はじめに
アメリカインディアンの人生哲学を集めた『今日は死ぬにはもってこいの日』(ナンシー・ウッド著 金関寿夫訳 めるくま ーる刊)という本があります。
私はかつてこの本を読んだとき、「今日は死ぬにはもってこいの日だ」という言葉が強烈に頭に焼き付いてしまいました。
というのは、当時の私は社長業に疲れ果て、「死」という言葉がとても身近に感じられていたからです。
もう、何度、社長をやめようと考えたでしょう。
もう、何度、死んでしまいたいと願ったことでしょう。
私はかつて、ある会社の社長となり、多くの社員を雇い、一年三百六十五日の間、心が休まることもなく、ただ一生懸命に仕事に専念してきました。
残念ながら、私には、仕事以外の思い出がほとんどありません。
二人の男の子と一人の女の子にも恵まれ、仕事も順風満帆といえる生活を送ってきました。
他人が見ればうらやむ生活と仕事振りでしたが、仕事が順調に伸びれば伸びるほど、大きな目に見えぬ不安に陥りました。
多くの社員たちはその不安を知らずに働いています。
毎月予定通りに給料が出るわけですから、安心して働いてくれます。
しかし、私の頭の中は常にお金のことだけでした。毎月の人件費はもちろん、返済金に支払い。百人近い従業員やアルバイトの給料だけでも、毎月の支払いは膨大となります。
もし、会社が潰れたら……。
もし、売り上げがなくなったら……。
毎日そのような不安ばかりを抱えて仕事をしていました。
そして会社が安定すればするほど、さらに大きな不安の渦に巻き込まれていきました。
起業したときは自分だけの責任を負えばいい一人社長だったのですが、仕事量が増えるたびに社員も増え続けました。
私は、楽しかった起業のころを思い出しました。
お金はありませんでしたが、若さがあり、希望のかたまりと、なによりも夢や理想がありました。
そして、なんの迷いもなく、不安すら感じませんでした。
しかし、会社を大きくしてからの私は、事業をなんのために行い、なにを求めていたのでしょう。
私の心の中は不安と迷いでいっぱいになりました。
言いようのないこの胸の中の苦しさと、心の重圧はいったいどこから湧き出てくるのでしょうか? 私は仕事に名を借りて、深夜に徘徊するようになりました。寂しくて、寂しくて、お酒の力に頼るようになってしまいました。そこだけが私を救う唯一の場所と感じるようになりました。
なぜって? そこは仕事とはまるで関係のない世界。私の苦しみを解放してくれる世界。言いようのない不安を一時的に止めてくれる世界だったからです。そう、逃避です。
人間ですから逃避すること自体は悪いことではありませんが、実際は、逃避すればするほどその苦しみが倍加していきます。
なんのプラスにもならないことは百も承知なのに、それでも、そのような場所に出向いてしまうのです。その場所にいるのは、私だけでなく多くの悩みを抱えた経営者ばかりでした。
経営者同士ですから、互いの苦しみを理解し合うことができます。
同じ痛みを心の中で抱え込んでいる、誰にもわかってもらえない、社長という仲間です。
別にわかってもらったからといって問題が解決するわけではありませんが、互いが傷口を舐め合うことができます。
これは居酒屋に集うサラリーマンの気持ちと同じかもしれません。
上司とお酒を飲むよりも、同僚や友人と語り合うほうがわかり合うことができるのです。
ああ、いつの間にか私は「社長という病」の重症者になったようです。
若いころは誰もが同じかもしれませんが、私にも大きな夢がありました。
それは船乗りの船長さん、野球監督さん、映画監督さん、会社の社長さんというような、自らが先頭に立ってものごとを行うことでした。
それには理由がありました。
まず、私には学力、学歴がない。ずば抜けた素質がない。統制力や特筆すべき魅力もない。それに、適応力が足りない。他人と競争しても勝てない。勝てるものがない。きっとわがままだったのでしょうね。
命令されるのが嫌い。決めつけられるのが嫌い。威張られるのが嫌い。怒られるのがつらい。だから、誰からも命令されず、たとえ小さな会社でも自由に生きたかった。
自由に仕事をするためには、自らが社長になることが必要でした。
そのようにして、妄想と夢ばかりを追いかけていました。
私は生まれて初めて名刺を作ったとき、肩書に「代表」と入れました。
あまりの嬉しさのためか、その名刺を一晩抱きながら興奮して眠りました。
こんな話、驚きますか? いまどき、信じられない、と思いますよね。
でも本当なんです。
心底、私は嬉しかったのです。
私はこの名刺に人生の夢と願いがたくさん詰まっているように感じていたのです。
私はこのとき、十九歳になったばかりの妄想だけの若者でした。
まさに、誰からも命令を受けない、私の一人起業となりました。
それ以来、私は誰からも雇われない人生を何十年と生きてきたのです。
しかし、そんな私は、やがて難病にかかるのです。それは「社長という病」でした。
本書は、大不況と叫ばれている時代の事業経営者、社長と呼ばれる多くのみなさまに、私の体験とノウハウとヒントをリアルにお伝えするものです。
私は「社長という病」の重症患者でした。
年間数十億円を稼ぎ、億単位の資産を持ち、資金を動かし、百数十人の社員を抱え、テレビやマスコミに登場して脚光を浴び、その後、大転落を迎えました。
大転落した大きな要因が、「社長という病」です。最初は小さな病でしたが、やがて取り返しのつかないものとなり、不治の病に発展し、末期症状を迎えて手の打ちようがなくなりました。
しかし、その後、私は人に救われ、死に至ることなく、誰もが不可能と見ていた復活を遂げることができました。
本書は、こうした私の失敗体験を元に、企業経営者が苦しみから脱出するためのノウハウとヒントが詰まったものです。
膨大な失敗、取り返しのつかない失敗を繰り返した私の社長体験が、きっとみなさまのお役に立つことを信じ、願っています。
最後まで、お付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。
二〇一八年二月二日富樫康明
第 1章 「社長という病」の発症
社長という生き方 私が最初に社長に就任してから、四十三年の月日が過ぎました。その間、成功と失敗を繰り返し、さらにチャレンジを繰り返して現在に至っています。
社長になってわかったことは、成功しても不安、失敗しても不安、どちらでもなくとも心配。いつもなにかしらを心配し続けてきました。
多くの経営者も同様で、みな心配事を抱えて生きていることと思います。
なによりも、寂しい。なんて孤独なんだろう。なんて割の合わない仕事なんだろう。苦しくなるといつもそう考えてしまいます。社長ってつらいよ! 社長ってむずかしい! そして、社長になると、みな同じ「社長という病」にかかります。
その病に気づかない人も多くいますね。かなり重症者となってもわからない人もいます。精神や内臓の疾患とは違って、目に見えない病気だから気がつかないのです。それは、精神的な「心の重圧」といえるかもしれません。
私は本来、社長に向かない人間ですが、どうしても組織の人間や会社員になれないため、やむを得ず社長になりました。
ですから本当は向いていません。
起業した四十三年前は、とても楽しかったことをよく覚えています。だって、誰からも命令されるわけではありませんし、どこからも拘束されず、時間は自由に使えます。それに、疲れたときは勝手に休むことができます。
時間とお金が自由に使えたので、いい思いもずいぶんとしています。そして、十九歳のころですから、若さと夢と希望がありました。まるで歌のフレーズのような自由です。
しかし、その拘束されない自由と引き換えに、さまざまなものを失ってしまいました。
それは、仕事が増えて、事業が拡大すれば相棒が必要になるということでした。
さらに仕事を安定させるために、生産量を増やす必要が出てきたのです。
そして、二人が三人、六人から十人、二十人、六十人と社員が増え続けました。
すると、社員という拘束ではなく、社長という拘束(責任)が発生してきたのです。年数が過ぎれば、従業員はやがて結婚し、子どもが生まれ、給料も生活に応じて上げていかねばなりません。
社員が増えるたびに、プレッシャーが育ち始めました。十人の社員がいれば、三人家族としたら三十人を背負わねばなりません。次第にその責任が重くなります。
私は事業拡大、売り上げ拡大につれて完全に拘束され、自由がなくなっていきました。なんと恐ろしいことなのでしょう。そして成長のためには事業をさらに拡大していかねばなりません。毎月の給料日、返済金、支払いがとてつもない金額となります。取引先業者にも責任が発生します。
仕事は安定して十分な利益が出ているにもかかわらず、毎夜眠れない日々が続きます。私はここから「社長という病」の重症患者となっていったのでした。
コメント