「明けまして、おめでとうございま ーーす!!」 美優の明るい声がオールウェイズ・アサイン社に響く、一月。 怒涛の十二月を終え、社員たちは年末年始の休暇を思い思いに楽しんで、一年間溜まった疲れを癒やした。美優も久しぶりに実家に帰省し、お正月休みを楽しみながら、友人の由樹奈と一緒に初売りのバーゲンセールに行ったり、スノーボードをしに行ったりと、楽しみ盛りだくさんの日々を過ごして、大満足だ。 もちろんその間にも、安藤に作ってもらった韓国語の勉強スケジュールの通りに教材を進め、残りのページもあと少し。 いつもなら年末年始はぐうたらとダラけてばかりで、毎年お正月太りするのがもはや恒例となっていたのだが、今年は勉強が習慣に組み込まれたからか、生活のルーティーンがほとんど壊れずに済み、おかげでお正月太りの回避にも成功していた。 加えて、毎日勉強できたことが自信にも繋がり、なんだか清々しい気持ちで、今年最初の出社日を迎えることができたのだ。(前は恨み言ばっかり言ってたけど、今回ばかりは安藤さんに感謝しないとね) そんなことを思いながら、美優は上機嫌でデスクへ向かった。「おはようございま ーす!」 美優がデスクに向かいながら元気よく挨拶をすると、周りの先輩方も「明けましておめでとう、今年もよろしくね」と口々に笑顔で返してくれる。 昨年末に若宮と安藤の二人と直接話して以降、美優の心は以前よりずっと軽くなった。今日の気分のよさは、それも理由の一つなのだ。(うんうん、なんだかスッキリしたな) そう思いながら席につくと、ちょうど近くにいた布施が美優のところにやってきた。「あ、西村さん、明けましておめでと ー!! ねえねえ、見てよー!」 布施がいつものようにニコニコと挨拶してくれるので、美優の気持ちもますます晴れやかになる。広報課長である布施はいつも穏やかで、美優は内心「くまのお父さん」として慕っている。美優が社長室から異動してきたときも、丁寧に仕事を教えてくれて本当に助かった。「課長! 明けましておめでとうございます! ……見てって、何をですか?」 挨拶を返しつつ聞く美優に、布施は何も答えず、ただニコニコと見つめてくる。 もともと彼の機嫌が悪いことなどないのだが、今日は一段と機嫌がよさそうに見えた。「西村さんさ、なんか、僕を見て気がつくことない?」「気がつくこと……?」 美優は首をかしげた。布施はかすかに胸を張って、期待を込めた眼差しでこちらを見てくるのだが、気がつくことと言っても普段からしっかり布施を観察しているわけではないため、なんのことだかさっぱりわからない。(うーん、なんだろう? 顔色がいい? 新しい靴を買った、とか?) 悩む美優は「ネ、ネクタイ変えましたか?!」と素っ頓狂な声で答えてしまった。「ブッブー! 違うよ〜。痩せたんだよ〜。みんな、全然気がついてくれないなー」 布施がお腹をさすりながら、不満そうな声を上げる。 どうやら同じような質問を、出社してきた部下のところに行っては繰り返しているらしく、恐らくはすでにクイズを出されたのであろう社員たちが、美優と布施の会話を笑いを含んだ視線で見守っていた。「ご、ごめんなさい! たしかにお腹まわりが減っている……感じがします!」 焦って付け加える美優だったが、先ほどまで気がつかなかっただけで、たしかに以前に比べればお腹周りのふくよかさ加減が減っている気がする。それに顎の下にたっぷりとついていたお肉も幾分か減っていて、フェイスラインも心持ちすっきりしていた。(で、でも、上司のお腹周りを褒めるなんて逆に失礼じゃない!?) と美優は内心焦ったが、布施は単純に嬉しそうだったので、そのまま会話を続けることにした。 それにしても、ダイエットだなんて、どういう心境の変化だろう。「お正月だったのに、ダイエットされてたんですか? でも、どうして急に?」 もともと食べるのが好きな布施がどうしてダイエットなんて始めたのか、美優が素朴な疑問を口にすると、布施が腕を組んでため息をついた。「いやぁ、僕もそろそろ四十代も中盤だしね。健康のために痩せろ ー! って奥さんに怒られたんだ。娘も思春期になったら、太ってるパパなんて嫌でしょ? だから、痩せようと思って。 ただでさえお正月って太りやすいから、お正月のごちそうをちょっとだけ我慢して、年末年始のダイエットに成功できたら、今年一年のうちにはグッと痩せられるんじゃないかっていう、ちょっとした願掛けもあったんだよね」「そういうことだったんですね。家族思いの課長らしいです。でも、ダイエット、今のところはうまくいってるんですよね? お正月なんて誘惑もたくさんあるのに、すごいです!」 美優が微笑むと、布施も胸を張った。「そうなんだよ! ほら、識学をね、ダイエットにも応用できないかなーと思って、挑戦してみたんだ。そしたら、先月から三キロは落ちたね!」 布施がふいに口にした「識学」という言葉に、美優は敏感に反応した。「え! 識学ってダイエットにまで使えるんですか?」 美優が聞くと、布施は頷く。「うん、安藤さんに教えてもらったんだ。進捗や目標設定に特化した考え方だから、勉強やダイエットとも相性がいいんだって」 布施の答えに、美優は安藤の言葉を思い出した。(識学は、目標達成にむけたプログラムって、安藤さん言ってたもんね) それだったら、ダイエットに使えるのも頷ける。それにしても、短い期間で教え込まれた識学を、もう自力で実生活にまで応用していたなんて、布施の行動力に驚いた。しかし、識学はダイエットにまで使えるとは。「あの、実は私も安藤さんに頼んで、識学を韓国語の勉強に使ってみたんです。そしたら、今まで全然進まなかった教材がスイスイ進んで!」 美優が布施にそう言うと、布施は面白いくらいに目を丸くした。「へえ、そうなんだ! すごいじゃん、西村さん。でも、西村さん、識学も安藤さんも苦手だったんじゃないの?」
「え! どうしてそれを……」 識学を嫌っていたことは布施には言っていないはず。それなのに見抜かれていたことに、美優は驚いた。「当たり前じゃん! 僕、西村さんの上司だよ? 部下の気持ちくらい、大体はわかるって!」 普段の優しい物腰からは想像できないが、やはりこのオールウェイズ・アサイン社で広報課長をやっているだけの人なんだなと、美優は改めて布施を見直した。「でもさ、西村さんが識学のことちょっとでも好きになってくれてよかったよ。新しいことにあんまり反発するのもさ、よくないからね」 布施の言葉に、美優は以前の自分を振り返った。 ずっと目の敵にしてきた識学や安藤の存在が、いまや会社どころか美優自身にもよい影響を与えてくれている。それは、否定しようがない事実だ。(もしかすると、強がって意固地になっていただけだったのかもな、私) 美優は識学をすんなりと受け入れた布施や山岸を、「ことなかれ主義者」だと思ってどこか軽く見ていた節がある。 しかし彼らは、闇雲に識学を信じていたわけではなかったのだ。状況に応じて、必要だと思った識学の考え方を受け入れただけだったのだ。(ほんと、まだまだなんだな、私) 頑固な自分の一面を知り、反省する美優に、布施が声をかけた。「あ、西村さん、そろそろ始まっちゃうよ、研修。安藤さん、怖いんだからしっかり出席して」「は、はい!」 美優は布施に言われるがままに、急いで会議室へ向かうのだった。 会議室には、もうほとんどの社員が集まって着席していた。 若宮と話したあのときまでは、研修に出るのが嫌で嫌で仕方がなく、周囲のことも真剣に見ようとしていなかったが、今改めて周囲を見渡すと、以前とはまったく違うことに気づく。(みんな、表情が明るくなったな……なんか、溌剌としてる感じ) 以前のオールウェイズ・アサイン社が暗かったというわけではない。しかし、気が抜けている社員も多かった社内は、今なら健全とは言えない状態だったとわかる。 営業部門の社員は男女ともスーツを着て、男性社員はネクタイを締め、精悍な面持ちで研修を待っている。同僚たちの姿が美優には眩しく見えた。 美優はその様子に、年末の夜にカフェで若宮が話していたことを思い出した。「今の会社には変革が必要なんだ。識学が、必要なんだ」 若宮の言葉は間違っていなかった。この会社が変わるためには、多少強引にでも識学を取り入れることが必要だったのだ。美優が意地を張っているうちに、会社全体が前に進みだしていたことに、今さらになって美優は気がつく。 時計の針が九時を指した。社員全員が席について待っていると、会議室のドアが開いた。「皆さん、おはようございます」 そう挨拶しながら入ってきたのは講師の安藤だ。今日も変わらない様子で、室内を見回した。「おはようございます!!」 皆が立ち上がって挨拶をする。 以前の美優であれば、「まるで軍隊みたいだ」と嫌がっていたであろう社員たちの行動に、今日は自分も参加して皆と一緒に頭を下げた。「それでは研修を始めます。皆さんにお教えすることも、もう残り少なくなってきました。最後まで気を抜かず、研修に臨んでください」 声に出して返事をする者はいなかったが、誰もが頷いて、安藤を見つめていた。 「『結果のみで会話する』。それが今回、皆さんにお教えしたいことです」 安藤はそう言いながら、モニターを表示する。 真っ白な背景に黒字で書かれたその言葉を、皆がメモした。 美優も一緒になって、持ち込んでいたカバンからメモ帳と愛用のペンを取り出す。 学生のころから大切に使っている、この赤い軸のボールペンは母が買ってくれたものだった。しかし最近はなかなか使う機会がなく、いつもかばんの底で眠っていた。まさか、この研修でこのペンを握ることになるとは思いもしていなかった。(あんなに嫌いだったのにな、識学) 少し前の自分と、今必死にメモをとる自分との差に驚いて、なぜか笑いそうになった美優は、その笑みをどうにかこらえた。 安藤はリモコンでスライドを動かしながら、話を続ける。「日本の企業の多くには、結果ではなく、過程で物事を評価しようという考えが強く根づいています。例えば、新しいプロジェクトへ挑戦したことを評価しよう、努力していたから失敗していても仕方がない、そういう考え方ですね。ここ、オールウェイズ・アサイン社でも、そんな考え方が存在したのではないでしょうか?」 安藤の言葉に、皆が思いを巡らす。 以前の社内では、プロセスが評価の中心にあった。その証拠に、部下が上司へ業務を報告するとき、仕事のプロセスから話し始めることが多かったのだ。 資料作りを頑張った、お客さまへの対応を丁寧に行ったなど、どれも大事なことではあるが、結果には直接関係のない話だ。 上司の側も、そんな部下の努力を認めるために、成績が出ておらずとも評価してしまっていたのだ。安藤はそうした状況が問題だと指摘した。「皆さんはたしかに努力をしてきたのかもしれない。しかし、その努力ばかりに焦点を当てて評価することで、その後の改善案などのリカバリーは、社長がすべての負担を負うこととなっていました。結果、部下は成長できていなかったのです。 そうして最終的には、社長だけが忙しく、管理職は育たず、部下も成長しない、まさに負の連鎖となっていました。これは、日本の会社が陥りやすい典型的な状況です」 かつてのオールウェイズ・アサイン社の欠陥を的確に指摘する安藤の言葉に、その場にいた何人かの管理職や、思い当たる節がある社員たちは苦い顔をした。「これからは、目標を結果で明確に設定してください。月単位の目標も決めてください。 その上で、マネージャーの皆さんは、毎週の会議で月目標に対しての進捗をチェックするようにしてください」
美優は他の社員たちに混じって、安藤の言葉を一言一句逃さぬようにメモ帳へ書き取った。 安藤はそんな美優の姿に気がつき、密かに驚く。 西村美優という社員は、以前は強烈に識学への批判意識を持っていた。そんな彼女が、昨年末に自分に話を聞きたいと歩み寄ってきて、今は研修で自分の話を懸命に聞き、学ぼうとしている。 決して表情には出さない安藤だったが、その心には喜びが沸き立っていた。 美優はそんな安藤の視線には気がつかないまま、メモ用紙へ向かっていた。 * * * その後、「結果で評価する」ために安藤が取り入れた報告方式は、非常に大きな成果を出した。 プロセスで評価することに慣れていた上司は、一時は心を鬼にしなければいけない瞬間もあったものの、評価対象が限定されたことで、今まで報告会などで長々と設定されていた会議時間が半分程度にまで減り、会議にかかる時間的なコストが軽くなった。 部下たちも、最初は結果だけで評価されることに息苦しさや厳しさを感じたが、上司の裁量がほとんど入らない評価基準は、各社員の性格や愛想、コミュニケーション能力などを問わないために、今まで評価されづらかった社員たちも正当に評価されるようになり、そのおかげで社内の空気もよくなってきたと、好意的に受け止めるようになった。 もちろん、社長である若宮も随分と喜んでいたそうだ。 後日、若宮についてのそんな噂を布施から聞いて、美優は嬉しく感じると同時に、自分の以前の考え方の危うさに思い至って恥ずかしさを感じた。(私が楽しくていいと思っていた社内の空気も、実はそういう空気になじめない誰かのことを、ないがしろにして成立していたのかもしれないな) 組織内で、誰かが自分が正しいと思い込んでいることを突き通そうとすると、それが組織自体の存続を危機に晒すこともある。そう感じて、少し恐ろしくもなった。「識学、私も、もっとしっかり学んでいかないと」 かつての自分では考えられないような言葉を呟いていると気がつき、美優はちょっと照れくさくなる。「よし、今日も頑張るぞ!!」 美優は深呼吸をして、その日もデスクに向かった。
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