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26  知識と知恵は違う

26知識と知恵は違う知恵を磨こう。知恵をみずから会得し、高めていこう。惜しむことなく、お互いに知恵を出しあおう。松下  知識はどんどんどんどん教えていく。知識の範囲は非常に高まってきた。しかしそれを人間生活に好ましく生かしていくのは人間のもつ知恵である。  知恵は知識とちょっと違うように思うんです。はっきりこううまく言い表せませんけど。知識を使うのは人間自身である。いかに知識が発達しても知恵が発達しなかったならば、知識によって災いされることになるだろう。だから知識が発達すればするほど、それを使いこなして好もしい人間生活にマッチするように、知恵そのものを高めていくということをしないかぎりは、すべて災いの剣となる。こういうことがいえるんやないかと思います。  そうすると、電子計算機の発達というものは結構やけれども、この際、人間の知恵の開発にもっと努力しようやないかということになるだろうと思います。ところが、人間の知恵を開発するということはむずかしいですね。  学問と知恵とちょっと違うように思うんですな。どうでしょうか。学問は教えたら教えられるんですね。私は、経営学というものは、教えることもできるし、習うこともできると思うんですね。しかし、経営というものは教えることもできないし習うこともできない。それは道場において自得するもんやと思うんです。  だから、それと同じようなもんですな。教えて教えられるものは知識である。教えて教えられないものは知恵である。知恵は自分で会得するよりしょうがない。会得するということは、体験によって、また道場において機会を得て、〝あっ、これやな〟と会得していく。それをずっと高めていく。  お釈迦さんは、出家したときには難行苦行したけども悟れなかったわけですな。それであきらめて山からトボトボ下りてきて、そしてもう疲れはてて倒れた。そこへ乙女がヤギの乳を持ってきて飲ませた、気の毒やというので。その乳を飲んで体力回復して、菩提樹の下で坐禅してみずから悟ったのが仏教ですわな。ぼくはそんなものやないかと思うんです、知恵というものは。  その知恵という非常に得がたいものが軽視されている。それで知識だけがどんどんどんどん進んでいっているところに、今日の世界の混迷があるんやないかという感じがするんです。だからこれは大事な問題やなあ、たいへんな時代やなという感じがするんですね。  そこで私どもは、「お互いにもっと知恵を磨こうじゃありませんか。皆さんがもっている知恵を、惜しまずお互いにひとつ出しあおうじゃありませんか。そして、進んでくる知識を十分使いこなそうじゃありませんか」ということを、お互いに叫びあう。そうすれば、やはり注意深くしていると、ほっと悟れる、その悟れることは知恵である、知恵が向上するのである。こういうようなことも思うんですがね。〔一九七一〕

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