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8  刷新

 寒さも本番を迎え始めた、十二月。木枯らしがオフィスの入っているビルに吹きつけ、窓の外からは風が鳴る高い音が聞こえてくる。仙台あたりでは遅めの初雪が降ったと、朝のニュースで報じられていたらしい。  今年も終盤に差し掛かっているからか、オールウェイズ・アサイン社では、どこか慌ただしさが感じられる日々が続いていた。  羽休めの週末が終わり、また新しい週が始まった月曜日の朝のことだ。  時計の針は午前九時前を指していた。いつもより少し早めに出勤した若宮は、久しぶりに社員の様子を見てみようと、今日も識学の全体研修が行われるはずの第二会議室へ向かっていた。「まぁ、まだ誰もきていないだろうけど……」  会議室へ向かう廊下でそう独り言を呟いた若宮は、会議室後方の入口から目立たないように室内を覗いた瞬間、驚きのあまり声を上げそうになった。(まだ、開始時間の十分前だぞ?)  会議室には、すでに社員たちがたくさん集まっていたのだ。しかも、ズラリと並んだ椅子に座る一人ひとりが、メモ用のノートやタブレットを持参し、静かに安藤を待っている。そのなかには、以前は識学の導入に強硬に反対していた数人の社員の姿まである。(以前のうちの会社だったら、ありえない光景だな)  若宮はかつての会議の様子を思い出して、苦笑いした。  ほんの半年くらい前までのオールウェイズ・アサイン社では、会議に遅刻してくる社員は当たり前のようにいたし、会議中の議事録でさえ、雑なメモ程度のクオリティだった。それが、今は参加している皆が積極的に識学を学ぼうとしている姿勢が、会議室の光景を見るだけでありありとわかる。  若宮は社員たちと距離をとる意味もあって、安藤からの経営者向けの研修を個別で受けてきたから、以前行われていたマネージャー研修やその後の全社研修については、安藤から都度送られてくる報告書や口頭連絡でしか状況を把握していなかった。しかしこんなことなら、もっと早く見にきておいたらよかったと少し後悔する。  本来なら社員たちを集めて、一人ひとり褒めてやりたいくらいの気持ちなのだが、さすがにそれは憚られたので、ぐっと我慢して彼らの姿をじっと見つめていた。「若宮さん、どうかしましたか?」  唐突に後ろから声をかけられ、若宮は「わぁっ」と小さな声を上げて仰け反った。「あ、あぁ……安藤さんでしたか」  若宮の後ろに立っていたのは、研修を始めようと会議室にやってきた安藤だった。  驚く若宮に、安藤も厚いレンズの奥で目を丸くし、こちらを見ている。「すみません。社員たちの様子が気になって、少し見ていただけなんです」  苦笑いを浮かべながら言う若宮に、安藤はいつもの無表情に戻って「そうでしたか」と淡白に答えた。「うちの社員、変わりましたね。以前なら、こんなふうに研修時間の前から準備していることなんてなかったのに」  若宮が頭をかいてそう言うと、安藤も若宮と並んで入口から会議室を覗き込みながら頷いた。「そうですね。会社組織においては、ルールを守り、規範を作っていくことがいかに重要か、私自身も思い知らされています。決まったルールは、習慣化されていくものですから」  安藤も何か学ぶことがあったのだろうか、真剣な表情だ。  その横顔をちらりと見ながら、若宮が尋ねた。「安藤さん、今日だけ全社研修を見学してもいいですかね?  社員の様子が知りたいんです」  もちろん余計なことを喋ったりはしませんから、と慌てて付け加える若宮に対し、安藤は顎に手を当ててしばしの沈黙で応えた。(一体、何を考えているのだろう?)  安藤は、いつも若宮の想定外のことを考えているし、そもそも考え方の根本がまるで違うので、若宮には今彼が何を考えているのか、まったく想像できなかった。「だめ、ですかね?」  沈黙に耐えかねて、おずおずと安藤の様子をうかがう若宮に、安藤は一度頷いてから答える。「いえ、いいですよ。今日はご覧ください。社員の方たちの成長を見ることが、今の若宮さんにとっては、必要なことかもしれないですから」  てっきり断られるかと考えていた若宮は、安藤の意外な返答を喜んだ。「では、始めましょうか」と会議室へ入る安藤に、若宮もできるだけ気配を消すようにしてあとに続くと、会議室の後方の壁際に立った。  久々の社長の登場だ。社員たちのなかにも若宮の姿に気がついた者がいて、数名と目が合ったのだが、彼らはそうすることが暗黙の了解であるかのようにすぐに目をそらしてくれた。おかげで、若宮の存在は目立たずに済んだ。  若宮がほっと胸をなで下ろすのと同時にと、参加者全員の前に立った安藤が口を開いた。「皆さん、おはようございます。本日も、どうぞよろしくお願いします」  安藤が挨拶をすると、社員たちが「よろしくお願いします」と息を揃えたかのような挨拶を返す。明るい声を出す彼らは、まだ朝早い時間帯なのになんとも溌剌としている。(すごいな。あいつら、こんな顔もするのか)  爽やかな表情の社員たちを見て、若宮は再度驚いた。自分と頻繁に飲みに行っていたころは、二日酔いだったり、どこか疲れていたり、そもそもやる気がなかったりと、生気のない顔つきの社員も多かったのだが……。(あいつらを喜ばせようとして、余計に疲れさせていたのは俺だったのかもな……)  若宮は社員の変化と、自分の今までの行動を照らし合わせて反省する。「理想の社長」を演じ、社員たちを喜ばせることで仕事へのやる気を引き出そうとするのは、逆効果だと言っていた安藤の言葉を、今本当の意味で理解できた気がした。  そんなことを考えていると、みんなは座っているのに、自分だけいつまでも後ろに立っていては余計に目立つかもしれないと思いつき、若宮は一番後ろの空いている席に座るため移動する。

そのとき、こちらを見つめる一人の社員と目が合ってしまった。相手は今一番会いたくない社員。いや、正しくは、会うともっとも気まずい社員。そう、西村美優だった。  彼女は、今後は社員とは親しく関わらないと方針を変えた若宮に、あえて何度も連絡をよこして心を揺り動かそうとする張本人。しかも若宮は、そんな彼女の連絡に一切合切、無視を決め込んでいる最中なのだ。  目が合った瞬間、「しまった」と焦る若宮だったが、急に視線をそらすのも変だからと考え、無理やりかすかな笑顔を作る。しかし、美優はそんな若宮の表情を見て顔を軽くしかめると、すぐに彼から目をそらした。  若宮はそんな美優の様子に、密かに心を痛めた。あんなに慕ってくれていた部下を、急に異動させ、その後は連絡への返事もしないでないがしろにしているのだ。良心が痛まないはずがない。(失敗したな……)  若宮がそう思いながら椅子に腰を落としたところで、いよいよその日の研修が開始された。「それでは皆さん、本日お教えするのはこちらです」  安藤がそう言いながら表示したモニターには、『責任の所在を明らかにする』  と書かれていた。  映し出された文字を見て、会議室のどこかから「責任……」と小さな呟きが漏れた。「皆さんは仕事において、自分にどのような責任があるのか理解されていますか?  本来、会社で業務をしている以上は、皆さん全員が何かしらの責任をお持ちになっているはずです。しかし、私が見てきた限り、この会社では責任の所在がどこにあるのかが不明確でした」  安藤が皆に向かって喋り始める。  その瞬間、会議室の誰もがまっすぐな視線を安藤に集中させていた。  若宮はすでに識学について一通り研修を受けているが、安藤の話は何度聞いても興味深い。「組織のなかで、個人間の親交が深くなればなるほど、〈みんなで頑張ろう〉といった仲間意識が生まれ、責任の所在が曖昧になっていきます。それは、家族や友人の間ではいいかもしれませんが、組織のなかでは問題です。  責任の所在という一つのルールを決めることで、仕事に対する意識を変えていきましょう。ルールがあれば、何かトラブルが発生した際にも、リカバリーも効きやすくなります」  安藤は話を続ける。「よくあるのが、責任のない立場の他部署の責任者が、別の部署に対して会議で意見をするという状況です。当然、自部署の責任を果たすための他部署への要求や意見であれば、いくらでも言ってよいのですが、評論家的に、自分の責任とまったく無関係なことを指摘するのはダメです。責任の所在が曖昧だからです。  そのような行為が横行していると、社員一人ひとりが、よかれと思って権限を超えた行動をとってしまうのです」  安藤の話を聞きながら、社員たちは必死になってメモをとっている。誰もが目と耳、そして指先に意識を集中させ、講義の内容を漏らさず吸収しようとしている。  時間をかけ、安藤は社員たちに「責任とは何か?」、そして「組織のなかでの位置と権限」について話して聞かせた。  若宮も学ぶことが多く、改めて安藤の提唱する識学の考え方に共感する。なにより、急速に変わりつつある社員の様子には驚かされるばかりだった。  そうして約一時間の研修が、本当にあっという間に終わった。「それでは、皆さんお疲れさまでした。本日はこれで終了です。質問がある方は、いつでもお待ちしています」  安藤がそう言うと、皆が席を立ち、その日の担当業務を始める準備に取りかかる。何人かの社員は安藤の前で列を成し、順番に質問をしては何やら熱心に話し込んでいた。  若宮はそんな列をかき分けながら、安藤の近くに寄って耳もとに話しかけた。「安藤さん、ありがとうございました。このあとの各部署の責任者を集めたミーティングは、十一時半からになります。お手数ですが、ご参加いただけますか?」  若宮の問いかけに、安藤は腕の時計を見る。時刻は十時半だ。「わかりました。出席します」  短く返事をして、また社員たちとの会話に戻る。  するべきことを済ませ、社長室へ戻ろうとした若宮は、ふと視線を感じて振り返った。すると、会議室の後方にいた美優と、また目が合ってしまった。  美優は何か言いたげな顔をして若宮を見つめているが、若宮は『社員とは、距離をとってくださいね』と安藤に言われていることを思い出し、とっさに視線を外した。(ここで西村と関わるのはまずい……)  社員の質問に答えながら、安藤が横目で鋭い視線を自分に向けているのを若宮は感じた。(これも会社のためだ)  若宮は心を鬼にして、軽く奥歯を噛み締めると、足早に社長室へ向かった。  社長室のドアを閉めると、若宮はその場で座り込み、焦点の定まるらない視線を天井に向けた。(あぁ……最近、西村に悪いことをしてばかりだな)  美優が若宮に近づこうとすればするほど、若宮は不自然に彼女を避けなければならない状況になる。そうしなければならない現状に、ストレスを感じた。若さなのか、生来の気質なのか、真っ直ぐすぎる性格の彼女を避けることは、若宮にとっては難易度が高い。  すぐには気持ちが切り替わらない若宮は、その場で数分の間、天井を見上げ続け、首が疲れてきたところでデスクに戻った。(あと少しでミーティングの時間だ。それまでにこのタスクくらいは終わらせておきたいよな)  そう思って、さまざまなタスクを書いてパソコンの端に貼りつけた付箋の一つを見ながら、今やるべき作業を進めていった。 *     *      *

それから三十分ほど経ち、若宮は各部署の責任者を集めたミーティングに足を運んでいた。  場所は第一会議室。その日の議題は、各部署からの成績の報告と今後の改善についてだ。  そろそろ年の瀬が近いことから、現在の会社の状況を、各部署の責任者らと一緒に確認しなければならない。  そもそも財前の件もある。識学を導入し、できるだけの努力はしてきたつもりだが、もしも会社の業績が好転していないのであれば、今後会社がどうなったとしても社員へ大きな迷惑をかけないよう、万一の際の対応も考えておかねばならない。今回のミーティングは、その重要な判断材料になるものだった。  経営に直接関わる重要な会議だから、安藤も呼んだのだ。  十一時二十分、若宮が席につくころには、安藤や各部署の部課長たちがすでに顔を揃えていた。  会議室は綺麗に清掃されており、その場にいる全員の気も引き締まっているようだ。「それじゃあ、始めようか」  若宮の開始の合図で、まずは第一営業課から報告を始めた。「よろしくお願いします。第一営業課の今期第 3四半期までの予想数字ですが……」  資料を配りながら、話し始めたのは佐伯だ。彼は営業部長から第一営業課長に降格された直後はひどく落ち込んだ様子で、その後はあまり若宮と顔を合わせようとしなかった。そのため若宮も心配していたのだが、そんな心配とは裏腹に、今日の佐伯はなんだか元気そうだ。  元気、と言うよりは「勇ましくなった」と言ったほうが、正しいかもしれない。  佐伯の様子をそれとなくうかがいながら、若宮は配られた資料をめくる。「おぉ?  この数字、すごいじゃないか」  若宮は資料の内容に思わず声を上げた。  資料の数字を見るに、以前は日々の営業活動での成約率が目に見えて下がっていた第一営業課が、大幅に成績を回復させ、対前年比でも一〇〇%を大きく超えきていたのだ。  若宮は思わず目を輝かせて佐伯を見る。「佐伯、頑張ってるな。今回は、どうしてこんなにいい数字が出せたんだ?」  若宮が質問すると、佐伯は得意げな様子を見せるでもなく、淡々と答えた。「はい。以前から安藤さんにご教授いただいている、識学の考え方を取り入れたことが何よりも結果につながったと思います。メンバーを結果だけで評価し、ルールを徹底する。それを続けるだけでも、十分な効果がありました」  佐伯のその言葉を聞いた安藤は、いつものように無表情のままだったが、席についたまま佐伯に向かって軽く頭を下げた。  若宮はその様子が嬉しくて、佐伯に労いの言葉をかけた。「そうか。研修の内容をしっかりと役立ててくれているようでよかった。では、次の部署だな。第二営業課、続けて第三営業課も頼む」「はい、第二営業課ですが……」  営業部門全体の報告を聞き終えた若宮は、思わず笑みを零した。  第一から第三までの営業課すべてで数字が確実に伸びており、また社員たちも、たしかな結果が出ていることに手応えを感じ、日々の仕事へのモチベーションも向上しているという。以前は成績発表のときに自信なさげに話していた課長らの顔も、今日はどこか明るかった。  議論もスムーズに進み、その場の誰もがやりがいを感じているらしい様子が、若宮にとってはこの上なく嬉しかった。  しかし、「実は第三営業課のお客さまへの対応で、少々トラブルがありまして……」  営業数字の報告が終わり、その他の業務報告が行われる場面で、不意に不穏な空気が流れた。「トラブル?  どんなトラブルだ?」  若宮が首をかしげる。「それが、電話での商談の際に何人かのお客さまの機嫌を損ねてしまったようで、 SNSに弊社に関するクレームを多数書かれてしまったのです……事実無根の、ただの悪口みたいなものもあって、会社のイメージにも影響を及ぼす可能性があるかと……申し訳ございません」「そうか、そんなことが……」  心底申し訳なさそうに話す第三営業課の課長に、若宮はどう対応の指示を出そうかと悩んだ。素直に問題を報告し、謝罪した社員に対して、頭ごなしに怒るのは意味がない。そんなことより、今現実に生じている問題への対応が重要だ。(多少のクレームは仕方ないが、 SNSに悪口を書かれるのは、やはり企業の印象としてはよくないな……とはいえ、どう対応すればいいのか)  若宮が考え込んで黙っていると、デザイン部の部長が割って入ってきた。「せっかくみんなで作り上げてきた会社の印象を、電話一本で崩してしまうなんて、課長の監督責任をどう考えているんですかっ!?」  語気を強めて非難するデザイン部の部長に、若宮は「まあ、落ち着け」と声をかける。  身体が縮んでしまいそうなほどに頭を下げて、申し訳なさそうな顔をする第三営業課長は、「す、すみません……」と消え入るような声で答えた。  その様子を見て、デザイン部の部長は若宮の指示を無視してさらに畳みかける。「ほんと、第三営業課はクレームが多い。そのはっきりしない態度が、お客さまの機嫌を損ねるんじゃないですかねえ」  嫌味たっぷりに言うデザイン部の部長は、「してやったり」と言わんばかりに第三営業課長を見ている。(そんな言い方じゃあ、第三営業課の課長もますます恐縮しちまうだろうが……)  デザイン部の部長は仕事はできるが、ときに他の社員に強く当たる気性の荒さがあり、若宮もその点を以前から問題視していた。最前線で業務を回してくれるのはありがたいが、その生粋のプロ意識とプレイヤー思考は、ときどき周囲の人間を傷つけている。彼はそれを自覚していないのだ。そうして傷つけられて、若宮に泣きつく社員たちの相談に、これまでいくつも乗ってきていた。  また、彼の指摘は自分の業務とは関係のないところにまで及ぶことがしばしばで、その内容はいささか評論家的で的外れなことも多かった。ただ年齢も高く、社歴も長いので、周りも対処せざるをえないのが常だった。「おい、それは……」  若宮はデザイン部の部長を叱責しようとしたが、隣から言葉を遮られた。「口を挟むようで申し訳ございませんが、あなたは、どんな権限があって意見をなさっているんですか?」

苦言を呈したのは、若宮の隣に座る安藤だった。彼はいつも以上に厳しい表情を見せており、そんな顔で急に問われたデザイン部の部長は、うろたえた。「それは、もちろん、この会社の一部長として、他部署にもアドバイスしようかと……」  彼は先ほどまで声を荒げていたのが嘘のように、急に声を小さくして答える。しかし、そんな理屈は安藤には通用しなかった。「朝の研修でもお話ししましたが、各部署の責任はその部署の長にあります。デザイン部の部長のあなたに、第三営業課の業務についてあれこれ口を出す権限はありませんよ」  眼光鋭く見つめる安藤に、デザイン部の部長は蛇に睨まれたカエルのようになって冷や汗をかいている。「で、でも、社内では部署関係なくやっていこうと、前に社長が……」  彼は助けを求めるように若宮に視線を送ったが、若宮はゆっくりと首を振った。「以前はそうだったかもしれない。でも、これからは識学に従ってくれ」  若宮は迷うことなく、はっきりとそう答えた。社長からの助け舟は期待できそうにないとわかると、デザイン部長はうつむいて、「申し訳ございません」と小さく言いながら、席に座った。  デザイン部の彼を落ち込ませようというわけではないが、普段の彼の行動を考えると、これくらいの釘を刺しておくことも必要だろう。  しばし会議室内に気まずい空気が流れるが、若宮は会議の進行を止めないよう、ほかの部署の部課長に続けての報告を促した。そして、若宮は佐伯をチラリと見る。  デザイン部の部長と安藤とのやり取りを見ていた佐伯は、安藤の言葉に自省するように何度も頷いていた。彼にとっても思い当たる節があったのだろう。  佐伯も、自分の仕事でうまくいかないことがあると部下にあたる癖があった。その悪癖を自覚しているのか・いないのかはわからないが、今のように真剣に識学を学んでいるのであれば、悪い癖を自分で矯正するのも時間の問題だろう。  安藤の苦言のおかげもあってか、その後の議論では各自の権限を超えた発言などはまったくなく、滞りなく予定されていた議題がすべて終了した。「じゃあ、みんな、今日の会議はここまでだ。営業部以外の部署も頑張ってくれているようでよかった。この調子で今年いっぱいを乗りきって、いいペースのまま新年を迎えてほしい」  そして、若宮は少し言いにくそうに話を続けた。「以前に話した会社の行く末についてだが、みんなが頑張ってくれているおかげで、どうにかなりそうな兆しがある。急に導入した識学で、みんなを驚かせてすまなかった。けれど、俺一人の力ではこの会社は救えない。これからも、みんなの力が必要なんだ」  若宮はその場にいる一人ひとりと視線を合わせる。  まだ油断ならないが、このままみんなで頑張れば、会社はきっと救える。  自分だけで頑張ろうとするのではなく、社員を信頼し、それぞれの役職に合わせて仕事を託さなければいけないのだ。  安藤に何度も言われた「必要以上に社員に干渉するな」という言葉は、そういう意味だったのだと、今にして若宮は理解した。  社長である若宮の真剣な顔に、各部署の責任者たちも頷き返し、その後に隣同士でも顔を見合わせては頷き合う。  かつての楽しかった日々以上に、全員の絆が強くなっているように感じた。「じゃあ、みんな業務に戻ってくれ。今日は集まってくれてありがとう」  若宮のその言葉で、その日のミーティングは終了した。「ああ、佐伯、ちょっと」  ミーティングが終わり、皆が急いで自分のデスクに戻ろうとしているところ、若宮が佐伯を呼び止めた。「どうかしましたか?」  不思議そうな顔で振り向いた佐伯に、若宮は聞きにくそうに尋ねる。「いや、最近、仕事はどうかと思ってな」  数ヶ月前に降格させて以降、彼はどうしているのか、ずっと気がかりだったのだ。「そうですね……降格されて最初は落ち込みましたが、今では社長がああしてくれて、よかったと思っています。あのまま執行役員の営業部長でいたら、僕は変わらなかったでしょうから。  今じゃ仕事はもちろん、識学の考え方を家庭でも使っていましてね。娘が受験生なんですけど、結構、成績も上がって喜んでいるんです」  嬉しそうに話す佐伯からは、以前は感じられたピリついた雰囲気や、影のある印象がなくなっていた。  佐伯が穏やか話す様子に接して、若宮は心底安心した。「そうか、よかった。娘さんにも、よろしく伝えておいてくれよ」「はい!  社長、本当にありがとうございます」  率直に感謝してくる部下に、若宮は少し照れくさくなる。  どうやら、自分の選択は間違っていなかったらしい。部下を遠ざけたり、ときには無視したりする毎日だったが、若宮が管理しなくても、彼らは自ら立派に成長してくれていた。「じゃあ、今日も頑張ってくれ」  若宮の言葉に、佐伯は「はい」と返事を残し、その場を去って行った。(よかったな、佐伯)  若宮は佐伯の後ろ姿を見つめながら、心の底から安堵する。  ところが、そんな若宮の耳に、あまり聞きたくない報告が入ってきた。「あのぅ、若宮社長、お客さまがいらっしゃっていますが……」  そう言いながら会議室に入ってきたのは、まだ入社したばかりの女性社員だ。  今日は来客の予定はなかったはずだが、もしかすると、クライアントの誰かがノーアポで来訪したのだろうか?「おお、そうか、ありがとう。お客さまのお名前は?」  若宮はにこやかに聞いた。  すると女性社員は、「ええ、と、東京すばる銀行の財前さんという方です」  と思い出しながら答えるのだ。「え!?」

若宮はその名を聞いて、一瞬固まった。せっかく気分よく午後の仕事に取りかかれるはずだったのに、あろうことか今は顔も見たくない人物の来訪である。今日会社にくるという連絡ももらっていない。「あの、どうされますか?」  若宮が何も答えずに顔をしかめているのを見て、内気そうな女性社員は不安そうに尋ねる。「あ!  ああ、そうだな、社長室にお通ししてくれ。あと、お茶も頼む」  とどうにか平静を装って、彼女に指示を出す。(なんでこのタイミングであいつに会わなきゃいけないんだよ)  そう愚痴りたくなるのを抑えて、若宮は財前の待つ社長室へ足取り重く歩き出した。  ガチャリ、といつもよりずっと重く感じられるドアを開けると、財前はソファに悠然と座り、お茶を啜っていた。「ああ、若宮さん。突然やってきてしまい、すみません」  財前は若宮に気づくと、茶碗をテーブルに置いて立ち上がり、挨拶をした。(すみません、なんて絶対思ってないだろう、あんたは)  内心では毒舌をつきながら、若宮はできる限り爽やかな笑顔を意識的に作る。「財前さん、お世話になっています。突然なんて、とんでもないですよ。お忙しいなか、当社まで足を運んでくださってありがとうございます。それで、今日は何かございましたか?」「それが、今日はちょうど新しい仕事で五反田に寄ることになりましてね。せっかくだから、オールウェイズ・アサイン社さんにもご挨拶をしなくては、と思いまして」  態度だけは丁寧に、明るく応対する若宮に、財前も柔らかい物腰で話す。要は、最近のオールウェイズ・アサイン社の様子を偵察しにきたということだろう。  財前は、ワックスでピッタリと固めた自分の前髪を軽くなでつけながら、「若宮さんは、お元気でしたか?」と白々しく若宮の様子を尋ねてくる。その仕草に妙に腹が立った。「そうでしたか。おかげさまで、元気ですよ。会社の業績も順調です」  先手を打ってやろうと、ゆっくりソファに腰掛けながら若宮があえて余裕を見せるような発言をすると、財前は再び茶碗に伸ばしていた手を止め、ピクリと眉を動かして若宮を見た。「へぇ、順調なんですね?  それはよかった」  貼りつけたような笑顔で探りを入れる財前に、若宮はさらに畳みかける。「ええ、財前さんがハッパをかけてくださったおかげですよ!」  若宮がそう言うと、財前はズズズと茶碗に入っていたお茶を飲み干した。「それは何よりだ。以前お話されていたコンサルタントのおかげですかねえ?  ああいうのは、詐欺師みたいなのも多いから、ちょっと心配していたんですよ?  若宮さん、騙されていないかと、ね?」  一転、笑みを消して蛇のような目つきで若宮をねめつけながら言った財前だが、若宮は少しもうろたえない。今の彼には、信頼できる仲間がいるのだ。「ええ、コンサルタントの彼は優秀ですから、実際、頭が上がりませんよ。今後も、うちの会社のことはご心配なく」  若宮はそう言って、財前を軽く睨み返した。 「……そうですか。まあ、大丈夫と言っている会社ほど、崩れるときはあっという間に崩れる、なんてこともよくありますからね。オールウェイズ・アサイン社さんも、くれぐれもお気をつけて。  先日のお話、お忘れではありませんよね?  来期までに、御社の業績が我々の求める水準に達しなければ、以前お話しした通り、今後の融資はできませんから」  財前は言いたいことを告げると、これ以上話すことはないとでも言うように、「それでは、本日はこれで」とソファを立った。「本日はわざわざご足労いただいて、ありがとうございました。また期末になりましたら、ご連絡しますので」  若宮も、社長室を出ようとする財前に挨拶の言葉を口にし、彼を見送る。「失礼します」という財前の言葉と同時に扉が閉まると、若宮は落ちるようにソファに腰を下ろした。「はぁ〜よかった。今日は大丈夫だったぞ」  そう零しながら、若宮は緊張で固くなった首をぐるりと大きく回した。オールウェイズ・アサイン社の業績は上向いてきたとはいえ、会社なんていくら潰れてもいいと思っている財前のような人物に接するのは、それなりに疲れる。「みんなが頑張ってくれてるおかげで、会社もよくなってきているからな。成長に拍車をかけるためにも、どうにか今期を乗りきるぞ」  そう自分を励ます若宮だった。 *     *      *  そのころ、美優は自分のデスクの前で悩みに悩んでいた。「あああ、もう、どうしよう?」  連絡を返してくれない若宮と、安藤の指導によって確実に変わりつつあるオールウェイズ・アサイン社。いまだに識学嫌いの美優にとっては、どちらも受け入れがたい状況だ。(このまま識学が続くんなら、もう、会社辞めちゃおうかな……)  もはや彼女は、退職まで考えていた。仕事用に持ち歩いているカバンのなかには、いつでも出せるようにと退職届も用意してある。  時刻は午後七時を過ぎ、オフィスからは少しずつ人が減っている。普段の美優ならば仕事を終えて、友人の由樹奈と飲みに行くか、すでに帰路についている時間帯だが、今日は会社の状況と自分の進むべき路を考えるあまり、仕事が手につかず、定時内に終えられなかったタスクの処理に追われていた。(前はすぐに社長に相談できたのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろうな)  このところ、過去のことばかり振り返っては感傷に浸ってしまう。それがほとんど癖のようになっていた。  識学で社内が変わりつつあるのもわかっているし、それによって会社が存続するなら、識学を続けていくのに越したことはない。しかし、短大卒業と同時に入社し、すでに四年近くも勤めているこの会社には思い入れがある。特に社長の若宮には、親鳥を追いかける雛が抱くような、そんな信頼すら抱いていたのだ。

それが、いきなり現れた安藤に、急に自分の居場所を奪われた。そんな気持ちを拭えなかった。(こんな考え、子ども染みているのはわかっているんだけどさ)  卒業すれば、会社に入って働き始めれば、もう立派な大人になれるのだとずっと思っていたのに。今の自分は、過去の自分が憧れていた「カッコいい大人」とはかけ離れていると気づくたびに、余計に落ち込む。  こんな気持ちでは仕事の効率が上がるわけもなく、その日のタスクをなんとかやり終えたころには、時計は午後八時近くを示していた。「あーあ、帰るか……」  美優がデスクを立って、大きく伸びをする。凝った肩からパキパキと音がして、自分の身体に溜まった疲労を感じた。「私、まだ若いんだからぁ、肩こりなんて嫌だよ」  自分を元気づけるため、あえてふざけた口調で独り言を呟いていると、ふと人の気配を感じた。まだ誰かが残っているのだろうか?  気配を感じた廊下のほうに視線を移すと、見慣れた人影が目に入る。(しゃ、社長だ……!!)  そこにいたのは、美優が話したくてたまらなかった若宮だった。  久しぶりに見るその姿は以前より少し痩せて見えて、そしてどこか疲れているように感じた。「若宮社長!!」  美優は思わず声を張り上げて、若宮を呼び止める。  仕事を終えて帰宅しようとしていた若宮は、美優の大声にぎょっとして振り返りそうになったが、半身の状態で動きをぐっと押し留めた。(いかん、今は西村と関わっちゃいけないんだ)  呼びかけが聞こえないふりをして立ち去ろうとする若宮に、美優は負けじとさらに大声で声をかける。「若宮社長!!  無視しないでください!!  若宮社長!!」  美優の必死な声に根負けし、(さすがにもう、無視するわけにもいかないか)  と若宮がゆっくり振り返ると、泣きそうな顔をしてこちらを見つめる部下が立っていた。「西村、どうした?」  若宮が冷たい態度を装いながら聞くと、美優は眉間にシワを寄せた泣きそうな表情のまま、ずんずんと近づいてくる。「どうしたもこうしたもないですよ!!  メッセージには返信してくれないし、今だって無視しようとしましたよね!?」  美優は一息に言うと、荒くなった息を整え、若宮の目をまっすぐ見つめ直した。「お話がしたいです。お時間いただけますか」  丁寧に、しかし有無を言わさぬ口調で言う美優。  部下と二人きりで話したりしたのを知られたら、きっとまた安藤にとやかく言われるだろうと若宮は思ったが、目に涙を溜めてこちらを見上げる部下の姿を見て、断れるはずもない。「わかった」  そう短く答えながら、若宮は頷いた。 *     *      *  数分後、二人はオフィス近くのカフェにいた。  駅のほど近くにあるこの店は夜遅くまで営業しているチェーン店で、若宮も仕事終わりに考え事をしたいときによく訪れるなど、重宝していた。(ここに部下とくるのは初めてだな)  若宮はそんなことをぼんやり考えていた。時刻はすでに午後九時を回ろうとしているから、こんな時間に入れる店は居酒屋かファミレス以外ではここしか思いつかなかった。  彼の前には淹れたてのホットコーヒーが二つ。そして、思いつめた表情の美優がいる。「どうした。話ってなんだ?」  若宮は感情を挟まないよう用心しながら、うつむく美優に声をかけた。  美優はすぐに答えようとはせず、少しの間、黙ったままだったが、やがて顔を上げると若宮を睨みつけるようにして言った。「社長、今までなんだったんですか?  安藤さんがやってきたあの日から、連絡も返してくれないし、会社で声をかけても余所余所しくあしらって。識学だって、いきなり使い出したかと思ったら、安藤さんがどんどん厳しくなって。そしたら、会社への融資がどうとかって話も急に知って、会社がどんどん、どんどん変わっていって……」  息をつく暇もなく、まとまらない話をまくし立てるように話す美優の声は、震えていた。  きっと彼女なりにいろいろと考え、悩んだ結果、こんなふうに感情が溢れだしてきているのだろう。美優の様子を見ながら、若宮はそう思った。「私、会社を辞めようかとも思いました。でも、私は会社が好きだから、社長や先輩たちのことも尊敬しているから、辞められなくて……」  とぎれとぎれに話す彼女の言葉からは、美優がこれまでどれだけ悩んできたのかがひしひしと伝わってきた。震える声に、若宮は心が痛んだ。「西村、落ち着いて聞いてくれ」  ここで自分が感情的になれば、目の前の彼女を余計に不安にさせるだろう。若宮は少なからず動揺する自分の心を必死で整えてから、冷静に語りかけた。  美優は喋るのをやめ、涙目で若宮の顔を見つめる。美優が話を聞く態勢になっていることを確認してから、若宮ははっきりとした声を意識して出し、話し始めた。「俺は社長だ。俺が、オールウェイズ・アサイン社の CEOなんだ。だから、俺には会社を建て直す責任がある。たしかに、社員は何人も辞めて行った。今でも不満を持ってるやつはいるだろう。だけどな、今の会社には変革が必要なんだ。識学が、必要なんだ」  そう話す若宮の顔は真剣だった。  いや、若宮はいつだって真剣だったはずだ。会社を守り、社員たちを守ってきた。  社員思いの彼が、大量退職騒動が起こったときや、社員と距離を置くことに苦しまなかったはずがない。  それなのに、自分は……。(わかってた。私、わかってたはずなのに。社長は、いつだって私たち社員に対して誠実だってこと。だからこそ私は、社長を信じて、ここまでやってこ

れたはずなのに……)  美優は、変化を嫌うあまり、若宮の気持ちや状況を考えず、意固地になって識学に反発し続けてきた自分が急に恥ずかしくなった。  美優はうつむいてしまうが、若宮は言葉を続ける。「俺に守らせてくれ。会社を、社員を、そして西村、君もだ。俺はそのためだったら、どんなことだってしたいんだ」  その言葉を聞いて、美優は気持ちが少しずつ切り替わっていくのを感じた。『守りたい』。こんなにも力強く、そう言ってくれる上司がほかにいるだろうか。  美優はコーヒーのカップに手を伸ばす。もう冷めかけているコーヒーをグッと一口で飲み干すと、息を一つ深く吸い込み、ゆっくりと吐いた。  言葉を間違えないように、そして、今の気持ちをちゃんと伝えられるように。美優はそう考えながら口を開く。「社長、ごめんなさい。私、いろいろ誤解してました。それに、間違ってました。  ……社長を信じます。信じさせてください」  そう言った美優の声は、もう震えていなかった。(私は、若宮社長を信じなきゃいけなかったんだ。社長が信じる、識学のことも)  空になったコーヒーカップの内側が、壁のランプの光を反射して輝いていた。  夜は音を立てずに深まっていく。カフェの窓から見える外の世界は、どこか慌ただしく見えるが、二人の間には心地よい沈黙の時間が流れていた。 *     *      *  翌朝、美優はいつもより早めに出社していた。安藤と直接、話をするためだ。  昨夜、カフェで聞いた若宮の言葉を、美優は自宅に帰ってからも何度も思い出し、繰り返し考えてみた。そのせいか今朝は早く目が覚めてしまったので、こうして早く出社したのだ。(若宮社長の気持ちはわかったけど、安藤さんからもちゃんと話を聞いてみたい)  若宮と直接話したことで、彼や会社に対する不信感は払拭できた。しかし、美優はまだ、安藤という人間をよく理解できていない。オフィスにいるときはいつも忙しそうにしているし、誰も寄せつけまいとする独特の雰囲気があるので、これまで面と向かって話す機会もほとんどなかったのだ。  しかし、安藤がいつも誰より早く出社して、一人で作業をしているのを美優は知っていた。彼ときちんと話すチャンスがあるとすれば、この時間しかないだろう。(このまま、モヤモヤした気持ちのままでいたくないもんね)  そう思いながら美優がフロアのドアを開けると、予想通り、自分のデスクで難しい顔をしている安藤の姿が見えた。「安藤さん!  おはようございます!」  フロアにまだ誰もいないのをいいことに、美優が大きな声で挨拶をすると、作業に集中していたであろう安藤の肩がビクリと飛び上がる。美優に驚かせるつもりはなかったのだが、これくらいの勢いがないと、安藤に話しかける勇気が出ない。「あ、あぁ、おはようございます、西村さん。今日は、随分と元気がよろしいのですね」  驚いた様子の安藤が、オフィスチェアに座った身体をぐるりと美優のほうに向けた。  美優はそんな安藤の顔を見て、なぜだかすごく緊張し始めた。「あ、あの、私、安藤さんにお聞きしたくて……」

さっきの元気はどこへいったのか、美優は舌っ足らずな言葉遣いで安藤に話しかけた。「そうですか。なんですか?」  緊張のあまり固くなっている美優を不思議そうに見ながら、安藤は尋ねる。(なんて伝えればいいんだろう?)  安藤と直接対決だ!  と意気込んできたものの、何を話すべきかはあまり考えていなかった美優は、自分を見る安藤の視線に焦り、何か話さなければと、今感じていることをとにかくそのまま話すことにした。「あ、あの、私は識学について、まだ納得がいっていなくて。なんで社長やみんなが識学を信頼し始めているんだろう?  とか、結局どういうものなんだろう?  とか、そういうことを考えるとモヤモヤして……正直、今まで識学には反発ばかりしてきたんですけど、若宮社長とか、ほかの先輩の話を聞いてみても、このまま反発しているばかりじゃダメなのかなーって思って……」  言葉を絞り出すようにして、自分の気持ちと考えをなんとか伝えようとする美優の話を、安藤は急かすことなく頷きながら聞いた。(なんと言うか、この西村さんという方は、若宮さんと似ているな)  安藤は話す美優の姿を見ながら、そんなことを考えていた。  素直でまっすぐで、それでいて周りとの調和をとろうと一生懸命な美優の性質は、安藤が若宮を評価している部分と、どこか共通して見える。「好き嫌いは別として、識学について知りたいと思っていただけたのは嬉しいことです。そうですね……」  安藤は、新しい道を必死で切り拓こうとしている目の前の彼女の助けになれることが何かないかとしばらく考えてから、口を開いた。「これはあくまで提案なのですが、西村さんは今、何か達成したい目標や夢がありますか?」「えっ、目標、ですか?」  何を言われるかと思えば、突然、自分の目標や夢があるかと聞かれて、美優は驚いた。「はい、長期的な目標でもいいですし、短期的なものでもかまいません。ただ、できるだけ結果がわかりやすいものがいいですかね」「結果がわかりやすい目標ですか?  う〜ん」  急に言われても、そんなもの思い当たらない。しかし、これが安藤との会話の糸口になるのならと思い、美優はその場で少し考える。すると、ふとあるものを思い出した。「あ!  これ!  これが目標です!」  美優は肩にかけていたトートバッグをガサゴソとかき回すと、冊子のようなものを取りだした。  安藤はその冊子に書いてある文字を読み上げる。「韓国語のレッスン、ですか?」  美優は頷いて説明を始めた。「そうなんです。最近、動画配信のサービスを契約したんですけど、そのなかにあった韓流ドラマにハマってしまって。最初は日本語の吹き替えで観ていたんですけど、だんだん俳優さんたちの実際の声も聞いてみたくなって、日本語の字幕に切り替えて観てみたんです。そしたら、字幕と照らし合わせながら音声を聞いているうちに、韓国語を勉強してみたくなって。それで、通信講座を受けてみることにしたんですけど、教材が届いたら思ったより量が多くて、やる気をなくしちゃって……」  美優はそう言いながら、手に持った冊子をパラパラと開く。「なるほど。その教材が、今西村さんが持っているそれというわけですね?」「はい」  安藤は美優から冊子を受け取り、ページをめくりながらしばし考え込む。「約八十ページですか。たしかに、少なくない量ですね」「そうなんです。これを一ヶ月後には提出しなきゃいけないらしくて、やらないと支払った料金がもったいないなーとは思ってるんですけど、どうにも手がつけられなくて」  そう言いながら、もじもじと両手を絡ませる美優。  そんな彼女に、安藤は改めて提案をした。「では、その勉強に識学を使ってみませんか?」「識学を、ですか?  識学って、韓国語の勉強にも使えるものなんですか?」  首をかしげる美優に、安藤は説明する。「もちろん使えますよ。識学はそんなに難しいものではありません。この場合では、目標達成に向けたプログラムだと考えてください。会社で使っているものは、それをビジネス向けに応用したものなんです」  安藤の説明に、美優は初めて識学に対する興味が出てきた。(目標達成、か。それなら私にもできるかな)「使ってみたいです!  識学!」  明るく答える美優に、安藤は彼にしては珍しく優しい笑顔で応じる。「わかりました。では、せっかくなので、ここでスケジュールを組みましょう」「え!?  ここでですか!?」  てっきり、時間をかけて自分で予定を作っていくものだと思っていた美優は目を丸くした。「はい。早く作らないと、期日に間に合わないですからね」  そう言って、安藤はスマートフォンに入っているカレンダーアプリを見ながら、美優へのヒアリングを始めた。「提出期日は三十日後ということですから、一日に三ページやると決めましょう。西村さん、就寝時間はだいたい何時くらいですか?」「うーん、夜の十二時くらいですかね」「なるほど。では寝る前の一時間を使いましょう。午後十一時には机に向かって、毎日必ず三ページ、教材をこなしてください」  美優と会話をしながら、安藤はあっという間に彼女の勉強スケジュールを組み立てていき、それを表計算ソフトでパソコンに打ち込んでいく。勉強するときのちょっとしたコツやルールなども合わせて書き込んでくれているらしく、美優はその親切さに驚いた。(安藤さんって、ただ厳しいだけの人だと思ってたけど、実際に喋ってみると、全然そんなことないな……)  相手を表面ばかりで判断していた自分に気がつき、ちょっと反省する。

そんな美優の様子には気づかず、安藤はパソコンで入力した美優の勉強スケジュールをその場で印刷し、一枚のプリントを彼女に手渡す。「では、これの通りに勉強してみてください」  美優は安藤から受け取ったスケジュールの内容を確認すると、一点、不安なことを発見して恐る恐る尋ねてみる。「あの、安藤さん、これだと私、毎日勉強することになりませんか?」「それは、もちろんそうですよ」  安藤がさも当然という顔をしているので、美優はびっくりして言う。「ええっ!?  だって、あと一ヶ月ということは年末年始も入るんですよ!?  お正月くらい遊んで過ごしたっていいじゃないですかぁ……」  お正月の休みくらいは勉強を休もうと思っていた美優は、安藤の作ったスケジュールに早くも不満を漏らす。安藤のことだからと多少厳しいことを言われるのは予測していたものの、まさかここまでとは。  肩をすぼめる美優に、安藤はいつもの厳しい表情になって言う。「人間とは習慣の生き物なんですよ、西村さん。お正月だからといって休んでいては、いつまでも習慣が出来上がりません。識学の基礎の一つとして、規律を守ることであらゆる環境を効率的かつ合理的なものにする、という考え方を何度もお話ししてきたはずです。  それに、語学は日々の積み重ねが大事なわけですから、せっかく買った教材ならそのくらいは頑張ってみてはいかがですか?」  安藤のあまりの正論に、美優は返す言葉も見つからない。そんな美優に安藤はさらに追い打ちをかける。「あ、それと、毎週日曜日には、その週にやらないといけないページ数に対して、どれだけできたのかを私にメールで報告するようにしてください。特に私から返信はしません。でも、決めたことをちゃんとできているのかを、定期的に誰かから見られているというのが大切なんです」(ぐっ……この人、やっぱりスパルタだ……)  厳しい人だと知っていたはずなのに、いつもより優しい安藤に油断して、勉強スケジュールなんてものを立ててもらった十数分前の自分に後悔する気持ちがないわけではなかった。しかし、せっかくなので、この際本腰を入れて勉強してみるのもいいだろう。「わ、わかりましたよぅ。ありがとうございます。これで、頑張ってみます」  美優が仕方なしにそう答えると、安藤もうんうんと頷きながら、「頑張ってください。大丈夫ですよ、西村さんなら、きっと達成できますから。応援しています」  と美優を励ましてくれた。 *     *      *  安藤と直接話して、自分の気持ちに決着をつけようと思ってきたはずなのに、なぜか韓国語の勉強の話をしていて、勉強のスケジュール表まで作ってもらった。  美優は自分のデスクに座ると、手に持ったスケジュール表を見ながら安藤の顔を思い出した。(あの人、案外悪い人じゃないっていうか、ただ本当に真面目な人なんだろうな。こんなふうに急にやってきた私の相談に乗ってくれて、スケジュール表まで作ってくれるし。……なんか誤解してたのかも)  目の敵にしていた安藤の新しい一面を知った美優は、すっきりしたような、どこか納得がいったような不思議な気持ちで、その日の始業時間を迎えるのだった。

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