。安藤さんと、そして識学にかけてみよう) 窓から入った太陽の光が、二人の手もとを照らす。テーブルに置かれた契約書には、両社が正式に契約を結んだ証として印鑑が押されている。 こうして若宮は、識学を取り入れることにしたのだった。
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