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社長失格 ぼくの会社がつぶれた理由:板倉 雄一郎

社長失格ぼくの会社がつぶれた理由電子書籍版データ作成日   2012年 12月 25日  第 1版著  者  板倉雄一郎発行者  瀬川弘司発行所  日経BP社 © Yuichiro Itakura 1998 ●この電子書籍は、日経BP社より印刷物として刊行した『社長失格  ぼくの会社がつぶれた理由』( 2012年5月 9日発行  初版第 20刷)に基づき制作しました。掲載している情報は、刊行当時のものです。《電子書籍版について》 ●おことわり  本作品を電子書籍版として収録するにあたり、技術上の制約により一部の漢字を簡易慣用字体で表したり、カナ表記としている場合があります。  ご覧になる端末機器や、著作権の制約上、写真や図表、一部の項目をやむなく割愛させていただいている場合があります。また、端末機器の機種により、表示に差が認められることがあります。あらかじめご了承ください。  この電子書籍は、縦書きでレイアウトしています。 ●ご注意  本作品の全部または一部を著作権者ならびに株式会社日経BPに無断で複製(コピー)、転載、公衆送信することを禁止します。改ざん、改変などの行為も禁止します。また、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。

――目次――プロローグ   1997年 12月 24日第 1章  創業   1984年2月 ~ 92年9月第 2章  展開   1992年 10月 ~ 95年8月第 3章  ハイパーシステム   1995年9月 ~ 97年1月第 4章  転落   1997年2月 ~ 10月第 5章  倒産   1997年 11月 ~ 12月エピローグ  再び、 1997年 12月 24日  あとがき  付録

[プロローグ] 1997年 12月 24日  一九九七年一二月二四日、ぼくは東京地方裁判所の前に立っていた。  裁判所というと、古ぼけた「伝統」「格式」を象徴するような陰うつで荘厳な建造物を想像するかもしれない。おそらく外国の法廷物映画で植え付けられたイメージだろう。しかし、霞ケ関の中心からやや皇居寄り、赤レンガの法務省ビルの隣に位置する東京地裁は、そんな雰囲気とは一切無縁だった。くすんだグレーの直方体の建物は、どこの地方都市にもある無個性なお役所ビルと同じ顔をしていた。映画やドラマで見かける裁判所独特の風情を伝えるのは、大時代がかった裁判官の衣装と、長椅子が並んだ妙に天井の高い法廷の内装だけだった。  前回訪れた時は、例の地下鉄サリン事件、オウム真理教の松本智津夫被告の法廷があった。今日は大事件がらみの裁判はないようだ。裁判所の入口には係官が立ち、持ち物検査を行っていた。空港で見かけるのとおそらく同じ類の機械であろう、金属製品を所持していれば「ピンポン」と鳴るやつをくぐらされる。飛行機に乗るのは大嫌いだったが、それでも何度となく利用する機会があったから、ぼくは手際よく携帯電話と小銭をトレイにあけ、関門を通過した。  ナイフも拳銃も麻薬も携帯しているわけではないのに、ぼくは軽い緊張を覚えた。くぐり抜けるときに、係官と目が合った。自分の表情が瞬時に「何も悪いことはしていませんよ」と変わっていくのを感じた。「ピンポン」は鳴らなかった。ぼくは先に進んだ。歩き方がぎこちなかったのは、久しぶりに身につけたスーツと革靴のせいだろうが、それだけではなかったかもしれない。  弁護士との待ち合わせの時間よりも少し早く到着したので、ぼくは一階にある「本日の法廷」という冊子に目を通していた。冊子は二種類あって、それぞれ何冊かコピーされ、守衛とおぼしき人の前にあるカウンターに並べられている。  ぼくは刑事事件の冊子に目を通した。いくつもの「本日の法廷」の予定が記されていた。刑事事件の項目で多いのは覚せい剤取締法違反。たまに強盗殺人のような重罪の法廷がある。民事の冊子には、大手金融機関が原告となり個人が被告となる事件が何ページにも渡って記載されていた。  ――ずいぶん事務的なものだな。  クレジットカードの支払いを遅延した人も、大麻取締法違反者も、強盗殺人犯も、ここでは同列に一冊の小冊子にまとめられている。  ふと、以前読んだ本の一節を思い出した。――裁判官は法廷で双方の言い分や証拠を鑑定する前にある程度判決を決めていて、理論的に裏付けていく、それが彼らの仕事のやり方だ――。  なるほど、そうかもしれない。膨大にして多様な事件と法廷を手際よく一冊にまとめた小冊子をめくりながら、ぼくは妙に納得していた。被告になったわけじゃないが、法の裁きを受けるという点では、ぼくもこの冊子の中の一員である。  自己破産を宣告される。それがこの日の用事だった。弁護士が到着し、軽く挨拶を交わした。当然ではあるが、ぼくはこのときひどく落ち込んでいた。一方、弁護士は淡々としている。別にロボットのように事件を処理するような無表情な態度ではなく、かといって、ぼくの気持ちを汲んでいっしょに暗い表情をするわけでもない。そりゃそうだろう。彼らにとっては自己破産なんてものは日常茶飯事。事件のうちに入らない。  ここに来るまでに、この弁護士とは何度か打ち合わせをしていた。あるとき、会社が破産したら得意先に与える営業上の損害をどうすればよいのか、質問したことがある。「板倉さん、会社の破産にそんなのはつきものですよ。不動産会社がつぶれりゃ、ほら、見たことあるでしょう、作りかけのビルが何年も野ざらしになったりするじゃないですか」  ぼくはそのとき思った、どうやら考え方を根本から変える必要があるようだ。ベンチャー経営者として過ごしてきたそれまでのように、いかに会社の業績を伸ばしていくかという発展的な考え方から、いかにきちんと後始末するかという考えに、である。  東京地裁の建物の一三階には、中央の廊下を挟んで、「特許紛争」と「自己破産」の課があった。まるでぼくの事業を象徴しているようだ。新しいアイデアを商品化する特許戦略を前面に出し、業績を伸ばす。それがぼくのやり方だった。そしてその果てに待ち受けていたのが今回の破産である。  ぼくは、「自己破産」の看板が掲げられた部屋に入った。  あたりを見回した。先客が順番を待っている。無個性なスーツ姿の男たち。その中に大きなかばんを持った弁護士が幾人か混じる。破産課といっても、疲れきった中小企業の親父さんや賭博におぼれた人格破綻者風がぞろぞろ列を作っているわけではないようだ。自分が当事者でなければ、まさか破産宣告を受けに来た人々とは思いもよらないだろう。  女性が一人、部屋の隅に立っていた。  灰色の集団の中で、彼女だけが浮いていた。それほど派手な格好をしているわけではなかったが、どんな職業に就いているのか、すぐに想像がついた。ぼくがそれまで好んで出かけていった六本木や銀座にあるクラブでよく見かけるタイプだ。  場所が場所だけに、精一杯落ち着いたいでたちで来たつもりなのだろう。しかし、その化粧、髪型、洋服のディテール、ブランド物のバッグをみればだいたいわかる。  自分で店でも出して失敗したのか、それともホステス稼業で売掛を持っていたお得意客が行方不明になって資金ショートでも起こしたのか。銀座あたりで売掛を持っているホステスの中には、月に一〇〇〇万円ほどのリスクを抱えている連中がぼくの知っているだけで何人もいた。客に逃げられれば即破産である。彼女もおそらくそんな一人なのだろう。  スピーカーからのアナウンスで名前を呼ばれ、女性は弁護士と一緒に別室に姿を消した。  ぼくには周りを注意深く観察する余裕があった。スーツの群れの中から、弁護士でもなく、特許紛争のために来たのではない人、「自己破産者」を発見することができた。そして、彼らを見つけるたびに、自分との違いを、この場を訪れる他の自己破産者たちと一線を記す理由を、頭の中に並べていった。  おれは違う。時代を見越したアイデアを考え、お金を集め、事業化し、アメリカや韓国に子会社をつくり、数多くの講演をこなし、新聞や雑誌に載り、ニュービジネス関係の賞だってとったし、あのビル・ゲイツだって会いに来た……。  ――もう止めよう。ぼくは彼らと何も変わらない。数々の栄光は、その数だけ「罪」に変わってしまった。ぼくは社会的な「落伍者」の烙印を押された存在なのだ。  ぼくは、自分の自信と意欲の根拠となっていたものが失われてしまったことに気づいた。  小学五年生のときだ。生まれて初めて女の子が好きになった。それまで全然勉強のできなかったぼくが、必死に、と言うと大袈裟だが、とにかく勉強をするようになり、成績は一気にトップクラスになった。中学から高校にかけては、学校成績が良いばかりでは満足できず、バンド活動を通して自己表現を

した。勉強ができる、音楽をやっている。それが、女性を口説くとき、友達と話すとき、自分の意見を押し通すときの自信の根拠となった。  二〇歳で会社を興してからは、事業がそれに代った。事業が自分の表現手段だった。自信の源だった。その源があっさり無くなった。  ぼくは以前この建物を訪れたときのことを思い出した。もう十数年前の話になる。当時創業したソフトウエア会社が、開発の遅延を理由にクライアントから損害賠償請求をされた。要するに被告になったわけだ。しかし、開発が遅れた理由は明らかに先方の資料不足にあったとわかっていたので、裁判という初めての体験を前にしてもまったく気落ちすることはなかった。むしろ意欲的に事態に臨んだ。結果は、第一審で完全にこちらの勝ちだった。  勝ち負けを争っていたあのときはよかった。「勝つ」可能性が残されていた。そして実際のところ、勝利をおさめた。  今回は違う。最初から明らかに負けが確定しているのだ。なのにわざわざ裁判所からお前は負けたんだと「宣告」されるために、そう、自分の会社ハイパーネットの総額三七億円の破産を宣告されるためだけに、ぼくはここに来ている。  一体なんでここに来る羽目になったんだ?  ぼくは、これまでの起業家としての人生を振り返らずにはいられなかった。

[第 1章]創業   1984年2月 ~ 92年9月  一九八四年一一月一六日。時計はそろそろ正午を示そうとしていた。前日の深酒が祟ったのか、その日は朝から体調がよくなかった。布団から身体を起こすのがおっくうだった。駄目だ、今日は会社を休もう。ぼくは受話器を取って耳にあて、オフィスに電話をかけようとした。  この年の二月、ぼくは、友人二人とゲームソフト会社「ザップ」を設立した。資本金は一〇〇万円。オフィスは下北沢のパソコンショップの屋根裏に間借りしていたが、すぐに六本木に一五坪九万円の部屋を見つけて移転した。二〇歳になってまだ二カ月とたっていない頃だ。  仕事の中身は、前年六月スタートしたアスキーのパソコンハードウエア規格「 MSX」に対応したソフトをつくること。ドライブゲームのはしりで巷で結構人気のあった「ハイウェイスター」も、実はぼくらの作品だった。  運と時代とそれから腕もまあ悪くなかったのだろう。成人式を迎えたばかりの若造の始めた事業として、ザップはまずまずのスタートを切った。オリジナルソフトの制作にゲームセンター用ソフトの MSXへの移植。仕事は、放っておいても次々に入ってきた。  ぼくは、以前から一人で住んでいた世田谷・経堂の家賃月六万五〇〇〇円のアパート(風呂・トイレ付)の近くに駐車場を借り、当時やたらと流行っていたツートーンカラーのトヨタ・ソアラを購入した。  これから語る奇妙な体験をしたのは、ちょうどそんな頃だった。  六本木のオフィスの電話番号を押し、ぼくは受話器を耳にあてた。  おかしい。  いつも聞こえるはずの「ツー」という発信音が聞こえない。こっちの身体の具合が悪いのが電話にまでうつったのか。ぼくは何度か受話器を置いては取り、置いて取りを繰り返した。  数回目、ぼくは置こうとした受話器をあわててもう一度耳にくっつけた。  人の声が聞こえる。  それは普通の電話で会話するよりはるかに小さな音量ではあった。が、確かに人が会話する声が聞こえるのである。どうやら回線が混線しているようだ。  ぼくは心を弾ませた。もしかしたら、他人の会話を盗み聞きできるかもしれない。体調が悪かったはずのぼくは、すっかり身を起こし、耳を澄ませた。――やっぱり聞こえる。人の会話だ。  よく聞いてみると、通常二人で交わされる電話の会話とはちょっと違っていた。もっと多くの声が聞こえるのである。多分五、六人の声。ぼくはわくわくした。複数の会話を盗み聞きできるかもしれない。しかし、じいっと耳を傾けていると、複数の会話が同時に聞こえているのではないことがわかった。五、六人の声がひとつの会話に参加しているようなのだ。  しばらく聞いていたぼくは、ふと思った。おれの声も伝わるんじゃないか。  恐る恐る声を出してみた。「おーい」  するとどうだろう、今度はそこで会話していた何人かの人から返事が返ってきたのである。「お、新入りだ、だれ?」  ぼくはこの時のことを今でも鮮明に覚えている。それだけ衝撃的な出来事だったのだ。  この「混線」の原因は、覚えていらっしゃる方もいるかもしれない、東京世田谷区で起きた電話局火災事件である。九万三〇〇〇回線を混乱に陥れ、復旧まで一〇日を要した、電話関連の事故としては未曾有の規模のものとなった。「混線事件」から数日後、ぼくは、当時住んでいた世田谷区経堂の小田急線の駅前に向かった。会話に参加した連中で一回集まってパーティでもやろうぜ、ということにいつの間にかなったのである。集まったのは五、六人どころか、なんと三〇人以上、ほとんどがぼくと同世代だった。電話局の火災が無かったら絶対に会うことのなかった連中だ。  事件がきっかけで偶然知り合った連中と集まって酒を飲む――。この出来事は、ぼくに奇妙な興奮をもたらした。しかし、その興奮が五年後、ぼくに新しいビジネスのタネをもたらすことになるとは、もちろんこのときは思いもよらなかった。  一九八七年。二三歳になったぼくはザップの仕事に不満を抱き始めていた。  ゲームソフト制作の商売は、創業以来好調に推移していた。オフィスを六本木から港区芝公園のより広い部屋へと移し、制作スタッフの人数も増やした。ぼく自身も経堂のアパートを引き払い、世田谷・駒沢公園に面した七〇 、家賃三〇万円のマンションに移った。車は、新型ソアラに、そしてポルシェ 928からさらに BMW 635 csiクーペに変った。Tシャツにジーンズの姿は、南青山の本店で買ったブルックス・ブラザースのトラッド・スーツにピンクのボタンダウン・シャツ、派手なレジメンタル・タイに変わっていた。  そして、ぼくはそんな状況にいらいらしていた。  小さいときから、人の真似をするのが大嫌いだった。  ぼくは一九六三年一二月二六日、千葉県船橋市のちょっと変わった家に生まれた。一族は代々医者の多い家系だったらしい。父の兄弟である二人の叔父はそれぞれ医者になり、片方は福島市で開業していた。父は生来の遊び好きがたたってか、医者にならずにふらふらしていた。兄弟の病院の事務のようなこともやっていたようだが、ぼくも小さかったから、本当のところはよくわからない。  ここまでは別に珍しくない。変わっていたのは、二人の叔父に子供がいなかったこと、そしてそのために、一族中が、たった一人の男の子であるぼくを医者にしようと虎視耽々と狙っていた、ということである。  おかげでぼくは養子でもないのに、小学校の頃から、船橋の実家と福島で開業している叔父の家を行ったり来たりするようになった。テニスのラリーよろしく、船橋と福島、二つの学校の間で頻繁に転校を繰り返した。  かくして、ぼくはプロの転校生となった。転校生のプロとは何か。それは、新しい環境に一瞬のうちに溶け込めるだけの状況判断を持ち、同時に自分の力を実力以上にしかも嫌みなくプレゼンテーションできる子供である。初対面の人間をあっといわせて、自分の味方につけられるのが、転校生のプロだ。そのプロになりきれない転校生は、往々にしていじめられっ子になる。  小学校高学年にして「プロ」になったぼくは、自分の中に二つの行動様式が確立したのをぼんやりとではあるが、実感した。すなわち、「目立ちたがり」

と「人真似が嫌い」。その結果、ぼくは、なかば必然的にアンチ・サラリーマン的人生を歩むことになった。  中学校では勉強ができたため、県下一の進学校、福島高校に難なく入学した。目立ちたがりにとって地元有名校に行くのは悪いことではない。しかし、別に勉強が好きなわけではないから、さすがに秀才ばかりの高校に入ると成績は直滑降の勢いで落ちた。  成績が悪いのは、全然気にならなかった。当時はもっぱらバンド活動に打ち込んでいたからである。しかもぼくが凝っていたのは、音楽活動ではなく、むしろプロモーター活動の方だった。地元のバンドを数組集め、会場を押えて、チケットをさまざまなコネで売る。友人関係の広さと押しの強さもあって、ライブの後は、数十万円の現金を手にしていた。  それでも雄一郎はいずれ医者になる、親戚一同は皆そう思っていたに違いない。でもぼくは医者という職業に何の興味も湧かなかったし、第一、学校の成績が、「おまえは医者になるな」と告げていた。一九八二年春、高校卒業後、浪人したぼくは、代々木ゼミナールに通うため、福島の叔父宅から数年ぶりに船橋の実家に戻った。そして翌八三年二月、私立大の受験を数日後に控えたとき、父親と喧嘩をして、家を飛び出した。  受験は、福島から東京に上京していた友達の下宿を根城に、とりあえずこなすことにした。ぼくはいくつか受けた大学のうち、上智大学の理工学部に何とか合格した。  一九八三年三月。大学は合格したが、家に戻るつもりはなかった。当然金がないから、このままでは入学金も払えない。でも、ぼくの中では、答えはもう決まっていた。「大学なんか、受かっちまえば、後は一緒だ。行っても行かなくても関係ない。それよりも、働いてまず自立しよう」。  ぼくは大学に行く代わりにアルバイトニュースのページをめくり、代々木の中古マンションの一室に居を構えたゲームソフト会社への就職を決めた。  バイト先にソフト会社を選んだのは、高校時代にパソコンソフトを制作した経験があったからだ。  その頃、一九八〇年代初頭の日本は、まさにパソコン黎明期。 NECが 8ビットマシン「 PC 8800シリーズ」を出し始め、富士通が FMシリーズで対抗していた頃だ。高三のぼくも、母親にねだってシャープの MZ 80 Bを手に入れた。おそらく、プログラム制作にもともと頭の構造が向いていたのに違いない。ぼくはさしたる苦労もなく、すぐにいくつかのソフトを自作した。そのうちの一つが、今でいう「マイクロソフト・エクセル」のような表計算ソフトだった。機能的な面はともかく発想自体は今思い出しても画期的だったと思う。このソフトをぼくは近所のパソコンショップに置いてもらった。四〇〇〇円くらいの値段をつけたぼくのソフトは三 ~四本売れたように記憶している。  それから一年あまり、ぼくはパソコンと縁のない浪人生活を送っていたわけだが、大学に合格したばかりの三月、アルバイトニュースに「ゲームソフト制作者求む」の一行を見つけた時、ぼくはこれだと思った。  あの仕事なら簡単にできる――。  大学入学の代わりになぜか早々と就職してしまったぼくは、初任給が振り込まれるのを待って友達の下宿を引き払い、経堂のアパートに引っ越した。  ソフト会社ではゲームの制作などを担当したが、何せ数人でやっている小所帯だったから、しばしば、納品先のお偉いさんとも会う機会があった。中でも、ぼくを気に入ってくれたのが、当時新しいパソコン規格の MSXを発表したばかりのアスキーの役員だった浜田義史さんである。  ゲーム業界はソフトの玉数がそろわなければ市場を席巻できない。アスキーはとにかく大量のソフトの制作を望んでいた。しかも一本五〇〇万円出すという。当時のぼくの月収は一五万円だ。これは人の会社で使われている場合ではない。  ぼくは「医者になるから」と嘘をついて会社を辞め、友達二人を誘って、自前で MSX用のゲームソフトをつくり始めた。ただ、つくったはいいが、どうやって売ったらよいか、とんとわからない。そこで、ぼくは無謀にも自作ソフトを携え、アスキー本社に赴いて知恵を借りることに決めた。そこで、ぼくらのつくったソフトに偉く感動してくれたのが、先の浜田さんだった。彼の尽力もあってゲームはアスキーを介して発売され、幸いにも好評を博した。  これらの仕事ぶりを評価してくれた浜田さんは、八三年も終わりのある日、こう言った。「板倉君さあ、君は若いんだから、自分の力をもっと自由に試したほうがいい。独立して会社をつくりなよ」「目立ちたがり」で「人真似嫌い」の人間にとって最大の弱点、それは「おだてに弱い」点である。かくしてぼくらは二カ月で会社を設立した。それがザップというわけである。  それから三年たった一九八七年。ザップは、零細ソフト屋としては悪くない売り上げを記録していた。でも、ぼくにとってゲームソフトの世界は、すでに新味が感じられなくなっていた。  何か、新しいことはできないか――。  ぼくは、ゲームソフトの商売が儲かっているのをいいことに、社内にいたハードウエア好きのスタッフと画像処理マシンの開発に着手した。結果は惨敗である。  研究施設もろくにないちっぽけなソフト会社がいきなりハードの開発をやってうまくいくわけがない。数カ月で二〇〇〇万円がふっとんだ。しかも悪いことは重なる。当時開発を請け負っていたゲームソフトの開発が遅れたために、発注元の会社が金を払わなかった。創業以来はじめて直面する経営危機である。  このままでは、二〇人ほどいるスタッフに給料が払えない。下手をすれば、会社自体がつぶれる。  ぼくはまず浜田さんにすがった。幸い、彼の厚意でアスキーから一〇〇〇万円を借りることができた。カネの問題はこれで当座はしのげる。  事業も従来のゲームソフト制作を軸にすえ直した。  さらに、自らを律する意味でも、翌八九年早々に、ぼくは駒沢の高級マンションを引き払い、東急東横線の学芸大学駅近くのワンルーム・マンションに越した。車も BMWを手放し、中古のトヨタ・マーク Ⅱに乗り換えた。  八九年九月、アスキーからの借金は完済した。ただし、資金的にはまだまだ決して楽な状態ではなかった。ぼくは、一〇月、浪人時代に飛び出して以来一回も足を向けなかった父のところに数年ぶりに顔を出し、頭を下げて船橋の実家を担保に国民金融公庫から二〇〇〇万円を借りた。  これで、ザップはなんとか立ち直るめどがついた。ゲームソフト事業自体は相変わらず好調だったから、この程度の借金ならば返済にさほどの苦労はしないことは目に見えていた。  だがここに至って、ぼくは完全にゲームソフトの世界に見切りをつけるようになった。もううんざりだった。  ゲームソフトの開発は、当たるも八卦当たらぬも八卦である。だから、ソフトをたくさん開発して世に出せば、大ヒットの可能性も増える。ヒットが続けば、当然ロイヤルティ収入も増える。結果、会社は成長する。  しかしどうだろう。現実に大ヒット商品なんてそう簡単にできるわけはない。ましてや毎年出し続けるのはきわめて困難だ。しかも当時複数のゲームメーカーが続々と店頭公開を果たしていた。すでに先を行く他社に今から追いつくのは難しい。  と、いろいろと言い訳はできるけど、要するに一言でいえば、「もう飽きた」のである。ゲームソフトの商売が「つまらなくなった」のである。というわけで、ぼくは日々夢想した。何かほかに面白い商売はないだろうか。  迷っていたぼくがふと思い出したのが、冒頭で紹介した「電話混線事件」だった。  思い出したのは、一九八九年六月のことである。なぜ突然数年前の事件が頭に浮かんだのか、今考えてもよくわからない。が、とにかくあの事件のとき

に胸に湧き上がった興奮は、五年たって、突然ぼくの中でひとつのかたちとなった。「あれは、ビジネスになる」  ゲームソフト開発に見切りをつけ、新たな事業を起こそうと模索していたぼくは、興奮が冷めぬうちに、と急いで事業計画を作成した。  ぼくが考えたのは、電話回線を利用して三人以上でも同時に会話できる、いわば「電話会議」サービスである。事業のイメージははっきりしていたから、計画書はわりあいスムーズに完成した。あとは、資金集めである。とにかくあたれる人には全て計画書を持って資金調達に走った。  起業の際の資金調達先、と聞いてすぐに思い浮かべるのが、ベンチャーキャピタルである。ぼくの場合も例外ではなかった。大手の一つで野村證券の系列会社、日本合同ファイナンス( JAFCO)のところへ、我ながら自信作である事業計画書を意気揚々と持ち込んだ。しかし、これがまったく相手にされなかった。数年後、 JAFCOは、向こうからわざわざ出資したいとぼくのもとへやってくることになるのだが、このときは歯牙にもかけてもらえなかったわけである。  資金調達を開始して一カ月、事態が好転せずさすがに焦りを感じ始めた頃、ぼくに会いたい、という人物が現れた。なぜかぼくの事業計画に興味をもったというその人は、横浜で不動産会社を経営し、他にもいくつかの事業を手がけているという。  誰でもいい。お金を持っていて、おれの企画に興味があるなら――ぼくはその人物を訪ねることにした。  面会の場所はその人物が経営する横浜のある病院だった。聞くところによると彼はこの病院をはじめ、結婚式場や海外での飲食店経営までこなすいわゆる実業家であるという。以上の情報だけでも、その人物の懐が、ぼくの事業に投資する原資くらいは軽く出せるだけの余裕があることは想像がついた。とにかく彼に会って何とか口説き落とそう!  病院に着くと、ぼくは秘書の女性の後ろについて、部屋に入った。  その人物は、先客の中年男とソファに座りながら話をしていた。入ってきたぼくたちの方にちらと目をやり、すぐに視線を相手に戻した。  会話の真っ最中にお邪魔をしてしまった居心地の悪さは感じてはいたが、せっかくの機会だ、その人物をぼくは観察することにした。  年齢は四〇歳前後。やや浅黒い肌に短めに整えられた黒髪と太い眉が、演歌歌手の山本譲二を連想させる。左腕の袖からは、不動産業者のご多分に漏れず金色のロレックスが顔を出している。ただ、地味だが仕立てのよさそうな濃紺のスーツ姿が板についているせいだろうか、いわゆる「バブル紳士」的な成金趣味の匂いは不思議と漂ってこなかった。  何よりぼくの目を引いたのが、その笑顔を絶やさない話しぶりだった。相手が何か提案をする。すると間髪いれずに答えを返す。「イエス」のときは大袈裟に笑って。「ノー」のときはこれまた笑いながらしかも誰が聞いても「ノー」とわかるように。とにかくレスポンスが早い。仕事でつきあうには、理想的な人間のように見えた。  ぼくが入室して二、三分もすると、その人物は、先客との会話を突然切り上げた。相手の男も彼をよく知っているのだろう、ドアの脇に立っていたぼくに軽く会釈すると、ぐずぐずせずにあっさり部屋から出ていった。  上着の内ポケットの名刺入れを探しながら挨拶をしようとすると、その人物は、「おう、どうぞ」と、先客が座っていたソファを勧めた。気勢をそがれたぼくがあたふたと名刺を出し、「はじめまして、板倉と申します。お忙しいところ時間を……」と話し始めると、彼は最後まで聞かずにいきなりこう言ってきた。「それじゃあ、役員構成はどうする?」  その人物はすでにぼくの事業計画書を読んでいたのである。そればかりではない、すでに投資をして事業化することを決めていたのだ。ぼくは面食らった。  数カ月後、資本金五〇〇〇万円の株式会社国際ボイスリンクが設立された。出資比率は、その人物が六〇%、我々の間に立って紹介してくれた人が三〇%。お金の無いぼくは一〇%出資するのがやっとだった。それでも、資金不足に喘いでいたぼくにとって、代表取締役にしてもらっただけで十分だった。これで新しい事業をスタートできる。一九八九年秋、電話混線事件を思い出してから半年もたっていなかった。  ここで、ボイスリンクのサービス内容を説明しておこう。  仕組みはいたって簡単だ。要するにあの世田谷電話局火災での楽しい出来事を能動的にやってしまおうということである。  まず、複数回線で会話ができるように設計したハードウエアをサービスセンターに設置する。サービスを利用したい〝客〟は、このサービスセンターに電話をして、伝言ダイヤルでおなじみの任意の八ケタの〝連絡番号〟をプッシュボタンで入力する。この〝連絡番号〟が、電話会議の部屋に入るいわばカギである。同じ〝番号〟を知る人間が、最大八人まで一つの電話会議に参加できる仕組みだ。  ぼくは結構凝り性なので、この基本サービスにいくつかのオプション機能を付け加えた。まずは会議のモニター機能。会話には加われないが会議室の模様をモニターできる。とはいっても、会議室の性格によっては、外部に会話の内容を聞かれたくない場合もある。そこで、会議室の参加者があらかじめ外部モニターが可能か否かを調整できる機能も設けた。さらに会議室の会話に参加するための暗証番号まで設定できる機能もつけた。  電話というメディアに対し人々がどんな顕在需要および潜在需要を有しているか、ぼくは、個人的な経験からわかっていた。というのも、このころ仕事以外に一番はまっていたのがテレクラだったのである。どんな具合にはまっていたか、詳細な説明ははぶくが、非常に具体的に思い浮かべることができた。  これだけのオプション機能を備えたサービスならば、見知らぬ女(無論、男の場合もある)と友達になりたいテレクラ的利用者からビジネス目的の遠距離会議までさまざまなニーズを発掘できる。ぼくはそう確信していた。  サービスはスムーズに立ち上がった。一時は全国に八拠点を構える電話会議サービス会社として、ボイスリンクは初年度にして億単位の経常利益を出すことができた。  ただしふたを開けたら、サービスの利用者のほとんどは、例の世田谷電話局火災での参加者のような「遊び」モードの人ばかりで、ビジネス利用なんていうのはほとんどなかった。このあたりは、テレクラの利用実態とよく似ている。  中には三、四人の男女が「いかがわしい会話」にいそしんでいる場合もあったようだ。こんなケースに限ってその会議室はモニターできる設定になっていて、モニターの人数だけで多いときには三〇人、なんて時もあった。ほとんどストリップ小屋である。いや、ピーピング(覗き見)ショーといった方がいいか。電話の匿名性、覆面性がなせる利用形態だろう。顔が見えない、という状況は、思った以上に人を大胆にさせるらしい。  まあ、いろんな利用方法があったし、そのほとんどはぼくの期待とは違っていたのだが、そこは NTTが不倫や売春行為のために電話を利用しないでくださいと言えないのと同じである。ぼくも電話会議室というメディアを市場に提供しているに過ぎない。基本的に利用法に文句をつけるのは不可能だった。  いずれにせよ、ボイスリンクはちょっとした金鉱を掘り当て、一気に利益を積み上げていった。九〇年七月、三〇回線の東京サービスセンターを開設した初月の売り上げは約三〇〇万円。それが翌八月には三〇〇〇万円に達した。一カ月で一〇倍というすさまじい伸び率である。回線はあっという間に二四時間満杯の状態になった。  当時、ダイヤルQ2サービスの世界では、業者の間で回線が奪い合いになっていたために、ニーズがあるにもかかわらずすぐに回線を増やすのは難しかっ

た。そこでぼくは他の業者が手薄な地方へとサービスを展開することにした。東京地区では回線が思うように手に入らないが、地方に行けば多少は余裕がある。  狙いは当たった。九〇年一二月には、東京、大阪、名古屋、横浜、博多、仙台、札幌、千葉と、全国主要都市でどんどんサービスセンターを増やし、一時は月間で一億円に迫る売り上げを誇った。しかも手間がかかってないだけに、売り上げのほとんどが利益といった状態である。世はバブルのピークが過ぎ、熱かった市場に、ときおりひんやりとした風が吹くようになった頃。そんな御時世で、ボイスリンクは経済の流れに逆行するかのように、急激な成長を遂げていた。  だが、日本経済に遅れること約半年、秋風はわが新規事業にも吹き始めた。それも急にである。  利用者が減ったわけではない。実は、売り上げが伸びた頃から、ボイスリンクに投資してくれたかの人物とぼくの間で意見の対立が始まったのである。  原因は至極単純なものだった。事業から生まれる利益を、ぼくは後に起業することになるハイパーネットのような新しい事業の展開に使いたかった。一方、このオーナーは、節税対策と株主への利益還元を優先しようとしたのである。  もちろん株主への利益還元ということならば、こちらにも利益は入る。お金はぼくも大好きだ。ただしこのときのぼくは、目の前の金よりも新事業を興すことにより興味があった。  これでは双方の意見がかみ合うわけがない。経営者としてのぼくの意見も、株主としてのオーナーの意見も、どちらも間違ってはいなかったし、正当な主張だった。  ただ、ぼくは満足できなかった。単純に金を儲けるためだったら、ゲームソフト会社を続けていた方がはるかに楽だった。が、ぼくがやりたいのは、ただの金儲けではない。新しい事業に挑戦し続けることだったのだ。  こんなときは人生の先達の話を聞くに限る。ぼくは、例によってアスキーの浜田さんに相談することにした。「君自身の才能一本でやっている仕事だろ。そんな不満を持ってるんだったら、将来のことを考えてもう一度やり直したほうがいいよ」  浜田さんは率直な意見をいった。「うーん」。ぼくは頭を抱えた。  せっかく良いアイデアを思いついて、寝る暇もなく働いて起業したのに、またゼロからやり直すなんて。それにこのまま会社を続けていれば、少なくともお金は毎日確実に入ってくる。  でも――、ぼくは決断した。やっぱり、辞めよう。  理由は簡単だった。ぼくはまだ若い。  今になって思えば、非常に身勝手な話である。人に金を提供してもらって、あげくのはてに、方針が違うということで飛び出てしまったわけだから。円満、とは無論いかなかったが、九一年春、とにかくぼくは国際ボイスリンクを退社した。  それと前後して、ぼくは浜田さんをはじめ幾人かの知人友人からお金をかき集め、退社から数カ月後の九一年六月、資本金一七六〇万円で株式会社ハイパーネットを設立、代表取締役に就任した。ちなみに浜田さんは、ハイパーネットが順調に立ち上がったころに、持っていた株式をぼくに譲渡してくれた。  読者の方々は、ここで疑問を持つかもしれない。なぜ、こんなに早く次の事業を計画し、スタートできたのか。当然である。会社をつくったのはいいが、この時点で、ぼくは次に何をやるのかまったく決めていなかったのである。  事業なき新会社、ハイパーネットはどこへ行くのか?  ハイパーネット社の陣容をここで紹介しておこう。  設立時のメンバーは四人。まず、一九歳のときからいっしょに事業を手伝ってきてくれた大内朱美。経理の達人であり、福島の高校時代からの知り合いだ。ぼくがもっとも信頼している人間である。技術担当は木村尚人。彼は早稲田の学生時代に、ザップのアルバイトとして働いていた。大学卒業後はコンピュータを使ってプリント基板の設計などを行う C AD― CAMの会社に就職していたのだが、そこを口説いて会社を辞めさせ、取締役になってもらった。総務関係は伊藤良成。高校時代からの友人で、いっしょにバンド活動をしていた仲だ。彼の実家は地方都市で地域最大のスーパーマーケットチェーンを展開している。  彼らと代表取締役のぼく、たった四人での創業であった。会社はできた。しかし事業がない。なんともお粗末な話である。ぼくは出資者を募る段階で、非常に簡単な事業計画しか持っていなかった、しかもその内容ときたら、ボイスリンクでやっていたことを、大幅に、とはいえ、ただバージョンアップするだけである。  それでもいい。ぼくはこの時そう思っていた。事業そのものより、事業をする上での環境作りを先決しようと考えたからだ。とにかくまず誰に出資してもらうか、そして自分の出資比率をどのくらいにするか、役員はどういった顔ぶれで構成しようか……、こういった会社の基礎を固めること、それを優先したかった。だから事業の具体的内容を煮詰めるのは二の次でいい。会社の体裁が整えば、事業の具体的アイデアはいくらでも、そしていつでも作り出せる。ぼくはこんな具合に楽観していた。  とはいってもとりあえずなんでもいいから実際にビジネスを始める必要がある。でなければ会社の体裁をなさない。それに何しろ食っていけない。そこで、ボイスリンクで実施していた音声電話会議に、伝言機能とファクス、それに伝言メール機能を付加した、当時一世風靡したダイヤルQ2のサービスを始めることにした。サービス名は「ハイパーダイヤル」と名づけた。  ただしサービスを始めるには、当初の資本金だけではとても無理だった。国際ボイスリンクのときもスタート時点で一億円は必要だった。しょうがない、もう一度資金集めだ。ぼくは、再び浜田さんのところへ出向いた。  ぼくの厚かましい依頼を浜田さんは快く聞いてくれ、すぐに人を紹介してくれた。郡司明郎さん。コンピュータ業界に詳しい方ならば周知の名であろう。アスキー元会長である。元、というのは、アスキーを九一年七月に退社したばかりだったのだ。  創設者西和彦氏との対立で代表取締役会長の座を辞し、個人事務所を開いていた郡司さんは、ぼくにとって代え難い人だった。何せアスキーの大株主、資金は豊富にある。それに当然のことながら、コンピュータやインターネットに関して豊富な知識と経験を持つ。そんな郡司さんならば、こちらが目指す事業にきっと興味をしてくれるに違いない。ぼくは、彼へのアタックを開始した。  煙草とゴルフ。郡司さんの顔を思い出そうとすると、最初にぼくの頭に浮かんでくるのはこの二つだ。とにかくヘビースモーカーである。酒をやらない。その代わり、かどうかはわからない。無類の煙草好きだった。ぼくも結構な煙草好きだが、彼のそれは常軌を逸していた。一時間も話をするとあっというまに二〇本ほどの吸い殻(しかもショートホープ!)が目の前の灰皿にてんこ盛りになる。ぼくも吸うから、灰皿が二つ、いやときには三つ、四つ必要になる。  幸いなことに、郡司さんと仕事の話をするのは、密室よりも屋外、正確にいえばゴルフ場の芝の上が多かった。煙草以上に郡司さんが愛するもの、それ

がゴルフだった。そしてかなりの腕前の持ち主である。ぼくはといえば、はっきりいってゴルフは好きじゃなかった。要するに下手だったのだ。でも、それが効を奏した。  ぼくは、郡司さんとアスキー在籍時代から面識があった。そのときの印象は非常に保守的で慎重派。だからぼくはいきなり事業資金の話をするのではなく、時間をかけて親しくなってから、カネの話に入ろうと考えていた。  この件で顔を合わせるようになって何回目だったろうか、あるとき郡司さんは突然ぼくをゴルフに誘った。腕に自信のないぼくは気乗りがしなかったが、まさか断るわけにはいかない。それまでグリーン上でのプレイ経験が一〇回に満たなかったぼくは、予定した日までの一週間、毎日有明にあるゴルフ練習場に打ちっぱなしに行った。  ゴルフをやる人なら結果はすでにご承知であろう。プレイの前に練習しすぎるとろくなことにならない。スコアはあまりに恥ずかしいのでここでは伏せるが、ゴルフ場であんなに何回もスイングする羽目になるとは思わなかった。  しかし肝心な仕事の方では、このへぼゴルフが思わぬ効果を生んだ。郡司さんは、結構な「教え魔」だったのである。下手でよかった。この日以来、ぼくと郡司さんとは、師匠・弟子の関係になり、急速に親しくなった。ゴルフの腕の方は、才能がないのかやる気がないのかさっぱり上達しなかったけれども、プレイの合間合間で交わした事業資金に関する話は、少しずつだが進んでいった。  ゴルフが終わって東京へと高速道路を走らせている途中に寄ったサービスエリアで、郡司さんが事業について質問してきた。「ところで、本当にこんなにもうかるの?」「ええ」  いよいよカネの話に入ってきたな。ここが勝負だ。ぼくはこう答えた。「以前にぼくがつくったボイスリンクという会社ではこれ以上の利益が出ていました。そのときのシステムをバージョンアップするのが今度の事業ですから、まず間違いない数字です」「株式比率については?」「ボイスリンクで失敗したのは、まさにその株式比率が原因でした。で、御相談です。ぼくは単純な人間ですから、一生懸命働くための〝にんじん〟が欲しいんです」「ほう」「だからぼくを筆頭株主にしていただいて、郡司さんには二番目のシェアをとってもらいたい、とまあ、こう思っています」「なるほど……」  ぼくのずうずうしいリクエストに対して、郡司さんはうなずいたまま返事をしなかった。言い過ぎたかな。少々心配したが、それでも言いたいことはこの機会に全部言っとくべきだと思い直した。もし郡司さんがこの事業に参加してくれるとなれば、間違いなく長い付き合いになる。それをこの場で控えめな話ばかりをして取り繕ってしまうと、せっかくの資金調達は一時しのぎに終わり、後々面倒なことになろう。となれば、こちらの希望はとりあえずすべて話しておく必要がある。  ぼくは郡司さんの返事を待たずに続けた。「資本だけでなく、当社で必要な機材のリースもお願いしたいんです。そうすれば店頭公開するまでのあいだ、郡司さんに利益が入らないという事態を回避できますし、当社の資金繰りと税務対策が有利になります。あ、そうそう、それからぼくの株式保有シェアを増やすために、個人的にもお金を貸していただきたいのですが」  さすがに最後の一言は厚かましいにもほどがあったかもしれない。あまりにぼくに都合が良すぎる話ばかりである。しかし後になって、言いそびれた事があるよりましだろう。  その日、郡司さんは話を聞くだけで、イエスともノーとも返事をしなかった。数日後、彼は、資金の提供方法に関するミーティングを要請してきた。つまりイエスである。そればかりか、最終的に彼は当社に対するあらゆる角度からの支援を承諾してくれたのだ。言ってみるものである。  資金のめどはついた。後は、サービスを開始するだけである。いや、その前にやることがあった。そのサービス自体をまず開発しなければ話が始まらない。さて、どうするか。  ハイパーダイヤルは、ボイスリンクでの電話会議サービスに、いわゆる伝言ダイヤル機能と伝言メール機能を付加したものだ。電話会議サービスの特徴は、リアルタイムで複数の参加者が会話できる点だが、その反面、参加者が同じ時刻に揃わない限りサービスは実現できない。しかし音声伝言機能を付加すれば、参加する人の時間差を吸収できる。  さらに伝言機能だけでは特定の相手に対するコミュニケーションができないから、参加者一人一人にユーザー IDを与えて、その IDで個々間の音声メールの送受信ができるようにした。  たとえば、コンサートのチケットが余ってしまったので、これを誰かに売りたい、という人がいるとする。そんなときこのハイパーダイヤルを介してまず不特定多数に「チケット売りたし」の情報を「伝言版」に音声で残す。それを聞いた利用者の中で、そのチケットが欲しい人がいれば、伝言を残したチケット所有者に音声で「チケット買いたし」のメールを送れる仕組みだ。  要するに、音声版のパソコン通信である。扱えるデータが音声だけ、という点ではパソコン通信にはかなわないが、何といっても電話一つで利用できるところが大きい。パソコン通信と違ってパソコンがいらないのである。当たり前の話だが。  こんな具合に構想は固まってはいたのだが、実際にこのシステムをどう開発していくか、思案のしどころだった。ぼくはあえて日本国内での開発を止め、米国でハードウエアを調達し、ソフトウエアを開発することにした。ある人の紹介で、米国で電話関連システムのディーラーを展開するジェイ・シャアと知り合ったのがきっかけだった。ちなみにこのジェイ、後にハイパーネット USA社長に就任することになる男である。ちょっと変わったファミリーネームは、ジェイの両親がインド人だからである。両親は一九六二年に米国に渡り、そして二年後の六四年彼が生まれた。ぼくとほぼ同い年だ。  八月の暑い時分だったと思う。カリフォルニアで会ったジェイは、紳士的な好人物だった。何よりスーツを着ていた。これは驚くべきことである。カリフォルニアのコンピュータソフト業界でスーツ姿に巡り合うのは、日本のコンピュータソフト業界で納期を守る人間を探すより難しい。彼らの制服はTシャツと相場が決まっている。  親譲りの浅黒い肌に縮れた黒髪、背はぼくと同じくらいだから、百七〇センチ前後といったところだろう。そして彼はハンディキャップだった。片足をひきずるように歩く。後から聞いた話だが、出産のときに立ち会った医者のミスで足が不自由になったそうだ。自分の意見を主張する時には、意味ありげな笑みと共にウインクするのが癖だった。  とにかくよくしゃべる男だった。甲高い声で、日本人相手なのにお構いなしでぺらぺらと西海岸英語を喋りまくる。何か言うたびに「 Do you understand?(わかる?)」を付け加える。これはぼくも一緒だ。「わかります?」と念を押すのがぼくの口癖だ。  そのジェイが経営する会社、テレシステムは、カリフォルニアのシリコンバレーに本拠を構え、当時年間一〇億円程度を売り上げていた。 PB Xや電話機

など通信に関連する設備は何でも取り扱っていた。ぼくが注目したのはその点だった。大規模な音声応答装置と多人数会議システム、いずれもハイパーダイヤルを実現するために不可欠な商品だが、それらすべてを同社はラインナップしていたのである。  ジェイは、ぼくの事業構想にいたく興味を抱いたようだった。  日本同様米国でもこのハイパーダイヤルと似たコンセプトのサービスが急速に成長し、大きな利益を上げるようになっていた。利用実態はといえば、ほとんどが「ポルノ需要」だったようだが、注目市場には違いなかった。そしてジェイは以上の状況をよく知っていた。彼のクライアントの中にこうしたサービスを展開する会社があったからだ。 「OK、うちで面倒みようじゃないか」  ぼくとジェイは固く握手を交わした。交渉成立である。ジェイはソフトウエア開発を代行する現地企業を手配してくれたうえ、米国における新会社の代理人を買って出た。  郡司さんから商品をリースするという形で資金協力を得、我々は米国でシステム開発に入った。技術担当の木村はすぐに米国に飛んだ。ソフトウエアの開発を担うのは DRTというシリコンバレーにある専門企業で、無論ジェイの紹介だ。木村はこの DRTのスタッフの先頭に立ち、ハイパーダイヤルの設計の指揮をとった。ぼくも何度か開発の状況を確認するために渡米することがあったが、彼に任せておけばまず間違いなかった。  そこでぼくはもっぱら日本で資金調達やオフィス探しに明け暮れた。そんなある日のこと。総務担当の伊藤が我々のオフィスにうってつけの不動産を見つけてきた。  渋谷三丁目の七階建ての小さなオフィスビルだ。ワンフロア二〇坪。機械を置いたら座る場所はほとんど無い。しかし人がどこに座るかどうかは、このさいどうでもよかった。というのも、腰掛けるスペースも望めないほどに狭苦しいこのビルは、数百回線の電話回線を設置できたからである。  サービスを始めるにあたって絶対必要なもの、それは大量の電話回線だ。それだけの回線を最初から備えた物件などあるわけがない。当然新規工事が必要である。そして運がいいことに、渋谷一帯に複数のビルを所有するこのオフィスビルの持ち主は、快くその工事を認めてくれたのである。  米国でのシステム開発が一段落したのは、開発を開始してから三カ月ほどたった九二年の一月。改善すべき点はまだ残されていたが、もうのんびりしているわけにはいかない。我々は米国での開発を切り上げ、日本にすべてのシステムを移動し、サービス開始にむけて準備に取り掛かった。  九二年四月、ハイパーダイヤルがスタートした。  ハイパーダイヤルは、いわゆるダイヤルQ2を利用したサービスであり、一般大衆を対象とした課金ビジネスである。それゆえ、このサービスを広く利用してもらうために、告知広告を派手に展開する必要があった。  ぼくは数々の雑誌にハイパーダイヤルの広告を掲載した。メインターゲットは過去の経験から、一〇代後半から二〇代前半の若者を想定していた。そこで、テレビ週刊誌、アイドル雑誌などを中心に広告を打った。おそらくそこそこの効果はあったのだろう。広告を打ち始めて以来、売り上げは徐々にではあるが確実に伸びていった。  ぼくは、いろいろな雑誌に広告を打つ過程で、後のビジネスにつながる貴重な経験をした。一般に広告というのは、いくら打っても、はたして本当に効果があったのかどうかがわかりにくい。しかしこのとき実施した雑誌広告では、その効果を非常にはっきりと確認できた。広告を掲載した雑誌の発売日の直後、ハイパーダイヤルに対するユーザーからのコールが明らかに増えたからである。  それだけではない。ぼくには各雑誌の広告費用対効果をはっきり知ることができた。例えば、ある雑誌は公称発行部数が非常に多いために広告掲載料は高い。にもかかわらず、この雑誌に広告を打ってもユーザーからのコールはまったく増えない。一方、別の雑誌は発行部数は少ないが、少なくとも当社の広告に対するユーザーからの反応は多い。  ぼくは思った、広告とはなんと不思議なものなのだろう。雑誌に支払う広告費の額と、広告効果がまったく比例していない。それが許されるのも、大半の広告主が、大枚はたいた広告の費用対効果をほとんど知らないからだ。  このときはまだはっきりと気づかなかったが、ここに後にハイパーネット社で展開する IMSやハイパーシステムといった新サービスを構築するヒントがあった。その話に関しては、後ほど詳しく語ることにする。  先行投資でたくさんの広告を打ったこともあり、徐々に売り上げは伸びていった。  ただしその一方で、システムのバグ(間違い)がサービス稼動後も相変わらず頻繁に発生していた。突貫工事でサービスを立ち上げただけに、バグの発生は半ば不可避であった。技術担当の木村は、サービス開始以来、毎日バグをつぶし、システムを改善するために、文字どおり不眠不休で作業を続けていた。  事件は、そんなときに起きた。  九二年九月某日、ぼくが夜遅くにオフィスに寄ると、何とシステムが停止しているではないか。またシステムトラブルだ。一人で対応できる状況ではなかった。ぼくはすぐに木村を電話で呼び出した。「もしもし、木村か。おれだ、板倉だ」 「……なんすか」「またシステムが止まっちまったんだよ。おれ一人じゃどうにもならん。わるいけどすぐ来てくれ」 「……」「おい、聞いてるのか」「もう、嫌です。おれ」「はあ?  嫌じゃないだろ、嫌じゃ。あのな……」 「……(ブチッ)」「っと、おい木村、木村っ!――畜生、切りやがった!」  一度切れた電話は二度とつながることはなかった。以来、木村は行方不明になった。  トラブル続きでかなり疲れていたのだろう。それにしても困ったことになった。コンピュータの世界では、ストレスの溜まった技術者が仕事を放り出して失踪するのは珍しい話ではない。以前にも経験がある。かつて経営していたゲーム会社でも、雇っていたソフト開発技術者がある日逃げ出してしまう事件は一度ならず起こっていた。ただ、彼らの多くは技術者といっても学生のアルバイトだった。それが今度いなくなったのは社員わずか数人の零細企業で技術の中核を担う取締役である。これには参った。  でも、途方に暮れている場合ではなかった。ハイパーダイヤルは二四時間サービスだ。一刻も早くトラブルから復帰しなければならない。音信不通となった木村にコンタクトするのをあきらめたぼくは、このバグだらけのできそこないソフトを作った米国の開発会社に問い合わせ、昔ソフトを開発してた頃を思い出しながら、毎日応急処置をとり続けた。

何とかしなきゃ――。社長(一応ぼくのことだ)自らがバグ取りをやっているようでは、いつまでもたっても事業を大きくできない。木村に代わる新たな技術担当者を探さねば。誰かいないか。思い出した。一人いる。  この事件から半年ぐらい前の話だ。ぼくは、新会社の技術部門を充実させるために、知り合いに「優秀な開発技術者がいたらぜひ紹介してくれ」と声をかけていた。長瀬友喜さんもそのうちの一人だった。彼はぼくの友人で、コスモテクノロジーというソフト開発会社の社長を務めていた。  しばらくしてその長瀬さんから連絡があった。まだ木村が行方不明になる前のことだ。「板倉さんのお眼鏡にかなう技術者がいる。ぜひ紹介するよ」「え、ほんとですか!」「おっと、ひとつ忘れてた。まだ他の会社に勤めてんだ」  キヤノンで電話交換機の開発をしている、というその技術者に、ぼくはさっそく会ってみることにした。  初対面の印象は、「お、なかなかの美男子だな」。  断っておくが、ぼくはホモセクシュアルではない。でも一緒に仕事をするからには、男でも見てくれが良いに越したことはない。「筒井です。よろしくお願いします」  差し出された名刺を見れば名前は雄一朗、おれと同じ名前じゃないか。もっとも最後の「ろう」の字が違うが(ぼくのは「郎」だ)。初めて会ったにもかかわらず、ぼくはこの筒井という男に親しみを感じた。経歴は申し分ない、見栄えもいい、物腰は紳士的、しかも名前が自分と同じときてる――。ぼくはいつのまにか彼を口説いていた。もちろんビジネスパートナーとして、である。  その後、ぼくは技術担当の木村を同席させ、何度か筒井と会い、さまざまな条件を提示して、ヘッドハンティングの交渉を続けた。しかし、彼は一向にぼくの誘いにのってくれない。そんなとき、木村の逃亡劇が起きた。  事業のキーマンに逃げられたぼくは、筒井のことを思い出した。あいつしかいない。ぼくは、もう一度彼を口説こうと決意した。久しぶりに会った筒井に、ぼくは現状を率直に話すことにした。木村が逃亡して大変困っていること。代わりを務められるのは君しかいないこと。だから、ぜひうちの技術担当を引き受けてもらいたいこと――とまあこんな具合に、あらいざらいしゃべった。  でも、ぼくは彼がすぐに首を縦に振るとは正直思っていなかった。いままでまったく誘いにのってこなかった男である。大企業でのキャリアを捨てて、すんなりうちの会社に来てくれるわけはないだろう。  ぼくの話は終わった。じっと耳を傾けていた筒井が口を開いた。「わかりました。そちらで働きます」  拍子抜けするほど、ヘッドハンティングはあっさり完了した。しかし、いったいなぜ今になって当社への転職について前向きになったんだろう。ぼくは不思議に思った。「いや、今だからいいますけどね。木村さんがいなくなったからですよ」「え?」「つまりですね」  筒井は顔を上げた。「技術担当の取締役をやってた木村さんがいなくなったことで、自分が技術部門のトップとして仕事ができる。だからそちらに移ろう、そう決断したんです」  なるほど。なかなかしたたかな男である。大企業からリスクだらけのベンチャー企業に転職するからには、自分の担当分野でトップになれなければ面白くない。彼は、最初からそう考えていたのだ。筒井の仕事に対するこの自信に、ぼくはなおさら期待を寄せるようになった。  筒井は想像以上に〝できる〟男だった。開発当事者の失踪で、誰もレクチャーする者がいないにもかかわらず、彼はあっという間にハイパーダイヤル全体の技術的な特徴をつかみ、かつさまざまなバグをどんどんつぶし、ついには自分のシステムとして手中に収めてしまったのである。作業を始めて三カ月もかからなかった。  ハイパーダイヤルの機能とは、前にも説明したが、パソコン通信のいわば「音声版」である。そして当初は、単純に音声伝言板、音声メールや会議システムといった通信環境を一般消費者に提供するだけであった。  売り上げは少しずつ伸びてはいたが、ぼくには大きな不満があった。  事業のプロモーションには、前述のように主に雑誌広告を使っていた。広告を打つと確かにその分売り上げは伸びる。ただ、その伸び率は決して満足いくものでなかった。広告の費用対効果は悪かった。では、どうすれば、一回の広告でより多くの顧客を獲得できるだろうか。  ぼくは考えた。パソコン通信でおなじみの「フォーラム」機能をつけよう。  フォーラムとは、パソコン通信のような通信環境の中に特定の話題に関する「場所」を設けて企業スポンサーをつけ、その話題に参加したいユーザーを集めて運営するものだ。  このフォーラムをハイパーダイヤルという通信環境にいくつも設置し、それぞれのフォーラムに関して広告主を募る。そうすれば、広告主たる各企業は、今度は自社広告や各種プロモーションの中でこのフォーラムの宣伝をしてくれるはずだ。わが社としても、広告主を集める手間はそれぞれ一回で済む。後はその広告主が自分で勝手にハイパーダイヤルのフォーラム機能を「宣伝」してくれるからである。  果たしてこの企画はうまく行った。アイドル雑誌、アマチュアバンド雑誌、パチンコ雑誌などあっという間に二〇社ほどのスポンサーを獲得できたのである。  広告主の多くは「趣味の雑誌」だった。特定の話題を扱うという点では、フォーラムの参加者とこうした雑誌の読者はずいぶんと重なるからだろう。しかもうれしいことに、これらの雑誌の多くは読者サービスを兼ねて、誌面でハイパーダイヤルを無料で紹介してくれたのである。おかげで当社は自腹をほとんど切ることなく、ハイパーダイヤルのプロモーションができるようになった。狙っていた以上の効果である。  中でも評判を呼んだのが、アマチュアバンド雑誌が広告主となったフォーラムだった。この雑誌は、読者からのバンドメンバー募集というコーナーを持っている。しかし、雑誌の場合、読者が自分のバンドのメンバー募集を読者伝言板に載せたとしても実際に店頭で雑誌が売られるまでに最大で三カ月ぐらいのタイムラグがある。  ぼく自身高校時代にバンド活動をしていたから、このタイムラグが致命的であることをよく知っていた。バンドのメンバーなんていうのは明日にでも来てもらわないと練習ができない。三カ月も待っていたら、バンド自身が解散である。  しかし、ハイパーダイヤル上のフォーラムに参加すれば、読者はタイムリーにメンバー募集ができる。バンド雑誌の方も、読者の求めているニーズに的確に応えられるようになったわけだ。  紆余曲折はあったものの、ハイパーダイヤルは、どうやら軌道に乗りそうなところまでやってきた。しかしそこは、挫折と失敗がつきもののベンチャー

ビジネス。ハイパーダイヤルにも、意外な落とし穴が待ち受けていたのである。  ダイヤルQ2の規制だ。  ご存知の通り、ダイヤルQ2は、 NTTが提供する課金代行サービスである。ハイパーダイヤルでも、一般消費者から代金を徴収する手段として、このダイヤルQ2を利用していた。ところが、このダイヤルQ2が大きな社会問題となってしまったのだ。といえば、もう何のことかおわかりだろう。そう、 Q2の「アダルト」利用に対する糾弾である。  当時、 Q2のサービスを利用していた中身のほとんどが「アダルト」であった。アダルト雑誌のモノクロページを開くと、細かな広告が誌面からはみ出しそうなくらいぎっしりと載っている。そのうちの一つの広告に記された電話番号にかけると、女性が電話口に出て、「アダルト」な会話ができる――、これが Q2を利用した典型的な「アダルト」サービスだ。また、 Q2の伝言機能を使って、遊びの相手を探している男女が連絡を取り合う、などというのもこの頃マスコミに盛んに取り上げられていた利用法だ。  問題は、利用者の中にかなりの数の未成年や学生が含まれていたことだった。 Q2サービスの実態が、マスコミで盛んに報道されるようになると、公序良俗の点から NTTは世間からの批判の矢面に立たされた。  そこで NTTはダイヤルQ2を利用できるエリアを局番ごとにどんどん絞っていった。このため、地域によっては、ダイヤルQ2がまったく利用できなくなった。これまではといえば、全国五〇〇〇万回線の電話機すべてで Q2サービスを享受できた。それが一時は、そのうちの三分の二の電話で利用が不可能になってしまった。  もちろんハイパーダイヤルでは、アダルト系のフォーラムやそれに類する伝言利用サービスなどは一切行っていなかった。けれども、このように Q2サービス自体を制限されてしまったら打つ手はない。わがハイパーネットのサービスは、 NTTのこの措置に大打撃を受けたのである。月次収支がやっとプラスに転じようとしていたまさににその時だっただけに、痛手は大きかった。  フォーラムの提携先はどんどん増えるが、売り上げが思ったように伸びない。ダイヤルQ2以外の課金方法も検討したが、代わる方法が見つからない。しかも運の悪いことに、わが社は、このハイパーダイヤルとは別に実施していたマッキントッシュユーザー専用のパソコン通信サービスでも、ダイヤルQ2による課金をしていたのである。  このままでは、商売はジリ貧だ。早急に手を打つ必要があった。

[第 2章]展開   1992年 10月 ~ 95年8月  ハイパーダイヤルは、ダイヤルQ2の規制で出鼻をくじかれてしまった。だが悩んでいても、事態は好転しない。とにかく客を増やそう。ぼくは雑誌媒体と提携を結ぶべく、とりあえず営業活動に力を入れた。  九二年一〇月、新人女性社員を一人連れてぼくが訪れたのは、あるサッカー雑誌の編集部だった。当時はJリーグがスタートしたばかりで一大サッカーブームが巻き起こっていた。これを利用しない手はない。ぼくはハイパーダイヤルにサッカーフォーラムをつくり、スポンサー獲得を急いだ。このサッカー雑誌もスポンサー候補の一つというわけである。  編集部の片隅の応接間で、ぼくは、編集長にハイパーダイヤルのプレゼンを始めた。ざっとこんな具合だ──。  まず、弊社のハイパーダイヤルに、そちらの雑誌の読者専用のコーナーを作り、誌面で告知します。雑誌の告知を見て興味を持った読者はこのコーナーへ電話をかけ、サッカーに関する伝言や会話を楽しむ、というわけです。読者に喜ばれるのはもちろん、雑誌の方でも毎回最新号の発行情報などをタイムリーに宣伝できます。どうです一石二鳥でしょう──。  二〇分ほどでプレゼンが終わった。「いかがですか。雑誌のファンを増やすのにうってつけの手段だと思うんですが」 「……」 「(うーん、駄目かな)、あのお、どうでしょう?」  編集長は口を閉じたまま、机の隅に積んであったはがきの束を取り上げた。そして、こちらの質問には答えずに、「実はさあ、ここにある応募はがきの処理で困ってるんだけど、オタクなら何とかできるんじゃない」と言って、その束をぼくに渡した。「え?」  はがきの束は、雑誌のプレゼント・コーナーに応募してきた読者からのものだった。ちなみにその雑誌の読者プレゼントの中身は、Jリーグの選手が着ていたシャツやシューズなど。ブームの真っ最中だけに、読者の人気たるやすさまじいものがあった。当然のごとく応募はがきの数も数万通という大変な数になった──ということだった。  読者プレゼントというのは、雑誌にとって二つの意味を持っている。まず一つはプレゼントをエサに読者を獲得すること。そしてもう一つは、アンケートはがきに答えてもらって読者の情報ニーズを探ることである。  そういう意味で大量のはがきが届いたというのは、読者獲得というプレゼント第一の目的を果たしたわけだ。ただし、一方で、あまりに大量のはがきが集まると、アンケート結果の集計に手が回らなくなってしまう。すなわち二番目の目的が果たせなくなる。そのうえ、はがきの保管スペースも用意しなければならないという物理的な問題までが生じる。  そこで、この編集長はぼくに、代わりに集計してくれないか、といっているのであった。ぼくはとにかく返事をした。「ええ、なんとかなりますよ」  全然なるわけがない。思わず勢いでイエスと言ったものの、具体的な手段はもちろん、ぼんやりとしたアイデアすらなかった。となりに座っている新入社員の手前、みっともない姿は晒したくない、という見栄も働いていたかもしれない。編集部を後にして、ぼくらは車に乗り込んだ。「どうする?」「どうしましょう?」「うちの機械でさっきの読者アンケートみたいなものを受け付けられるかなあ」  新米社員から有効な答えが返ってくるとは思わなかったが、とりあえずぼくは聞いてみた。「できるんじゃないですか」  きょとんとした顔で、彼女は言った。「おまえなあ」  ぼくはあきれてこの新米社員をにらみつけた。「よくいうよ。技術の事なんかわかんないくせに」「えっ、でも、できるとおもいますよ」  なかなかにめげない子である。「ほんとかよ」  たわいないやりとりの間、ぼく自身は技術的にはなんとか実現可能じゃないか、と思い始めていた。それにしても、この新人社員のポジティブといえばポジティブ、何も考えてないといえば考えていない楽観主義にはあきれてしまった。  でも、今のぼくにはこのくらいの楽観性が必要だった。ダイヤルQ2の規制が進めば、いくら営業に力を入れようがハイパーダイヤルの事業が好転することはまず考えられなかった。そんな時にあまり深刻に考え込んでもしょうがない。とにかく商売のネタになりそうな話は、たとえどんなに小さなものであっても拾ってしまおう。  そう思って訪れたのが例のサッカー雑誌の編集部だった。で、我々は、とりあえずネタになりそうなものを一つ、拾ってきた。このネタを事業化できるだろうか。ぼくは、「できるとおもいますよ」と軽く答えた新米女子社員の一言にかけることにした。  数週間後、ぼくの頭には新しい事業のアイデアができあがっていた。骨子は実に単純だ。要するに、はがきを使う代わりに、電話でプレゼント応募の受付とアンケート調査をするのである。それも人が対応するいわゆるテレマーケティングではなく、コンピュータを利用した音声応答装置を活用する。こうすれば、人件費の節約になり、一通話あたりのコストを相当下げることができる。実現すれば、件のサッカー雑誌の編集長の悩みを解決するばかりでなく、我々に新たな事業への道を開いてくれるはずだ。  もちろん問題はあった。当選者に実際にプレゼントを送るためには相手の住所が必要だ。アンケートの回答自体は、プッシュボタンで音声ガイダンスにしたがって入力してもらえれば簡単に集計できるが、住所や名前といった情報は、この方法では集計できない。相手に話してもらいその音声をもとに集計するとなると、相応の技術がいる。が、逆にいえばこの問題を解決する技術を持てば、当社にとって商売上の強力な武器になるはずだ。  ぼくはこのアイデアを事業化すべく、一般消費者から寄せられる住所や氏名を効率よくテキストに変換するシステムの開発に着手した。とはいっても、音声認識なんて高度な技術がうちの会社にあるわけがない。無論、そんな機械も持ってない。ならば、どうする。  こんなときは、頭を使う。音声認識とはそもそもなにか。簡単に言えば、ひとのしゃべった音声をしかるべき機械が認識して、テキストデータに「書き

起こす」システムである。今回の場合、電話でユーザーが伝えた音声情報の中身を「効率よく」テキストデータに変換する「仕組み」をつくれば、それは音声認識システムを利用するのと結果として変わらない。「音声 →テキスト」変換の作業自体は、別に「しかるべき」機械を使わなくてもいいのである。極端な話、もしできるならば、猿に任せても構わない。クライアントにとって重要なのは、どんな技術で情報を処理するかではなく、いかに速くいかに安く処理するか、だからだ。  ここまで説明すれば、だいたいわかるだろう。ぼくの考えた方法では、機械の代わりに人間を使う。オペレーターが、ユーザーから電話を介して伝わった音声情報を聞き取り、そのままテキストデータとしてパソコンに入力する。種を明かせば、馬鹿馬鹿しいくらい単純なやり方だ。  ただし、オペレーターもプロを使うと高くつく。だからといって新米に任せると聞き取りに時間がかかり、入力が遅れる。そこで、もう一度頭を使う。今回の場合、聞き取ってほしい情報とは、ユーザーの「住所」である。ということは、オペレーターに求められるのは、ユーザーが電話口で伝え、いったん録音された住所を間違えることなく聞き取り、入力することである。すなわち、未熟なオペレーターでも正確かつ素早く住所を聞き取れるような工夫が必要だ。  ぼくはいろいろ考えた挙句、まず、都道府県から市町村、さらに細かな町名まで、とにかく日本全国のあらゆる地名のデータベースを作ることにした。オペレーターは、このデータベースから応募者が言った住所と合致する地名を端末画面から探し、選択するわけだ。こうすれば、高給で熟練オペレーターを雇う必要はない。作業が簡単だから人集めもたやすい。  もちろん改良しなければならない点はいくつもあった。本格稼動後にわかったことだが、例えば、「なまり」の問題。ユーザーの発音になまりがあるとオペレーターも住所を認識できなくなってしまうことがある。それから、ユーザーがよどみなく自分の住所を言えるとは限らない。すなわち、言葉のあいだに、「あー」「えー」「う ー」などと間投詞を入れてしまうケースが多々ある。そうなるとオペレーターの聞き取りや打ち込みにどうしても時間がかかってしまう。  そのあたりは、仕方がない。ベンチャー事業のしょっぱなに問題はつきものだ。  一一月、つぎはぎだらけではあったが、なんとかシステムが完成した。ぼくはこのシステムに IMS( Interactive Marketing Service)という名をつけ、営業を開始した。営業部隊、といってもメンバーはたった二人。ぼく、そしてぼくと一緒にサッカー雑誌を訪れた新人女性社員である。   IMSの売り込み先としては、さまざまな分野が考えられた。開発のきっかけとなった雑誌のアンケート調査はもちろん、企業の懸賞広告から通信販売まで大規模な電話受付業務のあるところは、すべて商売の対象になるはずだ。我々の試算では、従来の人手(しかも、コストのかかる専門オペレーター)に頼ったテレマーケティングに比べ、 IMSは最大十分の一までコストを押さえることができる。だから、その市場競争力には自信があった。  例えば、ある企業が電話受付による懸賞広告を活用して自社商品に興味のある「見込み顧客リスト」を作成する、と考えてみよう。この場合、従来の専門オペレーターを使ったテレマーケティングは使えない。実際に商品が売れる通信販売の場合ならば、マーケティングコストをあらかじめ商品価格に上乗せすればよいが、懸賞に応募してきただけの客に応対するのに一対話数百円もの費用はとてもかけられないからだ。でも、その問題も IMSの活用で解決できる。マーケティングコストを大幅に削減できる。   IMSが売れる、とぼくがにらんでいたのには、もう一つ理由がある。以前から雑誌や新聞の広告がどの程度効果を持っているのか疑問に思っていた。前にも書いたが、例のハイパーダイヤルでいろいろな雑誌に広告を打ったときにどの程度客寄せに役立ったかが今一つ見えなかったからだ。だからこそ、ぼくは、多くの広告主が自分と同じような疑問を持っているに違いないと感じていた。  広告がどれほどの人間に情報を伝え、さらにそのうちどれだけの人が興味を示し実際に商品を購入してくれるか──。広告主としては、この「広告効果」を具体的に知りたい。そこで IMSによるテレマーケティングの出番である。うまく活用すれば広告の効果を詳細なデータとともに掌握できるからだ。  一例が先ほどから話に出ている「懸賞広告」だ。商品広告の中で電話受付による懸賞を実施すれば、その商品に興味のある人間に関する名前、住所、簡単なプロフィールといったデータを集められる。しかも、広告媒体ごとに掲載電話番号を変えておけば、どの媒体の広告を見て電話した人間が多かったかが判明する。すなわち媒体ごとの「広告効果」がわかるのだ。  消費者にとっても、電話を使ったアンケートは気軽でアプローチがしやすい。たとえ魅力的な懸賞がついていても、懸賞マニアを除く一般の人々にとっては、いちいち官製はがきを買ってきて必要事項を記入して投函するのはかなり面倒な作業だ。それが、 IMSを活用することで、企業の広告に興味を持ったけれどアンケート付きの懸賞にいちいち応募するほどは……といった消費者層の反応も期待できる。  それに、我が社にとって IMSは初期投資のほとんどいらない新規事業だった。ハイパーダイヤルで利用していたリソース(音声応答装置や電話回線やそれらを駆動していたソフトウエア)がすべて流用できたからである。  結局、最初にアプローチをしたサッカー雑誌から受注はなかった。でも受注より大切な事業のヒントをもらったからそれでよしとするか。  この IMSをどうプロモーションするか。ぼくが考えたのは、まず新聞に紹介してもらうことだった。残念ながら当時のハイパーネットに、宣伝費にお金を割ける余裕はなかった。となれば、やはり記事として取り上げてもらうのが、一番効果的である。  ボイスリンクのころから、ぼくは、どんな風にニュースを流せば新聞が記事として取り上げてくれるか、いろいろとノウハウを学んでいた。大手新聞が記事にすれば、下手な広告よりもはるかに宣伝効果がある。いろいろな企業が飛びついてくるに違いない。とまあ、ぼくはやや安易に考えていた。さっそく、うちに取材に来たことのある何人かの新聞記者にプレス・リリースを送った。  ところが、待てど暮らせど、誰も取材にこない。  考えてみれば、まだ何の実体もない話である。いかにユニークなアイデアであろうと、すぐに新聞記者が飛びつくだろうというのは、いささか身勝手な考えだった。どうやら、自分の思いつきに酔いすぎた。  こんなときはどうする。やはり、地道な営業しかない。自らの足で営業しなければ、どんなに良いものでも売れないのだ。正攻法でいこう。ぼくはメディア頼りの甘っちょろい態度を改め、広告代理店という広告代理店を片っ端から訪問することにした。  九二年一二月、ぼくは中堅広告代理店、エスピー三晃を訪問した。知人がそこの専務と面識がある──、この会社とのコネクションはそれだけだった。名刺を交換したぼくは、いつものように IMSのプレゼンを始めた。  しかし、専務の反応は今一つだった。「うーん、ピンとこないなあ」「え、どうしてですか。顧客に対するサービス水準も上げられるし、潜在需要も把握できる。一石二鳥じゃないですか」「いやね、そもそもの話、電話で、というのが引っかかるんですよねえ」 「?」「板倉さん、うちのクライアントは結構大手が多いんですよ。例えば、日本航空さんとかヤマハ発動機さんとかね。で、このクラスの企業のサービスや商品を購入するお客さんは、電話で受け付けるっていうのは、嫌がるんじゃないですか。ぼくはそう思うなあ」

そんなことはない。反論したかったが、反証材料は何もない。ぼくは IMSを利用したマーケティング効果について力説したが、もはやほとんど相手にしてもらえなかった。  営業を開始して二カ月、受注はまったくなかった。当初の意気込みはどこへやら、ぼくは暗い年末年始を送る羽目に陥った。  年が明けて一九九三年正月。唐突だが、ぼくは元気を取り戻した。新年早々、 IMSの受注を成し遂げ、何とかこの会社を軌道に乗せよう──、何の根拠も無かったが、ぼくはこんな具合に意気込んでいた。落ち込んでいたのはほんの一〇日前のことである。そんなすばやく立ち直れるのか?  そう思われてもしょうがない。ここで立ち直ってしまうのが物心ついた頃からのぼくの性分なのである。そもそもこの程度でずっと落ち込んでいたら、ベンチャー経営者なんかやってられない。  一月七日、ぼくは、新年初出社の朝に、日本中のどの会社もそうであるように全社員をオフィスに集め、新年の挨拶を行い、気勢を上げていた。だが、元気がよいのはどうやらぼくだけのようだった。目の前の社員たちはあからさまに元気がない、少なくともぼくにはそう見えた。  困ったもんだ、内心いらいらしてきたところに、一本の電話がかかってきたのである。  近くにいた社員が電話をとった。「社長に御電話です」「誰からだ?」「広告代理店です。ええっと、えす、えすぴ……」  電話は、エスピー三晃からだった。昨年専務のところにプレゼンに行ったときは、まったく気のなさそうな様子だったのに……、ぼくは受話器をとった。「板倉社長ですか。あけましておめでとうございます」  電話の向こうから聞こえてきたのは、専務の声ではなかった。「この前、弊社の専務と同席させて頂きました × ×です」  思い出した。専務の横に座って、ぼくのプレゼンを聞いていたエスピー三晃の若い営業マンだ。あの時は、専務の陰に隠れていたせいもあって、ほとんど言葉を交わさなかった。その彼がいったい何の用だろう。戸惑っていると、彼は言った。「ぜひ、当社で IMSを使わせてください。お願いします」  さすがにぼくも驚いた。新年早々いきなり初の受注が決定してしまった。それにしてもどういう風の吹き回しだ。受注した嬉しさに酔う、というよりは、事態の急展開をいぶかしむぼくに、電話口の相手は、「ハイパーネットさんが弊社にいらしたわりとすぐ後の話なんですけど……」と説明を始めた。「ほら、あのときも名前の挙がってたヤマハ発動機、そのヤマハさんが、うちも含めた広告代理店四社に対し競合プレゼンをやったんですよ」  競合プレゼンというのは、一つの広告クライアント──ここではヤマハ──が、複数の広告代理店に企画内容や請負価格などの面で競わせ、最終的にどの代理店に広告を依頼するかを決めるものである。彼の話では、ほかの三社はいずれも名の知れた大手広告代理店だったという。「ところが、最終的にヤマハさんが指名したのは、うちだったんです」  ははあ、そういうことか。ぼくにも察しがついてきた。彼は喋りつづけた。「実は、この前お会いしたときは口にしなかったんですが、板倉社長のお話を聞いたとき、私、ハイパーさんの新しい事業、 IMSでしたっけ、あれ、結構広告の世界で使えるんじゃないかと、まあ、そう思ったんです」  そこで彼は、ぼくと会った直後のヤマハのこの競合プレゼンに IMSの活用を想定した企画を盛り込んでみた、という。「そう、そうしたら、ヤマハさんからこう言ってきたわけです。エスピーさんのあの電話で受付をやるマーケティングのアイデア、あれ、ぜひうちの広告でやってください、と」  さて、この電話を切った後、ぼくは喜んだか?  喜んだ。記念すべき初受注である。喜ばないわけがない。社員の皆にとっても、正月早々の吉報である。でも、実のところ、せっかく仕事が入ったにもかかわらず、ぼくは喜びよりも心配が先に頭をよぎった。──本当にシステムが動くだろうか?  かくして、ぼくたちはその日から連日徹夜で準備作業にとりかかることになった。  ヤマハがエスピー三晃に依頼したのは、自動車・オートバイ関係の業界団体、日本自動車工業会の告知広告である。若者の原付バイクの無免許運転増加を防ぐべく免許取得を呼びかけ、免許を取るための教則本やヘルメットなどをプレゼントする、というのがその内容だった。このプレゼント企画で、当社の IMSを利用し電話で応募できるようにする。  クライアントのヤマハにしてみれば、プレゼントの応募者を増やせる上に、これから原付バイクの免許を取ろうと考えている消費者のリストが手に入る。一石二鳥の仕掛けだ。広告掲載は一カ月後の九三年二月。時間はほとんどなかった。  まずは広告を見た消費者が電話をかけたときに流れる音声ガイダンスを作らなければならない。ハイパーダイヤルのころから仕事を頼んでいたアナウンサーにいろいろと手直ししながら音声を録音してもらうことにした。  一方、技術担当の筒井は、この音声を応募者のプッシュ操作に沿って適切な音声が流れるようにプログラムを進めていった。もちろん利用者が発した住所や氏名をどんどんコンピュータのハードディスクに記録していく。そしてさらにその録音された音声を端末で聴けるようにして、テキスト変換する仕組みである。  という具合に、プログラムづくりから音声の編集、バイトのオペレーターの手配などなど、やることは膨大にあった。スタッフ全員、ほとんど毎日徹夜状態である。  締切まであと数日、とりあえず準備は整った。システムの稼動テストのために、ハイパーネットの全社員六人、それにぼくの友達を総動員し、実際に電話をかけてもらってテストを繰り返した。  とりあえずシステムは動くことが、このテストでは証明された。とりあえず、としかいえないのは、実際に広告掲載されれば、とてもじゃないがこのテスト程度の人数とは比べものにならないほどの電話がかかってくるはずだからである。とにかくやることはやった。後は広告掲載日を待つだけである。  二月某日。日本自動車工業会の広告の載った雑誌の発売日。一〇〇回線ほど用意しておいた IMSの回線は、朝から満杯になった。なんてこった!  やっぱりおれは天才だ!  話が前後するが、この企画が決まった直後、マスコミが IMSの企画を取り上げてくれた。一月二一日付の日経流通新聞が、『ハイパーネット社長板倉雄一郎氏──消費者アンケート電話で回答・集計』という見出しで、「音声応答システムを使った情報サービス会社のハイパーネット(東京・渋谷)は、消費者アンケートに際し、消費者から電話でアンケートに答えてもらうシステムを企画した……」という内容の記事を掲載したのである。   IMSの初仕事は無事終了した。しかも、後日電話をかけてきた応募者のリストなど最終データをクライアントに納品した際に、クライアントは、思いがけないほどの反響が消費者からあったことを教えてくれた。

この広告では、ヘルメットが当たった応募者は自分の頭のサイズを葉書で広告主の自動車工業会に知らせることになっていた。この応募者から届いた葉書の多くに、電話での受付が非常に便利で良かった、というコメントが寄せられていたというのである。これはいける。ぼくは IMSの将来性に確信を持った。消費者がこのシステムを受け入れてくれたからだ。   IMSの活用でカネを払うのは当然ながらクライアントの企業である。が、実際に IMSのシステムに触れる、すなわち電話で各種申し込みをするのは、一般消費者だ。だから、クライアント企業が IMSをいったん採用しても、一般消費者がそっぽを向くようならば、結局 IMSの採用は取り止めになるに決まっている。逆に、消費者が従来の方法に比べこのシステムを便利だと感じてくれれば、 IMSを導入する企業の数は飛躍的に増えるはずだ。ぼくはそう予想した。  九三年三月期、ハイパーネットの二回目の決算が巡ってきた。売上高の欄には、ハイパーダイヤル、ハイパー PCとならんで、わずか一九六万円ではあったが、 IMSのこのキャンペーン広告の売り上げが計上された。  上々、とはまだまだ言えないが、とにかく IMSは動き始めた。  あの広告は、いったいどんな仕掛けを使ったんだ──。   IMSを利用した日本自動車工業会の広告が世に出てから、エスピー三晃には、複数の広告代理店からこんな問い合わせがあったという。しかも、ありがたいことに、こうした問い合わせに対し、エスピー三晃は、ハイパーネット社を紹介してくれたのである。結果、十数社を超える広告代理店から、仕事の話が殺到した。  その中から、 IMS二番目の仕事が決まった。何とあの電通からのオーダーである。クライアントも大手オーディオメーカーのパイオニアだ。一気に大手代理店を介して大口の仕事がやってきてしまった。一五〇〇万円の受注である。もう浮かれている場合じゃない。  過去のビジネスの経験からだが、ぼくには予感があった。これから急速に受注が伸びる。が、その一方で、現時点での IMSは、万全とは言いがたい。サービス体制や営業体制、それにシステムの拡張や安全性を確保するためにすぐにでも改良しなければならない点は山ほどあった。  まず、先に説明した日本全国の住所データベースが完璧ではなかった。郵便局発行の住所リストを見ると掲載されているのに、うちのデータには登録されていない、という住所がずいぶんとあった。このデータベースを完璧なものにする必要があった。  また、そもそも IMSの稼動しているシステムはハイパーダイヤルを流用したものだった。そのためかどうか、いきなりシステムが停止したりすることがままあった。これは大変にまずい。大手クライアントのへたをすると何億、何十億円もかけている広告の受付を代行しているわけである。消費者が電話をかけたら通じないでは、話にならない。  とにかくシステム全体を作り直すぐらいの覚悟が必要だった。  この頃から、ぼくの仕事は広告代理店との折衝が中心になっていった。一九歳のときにゲームソフトのプログラマーとして起業したぼくが、いつのまにか広告代理店と昼夜を通じて付き合っている。なんとも奇妙な感じである。自分の知らない世界だ。  そして、その知らない世界で出会ったのが、ダイレクトマーケティングの専門代理店、電通ワンダーマンダイレクトの担当者、 Hさんである。地味なスーツをきちんと着こなし、いつも猫背で歩いていた。どこか疲れたような印象は、その姿勢のせいだろうか。口数は決して多くないけれども、静かに笑いを取る落語家のような付き合いのよさそうな顔つきをしていた。着物が似合うにちがいなかった。いずれにせよ毒々しいまでの派手志向の人間が多い広告業界には珍しいタイプだった。   Hさんはぼくの話を真剣に聞いてくれた。時に笑顔で、時に驚きながら。彼は、どうやらぼくのやっていることに興味を持ったようだった。「板倉さん、あなたのアイデアは非常に面白い」   Hさんは言った。「広告業界の中からは決して出てこない斬新な手法です」  ぼくの企画は、眼鏡にかなったようだ。 Hさんは、電通ワンダーマンダイレクトを介し、親会社の電通の仕事をいくつも回してくれるようになった。  この頃のトヨタ自動車の広告の大半に IMSが利用されたのをご存知だろうか。対象は、カローラ、クラウン、マーク Ⅱ……、車好きのぼくでも思い出せないほどの数だった。例えば、クラウンの広告。全国版の有名新聞にクラウンのフルモデルチェンジの広告が載る。するとその広告の下のほうに、「クラウンのビデオ、プレゼント」という案内があって、その応募方法に「電話をかけてください」とある。もちろんその電話が着信するのは、渋谷のハイパーネットのビルの中の音声応答装置、つまりぼくの机の目の前にあるマシンだ。  電話がつながると、クラウンのテレビ CMで使われているのと同じ音楽が流れ、イメージ・トークが始まる。しばらくすると、今度は電話口の消費者にいろいろと質問をはじめるわけだ。住所、氏名(もちろんここまでは懸賞応募だからあたりまえである)、年齢、現在乗っている車の車種、年式……とにかくどんどん質問する。  ハイパーネットでは、そこで吸い上げた消費者のプロフィールを順次テキスト・データに変換してデータベース化する。キャンペーンが終わると今度は集計だ。トヨタのディーラーはそれぞれに販売地区を持っている。そこで応募してきた「見込み客」の住所を頼りにディーラーごとに整理し、最後にこの「見込み客」リストを全国に数百あるトヨタのディーラーに FAXで送る寸法だ。リストを受け取ったディーラーの営業マンは、数日前の新聞広告に反応した「見込み客」のリストが手に入る。あとは競合車種に乗っていて、かつ車検切れ寸前の人を狙い打ちにするだけだ。「おめでとうございます。応募されたビデオがあたりました」といった感じで訪問販売のきっかけにするわけである。  これはほんの一例だ。 IMSは数々の実績をあげていった。  電通が動けば、他の代理店も動く。この勢いを利用して、ハイパーネットは次々に大手代理店からの仕事を獲得していった。 IMSの売り上げは一気に伸びた。九三年三月期一九六万円からスタートしたのが翌九四年三月期は三〇〇〇万円、九五年三月期には一億円を超えた。九六年三月期の決算では、 IMSに加え、後ほど詳しく語ることになる新開発のハイパーシステムのライセンス料が手に入り、総売上高七億七〇〇万円を計上、そして経常利益は一億九四〇〇万円を計上した。(ただし、後に会計基準を日本の税制から米国店頭市場ナスダック公開のために米国税制へと変えたことで、この利益は会計上ほとんどなくなったのだが)。  とにもかくにも、 IMSのおかげで、ハイパーネット社はダイヤルQ2の規制以来陥っていた苦境をどうにか脱することができた。いや、それどころではない。どうやらぼくは、まったく新手の手法で広告業界に眠っていた大きな金脈を発見してしまったようなのだ。  ぼくはこの分野の開拓者になったのだ。まったく門外漢の広告市場で。  ハイパーネットが順調に成長を始めたのにはもう一つ大きな要因があった。野村證券の子会社にして日本最大のベンチャーキャピタル、 JAFCOの出資があったのである。   IMS事業をスタートして一年半、九四年九月のことだ。 JAFCOの若い営業マンがうちの会社を訪問してきた。どうやら IMSの新聞記事を見てきたようである。

「西村と申します」  これが、後にうちの社長室(要するにぼくの直属だ)で、ハイパーネットのナスダック公開プロジェクトを担う男との出会いである。そうそう、本書を読み進めばわかることだが、ハイパーネットの社員というのは、この西村のようにもともと取引先だった連中が少なくない。ベンチャービジネスにおける人材確保の常套手段の一つが、この「取引先を社員にする」である。  さて、その日 JAFCOに関する簡単な説明をしただけで帰っていった西村は、数日後、上司である Oさんをつれて現れた。「わかりました。ウチがお金を出しましょう」   Oさんの決断は実に早かった。ぼくの話をちょっと聞いただけですぐにハイパーネットへの投資を決めてしまったのである。株価は一〇万円。それまでうちの株式は額面五万円だった。単純にいえば、一気に会社の価値が二倍になったわけだ。そしてこの日以来、ぼくは Oさんから、資金調達から経営戦略にいたるまでさまざまな仕事上のアドバイスを受けることになった。  それにしても、 JAFCOとこんな形で〝再会〟するとは、正直思ってもみなかった。前にも触れたが、ぼくは事業資金に困って以前 JAFCOを訪れている。しかしこのときは、正直まったく相手にされなかった。ところが、今では向こうの方からぼくのところにやってきて、資金を提供してくれる。ほんの数年で変われば変わるものである。  閑話休題。ベンチャーキャピタル JAFCOが出資する──。これは、近い将来ハイパーネットの株式の公開を意味する。ほんの一年前まで売り上げすらほとんど見込めなかった会社が、一転、店頭公開を目標としている。嬉しい反面、ぼくは戸惑いを隠せなかった。   JAFCOとの付き合いが始まったのと相前後しての話だが、ぼくは、コンピュータ分野のベンチャー企業が集まる「業界交流会」に顔を出した。以前からこの会に参加していた知り合いに誘われたのだ。某ホテルの一室を借り切った交流会には、三〇人ほどのベンチャー経営者が顔を揃えた。  この会自体は特にはっきりとした目的を持ってはいなかった。あえていうならば、業界内の経営者が集まって「人間関係」をつくるのが目的といえば目的か。その程度の会だったから、ぼくも特に何の期待もせず、ふらりと会場に足を運んだ。そこで出会ったのが、 Nさんだった。   Nさんは、会場となったホテルのオーナーの長男だった。歳はぼくよりも一回り以上うえだった。おそらく四〇歳も半ばを越えていただろう。彼はホテル業を継がず、自身で通信関連の会社を起業していた。「板倉さん……でしたよね」  顔見知りがほとんどいないため会場でぼおっとしていたぼくに、 Nさんは声をかけてきた。どうやら新聞や雑誌の記事で、ぼくのことを多少知っているようだった。初対面だったが、ぼくは Nさんと妙に息が合った。そんなこともあってこの日以来、何度となく Nさんとは顔を合わせた。  二人で会うようになって何回目になるだろうか、ある日、飲み屋で Nさんはぼくに突然こう切り出した。「板倉くん、ベンチャーやるんだったら、やっぱり銀行の知り合いは必要だよ」 「……」  ぼくはすぐに返事をしなかったが、彼の言うことは身にしみてわかっていた。ベンチャービジネスにもっとも欠けているもの、それはアイデアでもヒトでもない。カネだ。ところが、日本の銀行というのは、大企業の看板か土地か株を持っていないものには基本的にカネを貸してくれない。だからこそ、銀行とのコネクション作りは、すべてのベンチャー経営者共通の課題といってよかった。「で、実はさ。板倉くんに、ちょっと紹介したい銀行の人がいるんだ」   Nさんは目のふちをほんのり赤くした顔をこちらに向け、ぼくに二人の銀行マンを紹介することを約束してくれた。  最初に紹介された高山照夫は、三和銀行の行員だった。ベンチャービジネスに強い興味を持っていて、一銀行員という立場を離れ、個人的にネットワークを広げているらしい。彼は Nさんと一緒にぼくのオフィスにやってきた。彼はしばらくして後、銀行を辞めて、ハイパーネット社の監査役に就任する。取引先転職組の第二弾だ。   Nさんが紹介してくれたもう一人の銀行関係者は住友銀行丸ノ内支店の支店長(後に日本橋支店長)を務める国重惇史氏。くにしげ、名前からして大物のにおいがする。  都銀支店長を呼びつけられるほどぼくは偉くない。 Nさんに付き添われ、こちらから国重さんのオフィスを訪れることにした。ぼくはそれほど期待はしていなかった。生まれてこのかた、銀行の支店長なんかに会ったことがない。それに恐らく向こうだってこちらのビジネスの中身を理解できないだろう。ま、とりあえず、名刺を交換して、うちの会社説明でもできればよしとしようという気持ちだった。  秘書の女性に連れられて、ぼくたちは「支店長室」と記されたドアの奥へと進んだ。  忙しい最中、ベンチャービジネスの経営者なんていうどこの馬の骨だか分からない奴の話なんぞを聞くのは時間の無駄なんだが──といった表情の倣岸不遜の中年男がソファにふんぞり返っている様を想像していたぼくは、拍子抜けした。  目の前に立っているスーツ姿の男性は、満面の笑みを浮かべて、我々を出迎えてくれたのである。「いらっしゃい、どうぞこちらへ」「はい、失礼します。お忙しいところ時間をいただきましてありがとうございます」「いやいや、こちらの方こそ。ところで Nさん。どう、最近の調子は」  挨拶もそこそこに、国重さんは Nさんと話を始めた。「いやあ、まあまあですね。国重さんの方はどうですか」  どうやら、 Nさんと国重さんはずいぶんと仲が良い様子である。しかも、話の内容はどうやら仕事とはまったく関係がなさそうだ。いずれにせよ気さくな人だ。想像していた都銀役員のイメージとは随分違う。  おっと、仕事を忘れちゃいけない。二人の会話が途切れるのを見計らって、ぼくは IMSの説明を始めることにした。 「IMSは、アンケート調査とか懸賞応募に利用すれば、絶大なる効果があります」「ほほう」「実際にですね、大手のクライアントが、ほら、こんなにいるんですよ」「へえー」  国重さんは、にこにこしながら、ぼくの話を聞いている。親戚のおじさんに学校の成績の話をしている小学生になった気分だ。  初対面だったが、ぼくは国重さんのことが好きになっていた。銀行の支店長なんかにおれのやってることがわかるわけはない、と勝手に決め付けていた。でも、国重さんはどうやら想像していた人種とは違うようだ。ぼくの話が本当に理解できているのかどうかはわからない。が、少なくとも、彼は聞く耳を持っている。  この日は、事業のさらっと説明をしただけで帰ることにした。国重さんに会えただけで、ぼくには十分に収穫があった。  そしてこの国重さんが、後にぼくのビジネスの成功と挫折の大きなカギを握ることになる。

JAFCOから投資の話が舞い込んでから、ぼくのところには急にいくつものベンチャーキャピタルがやって来るようになった。その数ざっと一〇社以上。経営資金は多いに越したことはない。ぼくは積極的に彼らに対応をすることにした。  とはいっても、むやみやたらと金の無心をベンチャーキャピタルにするような真似だけは避けていた。というのも、九五年ごろ世の中はベンチャーブーム。とにかくベンチャーと名がつけば、ベンチャーキャピタルはどんどん企業に金を出していた。供給過剰気味といっても過言ではなかった。  だからこそぼくは、彼らから出資の申し出があっても、じっくり契約内容を吟味することにしておいた。経営にうるさく口を出してくるのではないか、株式公開を急がせるのではないか──。こちらからすれば不安はいくつもあったからである。  そんな中、ぼくは、船井キャピタルの担当者と知り合った。富士銀行から船井キャピタルに移った彼は、もともと新聞記事で当社に興味を持って来社してきたベンチャーキャピタルの一担当者に過ぎなかった。  しかし、銀行出身だけに彼の言葉には、妙に説得力があった。特に彼の資本構成に対するアドバイスに、ぼくは耳を傾けるようになっていた。彼によれば、ベンチャー企業の資本構成を考える際にポイントとなるのは、資本参加するベンチャーキャピタルをどう組み合わせるかという点だった。一つのベンチャーキャピタルに頼ってしまうのはリスクが大きい。かといって、やたらに多くのベンチャーキャピタルから金を引っ張ってくるのも、船頭多くして……、ということになりかねない。銀行系、証券系、それに独立系のベンチャーキャピタルをバランス良く組み入れて、資本の充実を図るべきだ、というわけである。  なるほど。ぼくは膝をたたいた。こんな視点でベンチャーキャピタルを組み合わせて活用すればいいのか。当社には実に都合がよい考え方だ。まず、株式の公開を前提にするならば、証券系のベンチャーキャピタルは大きな力になってくれるだろう。経営規模を拡大する上で銀行との関係は欠かせないから、銀行系との付き合いも当然必要だ。そして、親会社を持たない独立系も資本参加してくれれば、証券や銀行の立場とは違った立場から経営に対する意見が聞ける。  ぼくは彼のアドバイスにしたがって、第三者割当増資を実行することになった。  九五年一〇月、第三者割当増資とワラント債の発行がきまった。独立系からは船井キャピタル、銀行系からはすでに当社で唯一借入れの実績のあるさくら銀行系列のさくらキャピタル、それに今後の事業展開に絶対に欠かせないリースをしているオリックス系列のオリックスキャピタル、それにもう一つ、日本長期信用銀行系の NEDが新たに出資することになった。証券系はすでに JAFCOからの出資を受けていたから、今回は加えなかった。トータルの出資額は二億円。そのすべてをワラントの発行という形を取った。ワラントのうち一五%を彼らベンチャーキャピタルが取得して、残り八五%をぼくと個人出資者の郡司さんのストックオプションとしたわけである。  この結果、ぼくとベンチャーキャピタルとの関係は非常に強まった。そしてぼくは、船井キャピタルや NEDに、最後の最後まで世話になることになる。  振り返ってみても、九四年終わりから九六年初頭までの金融機関の投融資攻勢はすさまじかった。  そういえば、「第三次ベンチャーブーム」などという言葉がメディアを飛び交っていた。  ベンチャーにお金を出すのが使命のベンチャーキャピタル以上に、銀行本体が融資に熱心だったことを、ぼくはよく覚えている。渦中にいたぼくは、そのとき冷静に状況を把握できていなかったが、いま当時の新聞記事を眺めてみると、自分がどんな流れの中に身を置いていたかがよくわかる。  九五年七月一七日付の日経金融新聞には、こんな記事が載っている。『都市銀行がベンチャー企業の開拓を目指して無担保・無保証融資や新たなベンチャーキャピタル設立などに動き出した。資金需要の低迷を成長企業への融資で打開する一方、投資先の株式を保有して新たな含み益を作るのが狙いだ。  だが高いリスクを負担し創業間もない企業を育てていく難しさは過去二回のブームで経験済みだ。成否のカギは未知の技術を評価する手法の確立と末端の行員に至るまでの意識改革。成長企業を取り込み、三度目の正直とすることが出来るか』  出来なかった、のだな、とぼくは思う。少なくとも当社の倒産は、まさにこの記事に書いてある各行の相次ぐ無担保融資とその後の貸し渋りが直接の原因だったからだ。  しかし、九五年時点でそれを予測できた人間は、ぼくはもちろん銀行にもほとんどいなかった。それは、当社に融資をしてくれた銀行が、この頃ベンチャービジネスにいかに大きな期待を寄せていたかを見れば、一目瞭然だ。  たとえば、後に当社のメインバンクとなる住友銀行は他行に先がけて、九五年の三月にバンダイと共同でマルチメディア産業への投融資を目的に新会社、マルチメディアファイナンスを設立している。同年一一月一五日付けの日経産業新聞の記事によれば、「融資の対象は映像・音楽ソフトや教育・ゲームソフト、将来はビジネスソフトも手掛けたい」だそうで、ソフトの評価から融資までを一貫して手掛けるのが目的だったようだ。この会社がいまどうなっているか、ぼくは知らない。  それから同年一一月七日の日経産業新聞にはこんな記事もある。『日本興業銀行がソフトの著作権、特許権など知的所有権を担保にした融資に踏み切ったのをはじめ、あさひ銀行がニュービジネスにかかわるベンチャー企業との取引を強化するなど、各金融機関は矢継ぎ早にベンチャー支援策を打ち出している』。興銀にあさひ、どちらも当社の取引行である。  さらに、もう一つのメイン取引銀行、日本長期信用銀行は、九五年四月一九日付日経産業新聞の記事によれば、こんなことをやっていた。『日本長期信用銀行で、「新与信管理手法の策定」というプロジェクトが進行している。担保になる資産は乏しいが、技術開発や創造力に優れている企業への融資基準を作ろうという試みだ。営業企画部と審査部の部員が中核となり、長銀総合研究所や海外支店のメンバーも議論に加わる』  ありがたくて涙が出る。まるでハイパーネットへの融資基準をつくってくれているようではないか。この記事の掲載日の二年半後に当社が倒産し、さらに三年半後に当の長銀そのものが経営危機に陥っていることを思うと、さらに涙が出る。  今だから言えるが、このとき日本の銀行は、はじめてベンチャーに本格的にカネを注ごうとしていた。資産担保に頼らず、相手の技術力や将来性に融資するという発想は、保守的な銀行界において、実に新しかった。なんの後ろだてもないぼくに、後に大きな融資を実行してくれた住友の国重さんは、まさにそういった新時代の銀行の象徴だった。  残念ながら以上の動きは「ブーム」で終わってしまった。追い風に乗り切れなかった我々ベンチャーの力の足りなさ、国際化やビッグバンの波にさらされ、あっという間に方針を変えざるを得なかった日本の銀行の根本的な体質の問題、おそらくどちらもがこの動きを止めた原因なのだろう。  いずれにせよ当社はこうした銀行のベンチャーへの融資ブームの先行事例だった。むろん、二年後、今度は〝貸し渋りブーム〟の先行事例にもなるのだが。  さて、話を九五年当時に戻そう。   IMS事業は順調に成長していた。  ぼくの仕事といえば、こちらのミスでトラブルが発生したときに謝りに行くこと、それに増え続ける受注をさばくための設備投資を承認する、それくらいだった。業績も上がっていたから、もはや設備投資のための資金調達でぼく自身が走り回ることもなかった。財務部門が勝手に話を進められるような状況

になったのである。  そんなわけで、ぼくは、このころから自分の仕事時間のほとんどを来るべき株式公開のための準備に注ぐことになった。株式公開?  左様、株式公開である。なぜ、いくつものベンチャーキャピタルがわがハイパーネット社に貼りついているのか。当然、当社の株式公開が目的だ。  毎日、会議、会議の連続である。公開コンサルティング会社との会議、当社に設置した公開プロジェクトの会議……。ぼくの予定表は、財務会議に公開コンサルティング会社との会議で埋め尽くされた。  会議の内容といえば、ほとんどが就業規定や社内管理システムの構築など総務的なものばかりである。はっきりいって退屈極まりない。会社の資産に番号を振って資産管理をしろ、あなたは社長なのだから車を自分で運転しちゃ駄目──。勝手気ままにやってきたぼくからすると、ほとんど金縛り状態を強いられる「命令」が次々と下された。  総務からは就業規則の原案ができたので見てくれと依頼され、財務からは支出の管理のための伝票ができたので一万円以上は社長がハンコを押せと指図され……、ええい、そんなの誰か適当にやっといてくれよ!  ぼくは自分のエネルギーをもてあますようになっていった。 IMSの業績から判断すれば、株式公開は近い将来できるはずだった。でも、何かが今のビジネスには欠けていた。もっと別の何かが欲しい。もっと刺激的なビジネスがやりたい……。  ぼくの中で、「いつもの」欲望がむくむくと湧き上がってきた。

[第 3章]ハイパーシステム   1995年9月 ~ 97年1月  一九九五年は、日本で「インターネット」なるものが本格的にブームになった年である。専門雑誌がいくつか立ち上がり、インターネットの名がついた本がやたらと書店に並んだ。  とはいっても、一般人の間でインターネットの人気が沸騰している、というわけではまだなかった。背景にはいわゆる「マルチメディア」ブームがあった。今聞くときわめて曖昧なこのマルチメディアという言葉の持つ意味をもっとも具体的に見せたのがインターネットだったわけである。世界中を結んだネットワークに個々人がパソコンを介して自由に情報を受発信できるというインターネットのイメージは、まずマスコミや一部の企業の気を引いた。そしてコンピュータ業界全体がインターネット人気を既成事実化してしまおうと動き回る、というのが当時の構図だった。個人ユーザーの間に本当のブームがやってくるのは、九五年後半にウインドウズ 95が発表されてしばらくたってからである。  その意味では、当初のインターネットブームは、実際にはあくまで業界内のレベルにとどまっていた。ただし業界関係者は、すでにその先をにらんでいた。パソコンの普及や回線使用料の値下げが進めばいずれブームの中心は一般の消費者に移行し、「インターネット」というキーワード自体が一つの市場となるはずだ──皆、未知のマーケットの広がりをこのように夢見ていたわけである。  この予測は、あながち的外れでもなかった。インターネット先進国の米国ですでにそんな動きが現れていたからである。  一九九五年、米国内のインターネット利用者は電子メール利用だけも含めるとすでに二〇〇〇万人前後といわれ、産業界ではインターネット・ビジネスにおけるデファクトスタンダード(事実上の標準)の確立を目指し、さまざまなベンチャーが我先にと立ち上がっていた。また、その中で成功した企業が米国の店頭市場、通称ナスダック( NASDAQ)への登録を始めていた。  ぼくが、自分にとって今までで最高のアイデア──しかもインターネットを活用した──を思い付いたのは、そんな年の九月のことだった。ぼくはこのアイデアを追求し事業化した。周囲もこのアイデアを褒め称え、事業に一枚かもうとしてきた。そして、ジェットコースターを思わせる二年間の狂騒の時が訪れた。  もっとも、このジェットコースター、レールの最後が空中で途切れていたのであるが──。  周囲がインターネット、インターネットと騒ぎ始めた最初の頃、正直いって、ぼくはいささか冷ややかな目で、ブームを眺めていた。  インターネット自体は割合と早くから使っていた。ハイパーネット社では創業時からさっさと導入していたくらいである。でも、それをビジネスにするつもりは毛頭なかった。ゲームソフトを作っていた人間がこう言うのもなんだが、コンピュータが嫌いだったからだ。  ぼく自身、ゲームソフトまで制作していた経験がある。だからだろう。ぼくは、コンピュータの限界、使いにくさというのを嫌というほど知っていた。それゆえ、仕事の効率を上げるためにコンピュータを積極的に利用することはあっても、コンピュータそのもので消費者相手のビジネスをやろうという発想はまったくなかった。こんな面倒くさい代物を一般のサラリーマンや主婦、学生が嬉々として自分から使うわけはない──。まあ、そう思っていたのである。  ところが、ぼくの冷めた視線をよそに、インターネット・ブームは凄まじいスピードで加熱していった。無論、さきほども記したように多数の消費者がどっと利用し始めたというところまではまだ進んでいなかった。しかし、コンピュータ間連業界やマスメディアは、パソコンもまだ満足に普及してないこの日本の一般の方々みんなが近い将来この米国渡来の国際情報網を活用する、と声高に主張していた。そして、その主張に踊らされる企業があっちでもこっちでも出てきていた。  インターネット?  関係ないね、うちの商売とは。ハイパーネット社は IMS事業を中心に我が道を行く──。そんな道の選び方も今にして思えばあったかもしれない。  でも、実際にぼくとぼくの会社が進んだのは別の道だった。  個人的にはコンピュータもインターネットも好きではなかったぼくが、世間のこの動きに反応してしまった最大の理由。それは「恐怖」だった。そしてその恐怖の原因は、 IMSの成功にあった。  二〇歳前後から社長業一筋のぼくは、決して楽な道ばかりを歩んでいたわけではない。ここまで読んでくださった読者の方ならば、すでに詳しく記したからおわかりだと思う。カネに困ったこともあるし、社員に逃げられたこともある。ただ、根っからの起業家にして楽天家のぼくにとっては、そんな苦労自体も楽しいゲームの一環ととらえていた。何もないところから自分自身で何かを作り上げていくことに興奮と満足を覚えていた。  その感覚が、 IMSの業績が上向いて株式公開の話などがちらつき始めるにつれ、ぼくの中で恐怖や不安へと変っていくようになった。しかも、前項の最後にも書いたように、 IMSという仕事そのものにぼく自身が飽きてきた。  次の「何か」を始めたい。次の「何か」を始めなきゃ。新規事業への欲望と、現在のささやかな成功に対する将来への不安。この二つがぼくを駆り立てた。インターネットの分野へと──。  ただしここで一言いっておくと、インターネット分野への進出を真剣に考えるようになったのは、別に流行に安易に乗ろうと思ったからではない。  ぼくには一つの理念があった。それは「いかに自身の事業をつぶせるか」である。誰もが自分の事業の永続を願っている。しかし、時代が、環境が変れば、一つの事業が同じ様相で生き延びることはできない。ならば、どうすればよいか。その事業の当事者が先回りして「この事業はどうやったらつぶれるのか」を想定し、原因を先に突き止めればよいのである。  では、 IMSがつぶれるのはどんな時だろうか。ぼくの結論は、将来 IMSをつぶすのは競合企業でも、経済恐慌でもない。コンピュータやインターネットを包括したマルチメディア技術の発展と普及である、ということだった。ちょっと考えればわかるが、 IMSのサービスは、原則的にパソコン端末とインターネットで代替可能である。しかも、収集したマーケティング・データの加工のしやすさやサービスの拡張性を考えれば、むしろこうしたマルチメディアの活用の方に軍配が上がるのは論を待たない。  そんなわけで、九五年の夏頃から、ぼくはインターネットを利用したビジネスを発見しようと毎日頭をひねるようになった。  公開業務や社内の管理体制構築といったいわゆる事務系業務が増える中で、こんなに楽しい「仕事」は他になかった。社内にインターネットを完璧に利用できる環境を作り、毎日いろいろなホームページを覗いたり、わざわざ電子メールを社内に完備して、手を伸ばせば隣の社員の肩に届いてしまうような狭いオフィスの中でのコミュニケーションも電子メールでこなすようにした。さらに社員全員の名刺にアドレスを印刷した。人に会うたびに相手のアドレスを入手し、とにかくパソコンのアドレス帳を増やしていった。  朝出社してパソコンを立ち上げる。このときにメールが一通も届いていないと実にさびしい。そこで十数人の社員全員に日報をメールで送らせる。これで朝出社すると、パソコンの中はメールの山である。毎日が実に楽しくなる。メールを返信するときも、必ずさらなる返事が来るよう書いた。かくして

メールの件数はどんどん増えていく。  メールの処理が終われば、今度はホームページの「覗き」を開始する。そう、「覗く」という表現がぴったりの内容のホームページをインターネット上でどんどん発掘しては、一人ディスプレイに顔を寄せてにやついたり、つばを飲み込んだり──。どんな類のページかはあえて描写しなくてもおわかりになるだろう。小さいとはいえ、一企業のトップが真昼間から、インターネットで「覗き」をやっているというのは、かなり変態的な行為である。  という具合に、ぼくはインターネットを日々積極的に「活用」することで、新しいビジネスの種を模索した。本当にそれだけが目的なのか、といわれるといささか困るが。  ともかくインターネットの世界は、実際にアプローチしてみると、ぼくが想像していたよりもずっと間口も広いし、奥も深いということが分かってきた。それをどうビジネスに結び付けるか。さまざまなアイデアが頭の中に浮かんできた。浮かんだアイデアを検証する──その繰り返しが毎日毎時間の仕事となった。  しかし、いくら考えても自分自身で「これだ!」と納得するようなものは、さすがになかなか出てこなかった。  納得できない理由はいくつかあったが、一番大きな理由は、果たしてそのビジネス・アイデアが自分や自分の会社がやるべきことかどうかであった。つまり、ぼくの思い付いたアイデアはどれも、確かに便利な内容だがなにも我々が率先するまでもなくほかの会社でも十分できるだろう、というレベルのものばかりだったのである。  九五年の、それは九月に入ったばかりの頃だったと思う。  インターネット・ビジネスを模索し始めてからすでに二カ月ぐらいたっていた。その日、仕事を終え、六本木で少々遊んできたぼくは、秘書のいいつけを無視して就業時間中も乗り回していた当時の愛車、ダイヤモンドブラックの BMW・ M 5で首都高を抜け、用賀のマンションに戻った。部屋の電気をともさずにテレビをつけ、そのままシャワーを浴びてベッドに入ると、時計の針は二時を回っていた。 TVをつけっぱなしにしながら物思いにふけり、いつしか寝ていくというのがぼくの就寝スタイルだった。  その夜も、酒が軽く回った頭の中で、会社の仕事のあれこれや、最近付き合っている女のことなどが、ゆったりと渦を巻いていた。もちろん、インターネット・ビジネスのアイデアも、である。  一〇分、二〇分、あるいはほんの一分だったかもしれない。脳みその裏でちりちりと蠢いていたさまざまな思考がだらしなく底へと沈み、あまい眠気が襲ってきたそのとき。何かが目玉の奥の方で光った。  この手があるじゃないか  そう思った瞬間、「この手」の「この」がどこかへ消えてしまった。  なんだったんだ、あれは。ぼくは眠りの淵から這い上がり、何とか「この」の正体を突き止めようと、ぼんやりとした脳にむちを入れた。数秒後か数分後か。結局思い出せない。あきらめて眠りに落ちる。「あっ、これだ」、この後に及んでまた思い出す。再び必死に起きて考えをまとめようとする。が、またその「これ」はどこかへ蒸発してしまう。  何度か繰り返しているうちに、ぼくはとろりとした眠りの海に沈んでいった。  目が覚めたのは、朝の九時ごろだった。昨晩から点けっぱなしのテレビからは、朝のワイドショーの耳ざわりな芸能レポーターの声が流れ出していた。それを無視して寝ぼけ眼をこすりながら、ぼくはトイレへと入った。仕事の開始だ。  ぼくの特技は、朝の寝ぼけた状態で一日の仕事の大部分をやってしまうことだった。この仕事というのは、いわば経営戦略と戦術の策定である。今日やるべき仕事の手順、現在の業務の改善点、その具体的手法、さらには新しいビジネスのアイデア……文字通り泉のように発想が湧いて出てくる。むりやり頭をひねっているわけではまったくないのだが、まるで誰かが勝手に水道の蛇口を開けたかのように、次から次へと思考が流れ出てくる。  前日眠りに就く前にあれこれ考えていたことが、一晩熟成されたのち明確な思考となって翌朝現れてくるのだろう。ぼくは勝手にそう思っていた。  昨日の「これ」が突然クリアな映像となって、便座に座りこんだ寝ぼけ頭の中に映し出された。  パソコンの画面だ。そこに写っているのはネットスケープか?  いずれにせよブラウザーソフトだ。どこかのホームページが開かれているようだ。  奇妙なのは、画面の右隅に縦長のウインドウがネットスケープの画面に割り込んで開かれていることだった。ひとめ見てそのウインドウが、ブラウザーソフトの画面分割機能を利用したものではなく、独立した別のアプリケーションソフトであることがわかった。  そしてウインドウには、広告が表示されていた。広告を表示するだけの単純なソフトのようだ。「これ」の正体を突き止めた!  ぼんやりとしたぼくの頭のてっぺんに光が突き刺さり、脊髄を抜けていった。これが、前夜思いついたアイデアだ!  卓抜なアイデアを思いついた人の話を聞くと、ほとんどの場合、入念なマーケティングのもとに理論的に打ち出されたものではなく、瞬間的に脳裏をかすめるものであるという。  ただし、それは単なる思いつきとはおそらく異なる回路で発生するものだ。ある目的や欲求をベースに、日々の情報がその人の脳に断片的に積み重ねられ、あるとき最後のキーが入力されると全体が有機的に絡み合い、新たなアイデアが誕生する。ぼくの場合は、広告やマーケティングに対するこれまでのビジネスで得てきたノウハウと経験、それにインターネットを何とか商売の道具に仕立てようとの欲求が有機的に結びついて、「これ」が閃いたのだろう。  新規事業の行方に、一筋の光が射し込んだ。問題は、トイレの中でぼくの脳みそに浮かんだ画面のイメージをどう具体的な形に落とし込むかである。この作業は、さすがに寝ぼけながらではできない。ぼくは会社に電話をしてその日の予定をすべてキャンセルし、代わりに社内会議の予定を夕方に組ませた。自分のアイデアを数時間で具体化して、社員の前で披露し、彼らの意見や反応を知りたかったのである。ぼくはパジャマ姿のまま、パソコンのスイッチを入れ、ワープロソフトを立ち上げて、メモを作り始めた。  ぼくの頭に浮かんだアイデアでは、ブラウザーソフトと広告表示用のソフトが分離して表示されていた。というよりは、要するに、ぼく自身が分離すべきだと思っていたのである。  映像メディアには、ぼくのアイデアとすでに同じようなことを実践しているものがある。そう、テレビである。ただし、テレビ──この場合、日本では NHKを除く地上波という意味だが──とインターネットには、大きな違いがある。それは「チャンネル数」だ。  テレビの場合、東京を例にとると地上波民間放送局は全部で五つ。もし、ある企業がテレビを使って広告したければ、この五局のいずれかの番組のスポンサーになり、ついでにスポット CMを適当に打てばよい。  ところが、インターネットの場合には、「チャンネル」は無限にある。世界中の企業、各種団体、宗教法人、学校、国家、市町村、個人が無数のホームページを作成し、我々はそのいずれにも基本的には同等にアクセスできる。となると、ホームページを「あるチャンネルのある番組」と見立てた場合、どのホームページに広告を打てば一番効果的かを判断するのは極めて難しい。というよりは、ほぼ不可能である。

テレビ CMのように番組というコンテンツに貼り付いたかたちの広告をインターネット上で展開するのは、きわめて非効率的なのである。個々のホームページに広告を貼り付けても、それを見てくれるのは限られた人たちだ。  それが、ホームページを見るブラウザーと完全に分離したかたちで広告表示できるとすれば、この問題は一挙に解決する。ユーザーがどのコンテンツを見ていようが関係なく広告を見せられるからである。  これが、まずアイデアの第一点目である。  ただし、問題が二つあった。  一つ。まず、広告をただ見せるだけのソフトを開発しても、競争優位性を保つことができない。  おそらくそんなソフトを開発するのに手間はかからないから、事業がうまくいけばいくほど真似をして参入してくる会社が続々出てくる。要するにサービスをもう一ひねりしないと、先行者メリットがほとんど出せないというわけである。  二つ。次に、一般に広告というのはだれかれかまわず見せればいいというものではない。確かに食品や日用品などの不特定多数の人間に宣伝をしたい商品は別だが、多品種少量化の進んだ現代消費市場においては、販売ターゲットを絞り込んだ商品のほうが数にすれば多い。  自動車を例にとると、三〇年前ならば、一メーカーのラインナップは数車種から多くて十数種。ところが現在では、トヨタ・カローラだけでも細かな仕様変えも含めると百数十のバリエーションがあるという。企業側がマーケットを細分化して、ターゲットにマッチした商品づくりをしている証拠である。  となれば、商品の広告戦略も必然的に変わってくる。不特定多数向けに宣伝するのではなく、商品の潜在需要層に確実に伝わるかたちで広告を打つ必要がでてくる。確実に買ってくれそうな人にだけ広告を見せるほうがはるかに効率的である。趣味の雑誌や業界新聞などに打つ広告というのは、こうした戦略のもとに成り立っているといえる。なぜならば、その媒体のユーザーのし好が明確に見えるからだ。  ぼくが思いついた方式では、インターネット上の特定のホームページに広告を打つわけではない。どのホームページを開こうが、広告の方は常に流れている仕組みだ。逆にいうと、特定のユーザー層に向けての広告展開が、このままではできない。  以上二つの問題の解決が、このアイデアの事業化には不可欠である。どうすればよいか、ぼくはすぐに思いついた。すなわちユーザーのデータベースを利用する、という発想だ。  先ほども述べたようにインターネットの場合、テレビに比べてコンテンツ(この場合はホームページ)の種類があまりにも多すぎる。だから、「これは二〇代向け女性化粧品だから、この年齢層の視聴者が多い × ×テレビの月曜 ◎時のドラマに打とう」というテレビ CMのようなパターンは考えられない。  そこで発想の逆転だ。テレビ CMがなぜ番組の中身に合わせて打たれるのか。それは、テレビの場合、基本的にどの番組をどんな人々が見ているか特定できないからである。この番組内容ならば、こんな層の人々が見ているだろう。広告主はそんな類推のもとに広告を打っているのである。  翻ってインターネットの場合はどうか。ユーザーはまず接続業者である「プロバイダー」と契約して、各ホームーページにアクセスする。ということは、プロバイダーと協力してユーザー側に調査をかければ、個々のユーザーのプロフィール(顔)がかなり明らかになる。  そこで、そのユーザーのし好に合わせた形でそれぞれ広告が届くような仕組みをつくってしまう。そうすれば広告主の方も、ユーザーの顔が見えることでテレビ CMよりもはるかに正確にターゲットを絞り込んだ広告展開が可能となる。極端な話、たとえば、二〇歳から二五歳までの東京都世田谷在住の女性を対象に、同区内の三軒茶屋にあるお好み焼き屋の広告を打つことだってできる。  これで問題の一つは解決する。では残りのもう一つ、このビジネスにおける競争優位性はどうすれば保持できるのか。それもこのユーザーのデータベースを利用すれば解決可能なのである。  この方式ではユーザーのデータベースが商売の命だ。いかに質的も量的にも豊富なデータベースを構築できるかが、勝負の分かれ目となる。ということは、いち早くビジネスに手をつけて、より多くのユーザーのより多くの個々の情報を集積した企業が、圧倒的に有利になる。後から参入してくるのがたとえ大企業だろうと、一夜にして大規模なデータベースを構築するのは不可能である。すなわち、先行者の競争優位が成り立つのだ。  要点をまとめるとこうなる。  まずユーザーにとってのメリット。広告がつくことでインターネットの接続料金は軽減され、インターネットは TVの民放のような存在になる。場合によっては無料化もありうる。さらに自分のプロフィールにあった広告ばかりが表示されるので、インターネットの利用価値はいっそう高まる。  次に広告主にとってのメリット。商品に完全にマッチした人たちだけに広告を送ることができるので、非常に合理的に宣伝できる。たとえばユーザーにあらかじめ酒を飲むか飲まないかということに答えてもらえば、酒を飲まない人に酒の広告をしないですむ。その分広告宣伝費を節約できる。それどころか、このシステムが進歩すれば、ある企業の会員にだけ、その会員の名前をつけて広告をするなんていう離れ業もできてしまう。(実際にこの方法は、「ワン―トゥ―ワンメッセージ」という名前で九七年に完成し、当社の倒産寸前に商品化した。たとえばある生命保険会社が、ユーザーの誕生日にそのユーザーの名前の入った広告を流し、「 ○ ×さん、 △ △才の誕生日おめでとうございます。つきましては当社の保険が……」とメッセージを流せるのである)。  最後にハイパーネットにとってのメリット。この方式は、事業を続けるほどユーザーのプロフィール・データベースを蓄積でき、どんどん競争優位性が高まる。アイデアがシンプルなだけに誰でも真似できるが、データベース利用が前提となれば、先に情報をストックした方が勝ちである。  閃いたアイデアはつぎつぎと具体的なイメージに結びついた。非常に興奮に満ち、充実した時間だった。今のうちに考えられることはすべて吐き出してしまおうという心境であった。頭から沸いてくる思いをメモにしていったが、この時ほどワープロを打つのが遅いと思うことはなかった。どんどん沸いてくる考えにキーボードをたたく手が追いつかないのである。  アイデアのすべてをメモにまとめることができたころ、時計を見た。ぼくがトイレを出てからたった一五分しかたっていなかった。九五年秋のことである。  アイデアは浮かんだ。しかしそこで止めては、ただの自己満足にすぎない。ぼくは社内会議の予定を繰り上げてもらい、早々に会社へと車を走らせた。こいつはいける──、ハンドルを握りながら、ぼくは早くこのアイデアを皆に伝えたくてそわそわしていた。渋滞気味の首都高がよけい気持ちをはやらせた。  社内会議は異様な雰囲気だった。一人で興奮しているぼく。何の話かも分からずに強制招集された社員たち。他に仕事があるところを無理矢理連れてこられて、あからさまに不満げな表情を浮かべている者もいた。  一通りこの新しいシステムについての説明を終えると、ぼくは社員の意見を聞いた。「どう思う、早く何か言えよ」  基本的にぼくはせっかちなのである。「いいですねえ、これって行けそうですよ」  こう相づちを打ったのは、営業の女子社員だ。何だか実にいいかげんに調子を合わせているように聞こえる。さらにその後、ぽつぽつ返ってきたほかの社員の反応は、「誰が作るんですか?」「そうだよなあ。それに IMSと並行して売るにはちょっと問題が」等々。

何なんだ、この反応は。ぼくはかちんときた。そんなこと、後で考えればいいじゃないか、要はこのアイデアがいいか悪いか、それが最初で、悪けりゃこれでおしまいだし、良ければそれを実現する手段はそれからいくらでも出てくるじゃないか。それにいきなり現実的な話ばかりじゃ何も進まない。「そんなの、あとで考えればいいことだろう!  それよりこのアイデア自体はどう思うんだよ」  ぼくは苛立って声をあげた。  営業の答え「非常に面白いですね」。  開発担当の答え「技術的に問題はないです」。  一応ポジティブな答えが返ってきた。でも──、ぼくは不満だった。答えの内容ではなく、答え方そのものに。  もっと直感的にいいのか悪いのか、それともよくあるアイデアなのか、ぼくは社員にはっきり言ってもらいたかった。でも無理はないのかもしれない。日々の目の前の仕事に追われている彼らと、ぼくのように先のことばかり考えている人間との間にある程度のギャップがあっても当然だろう。  会社の連中はしばらく放っておこう。そのうちこのアイデアのすごさに気づくだろう。それよりもっといろいろな人たちにこの話を聞いてもらって感想を聞きたかった。  機会はすぐにやってきた。このアイデアを思いついた直後、ハイパーネットは渋谷の別のビルに移転をしたのである。移転挨拶に訪れたたくさんの客の中に、これまで多くの金融関係者を紹介してくれた Nさんがいた。  ぼくは彼をつかまえて、話をしてみることにした。 Nさんはザウルスを使って予定を管理していたり、最近 DOS/ Vラップトップ・パソコンを新調したりして、中年とは思えないほどのコンピュータ好きである。そもそも住友銀行の国重さんにコンピュータを使わせたのもこの Nさんだった。  しかしいくらパソコンの使い手とはいえ、ぼくのアイデアは単にコンピュータのソフトウエアの話ではなく、広くマーケティングやメディアに関する知識がないと理解できない。 Nさんが明快な感想を示してくれるとはそれほど期待をせずに、なんとなく話を始めたのである。  一通り新しいアイデアの説明をすると、彼はぼくの予想に反して、非常に高く評価してくれた。評価が高いということよりもこのアイデアの要点を彼は非常によくつかんでいた。正直驚いた。   Nさんのように、コンピュータ業界の外にいる人がこのアイデアの新規性を理解してくれたのは大きな意味があった。すなわち、普遍的な事業として展開が可能だといえるのだ。しかも、 Nさんは即断即決の人だった。「板倉君、これ、すごく面白いよ。銀行にすぐ話してみよう」  さすがだ。ぼくはうなった。このアイデアを事業化するためには当時のハイパーネットの地力からいって資金が一番の問題であることを、彼は直感的に見抜いたのだ。   Nさんはポケットから携帯電話を取り出し、その場から住友銀行の国重さんに電話を入れた。「国さん、板倉が変わったぞ!すごいことを考えているから一度話を聞いてやってくれ」  ぼく自身は何も変わったところがあったようには思わなかった。が、後から考えると、彼は、ぼくがただの〝ベンチャー屋〟からより大きなビジネスを目指し始めた、ということを言いたかったのだろう。実際にぼくもこの頃から、世界に通用するビジネスをなんとなく意識し始めていた。  数日後、ぼくは Nさんがオフィスを構えるホテルに出向いた。国重さんと会うためである。 Nさんのすごいところは人間関係の調整がうまいところである。ぼくとしてはどうしてもカネがほしいという状態ではなかった。国重さんと面識はあったが、住友銀行との取引はなかった。  こちらがわざわざ取引のない銀行に出向いていくのも自然ではなかったし、逆に取引のない中小企業に大手都市銀行の役員が出向くのも不自然である。   Nさんはそれを配慮して自分のホテルに場所をセットしてくれたわけだ。ぼくは赤坂にある小さなホテルの会議室のような部屋に案内された。応接セットが一セットに小さなテーブルがある。プレゼンにはちょっと都合が悪い。応接セットのテーブルは位置が低すぎて説明しづらいのだ。事業を説明するような書類は何も持っていなかったから、話をしたうえでテーブルの上に置いた紙にぼくが絵を書くしかなかった。  こんな状況でいくら国重さんといえども話を聞いてくれるのだろうか?  まあいい。おれのプレゼンは下手な書類より効果があるんだ。そう自分に言い聞かせて国重さんを待った。予定の時間は一時間。この短い時間でいかに正確に簡潔に、このアイデアを説明できるかがカギだった。  ぼくはプレゼンを繰り広げた。ほとんどぼくだけがしゃべり、国重さんはうなずくだけの一時間が過ぎた。次の予定があるのか、国重さんは、時間を気にしているようだった。  やっぱり銀行には理解してもらえないか。まあ、たとえ理解してもらえても、まずは財務諸表をもってこいというところからスタートするのだろう──、このときぼくは内心こう思っていた。元々すぐにお金が集まるとも思っていなかったので、今日のところは国重さんに会えただけで良しとしようという程度に思っていた。  国重さんが突然口を開いた。「いくら必要なんだ?」  予期せぬ反応に、ぼくは反射的に答えた。「作るだけなら三億、事業化するには最低五億、予期せぬ問題の発生も考慮すると一〇億円です」  とっさに口をついて出た数字である。もちろんしっかりした事業計画などこの時点ではなかったし、いきなりそういった質問がくるとも思っていなかった。しかし、全くの的外れのいいかげんな答えをしたつもりもなかった。漠然と数字がぼくの頭の中にはあったのである。  ぼくの答えに対して彼は言った。 「NOはないよ」  そういって、国重さんは次の予定のために慌しく部屋を出ていった。  ぼくは手応えを感じていた。新しい事業に対して、そして実現のための資金調達に関して。  カネに関して手応えを感じていたが、ぼくにはこのビッグプロジェクトを立ち上げるために必ず了解を得なければならない人がいた。大株主である。当社の株式の多くはぼく自身が保有していたが、ぼく以外で一番大きなシェアを持っていたのは郡司さんである。この人のおかげでハイパーネットが存在しているといっても過言ではない。彼の意見を聞かずにぼくに何ができようか。  さっそく郡司さんを訪問した。  ぼくが新規事業について説明すると、さすが元アスキーの代表者である。ぴんと来たのであろう、彼の最初の言葉はこうであった。「いつから事業化できる?」  その言葉の意味はすぐに分かった。単純に予定について聞いているのではない。早くできないかという意味であった。つまり、この手の事業はアイデアが勝負。だからなるべく早くスタートして業界のスタンダードをとらなくてはならないということだ。  ぼくはこの質問にこう答えた。

「一年後。九六年一〇月からサービスがスタートできそうです」「もっと早くならないか」  郡司さんは即切り替えしてきた。驚いた。ぼくの周りにいる人で多分一番保守的な意見の持ち主が郡司さんであった。その郡司さんが急げというのである。ぼくはそもそも郡司さんに説明するのにやや躊躇があった。なぜなら、きっとこう言われると思っていたからだ。「確かにいいアイデアだけど、とりあえず IMSが大成功してからだな」と。  ぼくのこの事業に対する一番の問題、それは資金調達でも技術開発でもない、いつ稼動させるかという問題だったが、それが一気に晴れてしまった。よし、可能な限り早くスタートさせよう。  その後もコンピュータ業界の人、広告業界の人、通信業界の人と、この事業に関連する業界のあらゆる人たちにこのアイデアに対する意見を求めた結果、ほとんどの人が自分の立場から絶賛してくれたのである。  もはや、事業そのものへの成否の不安はなくなった。あとは実行あるのみだ。  新規事業を立ち上げるにあたって、ぼくには一つのセオリーがあった。それは小さくテストして大きくスタートするというものである。テストを開始するためには、事業のモックアップ(雛形)を開発しなければならない。  ぼくは、 IMSの稼動とバージョンアップに忙しい社内ではなく、社外の開発スタッフに仕事を任せようと考えていた。ただし、この開発会社を探すのは非常に難しい作業だった。  まずその会社が開発をするに値する技術力を持っているかどうか。またどのくらいの開発費とどのくらいの期間で開発できるのか。こうした基本情報を得るには、候補となった開発会社に我々のアイデアを話す必要がある。すべて話してしまえば真似をされるかもしれないし、話さなければ正確な見積もりは取れない。  さらにこのシステムの開発にはさまざまな技術を要した。まず、広告表示用のソフトウエアはユーザーの端末上、つまりパソコン上のアプリケーションソフトである。しかもインターネットを活用する。その一方で、ユーザーのプロフィールと広告を蓄積して管理するサーバーはパソコンでは支えきれないから、 UNIXやその他の大型機のデータベースマネージメント技術も必要だ。  今回の新事業に必要なアプリケーションをつくるには、このような複数の技術を同時に理解している人でなければ対応できないことは明白だった。  ところがそんな技量のある技術者というのはめったにいない。となると、それぞれを別個に開発依頼をして、最終的にハイパーネットの技術者がそれを管理し整合性を持たせるしかない。かなり面倒な開発が予想された。ぼくは機密保持の重要性を最優先課題としたため、自身のネットワークの中から信頼できるいくつかの会社に当たることにした。  二、三の候補企業に出向いたが、どこも開発に乗り気ではない。忙しくて技術者を割くことができないというのが理由だった。ぼくは、いまや当社の技術畑の大黒柱である筒井を紹介してくれた、あの長瀬さんに連絡をとった。  同じような業界に身を置いてはいるが、長瀬さんはあくまで六本木での飲み友達だった。だから知り合って数年間、会社としての付き合いはまったくなかった。ぼくはこの長瀬さんをぼくの数少ない友達の一人だと思っていたので、このプロジェクトに巻き込むのは躊躇するところはあった。仕事の関係が混じると友達としての関係に影響が出てくるのは必然だからだ。それでも他にあたる先のなかったぼくは、個人的に信頼している長瀬さんにアイデアのすべてを話した。  意外にも、彼の会社、コスモテクノロジーには非常に優秀な技術者が集まっていた。  長瀬さんは開発業務を快く承諾してくれた。それもパソコン上の広告表示アプリケーションソフトの継続的開発と簡易版データベースサーバーの開発の両方である。こちらのニーズにぴたりと合う会社が自分の近くにあったとは……。六本木で飲むのも時には役に立つものである。  一九九五年一一月、ぼくは米国へと足を運んだ。友人の是枝周樹さんの誘いで、ラスベガスで年に一度開かれる世界最大のコンピュータショー「 COMDEX(コムデックス)」を見学しに行ったのだ。ちなみにこのコムデックス、その後ソフトバンクの傘下に入った。  是枝さんとはそもそも、対戦型通信ゲームのビジネスで知り合った。これはやはりぼくのアイデアで始まったもので、ハイパーネットとは別個に外部の連中と進めていたプロジェクトだ。ぼくと同い年の是枝さんは、当時、ハイパーネットの IMS事業と似たコンセプトのビジネス、ボイスメールサービスを展開していた。ちなみに彼の父親は財務経理システムの開発で有名なミロク情報サービス(二部上場)の代表取締役会長兼社長である。  さて、今回の「旅行団」は、是枝さんやぼくを含め若手起業家が中心となったある種の団体旅行だった。我々一行は、出発当日成田空港の第二ターミナルに集合した。昔一度だけ旅行代理店のパックツアーを利用したことがあったが、ぼくは団体行動が大の苦手なのだ。  とはいうものの、今回の「ツアー」は、是枝さんのプランでちょっと変わった旅程が組まれていた。一行は、ひとまずロサンゼルスに入り、そこからなんとレンタカーで陸路を行き、数百キロだか数千キロだか離れた開催地ラスベガスを目指すのである。こんなツアーは旅行代理店ではまずやらないだろう。  ぼくは飛行機が大嫌いである。高所恐怖症ではない。乗り物酔いもしない。ひとえに落ち着きがないからである。あの狭い空間で何時間も途中下車も許されない環境が窮屈でたまらないのである。大体の話、自分で運転できないものは基本的に嫌いである。だから、操縦させてくれれば好きになるかもしれない。とはいっても、ぼくにあるのは、サンフランシスコの友人、ジェイのところで習いはじめたばかりの小型飛行機免許。さすがにジャンボジェットは手に余る。  でも乗ってしまったものはしょうがない。ぼくは時間をつぶすことにした。さて何をしよう。酒を呑みまくってさっさと寝ちまうか。とりあえず機内上映の映画でも見るか。いっそのことスチュワーデスに声でもかけるか──。  ディナーサービス後、ぼくはいずれのアイデアも採用せず、おもむろにアタッシェケースを開き、中から手に入れたばかりのラップトップコンピュータを取り出した。ウインドウズ 95の発売をきっかけに、使用機種をマッキントッシュからウインドウズに移行したばかりだった。慣れないウインドウズをこの機会にいじりまくってやれと思ったのである。  ぼくは、すでにインストールされていたマイクロソフトの表計算ソフト「エクセル」の最新版を試してみることにした。いじり始めると、ふと思った。そうだ、この際だから、例のアイデアのシミュレーションをここでやってしまおう。  ぼくは、さっそく作業に取り掛かった。最初は全体のイメージ作りから始める。縦軸と横軸にそれぞれどんな内容を書くか?  シミュレーションの期間はどの程度がいいか?  また期間の単位は?  さらに計算式を作る場合どれを変数にしてどれを絶対値で入力するか?  まるで昔やっていたゲームソフトのプログラム開発のようだ。経験は積んであるからこの手の設計はお手の物だ。後で変更する可能性のある因数はすべて表の一番上に入力するようにデザインすればよい。一通りデザインが終了して数式の確認をしたとき初めて表に数字を入力するわけである。  他にやることのない飛行機の中だけに、ぼくは作業に集中した。事業のシミュレーションは楽しい。自分で書いたプログラムが予定通り動作するかどうかという楽しみに似ている。電話回線数に対応した初期投資額、会員増加のための広告費、また広告費を因数にした会員増加、会員の一日当たりのアクセス時間、またそれを因数にした設備増強のためのコスト、代理店の数、それをもとにした売り上げ予想などなど、とにかくすべてをいったん数字に置き換え、

それぞれ関連づけてシミュレーションを行っていく。  事業計画では更に現実的なリソースの配分や提携先のメリットなど複雑な要因を含めて計画を立てなければならないが、ここでいうシミュレーションというのは、事業の基本的な構造を見るためのものである。事業の構造が儲かる要素をちゃんと含んでいるかどうかということである。  いくら会員が増えても逆に損失が増えていくようでは困るし、逆に受注が多くても会員が少なくて消化できなくても困る。そういった基本的な構造を、数字を使って検証するのである。  結果は、見事な数値を示していた。  ぼく自身の事業に対する期待値がこの予測に含まれているのは疑いない。しかしそれを考慮しても、シミュレーションの結果は上出来だった。この事業がぼくとぼくの会社に多大なる収益を数年内にもたらすことを、青白く光るディスプレイ上のデータははっきり示していた。  後はかたちにするだけだ。  いつのまにかブラインドが下ろされ、暗くなった機内ではアクション映画が上映されていた。ぼくは、たった一人、静まり返った狭い空間で興奮していた。このシミュレーションをロスへ到着したらすぐに東京へ電子メールで送ろう。ぼくに万が一のことがアメリカであっても、この事業が一緒にこの世から消えてしまうのはごめんだ。  作業が終わって、ぼおっとしながら、ぼくは腕時計を眺めた。驚いたことに、到着まであと一時間しかない。飛行機が太平洋を渡る数時間、ぼくはひたすらシミュレーションを行っていたのだ。  ロスでは、ビバリーヒルズ・ヒルトンに一泊、翌日二台のレンタカーを手配して我々は一路ラスベガスへ向かった。かつてアメリカに住んでいたことのある是枝さんの車の先導でフリーウェイに出る。後はひたすら単調な風景を飛ばすだけだ。  ぼくは、はじめこの無謀な計画に反対していた。飛行機の路線が都内地下鉄地図のごとく縦横無尽、網の目のように発達している米国である。なにが悲しくて自らハンドルを握り、何時間もかけて移動をしなければならないのだ。いくら車好きにして飛行機嫌いなぼくでも躊躇する。バケーションならまだわかるが、一応仕事である。  薄曇りのスモッグのかかったロサンゼルスを抜けてしばらく郊外を走らせ、車がカリフォルニアの山々を越える頃、ぼくは窓の外の空気が変わったのに気づいた。  景色からにじみ出そうに鮮やかな木々の緑。稜線が切り取れそうなぐらいはっきりと見える山並み。定規で引いたように真っすぐに広がった地平線。背後の空は、昼間にもかかわらず星が見えそうなほどに、青く濃い。  山を抜けると、永遠の砂漠が続く。本当に見渡す限り何もない。あるのは青い空と白茶けた大地だけだ。その青と白の境目のかなたまで伸びた道を、我々は黙ったまま何時間もひたすら走った。  日が西のかなたに沈み始めると、空はにわかに饒舌になった。太陽から離れるにしたがって、黄色、山吹色、橙色、赤、赤紫、青紫、濃紺、そして黒へと色が変わる。そこに針で穴を空けたように、ぽつんぽつんと星が輝き始める。地表に光はもはやない。ハイビームにしたヘッドライトが照らすコンクリートの路面を見つめながら四時間ほど走った頃には、もはや地空の区別はつかなくなっていた。漆黒の世界と頭上に広がる星の雨。天の川を眺めるのは、福島の高校時代以来だろうか。  正面に光が広がった。  ラスベガスだ。  中学生の頃見たスピルバーグの映画「未知との遭遇」を思い出した。ホテルから上空へ向けて何筋ものレーザー光が発せられ、地平線のかなたまでオレンジの街の灯が伸びている。暗い宇宙の銀河のような世界最大の賭博の楽園は、唐突に我々の前に姿を現した。  是枝さんが、数時間もかけた車の旅で見せたかったのはこれだった。砂漠の銀河は、ロングドライブの疲れを一発で吹き飛ばすに十分な迫力があった。  で、その日、我々が何をしたかというと、当然というか何というか、ま、御想像の通り、賭博場へと向かってしまうのであった。深夜、カジノから戻ってぼくは思った。アメリカはやはり凄い。大賭博都市でビジネスショーをやってしまうのだ。これならば、ひとが集まるのも当然だ。  仕事上の必然性がなくても、全国、いや全世界からビジネスマンがやってくる。それは、ぼくを見ればわかる。滞在期間中、カジノ出席率一〇〇%だったのだから。  昼間は、一応コムデックスの会場を回った。それにしても、大きさ広さ命のアメリカでも、これはやりすぎではないか。広い。なにしろ会場を移動するのにバスがいる。ここに一体「幕張メッセ」がいくつ入るのだろうか。  ぼくはとりあえず我がプロジェクトに関連しそうな企業のブースを覗いて回った。すでに似たような事業がすでにここ米国に存在するかどうかを確認したのである。めぼしいブースをすべて回ったぼくは、口元が緩むのを抑えられなかった。ないぞ、うん、ない。インターネットの本場米国にも、おれのプロジェクトは似た事業はない。それを確認できただけで、ぼくの米国視察には大きな意味があった。そしてこの時点で、ぼくは米国への事業進出の成功を確信した。  さて、この米国漫遊旅行には最後にちょっとしたおまけがある。  コムデックスの予定が終わると、是枝さんたちと別れたぼくは、後のハイパーネット USAの社長、ジェイ・シャアの自家用飛行機でラスベガスから彼のいるサンノゼへと向かった。  ぼくはアイデアを考え出した当初からこの事業展開の中で米国市場が大きなカギになると考えていた。そこで信用のおけるジェイと、事業化に関する具体的な相談がしたかったのである。  サンノゼ・パロアルト飛行場まで出迎えてくれたジェイの車で、ぼくは彼の新居に行った。やはり向こうの起業家は住まいもスケールが違う。ジェイの新居は、ちょっとした山二つにまたがった牧場の真ん中にあった。光の海、ラスベガスからいきなり来ると、別天地である。今日の夜はゆっくり眠れそうだ。  夕刻、ジェイは、彼女同伴で、ぼくをサンノゼの山の上にあるステーキ・レストランに連れていってくれた。分厚いサーロインステーキと格闘しながら、ぼくが一通り新規事業について話をすると、ジェイは非常に高く評価してくれた。数年の付き合いで、彼がつまらぬお世辞を言う人間でないことはよく知っている。ぼくは自信を深めた。  食後、ヘビースモーカーのぼくは煙草が吸いたくなった。同じレストランのバーに席を移動して、バーボンを一杯頼んだ後、煙草に火をつけた。  そのときだ。隣に居合わせた米国人がぼくに声をかけてきた。男は中肉中背、薄汚れたTシャツに擦り切れたジーンズ、足元は履き旧したナイキ。典型的なシリコンバレー・ルックだ。土木作業員のようだが、この格好でコンピュータ業界の大立者だったりするのがここシリコンバレーである。 Are you Japanese?(日本人かい?) Yes(ああ)

男が名刺を出したので、ぼくも慌てて自分の名刺を取り出した。互いの名刺を交換すると、ぼくの名刺を見たその米国人は驚いてこういった。 Oh, you have Internet-address!(へえ、インターネットのアドレス持ってるのか!)  日本人なのにインターネットのアドレスを持っていることに驚いている。生意気なやつだ。いまどき、インターネットに日本もアメリカもないだろう。そう思っていると、彼が切り出した。「うちの会社は来年の春にインターネットの広告ですごいことをやる。ちゃんと覚えておけよ!」(蛇足だが、彼はもちろん英語でしゃべっている)  ぼくは飲みかけのグラスをカウンターにおいて、この白人の顔を見つめた。  今でこそインターネットの新規事業に広告が絡むのは当たり前の話だが、九五年当時そんなアイデアを盛り込んだビジネスは、ぼくの知る限り見当たらなかった。驚かないわけがない。  ただ、こいつの生意気な態度は気に食わなかった。ぼくは、思わず口を開いた。「ちょっと待ってくれよ、おれだって……」  ジェイはそれを聞き逃さなかった。咳払いをしてぼくの注意を促し、得意のウインクで合図を送ってきた。黙ってろ、絶対に話すな!  無言のブロックサインを受けたぼくは、開きかけた口をもごもごさせて、日本人お得意のアルカイック・スマイルでその場をごまかした。おそらく隣の白人は、英語が満足に話せないのかとでも思ったのだろう。それ以上細かい話はしてこなかった。  バーの席を立つときに、ぼくは改めて渡された名刺を眺めた。「 POINT CAST INC.」──ポイント・キャスト?  知らないなあ、なんの会社だ。  ぼくがインターネット・プッシュ技術──広告をインターネット画面に次々に送り込む技術、そう、ハイパーシステムの発想はまさにこれである──で有名になるこのポイント・キャストという会社の存在を知るようになるのは、これより半年後、九六年四月である。  米国から帰国した翌日、ぼくはすぐに新プロジェクトをどう事業化するか、自宅のパソコンを前に一人で知恵を絞った。シミュレーションの結果は上々だったが、実際に事業化するには、業務内容を綿密にチェックする必要があったからだ。  事業化にはいくつかの方法が考えられた。全体像もしくは最終的な形が何通りか考えられるという意味ではない。事業化する段階でどこからどこまでを誰がやるか、業務の区分けに関して選択肢があるということだ。  ぼくは、この事業の要素を点検してみた。メモを書いては破り、もう一度図にしてみて、赤ペンを入れ……。一時間ほど試行錯誤した後、パソコン画面に打ち出したのは次の六つの要素である。 ①システム開発(サーバー側とクライアント側)  文字通りソフトウエアの開発である。まずサーバー側のソフトウエア開発はいわゆるデータベースマネジメントの技術をつかう。このソフトに求められるのは、ユーザーのプロフィールと広告データを蓄積し、双方のマッチングを行うこと。つまりどの広告をどんなプロフィールのユーザーに流すかという情報と各広告の実際の画面データとが納められ、条件が合うユーザーに広告を送出する演算を行う。一方、クライアント側のソフトウエアは、パソコンのウインドウズの画面上でサーバーから送られてくる広告の画面データを実際に表示する役目がある。また、ユーザーのプロフィールの更新やインターネットプロバイダーへのダイヤルアップ接続の制御などもクライアント側ソフトの仕事だ。 ②特許や著作権などの申請と保持  今回の事業特有のアイデアを特許として権利化し、権利の特許申請やメンテナンスを行う。 ③データベースのマネジメントと保有  先にあげたサーバー側のシステムを運営し、ユーザプロフィールなどのデータベースの所有とメンテナンスを行う。 ④インターネットプロバイダー  今回開発するシステムの利用を前提としたプロバイダーであり、ユーザーからのダイヤルアップ接続の際に専用ソフトを必ず利用する。 ⑤会員獲得  このシステムを利用したプロバイダーの会員獲得で、ほとんどの場合広告宣伝業務を中心とする。 ⑥広告獲得  これがこの事業の一番肝心なところ。つまりこの事業のすべての収入源である広告主を獲得する。  ──改めて列記すると、思わずため息が出た。このプロジェクトは、さまざまな事業の側面を併せ持つ複合ビジネスなのだ。コンピュータのソフト開発事業であり、通信インフラの運営事業であり、設備事業であり、メディア事業であり、広告枠の販売事業であり、そしてデータベースや特許権などのライセンス事業でもあった。  とてもハイパーネット一社で手に負える代物ではない。経営資源(技術 +人材 +カネ)の面からも、事業立ち上げの速度の面からも、うちで抱え込んで実行するのは不可能だ。業務も、それから事業リスクも、アウトソーシング(外部委託)で分散する必要があるのは明白だった。  問題は、上記の業務を適当に外部の会社に分担させればよいというものではないことだ。単純にコスト面のみに絞って外部に協力を求めるのか、それともコスト面では自社で負担をするが業務は外部委託するのか、どちらか道を決めねばならなかった。  ①のシステム開発を例に取る。開発費を当社で全額負担して、外部の受託開発会社に開発を依頼すれば、すなわち業務の委託であり、コスト的には当社自身で開発したことになる。また、開発費は当社が負担せずに提携という形で外部委託して、事業の成功とともにロイヤルティという形で外部会社に成功報酬を支払うという形もある。  つまりリスクと業務の配分ということになるが、上記それぞれの事業要素を誰にどのように配分するかを、将来のビジョンを考慮に入れながらデザインしなければならない。  これは非常に難しい。そして事業の成否に関わる大変重要なテーマだ。まず、事業の利益計画を考えなければならない。事業開始直後の当社利益とリスクの軽減を考慮すれば、できる限り経済的にも業務的にも外部を利用すべきだし、逆に長期的に考えて当社の利益を重視すれば、可能な限りのリスクを負担して、当社自身でやろうということになる。もちろん後者の場合には事業として成功する確率が非常に高いことが前提となる。  事業化に要求されるスピードもこのデザインを左右する。なるべく早く事業を立ちあげて実績を作ってしまい、その後に提携先やライセンス先などの相手探しを行う場合には、小規模ではあるが当社自身ですべてを始める必要がある。逆に事業開始にはある程度の時間はかかるが、はじめから大仕掛けで大企業などと組む場合が考えられる。  事業の要素とこれらの判断基準を考慮したうえでプロジェクト全体をすっきりデザインするのは、非常に困難な作業だった。考え方がポジティブかネガティブかで、デザインそのものの方向性がまったく変わってきてしまうのである。もちろん客観的に見ても、いつサービスを開始すればいいのか、また当社のリソース──それは資金を意味することが多いのだが──をどの程度どんな方法で調達できるか、考慮すべき因数はあまりにも多すぎた。

ぼくは思わずディスプレイから顔を上げた。  おれは分不相応な事業に手を出そうとしているんじゃないか。本当に実現できるのか。  ぼくはいつのまにか自分のアイデアに振り回され始めていることに気がついた。  今の段階のシミュレーションにもしも誤りがあれば、すべてが終わってしまうかもしれない。この事業がではない、この会社自体が、である。このときぼくはそんな予感がした。  翌日朝、ぼくは自宅のトイレで結論を下した。  客観的なデータをいくら積み上げてもしょうがない。成功するかどうかはやってみなければわからない。いま、おれがこの事業を始めたいのかどうか、その主観、その信念こそが大切なのだ。で、おれはやりたいのか。  ……やりたい。  身支度を整え、マンションを出ると一一月の風はすでに冬の冷気を含んでいた。最近買い換えたボルボ・ワゴンのキーをひねり、すぐに車をスタートさせた。裏道を抜け、国道二四六号に出る。渋滞に引っかかり、車はすぐに止まった。おれはこの業務を絶対に実現させる。そう自分に言い聞かせた。  ただし──、ぼくは考えた。  これだけは絶対に初志貫徹だ。このビジネスはアイデアがすべて。だからどんなリスクがあろうとも、特許のとれそうな業務はすべて自前でやる。  渋谷のオフィスに着く頃には、ぼくはこれを今回の事業理念にしようとはっきり決めていた。  会社でスタッフを集め、ぼくは彼らと相談して、事業デザインを決定した。次の通りだ。  まず、特許や著作権やデータベースなどの知的所有権の申請・保有・メンテナンス、さらにこれらの情報を蓄積・管理するコンピュータ設備、その上で起動するソフトウエアの開発、以上三つに関しては、すべて自社でコストを負担する。また、ユーザーと広告主をダイレクトにつなぐマーケティングのノウハウは、ぼくを含めた社内のスタッフが、「入れ物」となって蓄積・活用する。最後にそれ以外の要素は可能な限りアウトソーシングを図っていく。  問題は、どのプロバイダーと契約するかだった。この時点で日本には一〇〇〇社以上のプロバイダーがあった。だが、今回の壮大にして、見ようによっては得体の知れない新規プロジェクトに、どこのプロバイダーが乗ってくれるかとなると、技術面でもコスト面でも疑問符がついた。ぼくは、とりあえずスタート時点は自社でプロバイダー業務をこなし、軌道に乗ってきたら、それを外部に売却することにした。  事業の設計はおおむね完了した。あとは、実行あるのみだ。必要なものはなにか。それは、カネ、設備、技術、ヒトである。この四つを早急に揃えよう。でもどうすれば、揃えられるのだろう。  そんなことを考えているときに、電話があった。  住友銀行の国重さんからである。  渡米前から国重さんが興味を持ってくれていたのは、無論覚えていた。ぼくの構想に彼が乗り気なのもわかっていた。しかしまだ具体的な話は何もしていない。とりあえず細かい財務資料の追加だとか、担保提供の話だろう。  秘書に代わって受話器を取ると、国重さんはいきなりこう言ってきた。「板倉くん、この事業はなるべく早くスタートさせたほうがいい。とりあえず二億五〇〇〇万円融資する。いいかい、とにかく早く始めなよ」  ぼくが留守にしている間に、住友銀の担当者が当社の財務とコミュニケーションがあったのは聞いていた。かなり細かい数字のヒアリングもあったはずだ。それにしても、いきなり二億五〇〇〇万円とは!  正直、金融機関からこんなに色よい話をもらったのは、生まれてはじめてだった。経営者として過ごしてきたそれまでの十数年間、銀行との取引はもちろんあったが、今までもっとも高額の融資は一回三〇〇〇万円だった。前にも書いたが、過去の経営危機のときには、実家の不動産を担保にしたあげく国民金融公庫からやっとの思いで二〇〇〇万円借りたぐらいである。それも、我ながらどこからひねり出してきたのか忘れてしまうほど膨大にして詳細な数字を羅列して相手に頭を下げた結果である。  本当に貸してくれるのであろうか?  返済計画はどうすればいいのだろうか?  喜ぶ前にそう心配したのも、無理はないだろう。ぼくは当惑を隠せないまま、とりあえず事業計画を練り直していくことにした。渡米のときに書いた事業シミュレーションをさらに具体的にし、かつ提携や取引先のリソースやマーケット状況まで含めた詳細なものをつくった。  事業計画というと、一般的には五年ぐらいの収支予定を記述したシートをもってそれとするのだが、ぼくが書く事業計画はいつも違っていた。商品計画、販売計画、開発計画、組織計画そして資金計画という各部分を入念に仕上げなければ気が済まないのである。実際、資金以外の上記の計画をしっかり作らなければ、本当の事業計画はできないはずだ。  商品計画には商品の詳細、特徴、既存競合商品との比較などいわゆる後に商品カタログになるようなもの。販売計画はどれほどの人員で、どのような宣伝方法で実際に販売するのか、それにもちろんそのための経費。開発計画は開発が可能であるかどうかの技術的な検証。開発のためのマンパワーの補充。さらには大まかなデザイン。そしてそれらにかかる経費。組織計画には、これらを実現するための人材の配置、指揮の方法、権限の範囲など。以上のシミュレーションがすべて完了しなければ、どれほどのお金がいつ必要で、逆にいつ利益がどれほど出るのかがは全く検討がつかない。  ぼくはこの作業の困難を思うと毎回ぞっとする。でも計画を作らなければすべては始まらない。事業計画を書き始めてまもなく、当社の財務からぼくのサインを求められた、それは住友銀行からの借入れに対する個人保証のサインである。つまりこれにサインすれば金を貸してくれるというのである。  一般的に個人保証はするものでないとよく言われる。しかしぼくは起業家である。別に自分で起こしたその会社とは運命共同体だなどと安っぽい精神論を振りかざす気はない。  起業はぼくの唯一の表現方法だ。すなわちぼく自身なのである。万が一のことがあって会社が倒産するようなことがあったときは、仮にサインなどしていなくてもぼくは人生の失敗者になる。ならばためらう必要など何もない。ぼくはすぐにサインをした。  返済については、初回の取引ということもあって、六カ月据え置きでその後毎月五〇〇〇万円の返済となった。いずれにしても追加の融資もすぐに行うということだった。  それにしても話がうますぎる。こんなことがあっていいのだろうか。とにかく期待に応えよう。  住友銀行がバックについてくれた効果は大きかった。この後、九五年末から九六年初春にかけて、多くの金融機関が盛んにハイパーネットを訪問するようになったのだ。  通常ならば、いまだ新事業の全貌も明らかになっていない(大体がぼくだってまだどんなものになるかも分かっていないのだ!)時点で、銀行だの証券会社だのが話を聞きにくるなんていうのは、少なくともそれまでのぼくの常識にはなかった。ましてやハイパーネットは可能性を秘めているとはいえ、ただの中小企業である。にもかかわらず、金融機関がうちに殺到したのは、先にも書いた通り、この年の「ベンチャー融資ブーム」があったからだろうが、決め手となったのはやはり「あの住友が動いたのだから」ということだろう。

あまりに多くの金融機関が当社を訪れるようになったため、九六年のはじめには金融機関説明会なる会を開催したほどである。九五年末からハイパーネットに対して融資の申し入れをしていた金融機関を対象に当社の事業計画を説明し、本当にその気があるところと手を組もうという話である。都市銀行の融資担当者や VCの投資担当者、リース会社など二〇人ほどが一堂に会し、ぼくはプレゼンを行った。  最初の一言はこうである。「もし担保や過去の実績を重んじるのであれば、この場から帰ってください。当社は担保もなければ、過去の事業実績もこれからやろうとするビジネスに比べればないに等しいですから」  相当強気だったのである。もっと正直に言えば、どうせ貸してくれないのだから言いたいことを口にすればいい。そう思っていた。ぼくは金融機関を前にするといつも気が抜けてしまうことがあった。ぼくは、プレゼンの最後に「何か質問がありますか?」といつも言うのだが、金融機関に関しては、まず質問が出たこともない。プレゼンの内容が良かったのか悪かったのか、さっぱり相手の反応を得られない。みんなしかめっ面で、決してそれぞれの立場をその場では表現しない。そして後から個々に質問がきたりするのである。あくまで表面上は横並びを装い、後からライバルを出し抜こうとする。ぼくの目には、彼らの行動はそう写った。  このときも反応のパターンはまったく一緒だった。しかし、後からうちの財務のレポートを見たところ、出席したほとんどの金融機関が無担保の融資を申し入れてきた。それも一行最低一億円。リースなどの特別な場合においては数億円にもなるものもあった。  少し先の話になるが、住友の話を皮切りに、あっけなく資金調達は完了した。結局九六年中に銀行からおよそ二〇億円、リースではおよそ一〇億円を調達することになった。それまでの借入れがわずか数千万円でしかなかったのと比べると雲泥の差である。結果、ぼくは、カネの心配を一切しなくなった。開発とマーケティングのことばかりを考えるようになった。  賢明な読者は、ここでもう気づかれるかもしれない。ぼくの失敗の原因が実はここにあった。  多くの金融機関はぼくにカネを貸したのではない。ある意味で最初にバックについた住友銀行の看板に貸したのである。そしてぼくは住友銀行という法人の信用を完全に勝ち取ったわけではない。「ベンチャーを育てよう」というこの時の住友の戦略の元、国重さんという個人の信用を一時的に勝ち取ったに過ぎなかったのである。  この「ずれ」が二年後、ぼくの首を絞める。しかし、九五年末のこの時点、「新事業」という熱にうかされ始めたぼくに、そんな想像が働く余地はなかった。  カネに関してはめどが立ったが、この事業にはもう一つ、絶対に欠かせない「もの」があった。電話回線である。先ほども書いた通り、我々は当初プロバイダー業務を自前でこなそうと考えていた。当然、大量の電話回線とそれを収容できる不動産が必要になる。これらが揃わねば、サービスを立ち上げることはできない。  ハイパーネットでは、 IMS事業用に五〇〇の電話回線を保有していた。これだけでも相当の規模ではあるが、新プロジェクトでプロバイダー業務をこなすにはとても足りない。  となると、大量の回線を新たに用意し、どこかのビルに敷く必要がある。これはおおごとだ。まず大規模な電話回線工事を許してくれるビルの大家さんを見つけなければならない。次に、工事予定のビルの接する道路にこれだけの NTT回線が余っているかどうかを確認しなければならない。回線が十分でなければ、道路工事もしなければならない。でも、できればそれは避けたい。──考えるだけで頭が痛くなりそうな話である。  この回線確保は、かなりの難事業であった。将来のことまで考えると必要な回線数はおよそ一万、少なくとも立ち上げ段階で三〇〇〇回線は確保しなければ業務が成り立たないのは目に見えていた。それだけの回線を確保するには、 NTT本社との交渉が必須である。  ぼくは、住友銀行の国重さんに相談した。やはり彼は実力者だ。なんと NTTの代表取締役澤田茂生副社長を引っ張ってきてくれたのだ。  九五年一二月、ぼくは新宿の西、初台にある NTT本社に行くことになった。  ぼくは椎間板ヘルニアという持病を持っている。二〇歳のとき、くしゃみをして突然腰に激痛が走り、そのままベッドに倒れ込んでしまったのがきっかけである。いわゆるぎっくり腰だ。その時はおよそ二週間動けなくなってしまった。トイレに行くのがやっとの世界である。  それからというもの、冬になると時折この持病が出る。二三歳から二七歳ぐらいまではスキーやゴルフなどのスポーツをしていたおかげか、顔を出さなかったこのぎっくり腰、仕事に没頭する日々が続き、ワークアウトをしていなかったのが祟ったのか、よりにもよって、この日の朝、数年ぶりに発病してしまったのである。  起きたときに、「やばい」と思った。ぼくは腰痛の〝ベテラン〟だから、自分自身でどれほどの症状かすぐに把握できる。歩くことはおろか、立ち上がることさえできない状況だった。  この病にかかったときに何が一番苦しいかというと、痛みそのものも大変なのであるが、それ以上に苦しいのは、「たかが腰痛ぐらいで会社を休むなんて」という周りの反応である。確かに腰痛の一種だが、ときには恥ずかしいかなトイレにも行けず、即刻入院して尿瓶の生活になる。にもかかわらず、周囲は同情するどころか、場合によると物笑いの種にする。ひどい話である。  ぼくはすぐさま、 NTT副社長のところへ同行する Nさん(国重さんを紹介してくれたあの Nさんだ)に事情を説明し、予定の延期をお願いした。ところがである。 Nさんはこう言うのだ。「だめだよ、板倉君。絶対に今日いかなきゃだめだ」「でも、ベッドから起き上がることもできないんですよ」「だったら、おれがおんぶしていってやる。とにかく今日は行くぞ」「そんなあ……」「いやいや、考えてみりゃこんな体調にもかかわらず這ってでも会いに来た、ていうのは相手に好印象を与えるぞ。ちょうどいいじゃないか」「なにが、ちょうどいい、ですか!」  困った。自分の体は自分が一番よく知っている。普通だったら、このまま救急車で病院行きの状態だ。でも、 Nさんのいうことは一理ある。今日会う人が、どれほど重要な人物であるかも十分わかる。交渉次第で新プロジェクトがスムーズに立ち上がるかどうかが決まるのだ。  しばらく電話口で考えた結果、ぼくが我慢すればいいんだという結論に達した。「わかりましたよ Nさん。行きましょう」  こうと決めれば、いきなり前向きになってしまうのがぼくの性格だ。この際だから、うまくやろう。われながら脳天気なものだ。  その日は、国重さん、 Nさん、当社の技術担当役員筒井、それとぼくでうかがう予定だった。朝、状況を聞いた Nさんと筒井がぼくの自宅に迎えに来た。  おい、こいつら本当に来たよ、ぼくは思わずつぶやいた。  二人に両肩を支えられながら車に乗せられる。近所を通りかかる人が不思議そうな目でぼくたちを見る。かなり恥ずかしい。  ぼくは運転をする筒井に、丁寧な運転をしてくれるように頼んだ。

「お願いだ。丁寧に、丁寧に走ってくれよな」「わかってます、わかってます。いつもの社長の運転の逆ですね」  いやみを言われたが、反論する元気もない。なにせ、ちょっとしたブレーキでも、悲鳴が出るほど激痛が走る。加速しても、減速しても、カーブを曲がっても、痛い。うう、やっぱり、やめときゃよかった。  世田谷・瀬田の自宅から初台の NTT本社まで、筒井は彼なりに最高の運転をしたのであろう。ぼくはそう信じている。でも一方でこう思ったのも事実だ。  筒井、お前は運転が下手だ。   NTTはやはり大企業である。車を降りて Nさんが澤田副社長の秘書に事情を説明すると、すぐに駐車場まで車椅子を用意してくれた。車椅子に腰掛けたぼくは、筒井に押されて役員専用のエレベーターに乗り、応接室へと入った。  しばらく打ち合わせをしながら四人で待っていると、そこに澤田副社長が入ってきた。何ともやさしそうな紳士である。ぼくの得意のプレゼンをしている間、終始にこにこと笑顔である。さすが NTTの副社長、などとぼくは単純に浮かれていた。しかも彼はぼくの言いたいことをちゃんと理解し、最後に回線を配備するために必要な部署から連絡させるという約束をくれた。想像以上に良い対応であった。  ぼくは調子に乗って、このサービスが開始したら NTTにもぜひ広告クライアントになってくれるように、広告部署についてもご紹介を願った。時間は無駄にしてはいけない。  その後、澤田副社長の約束どおり、 NTTの日本最大の支店、東京支店の支店長と筒井の間で煩雑にやり取りが交わされるようになった。結果、翌九六年の三月には、偶然にも国重さんが支店長を務める住友銀行日本橋支店が入ったビルにプロバイダー事業用のコンピュータ設備を置いた一六〇坪の部屋を借りることになった。コンピュータ用の空調設備を新たに備え、 ISDN 1500の光ファイバーケーブル一〇〇〇本!(これは NTTが初めて作ったケーブルだということだ。ちなみに ISDN 1500の光ケーブル一本は、通常の電話回線の二三本分に相当する)。それに、各種のコンピュータがうなり声を上げる。回線の工事、無停電電源装置の設置など、一億円近い工事費の出費を余儀なくされたが、とにかくこのときの「ぎっくり腰外交」がここに結びついたわけである。  そんなわけで回線も確保した。でも、プロジェクトを立ち上げるのにはまだ不足しているものがあった。  そう、次はヒトである。  これだけの大仕事をこなすには、強力なスタッフを新たに集めねばならない。大手企業に負けないだけの力を持った連中が欲しかった。技術がわかって、営業ができて、そして英語も使える人間。一体どこにそんな人材がいるのだろうか。  一人目は夏野剛だった。  米国に行く直前、九五年の秋のことだ。飲み屋でとある銀行の知り合いから紹介されたこの男は、東京ガスで用地開発プロジェクトを手がけているということだった。しかも米国で MBAを取得したばかりという。  色白でどこか病弱な感じのエリートサラリーマンによくあるタイプの人間だった。その彼がうちの仕事に興味があるという。ぼくは今回の事業の機密を非常に気にしていた。が、スパイというわけでもなさそうだ。そこで、そのころ毎日のように関係者にプレゼンしていた新規事業の説明会に夏野を呼んだ。  この日の説明会には、今回の新規事業に興味があって、なおかつ信頼できる筋の人間を何人か招待していた。 IMS事業でつきあいのある広告代理店の方々、それから業務委託先に考えている開発会社やプロバイダーの代表者、ハイパーネットの株主であるベンチャーキャピタルの担当者、そして夏野である。  ぼくはすでに一〇回以上はやったであろうこの事業のプレゼンを始めた。果たして皆からどんな反応があるだろうか。ぼくは反応を楽しみにしながら進めていった。  期待通りほとんどの人がこの事業に対して良い評価をしてくれた。が、そんな中でぼくの話にすばやく反応し、具体的にどの部分が優れているかをはっきり指摘した人間がいた。夏野である。  ぼくはこの事業のプレゼンのときに一つのパターンを作っていた。それはぼくの話を集中して聞いてもらうために、事業説明の最初にわかりやすいポイントを話すようにしていたのである。  最初に話すのは、もちろん、この事業によってインターネット・プロバイダーへの接続料を無料にすることができる点だ。接続無料というのはこの事業の副産物ではあるが、一般の人には非常に説得力のある言葉だからである。人間やはり「ただ」には弱い。まず最初に接続料が無料になると話を切り出す。するとみなこの事業に興味を持ち、ぼくの話を真剣に聞いてくれるようになる。そこではじめて、広告との連動について話すわけだ。  しかしながら、ぼくは、この事業の一番カギとなるのは、接続料の無料化や広告の表現形態ではなく、顧客のデータベースを保有しそれに基づいたマーケティングをすることにある、と思っていた。ただ、プレゼンを聞いて、その部分の重要性に気づく人はほとんどいなかった。  夏野は違った。彼は一発でこの事業の核がデータベース・マーケティングであることを見抜いた。しかも、会場で彼はこんな提案までしてきた。「板倉さん、データベース・ビジネスはやはり米国が本場です。米国にすぐ進出すべきです」  このプレゼンが開かれたのは、ぼくが米国に旅立つ前の話である。それだけに「米国進出」という言葉が夏野の口から出てきたときには、ぼくも少々驚いた。しかも、この時点でまだ東京ガスの社員だった彼は、「休暇をとりますから、ぼくに米国の市場調査をやらせてください」とまで言うのだ。夏野に実際どんな能力があるのか、まだ何も知らなかったが、ぼくは即決した。「夏野さん、調査の方、よろしく。それから、いつでもうちに来てください」  この日から六カ月後、夏野は会社をやめ、九六年七月、うちの役員になった。  二人目は中山佳久である。  今回の事業計画は、プロジェクトチームを作る必要があった。ぼくは忙しい当社の役員をはじめ、営業、開発、管理などそれぞれの部門から一人ずつを指名し、プロジェクトチームを結成した。新規事業部が正式に発足するまでの間、このチームとぼくが既存業務の合間を縫って定例会議を続けることになる。  そこで、はたと気づいた。プロジェクトを束ねるリーダーがいない。社内の人間はすでに本業の IMSが成長期だったのでだれもが手いっぱいである。専任で事業を進めるリーダー候補は見当たらなかった。社内にいなければ、社外で探すしかない。ぼくはその頃偶然知り合った人材バンク会社の社長から、この事業にふさわしそうな人材リストをもらってきた。五人ほどの候補者はみな M B Aを取得していた。  正直いって、ぼくは M B Aを持っていることがどれほどの価値なのかよくわからなかった。ただ、前述の夏野が M B Aの取得者だったし、すでに米国での事業展開を視野に入れていたので、米国流のビジネスを学んだ人材が有望であろうとは考えていた。  ぼくはとりあえず候補者の一人に会ってみることにした。

身長は一七〇センチ弱、丸顔のいかにもおっとりした男だ。「はじめまして、中山です」  彼はぺこりと頭を下げた。  とりあえず、どんなプロフィールの人間なのか、ぼくはいろいろと質問した。とつとつとした語り口で、彼は自己紹介をした。  歳はぼくと同じ。上智大学理工学部を卒業後、ソニーに就職、その後、退社して M B Aを取得。現在は中堅電機メーカーのユニデンで仕事をしているという。興味深かったのは、夏野をはじめぼくの知っている M B A取得者は大体社命で在職中に MBAを取得しているのに対し、中山はいったん大手企業を退職し、自費で米国に渡り M B Aを取っている点だった。一見地味だが、どうやら相当根性と集中力のある人間らしい。  そこで、ぼくは彼をちょっと試してみることにした。ハイパーネットの社業を紹介する際、あえて新規プロジェクトの話はせず、既存事業である IMSの説明だけをしたのだ。今回の人材探しの目的は、この新規プロジェクトのリーダーを見つけることである。当然、将来に渡ってうちの会社の屋台骨を支える人材でなければならない。だからこそ逆に今回のプロジェクトのあるなしにかかわらず、うちの会社に「就職」したいといってくれる人が欲しかった。中山は一体どちらだろうか。  ぼくの説明が終わり、中山がいくつか質問をした。どうやら IMSの中身以上に、ハイパーネットというベンチャー企業そのものに興味があるようだ。ぼくの仕掛けたハードルを彼はとりあえずクリアしたわけである。迷っている暇はなかった。ぼくは出会ったその日にこの男を採用することに決めた。  入社後、中山にはしばらく IMSの営業部門で会社になじんでもらうことにした。もちろん、試用期間が過ぎれば、新規プロジェクトのリーダーに指名するつもりだった。  九五年一二月も下旬に差し掛かっていた。  いいかげんプロジェクトに名前をつけなければならない。まったく新しいビジネスだけに、どんな名前をつけるか思案のしどころだ。人間にとっても名前が人生に影響を与える部分は少なくないだろう。ぼくは結婚もしていないし、当然子供もいないから、人に名前をつけるという経験はない。が、おそらく相当頭を悩ます作業であろうことは想像がつく。というのも、今回の新プロジェクトは、ぼくのいわば子供のようなものだからだ。  考えた挙げ句、ぼくは会社の名前ハイパーネットの一部を使うことに決めた。プロジェクトに社運をかける覚悟であることを示すのにもそれがいいだろう。  かくして、「ハイパーシステム」という名が誕生した。  さてと名前が決まれば、あとはプロジェクトチームの本格立ち上げだ。いよいよ採用したばかりの中山のお手並み拝見である。  第一回会議を開くその日、ぼくは中山を驚かせようとして、事前にハイパーシステムの内容をまったく伝えていなかった。プロジェクトリーダーになれるか否かは、ぼくのプレゼンのどこに興味を持つかにかかっている。  どうやら、ぼくの目に狂いはなかったようだ。中山はハイパーシステムの核がデータベース・マーケティングであることをすぐに見抜いたのである。会議終了のその時、ぼくは彼をプロジェクトリーダーに指名した。いきなりの大仕事に少々驚いたようだったが、中山はそれを喜んで受け入れてくれた。いよいよプロジェクトの発足だ。九五年一二月二六日、ぼくの誕生日である。年の瀬の夜遅く、ぼくは最高の三二歳を迎えることができた。  九六年正月。ハイパーシステムを一刻も早く立ち上げるべく、ぼくたちは精力的に動き始めた。  ハイパーシステムはかなり複雑な事業だ。それだけに、営業、マーケティング、開発、運営、設備など、各業務の事業計画をかなり精緻に固めておく必要がある。中でもシステムの開発は技術的な話が非常に多く、プロジェクト会議の分科会として技術者だけで行う開発会議をわざわざ設けたほどである。  ぼくはこの分科会でハイパーシステムの概要だけでなく、将来のハイパーシステムのバージョンアップ構想を話した。ぼく自身がもともとコンピュータソフトの開発をやっていたからよくわかるのだが、ソフトウエアを設計する場合、どんなバージョンアップが考えられるかあらかじめ考えておかなければ、いざ将来そのソフトを改良しようとするとき非常な手間がかかってしまうのである。  分科会でぼくは、事前に考えていたハイパーシステムの追加機能を思う存分プレゼンした。すると次々と構想を話していくたびに、出席していた技術者の顔がだんだんしぶくなってくる。当然だろう。ぼくの好き勝手なアイデアを具現化するのは、技術的に相当面倒だからだ。  もっと根本的な問題もあった。このハイパーシステムはいったいいつから稼動できるか、という点である。  システムに盛り込むアイデアこそ次から次へと浮かんできたが、実際に商売としてスタートできるまでにあとどれくらいかかるのか、ぼくの中に迷いがあったせいもあって、見当がつかなかった。迷っていたのは二点、最終的にビジネスを始められる体制を社内でいつ固められるか、そして市場にいつ投入すればもっとも効果的かである。  連日の会議でこの二つの迷いを払うべく、ぼくはメンバーの連中に事細かに質問をしていった。たとえば、社内の体制をいつ固められるか。ポイントはやはりシステム全体をつかさどるソフトウエアの完成時期だ。開発担当に聞くと、九六年一〇月には何とか稼動できるだろうとの答えだった。  一〇カ月も先か……。そう思いながらぼくが市場の投入時期について調査担当者に聞くと、当社の株主や取引先などのヒアリング結果を見る限り開始時期はできるだけ早い方がよい、とのことだった。となれば、稼動目標は、ソフトの開発が完全に終わる一〇月から、と自動的に決まる。とはいっても、これは当社の技術陣が仮定した開発期間にすぎない。実はこの一月の時点で、サーバー側を開発する会社は決定していなかったのである。  クライアント側アプリケーションソフトウエアの開発に関しては、すでに米国に渡る前から友人の長瀬さんが経営しているコスモテクノロジーに依頼してあった。  残るは、サーバー側のソフトウエアの開発会社をどこにするかだ。この選定には難航した。  一月も下旬に差し掛かった頃、一人のコンピュータ会社の営業マンが、ハイパーネットを訪れた。筒井のところにやってきたこの若い営業マンの差し出した名刺には、「日本タンデムコンピューターズ」という名が印刷されていた。  この会社の米国の親会社、タンデムコンピューターズは、いわゆるクライアント・サーバーシステムを管理する企業としては屈指の力を持っていた。その程度の知識はぼくにもあった。筒井に呼ばれたぼくは営業マンの話を聞くことにした。  挨拶もそこそこに、彼はこう切り出してきた。「板倉社長、うちの専務、和泉に会って今回の企画のプレゼンをしてもらえませんか」  おい、ちょっと待て。こっちはあんたのお客さんだぜ。なのになんでおたくの会社の専務にプレゼンしなきゃいけないんだよ。筋が通らないじゃないか──。かちんときて言い返そうと思ったとたん、この営業マンは殺し文句を口にした。「開発を急いでいるのではないですか」  痛いところを突かれた。彼の言う通りだ。社内には一〇月目標とはいっていたものの、正味の話、でき得る限り早くハイパーシステムを立ち上げたかった。ぼくは、口に出しかかった文句を引っ込め、代わりにこう答えた。「じゃ、いつならおたくの専務さん、会えるのかな」

数日後、一月末のある日、ぼくと筒井はタンデムコンピューターズを訪問した。  役員会議室と思われるその部屋に入ると、そこには和泉法夫専務をはじめ幾人かの技術部門のマネジャーらしき人たちが居た。ぼくは一通り名刺交換と挨拶を済ませると、機密保持契約書へのサインを求めた。  日本企業の場合、この機密保持なる契約書を見ると拒否反応を示すケースが多い。契約書にサインをするには上司の許可が必要だとかいうのはまだましなほうである。中には「我々を信用できないのか?」と怒り出してしまう会社だってある。  ばかばかしい。ぼくはこんなときいつもこう思う。サイン一つもできない会社なんか、信用できるわけないだろう。もしあなたたちに含むところがないのなら、機密保持契約書にサインするデメリットは何もないじゃないか、と。  その点タンデムコンピューターズはやはり外資系だった。和泉専務は迷うことなく文書にサインし、ぼくのプレゼンを促したのである。これは話が早い。  いつものようなぼくのプレゼンの後で、和泉専務はひとこと聞いた。「これは面白い。いつ始める予定ですか?」  ぼくは答えた。「四月です」。  開発会議での稼動目標は一〇月である。それをわざわざ六カ月も繰り上げた時期を、ここで外部のしかも初対面の人間に告げたのには、もちろん訳があった。  ぼくはそもそも一〇月スタートという予定にまったく満足していなかった。できるならば、春には世間に発表したかったのである。三カ月前に訪れた米国のコムデックスの視察やサンノゼのレストランで偶然出会ったポイント・キャストの社員の話から、九六年中にインターネット分野で新しい広告システムが次々と発表されることは十分予想がついた。  それだけに一刻も早くサービスを発表する必要があった。パイオニアとしての名を世界中に伝えることによって、ディファクト・スタンダードを確立しなければ、このビジネスのうまみは一瞬にして消え去る。  と思いつつも、ぼくがあえて一〇月完成と口にしている社内の技術者たちに、春までに完成しろと強要しなかったのは、コンピュータ関係の開発であまりプレッシャーを与えると技術者たちの反発をいたずらに買うだけで、かえって仕事が遅れてしまうことをおそれていたからだ。  ただし、外部の会社、この場合はタンデムが四月までに完成可能と返事をすれば、話は変わってくる。プライドの高い社内の技術スタッフはむしろ、完成時期を早めるのに必死になるに違いない。  さてと、タンデムはどう出るか。  和泉専務はあっさりこういった。「わかりました。御社の都合にあわせられるように最高の技術者を手配しましょう」  横に座った筒井を見た。和泉専務の言葉に少々驚いた様子の筒井の目とぼくの目が合った。ぼくは軽い笑みを浮かべた。口にはしなかったが、こう言った訳である。  ねっ、四月開始だからね。よろしく頼むぜ、筒井君!  筒井は苦笑いをしながら、軽く首を縦に振った。  さてと。タンデムは実にいい返事をくれた。サービス開始時期は一〇月から一気に四月へと六カ月も繰り上がった。筒井をはじめうちの技術陣も彼らの日程にあわせることを承知した。  でも……。ぼくはふと思った。タンデムのシステム、あれは一体いくらするんだ?  数日後、彼らから見積書が届いた。  システム全体でおよそ五億円!  いくら銀行からの融資が増えているとはいえ、そんな資金が手元にあるわけはない。けれども、タンデム以外に今回のシステムを任せられそうな会社は他には見当たらない。どうすればいいのだろう。  しかしながら、この問題に長時間、悩む必要はなかった。  というのも、以前からつきあいのあった長銀系の大手リース会社、日本リースが突然、タンデムのシステムを買い上げ、当社にリースしてくれることになったからである。  こちらから強く頼み込んだわけでもないのに、なぜ日本リースがこんなにも巨額のリースを受けてくれたのか?  もちろん金融機関各社が当社の将来に大きな期待を寄せているのを知っていたからだろうが、実はもっと明白な理由があった。日本リースは日本タンデムコンピューターズの販売代理店だったのである。しかもこの当時、タンデムの売り上げにおいて、日本リースの販売シェアはナンバー 1だったらしい。すなわち、うちがタンデムのシステムを導入することで、日本リースとタンデム相方に大きなメリットがうまれるわけである。  ぼくは倒産してからこれらの細かな事実を知ったのだが、こうしてみるとなぜタンデムの営業マンが突然当社にやってきたのか、そしてその直後になぜ日本リースが訪れ、巨額のリース契約を締結したのかが、容易に想像できる。確か一月に実施した金融機関に対する説明会に日本リースの担当者が来ていたはずだ。おそらくそこからタンデムに当社の情報が流れたのだろう。  いずれにせよ今となっては、確かめようがない。タンデムコンピューターズは九八年一月、コンパックに吸収合併されてしまったし、日本リースといえば、ご承知の通り、九八年九月二七日、会社更正法を申請して、事実上倒産してしまったのだから。  とにかく、九六年二月時点のぼくは、総額五億円を超すタンデムのノンストップ・コンピュータ・システムをリース契約のかたちで事実上手に入れられたことを無邪気に喜んでいた。  タンデムとの契約で、システム開発の穴はほぼ埋まったかに見えた。けれども、実はある意味で一番面倒な仕事が残っていた。とりあえず自前でやることにしたプロバイダー業務の開発である。  そもそもなぜ自前で始めようと考えたのか。それは、他人から見れば海のものとも山のものともつかないこの事業に既存のプロバイダーがいきなり協力してくれるとは思えなかったからだ。とはいうものの、もしどこかのプロバイダーが業務を受け持ってくれれば、という思いはいつもあった。  それは、まったく偶然に解決した。  きっかけは、むしろ非常に不愉快な出来事だった。あのアスキーとぼくの会社の間でちょっとした揉め事があったのである。  揉め事の内容はこの書籍と直接関係のある話ではないので特に触れないが、とにかくアスキーとは昔から随分と付き合いがある。そのまま放っておくわけにはいかない。ぼくは、アスキーの西和彦社長、それから日本興業銀行から移ってきた副社長、それにぼくの師匠筋である常務の浜田さんと数回にわたって会談した。  こちらはアスキーに不利益を訴える立場にあったわけだが、他の二人はともかく常務の浜田さんに文句を言うのは個人的に非常につらかった。ぼくがここまでビジネスを拡大できたのは、浜田さんの力によるところが大きい。彼が助言してくれなければ、最初のゲームソフト会社もうまく立ち上げられなかっ

たろう。  それでもこの問題は、ぼく個人というよりはハイパーネットという会社の利害に大きくかかわるものだった。ぼくは仕事に徹して、こちらの不利益を浜田さんたちに訴えた。  何度となくやりとりがあった後、浜田さんは突然こんなことを口にした。「板倉さん、この際だからさ、うちがハイパーシステムを使ったプロバイダーの第一号になるよ」  彼はいきなりこんな提案を出してきたのである。「おたくも、自前でプロバイダーをやるのはかなりつらいだろう。だったらそこの業務はアスキーが持つ。その代わり、というわけじゃないけど、今回の件は手打ちにできないかな」  大まかな契約内容はこうだ。まずハイパーネットは、ハイパーシステムの接続プロバイダーとしてアスキーを第一号とする。そしてサービス開始から六カ月の間、独占的にアスキーに対してこのシステムを接続する。その独占権に対する対価として、アスキーはハイパーネットに対して三億九〇〇〇万円を支払う。  ハイパーネット側としては、自前でプロバイダー業務を立ち上げる必要がなくなる上、インターネットの世界でも名の知れているアスキーをプロバイダーとして活用できる。コスト面でもマーケティング面でもこれはかなりのプラスだ。一方、アスキーにとっては新しいマーケティングシステムを向こう六カ月間独占的に利用できる。そのうえ接続料無料を訴えることで、顧客数を大幅に伸ばすことが可能となる。  提携がうまくいけば、双方にかなりのメリットがでるのは確かに明白だった。  迷いはあった。今回の揉め事も含め、浜田さんとはともかくアスキーという会社とぼくとは根本的に肌が合わない。そう感じていたからである。  ただし、確かにビジネスの面で考えれば、アスキー、いや浜田さんの提案は悪くない。  結局、どこかにひっかかるものを感じながらも、ぼくはアスキーと提携することにした。アスキーがハイパーシステムを活用したプロバイダーの第一号となるわけである。  それからが大変だった。アスキーがプロバイダーをやるということは今まで自社で用意してきたプロバイダー部門をすべてアスキーに譲渡するということになる。  いずれどこかに譲渡する予定ではあったが、これほど早く、それも設備稼働はおろかシステムもまだ開発の段階で、アスキーに渡すとは誰も予想していなかった。  今更、開発の変更はできるのか?  しかし、乗りかかった船だ。もう降りるわけにはいかない。ぼくは、プロジェクト全体に号令をかけた。「プロバイダー部門をすべてアスキーに譲渡する」と告げたのである。  これは思ったよりもはるかに膨大な作業を必要とした。  たとえばこの時点で、プロバイダー事業は自分たちで行う予定だったから、ハイパーシステムの中で、顧客のデータを蓄積・活用するデータベースセンター部門と顧客がインターネット接続のために加入するプロバイダー部門が、技術の面でも設備の面でも分離していなかった。具体的にいうと、データベースセンターの設備の一部がプロバイダー部門の設備の中にあったり、またその逆のようなケースがいくつもあった。  それに、それぞれのネットワークの中でのセキュリティの面が十分に確立されていなかった。データベース事業にとって、顧客の情報をきっちり管理するセキュリティ部門は、きわめて重要である。この点も開発部門で改良する必要があった。  もっと現実的な問題もあった。既に契約が済んでいるプロバイダー設備のリース契約や日本橋の不動産契約である。これまではすべてハイパーネットが契約主体だったのを、アスキーが主体になるよう切り替えてもらわねばならない。  この作業が難航した。ぼくにしてみればハイパーネットのような未公開の中小企業との契約より、アスキーのような有名店頭公開企業との契約のほうが、はるかに安全で問題はないと思うのだが、金融機関や不動産会社はそう思わなかった。リース会社にしても不動産会社にしても、ハイパーネットの新事業のために枠を取ったのに、今更アスキーに名義を変更されても困るというのである。  我々は仕方なく、リース物件および不動産のアスキーに対する又貸しの許可だけをもらい、ハイパーネットが彼らと交わしたのとほぼ内容の同じ契約を、アスキーと交わすことにした。これは、結果としてみれば、アスキーの使用する不動産や設備の保証を当社がする形である。  これでなんとかアスキーと一緒に仕事ができる環境が整った。災い転じて福となすだ。ありがとう、浜田さん。このときぼくは本当にそう思っていた。  しかし、この契約が後にいくつかの問題を引き起こすことになる。  ぼくらは何らかの形で新しい事業を世間にアピールしたかった。ただ、果してマスコミが取材対象として当社を取り上げてくれるかどうかは、よくわからなかった。  そんな時、ぼくは「日経ビジネス」編集部を訪ねる機会を得た。当社の話を聞きたいということだった。事業部長の中山を連れ、ぼくは編集部に行った。  赤坂プリンスホテルの裏手、一見清潔そうなビルの見かけとはうらはらに雑然とした編集部の脇のソファに通される。ところどころに煙草の焼け焦げがある。ふうん、これが雑誌の編集部か。そう思っていると、やってきた大柄の男には見覚えがあった。テレビ東京のニュース番組の解説にときどき登場していたのを、何回か見ていたのである。編集長の永野健二さんだった。  永野さんがぼくの目の前に座った。それからもう一人、副編集長と紹介された小柄な男性、徳田潔さんが椅子を引っ張ってきて脇に座った。  さて、まずはプレゼンだ。いつものごとく弁舌さわやかに話しはじめると、どうもいつもと様子が違う。永野さんが、ところどころで突っ込んでくるのである。「あー、今のところ、よく分からないからもっとちゃんと説明してくれない」「うーん、あなたはそういうけど、ほんとにそうかなあ」  これがマスコミのヒトか。銀行員相手のプレゼンとはどうも勝手が違う。それでも、ぼくはめげずにプレゼンを続けた。自信があったからだ。  一通り話が終わると、永野編集長はぼくに聞いてきた。「これいいけど、誰でもできるじゃないんですか」  きつい言葉である。でもある意味で言う通りだ。今までは無条件に高い評価をするか、事業内容がさっぱりわからずにそっぽをむくかのどちらかだった。この人はどうやら事業に関して理解したうえで、なぜぼくなのか、という理由を聞きたいのに違いない。  ぼくはすぐに答えた。「確かに誰にでもできます。しかし一度始めてしまえばデータベースがどんどん蓄積されます。そして数カ月もすると誰にでもできるビジネスではなくなります」  永野さんは「あなたはどこまでいけると思いますか?」と聞いてきた。

ぼくは大きく出た。「この事業でネットスケープは超えられると思います」  そもそもぼくにしてみればネットスケープは単なるソフトウエアの開発会社にしか見えなかった。確かにソフトウエアの開発技術は当社をはるかにしのぐものだったが、それ以上ではないと思っていた。ネットスケープには競合優位性がそれほどないと思っていたのである。  それにしてもまだなにもできあがっていないのに、ずいぶんと生意気な発言ではある。けれども永野編集長は、ぼくの言葉を決してばかにせずに、次の質問をしてきた。「ウインテルの時代はもう終わりだと思いますか?」  ぼくは戸惑った。それでも、この場は強気の発言をするしかないと思い、こういった。「そう思います」  永野編集長は、帰り際に改めてきちんと取材しましょう、と締めくくった。  余談だが、永野編集長の質問に戸惑ったのには理由があった。実は「ウインテル」という言葉の意味を知らなかったのである。同席していた全員が当然のごとく知っているかのようだったので、ぼくは訳も分からずに強気の発言をしたのである。  帰りの車で中山にこの言葉の意味を聞くと、彼はあきれた顔をした。「社長ほんとに知らないんですか?  パソコン業界を席巻しているウインドウズとインテルの連合軍のことですよ」  いまや当然知っていなければならないキーワードだったようだ。が、ぼくの知識体系からは、このての情報がすっぽり抜け落ちていた。まあぼくの強気の個性を打ち出すには、結果的にいい答えだったと思うしかなかった。それにしてもあの場で意味を聞かなくてよかった。  住友銀行を中心にカネは集まった。 NTTの協力で設備も整った。 MBAを持った凄腕もそろえた。開発のアウトソーシングも、タンデムをはじめ優良企業に委託できた。プロバイダー業務も、すったもんだはあったものの、アスキーに頼むことができた。九五年九月朝のトイレで思いついてから、たった四カ月しかたっていなかった。  事態は、ぼくの思惑をはるかに超える規模とスピードで進んでいた。それがぼくの実力によるものなのか、それとも別のなにかの力によるのか。もはや判断がつかなかった。  事業が急展開していたのとちょうど同じ頃、九五年末から九六年の頭にかけて、私生活にも大きな変化が訪れていた。  まず車が変わった。以前乗っていたのは BMWの M 5。車好きなら誰でも知っているスポーツ・マシンだ。値段も軽く一〇〇〇万円をオーバーする。四ドアのボディは一見普通のセダンにしか見えないが、走りの実力はポルシェにだって負けない。その意外なところがぼくの車オタク心をいたくくすぐった。  気に入って三年乗っていたその M 5をぼくが手放したのは、かつては購入の理由のひとつにさえなっていた「一見普通の」という点が原因だった。  六本木のナイトクラブに乗り付ける。店がはねればそのまま女の子と車でデートだ。ところがクラブの女の子は BMWなんかには乗り飽きている。そこでいちいち説明しなければならない。「あのな、この車は M 5といってな、ただの BMWじゃないんだよ……」。このやりとりが正直うっとうしくなっていた。車は気に入っていたが、どうやらぼくのライフスタイルには別の「わかりやすさ」が必要になってきていた。  そこで、フェラーリを買った。 F 355スパイダーという型で、色はモンツァレッド。これならば、誰もが「お、凄い車」と認識できる。クラブの女でフェラーリを知らない子はいない。説明はもういらなくなった。  さすがに 2シーターのこのスポーツカーだけでは用が足せないので、普段用としてボルボのワゴンもついでに買った。ちなみにどちらもすべて自腹である。  せっかく買ったフェラーリは、しかしほとんど出番がなかった。新事業の立ち上げや株式公開を控え、もしものことがあってはまずい、と秘書から厳しく言い渡されたのである。「ハイヤーを会社で契約しますから、ぜったいにこれで移動してください。いいですね」  それから女が変わった。   BMWとほぼ同じ期間付き合った前の子とは、九五年の大晦日に別れた。一七〇センチ近くある背の高い子で、奇麗な脚と細いウエストと豊かな胸と小作りなすっきりした顔をしていた。年は二〇歳。短大生のときに彼女がアルバイトしていたクラブで出会ったのがきっかけだった。明るくきさくな子だった。ぼくの友達にも評判がよかった。  なぜ彼女と別れたのか明確な理由は思い出せない。嫌いでなかったのは確かだ。理由なんてなかったのかもしれないし、彼女とは関係ないまったく別の理由がぼくの中にあったのかもしれない。  とにかくぼくは彼女と別れ、とりあえずその頃別のクラブで親しくなっていた別の女と年明けから付き合いはじめた。二五歳の新しい彼女は、背はさほど高くなかったが、ベルサーチェのワンピースにピンヒールといった「六本木の女」だった。少なくともフェラーリの助手席には似合った。  家も変わった。  それまで住んでいた用賀のマンションは五〇 と飛び抜けて広くはなかったが、一人で暮らすには十分だし、広いリビングと見晴らしの良いバルコニーが気持ちよかった。東名のインターチェンジのすぐそばで、車で動くぼくにとってはうってつけの場所にあった。  そこを引っ越したのは、新しい彼女に正月早々、青山通り沿いにあるペットショップ「青山ケンネル」で、「犬が欲しいの」とせがまれたからだ。  動物好きのぼくはうっかり「いいよ」と答え、檻の間から鼻を突き出しぺろぺろと舌を出して甘える上代八〇万円血統書付き生後三ヵ月のゴールデンレトリバーを買ってしまったのである。買ってから気づいた。「あ、うちのマンション、犬猫禁止だ」。  ぼくは、犬を店に預け、不動産屋を回り、港区白金の一軒家を見つけてきた。並木のある広い坂道から一本入った静かな住宅街の一角。二階建一八〇 のその家にはちょっとした庭がついており、レトリバーのような大型犬を飼うのには悪くないところだった。家賃は月五〇万円と、場所と広さを考えれば、法外な値ではなかった。  会社ではハイパーシステムの開発でむやみやたらと忙しかった九六年二月早々、ぼくは用賀のマンションをたたみ、白金に引っ越した。家の庭にはレトリバーが、そして家のソファには新しい彼女が、自分の場所を確保した。夜中に帰ってきて寝るだけのぼくにとっては、ベッドルームさえあればよかったのだが。  かくして当時マスコミに登場した時のぼくのイメージ、「フェラーリを乗り回し、白金の邸宅に住む若手起業家」は「完成」した。  仕事でも、私生活でも、この頃のぼくは、一回り、いや二回りは大きいぶかぶかの高級スーツを着せられたようなものだった。そして、自分の体をこの「スーツ」にすぐに合わせようと、背伸びをし、シークレットブーツを履き、筋肉増強剤を打ち始めていた。無論、こうした〝ドーピング〟は体に悪い。が、副作用に気づいた頃には、もはや医者も手が施しようがなくなっているものだ。ぼくの場合もそうだった。  九六年二月時点のぼくにそこまでの思慮はなかった。実体以上に大きく膨らみはじめた事業と自分自身をより大きく見せようと、ぼくはハイパーシステムのプロモーションに力を入れた。

そして──。ぼくは、六本木の巨大ディスコ、ベルファーレで発表会を開いた。  九六年二月。ハイパーシステムのサービス開始まであと二カ月しかない。そろそろ世間に向けて大々的な PRをする必要があった。この事業は広告主あってのビジネスだ。企業の宣伝担当者に情報が伝わらなければ商売にならない。  だが、雑誌や新聞、テレビに広告を打っていてはいくらお金があっても足りない。特にうちのような中小企業の場合、予算の限界がある。  ぼくは記者発表会を開こうと考えた。ただし、記者の方々に足を運んでもらい、さらにニュースとして取り上げてもらうには、ただの発表会では駄目だ。このハイパーシステムが記事にするのに十分な価値のあることをしっかり理解してもらう必要がある。こんなときは照れずに思いっきり派手にいこうとぼくは思った。  記者発表のイメージは、実はかなり前から頭の中で決まっていた。六本木の大型ディスコ・ベルファーレを貸し切り、そこでハイパーシステムを発表するのである。記者だけで一〇〇人以上、広告代理店やクライアントの方々、協力会社のトップなどを含めると四〇〇人ほどを招待。彼らをメインホールに招き、ベルファーレの大型ディスプレイにコンピュータを持ち込んで接続、ハイパーシステムを思い切りデモンストレーションする──。  派手な仕掛けで斬新なニュービジネスを紹介する。十分目を引いた上で、この事業の革新性、重要性をしっかり訴えよう。シナリオはほぼ完成していた。  ところがである。このイベントを代行してもらうはずの PR会社が納得してくれない。お笑いタレントの〝おさむちゃん〟に似た PR会社の担当者は、顔つきとは逆にやたら偉そうな男だった。おそらく大企業のクライアントばかりを相手にしているうちに、専門家づらが身についたのだろう。  ぼくは、ハイパーシステムの斬新さや合理性、市場適合性、さらにブームのインターネット上で展開されることなど、できる限りこの事業のイメージを正確に伝え、ベルファーレでの記者発表を実施するよう説得しようとした。しかし、担当者はまったく相手にしてくれない。「板倉さん、ベルファーレでプレスリリースやるのは、コカコーラとか NTTとかの大企業ですよ。それにね、その会社のイメージキャラクターになっている芸能人やスポーツ選手なんかを呼んでないと、客なんか集まりません」  なにを言っているんだ、この男は。  ぼくは頭に来た。単に馬鹿にされたから怒っているわけじゃない。 PR会社で広告畑にいるのに斬新な企画をやってみようという気のまったくのないその頭の固さ古さ、その根底にあるベンチャー企業軽視の考えに対して、腹が立ったのだ。  その点に関しては米国がうらやましい。ほんの一〇年ぐらいの間にベンチャー企業が一国を代表する巨大な存在になる。特にコンピュータ分野ではそれが顕著だ。マイクロソフトを筆頭にコンパック、デルコンピュータ、アップルなど名前を挙げたらきりがない。無論、成功した連中に力があったからだろうが、それだけでは一〇年足らずで世界の大企業にはなり得ないような気がする。彼らを育てる環境がやはり米国にはあるのだろう。ベンチャー育成の意志が存在し、その可能性にポジティブな視線が注がれている。  日本は米国と正反対だ。目の前の PR会社の社員がそれを象徴している。打ち合わせの段階から、こんな状態では先が思いやられた。が、一方でこういった人々一人一人の考え方をぼくが変えていかなければ、いつまで経っても状況は変わらない。「あなたねえ、それじゃベンチャーは育ちませんよ」  怒鳴りつけたいのをぐっとこらえ、ぼくは相当時間をかけてこの PR会社の担当者を口説いた。「そもそも何も無いところから始めるわけだから、はなから大企業のそれと比べていたらいつまでたってもベンチャーはベンチャー以上にはなれない。いいですか。ソニーだってはじめはベンチャーだったんですよ。あの盛田さんが米国で実力以上のふるまいをした結果が現在の米国での地位を築いたんだから。そのくらい知っているでしょう」  ほとんど説教である。これではまるで昔のテレビ番組「どてらい男」の西郷輝彦だ。そういえば、それこそベルファーレの VIPルームで偶然遭遇したタレントの山城新伍氏に「きみ、西郷輝彦に似てるねえ」といわれたことがあった。眉毛が濃くて目玉がぎょろりとしているところが、人によってそう見えるのかもしれない。それとも子供の頃「どてらい男」を見過ぎたのが顔に出ているのか。  最終的には、この担当者はぼくの考えを受け入れてくれた。クライアントである当社の要望だから仕方なく聞いたのだろう。でもぼくにはこの記者発表に自信があった。だからどんな理由であれ、担当者が納得してくれればそれで良かった。  とにかくこの時のぼくは自信満々だった。自分とそして自分の組織の未来に対して。そして、少なくともこの時点では、ぼくの過剰なまでの自信が会社を上昇方向に導いていた。  面白いことにこの手の自信というのは、組織の中であっという間に伝染する。記者発表計画はもちろんハイパーシステムの事業化に、当社の社員は皆盛り上がっていった。ぼくの意志と会社の組織全体が同調していた。細部の指示をしなくても、何が目的で、何が必要かをそれぞれの部門が完全に把握して、会社全体が邁進していた。  だから、発表の準備にしても、その概要を会議で伝えるだけで十分だった。全体の構成をどうするか、デモンストレーションは何分ぐらい見せるのか、質問の時間はどうするか、招待客は誰にするかなど、スタッフは皆、ぼくの意をくんで計画を立ててくれた。  こうして決まった記者発表の概要はこうだ。  まずぼくが壇上に立ち、マルチメディアやインターネットといった名前だけが先行しているこの新しい分野を市場としてみてどんな可能性があるかを講演する。マルチメディアやインターネットの定義や問題点を改めてここで言及しておくことが、ハイパーシステムの価値を最大限に理解してもらうのに必要だからである。  そしてその後にプレゼンテーションを行う。ベルファーレの大画面を使ったデスクトップ・プレゼンテーションである。手元の端末と大画面とをつなぎ、実際のサンプル広告を流す。そして画面に現れる広告であるビザ宅配の会社が登場、それで実際にオーダーをしてみせる。その後に、先に指摘したマルチメディアやインターネットの市場の問題点をハイパーシステムがいかに解決できるかを再度ぼくがプレゼンする。プレゼンが終了する頃、頼んでいたピザが会場に到着する──。  いささかやりすぎかもしれないが、ここまでつくり込めばプレゼンの内容も印象に残るだろう。あとは、フォーマルな質疑応答。そして最後にこのシステムを使ったプロバイダーとしてアスキーが名乗りをあげたことを伝える。  完璧だ。ぼくはこのとき自己陶酔状態にあった。いや、ぼくだけじゃない。企画に参加していた社内のスタッフみんなが同じような精神状態だったと思う。  記者発表は二月末。準備期間は二週間程度しかなかった。プロジェクトチームもぼくも連日連夜のほぼ徹夜の残業である。しかし誰の顔にも疲れはなかった。まるで文化祭の準備でもしているかのような雰囲気だった。渋谷のオフィスの明かりは夜明けまで消えることはなかった。  気にかかっていたのは、未だ完成していない「ホットカフェ」のデモンストレーションをどうするかであった。「ホットカフェ」というのは、ハイパーシステムの中で一般ユーザーの目に触れる部分のソフト、インターネット画面横に現れる広告表示用のアプリケーションソフトの名称である。  当然ながら、僅か二週間の日程では、正式版のホットカフェは完成しない。そこで開発を依頼していたコスモテクノロジーにデモ用の特別のバージョンを急遽頼むことにした。デモ用バージョンは見た目の動作さえ正式版と同様であればよい。

結局この「ホットカフェ・試作版」が動いたのはプレスリリース前日であった。普通ならば大慌てだろうが、そんな状況下でもぼくはどうにかなると思っていた。  まあ、いざとなれば、おれのしゃべりで何とかなるさ。それで十分観客を満足させられる──。  この自信には、少々の裏付けがあった。  二月八日、夕刊ではあったが、日本経済新聞の一面囲み記事にハイパーシステムの記事が載ったのである。『インターネット、無料で接続、ハイパーネット四月、まず都内で──画面に DM型広告』  夕方、オフィスに届いた日経の夕刊にこの見出しを見つけた時は、思わず拳を握り締め、ガッツポーズを一人で取ってしまった。それから、個々の仕事に忙しい社員たちに、大声で声をかけた。「おい、みんな、ほら、日経の一面に出たぞ!」  さすがに皆の手が止まった。「え、ほんとっすか?」「ったりめえだろ。ほら、ここ、ここ」「あ、ほんとだ!」「社長、コピーとってきます!」「頼んだぞ」  九六年二月二九日、木曜日。  準備は整った。当日はうちの社員が朝からベルファーレにはりついていた。営業担当者は招待した広告代理店やクライアントの方々の出迎えにおおわらわだった。ハイパーシステムのプロジェクトチームは例のデモンストレーションの器材の搬入とテストである。  この手のイベントがらみの作業は得意だった。本書の最初の方に書いたけれども高校時代には、複数のバンドを集めてコンサートを主催し、チケットを売り、会場を予約し、みずからもステージに上がってギターをかき鳴らしていた。久しぶりに、ライブならではの「血が騒ぐ」感覚がよみがえった。早く時間にならないか。ぼくは、一種の躁状態にあった。  開場まであと三〇分、突然、心の隅っこに転がっていた不安がむくむくと広がった。例の PR会社の担当者のひとことが蘇ったのである。「大企業でタレントでも呼ばなきゃ、ベルファーレで記者発表をやっても誰も来てくれませんよ」  ぼくは楽屋を抜け出し、ベルファーレの入口を偵察に行った。  ベルファーレは、六本木の交差点から外苑東通りを五〇 mほど北上し、信号を左に入った細い路地沿いにある。一階は表に面したがらんどうの空間で、真ん中にレセプションのある二階に通じる大きなエスカレーターと階段が鎮座する。今回の会場となるダンス・フロアは地下三階までをぶちぬいたものだ。ぼくは専用エレベーターでいったん二階まで上がったあと、入り口近辺の様子を見下ろした。不安は一瞬にして消し飛んだ。  数百人が列をつくっていた。  ちらほらと見える顔見知りの中では銀行関係者が随分と目立つ。とにかく金曜日の夜並みの行列である。もっとも並んでいる人種は普段のそれとはえらく違うが──。  おかげで会場になかなか入れない人が続出した。建物の構造上、二階に上がってから専用エレベーターで会場のある地下に降りるしかない。ところがこのエレベーターは決して大きなものじゃないから、来客者の中には三〇分以上待たされる人まで出て、レセプションにクレームが殺到した。ある記者はプレスリリースでこんなに待たされたのは初めてだといっていた。  予定時間よりやや遅れて、いよいよぼくのプレゼンテーションである。  多少の不安があったので、ぼくとしては珍しく台本を用意していた。自宅で彼女と犬を「観客」にそらで何度か予行演習を練習をしてみたが、結構つっかえたり、忘れたりしたからである。なにせ時間は四〇分もある。そして失敗は許されない。  時間だ。  台本を握り締め、ちょっとした緊張感とバンド時代に味わった興奮とともに、ぼくは薄暗い通路から、スポットライトがあたったステージに上がった。後ろには巨大なスクリーンが青白く輝いている。台本は必要なかった。言葉は後から後から湧き出てきた。ホットカフェは見事に作動した。ピザの注文も完了した。  プログラムが終了した。予定通りピザも会場に届けられた。  そして質疑応答の時間。どんな質問がくるか。あるいは黙殺されるか。プレゼンのときよりも、はるかに緊張する時間だ。ぼくの不安をよそに、裁ききれないほどの質問が会場から上がった。「海外進出は考えているのか?」「ユーザーのプロフィールを取るということだが、プライバシーの侵害になるのではないか?  またその対処方法は?」「本格稼動はいつから?」「はじめから誰でも使えるのか?」「実際のところ広告の値段はいくらで、どの程度の初年度の売り上げを見込んでいるのか?」「現在すでに広告主は決まっているのか?」「ホットカフェはホットジャバに名前が似ているけど大丈夫なのか?」  自分で答える代わりに、ぼくはほとんどの回答を担当の役員や社員に振った。この場を借りて、責任ある発言をする訓練をさせたかった。それと同時に、ぼく一人でやっているのではなく、あくまで組織として強力なメンバーが支えているという印象を観客に与えたかった。  スタッフはぼくの期待にこたえてくれた。多くの観衆を前にみな的確な説明をしてくれた。  記者発表は成功した。翌日以降、ハイパーシステムに関する記事は、新聞、雑誌を問わず、多数の媒体に掲載された。記者発表に使った経費は一〇〇〇万円に満たなかったが、 PR効果は相当なものだった。  日経ビジネスにも記事が載った。三月一一日号の「挑む」というコーナーで、五ページに渡り、ぼくとハイパーネットが紹介された。『顧客マーケティングに斬新さ「いたずら者」のひらめきで速攻』  こんな見出しで始まる徳田副編集長の手による記事は、住友銀行の国重さんやアスキーの浜田さん、電通ワンダーマンダイレクトの Hさんなどにまで周辺取材した念入りなもので、一番印象に残った。記事は手放しでぼくやハイパーシステムを評価するものではなかった。ぼくの個性の問題点などにもあえて触れたうえで、ベンチャービジネスの成功者は、板倉のようにある程度「いかがわしい」人間でもいいんじゃないか、と締めくくっていた。  間接的ではあるが、テレビにも取り上げられた。  その日、ぼくは家で彼女とカラオケを楽しんでいた。  二〇代前半まではこのカラオケが大嫌いだった。ばりばりのギター小僧だったぼくはカラオケを馬鹿にしていた。しかしクラブ活動に勤しむようになり、店の女の子と遊んでいるうちにいやがおうでもカラオケ三昧になってしまった。彼女たちと遊ぶには飲むか食うか歌うか踊るかしか選択肢がないから、カラオケに行かないわけにはいかない。

おかげで、すっかりカラオケ人間になり、ついには通信カラオケを自宅に設置するに至ったわけである。  さて、自宅の通信カラオケの場合、お店と違って、イメージ画像を用意しているわけではない。だから、歌詞のバックには適当なテレビ番組が流れることになる。その夜も TVの画像を背景に、ぼくは一八番の「最後の雨」を大声で歌っていた。こういう時、一軒家は都合が良い。深夜で、酒もかなり入っていた。  突然、カラオケのバックにハイパーシステムのサービス画面「ホットカフェ」が登場した。もちろんカラーである。酒が回ってぼおっとしていたぼくは最初、何でカラオケにホットカフェが出てくるんだ、とぼんやり思った。ふと正気に戻った。バックに流れているテレビのニュース番組だ。  あわててカラオケを止めテレビ音声に切り替えると、日本テレビの「明日の朝刊」という読売新聞の朝刊のトピックスをやっている深夜番組だった。何と翌日付の読売新聞にカラーで印刷された当社の記事が載っているのである。それがそのまま映し出されたというわけだ。  日本テレビに関しては、ニュース・ショー番組にも登場した。その番組は芸能人が話題のニュースを紹介して、それに審査委員のような、これまた芸能人が点数をつけていた。これにハイパーシステム =ホットカフェが紹介された。結果は、「審査委員」の女性タレントが「これ、あたし、よくわかんないんですう」と片付けてしまったので、対抗馬のニュースに負けてしまったのだが。  記者発表は、多大なる効果をもたらした。ただし、それはプラスのものだけではない。目立てば叩くのが世の習いである。一方で、さまざまなやっかみの声、批判の声も、公私いろいろなルートから、ぼくのところに届くようになった。  しかも意外に多かったのが、ビジネスとしてのハイパーシステムの批判ではなく、板倉個人に対する誹謗である。典型的だったのが、一部の記事に載った「フェラーリに乗っている」の一行に対する周囲の反応である。「ああいう話は書かれちゃまずいよ、板倉君」というわけだ。  要するに、さまざまな金融機関から金を借りている身でありながら、放蕩の象徴のごとき「フェラーリ」という言葉がメディア上に載るのはよろしくない、という「忠告」である。金融関係者の中にはあからさまに、「板倉さん、フェラーリのために出資したわけじゃないだけどな」といってくる者までいた。  フェラーリに乗って何が悪いんだ。だいたいが会社の金で買ったわけじゃない。ちゃんと自分の個人収入で手に入れたんだ。社用車族にそんなこと言われたくない。なぜあえてインタビューでプライベートな部分まで答えたのか、わかっているのか。ベンチャー経営者が質素な生活をして二四時間会社のことばかり考えてます、などと言ったら、若手の才能のある人材がベンチャービジネスを果たして望むか。大半は大企業に逃げてしまう。おれは後進のことまで考えて発言したんだ──。  ぼくの私憤は、基本的には今でもそれほど間違ってはいないと思う。ただし、経営者の立場から考えると、この私憤はただの「正論」でしかない。予想される周囲の反応を考慮すると、決して利口な発想ではなかった。このときからちょうど一年後に始まる金融機関の融資引き上げの発端の一つは、あんがいこうしたつまらないところにあったかもしれないのだ。  三月に入り、ハイパーシステムの開発は大詰めを迎えていた。  前も紹介した通り、ハイパーシステムはかなり複雑なネットワークシステムである。  まず、システム全体が稼動するためには、プロバイダーと契約したユーザーのプロフィール(属性情報)と広告データを蓄積して、それぞれの広告の対象と判断されたユーザーに対して広告を送出するデータベースセンターが必要となる。これがハイパーシステムの中核だ。センターは、直接開発を請け負う日本タンデムコンピューターズの指定で板橋のコンピュータ専用ビルに設置した。  それからハイパーシステムのアーキテクチャーを採用したプロバイダー設備が必要だ。これはアスキーの担当である。ハイパーネットが日本橋のビルに設備を開発・設置し、アスキーに引き渡す。更にデータベースセンターとプロバイダー設備とを結ぶ専用線設備がいる。  また、最終的にユーザーの手元に広告を表示するアプリケーションソフトウエア「ホットカフェ」がコスモテクノロジーの手で開発中だった。  以上の大きく分けて三つの要素を別々の会社が開発し、最終的に結合テストをする。  開発を本格スタートしたのが九五年一二月末。稼動予定は九六年四月である。たった四カ月で果たして稼働できるのだろうか。各社をまとめる開発の総指揮はうちの筒井と九五年に東京工業大学を卒業したばかりの新人社員が中心となった。  一番大変だったのは、結合試験である。はじめて告白するが、このシステムには詳細な設計書というものが最初から最後までなかった。大企業のシステムインテグレーションの人たちには信じられない話かもしれない。もともとぼくのイメージから派生したシステムを、筒井ら設計陣がそれぞれの開発会社にホワイトボードに黒ペンで説明していったのだ。  結合試験は実際にサンプルの広告をユーザーの手元に表示し、その広告をタッチすれば、クライアントのホームページが表示されるようにしなければならない。二月の記者発表の裏で、技術者たちはほとんど寝る間もなく開発を続けた。  テストサービスの日程が決まったのは、四月に入ってからだった。予定日は四月一五日。当初の予定を一五日遅らせてのテスト開始であるが、それでも実現するかどうか未だに怪しかった。正直ぼくも半分信じていなかった。一方で、アスキーはすでに有力新聞にハイパーシステムを利用した彼らの ISP(インターネット・サービス・プロバイダー)、アスキーインターネットフリーウェイの稼動告知広告の掲載を依頼してしまった。さあ、もう逃げられない。  記者発表のときは自信満々だったぼくだが、いざサービス開始直前となると、不安で毎日そわそわした。今まで自前で開発してきたソフトやサービスとはやはり訳が違った。複数の会社で別々につくられたパーツを組み合わせ、最後に一つの大きな作品ができる。それが今回のハイパーシステムだ。足並みがそろわなければ、形にならない。ぼく一人の力ではどうにもならないのだ。  ぼくは、開発陣に現在の成果を毎日のようにこの目で確認させてくれと頼んだ。が、彼らが見せてくれるのは開発システムの画面にソースコードが出ているものばかりである。彼らに言わせれば多少の問題はあるが何とか動かせるということだった。が、もともとプログラム開発をやっていたぼくも、この辺にくるとさっぱりわからない。  四月一四日。明日は本番だ。ぼくは未だにハイパーシステムが本当に稼動するのかどうか、確信が持てなかった。完成した、との報告が未だに入ってきていなかったのだから当然である。  夜、八時も過ぎた頃だろうか。筒井がぼくの部屋に入ってきた。「できました、社長」「おい、ほんとか。ほんとにできたのか?」  彼はそれには答えず、机上のぼくのラップトップコンピュータをいじり始めた。「今からここにホットカフェをインストールします。社長自身の手でハイパーシステムの稼動を確かめてください」  インストールが終了すると、筒井はぼくを促した。  ぼくはテスト画面からホットカフェを起動し、画面上のダイヤルボタンをクリックした。聞きなれたモデムのアクセス音がしばらく続く。なるほどダイヤルアップはできる。

モデムのハンドシェイク音が消えて、またしばらくの間待つ。ホットカフェはプロバイダーへの PPP接続と同時にハイパーシステムのデータベースセンターへもアクセスする。広告を転送するためだ。普通のインターネット接続より多少の時間がかかる。  時間が過ぎていく。本当にうまく行くのか。  突然、何も無かったかのように、ホットカフェはすべての接続が完了したことを、ダイヤログボックスを使って告げてきた。  最初の広告が登場する。我がハイパーネットの広告だ。すぐに広告のボタンをクリックする。すると今まで起動していなかったインターネットエクスプローラーが自動的に起動して、さらにハイパーネットのホームページを開く。  ──ちゃんと動くじゃないか。  ハイパーシステムは稼動した。きっと問題は残っているだろう。でもとりあえず稼動した。自分で考えたくせに、なんだか信じられなかった。  ぼくは画面から顔を上げ、筒井を見た。「やったね」  筒井はちょっと笑ってから返事をした。「ええ。やりました」  サービス稼動前日の夜の出来事であった。  九六年四月一五日。ついに本番だ。  企画、資金調達、設計、開発、記者発表、営業準備。ここまですべての難関をクリアしてきた我々は、一番大切な日を迎えた。いくらシステムが稼動してもここで終わってはぼくの「妄想」でしかなかったことになる。一般のユーザーが実際に加入してこそ、ビジネスとしての可能性が確かめられるのである。  ハイパーシステムの収入源は広告だ。だから広告主がついて広告収入を上げられるかどうかですべてが決まる。しかし当然の話だが、ユーザーがいないところには誰も広告を出さない。ハイパーシステムという広告媒体にとって、ユーザー数というのは、雑誌で言えば発行部数に相当するわけだ。逆に言えば、ユーザーの会員数を獲得できれば、遅かれ早かれ広告は絶対に集まるはずである。それだけに、実際にユーザーがどれだけ集まるかがビジネスの最初のハードルだった。  当日の有力新聞には、ユーザー獲得を担当するアスキーの広告が掲載されていた。  その日の朝、新聞広告を自宅でチェックすると、すぐさま前日から泊まり込みでシステムを監視している開発陣に電話をかけ、登録の状況を確認した。「で、どうなってる?」「すごいです。新規登録のためのアクセスががんがん殺到してますよ」  まだ朝の八時すぎである。前評判と当日のアスキーの広告が効いているのだろう。それにしても予想以上の滑り出しだ。出社する頃には、ぼくは回線数の許容量のほうが心配になっていた。  午後になると会員登録数は数千という単位になっていた。テスト稼動ということでとりあえずの会員数を一万人に絞っていたが、結果的に一万人には四月一五日からわずか一〇日で到達した。  インターネット業界の方ならおわかりと思うが、プロバイダーにとって一万人というのは大変な数字である。それをサービス開始からたった一〇日間で達成したのだ。ちなみにアスキーの有料インターネット接続サービスは、一年以上の期間をかけ、ようやく二万人弱の会員数を獲得していたばかりであった。後から聞いた話だが、アスキー側には最初の一万人の枠に間に合わなかった一般ユーザーからの苦情が多く寄せられたという。  いずれにせよ一〇日で一万人である。ぼくたちはそれまでの常識を捨て去る必要があった。アスキーと協議し、テスト稼動募集を二万人に増やすことにした。そしてさらに一〇日後、我々はあっさり二万人を達成してしまった。  ハイパーシステムは順調に稼動し始めた。後はこの会員数を売り物に広告を集めれば商売としても軌道に乗る。この勢いならば、企業が殺到するに違いない。  ぼくは成功を確信した。そしてその確信をさらに強くする出来事があった。米国で株式を公開しないか、という申し入れがあったのである。  ナスダック( NASDAQ)という言葉は、ハイテク分野で事業を興した者にとって、一種独特の響きを持って聞こえる。言わずと知れたこの米国店頭公開市場で、多くのハイテクベンチャーが公開を果たし、大企業への道を歩んでいった。ベンチャーの担い手にとって、アメリカンドリームの第一歩、それがナスダックなのだ。  しかしながら、日本のベンチャー企業にとってナスダックは遠い存在だった。九六年時点では、サワコー・コーポレーションという建築会社が日本での店頭公開後に登録だけ(新株発行はしていない)したのが、唯一の例だったと思う。ただし、日本のベンチャーに実力がないからどの会社も公開を果たしていない、というわけではおそらくない。大半の企業がナスダック公開は夢物語と勝手に決めつけているだけの話ではないだろうか。  いや、別に偉そうなことを言うつもりはない。ぼくもそうだったからである。  ハイパーネットには、 JAFCOをはじめ複数のベンチャーキャピタルが出資をしていた。もちろん日本での株式公開を見込んでの話である。これらベンチャーキャピタルや証券会社とは、 IMS事業に専念していた頃から、定期的に株式公開を目指した調整会議を開いていた。ハイパーシステム構想が現実しつつあった九六年春ごろには、資金調達の規模を考え、九九年以降を目標に国内での店頭公開を目指すようになっていた。  しかし、ナスダックにいきなり公開する、という発想は、かなり誇大妄想ぎみのぼくにも、そしてもちろん金融関係者の間にもまったくなかった。  話は突然やってきた。  ハイパーシステムのテスト稼動に成功した九六年四月以降、ぼくは外部のコンサルタントとしてこれはと思う複数のビジネスマンを招き、経営会議を毎週開いていた。ハイパーシステムを軸に、企業としてどう事業を展開すればよいのか、外の知恵を入れながら戦略を立てるのが目的である。  そのなかに、黒部光生さんがいた。  五月に入ったばかりだった。その日の経営会議の議題は、米国でのハイパーシステムの展開について。米国での事業展開には日本での事業以上に資金が必要だ。ところが日本での株式公開を世紀末に控える当社には、どう考えても余分な資金がなかった。けれども、ぼくは何とか米国でハイパーシステムを展開したかった。半年前の渡米経験で、日本以上に伸びる、と確信していたからだ。  とはいうものの、カネがなければ話にならない。会議は煮詰まった。そのときだ。黒部さんが突然、こう提案した。「板倉社長、この際、ナスダックに公開して資金調達してみませんか?」  最初ぼくは、彼が何を言っているのか理解できなかった。  ナスダックに公開するには、まず米国に法人を作り、実際に事業を展開し、実績を上げなければできないのではないか。その事業展開のカネがないという話を今しているんじゃないか。話の順番が逆ではないのか……。  ぼくは黒部さんに疑問をぶつけてみた。すると黒部さんの話は、どうやら根本の部分がまったく違うようだ。もしかすると──「黒部さん。要するに、日本の、このハイパーネットそのものを、いきなりナスダックに公開する、ということですか」。

ようやくわかったか、という顔で黒部さんはうなずいた。「もちろんです」  ぼくは、身震いしたのを覚えている。  何しろ黒部さんはあのソロモンブラザーズ・アジア証券のマネージングダイレクター、つまり日本で言えば取締役である。その天下のソロモン、米国大手証券会社の取締役が、他ならぬぼくに、ハイパーネットの米国公開を勧めているのである。公式の経営会議の席だ。もちろん冗談なんかじゃない。  論理的に考えれば、ハイパーネットのような歴史の浅い会社は、日本の店頭市場よりナスダックの方が公開を狙いやすい。過去の利益を公開条件にする日本市場に比べ、米国市場の場合は、極端な話、赤字のままでも公開して資金を調達できるからだ。  本来、資金調達というのは企業の成長のためにある。株式投資をする側にとっても、投資先の企業の過去の実績より、自分が投資してからの成長の方が重要なのはいうまでもない。  日本のベンチャー企業で、国内市場を飛び越え、いきなり米国で株式公開するのは、過去に例がない。もし実現すれば、ぼくは、日本企業の新しい歴史の幕開けを担うことになる。会議が終わってからも、ぼくは一人で妄想を膨らませていた。  ──おれが、日本企業のさきがけとなるのだ。  この日から、ぼくはナスダック公開という巨大な「幻想」にとらわれることになる。ただし、このときは決して「幻想」ではなかった。遠くない「現実」、のはずだった。  ハイパーネットの日本における店頭公開プロジェクトの主幹事証券会社は野村證券だった。ぼくは彼らの機嫌を損ねるのを恐れ、ソロモンとの間で密かに米国公開プロジェクトを進めることにした。野村がソロモンと対立するのは、得策ではない。ただし、いつまでも隠し通せる話ではないから、ぼくはタイミングを見計らって、黒部さんに、野村にこの話をどう伝えるべきか相談することにした。「まったく問題ないでしょう」、黒部さんの反応はあっさりしたものだった。「野村證券とも協力して、ナスダック公開を一刻も早く実現しましょう」  ソロモンがいいと言うならば……、ぼくはそれから数日後、国内公開に関する打ち合わせのために来社していた野村證券の公開引き受け部の担当者に、恐る恐る話してみた。担当者は三〇歳の紳士的な好青年である。ぼくに対しても礼儀を崩さない。やや誉め過ぎだが、俳優のジョン・ローン似だ。ちなみにこの男、後にナスダック公開担当者として野村證券を辞めて当社に入ることになる。  あからさまに非難されるかもしれないと思っていたぼくに、彼は意外な返事をした。「わかりました。一週間待ってください」  そう言うと野村の担当者は、その日長々と続く予定だった打ち合わせを中座して、そそくさと帰ってしまったのである。もしかしたら、愛想をつかれたのか。それとも……。  一週間後、担当者が再び来社した。ただし一人ではない。連れがいた。自己紹介を聞いてびっくりした。なんとその連れは例のサワコーのナスダック登録の担当者だったのである。しかもこの新顔は、いきなりナスダックの基礎条件について説明を始めた。ぼくにしてみれば、すでにソロモンとの打ち合わせを重ねていたので、知っていることばかりである。ぼくは彼の説明に割り込んだ。「ちょっといいですか。この前こちらには説明したんですが、うちはソロモンさんとナスダック公開の準備をもう進めているんです」「ええ、うかがっています。それで野村としてもぜひソロモンと組んで、御社の米国公開を果たしたい。そう考えています」  その後、野村とソロモンは平等の立場で、ハイパーネットのナスダック公開のアンダーライター(主幹事)をやるという覚え書きを交わし、当社のナスダック公開プロジェクトが始まった。  いまや、株式市場における日米最強コンビがハイパーネットの後ろ盾となったのだ。ぼくは成功を信じて疑わなくなった。  九六年六月一九日、ハイパーシステムは本格稼動を始めた。  本格稼動の意味するところは、つまり広告の料金を請求するということである。それまでのテスト期間には一〇〇を超える有名企業がハイパーシステムへの広告を出稿していたが、それはあくまで無料の「お試し」期間だったからに過ぎない。  テスト期間中に広告効果が上がったことを証明するデータはきちんと集まった。ここまでは見込み通りである。とはいっても、テストに参加してくれたクライアントがすべて実際に料金を支払って使ってくれるかどうかはわからない。  稼動から一カ月後、最初の広告売上が計上された。九六年七月、売り上げはわずか三百万円に過ぎなかった。クライアントは、テスト期間中に比べ、想像以上に減ってしまったのである。  ぼくは、しかしこの数字を見ても楽観的に考えていた。ハイパーシステムは世界で初めてのプッシュ型──特定のユーザーに特定の広告がどんどん送られてくる──インターネット広告システムである。浸透するにはある程度の時間を要するだろう。  その後、売上高は八月が一二〇〇万円、九月が三〇〇〇万円。伸び率はきわめてよかったが、絶対額が少ない。この程度の売り上げでは、米国公開はおろか、国内で事業を軌道に乗せること自体が大幅に遅れてしまう。当初楽観的だったぼくは、この頃からあせりを感じ始めていた。  後からわかったことだが、この時の売上高は、インターネット広告市場では非常に高い水準だった。当時うちと別の手段でインターネット広告を始めた YAHOOなど他のサービスがどれだけの収入を得ていたかは知る余地がない。が、九六年度のインターネット広告市場レポートを発表した電通からの非公式な情報では、この年およそ一六億円だった同市場のシェアナンバーワンは、なんとハイパーシステムだったというのである。とにかく絶対額は少なくなかった。というより、むしろ多かったのだ。  にもかかわらず、ぼくはこの実績に大いに不満を持っていた。しかも傲慢なことに、原因はハイパーネット側ではなく、クライアントの意識の低さだと思っていたのである。  事業計画上ではすでに億の単位の売り上げを上げていなければならなかった。ところが現実の売り上げはわずか月数千万円。予想と実態の落差は、そのままぼくの焦りにつながっていた。この焦りはそのまま、いまある売り上げに対する軽視を生んだ。これは現時点でカネを出してサービスを利用してくれるクライアントに対する軽視でもある。  ──あの野村とソロモンがアメリカで公開しましょうといってるんだぜ。天下御免のお墨付きだ。なのにこんなすばらしいシステムに参加しない企業がいるなんて。まったく信じられない。うちに広告出さないのは馬鹿としかいいようがないね。参加して広告を出すのが当たり前なのに。え、そう思うだろ。  当時、部下を連れて飲みにいくと、ぼくはこんなことばかり言っていた。うちのシステムに賛同してわざわざ広告を出してくれている企業に対する感謝の念はほとんどなかった。  ぼくは、自分が「だぶだぶの高級スーツ」を着ていたことを、すっかり忘れていた。ぼくの自意識は肥大し、もはやその「スーツ」をやぶらんばかりだったのだ。  しかも、米国からはぼくをさらに増長させるような話が舞い込んできた。  九六年夏、勤めていた会社を辞め、海外担当役員となったあの夏野から吉報が入った。

何と米国第二位のパソコン通信会社コンピュサーブのインターネット接続部門である SPRYと契約ができたというのである。契約といっても、 LOI( Letter of Intent)という、日本で言えば覚え書に相当するものだが、これも法的拘束力のある立派な契約書である。  当社は米国での展開のためにビジネスワイヤーを使ってハイパーシステムを米国で発表していたが、この発表は、米国に限らず、カナダ、メキシコ、イギリス、東南アジアの国々とありとあらゆる国の企業から提携の打診があったほどの効果があった。米国の新聞記事にはハイパーシステムの図まで入った記事がいくつも掲載され、記者会見などやっていないのに、日本以上にメディアに紹介された。さすがデジタル先進国である。コンピュサーブとの LOIは、その効果の現われだった。  これで米国でも大量のユーザーを確保できる──。ぼくは直ちに当社の技術陣をコンピュサーブに送り、接続のための打ち合わせを開始した。さらにこの頃、米国進出を考えてすでに設立を済ませてあったハイパーネット USAの営業体制を強化する指示を出した。  米国でもハイパーシステムは評価された。ぼくはもう鼻高々であった。このままいくと、日本より米国の売り上げの方が大きくなってしまうかもしれないな。とにかくはやいところ、クライアントをつかまえなきゃ。まずは米国の広告代理店を開拓しよう──。日本の市場も固まらないうちから、ぼくは海の向こうでの成功を信じきっていた。  企業というのは、こうした経営の脇の甘さから簡単に崩壊するものだ。今では、ぼくにもそれがはっきり分かる。やれナスダック公開だ、米国進出だと浮かれていたのとちょうど同じ頃、ハイパーネットの経営には早くも暗い影が立ち込め始めていたのだ。  もっとも、それが暗い影であることに気づいたのは、会社がつぶれてからだったのだが。  話は多少前後する。最初はヒトの問題だった。  ハイパーシステムをきっかけに、ぼくは海外、とりわけ米国での事業展開を強く意識していた。  が、問題は事業展開のスピードである。特にハイパーシステムのようなインターネット分野のビジネスでは、このスピードが大きな意味を持つ。少しでももたつけばすぐにライバルが同じようなビジネスを展開し、あっという間に市場を奪われるかもしれない。ぼくは限界までスピードを追求した。当初一〇月予定だったハイパーシステムの開始時期を六カ月も早い四月に繰り上げたのもまさにそのためである。  さらにインターネット先進国、米国の市場でハイパーシステムを展開するには、当然、よりいっそうのスピードが要求される。そうなると、やはり米国市場を専門に扱う新たな組織が必要となる。  九六年の春頃から、当社の経営会議では、誰が米国市場担当となって、組織を率いていくかがしばしば議題となった。考え方は二つ。ぼくが日本を誰かに任せて米国に専念する。もしくは、ぼくに変わる誰かを採用して米国を担当させる。  ソロモンブラザーズの黒部さんは、ぼく自身が米国に渡り、ハイパーシステムを展開するべきだと主張した。経営者が専任するくらいじゃなければ米国での公開はおぼつかない、と言いたかったのだろう。説得力のある意見だった。一方でハイパーネットの役員たちは強硬に反対した。日本はどうなるのか、というわけである。「社長、まだ日本の売り上げだってちゃんと立ってないんですよ。いま、ここで社長が離れるのは絶対にまずいです」、彼らの意見も正論である。ぼくは迷った。  結局、ぼくは新たに米国担当者を採用することに決定した。やはり日本が心配だったのだ。そこで思い出したのが、あの夏野である。九五年の終わりから、彼はこの事業に興味を示し、無給で渡米して調査をしたり、企画会議に参加していた。  ぼくは東京ガスに勤めていた彼に率直に「うちに来て欲しい」と話した。しばらくの説得の後、ぼくは彼を取締役副社長に据えることを条件に加えた。米国での活動をする上で、「 Executive Vice President」というタイトルは必要だったのである。もちろん、半年以上にわたってハイパーネットの外部コンサルタントの一人として本業の合間に経営に参加していた彼には、それだけの大仕事をこなせるだけの力があるようにぼくには思えた。「板倉さん、ぼくはそんな器じゃないです」、夏野にこの話を持ち掛けると、最初はこう言って辞退しようとした。今までどおり、コンサルタントとしての関係を希望していたのだ。しかし米国のビジネスを担当させる以上、彼の立場が外部のままでは都合が悪かった。「夏野君、君しかいないんだよ。頼む、うちの役員になってくれ」  最終的に彼は承諾した。七月、彼は会社を辞め、取締役副社長、海外担当重役という肩書きで、米国を舞台に仕事をしてもらうことになった。  今まで、ハイパーネットの短い歴史の中で、外部から入社していきなり取締役になった者はいない。一番最近取締役になったのは筒井だが、彼にしても社員として最低一年は仕事をしてから、役員に上がった。  けれどもこのときのぼくは経営のスピードを第一に考えていた。もはやそんなのんびりしたことはやっていられなかった。ぼくは、躊躇せず思い切った人事を社内に発表した。夏野は予定通り、取締役副社長、海外担当に就任。一方、筒井を取締役副社長、技術担当に昇格した。上下関係をつけず、担当分野で住み分けようという考えである。筒井も特に異存はないようだった。  問題は、その直後に起きた。  この人事に対し、多いに不満を感じている人間がいたのだ。中山である。  ハイパーシステムの事業部長として九五年末に入社し、これまでのハイパーシステムの驚異的なスタートアップを仕切ってきたのが彼だった。新聞や雑誌など様々な取材にもぼくに代わって的確な対応をしてきたのも彼だった。  不満が出ないわけがなかった。夏野も中山もそれぞれ米国での MBA取得者であり、日本での学歴、職歴もひけをとらない。年齢もほぼ同年代だ。しかも夏野はまだ何の仕事もしていないのに対し、中山はすでに当社に来て半年、ハイパーシステムの立ち上げという重大任務で大きな功績を上げていた。にもかかわらず、今回の人事は、実績のある中山をかたちの上では飛び越すものだった。  中山は、ぼくにはっきり言った。「このままでは納得がいきません。実績のまったくない夏野さんの抜擢は、感情的な部分を除いても、ぼくは反対です」  中山の言うことは確かに正論だった。ぼくはなんとか中山を説得しようと試みた。彼は重要なスタッフだ。ハイパーシステムの展開には欠かせぬ人材である。ここでいなくなられては困る。「中山、これはあくまで米国進出を狙った上での人事だ。君に対する評価とは何の関係もない」「そういう問題じゃないんです」、中山は納得しなかった。「板倉さん、どうもわかってもらえそうにないですね」  ねじれた感情は元には戻らなかった。彼は辞表を提出した。そして最後にこういった。「ぼくは夏野さんに対して嫉妬しているのではない。ぼくは板倉さん、あなたに嫉妬しているんだ。たとえば仕事でハイパーシステムの説明をする。そうすると、どこへ行っても、すばらしい、誰が考えたのかと質問される。その度にぼくはあなたに嫉妬した」  規模の小さなベンチャー企業の場合、たった一人の社員の存在が大きな意味を持つことがある。だからこそ、優秀な人材に逃げられるのは、経営者として最大の失態の一つだ。そして、ぼくはその失態を犯してしまった。中山は社内で数少ないぼくに苦言を呈することのできる男だった。しかしもう遅かった。九六年八月のことである。

しかも、同じ頃、ある意味でもっと大きな問題が外部で生じていた。  あの浜田さんが、突然アスキーを辞めてしまったのだ。  アスキーがハイパーシステムを利用する最初のプロバイダーになった最大の理由は、同社に浜田さんがいたからである。  何度も書くが、ぼくが二〇歳のとき最初の会社を起業したときも浜田さんが仕事をくれた。ハイパーネットを設立するときのよきアドバイザーでもあった。こう言ったら失礼かもしれないが、一五歳も年上の浜田さんを、ぼくは勝手に友達だと思っている。友達と先輩の中間というところだろうか。尊敬できる親戚のおじさんのような存在だ。趣味もぼくと同じく車だった。仕事の話よりも車の話をしている時間の方が多かった。  ぼくが浜田さんを好きな理由はいくつもあるが、仕事の面でいうと、ぼくのような〝小僧〟の言うことをまじめに聞いてくれること、ぼくのような〝非社会的〟なキャラクターをむしろベンチャービジネスをする上での有利な条件だと思ってくれていること、この二つの点が大きかった。  いずれにせよ、ぼくはいつも彼に元気づけられてきた。アスキーとのプロバイダー契約も浜田さんがいたから実現した。ぼくはアスキーと仕事をすることには躊躇していたが、浜田さんが担当してくれるならば、まったく問題なかった。しかし、そんな甘えがぼくを油断させたのだろう。ぼくは九六年に入って結んだアスキーとの契約で大きなミスを犯してしまった。  ハイパーシステムの運営事業主体としての当社と、そのアーキテクチャーを利用してプロバイダー事業を行うアスキーとの間の契約。これは六カ月間の独占契約だった。ここまでは問題なかった。  ミスを犯したのは、次の契約である。すなわち、ハイパーネットはアスキーに対して利用者の接続時間一分につき八・三三円を支払う。  これは、ハイパーネットにとって大変なリスクである。うちの広告収入がどうであれ、アスキーに対して固定的に支払いが発生するのだ。そこで、三カ月に一度、この単位料金の見直しを行うこと、アスキーが獲得するユーザー数に当社が制限を加えられること、以上二つを契約の付帯条件としておいた。が、ハイパーネットが一方的に事業リスクを抱え込んでいる現実に変わりはない。  それでも、ぼくはアスキーの窓口が浜田さんであることで、勝手に安心していた。  この契約は確かにうちのリスクが大きい。でも、ハイパーシステムの広告収入が思うように伸びなければ、単位料金を下げてもらえばいいだけだ。それに広告収入が大きく伸びれば、今度はうちにとって非常に有利になる。どんなに広告収入が増えても、アスキーに対する支払いは一定だからだ。だいたい向こうには浜田さんがいる。大丈夫だ。  しかし六月、前触れもなく、突然浜田さんがアスキーを辞めた。  何があったのかは分からない。アスキーでは有力な役員や幹部社員が飛び出すのが珍しくない。ぼくもときどき冗談で、そしてちょっぴり本気で、「浜田さん、辞めないで下さいよね」と聞いたものだ。「辞めないから安心しろ」と彼は笑っていた。  冗談は現実になった。  そしてそのときはじめて気がついた。おれはアスキーではなく、浜田さんその人と仕事していたんだ。企業ではなく、個人と仕事をしていたんだ──。  けれども実際の契約は、ぼくと浜田さんの間で取りかわしていたわけでは、もちろんない。あくまでハイパーネットとアスキーが契約していたのである。  浜田さんがアスキーを去った六月はちょうど契約を見直す三カ月目だった。  我々はそれまでにユーザーの接続状況を分析して、いくつかの傾向をつかんでいた。中でも注目したのは、直接収益に影響するユーザーの接続時間の「偏差」である。  調査結果は驚くべき事実を示していた。  ユーザー全体では一カ月間の平均接続時間はおよそ一七〇分ほどあったが、それはあくまで平均である。その偏差を見ると、月に六〇〇分以上接続する全体の五%のユーザーと、わずか一〇〇分未満の九〇%のユーザーによる平均値だったのである。  つまり、ほとんどのユーザーは一〇〇分以下の接続であり、わずか五%のヘビーユーザーのために平均接続時間が伸びているのである。一方、当初の契約では、誰が何分接続しても一分八・三三円である。  これは非常に困ったことである。なぜなら広告媒体としてみた場合、ある特定のユーザーが長時間接続しても、一人は一人である。接続時間は関係ない。だからあるクライアントの広告を表示する広告料金はたとえそのユーザーがどんなに長時間接続していても一人分しか徴収できない。ところが、ハイパーネットがアスキーへ支払う料金は、分刻みで値段を設定しているから接続時間の多いユーザーの分が多くなる。  まずこの部分から見直さなければならなかった。しかも、当初の広告収入は事業計画を大きく下回っていた。となれば、基本料金である八・三三円も見直す必要がある。  そこで、我々は新たな条件を提示した。まず基本料金を一分三円に、そして、ユーザー一人当たり月間三〇〇分までの料金しか支払わないという条件を付加する。以上が新たな契約の内容である。  新たな契約では、もしあるユーザーが三〇〇分以上接続しても、三〇〇分までの料金しか支払わないし、逆に三〇〇分未満の接続であれば、その接続時間分しか支払わない。これならば、広告媒体としての価値(つまり会員数)と経費(アスキーへの支払い)のバランスはとれるはずだった。  とりあえず、契約の件は片付いた。だが、今後浜田さんのいないアスキーとハイパーネットはうまくやっていけるだろうか。ぼくのこの不安は、裏を返せばアスキーの不安でもあったに違いない。  そして両者の不安は、やがて不信という言葉に置き換わることになる。  トラブルはこれで終わったわけではなかった。今度は IMSで事故が起きたのである。  ぼくはしばらくの間、 IMS事業にあまりかかわっていなかった。が、 IMSは順調に受注を伸ばしていた。ハイパーシステムがマスコミに注目された相乗効果もあって、顧客数が右肩上がりに伸びていたのだ。ぼくの仕事といえば、営業面やシステム稼動の面でトラブルが発生したときのクレーム処理くらいしかなかった。本音を言えば、ハイパーシステムがらみの仕事の忙しさにかまけていたのである。経営者として IMSに目が行き届いていなかった。  事故は、そんなときに起きた。「すみません、社長」  ある日、ぼくのもとに報告に来た IMS営業マネジャーが泣きついてきた。「代理店さんとトラブルです」  仕事上の細かなトラブルだったら昔から慣れっこだ。ぼくは聞いた。「え、どんなトラブルだ。いいからいってみろ」「いや、まあこっちのミスなんですが」「そりゃそうだろ。で、要はどことトラブったんだ?」「そ、それが、……電通です」「なに?」

電通、と聞いてさすがに声が裏返った。一体何をしでかしたんだ?  担当者の話をじっくり聞くと、事故のあらましはこんな内容だった。   IMSは、前にも説明したように、新聞や雑誌に掲載された企業の懸賞広告やキャンペーン広告に消費者が電話で応募できるシステムである。当然、広告には電話番号が記載されている。そして、その番号はうちで保有する大量の電話番号のひとつを任意に選び出したものだ。当然、その番号に間違いがあったら、大変なことになる。懸賞やキャンペーンが成り立たなくなるのだ。  今回のミスはまさにこれだった。うちの担当者が、取引のある電通の子会社、電通ワンダーマンダイレクト(電通ワンダーマンケイトージョンソン)に間違った電話番号を伝えてしまっていたのである。その番号は、すでに他のキャンペーンで使われていたのだ。  不幸中の幸いというべきか、この事故は、実際に広告が新聞・雑誌に載る前に発見されたので、実質的な被害は発生しなかったようだ。  しかし電通グループは怒り心頭だった。間違いを見つけたのがうちの担当者ではなく、向こうの人間だったというのもまずかった。そして、どうやら相手は、一〇〇万円の慰謝料を請求する、というところまで話がねじれていたのである。  ぼくは首を縦に振らなかった。何しろ実害がどこにも発生していなかったのである。   IMSはこれ以外にも多くのトラブルを起こしていたが、こちらに非があって、かつ実害が発生した場合には、すぐさまクライアントの要求する賠償を受け入れていた。実際 IMSの年間売上高のうちの数%が、この手の賠償やそれに準ずる値引きによって失われていた。  ところが今回は実害が発生する前の失敗である。ぼくは営業に誠意を持って謝り、始末書を書き、具体的な再発防止の対処法をもって先方をなんとかなだめるように指示した。  最初、先方の態度は変化しなかったが、ぼくは営業に指示を出し、電通ワンダーマンはもちろん電通本体にまで謝罪にいかせた。その結果、慰謝料の件は何とか矛を収めてもらった。が、それからである。電通ワンダーマンからの IMSの受注は激減し三カ月とたたずにゼロになってしまった。素直に謝罪しない取引先には仕事を出さないということだろうか、とぼくは思った。最初の非は確かにこちらにあったが、釈然としない気分だった。  ただ、後日この件に関して、知人に相談したところ、とにかく目の前の理屈よりも先に慰謝料を払ったほうが、ビジネス上は得策だと諭された。確かにそのアドバイスは正しいと今では思う。しかし、このときのぼくは、本当にそれでいいのだろうかと、かなり憤慨していた。  ハイパーネットは、広告代理店の単なる下請ではない。世界に存在を示せるようなベンチャービジネスをこれから展開していこうというのだ。こんなところで目先の利益のために納得のいかないおカネは払いたくない──。すでにハイパーシステムの事業展開と、ナスダック公開を見据えた米国進出、この二つにすっかり頭が占領されていたぼくは、そう思っていた。  まったく愚かな話である。本当の経営者ならば、数年間かけて育ててきた IMSをもっと大切に扱うはずだ。ビジネスの社会で、その場その場の取引が理不尽かどうかは必ずしも問題ではない。問題は結果なのだ。ぼくは、自分の論理とプライドと引き換えに、大事な客を失ってしまったのだ。これはなによりの損失だった。  でも、このときはそうは考えていなかった。  ぼくは、もはやハイパーシステムと米国進出という言葉に完全に溺れていたのである。そんなとき、冷水を浴びせかけるような最大のトラブルがぼくを襲った。  ついにハイパーシステム本体で事故が起きたのだ。  そもそもの原因は、当社がシステム開発を委託していた会社に仕事を急がせすぎたことにあった。前述の通りスタート時期を早めたからだが、その結果、システムには細かな欠陥がいくつも残っていたのだ。  実はテストサービスから常にトラブルが発生していた。が、それまでは些細なものであったためそれほど問題にならなかった。しかし今回は違う。何といっても広告の履歴データが出力できないのである。  ハイパーシステムは、ユーザーの属性にあわせて広告を送り出すのが特徴である。その広告効果を正確に測るには、何人のユーザーに、いつ、どの広告を何回表示して、その結果、何人が実際にその広告画面をクリックして、クライアントの提供するホームページにアクセスしたのかという詳細な履歴データが必要となる。そしてこの顧客の履歴データの存在こそが、クライアントがハイパーシステムを使って広告を出す「意義」なのだ。このデータがクライアントにとってあらゆるマーケティングの材料となるからである。逆にいえば、この履歴データが何らかの理由で出力できないとすれば、クライアントにとってハイパーシステムに広告を出す意味はない。  九六年九月、ハイパーシステムにとってその最悪の事態が表面化した。システムのトラブルで、各広告の履歴データが一切出力できなくなったのである。  ちょうど毎月広告収入が伸びていた時期だった。すでにクライアントの多くが継続的に毎月一定額の広告を出してくれた。そしてハイパーネットでは、このように継続的に毎月広告を出してくれるクライアントの数を徐々に積み上げていくことで、効率的に売り上げを伸ばしていこうと考えていた。その意味では、彼ら「継続クライアント」は大切な上顧客であった。しかも一方ではナスダック公開の話が進んでいた。ハイパーシステムの真価を問われる大切な時期なのである。  事故はよりにもよってそんなときに起きたのである。  広告の効果が測定できないとわかると、広告を継続してくれる予定だったクライアントのほとんどが、広告を出す意味がない、と一〇月からの広告を見合わせた。  もはや売り上げの絶対額が小さすぎるなどと贅沢なことをいっている場合ではなかった。ハイパーシステムの売り上げそのものがほとんど無くなってしまったのである。事態は緊急を要した。ぼくは社内スタッフと協力会社の尻をたたき、システムの改善を促した。  システムは二週間ほどで復旧した。だが一度失ったクライアントの信頼を取り戻すのは簡単ではなかった。しかもこうしたシステム・トラブルは、九七年に入ってもなお、頻繁に起きたのである。  それにしても、九六年の春から秋にかけての自分と自分の会社を振り返ってみると、改めて思う。「こんな実状でよく米国公開などと口にできたものだ」と。  幹部社員は逃げ出す。提携先の重要人物が辞めてしまう。それまでの基幹事業はトラブルで大事な客を失う。おまけに肝心のハイパーシステムまで事故が起きて、売り上げが落ちる。これだけ並べると、株式公開を予定している会社にはとても見えない。知らない人が聞けば、つぶれかかった会社の話だと思うかもしれない。  しかしトラブル連発だったにもかかわらず、ぼくはこのとき自分の会社が米国で成功することを確信しきっていた。いや、ぼくだけじゃない。周りに集まった多くの名だたる企業が、少なくともこの時点では、ぼくと同じ判断を下していたのである。  それは、ハイパーシステムがトラブルに巻き込まれていた真っ最中の九六年秋、何度となく開かれたナスダック公開プロジェクト会議に集まった面々を眺めればよくわかる。

出席者は、野村證券、ソロモンブラザース、当社の弁護士事務所である米国のピルズベリー、アンダーライター側の弁護士事務所であるシンプソンサッチャー、会計監査をするプライスウォーターハウス、ハイパーネット USAの社長であるジェイ、それにわれわれ経営陣と社内の公開プロジェクトチーム。以上総勢二〇名ほどの錚々たるメンバーが毎回白熱した会議を繰り返していたのだ。  すべてのスタッフがそろう会議は決まって野村證券渋谷支店の大会議室を使って行われた。その部屋は多分一〇〇人ぐらいの講習ができるほどの大きさで、一番奥には黒板と一段高い演台が用意されていた。そこを二〇人ほどで贅沢に使っていたわけだ。  簡単な折りたたみテーブルが、縦横一〇メートルぐらいに「コ」の字に並べられ、片側に野村證券とソロモンブラザーズのスタッフ、そしてその反対側にはそれぞれの弁護士事務所のスタッフ。多分この会議に弁護士は五、六人参加していただろう。両者の真中の列にはぼくを中心にわれわれハイパーネットの役員と公開プロジェクトスタッフ。その他の野村證券渋谷支店のスタッフは遠慮してだろうか、「コ」の字型に置いたテーブルの外側の折りたたみ椅子に座っていた。  学生時代、一〇〇〇人の観客の前でコンサートをしていたときも、二〇〇人の広告代理店関係者のまえでマーケティングの講演をするときも、六本木できれいなお姉さんを六人同時に相手しているときも、物怖じすることのないぼくだが、この会議の時ばかりは毎回緊張した。自分とハイパーネットの将来を大きく左右する創業以来の大プロジェクトだったせいかもしれない。  うまく公開できればハイパーネットは数十億円のキャッシュを確保できる。ぼく個人も一晩で計算上は億万長者だ。それになんといっても、日本の企業史に残る「日本初、ナスダック公開をハイパーネットが果たす!」という名誉を手に入れられる。  ところが会議はすべて英語である。米国のナスダックが相手だけに、集まったメンバーも米国人が中心だ。当然の話だが、これには参った。  ぼくは、この会議を何回かこなすうちに、英語に対する苦手意識が非常に強くなった。もともと英語のヒアリングはなんとかできたし、文法はでたらめだが、ビジネスの領域でも相手にきちんと意志を伝えられた。一般的な日本人からすれば、むしろ「英語のできる」ほうかもしれない。自分でもそう思っていた。  ところがこの公開準備会議では、難しい財務的な単語や、非常にフォーマルな英語の言い回しなどが次々と出てくる。日本人もいれば、ネイティブアメリカンもいる。会議で交わされる英語はぼくにとって速度も内容も理解を超えていた。  幸いにもぼくを助けてくれる当社の優秀な役員がいたので会議の方はそれでもなんとかなった。でも、米国での公開にあたっては、ぼく自身が英語を使わねばならない〝舞台〟に立つ必要があった。〝ロードショー〟である。  映画のロードショーのことではない。ナスダック公開前に全米およびヨーロッパなど二〇カ所以上の都市で、投資家向けにプレゼンを行うのだ。連日の会議で英語に対する苦手意識が染みついてしまったぼくにとって、できれば避けたい仕事であったが、社内外の誰もがそれを許さなかった。口をそろえて「板倉さんの英語力なら大丈夫」、そういうのである。  もちろんぼくは彼らの言葉をストレートに受け取ってはいなかった。英語は下手だけど代表者自らしゃべるというのが、投資家にアピールする上で必要だということなのである。そんなことはわかっている。それでも大変な仕事に変わりはない。  ただ、基本的に目立ちたがりのぼくは、表向きは嫌がりつつも、心のどこかでこの大仕事をクールに決めてやろう、と思っていた。「ロードショー」の話が会議に出て以来、ぼくは自宅で犬を相手に毎日「フォーム F― 1」という公開目論見書(プロスペクタス)を暗記して、演説の練習をした。うちのゴールデンレトリバーもまさか下手な英語で株式公開の説明を受けるとは思ってもみなかっただろう。  このように、ナスダックの公開準備会議は毎日のように開かれ、事務作業も着々と進んでいった。会計監査のためにプライスウォーターハウスからは数人の会計士が当社に机を置き、当社の管理部門の何人かは公開準備室なる新たに借りたフロアーにて連日遅くまで仕事をしていた。特別なトラブルが起きない限り、ナスダック公開までは時間の問題であった。  ハイパーネットは公開時に数十億円の資金調達をする予定だった。この資金によって当社は財務体質を改善するつもりだった。銀行からの融資など間接金融に頼り切りだったのを直接金融による自己資本に切り替えるわけだ。システムトラブルに加え、国内のインターネット広告市場がなかなか拡大しないがために、ハイパーシステムの実績は当初の計画よりもずいぶんと下回っていたが、事業を開始してわずか数カ月だ。ぼくからすれば、これからいくらでも対策を打ってそれを改善することは可能に見えたし、なによりハイパーシステム自身の外部評価は依然として高かった。  ぼくも社内のスタッフも、そして周囲の企業も、ナスダック初公開という刺激的なプロジェクトに参加することで完全に舞い上がっていた。  もっともぼくも浮かれてばかりいたわけではない。海外進出をするにあたって、新たにスタッフを増強する必要があった。中でも、財務関連の取締役の採用は、ナスダック公開を実現する上で必須課題である。つまり CFO(チーフ・フィナンシャル・オフィサー =財務担当役員)の設置だ。   CFOになるべき人物に求められる条件は、まず日本と米国の両方の会計に明るいこと。当然英語も堪能であること。しかもできれば米国でのビジネス経験がほしい。九月頃、連日の会議で CFO候補の条件を議論しているときに、ぼくは一人の男を思い出した。  その条件にぴったりの人間がいる。森下賢二だ。  彼はぼくの飲み友達だ。公認会計士で、同時に米国の CPA(サーティファイド・パブリック・アカウンタント =米国の公認会計士)でもある。大手監査法人で会計士をやり、ロサンゼルスの系列監査法人でも三年勤めた経験がある。まさに今回の採用のためにしつらえたような経歴の持ち主だった。  ぼくより二歳年上の森下は、ころりとした体型の見てからにおっとりした性格の温和な男だった。中学、高校を開成で過ごし、なぜか東大にいかずに慶応大学に入学。その後公認会計士の資格を取ったという。いかにも東京のお坊ちゃんで、人を押しのけようといった野心のようなものがまったく感じられないタイプである。  ぼくはすぐさま彼に連絡を取った。確か自分でコンサルティング会社を起こしているはずだ。  彼はその会社のクライアントであるデジタル衛星放送の番組製作会社の取締役に就任していた。しかも就任直後だというではないか。何ともタイミングが悪かった。  それでもめげずにぼくは森下を口説いた。何度か交渉する中で、彼が最終的に当社への移籍を決めたのは、やはりハイパーシステムの概要をプレゼンしたときだった。データベース・マーケティングの重要性がわかっていた森下はこの事業の発展性を見抜き、当社への移籍を決意したのである。  ぼくは彼を口説くときに、女性を口説くときと同じテクニックを使った。すなわち、「口説けたこと」を前提に話をどんどん先に進め、相手に納得させてしまうのである。そう、こんな具合だ。「それじゃあ、公開プロジェクトの担当者は森下さんが決めればいいよ」「あははは、板倉さんは強引だから。話がもう先に進んでるよ」「それから、自分が CFOなんだから自分の報酬は自分で決めなくちゃ」「え?  あ、なるほどね」「ところで、ハイパーネット USAの取締役にもなってもらった方が、後の仕事はやりやすいよね」「確かにね」

「そうだ、部下にどんな人が必要かなあ」「まあ、幹部に会ってみてからだよね」「じゃあ、とりあえずうちの部長連中と話してみてよ。そうだ、部長の一人からハイパーシステムのプレゼンをしてもらってださいよ」「うんうん」「とにかく公開したら役員みんながタックスヘブン(税金天国)に別荘なんか持ってさあ」「いいねえ」「あっ、机は財務部門の一番奥にあいてるところがあったでしょ。あそこでいいよね」「うん、いいですよ」──といった具合である。  森下は九月中に正式に CFOになった。そして同時にナスダック公開プロジェクトの責任者にも就任した。すでに紹介した公開プロジェクト会議にも、実はこの森下がすべて参加していたのだ。  またしてもトラブルだ。  九六年一〇月。ぼくがデスクで電子メールの処理をしているとき、夏野が部屋に入ってきた。「今、いいですか?」  ぼくに話しかけているのではない。部屋の入口横のデスクにいる秘書に確認しているのである。夏野は悪い知らせを伝えるとき、いつもこうする。いい知らせのときは、秘書を飛び越してぼくの目の前にどかどかとやってくる。気づいていたが、知らない振りをしてパソコンに向かっていた。「社長、いいですか」  いつもならば、満面に笑顔を浮かべて、なかなか用件を言おうとしないのに、わざわざぼくに確認をしている。表情が暗い。ぼくは平静を装って、顔を上げた。「なに?」「いやね、コンピュサーブが断ってきたんですよ」「はっ?」「あのー、 LOIをキャンセルしたいって」  会話はあっけなかった。夏野がここまで率直に話すということは、すでにそれなりの対処をしたということだ。いまさら騒いでも状況は好転しない。  わずか二カ月前に交わした LOIを、コンピュサーブがなぜ一方的に破棄したいと伝えてきたのか。ぼくは理由を知りたかった。しかし、夏野によれば、先方はこちらが納得するような理由を明確に示さずに、解約を主張するだけだという。  当社はすでにハイパーネット USAに相当の投資をしていた。社員数はこの時点でおよそ二〇人に達していたし、米国の大手広告代理店との代理店契約も進んでいた。更にハイパーネット USAとして用意する必要があるデータベースセンターの準備も着々と進行していた。すでにサイは振られたのである。  態度を変えない先方に対し、我々は米国での訴訟を検討した。 LOIといえども、細かいところまでつめた数字を交えた文書に基づく契約である。当然法の下で損害賠償や契約違反について争う用意はあった。  けれども、我々が経営会議で最終的に下した判断は、「泣き寝入り」だった。この件について訴訟するには大変な費用と時間がかかるし、それ以上にまだ米国での実績が何もない当社のような企業がコンピュサーブを相手取って訴訟を起こしたとあっては、その後の米国展開にマイナスに働くと判断したのだ。  悔しいがしょうがない。ぼくたちは次の相手を探すことにした。当時はこのコンピュサーブ以外にもいくつかの米国のプロバイダーからラブコールがあった。だったら、裁判ざたで時間をつぶすより手っ取り早く次の相手を選定した方がよい。ところが、新しい「結婚相手」はなかなか決まらない。いずれのプロバイダーも固定支払いを求めてきていたからである。米国は日本ほどネットワーク運営コストが高くないからプロバイダーが求める金額も相対的に安い。それでも、支払いを固定するのは非常に危険だった。  あるプロバイダーはユーザー一人当たりにつき月に七ドルの要求をしてきた。確かに計画通りの広告収入が達成できれば、このくらいは支払える。しかし、ユーザー数ばかりが増え、広告収入がそれに見合わなかった場合、当社の支払いが増えるばかりだ。事実、日本ではトラブルのせいもあって、広告収入が当初の予定を大幅に下回っていた。  結局、我々は、自前でプロバイダー業務をこなすことに決めた。  調査の結果、米国では、インフラを持たなくてもプロバイダー業務を始められることがわかったからである。  米国のプロバイダーの多くは、自前では通信設備を持っていない。代わりに大手のキャリア(日本でいうと NTTや DDIといった通信インフラを持った企業のこと)から設備を借用してプロバイダー業務をこなしているのだ。キャリアと契約すれば、メールサーバーやユーザー認証のためのサーバーを設置してインターネットへのゲートウェイを設けるだけで、プロバイダー事業ができる。  これが日本の場合だと、プロバイダー業務を始めるには、はるかに手間とカネがかかる。自前のモデムやサーバーなどの設備を自前の不動産に設置し、さらに全国各地にアクセスポイント用の不動産を確保してそこにモデムなどの設備を置かなければ事業はスタートできないからだ。  米国でのプロバイダー事業は、設備産業というよりユーザー獲得やユーザーサポートを中心にしたマーケティング・ビジネスなのである。  問題はどの程度のコストがかかるかだが、これも予想をはるかに下回った。パシフィックベルからの提示金額は、ユーザー一人当たりわずか月間二ドルである。これならばユーザー獲得のためのマーケティング費用やユーザーサポートのための費用を考えても、既存のプロバイダーに支払うメディアフィーよりもかなり安くできる。それに第三者が絡まないから、広告収入が期待通りでなかった場合には、ユーザーの増加を制限することによって収支をコントロールできる利点もあった。  ぼくは、夏野に自前でプロバイダー事業を始めるよう指示した。いよいよハイパーシステムの米国進出だ。後は、広告収入を確保できるかどうかである。  当社では、ニューヨークの広告業界の街、マジソンアベニューにオフィスを拡張し、営業を開始した。スタッフには、グレイ・コミュニケーション、 JWトンプソンといった大手広告代理店からヘッドハンティングした優秀な人材が揃っており、彼らが代理店契約に走った。数週間後、彼らから日本に寄せられたレポートの内容は、ぼくに大いなる自信をもたらした。  この時点で、ハイパーシステムはまだ動き出していない。当然ユーザー一人もいない。にもかかわらず、次々と広告の依頼があったのである。しかも、 P& G、ユナイテッド航空、アメリカン航空、ゼネラルモータースなど誰もが知っているような大企業が五〇社ちかくもアプローチしてきたというのだ。それだけではない。ホームページでショッピングサイトを持っている小さなベンチャー企業からも受注があった。  ナスダックはもう間近だ。ぼくは思った。  その思い込みに拍車をかける出来事が起きた。  舞台は、東京は渋谷区・笹塚、甲州街道沿いのビルにオフィスを持つ米国企業の応接室。

この企業、名をマイクロソフトという。  九六年一二月某日、ぼくはパソコン販売大手、ソフマップの鈴木慶社長に連れられて、マイクロソフト日本法人本社へと向かった。同社の成毛真社長と面会するためである。  鈴木社長は、 YEO( Young Entrepreneur Organization)という若手起業家の会での知り合いだ。その鈴木社長のところに、一週間前ハイパーシステムの広告クライアントになってもらおうと訪問したとき、「板倉さん、来週成毛さんに会うから一緒にこないか」と誘われたわけである。  鈴木社長の来社目的は、ソフマップの子会社、ソフマップフューチャーデザインの新作ソフト「クオービス」のデモンストレーションだった。これはアプリケーションソフトを開発するための優れものツールである。子供のブロックおもちゃのように、あらかじめ用意されたソフトウエアの部品をつなげるとアプリケーションが出来上がってしまう。  クオービスの目玉はその動作速度にある。通常のソフトウエアは、おおざっぱに言うと板を積み重ねたような階層構造で成り立っているため、その規模が大きくなればなるほど、動作が遅くなる。ところが、クオービスで開発したソフトは、ブロック状の「部品」を階層構造をつくらずに横につなげたような形で成り立っているため、いくらその規模を大きくしても動作速度は低下しないのである。  成毛社長を前に、鈴木さんはパソコンのディスプレイ上にクオービスでつくった地図ソフトを開き、ぐいぐいとスクロールさせてみせた。何のストレスもなく地図の画面はどんどん動いていく。  実はぼくはこのクオービスを鈴木さんのオフィスで何度も見ていた。そのため横でやることもなく、彼の説明をぼんやり聞いていた。突然、成毛社長はぼくに話を振ってきた。「それで、板倉さんのほうは?  なんか面白いことやってるんだよね、最近」  どうやら成毛社長はぼくの新規事業の情報をすでに入手しているようである。「ええ、その件もちょっと話したくて、鈴木さんにくっついてきました。今度開発したハイパーシステムというインターネットを利用した広告システムのプレゼンをさせていただければと……」「ずいぶん評判だね」  そう言って、成毛社長は、ぼくに話をするよう促した。ぼくは、すぐにハイパーシステムの基本的な特徴を丁寧に平明に説明し、持ち込んだノートパソコンで実際にサービス画面を披露した。  もう何度やったかわからないほど繰り返してきたプレゼンを、ぼくは成毛社長の前で繰り広げた。  プレゼンを終えたときに、成毛社長は、「この五年間で見たソフトの中で一番すばらしい!」と声を上げ、いきなり席を立って部屋から出ていった。  トイレにでもいったのか?  唖然としていると、五分ほどたって戻ってきた成毛社長の後ろには、三人の男が連なってやってきた。名刺を交換する。広告宣伝部長、次がインターネット部門統括責任者、最後が──おい、ちょっと待てよ、古川亨会長じゃないか!  しかも皆さん、ちゃんと説明を受けていないらしい。どうやら成毛社長が、面白いものがあるから見にこいよと誘ったようだ。  ぼくは、もう一度簡単にプレゼンをした。すると途中で古川会長がさえぎり、「板倉くん久しぶりだね」「え……」「お宅の会社のことはよく知ってるよ。調べたから」「調べた、と言いますと?」、いきなりなんだ。ぼくは虚をつかれて、声が上ずった。  古川会長はその太い眉をぴくりとも動かさずに、ぼくの記憶ではこう言った。「実は、〝ビル〟から調べろ、と言われたんだ」〝ビル〟?  このマイクロソフトの社内でビルといえば、ただ一人しかない。そう、創業者ビル・ゲイツ会長のことである。  あのビル・ゲイツがなぜうちの会社を?  古川会長の話によればこういうことだった。わりと最近の話だが、ビル・ゲイツ会長がアスキーの西和彦社長と会った(二人は旧知の仲である)。そのときインターネットのプロバイダーサービスの話になり、西社長が彼に自慢したのだという。こんな具合に。〈マイクロソフト・ネットワークは日本では全国展開してるのに二〇万人ぐらいしかユーザーが集まっていないだろう。うち(アスキー)はたった六カ月で、しかも東京だけのサービスで一〇万人を超えてしまったんだぜ〉  世界一の負けず嫌い、ビルはすぐに古川会長に連絡し、アスキーの会員増にはいったいどんなカラクリがあるのか、調べてくれと話をした。そこで日本のマイクロソフトが調査をしてみると、ハイパーシステムなる新しい広告システムをアスキーが利用し始めてからユーザー数が一気に増えたことがわかった。しかもそのシステムを実際に開発・運営しているのは、アスキーではなくハイパーネットというベンチャー企業であることも……。  話は予想もつかない方向に進んでいた。あっけにとられるぼくに、古川会長は質問した。「ところでこのハイパーシステムの権利関係とか、そのあたりはどうなってるの?」「ええっと、すべての権利を当社で保有しています。当社自体は、アスキーはもちろんコンピュータ業界の企業からの資本は一切入っていません」。そう言ったあと、こう付け加えるのも忘れなかった。「いつもアスキーの子会社だと勘違いされるんですが」「ふうん、そうなんだ」  古川会長はうなずいた。「アスキーとは関係ないんだね。じゃ、ソフトバンクとは?」「もちろん関係ありません。うちは独立系ですから」「あ、そう」  古川さんは、一体何を考えているんだろう。ぼくの頭の中にいくつもの疑問符が浮んだ。  卓上のパソコンで「ホットカフェ」をいじっていたインターネット部門統括者が唐突に声をかけてきた。「これ、ブラウザーはどうしてるの?」  ぼくは我に返った。ここは慎重に答えねばならない。「インターネットエクスプローラーを起動するようになっています。でもユーザーの設定でネットスケープナビゲーターが起動する場合もありますが……」  この答え方には、ぼくなりの配慮があった。エクスプローラーはご存知の通りマイクロソフトの製品。そして当時ネットスケープ社のナビゲーターを必死に追いかけている最中だった。だからこそ、ぼくはあえて中立的な発言をしたわけである。「なるほど」彼はうなずいたあとにこうつぶやいた。「うちのエクスプローラーだけで動くようにならないかなあ?」  冗談に聞こえてしまうこの言葉が、ちっとも冗談でなかったりするところがマイクロソフトのマイクロソフトたる所以だ。ぼくもジョーク交じりではある

がこう答えておいた。「それもいいですねえ。マイクロソフトでもホットカフェを配ってくれませんか」  その日、残りの時間は、古きよきアスキーの昔話をして帰路についた。古川会長も、成毛社長も、もともとアスキーの出身だ。ぼくも二〇代前半でゲームソフト開発をしていたときには、しょっちゅうアスキーを訪れていた。だからその頃からご両人とも何回か顔を合わせていた。古川さんがぼくに向かって「久しぶり」といったのも昔から面識があったからだろう。そんな訳で、ぼくは先方の覚えている範囲で適当に話を合わせた。  この日の面会をきっかけに、マイクロソフトからハイパーシステムでの広告依頼があった。とりあえず当初の目的は達成できた。とはいっても、ぼくの関心はもはやそこにはなかった。帰りの車の中でも、心ここにあらずであった。鈴木社長には舞台をさらったような気がして悪いとは思ったが、正直な話、このときぼくの頭の中を占めていたのはこんなことだった。  あのマイクロソフトが、あのビル・ゲイツがぼくのことを知っていた。そしてぼくのビジネスを調査していた──。  それが何を意味するのか、このときはまだ想像もつかなかった。  ニュービジネス協議会(通称 NBC)という組織をご存知だろうか。   NBCは一九八五年、ベンチャービジネスの振興のために発足した。 NECの関本忠弘氏、アサヒビールの樋口廣太郎氏、そして CSKの大川功氏と代々大物経営者が会長職に就いている。ベンチャービジネスを束ねた組織としては規模の面でも権威の面でも日本で一番力のあるところだろう。  この NBCの恒例行事が、毎年暮れに開催するベンチャービジネスの表彰式だ。表彰タイトルは一〇種類以上あり、中でも最高の賞がニュービジネス大賞である。候補企業は、付き合いのある金融機関やベンチャーキャピタルなどの推薦で決まる。  一九九六年、ハイパーネットはいつのまにかこの NBCの表彰候補に挙げられていた。うちの株主で、日本長期信用銀行のベンチャーキャピタル、 NEDが推薦したのである。とはいっても、推薦の応募そのものは簡単にできる。応募用紙に必要事項を記入するだけなのだ。  その後、応募用紙を参考に審査委員会がそれぞれの会社の成長性、独自性や財務状況などを調べ、最後に経営者を面接、その結果で受賞を決定するという手順らしい。  九六年九月、「 NBCのニュービジネスの賞におたくを推薦しといたから」という連絡を NEDから受けたとき、ぼくはほとんど流して聞いていた。  仕事ではトラブル続き、一方でナスダック公開準備は着々と進む。結果、毎日一五時間労働、といったこの時期のぼくにとって、とれるかどうかも分からない賞の存在に気を払う時間も余裕もなかった。それに入賞したからといって銀行の融資枠の拡大やベンチャーキャピタルの増資がセットになっているわけではない。要するに、事業には直接なんのメリットもない──。そう思っていたのである。大体の話、入賞するなんて想像だにしていなかったのだ。  一〇月、書類審査や調査が進行して、それぞれの賞の候補企業が決まり、最後に最終面接がある。再び NEDから連絡があった。「板倉さん、御社が最終候補に選ばれました。しかもかなり有力です。ぜひ最終面接に出向いてください」。  相も変わらず忙しかったが、賞が取れそうだとなると話は別だ。もともと目立つのは大好きである。商売に直接結びつかなくてもまあいいや。ぼくは都内のホテルで行われる面接に臨んだ。  ホテルに到着後、待合室に案内された。一〇人ぐらいで一杯になるような小さな部屋に、折りたたみの机と椅子が置いてあった。  数人の中年男が緑茶を黙ってすすっていた。満員のエレベーターに乗ったときのような生ぬるい空気が顔を覆う。ポマードと汗の混じった臭いが鼻の穴に侵入してきた。部屋を間違えたのか。ぼくはドアの外に立てられた看板の文字を見直した。「 NBC待合室」。確かにここだ。  しかし、その部屋にいる面々はベンチャー経営者には見えなかった。人を外見で判断するのは間違っている。年配の方が起業してはいけない、という法はない。でも、少なくともぼくの知っている「起業家」たちとは、ずいぶんと趣を異にする方々だった。やはり世間は広い。ぼくの知らない世界がずいぶんあるのだ。そう思って、ぼくは隅っこの椅子に座った。  緑茶を飲んでいるおやじさんたちともときどき目が合うが、誰も口を開かない。面接の前で緊張でもしているだろうか。ぼくはダブルのスーツの内ポケットから煙草を取り出し、とりあえず一服した。地方の商工会議所の待合室にいるようだった。  四本目の煙草に火をつけようとすると、ドアが開いて、名前が呼ばれた。  就職試験を受けたことがないぼくにとって、目上の人々に面接されるのは初めての経験である。妙に天井の低い長い廊下を歩き、ドアを軽くノックして会場に入室した。入り口から五メートルほど奥に、細長いテーブルが用意され、数人の審査委員がこちらを向いて座っていた。一人はテレビや雑誌などでおなじみの三菱総合研究所の牧野昇氏、その他にも名前は思い出せないが経済界の有名人が並んでいた。ハイパーネットを推薦してくれた NEDの中島省吾社長の顔もあった。  このとき何を質問されたのか、ほとんど記憶にない。おそらく、当たり前の質問ばかりをされたのだろう。急激に成長していますが、理由はなんですか?  ハイパーシステムはどうやって思いついたのですか?  海外展開をしているそうですがスタッフはどうやって集めましたか──。  それでもぼくはいくつかの質問に無難に答え(たはずである。というのもどう答えたかもよく覚えていないからだ)、もはや名人芸の域に達したプレゼンを行った。最後の質問が終わって部屋を出ると、ほかの人よりずいぶん面接時間が長かったですね、と入り口に控えていたスタッフの方から聞かされた。審査員がよっぽど当社に注目しているのだな、と思ったが、少し経って、ぼくのプレゼンが長かっただけの話だ、と気づいた。  面接から何日ぐらいあとだったろうか。一一月のある日、ぼくは実に久しぶりに会社をさぼって〝カート〟に出かけた。  遊園地のゴーカートをご存知だろう。カートは基本的にあれと一緒である。ただし走る場所とエンジンの性能が違う。本物のサーキットで時速一〇〇キロ、コーナーを曲がっているときの加速 Gは最大 3 Gに達する。ちなみに F1でも 4 Gほとだ。ボディが小さく、地上高が思い切り低いから、スピードを出せばかなりの迫力である。欧米では、これで子供たちがレーシング技術を身につける。 F1ドライバーにもカート経験者は少なくない。たしかアイルトン・セナやミハエル・シューマッハもそうだ。  このサーキットでは毎月、ぼくの知り合いの外車ディーラーが場所を貸し切って、車好きのお客さん、それもフェラーリやポルシェなどの持ち主ばかりを集め、開放していた。おかげでその日は一日中、疑似レーサーになれる。ここに集う連中にとって、フェラーリだろうがポルシェだろうがサーキットへ行く間の「足」に過ぎない。それだけカートでコースを走るのは、魅力的であり、刺激的だった。  すっきりと晴れた秋の空の下、ぼくはコーナーを攻め、直線を駆け抜けた。再び急なカーブが目の前に迫る。両手で包み込めそうな小さなステアリングホイールを左に傾けると、巨人に引っ張られたように反対方向へ体が持っていかれる。ぐっとがまんして、スライドしかかったテールを修正するために、軽くカウンターステアを入れ、アクセルをぐっと踏み込む。曲がり際で殺されたスピードが一気に戻り、背中を蹴飛ばされたように重力が前方へ飛んでいく。  ピットに戻ってカートを降り、いささか冷え過ぎのコーラのプルトップを引き抜いて飲みかけると、バッグの中で携帯電話が鳴った。「もしもし?」  カートの甲高い走行音で、何をしゃべっているのか聞き取れない。ぼくはトイレに入って、もう一度電話を耳にあてた。「もしもし」

「もしもし、社長ですか」秘書の声である。「ハイパーネットが NBCの大賞を受賞しました」電話の向こうの秘書はそう話した。  予期せぬ場所で予期せぬ話を聞いて、なんだか無性にうれしかったことを、ぼくはよく覚えている。会社をさぼって遊んでいると、こんな吉報が舞い込んでくる。こんなこともあるんだな。トイレから出たぼくは、高い空を見上げながら、大きく息を吸い込んだ。   NBCの表彰式の招待状がオフィスに送られてきた。一九九六年一二月一〇日・一一日。場所は横浜・桜木町の巨大埋め立て地、みなとみらいにあるパシフィコ横浜である。「ニュービジネスメッセ’ 96」という NBCのイベントの一環がこの表彰式というわけだ。  同封されたパンフレットに記された式の進行表を眺めているうちに、視線が止まった。  ビル・ゲイツがスピーチをする。  この頃、マイクロソフトではネットワーク用の OS「ウインドウズ N T 4・ 0」を発表することになっていた。おそらくビルはその発表のために来日し、ついでに NBCの大会にも出席することになったのだろう。  何かある。ぼくはその瞬間、予感がした。おれとビルとの間に何かある。  社内では、ハイパーシステムのプロジェクトチームが立ち上がって以来、一つの冗談が繰り返されていた。行き詰まったとき、トラブルがあったときは、呪文のようにこの冗談が誰かの口から飛び出した。──このプロジェクトはビル・ゲイツの目に留まり、いつか板倉社長あてに電子メールが届くぜ。 How much HYPER SYSTEM?(いくら出せばハイパーシステムを買えるんだい?) ってね。  招待状の封を切ったその日の午後、ぼくは、渋谷のオフィスから銀座の広告代理店へとハイヤーで向かっていた。ぼくがハイヤーで移動するようになったのは、前にも書いたかもしれないが、九六年一月からだ。 IMSの成長で売り上げが伸び、ハイパーシステムの開発が本格化した頃、「もう自家用車通勤は許しません」と秘書から命じられた。最初は無視していたが、銀行の融資額が増え、ビジネスが大きくなるにつれ、そんなことも言ってられなくなった。  とはいっても、ぼくはわがままだから、気の合うハイヤー運転手がなかなか見つからなかった。しかも、筋金入りの車オタクで年間四万キロは走る。ドライビング技術に不満のある運転手は論外である。わずか一〇カ月の間に数人の運転手が交代した。ハイヤー会社もさぞや迷惑だったろう。  小野さんは、最後に巡り合ったベスト・ドライバーだった。五〇歳の独身で、運転はうまいが、話もうまい。三カ月に一回、一週間の休みを取っては海外旅行に出かける。浅黒い精悍な顔つきに、真っ白な手袋がよく映える。見た目は実際よりも一〇歳は若い。定年後はフィリピンで暮らすのが夢で、ドル建て預金や将来の円相場についてよく二人で話し合ったものだ。  その小野さんが運転するハイヤーが首都高中央環状線内回りの芝公園を抜け、浜崎橋のカーブに差し掛かったとき、自動車電話が鳴った。土曜の夜中にぼくが人には言えない速度で駆け抜ける S字コーナーのところだ。もっとも、このときは渋滞で車は一分間に一〇メートルと進まなかった。「もしもし」  小野さんが受話器をとった。「もしもし、なんだこれ……もしもし?  社長、なんですかねえ、これ」  どうも電話の向こうの様子がおかしいようだ。「どうしたの」「いやあ、何か騒いでいるんですよ、多分秘書の方だと思いますけど」「ふうん、ちょっと貸して」  小野さんから渡された受話器を耳につけると、いきなり甲高い女の声がぼくの鼓膜を破りそうになった。「シャチョ、シャチョーウ!」  あまりの声量にぼくは受話器を耳から離した。「社長、社長。電話なんです。電話があって、あのお、入れちゃいました」「入れちゃったって何を?」  何をいっているんだ。さすがにぼくもちょっとむっとして言った。  電話の向こうで興奮しているのはぼくの秘書だった。  秘書はハイヤーの運転手以上にしょっちゅう取り替えてきた。二〇代の頃は容姿重視だったが、三〇代になってからはあらゆる業務をうまくこなせる「熟練工」のような人間が欲しくなった。  そしてただいま興奮中の秘書は、その意味では最高の仕事をしてくれる。もともとソフマップの鈴木社長の秘書をしていた。仕事のできる、ぼくの歴代秘書の中で最高の女性だ。  それでも彼女には多少の欠点があった。この電話の受け答えを読めばおわかりだろう。落ち着きがないのである。逆にいえば、だからこそ小さい事にも気がつき、ちょこまかと動き回って、いい仕事をするのだが。  ぼくの質問に彼女は慌てて答えた。「予定がぶつかってるんですけど、先方がその時間しかないから、っていうんです」「だから、何の話?  落ち着けよ」  閃いた。ぼくは反射的に口を開いた。「もしかして、ビルからアポがあったのか?  ビル・ゲイツから」「そうなんです、なんでわかったんですか?  それで、あのーあのー」  ビンゴ!  大当たりだ。「あの、要するにですね、マイクロソフトから、ビル・ゲイツが板倉社長に会いたいっていうことで、電話があったんです」「ほんとかよ……、それで」「それで、向こうから一方的に日時と場所を指定されたんです。で、その日、ほかの予定がもう入っていたんですが、私が勝手に OK出しちゃいました。……あのう、まずかったですか?」「いいよ、いいよ。分かった」  ぼくは電話を切った。「社長、ビル・ゲイツって、あの、ビル・ゲイツですか?」  小野さんはちょっと興奮しながらぼくに聞いてきた。「そう。あのゲイツですよ。ぼくに会いたいと向こうから言ってきたらしい」「やりましたねえ。でも、まえにそんな冗談をよく言ってませんでした?」

「そう、そのとおりになった」  広い後部座席でぼくは興奮していた。どうも落ち着かない。シートの尻の位置が定まらない。窓の外を見る。気がつくと車は浜崎橋のコーナーを抜け、汐留方向にするすると動き始めていた。  座り直して腕を組むと、疑問が湧いてきた。  なぜおれに会いたいんだ?  あのビル・ゲイツが日本の小さなベンチャーの社長にわざわざ会いたいといってきている。一体どんな理由があるというのか?  世界一の資産家で、コンピュータ業界を事実上牛耳ったアメリカ人が、なぜおれに会いたいんだ。  ぼくは我に返った。興奮は引いた。疑問が興奮を上回っていた。  銀座で用事を済ませ、文字通りとんぼ返りで渋谷に戻った。「ちょっと役員を集めてくれ」  ぼくはオフィスに入るとすぐに秘書に告げた。  しばらくして夏野、森下、大内、それに幾人かの幹部がぼくの部屋へ入ってきた。「実はさあ、ビルが会いたいって」  ぼくは率直に結論から話し始めた。「えっ」  声を上げた者もあったが、あまりに唐突だったので、事態を飲み込めないやつもいる。「来ましたか」  夏野である。こんなとき一番勘が働くのはこの男だ。「マイクロソフトから電話があって……ね、そうだよね」  ぼくは秘書からの説明を求めた。電話を受けた本人の話をここで聞いておこう。「はい」「すげえだろ、おれが会いたいって言ったんじゃないんだぜ」  ぼくは興奮を装っていたが、頭の中では別のことを考えていた。  ビル・ゲイツ会長は抜け目のない人間だ。海の向こうの小さなベンチャーを何の見返りもなく善意で育てようとするような人のいい実業家ではない。あらゆるメディアで書き尽くされたことだが、ナポレオンのごとき征服欲を持ち、たとえ相手がどんなに小さかろうとも、自分にとって不利益だと考えればあらゆる手段を使って撲滅する。それがビル・ゲイツだ。  アルバカーキーからスタートした小さなベンチャービジネスを世界最強のマイクロソフトに育て、巨人 IBMからコンピュータの主導権を奪ったという歴史がなによりの証拠だろう。  ぼくはビル・ゲイツ会長の無慈悲な側面を詳細な具体例で知っていた。米国はシリコンバレー、そこのあるベンチャー事業に注目したビルが、結果としてその事業を奪い取ってしまい、ベンチャー自身は倒産する。そんな出来事を本で読んでいたのだ。『シリコンバレー・アドベンチャー』(日経BP社)。著者にして主人公であるのはジェリー・カプラン氏。ペンコンピュータで一世を風靡したシリコンバレーの起業家だ。その頃、うちの社内で結構流行っていた本だ。皆の読後感は一言、「これは他人事じゃない」。  ビルが見込んだベンチャーの運命は二つに一つ、買収されるかつぶされるかである。前者は起業家としての夢はなくなるが金にはなる。後者は何も残らない。さて、ぼくの運命はどちらだろうか。そもそも、本当に「見込まれている」のだろうか。  幹部に簡単な報告を済ませると、ぼくは秘書にアポイントメントの内容を確認した。「ずいぶん高飛車だな」「ええ、そうですね」  一二月某日午後、場所は先方指定。しかも面会時間はたったの一〇分!  まあこれがビル・ゲイツなのだろう。おそらく来日前にすでに分刻みの予定が決まっているわけだし、それにぼくとのアポなんてものは急遽追加したものに違いない。会ってくれるというだけでよしとしよう。  困ったのは、秘書も電話で話していたように、その時間はすでに別の予定が入っていた。予定表に目を通す。思わず眉間に皺が寄った。 「◎時、東急エージェンシー社長に面会」、罫線の上にはそう記されていた。  ハイパーシステムの広告営業を強化するために、ぼくは大手広告代理店のトップを回っていた。そしてその日は、業界第三位の東急エージェンシーの社長にようやくお目通りを願えることになっていたのである。大手広告代理店のトップとのアポなんてそう簡単に取れるわけではない。しかも、少なくともこの時点、うちの事業に確実に利益をもたらしてくれるのは、ビル・ゲイツ会長ではない。広告代理店だ。  一瞬、ほんの一瞬、ぼくは迷った。そしてすぐに秘書に指示を出した。「悪いけどさ、東急エージェンシーの社長のアポ、キャンセルしといてくれない」  これは仕事の原則からすれば明らかなルール違反だった。東急の件はこちらからお願いした。ビルの件は向こうの一方的な要求で、しかも東急より後の話だ。けれども──。ぼくは自分に言い聞かせた。ビルはめったに日本に来ない。来ても会えるとは限らない。これは千載一遇のチャンスだ。  ぼくは、非常に忙しい合間を縫って会う時間を頂いた東急エージェンシーの社長に電話でのキャンセルとは別に手紙を書いてお詫びをした。もちろんビル・ゲイツ会長のことは一言も触れなかった。その後同社には何度となくアポイントメントを試みたが、かなわなかった。  ぼくが一瞬迷ったあのとき、もし、もう一つの道を選んでいたら、今ごろどうなっていただろうか。東急エージェンシー社長とのアポを優先させていたらどうなっていただろうか。ビル・ゲイツに会わなかったらどうなっていただろうか。  いまさら考えてもしかたがない。商売に、もし、は禁物なのだ。  九六年一二月一〇日。会場のパシフィコ横浜には、「ニュービジネスメッセ’ 96」の出展企業のブースが並んでいた。ハイパーネットも参加していた。大賞を受賞した企業が出展しないのはやはりさびしい。うちの営業はここぞとばかり会場に乗り出していった。表彰式は明日だったが、ぼくには用事があった。ビル・ゲイツ会長のスピーチを聞きたかったのである。  ぼくは講演会場へと向かった。  キース・リチャーズのギターが暗い会場に鳴り響いた。ローリングストーンズの「スタート・ミー・アップ」。ウインドウズ 95のテーマ・ソングだ。さあ、王様のおなりだ。壇上にスポットがあたり、われらがビル・ゲイツが登場した。会場がどよめき、波打つ拍手が鼓膜を震わせる。もはやこれはスピーチではない。コンサートだ。ビルはどんなパフォーマンスを見せてくれるのか。

講演はビデオテープを巧みに使った非常に完成されたものだった。が、平板で、内容に乏しかった。一九七〇年頃からのパソコンの歴史を語り、その未来は明るいという結論。なにもビル・ゲイツ会長にお話いただかなくても結構だ。会場全体も最初の盛り上がりと反比例するように後半から尻すぼみに沈み、最後にはずいぶんとざわついていた。  しかしぼくは、彼のステージでの話なんてどうでもよかった。数日後に会う「生」のビルを見ておきたかっただけなのである。どんな声なのか、どんな風にしゃべるのか、どんな風に笑うのか。ぼくはその一挙手一投足を頭にインプットした。  さてその日の夕方。  すっかり日が暮れた桜木町のインターから首都高横浜線に乗り、小野さんの運転するハイヤーで、ぼくは東京へ帰路についた。道路は渋滞していた。さすがにつかれた。ぼくは少し眠ろうと思ったが、隣車線の巨大な米国製のワンボックスカーに気がついた。確か NBCの会場につけてあった奴だ。あたりが暗いので室内ライトを点けた車内がよく見えた。  ビル・ゲイツ氏が座っていた。  ビルは一番後ろのシートに一人で座り、新聞に目を通している。前列にはおそらく彼の部下たちなのだろう、数人の外人が談笑していた。  芝浦の合流点を過ぎ、車が動き始めた。小野さんがアクセルを踏み、ハイヤーが加速すると、小型住宅のような件のワンボックスは、後方へと消えた。  翌日、授賞式である。ぼくは再び、パシフィコ横浜へと足を運んだ。  一年で一番昼間の短い一二月の陽が西に傾き始めた頃、ようやく NBCの授賞式の時間になった。ステージに案内されると、すでにあの審査委員会の待合室同様、ぼくよりはるかに年配の人たちが壇上に席を並べて座っていた。おそらく他の賞の受賞者なのだろう。ぼくは一番の上席と思しき椅子(一応大賞だから)に誘導され、まるでピアノ演奏発表会の少女のように、きちんと手を膝に置き、足をぴたりと閉じて上品に座った。この手の席にじっと座っているのはつらかった。  授賞式はつつがなく進行し、ぼくの番になった。  ハイパーネットはニュービジネス大賞と通商産業大臣賞のダブル受賞である。話によると通商産業大臣賞は過去三年間該当企業がなかったそうである。何がどう評価されたのか、今となってはわからないが、少なくともぼくの会社は公式に評価された「印」をここに授かることになったわけだ。   NBCの代表である大川功 CSK会長が壇上に進んだ。彼から賞状とトロフィを受け取る手順である。まず賞状を渡された。最後に賞状をもらったのはいったいいつの話だろう。くそ真面目な顔でぼくは受け取り、深々と頭を下げた。  するといきなり大川会長は踵を返し、すたすたと壇上を降りようとした。「あれ?」ぼくは小さな声でつぶやいた。「トロフィは?」  スタッフに事前に聞いた話では、賞状以外にトロフィを受け取ることになっていたはずだ。しかし大川会長は、躊躇せず会場を去ろうとする。場内の何人かも異常に気づいたのだろう。最前列あたりがざわついた。脇にいたアシスタントの女性にぼくは目配せをした。気がついたようだ。彼女はびくっと肩を上げ、慌てて大川会長を呼び止めた。  ああ、と、大川会長はうなずき、悠然とこちらに戻ってきた。何事もなかったようにトロフィを持ち上げ、ぼくに渡した。手渡すときに目が合った。顔は口をへの字に結んだままだったが、目だけが笑っていた。  やられた。ぼくは脱帽した。大川会長を知る人ならば分かると思うが、彼はときどき「ぼけ」た振りをする。とんでもない。この人はそうやって他人の反応を見ているのだ。これも、あきらかに彼の演出なのだ。まったく食えない人である。  そんなこんなで授賞式は終わり、その後に大賞受賞者のぼくの演説である。中身は、……省略しよう。さすがにぼくのプレゼン話は皆さんもう飽きたことと思う。   NBC大賞受賞から数日後。  ビル・ゲイツ会長との面会の前日。ぼくたちは、ハイパーネット社の全資料、それからハイパーシステムに関する全資料をすべて英訳し、さらに限られた時間の中で簡潔に説明できるように、うちの海外担当スタッフと副社長の夏野とで資料を作成した。  ハイパーネットには英語圏で生活した経験のあるスタッフに恵まれていたので、作業進行には苦労はなかった。ただし気になっていることが一つあった。  実は資料作成の前日に、ビルとの面会の情報を得た米国ハイパーネット USA社長のジェイや、 NASDAQ公開のための弁護士事務所の弁護士から何度か電話をもらった。 Don’ t speak too much , So many people have failed by speaking with Bill Gates too much in Silicon Valley.  ビルに多くを語るな。それでつぶれた奴がシリコンバレーにはうようよいる──、というわけである。ありがたいご忠告だ。「シリコンバレー・アドベンチャー」を読んでその一端を垣間見たつもりだったが、米国のビジネスマンがこれほど真剣に忠告するほどだとは思わなかった。  当然、ぼくたちの間では、資料を作る際にどこまで情報をディスクローズするかということが問題となった。議論と資料作成は深夜まで及んだが、情報の制限についての結論は面会時間が限られているという点から意外と簡単に片がついた。要するに新聞や雑誌などすでにマスコミで記事になった水準の情報を要約すればよい、ということである。  翌日。面会場所は東京近郊のマイクロソフトの施設だった。ぼくと副社長の夏野(彼は M B Aを取得していることもあって英語も得意だし、この日の資料はほとんど彼が作成した)、それに入社したばかりのこれまた英語のできる営業社員と三人で、少し早めに車で移動することにした。  渋滞などを予測していたが意外とスムーズに目的地に到着してしまった我々は、しばらく近くのレストランで時間をつぶすことにした。時間にして約三〇分、そこでの「議題」は誰がどんな内容をどの程度話すかということにつきた。「どうしようか」  ぼくが切り出した。「社長の挨拶の後、夏野さんが内容の説明をして、たとえば……」「じゃあ、おれは、『 Nice meet you』だけしゃべろうかなあ」「それを言うなら、『 Nice to meet you』ですよ。社長」  新人のくせにいちいちうるさい奴だ。ぼくの英語はいいかげんだが、ハイパーネット USA社長のジェイだってぼくが自分で作った友達だ。全く通じないわけじゃない。「社長の言葉で話すのが大切だと思いますよ」  夏野の指摘は説得力がある。つまり英語がどうであれ、代表者自らの言葉が重要だというわけだ。「うん」、うなずいてから、少し考えた。ナスダック公開準備のところでも書いたが、ぼく自身決して英語が話せないわけではない、特にコンピュータ関連の話題については多少なりとも自信があった。が、ここにいる二人には一歩譲る部分があった。それに慣れない英語でぼくがプレゼンすると、相手(つまりビル)の反応を的確につかむ余裕がなくなるだろう。

ぼくは言った。「いや、やっぱり夏野が全部話してくれ」  夏野が基本的にすべてのプレゼンを行うことにし、ぼくはその様子を観察することにした。  時間だ。オフィスを訪問すると、マイクロソフトならではの非常に丁寧な対応で、施設内の会議室へと案内された。その部屋は廊下と会議室の間をスモークガラスで仕切ったもので、そこに木製の扉がついていた。  しばらくすると、成毛社長と古川会長が部屋に入ってきた。  ぼくは挨拶もそこそこに、なぜビルがぼくに会うことに決めたのか彼らに質問したが、明確な回答はなかったような気がする。そのまま二人としばらく話をした。  約束の時間はすでに一〇分以上過ぎていた。本来の予定であれば、もう面会の時間がなくなっている。どうしたんだろう。内心いらいらが募り始めた丁度そのとき、スモークガラスの向こうに人影が浮かんだ。  ビル・ゲイツ会長のご登場である。  会議室に入ってきた彼は普段着であった。テレビ、雑誌、それからこの前の講演。何度となく見かけた顔ではあるが、はっとさせられたのは、その〝目〟である。眼鏡を通して見える大きな瞳は、ガラス玉のようで、それゆえ冷たささえ感じられた。あるいは、単にぼくがそう思い込んで見ていただけなのかもしれない。  名刺交換を済ませ、席につく。資料を手渡し、ぼくたちは説明に入った。夏野の出番である。さすがに彼も少し緊張しているようであった、いつもは流暢に話す英語が途切れ途切れになる。話の骨子もまとまっていない。  しかしビルはあまり気にしていないようだ。おそらくこちらが日本人であることを見越して聞いているのだろう。夏野の話を聞きながら、ビルは手渡した資料の上に左手で丹念にメモを取っていた。夏野にプレゼンを任せたおかげで、ぼくはビルの顔の表情やどの部分のメモを取るかなどをじっくり観察することができた。  資料をもとにした説明が終わる。今度は持ち込んだラップトップコンピュータで、実際にデモンストレーションである。  電源を入れ、ウインドウズを立ち上げ、ソフトウエア「ホットカフェ」を呼び出す。このソフトがコマーシャルを随時画面上に流す。しかも他にソフトウエアを立ち上げていようと、コマーシャルを流す場合はその画面が必ず最前面に表示される仕掛けだ。そのさまをデモしているときだった。 Wow! See it! (おい、見ろよ!)  ビルは感嘆したように、成毛さんと古川さんに顔を向け、画面を見ろとうながした。彼の口癖、 Cool は出てこなかった。  ぼくは、ビルの一挙手一投足をじっくり観察していた。彼の反応はなにかわざとらしく感じた。あのビル・ゲイツ氏がこの程度のしかけで驚くわけは一〇〇パーセント有り得ない。そう思って眺めていると、ビルは再び画面に向かい、操作を続けた。  突然、彼は声を上げた。 I can’ t see the web! (ウェッブが見えないぞ!)  不安そうな顔つきでビルの様子を眺めていた夏野が、びくっとする。 Why? (どうしてだ?)  ビルは、ぼくらの方を向いて、画面を指差した。  ホットカフェの画像がインターネットエクスプローラーのウインドウと重なったために、インターネットのホームページの一部が隠れて見えなくなっている。なるほどこれで「ウェッブが見えない!」と怒ったわけか。  つまり、ホットカフェはそのアプリケーションの性格上、ユーザーがウインドウの大きさを変更したりできない。だから、縦のドット数が多いディスプレイでは上下どちらか(または両方)に空きが出る。すると W E Bブラウザーを画面全体に広げていると、ちょうどホットカフェが表示されている部分だけが隠れて、その上下だけが表示されてしまうわけだ。  実際にはホットカフェを画面の左右どちらかに貼り付けてしまえば、画面の上から下までホットカフェが占有する形になって、たとえ W E Bブラウザーを画面全体に広げていても、ウインドウズが勝手に WEBブラウザーを含むすべてのソフトのウインドウをアジャストしてくれるので、実用上全く問題は無いのだ。  しかしビルはそれについてけちをつけてきたわけだ。 Yes. But (いや、それは……)  夏野があわてて説明を始めようと、遮るようにビルがまくしたてる。 ……  ビルの早口は、すでにぼくの英語の理解力を超えていた。もはやけちをつけているのかどうもわからない。とにかく興奮して声を上げながら、トラックボールをいじっている。画面を凝視しながら、どんどんしゃべる、そして時折、口を休めずにぼくたちを「一体これはどういうことだ」と言わんばかりに見る。 O, Ok! But  夏野が返答しようとするが、ビルのおしゃべりは止まらない。まさにマシンガントークだ。あせる夏野。叫ぶビル。呆然とする周囲。  ぼくは、この予期せぬ出来事をうまく納める方法がないものかと、わめきながらパソコンをいじっているビルを見ていた。  待てよ。  ぼくはふと思った。  彼は遊んでるんじゃないか?  相手は天下のビル・ゲイツだ。考えてみれば、いまおそらく話題にのぼっている話がハイパーシステムの本題にたいして影響のないことぐらい分かっているはずだ。まあいい。あんな早口で喋られたんじゃ、どの道、ぼくには手も足も出ない。もう少し様子を見るか。ぼくはビルの英語が聞き取れないのをこれ幸いと、その場を静観することにした。  と思ったとたん、余計な奴が突然、口を挟んできた。 Yes, Sir. We provide Internet marketing system and This software (その通りです。当社はインターネットマーケティングシステムを提供できるのです。このソフトはですね……)  一緒に連れてきた営業の新入社員である。きっとこの状況をじっと見ているのにしびれを切らしたのだろう。いきなりビルに負けない早口で、対抗し始めてしまった。  もう大変である。ビルとうちの新米はめちゃくちゃな言い合いになっていく。夏野が遅れてはならじと慌てて割り込み、新米を「おまえっ、うるさいよ」とばかりににらみつけて話す。が、新米も止まらない。当然ビルも止まらない。  なんだかウッディ・アレンの映画の一コマのようである。ぼくはおかしくなってきてしまった。笑いを堪えるのに必死である。ふと、古川さんと成毛さん

の方を見る。二人ともあきれた顔で、しかしちょっぴり笑みを浮かべている。  ビルめ、完全にうちの連中をからかってやがる。もはやぼくにはそうとしか見えなかった。  いま(おそらく──だが。なにせ何をいっているのか少ししか聞き取れないので)議論になっている「ホットカフェ」、これ自体は単なる広告表示ソフトだ。だから、ハイパーシステムが持つさまざまな「価値」からすれば、ホットカフェのこうした「見てくれ」に対する評価自体はたいした話ではない。  ビル・ゲイツ会長にそれがわからないはずはない。おそらく彼はハイパーシステムの「肝」がどこにあるのかをちゃんと理解したうえで面会に臨んでいたはずである。でなければ、そもそもぼくに会いたいなどと言ってくるものか。  ビルのメモを取る瞬間がそれをはっきり証明していた。夏野が説明する間、彼は技術的なことには一切メモも取らず聞き流していたが、ことマーケティングとの連動や広告とハイパーシステムの関係となると、実にこまめにメモを取っていたのである。  何がどうなったのかよくわからないまま、〝早口三人組〟のしゃべくりが一件落着し、その場の空気がようやく和み始めたそのとき。ぼくはその日二回目の英語を話した。ちなみに一回目は当然名刺交換のときの Nice to meet you である。 Are you interested in customizing our HOT CAFE for your Internet Explorer exclusively?  我々のホットカフェの広告をタッチしたときに起動するブラウザーソフトを御社のインターネットエクスプローラーだけに限定するよう改造するという話に興味がおありか──。  ぼくはこう申し出たわけである。マイクロソフトさんのインターネット分野での競争相手、ネットスケープ社のブラウザー「ネットスケープ・ナビゲーター」では、うちのサービスは利用できないようにする用意がありますよ、と。  ぼくたちにとって、ホームページを表示するためのブラウザーソフトがどこの製品だろうとどうでもよかった。ネットスケープでもマイクロソフトでもどちらでも構わない。利用者と広告主が増えてくれればそれでよい。それがハイパーネットの立場だった。実際ホットカフェはどちらのブラウザーであろうと起動できるように設計されていたのである。  しかし、インターネット市場でネットスケープと熾烈な競争を繰り広げているマイクロソフト側にとってみれば、うちと独占契約を組むのは悪い話じゃないはずだ。短期間で集まった二〇万人以上のハイパーシステムの利用者たちが、すべてマイクロソフトのブラウザーを使うとなれば、売り上げの面、その後のマーケティングの面で、かなりのメリットが生まれるだろう。  そこで、ホットカフェをウインドウズ 95にバンドルしてもらえないか、というのがぼくの提案の意味することであった。そう、ぼくは、濡れ手で粟に、自社ソフトを世界で一番確実にマーケットに配布する手段を手に入れようとしていたのである。あとは、目の前の大人物の返事次第だ。  ビルの返事は短く、そして明確だった。 YES  この一言で面談は終わった。「われわれに良いお話を持ってきてくれてありがとう」と会釈して、ビルは退席した。  ぼくは腕時計を見た。予定時間はたったの一〇分だったが、いつのまにか開始から一時間以上たっていた。ビルのこの後の予定は大丈夫だったのだろうか?  さてと。これから何が起こるのだろうか。この件に関しては、座して待つのみである。  最後に成毛さんが苦笑しながら口を開いた。「すいませんねえ、うちのボスは技術の話になると社内の人間と社外の人間の区別がつかなくなるから」  われわれはマイクロソフトを後にした。  ビル・ゲイツ会長との奇妙な面談から数日後、ぼくは成毛社長と再会した。九六年一二月一九日。場所は、成毛社長がときおり開く私的な集まり、通称’ 50フォーラムである。  このフォーラム、読んで字のごとく一九五〇年代生まれの人たちの集い、らしい。らしい、というのは、ぼくも直接その意味を聞いたわけではないからだ。当日の参加予定者は、アスキーの西和彦社長やカルチュアコンビニエンスクラブ( CC C)の増田宗昭社長、ソフマップの鈴木慶社長、それに西川りゅうじん氏など、錚々たるメンバーが揃っていた。  一九六〇年代生まれのぼくは、それまでこの’ 50フォーラムとは何の関わりもなかった。その存在自体は聞いてはいたのだが──。それがその日突然参加することになったのは、ふたつのきっかけがあったからだ。ひとつは前にソフマップの鈴木社長とマイクロソフトを訪問したとき、ぼくの方から「一度参加してもよいですか」とお願いしたこと。そしてもうひとつは、ぼくの友人でインターキューというインターネット・プロバイダーサービスを展開する会社の会長、熊谷正寿氏に誘われたからである。  紳士的でちょっと顔の大きい熊谷さんは、ぼくと同じ一九六三年生まれ。仕事での出会いをきっかけに、六本木あたりでしばしば飲む仲だった。彼とは仕事だけでなく女の趣味まで似通っていた。同じクラブの同じ子をそれぞれ別の日に指名していたこともある。  そんなわけで、ぼくはその日’ 50フォーラムの会場へと向かっていた。今日もまた小野さん運転のハイヤーだ。たまには運転しないと腕が鈍るのだが、酒も出る席だ。しょうがない。  自動車電話に熊谷さんから連絡が入った。「もしもし、熊谷ですが」「ああ、板倉です」「いま、会場に向かってるところ」「こっちもだ」  どうやら話したいことがあるらしいのだが、言いにくそうな感じである。よくわからないが、会場に着く前に何かを伝えたかったようだ。お互い移動中の電話であったため電波状態が悪く、結局きちんと話を聞くことができないまま、ぼくは会場に着いた。  そこはマイクロソフトが契約している高級マンションの一室だった。入室するとすでに何人かの経営者が立食スタイルで話をしていた。六〇年代生まれのぼくとしては、一〇歳前後年上の人たちの集まりに飛び込むのは多少の遠慮があった。でも実際にのぞいてみると、半数ちかくの出席者とは面識があったので、とりあえずほっとした。ぼくは、ドリンクの入ったグラスをとり、リビングルームへと移動した。  驚いたのはその直後である。  そこにはすでに一五人以上の人が集まっていた。「板倉くんおめでとう!」  いきなり数人がぼくに声をかけてきた。 CC Cの増田社長、ソロモンブラザースアジア証券の黒部さん、ソフマップの鈴木社長、そしてもちろん今日の主催者マイクロソフト社長の成毛さん。彼らがぼくに向かって笑顔を投げかける。  いったい何が起きたのか。さっぱりわからずに当惑していると、黒部さんが口を開いた。「板倉さん、いま成毛さんから聞いたんだけど」

「はあ」「ビル・ゲイツがハイパーネットを買収したいといっているらしいんですよ」  えっ、思わず絶句した。何の話だ、そりゃ。  増田さんが追い討ちをかけた。「今年はいい年だったね!   NBC大賞は取るし会社は売れるし」「ほんと、すごいじゃん、だってあのときも、成毛さん、べた誉めだったもんね」  前回マイクロソフトに同行した鈴木さんも相槌を打つ。 「……」「実はね、この前、ビルと会った後の話なんだが……」  突然の話に事態がよく理解できないでいたぼくに、成毛さんが近寄ってきて話し始めた。確かこんな内容だった。「帰国後、ビルはマイクロソフトの役員連中にハイパーネットのことを電子メールでレポートしたんだよ、そうしたら社内で議論になって、最終的にハイパーネットをマイクロソフトの事業部にしたらどうかって話になっちゃってさあ、おいおい待て待てって状態なんだよ」  なるほど──。「事業部ですか」「でもそりゃちょっとねえ。で、たとえばハイパーシステムの海外の権利をうちに譲るとかね、そう言った方法はないかなってね」  成毛さんも間断なくどんどん話す人である。ぼくの突っ込むすきはない。ときどき合いの手を入れるのが精一杯だ。「あっ、そうですか」  ぼくはそう言うだけだった。  しばらく黙っていると、今度は黒部さんが口を開いた。「板倉さん、これはすごいことですよ。億万長者に一瞬にしてなるってことですよ」  そうかもしれない。そうかもしれないが、じゃあハイパーネットそのものはどうなるんだ。おれの仕事はどこへいってしまうんだ。ぼくはますます混乱した。  そこに、ようやく熊谷さんが登場した。ぼくは、彼に近寄って小声で事態を説明した。  熊谷さんは頭を掻きながらこう言った。「実はさっきの電話はそれを伝えたかったんだよ。ここにくる前に成毛さんと会っていて、その話を聞かされたんだ」  その後、アスキーの西和彦社長もやってきて、ぼくと二言三言話した。彼もぼくがビルと会ったことは知っているようだった。  わずか数日の間に、ぼくの知らないことが、ぼくの知らないところで、静かに、しかしおそろしく早い速度で動いているようだった。ぼくは、適当に飲み、適当に食べ、適当に話しかけてくる人の話に適当に相槌を打っていた。何を飲み、何を食べ、誰と、どんな話をしたのかはほとんど覚えていない。とにかく混乱していたのだ。  帰りのハイヤーの中、ぼくは珍しく無口になって、今日の出来事を思い出していた。  疑問はいくつもあった。本当にビル・ゲイツはうちを買収するつもりなのか。それは米国だけなのか、日本も含めてなのか。そのときぼくとスタッフたちの処遇はどうなるのか。  疑念はもっとあった。なぜ、当事者であるぼくが知る前に買収話があそこまで広がってしまったのか。企業買収は、完了するまでトップシークレットではないのか。それをあの辣腕ベンチャー経営者たちが、みな事前に知っているというのは何を意味するのか。  嬉しくないか、というと──、やはり嬉しい。なにせ、あのビル・ゲイツ会長が認めてくれたのである。とてつもないカネを手に入れられるかもしれない。それとも、ビルとの共同事業になるのだろうか?  こんな具合に、もはや自分で自分が何を考えてどう感じているのかさえ、わからなくなりつつあった。  急に酒が飲みたくなった。女の子を侍らせて酒が飲みたくなった。  ぼくは、自動車電話をとって会社にかけた。夏野が出た。「もしもし、板倉だけど」「あ、社長。どうでした、フォーラムの方は?」 「……電話で話すと長くなる。で、残ってる役員を集めて、六本木のいつものクラブに向かってくれ。おれ、先に行ってるから」  役員連中を呼び出すのは、もはや口実である。ぼくは、単に女の子とぱあっと酒が飲みたいだけなのだ。でも、このまま一人で飲んでしまうと、今日の混乱を会社の皆に伝えられなくなる。電話を切って、ぼくはネクタイを緩め、小野さんに声をかけた。「あ、小野さん。悪いんだけど」  勝手知ったる、といった感じで彼は笑った。「あそこですね、六本木の。一五分で着きますよ」  その店は、六本木の交差点から外苑東通りを東京タワー方向に少し歩いた左側の路地にあった。いわゆるクラブだが、プロのホステスが揃った店ではなく、アルバイトの若い女の子が多い。まあ、キャバクラとクラブを足して二で割ったようなところか。「板倉さんいらっしゃいませ、今日はお一人ですか」  入口で、もはや顔見知りとなった黒服のマネジャーが声をかけてくる。  こういわれるたびに、「ちょっと来店しすぎかな」と思う。でもまあ、相手は水商売。客の名前なんて一回で覚えるわけだから、ま、気にするのはよそう。「いや、後で四、五人来るから」そう言って、さっさと中に入る。  少し暗めの店内は、壁一面がピンクに塗られ、ピンクのソファが置いてあり、ピンクの光が照らされる。女の子の制服もピンクのミニだ。ピンク尽くしで店の子が皆可愛く見えるのがこの店の特徴である。おそらく、そのあたりのマーケティングがしっかりしているのだろう、景気の善し悪しにかかわらず、ここ数年この店は常に繁盛していた。  ぼくは、顔見知りの仲のよい(といっても店の中で、の話だが)女の子を指名し、うちの社員たちが集まるのを待った。一〇分たったか二〇分たったか、ようやく連中の到着だ。夏野、森下そして大内の三人だ。丁度いい。こいつらなら、おれの話が分かるだろう。「で、何なんですか?」  いきなり夏野が聞いてくる。興味津々、という表情だ。森下も、大内も顔を寄せてくる。「実はさあ……」  もったいぶって、話し始めると、

「こんにちはぁ」  細身の脚が二本、目の前に止まる。「わあ、なんか、皆、結構マジな話、してました?」  女の子は精一杯の営業スマイルで話に加わろうとするが、ぼく以外の三人はあからさまに(邪魔だなあ)という顔をしている。可哀相に。おれはお前らにこんな話をするより、ほんとはこの子と馬鹿話をしたいんだけどな。「実はさあ……」  今度はぼくの携帯電話が鳴った。話はなかなか始まらない。「もしもし」「イタさん?  熊谷ですけど」  会場で口にできなかった話の続きがしたいんだな。ぼくはすぐに察した。熊谷さんが続けた。「今何してんの?」「六本木にいるんだけどさ、来る?」「行く行く」  二つ返事で彼は電話を切った。  さて、話の続きだ。もう一度最初から、「実はさあ、マイクロソフトの成毛さんのところでね……」  ぼくは、今日の一連の出来事をでき得る限り正確に再現して伝えた。「ふうううん」  夏野は顔中「驚きました」という表情をしながら何度もうなずく。森下は口をぽかんとあけたままだ。大内は黙ってぼくの方を見ている。「これ。……決まりだね」  話し終わると最初に森下が言った。彼は公認会計士という肩書きからは想像できないほど短絡的なところがある。ぼくのこの話だけですべてが決まったと思ってしまうのだ。  夏野が首を傾げた。「いや、なにかあるなあ」  ぼくと同じような懸念を抱いているようだ。  しばらく会話が続いた。これはよい話か、悪い話か。結論など出るわけはない。なにせ分析に必要な何の材料もないのだ。ぼんやりとした危険な予感とビル・ゲイツ会長が認めてくれたという高揚感、頭の中ではこの二つの感情が、コインの裏と表のように交互に現れた。結局、ぼくの混乱が皆に伝染しただけだった。  気がつくと同席した女の子たちは皆つまらなそうな顔をしていた。これはまずい。「悪い、悪い。難しい話、いま終わったから」ぼくがご機嫌をとろうとすると、どたどたと足音がした。熊谷会長の御到着だ。ぼくはソファから手を挙げて声をかけた。「やっほ ー、熊谷ちゃん」「おう、イタさん。あ、皆さんおそろいですね」「どうもどうも久しぶりです」「こちらの方こそ。あ、ぼく、ロックにして。あと水ちょうだい」  ヘネシーを喉に流し込むと、熊谷さんはぼくに尋ねた。「で、イタさん。どうするの?」「そんな、突然言われてもねえ」「でも……、すごいじゃん」「まあねえ。でも、まだわからないからね」  そう、本当にわからないのだ。どうすればよいのか、そもそも何が起こっているのか。ぼくには何もわからないのだ。そんな状況で友達とはいえ外部の人間に多くを語るのは、賢明ではない。とりあえず何回か乾杯して、何回か女の子を代え、そして店を出た。  白金の家に着いたときには、時計は午前零時を回っていた。  玄関を開けると同時に、レトリバーが大きな体で抱きついてきた。部屋着姿の彼女が奥から現れた。「ただいま」「おかえりなさ ~い。殿!」なぜか彼女はぼくを殿と呼ぶ。そのころ、彼女は仕事を辞め、この家に住んでいた。  いつもなら愛想よく返事をするところだが、今日は彼女も犬もぼくの目に入ってこない。  そのまま台所に向かい冷蔵庫を開け、ミネラル・ウォーターを飲み、それから熱いシャワーを五分ほど浴びた。バスタオルで体を拭き、喉が渇いたのでもう一度、ミネラル・ウォーターを飲んだ。歯を磨き、ベッドに入った。  眠れない。  頭の後ろがぼおっと熱くなっている。おれは嬉しいのか。不安なのか。時間に反比例するように、どんどん目が冴えてきた。  こんなときにやることは一つだ。  ぼくは CDラックから、バン・ヘイレンのアルバム「 5150」を取り出し、ジーンズと皮のブルゾンに着替えた。ドライビングシューズを履き、駐車場へと向かう。猫の小便防止用にかけてある灰色のカバーを丁寧に剥ぎ取ると、中から艶やかな真紅の車体が現れる。この瞬間、いつも女の服を脱がせているような気分になる。  一二月も末だ。気温は零度近いだろう。暖機に時間をかける必要がある。ドアを開き、低いシートに体を沈め、足を投げ出し、キーを挿し込んで、セルモーターを回した。 V型八気筒四〇バルブエンジンがくぐもった重い音を立て、背中の向こうで細かく振動を始める。煙草に火をつける。この一服が最高だ。一瞬、今日の出来事が頭をよぎる。  水温系の針が七〇をさしたのを確認して、おもむろにクラッチを踏んでギアを左前方のローポジションに入れる。パーキングブレーキのレバーを持ち上げ、ボタンを押してリリースする。エンジンは吹かさずアイドリングしたままクラッチをゆっくり繋ぐ。回転数をまったく変えずに車はするすると前進を始める。一四〇〇キログラムの車体に三八〇馬力のエンジン。スタートはあっけない。  首都高速天現寺の入路に向かうまでの約一キロ、油温が九〇度近くになるのを待つようにゆっくり車を走らせる。料金所の手前で電動幌を空ける。冷たい空気の固まりが頭の上から跳び込んできて、胸の辺りをすべり落ち、股間を抜け、足元へと流れる。全身の神経にスイッチが入る。

料金所の係員は見てはいけないものでも見るような目つきでカネを受け取り、領収証をよこす。その領収証を車内に適当に放り投げる。アクセルを踏む足に力が入る。瞬時に本線に入る。  この瞬間、経営者の肩書きも三二歳の分別も全てが後方へと捨て去られる。  首都高目黒線から環状線内回りに入る。芝公園の S字を抜けた辺りでタイヤが十分温まる。オーディオを ONにする。バン・ヘイレンが両脇のスピーカーからけたたましく叫び出す。動脈を流れる血がぐつぐつと煮えてくる。  浜崎橋から横羽線を経由してレインボーブリッジへと向かう。世界で一番スポーティな V 8は八五〇〇 rpmで快音を響かせる。横羽線から一一号線レインボーブリッジへの分岐の S字でいったん三速にヒール&トウで減速する。道は斜め上を向きながら左方向へ大きくねじれる。自ら発した快音が壁にぶつかって再び耳に届く。  レインボーブリッジに入る左コーナーに達するまでに、一気に六速までシフトアップ。すぐに減速してコーナーをかわすとそのまま橋を抜け、横浜方面へ分岐する。湾岸線へ合流して東京湾トンネルを潜る。ナトリウムランプのオレンジ色の世界を駆け抜ける。ここが最も好きな場所だ。フェラーリサウンドが幾重にも反射して全身を包む。三車線の広い道に他の車はほとんどいない。再び加速して六速までシフトアップする。  右後方から鉄色のスカイライン G T― Rがものすごい勢いで接近してきて、こちらの脇にぴたりとつける。運転席の相手と目が合った。〝ランデブー〟を楽しめそうな奴だ。ときにこちらが、ときに向こうが、前になり、後ろになる。お互いのリズムが合い、体が心なしか軽くなったような気がする。奴さん、なかなかの腕だ。  大黒ふ頭が近づく。横浜ナンバーの GT― Rは、一瞬、爆発的な加速で前に出た。そしてハザードを素早く二回。それに合わせてこちらも遅めのパッシングを一回。そのまま彼は三ッ沢方向に直進、こちらは左に曲がって長いループへとお別れだ。  大黒ふ頭のパーキングエリアで車を止め、料金所を抜けてからここまでの数十分間ほどの「旅」を反芻しながら一服する。  このときだ。今日の出来事の整理がなぜかできてしまう。「そうだ、先方からの連絡を待とう。こちらからコンタクトする状況じゃない。それまでは今までのとおり事業を進めればいい。惑わされないようにしよう」  空を見上げる。オリオン座はすでに傾き始めていた。星がやけにたくさん見える。空気が澄んでいるせいだろう。それを確かめるように深呼吸を繰り返し、ぼくは行きの三倍の時間をかけ、ゆっくりと帰途についた。  九六年一二月二二日。ついに米国でハイパーシステムが稼動し始めた。  筒井の手柄である。  一〇月、ぼくは技術担当役員である彼を米国に派遣した。コンピュサーブのキャンセルなどで遅れに遅れていたプロバイダー事業の自主立ち上げと、そしてもちろんハイパーシステムの稼動。これが筒井に課せられた使命である。  米国でのハイパーシステム稼動は、当社にとって最重要課題のひとつだった。なにせナスダック公開の成否がここにかかっている。いかに、日本でのビジネスが順調だろうと、米国での展開に躓きがあっては、とても現地での上場はおぼつかない。しかもその日本のビジネスが、さまざまなトラブルの影響で必ずしも予定していた成果を上げていない。だからこそ、米国の事業は、より一層の重みを持つようになっていた。筒井も結果を出すまで帰れない。事実上期限なしの長期出張だ。妻子を東京に残し、彼はシリコンバレーにアパートメントを借りた。仕事が好きでたまらない男だったが、さすがにこの任務はハードだったろう。  それから二カ月間、筒井とは頻繁にメールのやり取りをして状況を確認していたが、かなりの苦労がうかがえた。果たして本当に立ち上がるのだろうか。そう思っていた。年末も押し迫った二二日の午後一〇時、渋谷のオフィスに一本の電話が入った。秘書はすでに帰宅していない。来年の計画書を作成すべくディスプレイとにらめっこしていたぼくは、受話器をとった。「もしもし」「やりました!  社長!」  電話口の筒井は鼓膜が破れるほどの大声で怒鳴った。「動いた、動きました!」「そうか、動いたかあ……」  ついに連中は動かした。ハイパーシステムを動かしたのだ。  正直いって、ぼくはまさか二カ月で本当に立ち上げられるとは予想していなかった。というのも、彼らはさまざまな制約を受けながら開発することを強いられていたからだ。プロバイダーの自主運営もそうだが、実はもう一つ大きなハードルがあったのである。  米国では、日本のシステムの一端を担っているタンデムコンピューターズを利用しなかったのだ。  前述の通り、日本におけるハイパーシステムの開発を担っていた協力会社の一つが、このタンデムコンピューターズだった。同社の本拠地は米国だ。当初から米国進出を念頭においていたぼくは、タンデムの和泉専務に「米国で事業展開するときもお願いします」と声をかけてあった。  しかし、タンデムのシステムは日本で問題だらけであった。バグの余りの多さでトラブルが続出した。しかも同社の技術者はそのトラブルの多くを自前で解決できず、うちのスタッフにずいぶんと頼った。この調子で米国のシステムをつくられたのではたまらない。我々は米国タンデムをキャンセルし、自主開発でシステムを構築した、というわけだ。筒井たちの努力がなければ、とても年内の稼動は不可能だった。  筒井からの電話を切ったあとも、ぼくはしばらく机の前で考えごとをしていた。ようやく米国でもハイパーシステムは立ち上がった。それでも心は晴れやかにならなかった。  とても手放しでは喜べない状態だったからである。米国での事業展開には、すでに問題が山積していたのだ。  第一に、タンデムをキャンセルした関係で、ハイパーシステムはそのスペックの三〇%ぐらいの機能しか実現していなかった。たとえばハイパーシステムの一番の売りである「ターゲティング機能(ユーザーのプロフィールに合わせて広告を送り出す機能)」が使えなくなっていた。とりあえず、全ての広告をユーザー全員に送出することにした。これでは、見た目はハイパーシステムだが、中身はほかのインターネット広告とほとんど変わらない。  第二に、プロバイダー事業の自主開発で予想外のコスト負担が発生していた。自主開発にはやはり限界があった。コストダウンを図るうえでも、外部のプロバイダーを新たに探す必要があった。  第三に、広告暮集活動についても、ニューヨークの大手広告代理店を中心に営業をかけた結果、最初はともかく他の地域でのクライアント獲得がはかどってなかった。今後この広いアメリカをどう攻めていくのか、具体的な策はまだ何も決まっていなかった。  手をこまぬいているわけにはいかない。ぼくは三三歳の誕生日を迎えた二日後の九六年一二月二八日、夏野を連れて米国へと渡った。ハイパーシステムの立ち上げからほぼ一週間がたっていた。  サンノゼのオフィスにはニューヨークのメンバーを含む多くの社員が戦略会議のために集まっていた。秋から長期出張している筒井もそこにいた。我々は米国のハイパーネット事業の問題をどう解決するか、話し合った。現在満たされていない機能をどう使えるようソフトを改良するのか。それに全米の広告主

をどう集めていくのか。「日本とは違うんだ。米国は地域が基本になる。ニューヨークのマジソンアベニュー(広告代理店が集まった街である)だけ攻めても駄目なんだ」、ハイパーネット USAのマーケティング担当者は言った。「まず全米を四つの地域に分ける。そしてそれぞれの地域に支店を設け、それぞれに数人の営業マンをつけて……」  彼の言う通りだった。しかし、そこまでの営業展開をするだけのカネが当社にはない。現実には、到底無理な提案だった。 「OK. But 、夏野、話してくれよ」  最初自分で話そうとしたが、すぐに夏野にバトンタッチした。  ぼくは焦っていた。目の前の問題に答える余裕がなかった。夏野が英語で何かしゃべっているようだったが、その声は遠かった。  米国での事業展開を根本的に考え直さなければならない。ナスダック公開だって控えているのに、こんな状態じゃ埒があかない。どうすりゃ広告をとれるんだ。大体、カネがないじゃないか。いや、そもそもカネを集めるためにナスダックに公開するんじゃなかったのか。話が逆だ。でも、こんな状態ではとても公開なんて……さまざまな思いが頭の中で絡まった。絡まったまま放置された。解決の糸口は何一つ見えてこない。後頭部が熱くなってきた。「ねっ、社長」  突然、夏野がぼくに同意を求めてきた。  なにも聞いていなかった。一瞬の間があって、ぼくは口を開いた。「とりあえずサンノゼに限定してテストサービスという位置づけにしておいたほうがいいな」  深い考えがあっての言葉ではなかった。最も現実的な妥協策を口にしただけだった。「そうですね」夏野がうなずく。表情が少々暗い。それでも米国のスタッフが落胆しないように話してくれるだろう。  夏野はかなり回りくどい言い方で、ぼくの発言を米国スタッフに伝えた。肩をすくめる者、手を広げる者、テーブルの上で手を合わせうなずく者。でも皆、納得したようだ。そりゃそうだ。先立つものがないのだ。現実的なところから改善していくしかない。  今振り返ってみると、米国での事業展開は常に行き当たりばったりだった。  プロバイダー業務の問題。広告営業の問題。現地でのシステム開発の問題。いずれの作業も最初は米国の企業と提携して外部委託するはずだったのが、スタートとほぼ同時にごたごたが起きて、結局自前でやる破目になった。が、日本でも一社でこなすのは難しいこれらの業務を、ハイパーネットのような弱小ベンチャーが異国の地で単独で展開するのは所詮無理があった。  考えてみれば当たり前の話だ。でも企業の失敗というのは、たいていの場合、目の前の「当たり前」が見えていないときに起きるものだ。それにしても米国での事業展開がこんな状態なのに、一方では日本でナスダック公開会議を連日のように開いていたのである。  数時間に渡った会議の終わりに、ぼくは米国におけるハイパーシステムの今後の方針を打ち出した。すなわち、自前のプロバイダー業務を、ここシリコンバレーのサンノゼに限る「地域限定」サービスと位置づけ、とりあえず同地区での広告主獲得を含めた事業の成功を目標とする。他の地域に関しては、ここでの成功の目鼻がついた時点で改めて論議する。  やはり米国は広い。考えていたよりもずっと広い。  翌日、ぼくは、筒井と夏野とそして数多くの問題をサンノゼに残し、日本に帰った。大晦日の成田は、正月を海外で過ごす家族やカップルでごった返していた。年末のどこか浮かれた空気の中、ぼくは迎えに来てくれた小野さんのハイヤーで東京へ戻った。  急いで帰国したのにはわけがあった。韓国の財閥が提携をしたい、といってきていたのである。  米国でハイパーシステムを発表したのが九六年六月。この記者発表に反応したのは米国企業ばかりではなかった。ヨーロッパ、そしてアジア。さまざまな国のさまざまな企業からさまざまなアプローチがあった。中でも熱心だったのが韓国の企業である。それも中小企業ではない。いずれ劣らぬ大財閥だ。九六年夏頃から三星(サムスン)グループ、現代(ヒュンダイ)グループほか三社ほどの財閥が当社に連絡をとってきた。  どことどんな契約をむすぶのか。九六年の秋から冬にかけて社内で何度か議論した。結論はなかなか出なかった。  韓国で六番目ほどの規模のとある財閥は、数億円のライセンス料を契約時に支払うから、韓国国内での独占使用権を譲れといってきた。このときのハイパーネットにとって数億の契約金は喉から手が出るほど欲しい。魅力的な提案だった。  一方で韓国屈指の大財閥、サムスンは、あくまでジョイントベンチャー方式の提携がしたいと打診してきた。サムスングループにはチェイル・コミュニケーションズという韓国最大の広告代理店があった。ハイパーシステムの展開と広告代理店は切っても切れない関係だ。チェイルと組めば、韓国での将来的な成長は半分約束されたようなものである。しかも、サムスンの話はこのチェイル経由での申し入れだった。  ぼくは悩んだ、目先のカネか、それとも将来の成長か。  年末の米国出張から帰ってから正月が明けるまでの数日間、九六年から九七年と年をまたいで、ぼくはどこと組むか一人でずっと悩んでいた。思えば贅沢な悩みである。世界的な大企業との提携について悩んでいるのだから。しかも選択権はこちらにある。  でもこのときのぼくには、その悩みを楽しめるほどの余裕はまったくなかった。  すでに多くの企業がぼくの事業に投資をしたり、業務提携を結んだりしていた。ハイパーシステムは、もはやぼく個人の持ち物ではなかった。しかも周囲の期待が膨らむ一方で、実際の成果は思ったより上がっていない。ごたごたも多い。米国も問題山積だ。  とにかく一刻も早く健全経営を宣言できる状態に脱却したかった。  ならば、どちらの財閥を選ぶべきか。  夜は目がさえて眠れなかった。おかげで昼間は霞がかかったように頭が働かなくなった。フェラーリで暴走してストレスを解消する気にもなれなかった。クラブで女の子をくどいて発散する気にもなれなかった。それに考えてみれば正月だ。その手の店はやっていなかった。  犬でもつれて散歩にでもいくか。ぼくは一年ですっかり大きくなったレトリバーに引っ張られながら、葉が落ちてすかすかになった白金の並木坂を下った。いつもは外車の路上駐車が目立つその通りも、正月の今日は静かでがらんとしていた。  ハイパーシステムの事業を本格的にスタートしてから、ほぼ一年が過ぎていた。そのたった一年の間に、通常の起業家がへたをすると一〇年かかっても出会わないようなことを、早回しでビデオを再生したようにぼくは七倍速で経験してしまった。  六本木ベルファーレで記者発表をした。日経新聞の一面に記事が載った。ソロモンやら野村證券やらが米国ナスダック公開の話を持ってきた。米国での事業進出が決定した。多くの米国企業がアプローチしてきた。ニュービジネス大賞と通商産業大臣賞をもらった。しまいには、何が目的か未だによくわからないのだが、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長が面会を求めてきた。  すべてが現実だった。  一方で、さまざまなトラブルが起きた。有能なスタッフが意見の違いから去っていった。頼りにしていたアスキーの浜田さんが同社を辞めた。電通と電通の関連代理店を怒らせた。そのせいか、 IMSの受注が極端に落ちこんだ。高額なタンデムのシステムは期待に反してトラブル続きだ。そのせいでハイパーシステム

の一部が機能しなくなり、見込んでいた広告売り上げが立たなくなった。現地企業との協力関係をうまく築けず、米国進出ははかどっていなかった。  これもすべて現実だった。  坂の下を抜け、いかにも下町といった風情の小さな商店街のコンビニに寄り、雑誌をちょっと立ち読みした後、飲み物とドッグフードを買って、ぼくは犬と家に戻った。  九七年一月六日。その年最初の経営会議を開いた。  正月明けだというのに、皆無口だった。なぜ無口なのかわかっていたが、あえて口にしなかった。スタッフが会議室に全員そろったところを見計らい、ぼくは立ち上がって、精一杯大きな声で挨拶した。「明けましておめでとうございます」  なにかに打たれたように全員が大声で返事をした。「おめでとうございます」「最初の議題だけど」  スタッフを座らせると、ぼくは立ったまま話を始めた。「韓国の提携先はサムスンにする」  皆黙ったまま、ぼくの方をじっと見ている。「正月にいろいろ考えたけど、サムスンにする。夏野、それでいいよね」  ほんの二日前に米国から帰ってきたばかりの夏野に、ぼくは話を振った。彼は正月休み返上で、米国における広告営業活動の組識作りに奔走していた。 「OKです。じゃ、すぐにサムスンとチェイルに連絡を取ります。それと……」  その後しばらくは、夏野が温めていた韓国での事業展開の方策を彼自身が語った。国土が狭く大財閥の市場占有率の高い韓国の場合、一度チェイルのような財閥系有力代理店と確固たる関係を築けば、かなり計画的に事業を展開できること。インターネットがこれから急速に普及することは目に見えているから、市場の将来性は明るいこと等々──。  夏野の話が終わると、窓を開けたわけでもないのに、部屋の空気が変わっていた。  久しぶりにポジティブな業務目標が生まれたのである。誰にとっても目の前に仕事が、しかも前向きな仕事があるというのは救いである。  夏野の率いる海外戦略部門は、直ちにサムスンとの契約に走った。それから一カ月後、二月に基本合意が固まった。サムスングループと当社は韓国に共同出資で合弁会社をつくることになった。資本金は一〇億ウォン。出資比率は向こうが四九%、当社が五一%である。  新会社の名はハイパーネットコーリア。当社はこの新会社に技術支援の義務を負う代わり、ライセンス契約を結び、全売上高の五%をロイヤルティとして受け取ることができる。さらに当然株主だから、このライセンス料とは別に先方の利益を配当という形で得られる。  ハイパーネットコーリアの財務的な支援はサムスングループの広告代理店チェイル・コミュニケーションズが一括して行う。すなわち我々に資金負担はない。我々が貸すのは「知恵」だけというわけである。これならば、同社がうまく立ち上がらなくても、当社の損失は株の出資分だけで済む。逆に軌道に乗れば、放っておいてもロイヤルティ収入が増える。  米国で事業を全部自前でやろうとしてなかなか立ち上がらなかった経験を生かして、負担の少ないライセンス方式をとったわけである。ちなみにこの発想は、のちに国内における事業見直しをするときの改革案のヒントともなった。  とにかくこれでアジア進出の糸口ができたのだ。新年に入ってぼくは初めて笑うことができた。  けれども、これがぼくの起業家としての最後の光明だった。そしてこれから一年かけて、ぼくは頂点から滑り落ちていく。  最初はソロモンブラザースからの電話だった。  それは九七年一月のまだ前半のことだった。  韓国進出の準備を進める一方で、相変わらずのナスダック公開の準備会議が毎日のように開かれていた。夏野と韓国がらみのミーティングを終え、社長室に戻ると、キーボードの上に秘書からのメモが置いてあった。「ソロモンブラザーズから TELあり。 ●日 ■時来社します」  いやな予感がした。基本的にソロモンの連中との仕事は、定例の準備会議で済んでいるはずだからだ。個別にうちを訪れる用事は、たった一つを除いて、ない。  ハイパーネットに好材料はなかった。コンピュサーブの契約撤回、システムトラブル、米国での予想外のコスト増、日本での広告収入の伸び悩み。例外は韓国財閥との提携くらいか。  そして会議を通して、ソロモンはそれらのトラブルを基本的に皆知っていた。彼らの用事が、その「一つ」でないことを祈るしかなかった。「どうもいつもお世話になっています」  その日、いつも会議で顔を合わせているソロモンの担当者は、ぼくの部屋に入ってくるなり、頭を下げた。よそよそしく見えたのはぼくの気のせいだろう。「こちらこそお世話になっていいます」、さっと挨拶した後、ぼくは単刀直入に聞いた。「で、何かまずいですか」「まずい」とあえてこちらから言ったのは、相手に本題を話しやすくするためだ。  誘い水に彼は乗ってきた。「ええ、実はね、社長。ちょっと遅らせたほうがいいんじゃないかと思いまして」 「……」  予感は的中した。やはり、「たった一つ」の用事で訪れたのだ。三カ月後、九七年三月に予定していたナスダックの公開を延期しろ、というわけである。「何が一番の原因ですか?」  ぼくは驚かなかった。それより山積した問題のなかで何が一番なのかを知りたかったのだ。「ええ、米国の株価も良くないですし、それに思ったほどの事業の成績が……」  ソロモンの説明によれば、公開延期の理由は二つ。米国の株式市場の低迷、そして公開水準に満たない当社の業績である。  どちらが本当の理由なのか。多分両方とも本当の理由だろう。

それまで好調だったナスダックのインターネット関連銘柄の株価がここのところ急激に下がっている話は、ぼくも米国のスタッフから聞いていた。米国では、「ブームの終焉」を唱える向きも登場していた。  このときから数カ月後に計上されるハイパーネットの九七年三月期の決算は、売上高で七億八五〇〇万円。経常損益はなんとマイナス九億八四〇〇万円だった。一方、ソロモンをはじめ証券会社が考えていたハイパーシステムの売上目標は半期でざっと一〇億円。実態とはかけ離れた数字であった。  いずれにせよ当社の業績が彼らの予想通りであっても、市場の低迷で株価が悪ければ、彼らの利益も少ないし、リスクも増える。逆に多少業績が悪くても市場に勢いがあれば証券会社のことだから無理やり公開させるかもしれない。しかし、市場も悪ければ業績も悪いでは、天下のソロモンも手の下しようがない。かくして公開は時期尚早だという判断になったわけである。  それにしても、この期に及んでぼくは証券会社との間に意志の疎通が決定的に欠如していたことを思い知らされた。その一つがこのハイパーシステムの売上目標の話である。九月時点で売り上げが当初の計画よりだいぶ下回っていたのは事実だ。が、ぼくもまさかこんなに高い目標を証券会社が設定しているとは思いもよらなかった。  考えてみれば、サービス開始は九六年六月一九日。わずか三カ月しか時間がない。その間にいきなり一〇億円を売り上げろというわけだ。ちなみにこの目標数値を証券会社からきちんと聞かされたのは、まさにこの日が初めてだった。こんな肝心な話を、社長と証券会社の間で事前にきちんとしていなかったのだ。これでは、株式公開などできるわけがない。  ソロモンが延期しろ、というならば、それに従うしかなかった。公開で発行する新株はいったん彼らが買い取り、市場に販売する。当事者である彼らが無理だというのならば、こちらとしてはどうしようもなかった。  ソロモンの担当者が来社した数日後、ぼくはもう一つの引き受け会社、野村證券にこの話をした。「ソロモンが延期したほうがいいと言ってきたんですよ」  野村証券の御一行にこう話すと、彼らの反応は予想していたのとやや異なっていた。  ある役員はぼくを励ますようにこんな風に言ってくれたように記憶している。「板倉社長がそれでも公開したい、というならうちは御伴しますよ」。野村なりの勝算があるのか、それともソロモンとの対抗上の発言なのか、ぼくにはよくわからなかった。それでもこの時はまだ望みがあるのかと思い、嬉しかったのも確かだ。  ただし──、ぼくは考えた。そもそもナスダック公開は目的ではなく、資金調達のための手段である。足場が固まっていないのに、無理やり公開するのはまずい。米国のインターネット関連の株価が下がっているのも気にかかる。ぼくは野村の好意的な申し出をとりあえずお断りすることにした。  それでも、ぼくの公開に対する意欲は強くなる一方だった。とはいっても、当初のように「日本初のナスダック公開企業」という〝看板〟に憧れていたわけではもはやない。事態はもっと切迫していた。そう、カネが不足していたのである。  資金繰りは厳しさを増していた。銀行からの融資はいずれも短期だったから、風向きが変わればいつ返せといわれるかわからない。そんな状況だけに早く自己資本を充実したかった。  いつのまにか、ぼくは「夢」のためではなく、「カネ」のために、公開しようと考えるようになっていた。いま考えれば、これは明らかに本末転倒だ。でも、この時は他に打開策を思いつかなかったのも事実だ。  そもそもなぜナスダック公開を目指したのだろうか。ぼくは改めて考えた。  日本国内の店頭市場に比べ、短期間で公開規準を満たせるからだ。日本の場合、事業の増収増益が不可欠だし、審査にも時間がかかる。ハイパーシステムという新規事業にかなりの事業資金を投入した当社にとって、日本国内での株式公開基準のハードルはかなり高かった。一方、ナスダック公開のために必要な条件は、米国でのハイパーシステム稼動だ。ただし、本格稼動するにはかなりの資金が必要となる。  そこでとりあえず日本で上げた売り上げと金融機関から引っ張ってきた資金を投じて、米国で試験的にサービスを立ち上げ、ナスダック公開を達成。市場から調達した資本を元手に米国での事業を拡大する。結果、多くの利益を得、それが国内の事業にも還元され、今度は日本での公開を果たす……、以上が当初ぼくと証券会社が描いたシナリオだった。  しかしナスダック公開を延期した以上、このシナリオは根底から崩れた。まず、近い将来計画していたハイパーネット USAの本格稼動は資金面からいつになるかわからなくなった。かといって米国から撤退すると、その延期したナスダック公開に大きな支障がある。これから米国で公開しようという会社が、核となるサービスを始めたと思ったらあっという間に止めてしまったというのでは話にならない。もはや米国での事業はストップできない。ところが、その米国に事業資金を投じた結果、日本における資金繰りは悪化の一途を辿っている──。  事態は、当初のシナリオとはまさにまったく逆の方向へと進みつつあった。  ハイパーシステムの事業形態を根本から変える必要がある。  おそまきながら、ぼくはそのことに気がついた。米国から戻り、ナスダック公開を延期して、ようやく気がついた。  経営者として一五年目を迎えていた。一九歳で社会人になって以来、ぼくは社長以外の仕事をやったことがほとんどなかった。経営危機も何度か経験した。そのたびに知恵と努力と人脈、そして運でクリアした。この時点のハイパーネットの置かれた状況はかなり深刻なものだった。にもかかわらず、ぼくは過去の体験から、心の奥底では「まだ何とかなる」と楽観視する部分があった。  ぼくが新しいビジネスを立ち上げたときは、いつも直前にトラブルや経営危機があった。 IMSのときもその前のボイスリンクのときもそうだった。だから今回の苦境も必ず乗り越えられる、まだそう信じていたのである。重要なのはアイデアだ。苦境を乗り切るアイデアが必要だ。  ぼくはもう一度、ハイパーネットのかかえる問題を整理してみることにした。問題はうんざりするほど多かった。  まず、ナスダック公開準備のために多くの資金を使ったが、結局延期をしなければならなくなったこと。ハイパーネット USAに予想以上に資金が必要になったこと。システムのトラブルもあって、日本での広告収入が思ったように伸びなかったこと。電通ワンダーマンとのトラブルから IMSの売り上げが伸び悩んでいたこと。  列挙して気がついた。問題の数は多いが、根本的な原因はただ一つだ。  カネである。それが決定的に足りないのである。解決方法は二つ考えられた。一つ、新たに大量の資金を調達する方法を考える。そしてもう一つ、この時点で金食い虫と化したハイパーシステムを金のかからない業態に変更する。  前者に関しては、いずれにせよ金融機関など外部の協力が必要だ。となると、自らのアイデアで解決でき得るのは後者の方だろう。では、どんな手が考えられるか。  韓国との提携話、ビル・ゲイツ会長との会談……。一連の出来事を思い出しているうちに、わりあいと簡単に解答が導き出された。ライセンス方式である。ハイパーシステムのライセンスを第三者に提供して、経費の削減を達成する。いわば、「ハイパーシステムの OEM提供」だ。  これまでハイパーシステムの事業では、あらゆることを自前でやってきた。広告募集活動、データベースセンターの運営、クライアントソフトウエアの

開発、ユーザーサポート、ブランドそれにプロバイダー事業に対する経済的負担。すべて当社がリスクとコストを負担していた。しかも肝心の広告収入はさほど上がっていない。負債が増えるのも当然である。  ハイパーシステム OEMの場合、多大な投資をしたデータベースセンターは当社自身で運営するが、それ以外のすべての業務を第三者に開放する。当社にとっては長期的な戦略のうえで大切なデータベースはそのまま蓄積できる。ライセンス方式で業務を外に任せれば、コストもリスクも大幅に削減できる。しかも、「ハイパーシステム」の普及速度は OEM化により格段に早くなるはずだ。  ぼんやりしている時間はなかった。ぼくはすぐに、社内にハイパーシステム OEMの販売に全力を挙げるよう指示した。  ここでハイパーシステムのライセンス販売について具体的なイメージを説明しておこう。  これまでは、「ホットカフェ」という統一ブランドのアプリケーションソフトをユーザーが自分の端末で操作し、そこで広告を随時表示していた。今回の OEMでは、まずこの「ホットカフェ」のブランドをライセンス先の企業や組織が自分の好みに応じて変えられるようにする。さらにライセンスを受けた企業は、自分で独自に集めた会員に対して、広告の枠を自由に販売・活用できる。すなわち、ライセンス先の企業はインターネット上に自分の会員向けの「メディア」を持てるわけだ。  ライセンスの販売先として有力なのは、すでに独自の会員名簿を持っている組織、具体的には通信販売会社やクレジットカード会社、場合によると宗教団体などが考えられた。たとえば、カード会社がうちのライセンスを受けて、自分のブランド名でインターネットプロバイダーサービスを始めたとしよう。まず広告枠をカード加盟会社に販売することで、広告収入を得、それを原資に会員に「インターネット無料提供」サービスを展開できる。会員にしてみれば、無料でインターネットが利用できるうえに、広告画面を通して自分の所有カードを使うにあたって「お得な」情報を得られる。加盟店は、カード会員に確実に情報を届けられるために、効率的な情報告知が可能になる。カード会社は、このサービスの展開を宣伝することで会員数の増加を見込める。そしてハイパーネットは、濡れ手で粟の「ロイヤルティ収入」を得ることができる。  また、既存のプロバイダーも有力な客になり得た。意外に知られていない事実だが、インターネット・プロバイダーは電子メールを使うかダイレクトメールを送る以外に会員とコンタクトを取る方法がない。会員にしてみれば、接続する段階でも、実際に接続している最中も、プロバイダーを利用しているという感覚を得られない。それに、プロバイダーも自社のユーザーである会員にリアルタイムで情報を提供できない。だからこそ、プロバイダーが OEM先となってハイパーシステムを利用する価値は十二分にあった。  彼らがハイパーシステムのライセンスを受ければ、自分の会員を対象とした「広告メディア」が瞬時に誕生する。たとえば、地域プロバイダーがハイパーシステムを導入して会員にホットカフェを提供すると、その地域限定のネット広告メディアが誕生することになる。プロバイダーは会員の利用料に加え、地域の企業に広告を出してもらうことで新たな収入源を確保できる。   OEM戦略は、ハイパーシステム稼動以来初めての大型改革だった。ぼくは自分の考えが正しいのかどうか、外部の人間の意見を聞くことにした。かつてならぼくがまず相談するのは浜田さんである。しかし、彼はもう提携先のアスキーにはいない。  そうなると、仕事上、ぼくが最も信頼を置いている人間はただ一人しかいない。  ぼくは住友銀行の日本橋支店に電話を入れた。「支店長の国重さま、お願いします」  国重さんはいった。「それ、住友銀行で、できないかなあ」  ぼくは、住友銀行日本橋支店の支店長室でその言葉を聞いた。  ハイパーシステムを OEM化して、当社のコストダウンとサービスの普及を同時に達成する──。この改革案にぼくなりの自信はあった。が、正直言って国重さんがどう評価するか、いささかの不安があったのも事実だ。住友銀行が融資してくれたのは、あくまで「ハイパーシステムをすべて自前で展開するハイパーネット社」である。業務のかなりの部分を外部に出してしまうこの発想が受け入れられるかどうか、微妙なところだった。  国重さんにぼくは自分のアイデアをできる限り丁寧に説明した。これ以上できない、というほどきっちり説明した。その説明に対する反応が、この一言だったのである。「すごくいいアイデアだ。だからいっそのこと、うちが OEM第一号になるというのはどうだろう」、国重さんは真剣な表情で語った。  この日は、単に OEM戦略に対する感想が聞きたかっただけだったので、正直なところぼくはびっくりした。もちろん住友銀行が OEM第一号になってくれるのは、嬉しい話だし、宣伝にもなる。それに住友がお客さんになれば、当社に投資している他の企業にも安心感を与えるだろう。  それにしても、いきなり国重さんの口から「うちがやりたい」という言葉が出てくるとは思わなかった。それなら話が早い。ぼくはその場で住友銀行がハイパーシステム OEMをどう利用できるか、具体的なイメージを国重さんに提案した。「まず、銀行は毎年春になると、新卒社会人の口座獲得のキャンペーンをやりますよね」、ぼくはアイデアを話し始めた。「そのときにぬいぐるみとかいろいろなプレゼントするじゃないですか」  黙ってうなずく国重さん。「あれに代って、住友銀行に口座を開設すると無料でインターネットが楽しめる CD― ROMをプレゼントするというのはどうでしょう」「プレゼントしてどうなるんだい」「その CD― ROMの中にはホットカフェならぬ──うーん、住友カフェとでもしておきましょうか、とにかく住友の名をつけたアプリケーションソフトが入っていて、受け取った新規口座加入者は自宅のパソコンでそれをインストールするとすぐにインターネットを無料で利用できる寸法です。もちろんプロバイダー業務はどこかに委託すればいいわけです」  ここまで話して一息ついたあと、ぼくは続けた。肝心なのはここからだ。「住友銀行は住友カフェのすべての広告枠を持てるわけです。これは、一つの広告媒体を独占所有するようなものです。こうすれば利用法はいくらでもあります。たとえば、外部から独自に広告を集めても利益になりますよね。銀行がそんな利益を上げるのは問題だ、というなら、こんな手もあります。住友さんともなればたくさんの取引先があるでしょう。その取引先企業に広告枠を提供することで一種の顧客サービスと位置づけ、他行と差異化できます。この手は新規の取引獲得のときにも使えます……」  こんな具合に、ぼくは思いつく限りのメリットを並べ、ひたすらしゃべった。  こんな話もした。ハイパーシステムの特徴であるユーザーの属性にあわせて広告を個別に出せる機能を使えば、銀行側で把握した個人情報、たとえば個々の預金残高などを因数にして、さまざまな金融商品の広告もできる。たとえば残高が多い人には MMCの広告をするが、残高の少ない人にはカードローンの広告をする。どうです便利でしょう──。我ながら、頭も口も実によく働いた。  さすがに国重さんは頭の回転が速い。ぼくの話を一二〇%理解してくれただけではなく、それってインターネットバンキングにも使えるんじゃないの、

と水を向けてきたのだ。  もし住友銀行がハイパーシステム OEMを導入しておけば、今後インターネットバンキングを開始する際に、他行に比べかなり有利になることは十分想像できた。なにせ自社のネットワークを持っているのと同じである。外部に委託した時に発生するセキュリティの問題に関しても、安心してサービスを提供できるはずだ。「そうだね、いろいろできるよな」  やはり国重さんは違う。ぼくは、銀行の役員とは思えない柔軟な発想に舌を巻いた。  数日後、その国重さんから電話が入った。「例の件、ハイパーシステムの OEMをうちが利用する件だけど」「はい」「吉田副頭取と会ってくれないかなあ」  びっくりした。こんなに早く OEMが実際のテーブルに乗るとは。しかもいきなり副頭取である。光が差してきたような気がした。  九七年一月のたしか一四日だったと思う。ぼくは、大手町にある住友銀行の東京本店に夏野を連れてうかがった。秘書の女性が出迎えてくれ、ぼくたちは VIP専用エレベーターで最上階に案内された。真紅の分厚いじゅうたんが敷かれたフロアの奥に通された。  見晴らしのよいその部屋には、大きなダイニングテーブルが鎮座していた。優に二〇人は食事ができるだろう。あまりに広大なテーブルだったので、最初どこに座ったらいいのか、戸惑うほどだった。住友からは吉田博一副頭取、調査部長、そして国重取締役、我々の方は夏野とぼく、計五人がその席についた。  挨拶をしてしばらくすると、京懐石風の和食が次々に運ばれてきた。食べ物にさして執着心のあるわけではないぼくの目にもかなり手の込んだ料理であることはすぐにわかった。  豪華な食事を前に、ぼくはハイパーシステムの OEM化について説明を始めた。技術的な用語をなるべく避け、わかりやすく、熱意はあるが、あくまでジェントルに。こんなに気を配ってプレゼンしたのは初めてだったかもしれない。文字通り当社の命運がかかっているのだ。  一通り話を終えると、黙って聞いていた吉田副頭取がこんなことを口にした。「ぼくは技術のことは良く分からないが、常識的に考えて、よいものはよい、と思う。その話は面白い。うちでやりたいなあ」  思わず膝の上で拳を握り締めた。吉田副頭取はこのとき確かに「うちでやりたい」といったのだ。細かいニュアンスはともかく、そういったのは強烈に覚えている。それだけこちらも真剣だったのだ。  話はそこで終わらなかった。「ところで板倉さん、この際だから融資の話を今のうちにしておいたら」  国重さんがいきなりこう振ってきたのである。  驚いたが、この話に乗らない手はない。ぼくは、当社の資金繰り上どうしても三月までに五億円ほどの資金が必要なことを率直に説明した。「板倉さん、五億なんかじゃ話にならないでしょう。一ケタ違うんじゃないですか」  副頭取の隣に座っていた調査部長はこう言った。  もう驚くどころではない。ぼくは唖然としてしまった。こちらが、五億といっているのに、銀行の調査部長が、それも副頭取がいる前で、一ケタ少ないというのである。  どう返事をしていいのかわからないまま、ぼくはあいづちを打ち、今一度、ハイパーシステムの将来性について説明を繰り返した。  この日、特に具体的な取り決めはなされなかったが、ぼくはある種の手ごたえを感じていた。  帰りの車中で、ぼくは夏野に話した。「五億の一ケタ上だぜ。五〇億だぜ」  すると夏野はこう言った。「そりゃあないでしょう。あれはケタが上がるという意味であって、せいぜい一〇億程度じゃないですか」と。  彼はつまらぬほど冷静なのであった。まあ、そう言われてみればそんな気もする。いずれにせよ、この住友銀行の OEMは何としてでも決めたかった。これが決まれば、ハイパーシステムの新たな戦略がスタートできる。それに住友が本気ならば、予想以上の規模の資金調達も可能となる。  こんなに気分が明るくなったのは、久しぶりだった。  数日後、ぼくは国重さんのところを訪れた。例の話が本当かどうか確認したかったのだ。「ああ、あの話かい。うん、五〇億円だよ。そういう意味で部長も話したんだ」  国重さんは言った。よし、住友の気が変わらないうちに早いところ話を固めなければ。  ぼくはいった。「では、とりあえずこの前五億円と話しましたが、もうちょっと大目に貸していただけますでしょうか。 OEM化で新たに資金が必要になりまして……」「ああ。すぐに検討するよ」  ただの口約束で終わらせてはならない。ぼくは決めぜりふを口にした。「うちのビジネスの将来性でしたら、マイクロソフトに聞くのが一番です。前にお話した通り、成毛社長、古川会長同席のうえで、ビル・ゲイツ会長とも面談しましたし。彼らがハイパーシステムを評価しているのは間違いないと思います」  こんなときのビル・ゲイツだ。彼がわざわざ買いに来たのだ。うちのアイデアを、うちのシステムを。ぼくにとってはまさに錦の御旗である。少なくともこのときはそう信じきっていた。しかも、マイクロソフトは住友がメインバンクのはずだ。「ぜひ行って話を聞いてきてください。融資はその上で、で結構です」  ぼくのこの一言があとでとんでもない事態を招くとは、このときは思いもよらなかった。(後日、国重氏より次の証言を得た。「このとき、調査部長や私が五〇億円と言ったとすれば、それはあくまでこの事業にはそれくらい資金がかかるのではないか、という意味であり、五〇億円を融資しようと確約したわけではない。板倉氏はこちらの発言の意味を取り違えたのでは」。)  住友銀行の融資の話はありがたかった。このままいけば OEMもなんとかスタートできるだろう。が、このときのハイパーネットにはすぐに手に入る直近の資金が必要だった。なぜなら、先にも触れたように、米国での事業展開で思わぬ出費を強いられていたからである。  そんなとき、森下から朗報が入った。  以前から付き合いのあったあさひ銀行の担当者に当社の事を話したところ、どうやら融資が決まりそうだというのだ。ぼくはすぐにあさひ銀行の融資担当

者と面会した。「板倉社長、実は当行の技術評価で御社が過去最高の得点を得られたんですよ」  彼はこう言ってぼくを持ち上げた。「とにかく融資に前向きですから、よろしくお願いします」「いやあ、こちらこそよろしくお願いします。」  経験から金融機関の技術評価はあてにならないと思っていた。が、それが融資につながるのならば、話は別である。ぼくはこの話を喜んで受けることにした。金額は二億円。しかも無担保である。  一つ気になったのは、この担当者がナスダック公開の話を繰り返し聞いてきたことである。この時点ですでに六カ月延期は決まっていた。その旨はきちんと伝えたのだが、それでも彼は、ナスダック公開は確実ですよね、と念を押してきたのである。  実際に二億の融資が実行される数日前。この担当者は、あさひ銀行が株主をしているゴルフ場の会員権を薦めてきた。千葉にあるゴルフ場のもので何と三〇〇〇万円!  かなり高価な会員権である。当時のハイパーネットにとって、かなりの出費である。ぼくは当社の役員と相談した。結論は「購入」である。背に腹は変えられない。担当者はゴルフ会員権と融資の関係に関しては何もいわなかったが、ぼくも子供ではない。  さて、融資前日のことだ。  あさひ銀行の支店長が当社を突然訪問してきた。融資の話ではなかった。ぼくにゴルフ会員権のことについて確認を求めてきたのである。「いやね、うちの担当者が強引に買わせたのかと思って心配になってねえ」  支店長はにこやかに笑って、念を押した。「ちがうんでしょう、ちゃんと社長がほしいと思ったんでしょう」  ぼくもにこやかに笑って、答えた。「そうです、ぼくもゴルフ大好きですから」  確かにぼくはゴルフが好きだ。スキーや、カートのレースや、フェラーリや、バス釣りや、六本木でのクラブ活動や、犬の散歩や、仕事ほどではないが、好きだ。まちがっても高価なゴルフ会員権を能動的に買おうとは思わないが、好きだ。  でもこの日から突然、ぼくはゴルフが以前より好きではなくなった。理由はわからない。  翌日、あさひ銀行は二億の短期無担保融資を実行してくれた。  あさひ銀行からの融資と丁度同じ時期、九七年の一月の話だ。当社はナスダックの公開延期を受けて、国内での第三者割当増資を計画した。  もちろん住友の五〇億円融資が実現すれば増資の必要もなくなるのだが、あの数字で皮算用するのはさすがに危険だった。あさひ銀行からも二億円を確保したが、これとても現在の苦境を脱し、事業を展開するのには十分な額とはいえなかった。  もともと三月に予定していたナスダック公開で五〇億円程度を調達するつもりだった。日米でのサービス拡充をはじめとする短期の事業計画にも織り込んでいた。ところが今回の延期である。少なくとも短期で織り込んだ分の資金調達をしなければならなかった。  必要なのが総額六億円。今後六カ月から一二カ月間の事業成績が最良の場合と最悪の場合、それぞれの場合にいくら必要なのかを考えたうえ、短期間で調達できる現実的な金額、それがこの数字だった。  これだけの資金を増資で果たして手に入れられるか。慎重に考える必要があった。増資をするには当然臨時株主総会を開かねばならない。そこで決議された募集株数にもし失権がでたら大変なことになる。すなわち、ハイパーネットの株が増資に際して売れ残りが出たということになるからだ。その情報はたちまち市場全体に伝わり、さらなる経営危機を誘発する恐れがある。  ぼくは調達可能だと思われる金額より少し少な目に募集額を決定することにした。さて、そこで問題となるのが株価である。当社の株は最初額面五万円で発行されていたが、九六年中にナスダック公開を目的に無額面に変更していた。  ナスダック公開時点での株価の予測は、類似会社の照合などあらゆる手段で検討されたが、優に一〇〇万円を超えていた。一時は会社のネットバリューが四〇〇億円と予想されるときもあった。この時点での発行株数は、ぼくをはじめ経営陣の受けたストックオプション(潜在株)を含めても三〇〇〇株強だったから、四〇〇億円になったら一株一三〇〇万円にもなってしまう。  九七年一月時点で一三〇〇万円は高すぎる。社内外で議論した末に、当社はこの増資に一二〇万円という株価を算定した。後はこの値で売れるか売れないかである。  当社はすべての財務状況をディスクローズした書類を用意し、事業計画書をもとに募集を始めた。増資には、通常リードインベスターという投資家が必要だ。当社のような新株発行を予定した企業の株を最初に買ってもらって、値をつけてもらうのである。このリードがいてはじめて、他の投資家たちが手を上げてくれる。むろん、リードの役は皆が投資判断能力があるとみなすような者でなければならない。  当社の場合には、ニュービジネス大賞で世話になった長銀系の大手ベンチャーキャピタル、 NEDがその役を買って出てくれた。   NEDの説得力は大きかった。  まず、ぼくも参加していた有力若手起業家の組識 YEOのネットワークのつてで、若きベンチャービジネスマン、アントレプレナーに声をかけ、幾人かの事業家からの投資を受けることができた。ベンチャーキャピタルでは、 NED以外に日本生命系のニッセイキャピタルが株式を引き受けてくれた。  さらに、ジョイントベンチャー契約に調印したばかりの韓国サムスングループの広告代理店チェイル・コミュニケーションズも投資に応じてくれた。チェイルからの投資額は、実は韓国で設立する合弁企業ハイパーネットコーリアへ捻出した資本金の額に等しかった。  その後、数人の個人からの投資や、取引先企業にも引き受けていただき、口頭ベースの申し込み金額は、六億円を超えていた。  その中には、住友銀行系のベンチャーキャピタル、住銀インベストメントからの出資も含まれていた。住友銀行本体の代わりだろう。ぼくはそう解釈していた。  ベンチャーキャピタルというのは自身の資本を運用するのではなく、外部から募ったファンドを管理運営するわけだが、この時当社に出資したファンドは九〇%が住友銀行本体からの資金であった。つまり住友銀行自身が間接的に出資しているようなものだ。金額は三〇〇〇万円と決して多額ではなかったが、この時点では、まだ調査部のチェックが済んでおらず、銀行本体から出資しにくかったのかもしれない、などとぼくは考えていた。  出資比率などの調整を経て、六億円満額が無事振り込まれたのは九七年二月二八日のことだ。当社は三億を資本金に、残り三億を資本準備金として、自己資本を充実させることができた。もちろん、バランスシートの数字だけでなく、キャッシュそのものの残高も七億円近くに増えた。増資は大成功に終わった。  やはり過去の業績より、ハイパーネットの世間での評判、特にニュービジネス大賞の受賞や数々の当社のパブリシティーが功を奏したのかもしれない。後に、証券会社の公開引受部の人間にきいたところ、この増資は「小規模の店頭公開と同等の成功」ということだった。  しかし、増資成功の裏で、ハイパーネット崩壊の序曲はすでに流れはじめていたのである。

 あれは一月の終わりだったか、二月の初めだったろうか。  ぼくは日本橋の住友銀行へ向かった。国重さんに会うためだ。 OEMの話、住銀インベストメントによる増資の話。相談することがたくさんあった。もちろん最大の相談事は融資の話である。  国重さんはいきなり別の話を切り出した。「いやあ、面白かった。うん」  彼が調査部長らと連れ立ってマイクロソフトを訪問したことはすでに聞いていた。面白かった、というのはそのことだろう。  マイクロソフトの件ですね、とぼくが尋ねると、彼は首を縦に振ってうなずきながら、再び同じせりふを繰り返した。「いろいろ話したなあ、とにかく面白かった」  いったいマイクロソフトはなにを話したのだろう。こんな曖昧にものを言う国重さんは初めてだ。ぼくは少々不安をおぼえた。「で、なんていってました?」「うん、先方はハイパーシステムの特許が気になっているみたいだねえ。事業については興味がないみたいだけど」「特許ですか」「うん、つまり権利関係だね」「はあ」  何が言いたいんだ。ぼくはいぶかしんだ。マイクロソフトが新事業の特許や権利に関心を持つのはいつものことである。そんなことはとうに承知だ。それよりうちへの融資の話はどうなったんだ。  そのまま黙っていると国重さんは意外な言葉を口にした。「で、板倉くん。もしマイクロソフトが同じような事業をやるっていったら?」  突然、目の前で話している国重さんの姿がはるか遠くに離れたような気がした。手を伸ばしても届かないところにいってしまったような気がした。  そんなことはなかった。国重さんはちゃんとぼくの前に座っていた。  結局、国重さんは融資の具体的な話をいっさいしなかった。  マイクロソフトが彼に何を話したのかも具体的には語らなかった。「面白かった」というだけだった。  ぼくの知らないところで、何が起きている。それが何なのか、さっぱりわからなかった。ただし、ぼくがはっきり感じたことが一つあった。  この日以来、住友銀行の態度が一変したのである。  二月以降、住友の調査部では、当社に対する新たな大型融資に向け、売上状況などの調査を開始した。が、どんな資料を見ても、ネガティブな発言ばかりをするようになった。  たとえば、韓国でジョイントベンチャーの企画があると話せば、「まだ売り上げが上がったわけじゃないでしょう」。   OEMの契約の原本を見せれば、「ま、とりあえず契約金だけは入りそうですね」。  しかも、件の調査部長は、ぼくが事業展開を説明するたびに、同じ言葉を繰り返した。「でもね板倉さん。もし、マイクロソフトがあなたと同じことをあの資金力をバックにやったら負けますよ」  なぜここでマイクロソフトが出てくるのか。彼は何をいいたいのだろうか。この論理を拡大すれば、ベンチャービジネスは成り立たない。アイデアはあるが、資金はない。ベンチャーは皆ここからスタートする。だいたいが、部長が口にするマイクロソフトからして、かつては資金力のない一ベンチャーだったじゃないか。ぼくは内心むっとしていた。  とても数週間前に五〇億円の融資をほのめかした人間とは思えない発言だった。  その後、二月に行われた調査の結果を受けて、ぼくは調査部長に約束をした。  確かに当社の足元の財務状況は悪い。しかし、新しい事業展開と海外の展開で必ず良い結果を三月までには出すことができる。それを見てほしいと。  つまり、たった一カ月半でめざましい成果を出す、と約束したのである。  ぼくは全部門、全分野にわたって直接指揮を執ってその目的の達成に当たった。とにかく今は住友を納得させるしかない。  ぼくが社員に課した三月までの宿題はこうだ。  まずハイパーシステム OEMの受注を最低一件、それに通常の広告の販売にも多少手を加えた新パッケージ(これはユーザーのターゲティングをしない代わりに通常より安い一人当たりの広告費で、ユーザー全員に広告を送出するというものだった。もちろんグロスの金額は非常に大きくなる)の受注を最低二件、さらにそれまでのホットカフェの広告枠の下に「ボタン」をつけ、そこに固定的に企業のリンクを張るという新商品、低調だった IMSの受注増、それに海外の事業展開である。  実はこのとき、ハイパーネットの事業成績は飛躍的に改善された。  まず「ボタン」については住友銀行自身が契約してくれた。海外についてはサムスングループと正式にジョイントベンチャーの契約を結ぶことができた。更に IMSは月間で過去二番目の受注の記録を達成した。  結果、九七年三月の一カ月間の受注は、ハイパーネット始まって以来最高の二億円を突破したのである。当時当社の売り上げは年間で八億円に満たなかったから、一カ月で二億円の受注というのは快挙であった。  しかも、前項で述べたように、六億円の増資も成功している。そこには住友系の住銀インベストメントからの三〇〇〇万円も含まれている。  これで文句はないだろう。三月のある日、ぼくは調査部長に対して胸を張って以上の成果を報告した。  しかし、調査部の反応は以前にも増して当社に対して冷たくなっていた。調査部長はこう言ったのである。「板倉さんよかったですね。でも足元の資金繰りは改善されていないですね」  ちょっと待ってくれ。二月の調査の時点で、ぼくがなんと言ったのか覚えていないのか。  一カ月半後の三月末までの当社の活躍を見て欲しい。確かそういった。資金繰りまで完全に回復するとまでは言っていない。そんなことができるはずはない。それができているならば、そもそもの話、銀行の融資に頼る必要などないではないか。  確かにこのときのハイパーシステムの財務状況は、決してほめられた内容ではなかった。通常ならば銀行がすぐに追加融資に応じるような状態でもなかった。そして、それを承知で融資をお願いした。これも事実だ。  もちろん、あのとき話題に上った五〇億円がなければこの会社がすぐにおかしくなってしまうわけではない。すでに六億円の増資も成功しているし、三月に入り、ハイパーネットの業績は急激に上昇していた。  それにしても、一月のあの発言は何だったのか?  ぼくは、ようやくある現実を理解するようになった。

前にも話したが、ぼくは住友銀行と付き合うようになったのは、国重さんという個人との出会いがあったからだ。彼がぼくに興味を持ってくれ、ハイパーシステム立ち上げの当初から二億五〇〇〇万円の融資をしてくれたからこそ、この事業がスタートできたのだ。その後も有形無形のかたちで支援をしてくれた。日本の大銀行は概してベンチャーに冷たい。だが、国重さんは違った。ベンチャーに何が必要なのか、明確にわかっていた。そして、ぼくはおよそ銀行員らしからぬ判断力を持った型破りのこの人が好きだった。  ぼくは勘違いしていた。国重さんは親しい仕事相手ではあったが、「友達」ではなかった。いざとなれば、国重さんという「個人」から、住友銀行取締役日本橋支店長という「企業人」に、チャンネルが変わるのだ。個人の感情と企業の論理。どこでどう線を引くかということが、ぼくにはわかっていなかった。会社勤めをしたことがなく、「組織」というものに対する本質的な理解がなかった。  国重さんに対する思いを変えざるを得なかった。彼は個人ではない。あくまで企業人なのだ。最終的には所属する企業の利害を優先するのだ。こんな当たり前のことを、ぼくは一人でかみしめていた。もっと早く、せめて半年前にでも気がつけば、今の苦境はなかったかもしれなかった。  おそらく、「わかる」人からみれば、こんなことは当たり前だと思うだろう。なぜ、おまえは国重さんとつきあっているんだ。友達だからか。違うだろう。彼が有能な住友銀行の支店長だからだろう。でも、このときまで、ぼくにはこんな視点が根本的に欠落していた。  ここで追記しておくことがある。マイクロソフトに話を聞きに行ったとたんに国重さんの態度が一変した、とぼくは書いた。この印象はいまでも変わっていない。だが、同時にこう思う。あのとき、国重さんそして住友銀行が当社から手を引き始めたのは、金融機関の経営判断としては非常にまっとうだった、と。  繰り返すが、ハイパーシステムとは、インターネットと広告とを結びつけ、ユーザーには接続無料サービスを、広告主には細かなマーケティングデータを提供する、いわばアイデアビジネスだ。逆に言えば、初期段階でマーケティングデータと広告主をある程度の規模で獲得し、企業としての体力をつけておかないと、それこそマイクロソフトクラスの会社が本気で参入してくれば、あっという間にシェアを奪われるだろう。  ところが、当時のハイパーネットが誇れるものは、この手のビジネスの先駆者であることを除けば、半年で二〇万人のユーザーを獲得したことだけである。売上高は右肩上がりだったが、巨額の初期投資もあって、経営そのものは赤字が続いていた。増資は成功したが、ナスダック公開は延期された。米国での事業展開も芳しくなかった。売上高を総融資額がはるかに超え、企業としてはいつ倒れてもおかしくない状態だった。  ぼくの想像に過ぎないが、住友銀行は、マイクロソフトにリサーチをかけた時点で、以上の構造に完全に気づいたのではないだろうか。マイクロソフトは、ビル・ゲイツ会長と面会した九六年一二月時点でかなり詳細な調査を当社に関して行っていた。その後、ハイパーシステムと似たような発想のサービスを特許に抵触しない形で独自に開発できるかどうかくらいは、あのビル・ゲイツのことだ、おそらく調べているだろう。その結果、ハイパーネットに利用価値なし、とマイクロソフトが判断し、その情報が住友銀行に伝わったとすれば、当社を同行が見放したのもうなずける。そう推理すると、当時は腹が立ってならなかった調査部長の「マイクロソフト云々」の言葉も、むしろ極めて妥当な発言だった、ということになる。  残念ながら、九七年春の時点のぼくに、ここまで思いを巡らせるだけの能力も余裕もなかった。それは結局何を意味するのか。実は、うすうす感づいていた。もしかしたら……、この頃、ぼくは他ならぬ自分に対して、一つの疑念を抱いていた。  おれは、経営者に向いていないのではないか。

[第 4章]転落   1997年2月 ~ 10月  おれはもしかしたら、経営者に向いていないのではないか?  社長という肩書きを持って一五年。ぼくは年が明けて以来、ときどきこんなことを思うようになった。あまりに多くのトラブルが続いていた。一つ一つには個別の原因があったが、それらを同時期に招いたのは、やはりぼくの経営責任だ。  この気持ちを強くしたのはハイパーシステムの値下げを行ったときだ。九七年一月のことである。このころハイパーシステムのユーザー数は二〇万人を超えていた。サービス開始からわずか六カ月。ちょっとした快挙だった。このサービスを利用したプロバイダーも最初のアスキーに加え、四社に増えていた。  二〇万人という数字を聞いて、ぼくは一つの決断を下した。値下げをしよう。  ハイパーシステムの広告の値段は、テレビや雑誌などマス広告の値段の付け方とは根本的に違う。テレビにしろ新聞にしろ雑誌にしろ、ほとんどの広告媒体はその対象者を媒体毎にしか特定できない。それに対してハイパーシステムは、ハイパーシステムという媒体の中からクライアントの希望する属性の人だけを抽出して広告できる。したがってクライアントの要求次第で各広告の対象人数は大きく変わってくる。何も条件をつけなければ二〇万人全員がその対象となるし、複雑な条件をいくつも加えていけば、理論的には対象を一人とすることだってあり得る。  そこで当社では、広告価格をマスで売るのではなく、一人当たりいくらで販売することにした。そこで九六年六月のサービス開始時に、当社はハイパーシステムの広告の値段を一人当たり四〇円というところからスタートした。この値段は当初の会員数二万人をもとにしたシミュレーションからはじき出した数字だ。  それが半年後、会員数は二〇万人と当初の一〇倍以上になっていた。これならばスケールメリットを十分得ることができる。ぼくはそう考え、販売促進を狙って、一人当たりの値段を二五円まで下げる決定をしたのである。  ところがこの決定を新聞紙上で発表したところ、当社の取引代理店ばかりではなく、ベンチャーキャピタルをはじめ主要な株主から反発や苦情が殺到したのだ。  これから成長するニュービジネスで、いま値下げとはどういうことか。雑誌などでも広告の値下げなど、よほどうまく行っていないときにしかしないぞ。ハイパーネット自体の金回りが悪くなっているというのに、一体何を考えているんだ――。  ぼくは反論した。この値下げは、雑誌などマス媒体で広告単価を値下げするのとは根本的に違っていたからだ。  まず当初二万人のときに一人当たり四〇円の値段設定だから、二万人全員に広告を送ろうとすれば、広告主が当社に払うのは二万 ×四〇円で八〇万円だ。それに対して現在の会員は二〇万人だから一人四〇円のままでは支払額は八〇〇万円と非常に高くなる。  これを一人二五円に値下げすると、広告主の支払額は五〇〇万円だ。たしかに四〇円の時に比べれば三〇〇万円低い。しかしマス媒体では合計金額が広告価格なのである。だから、開始時の合計八〇万円と比べれば、一人当たりの単価を値下げしようと、会員数の増加で自動的に四二〇万円の値上げがされているのと同じことになる。  ハイパーシステムの広告価格と雑誌の広告費を比べてみればもっとよく分かるはずだ。ハイパーシステムの一人当たりの広告価格は、雑誌でいえば一冊当たりの広告費にあたる。その雑誌の発行部数が、ハイパーシステムの会員数のようにどんどん増えたとする。そうすると、計算上一冊あたりの広告費は値下げされていることになる。すなわちこれがスケールメリットである。  この理屈が、なぜか周囲のほとんどの人に理解されなかった。  ショックだったのは、当社の大株主でぼくの恩人であるあの郡司さんでさえ、この値下げに対して苦情を言ってきた。もちろんぼくは先ほどのような説明をしたわけだが、彼はこう言った。「でもその論理は、ほとんどの人が理解できないでしょう」  ぼくは愕然とした。  なぜ理解されないのか。ハイパーシステムを知っている人であれば、ちゃんと説明すれば理解できると考えていた。ところがいくら説明してもわからないという。いや、実は、この本を書いている現在も、なぜ周りの人々がこのしくみをわからないと言ったのか不思議である。本当に説明できないのなら、こうして文章になどできないではないか。  でも、そのときぼくは思った。説明の内容が悪いんじゃない。おれが悪いんだ。  会社がつぶれた後に何人かにこんなことを言われたことがある。「板倉さんはさ、アイデアを最初に考え出して起業するまではいいんだよね。でも、起業したあとに組識を作って安定的に経営するのはあんまり向いていないんじゃないの。そもそも飽きっぽいし」  ベンチャー大国米国では、アイデアを出し起業するいわゆる「起業家」とその後実際に経営を行う「経営者」が別人であるケースは、珍しくない。要するにこの二つの仕事は性格がまったく異なるものなのだ。両方の資質を持っているならばともかく、片方だけの場合、どちらかの仕事に専念した方がよいに決まっている。  ぼくもそうなのかもしれない。アイデアを思いついて事業化するまでがぼくの仕事。そのあと実際に経営するのは、他の人間に任せればいいのかもしれない。  値下げの件は氷山の一角だった。ぼくが自分を経営者に向いていないのでは、と思ってしまう出来事はいくつもあった。  ニュービジネス大賞の受賞もそうだ。身内から「調子に乗るな」と批判を受けた。ぼくは単に会社の宣伝になればよいと思っていただけなのに。でも、周りはそう思っていなかった。「目立ちやがって」というわけである。これではフェラーリを買ったときと同じだ。  結局、つきつめればぼくが悪いのだ。社長としての自分のイメージコントロールをうまくできなかったのだ。それは個人の自由だ、と突っ張った時点で「社長失格」なのである。   OEMの開始についても社外はもちろん、社内からも方針がころころ変わると批判を受けた。そう、九七年に入ってから、ぼくの知らないうちに社内にぼくを批判する声が高まっていたようだった。ようだった、と書くのは、この時点で、ぼくがその事実を正確に把握していなかったからだ。  金策に走りまわり、海外事業の見直しや OEM化など新規事業を直接担当していたぼくは、一日の大半を外部の人間との交渉ごとでつぶしていた。幹部社員を除くと、社内スタッフと顔を合わせることは、ほとんどなくなっていた。  当時のハイパーネットの社員数は八〇人。スタート時の四人に比べれば、飛躍的に増えていたものの、この程度の人数ならば、経営者は各社員の動向を正確に把握しておかねばならなかった。しかし、忙しさにかまけて、ぼくはその努力を怠っていた。  過剰なまでの自信家だったぼくだったが、いまやその自信の一角が確実に崩れようとしていた。

ある夜のことだ。ぼくは当社の財務担当役員の森下と食事をすることになった。相談がある、というのである。  おそらく地位の問題だろう。彼が取締役という立場に不満を持っていることは知っていた。  ぼくたちの乗ったハイヤーは、渋谷から六本木通りを進み、青山学院のトンネルを抜けたところで左折した。静かな住宅街の曲がりくねった道を二回右折すると、小さな屋敷の前に着いた。仏料理を食べさせるこの店には個室がいくつかあり、飲みながら商談をするにはうってつけの場所だった。  ビールとグラスが運ばれて来る前に、森下はこんなことをしゃべりはじめた。「社長。ぼくを採用するときに何ていったか覚えてます?」  まったく記憶がない。  森下は続けた。「ナンバー2にするっていったんですよ」  細身のグラスに注がれたビールが来た。仏料理の前にビールを頼むのはあまり行儀のよいことじゃないが、今日は男二人だ。構わないだろう。「うーん、そんなこと言ったかなあ」  本当に記憶がなかった。「言ったんですよ、社長は。忘れちゃった?  もう、しょうがないなあ」  ビールをくいと飲み干してグラスをおいた。「ま、いいや。そんなことはどうでもいい」  彼はいった。「社長、ぼくね、もっと経営そのものをやってみたいんですよ」  オードブルがきた。寒い日だった。ビールを一杯で止め、赤ワインを頼んだ。  テーブル脇でワインをサーブするソムリエの仕事ぶりを見ているうちに、ぼくの心の中でもやもやしていた〝何か〟が言葉になって出てきた。「じゃあ社長をやるかい?」「え?  ぼくが、社長?」  森下は飲みかけたグラスを下げてぼくを見た。  ぼくはかまわず続けた。「社長をやるってのは、それ自体相当リスクがあるぜ。債務保証だって、場合によると個人でしょわなきゃいけないときもあるし。おれはもうそうしてるけどね」  ビールの残りを飲み干すと、ぼくは彼の言葉を待った。「いいんですか?  ぼくが社長をやっても」「ああ、いいよ。ほんとにやりたきゃ」  もし森下がただの世間知らずかもしくはビール一杯で正体をなくす酔っ払いならば、ぼくも酒の肴程度の話として受け止めただろう。  しかし森下は、世間知らずでもなければ酔っ払いでもなかった。いささかお人好しのところはあるにせよ、れっきとした当社の財務担当取締役だった。当社の財務状態はぼく以上によく知っていた。公認会計士の資格を持っていた。過去に自分で会社経営もしていた。その彼が「社長をやりたい」と言う。これは冗談ではない。  森下におれを上回る経営手腕があるのなら、社長の座をゆずってもいい。ぼくはワインの回り始めた頭の中でぼんやりそう思った。とにかく、ぼくが自分の地位にこだわることによってこの会社が駄目になるような目にはあいたくなかった。  この日、ぼくは明言を避けた。増資の成功も確信できる状況だった。でも、心の中ではもう決断していた。――社長交代をしよう。  九七年二月下旬のことだった。  そしてそれから四カ月後、ぼくの決断は実行されることになる。  九七年三月。半年前の計画ならば、いまごろナスダック公開を前に米国各地で株主相手の講演でもしているところだった。カリフォルニアにプール付きの家でも買っていたかもしれない。フェラーリから乗り換えて一台一億円のマクラーレン F1で首都高を飛ばしていたかもしれない。  現実はまったく逆だった。ナスダック公開は延期になったし、フェラーリも二月の末に売ってしまった。白金の家にはまだ住んでいたが、この先、月五〇万円の家賃が払えるのか不安になってきた。  でも、ぼくはまだ前向きだった。ハイパーシステム OEM化と韓国との海外提携、増資の成功、それになんと言っても基軸事業の IMSとハイパーシステム広告営業の増収があった。  ハイパーシステム OEMの開始を皮切りに、地方プロバイダーへのハイパーシステムのライセンス供与、韓国でのサムスングループとのジョイントベンチャー、ハイパーシステムの広告パッケージ販売。いずれも書面での契約や受注があり、前にも書いたように受注額は月あたり二億円に達していた。そしてこの改善を背景に六億円の増資に成功した。  ハイパーシステムという、それまでの基軸事業の IMSの規模をはるかに超える事業を開始して六カ月。確かに相当な額の初期投資をしてきたし、これまでに多くの問題が発生した。が、ここのところの業績の改善で月次の P/ L(損益計算)は、それまでのマイナスから、いよいよプラスに転じようとしていた。  ハイパーシステムを開始する前にはもちろん毎月プラスだったが、その利益を一時的に失ってもハイパーネットのジャンプアップのために、あえてハイパーシステムを事業化した。  そして当初の鼻息荒い事業計画からみれば業績は下回っていた。自信過剰の僕の理想からはかけ離れていた。しかしとにかく月次の P/ Lがプラスかもしくはゼロにたどり着けば、事業の存続は可能だ。そうなれば後は市場の拡大を待てばよい。ここまで六カ月。ナスダック公開は延期せざるを得なかったが、どうだろう、一般的に見たら決して悪い立ち上がりじゃない――。このとき、ぼくの中にはまだこんな楽観的な考えが残っていた。  住友銀行の態度の急変は気にかかっていたが、一方では住銀インベストメントが三〇〇〇万円の増資に応じてくれている。改善がこのまま進めば、再び良いほうに話が進むだろう。例の大型融資も現実化するにちがいない――、そう思っていたのだ。  さて、ちょうど増資が成功した三月初め。取引銀行から相次いでアポイントメントがあった。  最初に連絡してきたある銀行はこういってきた。 BIS規制の関係で貸出資産を圧縮しなければならないので、三月末の(銀行側の)決算をまたぐ間、〝いったん〟可能な額を返済してほしい。  次に連絡のあった別の銀行はこういってきた。御社に対する融資残高がだいぶ増えてきたので、この時点で信用確保のため〝いったん〟一〇日間ほどでいいから可能な限りの返済をしてほしい。

 他の銀行のせりふも基本は一緒であった。どこも狙い澄ましたようにほぼ同じ週に連絡してきて、三月末までに可能なかぎりの返済を〝いったん〟お願いしたい、と言ってきた。ちなみに住友銀行も同じようなことを要求してきた。  前にも書いたが、当社への銀行からの融資はすべて短期融資である。しかも無担保で、当社の株式のみを資産として所有しているぼくの個人保証によるものだった。  ほぼ三カ月ぐらいの短期融資を期限がくると形式上いったん返済し、当日中に再び同額の融資をしてもらう。このロールオーバーという手法でハイパーネットでは融資を継続してきたのである。  今回の銀行の申し入れは、これまでのような同日の形式的な融資返済ではなく、三月を過ぎるまでの間、実際に返済してほしいというものだった。そして四月中に再度同額もしくは増額の融資をする、というのである。  なるほどそういうことか。ぼくはさほど悩まずに結論を出した。  今回の銀行の要求に答えて、融資の一部をいったん返済をする。そのときぼくが負うリスクは、そのまま折り返しの融資を得られずに資金繰りが破綻する可能性だ。けれどもそれはまずない。ぼくはそう考えた。銀行の担当者を盲目的に信じているからではない。そんなことをしたら、銀行は、融資した資金の一部を引き上げただけで残りが回収できなくなってしまう。それでは元も子もない、と判断したのである。  当社は財務資料をディスクローズしていた。当然、どの銀行も内容をチェックしている。資金の一部を引き上げたままにして折り返し融資をしなければ、資金繰りが破綻して倒産してしまうことは、彼ら銀行もよくわかっているはずだった。  ただし最悪のシナリオが現実化する可能性がひとつある。各行の融資残高の大部分をもし当社が返してしまった場合だ。この会社は業績が悪いから、可能な限り融資を引き上げ、残りの融資は捨ててしまえ、と考えるケースがあり得る。  そこでぼくは大まかな計算をした。基本的に各行の融資残高の三〇%ぐらいをいったん返済する限度額とすればいい。  その結果、九七年三月時点で、住友銀行をふくむ当社の複数の取引銀行に当社がいったん返済した額は、増資で調達した六億円を超えていた。  ただ、九七年一月時点で当社が七つの銀行から借りていたのはおよそ二〇億円。だから六億円以上をいったん返したといっても、各銀行の融資残高の三〇%を超える額は返済していなかった。いずれにせよ当社の借入れ残高は九七年二月時点で二〇億円を超えていたのが、四月には一三億円強までとりあえず圧縮されたのである。  とにかく、ぼくはこの返済をあくまで「いったん」と理解していた。  たとえば住友銀行の場合、折り返し融資について具体的な方法が提示されていた。同行からの融資は最盛期で八億円(このうちの三億円は預金担保だったので、残り五億円の無担保融資とは性格が違うが)あったが、九七年三月上旬の時点で融資総額は二億五〇〇〇万円に減少していた。というのも同行と当社の間にはいったん返済とは別に月々五〇〇〇万円の約定返済があったからである。  三月上旬に今回の「いったん返済」の件で国重さんに会ったとき、彼は「四月に元々あった五億円まで融資残高を戻す」とぼくに約束してくれていた。  二月の調査部の件で明らかに態度の変化した住友銀行であったが、それでもこの時点で依然当社のメインバンクであることに変わりはない。うちの資金繰りを圧迫するようなことだけはまずしないだろう。ぼくはそう安易に考えていたのである。もっとも、この約束はぼくだけが聞いたわけではない。当社の財務スタッフも、住友銀行から直接この約束を担当者レベルで聞いて報告していた。  甘かった。  それは三月も下旬のことだった。  ぼくは新しく始めたハイパーシステム OEMの成果の報告と以前から話の上がっていた住友銀行と提携予定のサービスについて話すため、国重さんを訪問した。  このビルのこの部屋にいったい何度通ったことだろう。ぼくは支店長室の応接で待っていた。  一〇分後、国重さんが忙しそうに部屋に入ってきた。「どうもおせわになります」  いつものように挨拶をして話しはじめようとすると、国重さんが慌ただしく切り出した。「あのね、板倉くん。あの融資の話、だめなんだ」  ぼくは彼が口にした言葉の意味がすぐには理解できなかった。一瞬、二カ月前の五〇億円融資のことをいっているのかとも思った。そんなはずはない。そもそもあれは調査部が OKを出さない限り進まない話だ。  ということは、え、うちへの融資額を四月には五億円に戻すって話してた、ついこの前話してた、こっちの融資のことか?  呆然としているぼくにかまわず、彼は話を続けた。「こちらは支店の分を全部返したと思っていたんだよね。だけど実際は本店分と両方を返して二億五〇〇〇万円になったんだよね。だから無理なんだ」「はあ、というのはどういうことで……」  彼は何を言っているんだ。ぼくはますます分からなくなった。「うーん、だからね……」  国重さんは説明を始めた。  住友の最初の二億五〇〇〇万円の融資は九五年一一月、次の二億五〇〇〇万円の融資は九六年三月であった。そしてこの二つの融資は、それぞれ支店での決済と本店での決済というぐあいに出所が異なっていた。  その後住友には毎月五〇〇〇万円ずつ返済していたから、残高が二億五〇〇〇万円になった時点で、国重さんは支店もしくは本店どちらか片方の融資決済分を完済したと思っていたというのだ。  たとえば支店での決済分がこれで完済していれば、もともと支店における融資枠の二億五〇〇〇万円を新たに追加でき、結果として当初のように融資残高を五億円に戻すことができる。ところがここまで返済した二億五〇〇〇万円は、どういう比率か分からないがとにかく本店と支店それぞれに振り分けられていたというのだ。このため、本店と支店を個別に見る限りいまだに返済額は二億五〇〇〇万円に達しておらず、結果その額の折り返し融資は無理、という理屈である。「はあ」  理屈はよく分かる。だが、それは銀行の組識の中の理屈だ。当社にしてみれば、本店と支店の決済がどちらだろうと知ったことではない。いわれた通り、この五ヵ月間で〝いったん〟二億五〇〇〇万円返済したのだ。なのにこの発言は……。  思わず、「それはおたくの中での話でうちには関係ない話じゃないですか」と、喉元まででかかった。が、ここで水掛け論をしたところで全く得るものがない。アイデアマンの国重さんだ。きっと何か対案を考えているのだろう。「で?」

 ぼくは次の国重さんの言葉に期待した。「まいったなあ」  彼は目をちょっとそらしてこういうと、黙ってしまった。  まいった?  それだけか?  もはや OEMの話どころではなかった。しかも、あからさまに困り果てた顔をしていたであろうぼくに、しばらく黙っていた国重さんは、突然こんなことを言い出したのだ。「彼だったら IMS事業を三億円ぐらいで買ってくれるんじゃないかなあ?」 「?」「ただ、板倉くんの持っている株を全部担保に入れるという形が必要だと思うけどね」  もはや言葉が出なかった。  彼?  世間でも名の通った有名起業家の名を突然彼は口にした。エンタテインメント系の流通サービス業を手がけるこの人には、ぼくも何度かお会いしている。たしか住友銀行がメインバンクだ。それにしても、なぜここで彼の名が出てくるんだ?  おそらくぼくはとんでもない目つきで国重さんを見ていたのに違いない。国重さんの表情でそれが分かった。でもこちらの動揺を、憤怒を、いま悟られてはいけない。おれは社長なのだ。ハイパーネットの経営者としてこの場を何とか解決しなければならないのだ。「それ、どういうことですか?」  ぼくは平然を装い、まずは話を聞く事にした。「確認したわけじゃないんだけど、きっと彼だったら支援してくれると思うということだよ」  支援?  なんだそれは。そんなことを頼んだ覚えはないぞ。  一瞬、ぼくの中で何かが切れた。眉間に皺が寄った。こめかみの動脈がひくついているのが分かった。喉の奥から込み上げてくるものがあった。  次の瞬間、ぼくは理性を取り戻した。まずい。ここで怒鳴ってはまずい。「ふーん。……そうですか」  とにかく考えるふりをした。とにかく今日のところは引き上げよう。こちらに次の一手はなかった。「少し考えてみます。とにかく融資の話はまったく駄目なんですね」「うん、そうだね」「わかりました」  もう一度頼んでみるにしてもすがってみるにしても、一度頭を冷やすべきだった。「それじゃとりあえず今日はこの辺で」  そっけなくそう言うと、ぼくは住友銀行をあとにした。  この日を最後に、国重さんと直接会うことは二度となかった。  ハイヤーの中で、ぼくは拳を握り締め、じっと前をにらんでいた。  こいつは大変なことになった。  ぼくは、ここではじめてハイパーネットの危険を感じた。このままではつぶれる。住友銀行はメインバンクだ。そこがもう貸せない、といっているのだ。放っておけば資金繰りが頓挫する。そうなったら短期融資でつないでいるこの会社はおしまいだ。  倒産。ぼくの頭の中でこの二文字が浮かび上がった。  三宅坂を抜けて赤坂見附の陸橋を渡るところで、ハイヤーは渋滞に巻き込まれ、前に進まなくなった。ぼくは右手のお堀端の水面をぼんやり眺めた。気持ちがまとまらなかった。裏切られた。悔しい。そして不安。脳みそが細かく振動して、目の前の景色と思考の輪郭がぼやけた。  いつのまにか渋谷のオフィスに到着していた。運転手の小野さんが声をかけてくれなかったら、気がつかなかったかもしれない。  エレベーターの中で社長の顔を取り戻したぼくは、財務部門へ直行した。「と、いうわけだ。住友の融資は期待できない」  ぼくは財務スタッフに率直に話した。  彼らも頭を抱えた。一番頼りになるはずのメインバンクがもう貸せないというのである。  それでも、スタッフたちと個別の支払案件のチェックをしたり財務諸表をひっくり返して調べた結果、一部の支払いを遅らせたり米国での事業展開を一時中断したりすれば、とりあえず当座は何とか切り抜けられそうだった。  ただし、それはある条件をクリアすれば、の話であった。すなわち残りの取引銀行六行がいったん返済した資金を再融資してくれることだ。そうすれば住友から引っ張ってくる予定の二億五〇〇〇万円分くらいは補填できるはずだ。  翌日から、財務スタッフの連中は、ほかの銀行へ折り返し融資の確認に走った。  見込み違いもはなはだしかった。  最初に訪れたある銀行で、うちの財務スタッフはこうあしらわれた。「冗談じゃない。おたくのメインバンク、住友さんでしょう。その住友が折り返しできないっていっているのに、なぜうちができると思うんですか。そんな融資、社内審査を通しようがないです」  残りの五銀行の反応も基本的に同じだった。住友銀行が貸出残高を上げない限り折り返し融資はできないと返答してきたのである。  もはやスタッフ任せにしておく場合ではなかった。社長自ら説明する必要がある。ぼくは財務スタッフと一緒に各銀行の担当者を説得することにした。別の銀行の融資担当が来社したとき、ぼくはこんな具合に説得しようと試みた。「この前の増資のときに、実は住友さんはちゃんと出資してくれてるんです」「え、でも出資者のリストには住友銀行の名前はないじゃないですか」「いや、そうじゃないんです。うちの増資のスケジュールが忙しかったから、住友銀行本体で決済する時間がなかったんです。で、代わりに系列の住銀インベストメントから増資をしているわけです。ほら、確かに三〇〇〇万円出しているでしょう」  銀行の担当者は顔を上げた。「板倉さん」、あきれた表情で、彼は口を開いた。

「それじゃあ話になりませんよ」「え?」「住友銀行は自分の代わりに系列のベンチャーキャピタルにカネを出させているわけでしょう。ということは、むしろ住友銀行自身が御社から逃げようとしている証拠じゃないですか」  なんということだ。住銀インベストメントからの増資があだになってしまうとこの銀行の担当者は言うのだ。メインバンクなのに増資総額六億円中たった三〇〇〇万円しか出していない。しかも自分で出さずに系列ベンチャーキャピタルに出させる。これは後ろ向きのなによりの証明だ、というのが彼らの解釈のようだった。  ぼくは反論すべく、まくしたてた。「そんな事ないでしょう。だって実際にお金を投資しているわけだし、それにハイパーシステムの広告枠も新たに買ってくれたんですよ。それに OEMの話……」  そこで話の腰が折られた。「その程度じゃ、住友銀行が前向きだってことにはなりませんよ。板倉さん、もうちょっと考えなきゃ」「いや、でも」「あのね、板倉さん。融資というのはメインバンクがきっちりしているからこそ、出せるんですよ。おたくみたいにメインの住友さんがぐらついているのに、他の銀行がほいほいお金を出せるわけないじゃないですか」  何を言っても無駄だった。けんもほろろというのはこういうことを言うのだろう。  ぼくはこのとき初めて、当社が簡単に銀行から資金調達ができた理由がわかった。住友銀行がメインでいるから他行もカネを貸してくれたのである。他の六行にとって住友銀行という大銀行が融資していることが、当社の財務内容や事業内容以上に重要な〝保険〟だったのだ。  住友の新規融資は期待できない。他行もあてにならない。このままで行けば倒産まで一直線だ。それを避けるには、 OEM化に続く劇的な事業転換をするしかない。  米国のビジネスの完全撤退、アスキーに支払うメディア料の変更、公開プロジェクトの一時停止……、とにかくありとあらゆる経費を削減するしかなかった。さもなければ、明日にでも会社は消滅してしまうのだ。  その後、四月の半ばだったと思うが、国重さんが日本橋支店から本店へ異動したという話を聞いた。  さらにその後については、ぼくは知らない。  なぜ、このとき銀行の態度がいっせいに変化し、融資を引き上げ始めたのか。  当時のぼくの理解では、メインバンクの住友銀行が手を引いたのが直接的な原因だと思っていた。が、現在、当時の銀行業界の事情を振り返ると、もう少し複雑な事情があったようだ。  銀行の自己資本比率という言葉をご存知だろう。貸出金や有価証券といった総資産に対して、資本金や資本準備金などの自己資本がどの程度あるのかを示す比率のことである。一般に、この比率が高いほど銀行の経営は健全とされる。国際決済銀行( BIS)基準では、株式などの含み益の一部も自己資本とみなされている。  そしてこの九七年から、日本の銀行の間で、自己資本比率の低さが問題となっていた。ビッグバンに伴う市場開放の動きの中、自己資本が相対的に少ない日本の多くの銀行は体力的にも生き残っていけないだろうというのである。  そこで、「早期是正措置」という制度がこの年クローズアップされた。この制度は金融システムの健全性を確保するため、銀行に一定比率以上の自己資本比率を義務付けるものだ。達成できない銀行は大蔵省から業務改善の指導を受け、最悪の場合、業務停止命令を受けるという。実際にスタートしたのは九八年四月からだが、すぐに対応できるわけではないから、九七年時点で各銀行は、自己資本比率の向上にやっきになっていた。  とはいうものの、不況の中、自己資本比率算定の割り算の「分子」になる自己資本を増資などで拡充するのは至難の業だ。そのため、銀行は「分母」の総資産、とりわけ貸出債権を圧縮しようと必死になったわけである。  そう、これが貸し渋りの正体だ。そしてぼくのところから銀行がみな逃げ出し始めた根本的な原因なのだろう。住友の撤退は、いわばその引き金となったわけだ。  思えば九五年のベンチャーブームに伴う銀行の無担保融資攻勢が、ハイパーネットの資金的な下支えとなった。それが今度は自己資本比率改善に伴う貸し渋りの波を受け、かきあつめたカネがいっせいに引こうとしている。なんてことはない。ハイパーネットは、九〇年代中後期の日本の金融システムの「改革」によって舞台に上がり、そして次の「改革」によって引きずり下ろされようとしているのだ。  無論、こんな分析は、いま、当時の新聞や雑誌を読み直したからできるのである。九七年春の時点で、「自己資本比率」も「貸し渋り」もぼくの頭にはなかった。とにかく、逃げ出したカネをもう一度集めようと必死だった。  九七年四月。明らかにハイパーネットは、おかしくなっていた。  そんなとき社内で、クーデター未遂が起きた。首謀者はぼくの知人であった。  当時、海外事業の強化を図っていた当社では、それまで営業統括と海外戦略を兼任していた夏野を海外戦略に専任させることにした。となると、国内営業の責任者を新たに据える必要がある。  社内に適当な人材がいないと踏んだぼくは、古くからの知人を外から呼び寄せ、このポジションに座ってもらった。一月のことだ。彼――仮に Aとしておこう――は、ところが入社して二カ月後、ぼくになんの相談もなくいきなりある取引銀行の支店長に会いに行った。  ぼくの得た情報では、彼は支店長にこういったらしい。このままでは板倉が会社を駄目にするから、銀行からの圧力で板倉をはずし、代わりに夏野をメインに据えて経営を立て直すべきだ。  ぼくは非常にショックを受けた。  ぼくの悪口を言ったからではない。文句があればどんどん言えばよい。問題は入社わずか二カ月、経営的な責任は何一つもっておらず、取締役でもなければ株主でもなく、財務状況も理解していないし、金融機関との関係についてもまったく知らない人間が、外部のそれも取引銀行支店長のところに単身押しかけてぼくの批判をしたことである。  この支店長もさすがにこんな話を真には受けてはいなかったようだ。が、とにかく Aのしたことは当社が資金繰りのみならず社内の士気についても問題があると、この銀行に思わせただけだった。  しかし、ぼくにはこの話でもっと驚いたことがあった。ぼくはこの話を後日、夏野から聞くことになったのだが、 Aが支店長に会いに行こうとしていたことを、夏野が知っていたらしいのだ。

 夏野は取締役副社長である。財務内容から取引関係までかなりの部分を知っている夏野自身が、この支店長に対してこのような話をするのであれば話は別である。基本的に問題はない。しかし今回夏野は、 Aという何の権限も持っていない一社員が勝手に銀行支店長に会いにいったことを、ぼくにしばらくの間報告しなかった。  社員たちになんの目配りもできていない。ぼくはその事実に気がついた。この四カ月、ぼくは目先の資金繰りと業績ばかりを気にしていた。社員とのコミュニケーションはおそろしく減っていた。役員達と仕事上のつきあいはあったが、彼らが何を考えているかまでは気が回らなかった。  後日、夏野が吐いた言葉にそれが現れていた。九六年の終わりごろから、自分は頼りにされていないと感じていたという。配慮が足りなかった。実際には、ぼくは彼を大いに頼りにしていた。にもかかわらずそう思われていたのである。  クーデターの真相はよく分からなかった。あえて追求しなかった、といった方が正確だろう。ただしこの件で Aを中心に裏でうごめていた二人ほどの社員は割り出した。個別に呼び出し、彼らの話を聞いた。中にはハイパーネット創立以来のスタッフもいた。  ぼくは愚かだった。ヒトは企業の最大の財産だ。特にうちのような中小企業にとっては、最後はカネじゃない、ヒトだ。でも、ぼくは資金繰りに追われて、その基本を忘れていた。  それでも組織は維持しなければならない。たとえ些末な出来事だろうと、クーデターはクーデターだ。何より当人達がそれを認めていた。  事件発覚から一週間、ぼくはクーデター関係者全員を解雇した。つらい仕事だった。  九七年四月。銀行から新たに資金調達できる見通しはほぼ無くなった。社内の足並みも揃わない。  今だからいえるが、ベンチャービジネス「ハイパーネット」は、この時点でほぼその命脈を絶たれていた。  米国の企業ならば、このときのハイパーネットのような状況に陥ると、事業もしくは会社そのものを手放す旨を市場に公表し、買い手を探す。買収先が見つかれば、人員のリストラなどの痛みはあるにせよ、事業はなんらかの形で継続されることになる。経営者はもちろん一から出直しだが、少なくとも経営破綻という最悪の事態は避けられる。  実はこの当時、ぼくもこれ以上資金調達がうまくいかないようならば、いったん会社を身売りしようと考えるようになっていた。ただ米国と違って、日本には、危機に陥った企業が自らの事業を「身売り」できるような公的な場がない。ぼくは、ハイパーネットに価値を見出し、会社ごと救ってくれるような企業を個人的に探し始めた。  三月中旬のことだ。森下が有力な人物を引っ張ってきた。かつて山一証券で法人営業部長だった西沢憲史郎さんである。彼は証券業界を渡り歩いたのち、投資コンサルティング会社を経営していた。とにかく非常に多くの実業家とのネットワークを持っていた。ぼくは初対面の西沢さんに当社の概要をプレゼンすることになった。  最初に会ったのは、各銀行に短期融資をいったん返済した直後のことだった。西沢さんはこざっぱりとしたスーツを着ていた。五〇歳。丸顔で浅黒い肌をしていた。趣味はクルーザーに乗っての海釣りだそうだ。  森下くんからすでに当社の財務状況などについて説明を受けている、と西沢さんは言った。ぼくはハイパーネットのビジネス・プランや将来性などについて話をした。もちろん二月からの増資、その後の銀行からの短期融資の返済要請についても、詳しく説明した。  話を聞き終わると、西沢さんが口を開いた。「銀行に頼って、融資額ばかり増やしていては駄目だ」  これこそぼくの待っていた言葉だ。これを言ってくれるひとを探していたんだ。「直接金融だよ。投資家を探すのさ。とにかくおれが何とかしよう」  彼の意見は、ぼくと基本的に同じだった。ベンチャーは融資に頼らず、投資家をつのるべきだ。元大手証券会社出身だけに、言うことに説得力があった。  ぼくは彼を信用することに決めた。その日以来、ぼくは西沢さんと一週間の間に数回会議を開いた。当社を評価し融資してくれる会社を西沢さんに見つけてもらうためには、まず西沢さん自身に当社を理解してもらう必要があった。会議はそのためのレクチャーである。  レクチャーが終わって数日後。出会ってから一〇日もたっていなかったはずだ。西沢さんから連絡が入った。「大物とコンタクトがとれた。それで相談がある」  二時間後、彼はぼくのオフィスにいた。「板倉さん。あなた、この会社の株をずいぶん持っているよな。だいたいどのくらいだ」  西沢さんは意外なことを聞いてきた。ややとまどいながらぼくは答えた。「ええっとほぼ六〇%です。それがなにか?」「うん、それならいい。じゃあ、あなたのその株の一部を第三者に譲渡しよう」「それで、どうするんですか」「その第三者に株主になってもらう。これでまず資金調達ができる。それだけじゃない。その後も支援を受られるはずだ」  なるほど。最後にぼくは聞いた。「その第三者って、誰ですか」  加ト吉の加藤義和会長。西沢さんはそう言った。  確かに大物だ。それにしても、なぜ畑違いの食品会社の大手が当社に興味を示すのだろう。不思議に思ったが、西沢さんの説明を受けて疑問は氷解した。加藤会長はベンチャービジネスの育成にいたく関心を持っていたのである。ベンチャーキャピタルの大株主でもあり、他の企業の再建のためにも動いていた。  ぼくは、西沢さんの提案を二つ返事で受け入れた。思ったよりもあっさり支援先が見つかりそうだった。九七年三月三一日、ぼくは西沢さん経由で加藤会長にぼくの株式の一部を譲渡し、その結果得た資金をすべて当社に入れた。そして、年度が変わった九七年四月、ぼくは都内のホテルで加藤会長に会うことになった。会議の目的は、もちろん今後の資金援助について。出席者は、加藤会長のほか、日本長期信用銀行出身の古川令治取締役、西沢さん、そして森下とぼくである。  挨拶もそこそこに、ぼくはハイパーネットの説明をはじめた。相手は御高齢でしかも畑違いの方だ。ぼくはゆっくり、そして丁寧に解説した。ハイパーシステムがインターネットを使ったいわば広告媒体のようなものであること、画面に広告を常に表示することでインターネットの接続料を無料にする事ができること、会員数はアスキーがプロバイダーをやっている東京だけで二〇万人以上いること、サービスは当社のオリジナルであり、日本と米国で特許を申請中であること、今後アジアをはじめ世界にサービスを展開する予定であること、現在資金面で大変苦境に陥っていること。  最後にぼくは、株式譲渡の礼を述べたうえで、資金の援助を願いした。その後加藤会長からいくつかの簡単な質問を受けた。会見は終わった。  会長が退席した後、残された四人で引き続き軽いミーティングをした。古川取締役は、もう心配はいらないだろうといった意味合いのことを口にした。

彼の言葉は確信に満ちているように、ぼくには聞こえた。  しかし、ここでぼくはうっかりこんなことを口にしてしまった。「もし第三者の意見が必要だったら、うちの取引銀行に聞いてください」、と。  長銀の出身である古川取締役は、我々と別れてすぐに当社の取引銀行にヒアリングを入れた。数日後、西沢さんがぼくのオフィスにやってきて言った。「板倉くん、だめだよ」。古川取締役に対して、うちの取引銀行は、「ハイパーネットは最悪の融資先」と発言したらしいのである。それが事実かどうかは確かめようがないが、古川取締役が当社に対してもはや良い印象を持っていないのはまぎれもない事実だった。  ぼくは銀行に連絡を入れた。向こうの話では、あくまでハイパーネットのような会社の場合はリスクがつきものだから融資に対する出資の比率を上げるべきと古川取締役にアドバイスしただけ、ということだった。  西沢さん経由の話と銀行側の談話に伝言ゲームのような微妙なずれがある。情報がストレートに伝わっていない。いずれにせよ、加ト吉からの資金援助は難しくなった。  ぼくがアプローチしていたのは加ト吉だけではなかった。  ミロク情報サービス(現在東証二部、当時店頭登録)にも、話を持ち掛けた。同社の是枝伸彦会長兼社長(以後会長)とは面識があった。息子で取締役の周樹氏とはすでに書いた通り、九五年一一月にラスベガスで開かれたコムデックスに一緒に行った仲である。  九七年四月一一日。四谷のホテルの一室で、ぼくは当社の社長室長同席のもと、是枝会長と周樹氏に会った。  ぼくは率直に現状を語った。「いま資金繰りに困っています。必要資金はおよそ六億円です。その援助をお願いしたいんです」  説明は延々と続いた。皆黙って聞いていた。 IMSが軌道に乗った事、そのときハイパーシステムを開始した事、銀行から二〇億円にも上る借り入れをした事、韓国でのサムソングループとの提携の事、ビル・ゲイツ・マイクロソフト会長に会った事、ハイパーシステムの事業が計画を下回っている事、それでも海外を中心にハイパーシステム OEM事業の将来が明るい事、増資が成功した事、いったん返済という銀行の言葉通り返済をしてしまった事。挙句の果てに資金繰りに困っている事――、すべてを話した。  一時間ぐらいだったろうか、もしかしたら二時間以上たっていたかもしれない。「こんなところです。とにかく財務部分が弱かったということです」「なるほど、駄目だねえ。もっとシビアにやらなくちゃ」、是枝会長は言った。「はい、確かにおっしゃるとおりです」「ところで、数字は持っているの?」「はい、これが B/ Sで、これがキャッシュフローで……」  ぼくは数字の説明を始めた。しばらくして、是枝会長が何か考えている事に気づいた。「何か?」「それじゃこうしようか。まず、ぼくがおたくの財務部長になり、銀行の相手をする。足りない資金はぼくがミロクの株を担保に銀行から借りる。その代わり、板倉君の株を譲渡してもらい、二番目のシェアをぼくが持つ」「はい」「それができれば、何とかしよう」「ありがとうございます」  ぼくは深々と頭を下げた。とにかくお礼を言いたかった。これから二部上場を控えているというのに、当社の実質上の財務担当をやってくれるという。つまり、銀行からの返済圧力に対して、是枝会長みずから交渉をしてくれるというのだ。  話としては、実質的にミロクの傘下に入ることになる。ぼくの望んでいた解決方法の一つである。これで当社が救わるのであれば、ぼくとしては満足だった。自分の事業はまた新しく始めればよい。  ただ、ぼくはすぐに返事するのをためらった。気になることがあったからだ。まず、当社の設立当初から世話になった郡司さんを差し置いて、是枝さんを二番目のシェアを持つ株主にして良いものかどうかという点。郡司さんも人助けで投資しているわけではない。  もう一つは、ミロク情報サービスの株式を担保に銀行から足りない資金を借り入れるという点だった。ぼくの財務面での失敗は、銀行からの融資といういわば間接金融に頼り切ってしまったことにある。その失敗の解決にミロクの力を借りるとはいえ再び間接金融に頼るのははたしていいのだろうか、そんな疑問が残った。  なにより並行して、西沢さんを介して加ト吉からの援助話が進んでいた。経営者としての自信が揺らぎかけていたぼくは、自分のコネクションよりも大手証券出身の西沢さんのそれの方が力があるのでは、とどこかで思っていた。  結局その日は、返事は後日にいたします、と是枝会長に挨拶するに止めた。締役会を開く必要があったし、郡司さんにも話をしなければならなかった。翌日緊急に開いた取締役会の結果は「保留」であった。役員から反対の声が強かったのではない。ぼくの躊躇している気持ちが周囲に伝わったのである。  ぼくは、是枝会長に連絡を入れ、支援の話を丁重に断った。  こちらからアプローチしたのに、なぜ断ったのか。要するに是枝会長のありがたい話よりも西沢さんのコネクションを優先しようとこのときぼくは考えてしまったのだ。この頃、西沢さんから、資金集めに関してずいぶんと勇ましい話も聞かされていた。そこで迷いが生じたのだろう。今にしてみれば、愚かな選択だった。前述の通り、加ト吉の融資話は頓挫してしまったのだから。  さて、ぼくが加ト吉からの融資の話をぶち壊し、ミロクの申し出を断った後、西沢さんは別の話を持ってきた。当社の発行する社債をファイナンス会社に引き受けてもらうというのだ。彼は食品商社大手、東食の系列会社、東食ファイナンスを連れてきた。金融業界における西沢さんの人脈は、門外漢のぼくらには想像もつかないほど広いようだった。  五月、西沢さんに根回しをしてもらった後、ぼくと森下は実際に東食ファイナンスのファイナンス担当部長を訪問した。先方のオフィスでは、すでに西沢さんが待っていた。  ぼくは、ハイパーシステムのプレゼンをした。東食ファイナンスの部長は思いのほかハイパーシステムに対する理解があった。特に顧客データベースを当社が所有するという点について非常に興味を持っていた。これには驚いた。ファイナンスを担当している、いわば銀行の審査部にあたる部長がハイパーシステムの心臓であるデータベースの重要性を理解できるとは思わなかったからだ。  プレゼンが終わると、西沢さんは、いきなり社債に関する契約書を持ち出した。(えっ、もう契約書?)

 これから審査を始めるだろうから最終決定は先の話。そう思っていた。やけに話が早い。ぼくにかまわず、西沢さんと東食ファイナンスの部長はさっさと話を進める。二人の間の事前協議でアウトラインは決まっていたようだ。「それじゃあ、返還期限は一〇月五日でいいですかねえ?  ちょうど五カ月ですし」「ええ、それで良いと思います」  ぼくはうなずいた。もちろん五カ月の間に資金繰りが完全によくなるわけがない。けれども、ロールオーバーだってできるし、こんなに簡単に社債発行できるならば、他からもわりと容易に資金調達が可能なような気がした。  ぼくは西沢さんの指示で、普段は持ち歩かない代表印を持っていた。用紙にサインし、印をついた。これで三億円の「私募債」を引き受けてもらえた。実にあっけなかった。  一カ月後の六月には、さらに二億円の社債を東食ファイナンスに引き受けてもらった。これで当社は、銀行に短期融資を返済して減ってしまったキャッシュポジションをほぼ以前の水準まで戻すことができた。  とはいっても、東食ファイナンスの社債の償還期限は五カ月後の九七年一〇月である。ロールオーバーは可能だと西沢さんから説明されてはいたが、要はただの時間稼ぎだ。その間に次の資金調達をしなければならないし、同時に新しい事業計画のもと、きっちり売り上げを上げなければならない。楽観できる状態では、依然なかった。  それでもとりあえず、直面している危機からは一時的にとはいえ脱出できた。  こんな具合に、支援先探しに右往左往している一方、ぼくと森下は新しい再建計画を携え、各銀行の間を走り回まわっていた。折り返し融資が期待できないのは承知していたが、現在の融資残高を維持するための業績説明である。五月頃の話だ。  しかし、再建計画にきちんと目を通してくれる銀行担当者は一人もいなかった。それどころか、残りの融資した分もすべて早急に返済しろと各銀行ともいっせいに圧力をかけてきたのである。  ある銀行の担当者はこんなことをいった。「御社は話ばかりでぜんぜん現実になりませんからねえ。とにかく予定通り進んでないんですから、まず返済することを考えてください」  ほんの一カ月前、どの取引銀行も、当社に「いったん」返済を要請し、その一方で再融資の口約束をした。ところが、今度は残りの融資残高すべての返済を求めてきた。その理由を挙げるかのように、彼らは、当社のぼろを容赦なくつつき始めた。  システムがバグだらけであることを、銀行にさっさとレポートしなかったこと。ナスダック公開を延期したことを銀行に相談しなかったこと。役員のだれそれの発言が気に入らないこと。そしてもちろん売り上げが計画を下回っていること――。  ハイパーネットは銀行に完全に見限られたようだった。金融機関に頼るすべはなかった。  もはや打てる手は、有力企業に支援してもらうしかなかった。でなければ残されたのは破滅への道だけである。ただ、加ト吉にせよ、ミロク情報サービスにせよ、あと一歩のところで、本格的な支援にはつながらなかった。ぼくの経営者としての判断ミスが原因だった。東食ファイナンスへの社債発行で当座は多少しのげるものの、あくまで一〇月までの期限付きである。  ぼくはソロモンブラザーズの黒部さんに電話をした。ナスダック公開計画に一番かかわっている会社だ。何かよい知恵を授けてくれるかもしれない。 「……というわけで、まあご存知だとは思いますが、資金難です」  ぼくは黒部さんに現在の当社の状況を率直に説明した。「そこでお願いがあります。海外から外資系企業の融資や投資をなんとか引っ張ってこれないでしょうか?」  黒部さんはこう返してきた。「板倉さん、ソフトバンクはどうでしょうね?」  ソフトバンク?  意外な名前が突然登場した。「黒部さん、知ってるんですか?」「いや、あくまで知り合いを通じてですが。一応トップの孫正義さんにコンタクトをとることはできます」黒部さんは言った。  孫氏がらつ腕を振るうソフトバンクに援助してもらえるならばいうことはない。そのまま買収合併される可能性もあったが、このときのぼくにとっては、むしろそうしてもらえれば、これほどありがたいことはなかった。「お願いします」ぼくは言った。「まあ、どうなるかわからないですけど、先方に連絡をとってみましょう」  黒部さんは電話を切った。  数日後、電話があった。黒部さんは人を介して、孫さんに「ハイパーネットという会社に興味があるか」と聞いたそうだ。答えは「イエス」だったらしい。  脈はありそうだった。あとは実際にお会いしてみるしかない。五月二三日、ぼくは黒部さんといっしょに日本橋・箱崎にあるソフトバンクの本社を訪問した。  ここのところ銀行に融資のお願いをしに行くにせよ投資家に言い訳をしに行くにせよ、いざ出発するとなると、気分が重くてならなかった。胃が痛くなることもまれではなかった。偏頭痛がするときもあった。この感覚ばかりは、当時のぼくのような立場に実際に立ってみないとなかなかわからないかもしれない。  でも、この日は違った。別に話が決まったわけでもないのに、遠足前のようにうきうきしていた。単純に孫正義氏という著名な経営者に会える興奮もあったのかもしれない。ぼくは唯一の愛車となったボルボのハンドルを自ら握り、同社へ向かった。ハイヤーはとっくに解約し、小野さんはもういなかった。  孫正義氏はリラックスした格好で現れた。ネクタイは締めていたが、スーツ姿ではなく、ふわりとしたカーディガンをはおっていた。  有名な起業家や経営者には何十人という単位で会ってきた。いろいろなタイプがいた。威圧的な人間もいれば、自信満々の人間もいた。せわしない人間もいれば、無口な人間もいた。孫さんはそのいずれでもなかった。おちついた物腰に、童顔だがどことなく大人の風情を感じさせるおだやかな表情の持ち主だった。  同席していたのは、ぼくと孫さんそれにソロモンの黒部さん、ソフトバンクの社長室長ら数名。挨拶をすると孫さんは言った。「ぼくのほうからお会いしたいと思っていました」  やられた。  ベンチャービジネスの世界で知らぬ者はいない有名経営者、孫正義氏が、経営危機に陥った若造経営者のぼくに対して「お会いしたかった」と頭を下げる。なかなかできることではない。  ぐずぐずしてはいられない。相手は忙しいのだ。ぼくは例によってラップトップコンピュータを取り出し、ハイパーシステムの説明をした。孫さんの印象はとてもよかった。少なくともぼくにはそう見えた。というのも、説明が終わると同時に彼は、ハイパーシステムを使えば、ソフトバンクの事業にどんな「

シナジー(相乗効果)」が生まれるか、話し始めたのである。「よくできているねえ。それじゃ、うちのメディアバンク(グループ内のプロバイダー)なんかでつなげばいいんだよね。広告営業は CC I(グループ内の広告代理店)で請け負えばいいわけだし」  こんな具合に、彼はグループ内のインターネット・プロバイダーや広告代理店の事業とハイパーシステムをどう組み合わせればビジネスになるかをすらすらと解説してみせた。  もちろん孫さんの話には細部にいくつかの問題があり、すべてが簡単に実現可能とは思えない部分もあった。でもこの時点でそんなことはどうでもいい。ぼくは、孫さんの話に「そのとおりです」と相槌を打った。「データベースのところが良く考えられている」「ありがとうございます」。ぼくは頭を下げた。  事業内容と現状、すなわち当社のすべてを説明し終わると、話題は核心に入った。  ぼくは率直にお願いした。「この会社とハイパーシステム事業を孫さんにお願いしたいんです」  彼も率直に返してきた。「いくらで、どのようなかたちで譲るつもりですか」  この質問に対する回答を、ぼくは想定して事前に用意してあった。ソロモンの黒部さんのアドバイスだった。ぼくは答えた。「すべてお任せします」  すると孫さんは大体の線でもいいから指定しろという。ぼくは繰り返した。「方法も金額も孫さんがこの会社と事業の面倒を見てくれるなら、すべてお任せします」  会社を任せるというのは、この場合、手続き上、株式の譲渡のことを指す。ハイパーネットの株式の過半数を保有しているぼくがその株をすべて譲渡すれば、同社は自動的に孫さんの会社になる。  ぼくはソフトバンクを訪れる時点で、会社さえ救えれば経営権を手放してもいい、と腹を決めていた。むろん、相手が孫さんだからである。会ってますますその意を強くした。  孫さんは質問を変えた。「今までハイパーネットに使った金はどれくらいですか」  ぼく個人がいままでどの程度の資金を会社のために突っ込んだかを聞いてきたわけだ。とっさのことで正確な金額はわからなかったが、とりあえず三億円と答えた。よく考えてみればそんなに多くはない。でもうそを言っても後でわかるはずだから、もし間違っていたら後に訂正すればいい。  孫さんは次のような提案をしてきた。まず、ぼくが今までに実際にハイパーネットに使った金額でぼくの株式を買い取る。そしてぼくは最低二年ハイパーネットにフルタイムで勤務する。銀行などの債務はソフトバンクが全面的に債務保証する。そして業績がよくなれば、インセンティブをさらにぼくに提供する。以上である。「これは可能ですか」孫さんは聞いてきた。  ここまで具体的な話がいきなり孫さん自身から提案されるとは思ってもいなかった。  ただ、このときぼくはかなり自分自身に対して自信をなくしていた。そのため、あえていうならば一カ所だけ不満な、いや不満というのはおかしい、正確には不安な点があった。ぼくがフルタイムでハイパーネットに残る点だ。ぼくが経営陣に残っては、ハイパーネットの建て直しということを考えると根本的な解決にならないのではないか。そう思ったのである。  自信をなくしていたぼくは珍しくその話をくどくど説明してしまった。「いや、ぼくが残ったままですとね、対銀行の問題などもありますし、社内のスタッフの中にも必ずしも面白く思っていない連中もいますし……」途中でぼくもあまりに回りくどいことを言っていることに気がつき、話を切り上げた。  孫さんは、この後経営会議があるのでその場で話してみると言った。そして遅くても次週の火曜日までには返事をするという。そして孫さんはその返事の際にも直接立ち会うとのことだった。  あまりに話の展開が早かったせいもあるのだろう。ぼくは呆然としていた。  帰りの車の中でぼくは黒部さんに意見を聞いた。「どうでしょうかねえ」「いい話じゃないですか。これで板倉さんも会社もハッピーってことですよ」  でも、手放しでは喜べなかった。孫さんの話はぼくにとって都合がよすぎたからである。都合のよすぎる話が実現したためしはない。ぼくは気を取り直すと、携帯電話から森下に電話して当社の財務資料をソフトバンクにすぐに届けるように指示した。  ぼくが会社に戻って、今日のことを考えていると、森下がソフトバンクから戻ってきた。「社長、行って来ました」そう言う森下は、なぜか喜んでいなかった。「ご苦労様。で、どうだった」「それが、ぼくが資料を届けに行ったら、社長室長が出てきて言うんですよ。今、孫社長みずから経営会議の最初の議題として御社の話をしています、てね。」「ほんと」「それがすごく興奮している感じで。なんかこれで決まりだな」  森下の言葉は、どこか気が抜けたような感じだった。決して明るい調子ではなかった。「どうしたの?  いい話じゃない?」「確かにね」  森下にしてみれば、このハイパーネットの未来にかけるつもりで、取締役に就任したばかりの会社を蹴って入社したわけである。だから西沢さんも紹介してくれたし、日々の業務も不休の姿勢で取り組んでくれた。しかし、ソフトバンクの話が決まれば、会社は救われるが、ぼくや森下の会社ではなくなる。  彼のそっけない態度にはそういった思いがあったに違いない。ぼくは森下以上に自分の全てをこの会社にかけてきたから、彼の気持ちはよくわかった。しかしいまはそれを口にする場合ではない。「仕方ないよ。ぼくがもっとうまくやっていればこんなことにはならなかったけど。もしこの話が決まったら、また何かやろうよ」「そうですね」森下はうな垂れた。  会社は救われたのか?  どうもしっくりこなかった。  翌週月曜日、ソフトバンク社長室長からアポイントメントがあった。当社を訪問したいという。  ぼくと森下は顔を見合わせた。二人とも考えていることは同じだった。「イエス」なら呼び付けるだろうし、孫さんみずから会うといっていた。それが、先方から来るという。しかも社長室長が、である。答えはもうわかっていた。  午後になって予想通りの返事が来た。やはり、都合のよすぎる話は実現しないのだ。

それでも孫さんに会えて、彼が当社に興味を示していただけでも満足だった。「ノー」であっても仕方がなかった。  でも一つ残念なことがあった。たとえ「ノー」であろうとも、本人から直接その答えを聞きたかった。いささか贅沢な話ではあるが――。  銀行からの返済要求は強まる一方だった。大型支援先も決まらない。とにかく、徹底して無駄を排除し、事業を回転させ、資金繰りのめどがつくか身売り先が決まるまで耐えるしかない。  ぼくは森下と社長室のメンバーを集め、具体的な対応策を練った。  長期米国出張から戻った筒井は、ハイパーシステムから外れ、当社の主力事業である IMSに専任することになった。夏野はハイパーシステムの海外戦略の専任だ。全社員には目の前にある課題をクリアするよう伝えた。  対応策の骨子は、まず IMSの売り上げの向上、次にハイパーシステムの OEMと海外へのライセンス提供、そしてリストラの三本からなっていた。   IMSは従来の路線を貫き、クライアントの獲得を地道に行う。海外展開では、六月に本格スタートする韓国サムソングループとの共同事業「ハイパーネットコーリア」の成功にかける。中でも重要だったのがリストラと経費削減の推進である。  最初に手をつけたのは人件費だ。五月時点でおよそ八〇人ほどの従業員が勤務していたが、このうち一〇人ほどの派遣社員やアルバイトなどを削減した。人を解雇するのはいやな仕事だが、やむを得ない。まず自主退社を受け入れ、次に教育段階にあった採用して間もない社員たちに辞めてもらった。  同時に削減を狙っていたのが、コンピュータシステムの経費である。というのも、契約していた日本タンデムコンピューターズのシステムが高価なわりにトラブルが多かったからである。  当社は、タンデムの設備のリース料を含めるとタンデム製ソフトウエアの使用料や設置場所の賃貸料などに毎月およそ二〇〇〇万円もの出費を強いられていた。にもかかわらず、このシステムはバグだらけだった。  タンデムもそれを認め、九七年二月、無償で新しいデータベース管理ソフト、ヴァージョン 5を投入した。ところが、この新ソフトがとんでもなかった。九七年三月二八日。突如としてそのプログラムは、月末の処理を始めたのである。何と三月が二八日で終わる設計になっていたのだ。もちろん二月の間違いである。これでは三月末まで広告を出す予定の企業広告がデータ上は二八日でストップしてしまうし、集計データも変則的になる。現場のオペレーションは混乱した。当社のハイパーシステム業務部門は連日徹夜をして、問題のデータをすべて手作業で打ち込み直す始末だった。  もうこれ以上我慢はできない。さっさとリース以外の契約を解除して月間二〇〇〇万円にも及ぶ経費を削減することにした。そのためにはタンデムを切って自前のソフトに切り替えねばならない。ぼくは社内のスタッフに九六年一二月から念のために開発を進めていたタンデムに代わるシステムの完成を急がせることにした。  そして、ぼくはタンデムへ契約解除を通知した。そればかりではない。当社はハードとソフトとシステム全体の管理まで一括してタンデムに依頼していたので、すでにリース会社の所有となっているハードウエアについても、引き上げてほしいとリクエストした。契約上は確かにリース会社と当社との関係であるが、システムがまともに動かないのでは話にならない。ハードとソフトは事実上セットなのだから当然の措置だろう。  九七年六月、自前のシステムが出来上がった。当社はこのシステムをスタート直前の韓国のハイパーネットコーリアに投入した。 UNIXをベースにした汎用性の高いシステムである。そして、多少のトラブルはあったが無事韓国でのハイパーシステムの稼動を始めた。  こんな状況にもかかわらず、九七年六月三〇日、当社は引越しをした。  渋谷駅の南口から徒歩一分三〇秒。桜ケ丘というちょっと入り組んだ細い道路に突如そびえるそのビルは、住友不動産の新築ビル、インフォスタワー。それまで渋谷の高層ビルは六本木通りの坂の途中にある東邦生命ビルだけだったから、この新築のビルは渋谷にオフィスを構えようという企業にとっては最高の場所だった。もちろん賃借料も当時坪三万円前後とかなり高かったのだが。  あまり大きな声では言えないが、ハイパーネットは特別破格の値段を提示されていた。入居勧誘のころから、このビルにはいわゆる「今風」の会社を入れたいという住友不動産側の理想があった。そのせいか当社以外には、とある有名な音楽事務所、通信関連の開発会社、大手生命保険会社、外資の服飾関連企業などが入居を決めていた。当社についても、現状はともかく、それまでの躍進するベンチャー企業というイメージがあったからだろう、住友不動産は賃借料をディスカウントしてでも入居してほしいといってきた。  我々のオフィスはこの一四階にあった。エレベーターを降りると、新しい建物に特有の建材のにおいのするじゅうたんの敷かれたホール。そのまま廊下を進んだ突き当たりの曇りガラスの瀟洒な扉がついたこぎれいなオフィス。そこが新しい仕事場だった。 1フロアおよそ三〇〇坪。それまでのオフィスとの決定的な違いは、社員全てが同じフロアで仕事ができるという点だった。  いずれにしても、とても資金繰りに困っている会社が引っ越すような場所には見えなかった。予想通りというべきか、この後数カ月倒産するまでの間、放漫経営の証拠としてこの引越しは散々叩かれた。ま、見通しが甘かったという点では、確かに放漫呼ばわりされてもしょうがないのだが、この引越しの計画は、まだ業績も悪化しておらず、銀行も態度を豹変させていなかった九六年の終わりに立てたものなのである。  そのとき引越しを計画した理由は明確だった。それまでの四年間いた渋谷の賃貸ビル二階から六階までを占めていた。二〇〇坪の面積があったが、お世辞にも奇麗ではなかった。見た目が悪いのはもちろんだが、なにより災害対策ができない点が問題だった。  たとえば停電が起きたときに作動する無停電電源装置。この装置が、ビルの設計が古いがために設置できなかった。ご存知の通り、当社の事業は IMSにしてもハイパーシステムにしても二四時間フル稼動のサービスである。停電ぐらいでサービスが止まるようでは業務展開できない。余分なコストがかかるのを承知でハイパーシステムの心臓部を無停電電源装置の設置できるコンピュータ専用の別のビルに収容していたのもそのためだ。  社員数も膨れ上がり、八〇人に達していた。システムも年々肥大していたから、九六年末ごろには、もはや足の置き場がないほど手狭な職場環境になっていたのである。  このように引越しそのものは、むしろ必然として計画されていた。しかも、実際のところ、新ビルに移ることでランニングコストの削減が達成できたのである。というのも、タンデムとの契約解消に伴い、それまでタンデムのシステムを設置していたコンピュータ専用ビルを引き払い、新しいオフィスにデータベース管理用の自社開発 UNIXマシンを併設したからだ。コンピュータ用ビルの賃借料が削減できたうえに、専用線通信費など見えない経費も大幅にカットできた。  実際に数字を比べてみると、引越し前時点で、オフィスとコンピュータ施設の賃貸料および通信諸経費の総額は月間一四〇〇万円。それが六月の引越し以降は同一一〇〇万円。月々三〇〇万円のコストダウンである。  けれども、引越しが終わって以降、この新ビルに金融機関が訪問すると、必ずといっていいほど文句をいわれた。いくらぼくが数字でコストダウンが達成できた旨を説明しても、目の前の新居が豪華だと説得力がない。毎度さんざんいやみを言われることになった。  引越しを計画してから二カ月後の九七年二月、増資後に資金が減少したときに中止も考えた。確かに毎月の経費削減にはなるが、引越しに伴い初期投資が新たに必要になるのは明白だったからである。そのため、同月の取締役会議ではいったんはキャンセルする決議をしたのだ。

それが、結局引越し決行に至ったのは、大家である住友不動産と九七年一月に結んだ一通の契約書の中身に大きな問題があったからだ。  ぼくもほかの役員も、住友不動産と結んだ契約書を深く読んでいなかった。相手が大手不動産であったせいだろうか、こちらにあからさまに不利になるような条項はないだろうと勝手に思いこんでいたのである。我々は一月の契約締結時点で手付けとして二〇〇〇万円ほどの現金を支払っていた。翌二月、社内会議で決めた通り、キャンセルしたい旨を住友不動産に伝えたところ、彼らは「契約」に基づき、すでに払った二〇〇〇万円は返すことができないばかりではなく、数億円の違約金を要求してきた。  慌てて契約書を見る。住友の要求に違法な点はない。我々はどうしようもなかった。  しかもその後、春に銀行からの追加融資を断られるようになると、新社屋の内装などのリースをお願いしていたリース会社から「おたくには貸せません」という返事が来た。  とんでもないことになった。キャンセルすれば違約金を何億も払わなければならない。引越しをすればリースができないのでキャッシュポジションを落とすことになる。行くも地獄、帰るも地獄である。  最終的な結論は引越しをするということだった。引越しした方が、違約金を払うより当座支払うカネは少なくて済む。なにより、この閉塞状況を新居に移る事で少しでも変えることができれば、という単純な動機が根底にあった。なんだか失恋 OLの引越しみたいである。いずれにせよ毎月の支払いは削減できるし、何より社員全員が同じフロアーで仕事ができるのだ。  そしてこの新居で、ぼくは当社始まって以来の大変革に手をつけた。  社長を辞めることにしたのである。  決意したのは五月のことだ。  直接のきっかけは、西沢さんの当社取締役就任である。  西沢さんはハイパーネットになくてはならない人材であった。東食ファイナンスへの社債発行、加ト吉会長への株式譲渡、ここ一 ~二カ月の資金調達は、彼なしでは実現し得なかった。  そんな折り、森下から西沢さんが取締役就任を希望していることを聞いた。  彼の仕事は、もはや当社の「外部応援団」の枠には収まりきらなかった。東食ファイナンスや加ト吉のような「投資家」側にしてみれば、うちの財務担当代表のようなものである。  さっそく西沢さんに連絡をとった。「六月の株主総会で正式就任してもらう、ということでいかがですか」。西沢さんに異論のあろうはずがなかった。  ちょうどいい、これを機会に社長を辞めよう――。代わりには森下を社長に据える腹積もりだった。そして、ぼくはそのまま代表権を持った会長になり、現場からは一歩引く。  前にも書いたが、二月頃、ぼくと森下とは二人で社長交代の話をしたことがある。あのときは森下も入社六カ月とまだ社歴が浅かったので現実には至らなかったが、いまや国内営業や資金調達面での当社の船頭役を見事にこなしていた。六月には株主総会がある。タイミングもいい。  西沢さんの取締役就任は、ぼくが社長を辞めようと決意したきっかけの一つではある。ただしそれはあくまできっかけだ。根本の理由はむろん別にある。  資金繰りの失敗をはじめ経営者としてのぼくが招いたさまざまな判断ミスに対するけじめ、という側面もあるにはある。が、最大の問題は、もはや創業者社長たるぼくが社内の人心を掌握できなくなっている点だった。ぼくは、それまで絶対的に自信のあった社員からの忠誠心という一番大切なものを失ってしまった。  その象徴が四月に起きた社内クーデター未遂事件だった。関係者は全員くびにしたが、加担はしないまでも、クーデターを知っていた社員は相当数いたはずだ。なのに事前にぼくの耳に入ってこなかったということは、現場から信用されていないなによりの証拠である。  九七年に入って、ぼくはたしかにカネのことばかりを考えていた。資金繰りのことが頭から離れず、カネ集めに走りまわった。当然、社員とのコミュニケーションはおろそかになった。  かつてぼくは一日一回以上必ず社内の全部門に顔を出し、なるべく多くの社員と話をするよう心がけていた。仕事に直接かかわる話はもちろん、趣味の話や家族の話などもよくしていた。週に最低一日は夕食を社員と一緒にとる機会を設けていた。  ハイパーシステムがスタートした九六年春以来、こうした機会は加速度的に失われていった。社員で話をするのはごく一部の幹部たちに限られるようになった。社員たちには、ぼくの〝顔〟が見えなくなったにちがいない。  するとどうなるか。以前はぼくが突如計画を変更したりしても、社員の大半はその真意を理解してくれていた。ぼくが日ごろ何を考え、何を目指しているか、そしてそもそもどんな性格の男なのかを、みな知っていたからだ。  それが今や大半の社員にとって、ぼくは〝顔〟の見えない「向こうの人」だ。新たに引き込んだ社歴の浅いスタッフや外部の人間ばかりが社長室を出たり入ったりし、ぼくと社員の間の壁は高くなる一方だった。事業方針を変更するたびに社内からあからさまな苦情や不満がよせられるようになった。そして情けないことに、ぼくは彼らの苦情や不満を蹴散らすだけの「何か」をもはや持っていなかったのだ。  ハイパーネット程度の企業規模だと、経営者の業務範囲はきわめて広い。ビジョン策定や海外進出の計画から日々の細かな労務管理、作業管理まで仕事は多岐に渡る。  ところが、ぼくは日々のオペレーションが苦手だった。将来のビジョンを打ち立て、それに向かって人を集め、事業計画を作り、成長を促すといったいわゆる「アントレプレナー」としての仕事は肌に合っていたし、うぬぼれを承知で言うとある程度才能もあったと思う。しかしその一方で、人事や財務、総務の管理それに金融機関との付き合いといった地道な作業については、どうしても体も頭もお留守になりがちだった。現場の不満がつのったのもぼくがこうした日々の仕事をきちんとこなしていなかったからに違いない。  その点、森下はすでに別の会社で社長の経験があるうえに、公認会計士の資格を持ち、細かな数字のチェックや毎日の労務管理なども得意としていた。  ぼくは考えた。森下がミクロの視点で日々の経営の陣頭指揮をとる社長として、ぼくがマクロの視点で株主への情報伝達、 PR、将来ビジョンなどを策定する会長として、役割を分担しながら二人三脚で経営にあたるのが一番いいのではないか。  ぼくとしては、社長から会長になることで、海外での展開にもっと個人的に注力したいという側面もあった。後でも詳しく述べるが、六月、待望のハイパーネットコーリアが韓国で正式始動したのである。出だしは上々だった。海外市場の開拓は、日本で閉塞状況にある当社の業績の改善に欠かせなかった。  これまでこの海外事業は夏野に任せきりだった。彼は九六年から九七年にかけて年間四〇回以上海外出張をしていた。完全なオーバーワークである。一方、米国、韓国、その他のアジア諸国。ハイパーシステムに対する引き合いは国際的にもかなりあった。もはや夏野に任せっきりにしているわけにはいかなかった。  九七年六月三〇日、株主総会は、引っ越したばかりのインフォスタワーのオフィスで行われた。  集まった株主は約一〇人。それぞれのベンチャーキャピタルの担当者、二月の増資以降の株主である企業の担当者、ぼくの友人。当社からは、ぼく、森下、

夏野をはじめ役員五人、総勢一〇人。取締役に就任する予定の西沢さんも、もちろん顔を並べていた。  資金繰りが改善していなかったこの状況での株主総会は、多少の叱責や場合によると不信任もある程度覚悟していた。しかし、それは杞憂に終わった。ハイパーシステムの OEM化を軸とした新事業計画が、意外なほど株主から評価されたのである。後で詳しく述べる韓国でのハイパーネットコーリア始動など海外の事業展開も、好意的に受け止められた。おそらく好意的でない株主は、はなからあきらめていたのだろう。委任状だけで出席してこなかった。  九七年三月期の決算では、ハイパーシステムの全始動経費が計上されていたので、当然ながら赤字であったが、以上の計画といくばくかの実績を持って株主総会は満場一致で九七年三月期の決算を認めた。売上高七億八五〇〇万円、経常赤字九億八四〇〇万円である。一般的に見ればとんでもない赤字会社である。しかしベンチャービジネスでは、事業開始直後は赤字であっても、先行投資で市場占有率を高めることをしばしば優先する。実際ナスダックでの公開を実現して数百億円を調達している米国のベンチャー企業の多くが、赤字のまま公開している。当社の場合、ハイパーシステムの事業開発経費が全てこの期に集中していた。当社の株主にしてもそこは十分承知していたようだ。  森下の社長就任、ぼくの会長就任、それに西沢さんの常勤取締役就任も事前の根回しは済ませてあったために、こちらも全会一致で承認された。  ハイパーネットは二人の代表取締役と強力な資金調達担当取締役が運営することになった。  さて、引っ越しの数週間前のことだ。九七年六月八日。ぼくは成田から JALの飛行機で、韓国・ソウルへと向かった。  一月、韓国サムソングループと事業提携の話があった。そして三月、同財閥の大手広告代理店チェイル・コミュニケーションズと合弁で新会社ハイパーネットコーリアを設立した。ハイパーシステムの韓国での普及が目的だ。当初の予定では四月スタートの予定だったが、システム開発の遅れなどもあって、この六月にサービスを開始することになった。  そしてサービス開始を祝して、サムソングループ主催のパーティが、ソウルで開かれることになったのである。金策に追われる中、久しぶりの楽しい仕事だ。  当社の技術陣と海外戦略担当の夏野は、ぼくよりすこし先に韓国入りして、準備をしていた。ぼくが韓国入りしたのはパーティの前日である。ソウルのホテルに着くと、五月以来、日本と韓国を行き来しながら技術指導をしてきた技術部長の小林が出迎えてくれた。この男はわずか数カ月でタンデムのシステムに代わるハイパーシステム用ソフトウエアを完成させた凄腕である。ここ韓国でも、わずか二カ月でハイパーシステムの投入を成功させた。「社長、安心してください。ちゃんと動いてますよ」  小林は挨拶の代わりに、この一カ月、韓国でハイパーシステムが無事機能していることをぼくに報告した。「そうか」ぼくは短く答え、小林の顔を見た。いい顔をしていた。仕事をやり遂げた顔だ。ぼくもかつてはあんな顔をすることがあったのだろう。  翌日の六月一〇日、ぼくは小林、そしてやはり現地入りしていた夏野と一緒にパーティ会場に足を運んだ。はやく自分の目で、自分の手で、ハイパーシステムがここ韓国でも動いている様を確かめたかった。  会場は「白羅」という名の豪華なホテルだった。国賓の宿泊施設らしい。日本でいえば帝国かオークラのような位置づけか。天井の高いロビーを抜け、会場に入った。  想像していた規模を絶していた。受付から会場内の隅々にいたるまで美しいコンパニオンが数十人、笑みを浮かべて立っていた。豪華な盛り付けの豪華な食事が、会場中央に鎮座していた。舞台上には大きなハイパーヴュー(韓国ではホットカフェではなく、ハイパービューというブランドである)というロゴが輝いていた。光ファイバーを使った電子看板である。デモンストレーション用の大きなスクリーンは、周囲をクリーム色に塗った合板で囲ってあり、パワースイッチやロゴマークが描かれていた。離れて眺めると、巨大なコンピュータディスプレイのように見える仕掛けだ。  韓国一の財閥グループの韓国一の広告代理店の仕事だった。盛大で、完成されていた。  用意された長テーブルにはデモ用の端末がずらりと並んでいた。ハイパーシステムが立ち上がっている。マウスを右手で操る。完璧だ。日本のそれと遜色ない。思わず、脇にいた小林にぼくは笑いかけた。これが本当にぼくのあの一年半前のアイデアからスタートしたものなのだろうか。豪華絢爛なパーティ会場を眺めると、なんだか他人事のように思えてならなかった。日本に残してきた山積みの問題も、頭から消えてしまった。  ディスプレイに向かっていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、チェイル・コミュニケーションズの専務取締役オウさんがいた。「ハロー」、お互い英語で挨拶する。彼は日本語が少しできるが、ぼくはハングル語ができない。彼はハイパーネットコーリアの設立における韓国側のキーマンであった。明るくおおらかで、そして大の酒好きだった。  ぼくは何度か日本でそして何度か韓国でオウ専務に会った。韓国で打ち合わせをしたときは必ず夜中まで酒に付き合わされた。酒に弱いほうではないが、彼らの飲みっぷりにはとてもかなわない。韓国出張のたびに、ぼくはホテルへどう帰ったか覚えていない日々を過ごしたものだ。  この日はいつものオウ専務とは違っていた。非常に神経質な顔つきをしていた。関係者に聞いてみると、今日のパーティについてずいぶん心配しているらしい。どうやら韓国一の広告代理店が日本企業と組んで新規事業を立ち上げることにかなりの注目が集まっているようだった。たしかにパーティには韓国中の要人が顔を出すことになっていた。オウ専務が緊張するのも無理はなかった。  ぼくが会場について三時間、いよいよパーティの開始だ。チェイル・コミュニケーションズのユウ社長、オウ専務、アンさん、そしてぼくと夏野は入口で招待客を出迎えた。  ぼくには誰が誰なのかさっぱりわからなかったので、とにかく笑顔で歓迎することにした。笑顔はどんな場合でも役に立つ。笑いながら頭を下げ、名刺を交換する。後で名刺を見てびっくりするような要人だと気づいたりするのだ。  チェイルの仕切ったプログラムは完璧であった。さすがに広告代理店だ。特に大スクリーンに流されたデモ用のビデオはまるで長編テレビ CMといった出来栄えだった。さらに舞台には韓国の〝タモリ〟と紹介された有名タレントとその奥さんで歌手の女性が掛け合いながらハイパーシステムの説明をした。これは参った。よくできている。  ぼくは自分がどんな役割で会場入りしたかも忘れて、ただ舞台の方を見入っていた。いつのまにか最後のステージである。ぼくが挨拶をする時間だ。舞台に上がり、ぼくは用意していた挨拶文をスピーチした。  プレゼン、挨拶の類はめっぽう得意なのだが、このときはうまくいかなかった。ハイパーシステムがらみの挨拶では、過去を通じて最悪の出来だったかもしれない。  このパーティの唯一の失敗といえば、ぼくのスピーチだった。それ以外は完璧だった。チェイルに感謝だ。実に楽しいひとときだった。  帰りの飛行機の中で、ぼくは、一年前に六本木ベルファーレで開いたプレス発表会を遠い昔のことのように思い出した。あのころは、金融機関も取引先も当社とハイパーシステムとぼくを絶賛していた。皆がこぞってカネを出した。その結果、一年間で五〇〇万円ほどだった借入残高が二〇億円まで膨らんだ。リースなども含めるとハイパーネットの借入総額は三〇億円を超えた。  そして翌年、銀行が次々と逃げ出し始めた。投資家やマスコミなど周囲の見方も一八〇度変わってしまった。なのに韓国では、日本での苦境などまったく

なかったように、豪華な旗揚げでハイパーシステムが動こうとしている。めまいを起こしそうな落差だった。  その後も韓国での事業は好調に推移した。九七年六月からスタートしたサービスは、最初 I | NETというプロバイダーが採用し、それもハイパーネットコーリアの広告収入に依存する変動支払いだった。その上でこのプロバイダーは接続を無料にした。会員数は日本でのスタートとほぼ同じペースで増え続け、九七年一〇月で二万人に達し、広告営業についても、広告料を有料化した。九七年九月には一カ月でなんと七〇〇〇万円の受注をしたという。しかしながら、現在韓国と日本両国の経済不況の影響下で業績はいまひとつらしい。  日本に戻ると、日常が待っていた。銀行からの融資返済要求をかわし、その合間に新たな支援先を見つけてくるというここ数カ月のぼくの日常が、である。  すでに取引銀行からの折り返し融資などが不可能なことは十分に理解していた。だから、九七年四月以降、銀行には新規融資の依頼など一切しなかった。  しかし銀行は手をゆるめない。残りも早く返せと執拗に迫ってきた。新居ビルの見た目の良さが、彼らの心証をますます悪くしていた。銀行の返済要求を満たすための資金と、リース会社がリースを断ってきた資金、以上をぼくたちはなんとか融通しなければならなかった。  国内で大型の資金調達をするのは、かなり難しい状況だった。西沢さんの手持ちの札もなくなった。ぼくの直接の知り合いにも頼れそうなところはほとんどなかった。  最後に残されたのは、海外との提携しかなかった。  現地企業と提携して、韓国同様他国でもハイパーシステムのライセンス販売が可能なことを証明するしかない。ぼくは海外担当の夏野に対して、当社にアプローチしてきた海外企業と LOI(契約の覚え書)をできる限り早く結ぶよう指示を出した。  当社の金融機関に対する信用はがた落ちだった。いくら合理的な事業計画を提出しても、そんなものは要らない、金を返せという姿勢になっていた。ぼくはある銀行の担当者にこんな話をした。 「IMSも売り上げが伸びて来ましたし、見てください、韓国でのハイパーシステムの発表がこんなに話題になっているんですよ、それに韓国以外のアジアの企業から……」  そこまで話すとその銀行マンはぼくの話をさえぎった。「わかりましたよ。それよりいつ返済してくれるんですか。」「ええ、ですから、ここに新しい事業計画が」「そうですか、でもおたくの話はいつも実現しませんからねえ」  やはりこの計画が〝ほんもの〟だと証明する何かが必要だ。第三者と交わした事業契約書が必要だ。それが海外企業との LOIというわけである。  九七年七月中旬、ハイパーネット USAのマネジャーがよい話を持ってきた。  アンディ・ブロダ氏という米国の投資家が、投資家グループを作ってハイパーシステムを米国で事業化したいというのだ。米国では九六年末からハイパーシステムの事業展開を始めてはいたが、その後の資金不足などが原因で、二月から凍結状態にあった。それを新たに自分たちの手で動かそうという申し出であった。  彼らの出してきた条件はこんな内容だった。まず、ライセンス開始時におよそ日本円にして七〇〇〇万円ほどの契約料、そして売上高の七%をロイヤルティとして当社に支払う。その代わり、当社は米国におけるハイパーシステムの営業権を独占的に彼らに提供する。  提携先を選ぶ余裕はなかった。ぼくはさっさとサインをして、 LOIが締結された。  これでハイパーネットの一番の出費要因だった米国での事業を、韓国でやったのと同様ライセンスビジネスにできる。後は彼らの活躍に期待するだけだ。それに当座の金も入ってくる。  これを皮切りに、世界各国からライセンス契約を結びたいという声が届き始めた。きっかけはぼくも参加している若手起業家のネットワーク YEOだ。 YEOは世界中にネットワークを広げており、ちょうど五月にアジア大会を東京で開催した。この年 YEOジャパンの副会長を務めていたぼくはハイパーシステムの講演を依頼され、これ幸いと思う存分プレゼンをしまくった。もちろん、ハイパーシステムを OEM化している点についても、である。  この講演以来、アジアのあらゆる国の起業家がぼくの元に集まってきて、それぞれの国でのライセンスがほしいと声をかけてくるようになった。中でも香港の起業家は非常に熱心だった。ぼくは夏野に交渉を引き継ぎ、結果、香港のこの起業家との間に LOIを結ぶことができた。  ほかにも当社への海外からの引き合いは非常に多かった。英国、カナダ、メキシコなどの国からあった。しかしなんといっても一番多かったのはアジアからの引き合いだった。韓国での実績がこれに拍車をかけた。  香港の次はシンガポールだった。政府の情報関連外郭団体である I TIとの技術提携とシンガポールでのハイパーシステムの事業化についての LOIを交わすことができた。  とにかく海外は意思決定が早い。米国のケースも、香港のケースも、シンガポールのケースも皆一カ月以内に返事が来ている。  これで文句はなかろう。七月下旬、ぼくは三つの LOIを携え、返済を強く求める金融機関に新事業の展開を説明した。  結果はけんもほろろである。もはや、当社の事業実績などどうでもよかったのかもしれない。彼らを説得する材料を用意したつもりだったがまったく意味はなかった。  最初に強引に迫ってきたのはある都市銀行だった。  九七年八月、この銀行からの融資残高は約二億円。最高三億円まで融資してもらっていたときもあったが、二月の「いったん返済」のときにすでに一億円を返済していた。  当社を訪れた同行の担当者はいった。「板倉会長。じゃあ、とりあえず八月末までに二〇〇〇万円を預金してください」  預金というかたちでの実質的な取りたてである。銀行のよく使う手だ。「知ってるでしょう。預金できるお金があるのなら、とっくに返してますよ。申し訳ないけれど、そんな資金はうちには今ないです」ぼくはこういった。説明するまでもなかった。先方も十分それを承知しているはずなのだ。「いやね、無理をいうつもりはないんですよ。でも、これは本部からの指示なんです。手ぶらで帰るわけにはいきません」  本部からの指示。手ぶらで帰るわけにはいかない。これまた銀行の常套句だ。ほかの銀行の担当者も同じようなせりふをいう。  とにかく、ない袖は振れない。ぼくたちは何度も、いま二〇〇〇万円を預金するのは現実的に無理であり、もし無理におかねを作ってそちらの口座に預金すると、別のどこかにしわ寄せがいって、今後の事業継続に支障をきたす、そう主張した。  何回か綱の引っ張り合いをやった挙げ句、担当者は最後にこういった。

「それでは、会長はハイパーネットがつぶれてもいいのですか」  この日、この銀行の担当者はそれ以上具体的な話をしなかった。が、いわんとしていることはよくわかった。少なくともぼくにはこう聞こえた。二〇〇〇万円を積まなければ、手形をまわして不渡りにします。それがいやならさっさと預金してください。  担当者が帰ってから、取締役を集めて協議した。結局、西沢さんの経営する会社から資金を借りて銀行に二〇〇〇万円の預金を積むことにした。銀行とこれ以上険悪になるのは避けたかったからだ。いずれにせよ一時しのぎの策に過ぎなかった。  だがこの預金が、各行の融資引き上げ競争のまさしく合図となってしまったのである。  九七年九月。当社は二〇〇〇万円を先の銀行に預金した。にもかかわらず、この銀行からの返済要求は止むことがなかった。ちなみに他行に関しては、返済要求はあったが、ここほど強引ではなかった。  この銀行の担当者はとにかく「熱心」だった。彼らは連日やってきた。九七年九月の一カ月、彼らが当社に顔を出さなかった日は、おそらく一〇日以下だったと思う。ぼくと森下はその対応に費やす時間を別の資金調達や事業計画に使いたかったのだが、そうもいかなかった。  ある日、いつものように来社したこの銀行の担当者は、ぼくに一つの書面を見せた。その書面というのは、当社への融資継続にあたり、第三者の債務保証を求めるものだった。彼らはその書類をぼくと同席した森下に見せてこういったのである。「これで本部を説得します。ですからここに〝お父さん〟のサインをもらってきてください」  お父さん?  おれや森下の父親のことか。そうだろう。他に該当する人物はいない。さすがにびっくりして、銀行員のまじめそうな顔を眺めた。  確かにこの会社の創業者は会長であるぼくだし、会社向けの融資をしてもらうにあたって、個人保証もしている。この銀行の融資に関しても同様だ。そうはいってもハイパーネットは、れっきとした株式会社だ。その株式会社が、銀行から融資継続をお願いするにあたって、なんの関わりもない経営陣の親のサインが必要だとはぼくも知らなかった。もしかしたら、ぼくの父の兄弟や親戚に開業医が多いために、父までが裕福だと思われているのかもしれない。しかし、本書の冒頭でも書いたが、ぼくの父は医者ではないし、特に金持ちというわけでもない。しかもハイパーネットを始めて以来、親の世話になったことは一切ない。なのに……。  この日以来、この銀行の担当者たちは連日当社を訪問して「お父さんのサイン」を求めてきた。しかも念のいったことに、個人保証をしているぼくの実家の写真まで手に入れていた。言うまでもないが実家は僕の所有物ではない。  ぼくはハイパーネットを創業して以来、どんなに困ってもサラ金には手を出さなかった。いざというとき、親の保証などを求められても困るからだ。そこで、融資をお願いするのは、都市銀行に限っていた。しかしまさか銀行相手にこんな目にあうとは思わなかった。  毎日のようにやってくるこの銀行の担当者の方々に、ぼくと森下は「親には関係がないからそれはできない」という主張を繰り返した。  すると彼らも繰り返した。「それでは会長と社長はこの会社がつぶれてもいいというのですね」  銀行の方々との「ご歓談」の時間をとるために、ぼくたちは九七年九月以降、少なくとも二日に一回、一時間から二時間程度の時間を割く必要があった。あまりに頻繁にやってくる彼らに、ある日、それまで感情を抑制していたぼくの中でなにかが切れた。思わず大声が出た。「いったい、なんでおたくだけそんなに強引なんですか!」  すると彼らはこういうのである。「いやあ、ぼくが知っているところによると、うちよりもしつこく日参している銀行さんがあるらしいじゃないですか」  冗談ではない。確かに他行も回収には熱心であったが、この銀行のように毎日のように来社したり、ましてや「親を出せ」というような取引銀行はまったくなかった。  九月末日が近づいてきたある日、いつものように当社に来たこの銀行の熱心な担当者は、いつまでたっても親のサインを認めないぼくたちにこういったのである。「じゃあ、いまからぼくといっしょにお父様のところへいきましょう。事情はぼくが説明しますから安心してください」  これが都市銀行のいうことなのだろうか。いや実際に目の前でやっているわけだから、ぼくの認識の方が間違っているのだろう。ここまで来ると、彼らにとって当社の業績や事業などどうでも良いことだったのかもしれない。たとえ当社がつぶれても資金さえ回収できれば問題ないのだろう。  この銀行担当者の方の親切な申し出は、もちろん丁重にお断り申し上げた。  さて、この銀行の熱心な活動ばかりに紙面を割いてしまったが、その間、他行がぼんやりしていたわけではもちろんない。  先ほども書いたように、八月末日、同行に対する二〇〇〇万円の預金をきっかけに、他行の返済要求も一気に強まったのである。  当社は毎月取引銀行の求めに応じすべての財務資料を提供していたが、その中にはもちろん現預金残高というものがあった。当然、他行がこの銀行に対する預金に気がつくのに時間はかからない。財務資料に記された同行への二〇〇〇万円預金を見つけた瞬間、各行の担当者の目の色は一斉に変わり、すべての銀行が完全に回収モードに突入したのである。訪れた担当者の最初の言葉は皆同じだった。「なぜあの銀行にだけ預金を積むのですか」。彼らにしてみれば当然の言葉だろう。  そもそも複数の銀行からの融資というのがいけなかった。  銀行は、基本的に横並びで行動するのだから、金を貸すときも、金を回収するときも、みな仲良くいっしょに動く。思えば、当社に住友銀行が億単位の融資をいきなり実行したからこそ、複数の銀行がわれもわれもとお金を貸してくれたのである。その結果がたった一年で二〇億円まで膨れ上がった借入残高である。これは金を回収するときもまったく同じである。今回はこの銀行が強硬に返済を迫り、二〇〇〇万円だけではあるが預金というかたちで返済を一部実現した。となれば、他行がこれに続くのはむしろあたりまえであった。  ぼくと森下は、毎日数件に及ぶ取引銀行からの問い合わせに対して、海外での実績やリストラが進んでいることを事細かに説明していた。  たとえば、当社はリストラの結果、九七年二月には月次で一億八〇〇〇万円ほどの支出があったものを、九七年一〇月には七〇〇〇万円まで縮小することができ、さらに IMS事業の健闘もあって、単月ベースではとんとんのところまで収益構造が改善されていた。一般的に考えて、それまでの事業( IMSのことである)をはるかに超える事業規模(ハイパーシステムのことである)をスタートしてわずか一年で収支がとんとんになったのは、悪い成績ではないだろう。確かにハイパーシステムの開始当初に鼻息の荒かったぼくの書いた絵とは程遠い現状ではあったが。あとは韓国をはじめ海外の業績を待っていれば、じきにロイヤルティが利益という形で入ってくる。そうなれば、単月ベースの黒字も間近だし、ロイヤルティ収入を考えれば、経営はさらに改善されるはずだった。「だからもう少し待ってください」ぼくたちは毎日、こういって銀行の方々に頭を下げた。  こんな文句も口癖になっていた。「ぼくは借りた金の一部を返すことより、全部を返したい。だからしばらく様子を見てください」  しかし「回収モード」に切り替わった各銀行は、我々が提出する事業説明やぼくの言葉に耳も目も貸してくれなかった。一〇月に入ると、森下、それから経理担当の大内、それにぼくの三人は一日のほとんどの時間を銀行の対応に使っていた。これでは事業推進や資金調達どころではない。何とかしなくては

ならない。  状況はどんどん悪化した。この頃から銀行に加えてリース会社までが支払い要求に訪れるようになったのである。実はこのところの資金繰りの悪化で、リース料の支払いが一部滞っていた。当社は、例のタンデムをはじめコンピュータ機器のほぼ全てをリースしていた。  リース会社とすれば、当然機材の引き上げを要求してくる。一方、 IMSにしてもハイパーシステムにしても当社の設備のほとんどはリースに頼っていただけに、これらを持っていかれるとサービスが止まってしまう。そうなればもはや事業を継続できない。そればかりかプロバイダーや広告代理店をはじめクライアントからの損害賠償などの訴訟が相次いで起こるおそれがある。無論、会社はそこでおしまいである。我々は必死に説得にあたった。  銀行にしてもリース会社にしても、違法なことをしているわけではなかった。銀行の場合は短期融資だから期日に返済要求されて返せない我々が悪いし、リース料の滞納をしている我々が悪い。機材を引き上げるといわれても、文句は言えない。彼らは正当な要求をしているのだ。ぼくもそれは十分理解している。すべてはわれわれの契約不履行が原因なのである。  それでも、ぼくの中には、ある意味で理想主義的な、言葉をかえれば極めて甘い発想がまだあった。  リース会社が規則に従って機材を引き上げれば、当社は事実上倒産してしまう。倒産してしまえば未払いのリース料や借入金は支払うことができなくなってしまう。そもそも、リースにおいてはコンピュータ設備を転売したところで二束三文である。これではお互いに損なだけだ。だから、もっと仕事をさせてくれ――。しかしぼくのこの説得はなんの効力もなかった。すでに銀行やリース会社の当社に対する信用はゼロに等しかった。  九月初旬。長銀系の日本リースから電話が入った。ここはハイパーシステムのコンピュータ機器の多くをリースしている。当社としてはもっとも取引の大きなリース会社だ。「いまおたくのビルの前からなんですけどね」  日本リースの担当者はぶっきらぼうに言った。「車をつけているんですよ」  いよいよ実力行使だ。今すぐにでも先日付の小切手を切るか、現金を出せというのだ。  ぼくは小切手を切ることにした。実はこの日の段階では、支払いの可能性がほとんどない小切手だった。でも、今日機材を運び出されるのはまずい。少なくとも小切手を切れば、しばらく時間稼ぎができる。  銀行のときと同じだった。この日を振り出しに、次々とリース会社が訪れるようになった。皆さんトラック持参で、自分たちの機材を持っていこうとする。こうなるといつまでも小切手攻撃は通用しない。  そんなとき、筒井と小林の率いる技術陣が知恵を絞ってくれた。ぼくは機材引き上げの影響を直接受ける技術部門の彼らに事情を説明した。「いつ、どの機材が持っていかれるか、もはやわからないほど事態は切迫しているんだ」  ぼくがそう話すと、筒井が聞いてきた。「板倉さん、どの機材がどのリース会社の名義で、それがこのままでいくといつ引き上げられるのか、全部リストアップできますか」  突然、不思議なことを聞いてくる。ぼくは答えた。「ちょっと手間がかかるが、まあ経理の連中の力を借りればできると思う。でも、そんなことさせていったいどうするつもりだ?」  今度は小林が口を開いた。「いや、必要最低限の機材を残しておけば、表向きはサービスは継続している程度に動かすことはできるはずですよ。機能は絞られますけどね」  おかげで時間を稼ぐことができた。筒井と小林の言葉に嘘はなかった。リース会社が一部の機材を回収した後も、システムは一応稼動したのである。  ぼくは連中に軽口をたたいた。「これじゃあ、最初っから、こんな高価な機材はいらなかったんじゃないの?」  筒井がやり返した。「小林がリース屋とコンピュータ会社からの回し者だったんですよ。どんどん買わせるための、ね」  現場の連中のなかには、このようにまだジョークを言うだけの力が残っているものがいた。ぼくがここで投げ出すわけにはいかない。  当社が滞納していたのは銀行の融資やリース料だけではなかった。  九月、当社にはすでに支払期日の過ぎた三億円の未払いがあった。その中に含まれていたのが、アスキーへのメディア料である。  このころ、アスキー・インターネットフリーウェイの会員数は三〇万人に迫る勢いだった。結果、当社からアスキーへのメディア料の支払額は毎月四〇〇〇万円に達していた。当社の支払分類の中では一社単位で見ると一番大きかったのが、このアスキーだった。額が多いだけにアスキーへの支払いは困難を極めた。そこで、ぼくはアスキーにこんなお願いをした。  当社は現在資金難のため、アスキーに対するメディア料の支払いが困難である。よって当社が九八年二月と九九年二月にアスキーから受け取るはずになっているハイパーシステムの独占契約料と相殺してくれないか――。  これだけでは、ぼくが何をお願いしているのかおそらく理解できないだろう。そこで、少々アスキーと当社の契約の内容を説明したい。  アスキーとの契約は大きく三つに分かれていた。  一つは日本橋に借りていたプロバイダー設備のリースに関して。これは当社を経由してアスキーに又貸ししているもので、リース料は、アスキーから当社へ、当社からリース会社へと支払われていた。九六年二月にそれまで当社で準備していたプロバイダー部門を慌ててアスキーに引き渡したためだ。あまりに面倒な契約のために、これに関しては、九七年七月頃、当社をはずしてリース会社とアスキーとの間で直接契約してもらうことで話が進んでいた。  二つめはメディア料。これはユーザーの利用時間に応じ、当社からアスキーに支払うものだ。広告代理店が TV局などのメディアに支払うカネと性格は似ている。ちょっと違うのは、当社からアスキーへの支払いは当社の広告販売の高低にリンクしていない固定支払いだった点だ。すなわち広告が取れないと、当社のリスクは相対的に高くなる。この部分の支払いが一番痛かった。  三つめは、アスキーへの独占供与の契約に関する支払い。ハイパーシステムがスタートした九六年四月から六カ月間、アスキーと当社は独占供与に関する契約を結んだ。そしてこの対価として三億九〇〇〇万円をアスキーは当社に支払うことになっていた。このうち二億円は契約時に支払ってもらったが、アスキー側の資金繰りの都合ということで、残りの一億八〇〇〇万円は、九〇〇〇万円ずつ、九八年二月と九九年二月に分割で支払うことになっていたのである。  我々は九六年四月からの六カ月間、契約どおりアスキーに対して独占的にシステムを供与したから、アスキーに対する債権の一億八〇〇〇万円は間違いなく成立していた。ぼくはこれを持ってメディア料と相殺してくれと頼んだわけである。  けれども、アスキーの回答は、この提案を拒否するものだった。問題はその理由だ。ぼくは最初、てっきりあと二回の支払期日がきていないので相殺できない、といっているのだと思っていた。ところが、アスキーの回答では、そもそもの話、一億八〇〇〇万円のアスキーに対する債権は確定していないというのである。

 この部分に関する契約書には、アスキーに対する五年間のハイパーシステムの供与と、例の六カ月間の独占使用に関して明記されていた。その対価である三億九〇〇〇万円は、どのように読んでも、六カ月の独占権の対価と読めるものだ。というよりはっきりと「独占使用に対する対価として」と書いてある。しかしアスキーは、同じ契約書に書いてある五年間の供与という部分こそがここでいう「期限」であると主張したのだ。その論法でいけば、まだその期限が満了していない。よって債権は確定していない、というのだ。  それにしても困った話だ。アスキーは店頭公開会社である。当然監査法人の監査を受けている。アスキーの監査法人からは毎期、中間決算と期末決算時に債権債務の確認状が届くのだが、これにもはっきりとアスキーが当社に対する一億八〇〇〇万円の未払いがあるとの確認がきている。それも材料に何度か交渉したが、先方は態度を譲らない。  ぼくは今更ながら後悔していた。やっぱり浜田さんがアスキーを辞めたときに、契約を打ち切ればよかったのだ……。  どちらにせよ、アスキーが主張を曲げないようならば、当社としても対応を変えざるを得なかった。たしかに、これまではこちらの資金繰りが苦しかったがゆえに、アスキーに対するメディア料の支払いは遅れていた。その点に関しては、アスキーが苦情をいうのは当然であるし、非はもちろん当社にあった。  ところがアスキーは、当初の契約で明記したアスキーに対する一億八〇〇〇万円の債権の存在すらもみとめようとしない。この債権を否定されるのは、当社にとってまさしく死活問題である。そこでやむを得ず、当社はアスキーに支払うべきメディア料の総額がこの債権の総額に達するまで、支払行為を止めることにした。  すると、対するアスキーは、日本橋のプロバイダー設備のリース料の支払いを止めた。このリース料金は契約でアスキーが支払うことになっていたものである。おそらくこの措置は、当社がメディア料を支払わないことに対するアスキー側の制裁行為なのだろう。  しかし、我々も、当社とリース会社との間で結んでいたリース契約と一文字一句違わない契約書を、念のため当社とアスキーとの間で結んでいた。彼らが支払いをしなければ、当社がリース会社から求められるのと同様、彼らは当社からリース契約の解約金を請求されるのである。  ただ、ここでアスキーと言い争いを続けても時間と金がいたずらに浪費されるだけだった。  結局、アスキーとの論争は双方譲らぬ姿勢のまま、当社は倒産を迎えることになる。  さて、話は一カ月ほど溯る。九月に入ったばかりのこと。久しぶりに、西沢さんが支援の話を持ってきた。(彼は、当社の役員ではあったが、毎日出社していたわけではなかった)。  相手は大日本印刷だった。西沢さんは多くの有能な企業人を知っているが、大日本印刷の佐藤通次専務もその内の一人だった。大日本印刷はこのところ、デジタル分野への進出を急速に進めており、インターネット関連の事業にも強い興味を持っているということだった。  西沢さんは、ぼくと森下に言った。「佐藤専務と大日本印刷の取締役に対してプレゼンをしてほしい」  ぼくは西沢さんの指示を受け、すぐに大日本印刷の方々にハイパーシステムと当社の現状についての説明をした。ぼくは当社の将来性を語り、それと同時に現在の苦境をすべてさらけ出した。プレゼンの成果だろうか、その場に居合わせた大日本印刷の取締役の一人は、当社の事業を評価してくれ、「前向きに検討させてください」とまで言ってくれた。  その日以来、我々は数回にわたって佐藤専務はじめ大日本印刷の役員の方々に会い、当社の財務状況について話し合った。その後、ぼくは西沢さんを通じて、大日本印刷が口頭ではあるが、当社を支援する方向であると聞いた。  大日本印刷の支援が実現すれば、株式所有比率は大きく動く。ぼくは社外ナンバーワン株主である郡司さんに報告にいった。久しぶりの面会だ。二月の増資の相談以来だろうか。  ハイパーネット設立当初、ぼくは困ったことがある度に郡司さんに甘えていた。だから逆にここ数カ月の深刻な状況を郡司さんにはいえなかった。だが、今回の大日本印刷の支援はけっして悪い話ではない。「どう?  大変みたいだね」。郡司さんはいつも冷静である。状況も把握しているようだ。「ええ、このところ資金難が続いています。いろいろなところに支援の申し出をしているのですが、最後の最後でボツになることが続いています」「うん」「それで、まだ正式に決まったわけではありませんが、やっとこの状況を脱出できるかもしれません。大日本印刷の専務とお話したところ、当社を支援してくれそうなんです」「ほんとう」「ええ、それで資本の移動があると思います、大日本の支援が実現すれば、彼らに大きく株式のシェアを譲らなければならないでしょう」「そうだろうね。わかった。事態が進展したら、また連絡してください」  郡司さんは事態の飲み込みが早かった。この状況下で株式シェアにこだわったりしない。むしろ、ほっとしたような顔で、彼は基本的にこの提携を承諾してくれた。  その後、ぼくと森下は、佐藤専務に同行して、日本興業銀行の齋藤宏常務を訪問した。いくら大日本でも、いきなり当社に資金を投入するわけにはいかない。そこで佐藤専務の力を借り、大日本のメインバンクである興銀に当座の援助をお願いすることになったわけだ。  実は、ぼくは齋藤常務には何度もお会いしたことがあった。彼は以前東京支店の支店長をしており、当社が興銀から最初の融資を受ける際、ぼくは住友の国重さんの紹介で齋藤さんを訪問したのである。以来、興銀に対する当社の事業説明は、齋藤さんにしていたのだ。彼が常務に昇格するとともに、当社の担当は興銀の東京支店から本店のメディア通信営業部へと移った。その齋藤常務は佐藤専務の一連の支援要請を聞いた後、ぼくに聞いてきた。「住友の融資残高が随分減っているようだけど、国重さんの異動と関係あるんですか?」「いや、それは、ぼくにはわかりません」  ぼくは言った。知る由もなかった。「そうですか。ところで事業はどんな具合ですか」、齋藤常務は質問を変えた。「当初の事業計画を大きく下回っています。そこで、事業方針も変更しました。広告収入に頼りきりにならず、ハイパーシステムをライセンス化して展開する方向です。すでに韓国では実績がありますし、他にも海外から引き合いがきています」「そうですか」  それから、いくつかの簡単な質問があり、お開きとなった。  佐藤専務は「齋藤常務が動いてくれそうだね」と話した。ぼくにはよくわからなかった。もはやその言葉を信じるしかなかった。いずれにせよ、この話

が実現すれば、営業上の支援を大日本印刷にお願いし、資金面な支援を日本興業銀行にお願いするという段取りになる。あとはアクシデントがないことを祈るばかりだ。  九七年九月下旬の土曜日、当社の社長室のメンバー、西沢さん、森下、ぼく、それに大日本印刷の企画部長が集まり、日本興業銀行に当社と大日本印刷の連名で提出する事業計画書を作成した。できあがったのは日曜日の深夜だった。当社の財務状況を一万円単位で細かく調べ上げ、未払いの金額や将来必要な資金などもこと細かに積み上げた詳細な内容だった。  ぼくはこのとき、良くも悪くも大企業の現場がどんな論理で動いているのか、大日本の企画部長を通して知ることになった。たとえば、将来の目標数値のできあがる根拠と現在の数字の正確さとを天秤にかけると、将来の数値の根拠よりも、足元の数字の正確さ、それも数万円数千円単位の違いにまで神経質に追求することを重んじる。ぼくの経営とはまったく逆だった。数万円の違いより、数カ月先の売り上げ予想根拠のほうを重んじてきたのがぼくの流儀だった。文化の違いを感じた。でも提携が実現したら、そんな違う文化をお互いに取り入れるのもいいかもしれない――。このときは、そんな風にのんきに考えたりもした。  九月二九日月曜日。ぼくたちは、朝早くから出勤していた。  大日本印刷から電話がかかってくるのを待つためだ。この日、大日本印刷が当社と共同で作成した事業計画書を携え、正式に興銀を訪問する。そして、大日本印刷と興銀の間で、我々が興銀の担当者にお目にかかって事業計画を説明する日時を決定してもらう。そういう段取りだった。  ぼくと森下そして社長室のメンバーは、事業計画書の変更や突然のプレゼンに備えるため、すべての予定をキャンセルして待機していた。この日ばかりは金融機関からの返済要求のアポイントメントもすべて断っていた。大日本印刷との提携のための打ち合わせと話すと、彼らも遠慮してくれた。  新建材の臭いがまだ漂う会長兼社長室で、ぼくは森下とこれまでの半年間を振り返りながら話をしていた。二月の増資がうまくいったこと、銀行のいったん返済話をうっかり信用したこと、インターネット広告市場の成長が遅いこと、森下が以前取締役に就いていた会社が経営破綻して新聞で取り上げられていること、是枝さんの好意を断ってしまったこと、孫さんと会ったこと、それに最近の自分も含めた役員達の資金難のこと。当社の役員は二月以降報酬を全く受け取っていなかった。話が尽きれば、また出来上がったばかりの事業計画書を何度も読み返す。それにしても久しぶりに静かな一日だった。  話も尽きた。すでに八時間が経過した。そろそろ日も落ちる。なのに一向に連絡はない。  ぼくはしびれを切らして、森下に連絡を取ってみるように促した。  森下は西沢さんに電話をいれた。「いま、こっちから連絡しようと思っていたところだ」  西沢さんは言った。いやな予感がした。  西沢さんの話によれば、興銀内部で当社に対する支援を保留したほうがいいという意見が出たらしい。アスキーとの間の問題などが取りざたされたようだった。  大日本印刷の支援話は立ち消えとなった。そして数日後、西沢さんは当社の役員を辞めた。  大日本印刷との話では、九月末日一億三〇〇〇万円を緊急支援するということになっていた。日本興業銀行に融資をお願いできたとしても、とても九月末には間に合わないからである。大日本印刷の企画部長と我々で作成した事業計画にしても、実はそのほとんどが足元の数字に関するもので、そこに九月三〇日のこの一億三〇〇〇万円の支援が織り込まれていた。  しかし前項のトラブルから、大日本印刷から支援を受けられないことは明白だった。  当社はこのとき初めて、社員に対する給与遅配をせざるを得なくなった。緊急の全社集会を開いた。およそ七〇人の社員を一堂に集める機会はそうめったにない。  ぼくはオフィスに集まった七〇人の社員を目の前にして、改めてことの重大さを思い知らされた。ぼくたちの経営次第で彼らの生活は確実に脅かされるのだ。  しかし九月末については、もうどうにもならなかった。ぼくはすべて隠さずに説明し、社員の了解を取るように話した。社員は動揺していたが、罵声が発せられたりすることはなかった。また特別に質問もなかった。ぼくは、個別に質問や文句がある場合は、直接担当の役員にするように、と伝えて、この場を終わりにした。  大変なことになった。しかしぼくには、状況を説明する以外、社員たちにできることはなかった。  一〇月に入って数日たったある日。夏野がぼくに話があるとやってきた。  彼は退社を希望していた。彼によれば、個人の生活が苦しくなっているとのことだった。実はこの日、彼はぼくの手元に一通の電子メールを送っていた。その内容は、あとで確認すると、彼の退社理由をこと細かく書いたものだった。しかし、彼が辞めたがっていることを薄々感じていたぼくは、あえてこのメールを開いていなかった。そこで夏野はぼくの部屋に入ってきて、自ら退社を申し出てきたのである。  夏野を含め、当社の役員は九七年二月から役員報酬を全く受け取ることができなかった。このぼくも月五〇万円の家賃をすでに四カ月滞納し、自宅にあったオーディオを全て売却し、フェラーリも九七年二月の増資時に売り払っていた。幸いどちらも比較的いい値で売れたので生活は何とか維持できたが、苦しいことに変わりはなかった。  ぼくよりひどかったのは財務担当をしていた大内である。大内とぼくは一五年前の創業時からのチームだ。彼女とぼくはこんな状況を何度も経験している。そして何度もそれを乗り越えてきた。しかし彼女も家賃滞納によって二度の引越しを余儀なくされていた。保険を解約したりしながら、換金できるものはすべて現金に変えながら何とか生活していた。  森下も同じだった。ただ彼がほかの役員より環境が良かったのは実家に住んでいたことである。やはり究極の状況では、衣食住のうち、住が現実的に大きな負担となる。  ぼくの場合、白金の家に関しては、最初に保証金を多く入金していたので、四カ月の滞納でも追い出されることはなかった。しかしいずれにしても会社以上に役員の個人生活はぼろぼろであった。何とかこの会社を救おうとそれぞれに苦しい状況に耐えていたのである。  ぼく、大内、森下それに筒井はそれぞれに経営という現実を知っていた。ぼくと大内はこの一五年で、森下は自身で会社を経営したこともある。筒井は父親が経営者だった。  それに対し、夏野は自身の経験も環境もなかった。もともとが一流企業でエリートコースを歩んできた男である。実家からの借り入れなどでこれまでしのいできたというが、この一〇月末で家賃が滞納となってしまうという彼を引き止めるすべはなかった。「いままで良く耐えたね」  ぼくはそう言って彼を見送った。  実のところ、ぼくは五月のクーデター未遂事件以来、彼に対する見方が変わっていた。確かに仕事はできる。あの事件以降も精力的に仕事をしているし、

実際海外での実績が出てきていた。にもかかわらず、ぼくは彼に全権を委任して海外事業を任せきる自信がなかった。一度芽生えた不信の種が最後まで拭い去れなかったのである。  一〇月に入って、我々役員は連日会議を開いていた。もう中期的な対策などではなかった。毎日毎日押し掛ける金融機関への対応についての議論だけで精一杯だった。  例の銀行は相変わらず「お父さん」を繰り返している。ぼくと森下はかわるがわるこの対応にあたっていた。ほかの銀行も広告代理店からの売上金を直接拘束することで、我々から実質的にカネを取り上げていた。代理店からの売り上げが銀行に入る。もちろんその金を当てにして給料やその他の支払いにまわすつもりでいるわけだが、彼らはそれを融資の返済として拘束する。もちろん彼らは法律に反しているわけではない。しかし我々は明らかに収入を断たれてしまった。  九月中は、大日本印刷の支援があると称して銀行からの追求をなんとかかわしていた。それが駄目になった今、我々に盾となるものはもはや何もなかった。未払い金額は五億円に達していた。ちょっとしたソフトの開発を依頼している企業、インターネットの回線を契約している通信会社、広告を依頼している代理店などの取引先からの支払要請も強くなってきた。特に中小、零細企業だ。当社を信用して仕事をしてきたのに、カネが支払われない。本当に申し訳が立たない。しかし我々には何もできなかった。  毎日のようにやってくる債権の取り立てに対して、ある時はぼくの個人保証を書面で提供することによって、ある時は先付け小切手を切ることによって、なんとかきり抜けた。  ここで取り立て業務について述べておこう。実際には銀行などの金融機関を除く債権者からの取り立ては当社の経理部門が対応していた。  ときには、当社の経理担当の女性社員が胸ぐらをつかまれて怒鳴られる事もあった。この時はその女性社員が気転を利かせ、わざと泣き出してみせて追い返したという。またある時は当社の電子ロックの外に二 ~三人で何時間も居座り、出入りするうちの社員に対していろいろ話し掛けたらしい。「おたく、ハイパーの社員?」「はいそうです」「へえ ~、でさあ、先月給料出たの?」 「……」  こんな具合である。典型的な嫌がらせだった。  サラ金や街金融からの融資を全く受けていなかったはずなのに、電子ロックのドアの外には、その関係者とおぼしき人が何度か顔を出していた。うちの債権者の借金先なのかもしれなかった。いずれにせよ、ぼくの耳にはこういった話が毎日いくつも報告された。取引先の数は優に三〇〇社を超えていたから、押し掛けてくる人たちもほとんどぼくが見たことない方々だった。いずれにせよ、ぼくではなく、社員に圧力をかけられるのには参った。  ぼくの携帯電話に直接連絡してきたり、ぼく宛に面会を要求される方がはるかにましだった。ぼくが事情を説明し、必要ならばぼくが個人保証することで、相手もある程度は納得してくれるからだ。  問題はこのように間接的なプレッシャーをかけてくるやり方だった。社員の間には動揺が走り、社内は騒然とした。  我々は疲弊しきっていた。どんな対策を打ち出しても、どんな実績を持っても、誰もそれを聞いてはくれない。ぼくと森下はそれぞれ、金融機関との面会の隙間をぬって、商社をはじめ大企業へ救済を打診していた。丸紅、伊藤忠、セコム、 CSK……、数え上げたらきりがない。しかしここまで状況が悪化してしまうと、どの会社も支援を躊躇する。当然の話だ。  彼らの返事は、いつもこうだった。「事業には大変興味はあるが、一社では重過ぎる」  ぼくの脳裏を「破産」という言葉がちらつきはじめた。  森下が、ひとつアイデアを出した。「増資をしたらどうだろう」  つまり事業内容に対しては評価するが一社で負担するには重過ぎる、と各社がいうのならば、増資によって複数の企業から資金を調達したらどうか、ということである。  この段階で増資。かなりとっぴな案だが、悪くない。ぼくは賛成した。ただし一つ条件をつけた。  増資を実行するのは、当社が現在の苦境を脱するだけの資金が十分調達できると判断したときに限る。一時しのぎにすぎないような額しか集まりそうにないと判断したときは増資をしない。一時しのぎは、次の一時しのぎを生む。そして最後に待っているのは破滅だ。そうなれば、増資に応じてくれた人に損害を与えることになる。もう、この会社を評価してくれてきた人々に損害を与えるような真似はしたくなかったのだ。  とはいうものの、当社が完全に復帰するためには相当の額の増資が必要だった。単純に資金繰りの不足額だけでも五億円。そのほとんどが銀行からの返済要求を満たすためである。それに、これまでの信用不安による受注減などの影響を考えると優に一〇億円は必要だった。給与遅配や信用不安などもあって、売り上げは最盛期の三分の一以下、月額三〇〇〇万円まで落ち込んでいた。  一方、増資の案に筒井は反対だった。彼が担当していた IMSの問題があったからである。実は、筒井は九月頃から IMS事業を外部に売却できないか調査していた。 IMSは多数の広告クライアントを抱えているだけに、もし当社に万が一(もはや万が一とはいえないのではあるが)のことがあったら、非常に多くの関係者に迷惑をかけることになる。  幸い IMSの事業自体は広告業界を中心に評価が高かったため、この事業をクライアントごと他社に売却することで、ユーザー保護と資金調達の両方を同時に達成しよう、というのが筒井の腹積もりだった。ただ、増資を成功させるために IMSは欠かせなかった。増資をするならば IMSを外部に売却するわけにはいかなかった。森下とぼくは最後の賭けに出ることを、筒井は目の前の現実を見据え IMSの売却を、と議論は続いていた。  ぼくは迷っていた。増資の可能性は非常に薄かった。だから現実的な路線を取って IMSを売却するべきなのかもしれない。筒井の話には説得力があった。  将来のことは、結局自分で決めるしかない。ぼくは十数年間の起業家生活で何度も苦境を経験し、いつも奇蹟か魔法かというような資金調達を果たして乗り切ってきた。  決断のときだった。ぼくは決めた。最後の賭けに出よう。  ぼくは、筒井の反対を押しきり、増資を決定した。  とにかく、一番大切な社員の給与をどうしても支払いたかった。ぼくはありとあらゆる当社の資産を金に変えることを考えていた。  その中にハイパーネットコーリアの株があった。  もちろん他にもハイパーシステムの三〇万人にも及ぶデータベース、ハイパーシステムの特許出願権、さらに筒井がこだわっていた IMS部門等々、売り物

になりそうなものは社内にまだあった。ただしそれらはいずれも売却してしまったらその後の事業展開に大きく支障をきたす。  その中にあってハイパーネットコーリアの株式だけは性格が違っていた。当社はハイパーネットコーリアからのロイヤルティ収入という契約があった。このため同社の株式を売却すれば、将来のキャピタルゲインを失う可能性はあった。が、ロイヤルティは確保できる。それよりも現状の苦境を脱することが先決だ。  幸い、出資当時日本円で約七〇〇〇万円だったこの株式を、ある人が引き取ってくれるという。その人は二月の増資に乗ってくれた当社の取引代理店の方だった。  ぼくは、どうしても支払わなければならない社員の給与や小切手決済のための資金を、これでまかない、一一月末の増資までの時間稼ぎをすることにした。  先方の広告代理店の方とは、一〇月末日にハイパーネットコーリアの株式の売買費用を振り込むという話で進んでいた。ぼくは九月の給与遅配から毎週のように行われていた全社集会でこの話をし、一〇月末には給与の未払い分を支払えることを社員に告げた。  一〇月末の振り込み日、先方から電話があった。これから当社にくるというのである。  いやな予感がした。  先方が到着すると、この方は申し訳なさそうに話した。  株式の買い取りはできなくなった、ということだった。  実は買い取りの資金は、先方の取引のある銀行から融資を受ける予定だったそうだ。ところが実際に融資を受け取るその日に、その銀行から用途を聞かれて当社の名前を告げたというのだ。するとその銀行は、あそこに投資するのはやめなさいと言い、この方への融資を突然断ってきたというのだ。ちなみにこの銀行、もっともつき合いの深い銀行の一つだった。  やられた。  自暴自棄というのはこういう感覚なのだろう。ぼくは本当にどうでもよくなってきた。  そして同じ日の午後。  またも給与を当日になって支払えなくなってしまった。これで二カ月目である。  夕方、ぼくは総務に指示をして、オフィスにいた六〇人ほどの社員を集め、事情説明をすることにした。オフィスの入り口近くのスペースに皆を立たせ、ぼく、森下、大内ら役員が前に並んだ。  気が重かったが、ぼくは率直に話すことに決めた。「今朝、予定していた入金が先方の都合で突然キャンセルされた。……そこで先月に引き続き、給料が支払えない」  ぼくの顔を見つめていたスタッフの間にざわめきが走った。かまわず話を続けた。「みなさん、未払いの給料がどうなるのか、非情に心配だと思います。ただ、いろいろ策は打っていますが、いま確実にいえることは何もありません。申し訳ない」  意見する者は誰もいなかった。彼ら社員も、我々役員も、ただ立ち尽くしていた。ところどころでささやき声が聞こえるだけだった。いっそ罵声を浴びせてもらった方が、まだ気が楽だった。  一分程度の時間だったのだろうが、ぼくにとっては気が遠くなるほどの時が過ぎた。ようやく何人かが質問をしてきた。よほど動揺していたのに違いない。ぼくは、何を聞かれどう答えたか、今でも思い出すことができない。  質問が一巡した。誰も動こうとはしなかった。隣で立っていた森下がぼくの方を向いた。ぼくは黙っていた。彼は再び皆の方に顔を向けると、この「会議」の締めの台詞を口にした。「以上です」。いつもならばこの台詞を言うのはぼくの役目だった。  それでも社員たちは、しばらくその場に立っていた。そして、まるでスローモーションの画像を見るかのごとく、彼らは一人、また一人とその場からゆっくり離れていった。皆が立ち去るまでぼくは金縛りにあったように動けなかった。声をかけてくる者は誰もいなかった。  翌日から日に日に、営業部門を中心に出社する社員が減っていった。再就職先をさがし、面接にいく者、個人的な資金調達にいく者などが増えていった。もちろん、こちらにそれを止める権利はなかった。  しかも一一月に入ると、突然当社内に労働組合ができた。ある社員が弁護士に相談し、設立したらしい。我々と対立するためにつくったわけではないが、目的は明白だった。労働賃金の可及的速やかな回収である。参加した社員は全体の八割。ぼくや財務担当に対する彼らの質問は専門色を帯びてきた。しかしこの時点で労働基準法などを持ち出されても、対処のしようがなかった。  彼らのやっていることは間違ってはいなかった。自分が同じ立場だったら、やはり最低限得るべき権利を主張するだろう。間違っているのは、会社を傾けてしまったぼくの方だ。迷惑をかけているのもぼくの方だ。そう理屈では分かっていても、やはりぼくは脱力しつつあった。  何のために、誰のために、おれは会社を維持しようとしているのか。株主か?  金融機関か?  ユーザーか?  クライアントか?  それとも社員か?  いや、やはり自分のためか?  もはや誰のためでもないような気がしてきた。誰も望んでいないような気がした。それでもまだどこかで、「ここでつぶしてたまるか」という声がしていた。その声だけがぼくの頼りだった。  増資には、臨時株主総会を開く必要があった。そして、これが心配の種だった。  今回の増資を実現させねば、もう後がない。そのためにはしかし、株価を下げる必要がある。そこで当社では前回二月の増資のときの一二〇万円という株価を大幅に下げ、一五万円という設定にした。となると、二月の増資のときに出資してくれた株主は怒るに違いない。いや怒って当然だろう。わずか数カ月前の増資から一気に株価が八分の一になるのだから。  それでも株主に納得してもらうほかなかった。いま高い株価を設定すれば、今回の増資は難しい。増資ができなければ倒産する。倒産すれば既存株主にもっと迷惑をかける。ぼくは腹を決めた。  一〇月一四日、臨時株主総会の日である。  ぼくは、時間になるまで社長室で待っていた。社長室にいた社員に出席や委任状の状況を聞いた。当時の株主は六〇人ほどだが、参加者はわずかに四人、その他はほとんど委任状による処理だった。すこし肩の荷が下りたような気がした。  株主総会は特に問題なく進み、満場一致でこの増資を可決した。よく考えてみればぼくより株主のほうがよっぽど利口なのである。いまさらここで騒いでも仕方ないといった諦めがあったのだろう。実際に総会に出席してくれたのは、今回の増資を最初に支持してくれたベンチャーキャピタルとぼくの友人だけだった。  あとは、全力で増資に走るしかない。ぼくと森下はそれまでかわるがわるやっていた金融機関の対応などを完全に分業することにした。森下が金融機関

などの対応、そしてぼくが増資関係である。一人の人間が、金融機関などを相手にした後ろ向きの話をしながら、増資のような前向きの話をするのは不可能だった。冗談ではあるが、増資の説明をしているときに混乱して、「ですから来月まで待ってください」なんて言いかねないのである。それほど我々は疲れていた。  金融機関の対応から開放されたぼくは、増資に走り回った。一一月はじめのことだ。まず訪れたのはベンチャーキャピタル。出だしは好調だった。最初に当社の増資の話に乗ってくれそうな反応を見せたのは JAFCO。一億から二億円はやりましょうといってくれた。もちろんこの段階では口頭での返事である。それでもまあ、最初が肝心だ。  次はニッセイキャピタルだった。同社は二月の増資のときにも投資してくれている。いわば、今回の株価大幅値下げに伴う増資で一番被害に遭っているベンチャーキャピタルでもある。にもかかわらず、担当者からは、「他社が出すのであれば、うちも出しましょう」と返事をもらった。  それから商社、事業会社とぼくは調子良くどんどん走っていった。ただし、いくつかの候補先から口頭でのいい返事をもらってはいたが、皆一様に同じ条件をつけてきた。すなわちリードインベスターがいた場合にのみ、増資をしましょうという話である。  一一月一〇日時点、当社は六億円前後の増資見込みを確保していた。問題はいまだにリードインベスターがいなかった。二月の増資時にリードインベスターとなってくれた NEDは、もはやリードインベスターどころか増資にも応じないという。現在、 NEDがどうなったかを考えれば、この対応もやむをえなかったのだろう。  もはや時間がない。口頭での返事をいくら集めても、リードインベスターがいなければ増資は実現しない。そんなとき、森下が自分のネットワークの中から華僑とコンタクトのある人を紹介してくれた。「この華僑はかなりの有力者らしいです」森下は言った。「うまくすれば、あるいはリードになってくれるかもしれません」  森下の話では、華僑の人間が一一月一七日に当社にくるというのである。あと一週間。しかもその日は、増資の申込書の期限であった。もちろん期限なんて気にしている場合ではなかった。  森下の得た情報によれば、その華僑は香港の超優良企業グループの長男だという。そしてその一族の将来の総帥らしい。その男が来社するというのだ。  ぼくは大いに期待した。一方で、ぼくの友人も偶然、こちらは台湾の華僑グループを紹介するといってきてくれた。しかしぼくには時間がなかった。両方同時に交渉するのは不可能に思えた。ぼくは一週間後に来社するという香港の華僑に賭けることにした。  現れた二〇代後半の彼は、絵に描いたように上品なお坊ちゃまであった。色白で少し太っていて、丸顔で、髪型はまるでリクルートカットである。スーツは見るからに英国風のかなり値の張るものだろう。彼に、ぼくはすべてを伝えた。  彼は真剣にこちらの話を聞いてくれていたようだが、通訳を通じて、「この場では決断できない」と言った。グループの代表者に判断を仰ぐ必要があるというのである。しかも一週間ほどの時間が要るとのことだった。言うことはよくわかった。時間はもはやないが、待つしかない。しかし、あと一週間か……。もはやデッド・ラインだ。  というのも、この話とちょうど同じ頃、引き金はすでに別のところで引かれたのである。  きっかけは、当社と取引のあるもう一つの都市銀行だった。  この銀行からの融資の残高は、当社の取引行のなかでも最も少なく三〇〇〇万円に過ぎなかった。しかし、一一月中旬、当社は約定弁済の五〇万円すら支払うことができなかった。このままでは不渡りが出る。そこで森下が、手形決済の前日にこの銀行に出向いた。なんとか決済を待ってほしいと交渉しに行ったのである。  森下が銀行に行ったその日、社会保険事務所に対する小切手の決済があった。社会保険事務所に対してはどんな交渉をしても無駄なことを、ぼくは過去の経験からよく知っていた。決済のための資金五〇〇万円をなんとか都合し、小切手の振出口座である先ほどの銀行に預金した。  さて翌日の午後二時すぎ、経理担当の大内が血相を変えてぼくと森下の部屋に入ってきた。「例の銀行から連絡があって、社会保険事務所の小切手が不渡りになるって」「えっ、昨日五〇〇万円入れたじゃないか」  ぼくは彼女に聞いた。「そうなんですよ。でも銀行の方が先に五〇万円落としたみたいなんです」「なんだ、それ?」  要するにこの銀行が社会保険事務所より先に自社の五〇万円の小切手を落とした、というのだ。無論、約定弁済の五〇万円分だ。その結果、残高は四五〇万円になる。結果、五〇〇万円の社会保険事務所の小切手が不渡りになったというわけである。「今何時?」。ぼくたちはみんなで時計を見た。「二時半」。大内が眉間に皺を寄せ、怒気を含んだ声で言う。「なんで今ごろ連絡来るんだよ。おかしいよ」思わずつぶやいた。  ぼくの経験では、当座預金の残高がマイナスになって不渡りが出そうなときは、通常午前中に銀行から連絡が来るものである。そうすればこちらの方も銀行の営業時間終了までに何とか不足金を手当てできる可能性があるからだ。  それをなぜこの銀行は営業時間終了三〇分前になって初めて連絡して来るんだろう。大内が怒るのももっともである。しかしここで文句を言っても始まらない。とにかくこの状況を回避するしかないのだ。ぼくたちは、足りない五〇万円をかき集める事にした。ぼくは聞いた。「わかった。いま会社にいくらある?」「二〇万円ぐらいです」。大内が答えた。「よし、今から誰かぼくの家に行って金を取ってきてくれ、多分二〇万円ぐらいあると思う」  この数カ月間、ぼくは全くの無収入だった。だから家財道具を質屋に入れたりしながら生活していた。この時はたまたま、オーディオ一式を下取専門店に入れたばかりだったため、そのくらいの金はあった。「おれも少し持ってる」  森下が財布の中から一万円札を何枚か出した。「ああ、これでまたカードの支払いができなくなる」  森下がにやっと笑う。もちろん冗談じゃない。本当の話だ。けれど軽口のひとつでもたたかなければ、もうやっていられなかった。「じゃあ、とにかくおれの家に行って金がそろったら、あの銀行に行ってくれ」「わかりました」大内は答えた。  もちろん銀行の方は何ら違法なことをしたわけではない。それにしても、なぜ二時三〇分などという取引終了時間のぎりぎりになってそれを伝えてくる

のだろう。いずれにせよ、ぼくたちは五〇万円をみんなの財布の中から集めて、銀行へ持っていくしか方法がなかった。そうしなければ、増資の前に不渡りをくらってしまう。  ぼくの家からカネを調達した大内は五〇万円をもってこの銀行の支店へ急いだ。すでに三時を回っていた。ただ一般的にいって銀行は不渡りになるような状態であれば、六時ごろまでは資金を受け取ってくれる。ぼくと大内は過去の経験からそれを知っていた。「残念ながら、もう時間をすぎました」銀行の担当者は大内をこういってあしらおうとした。もう手後れだというのである。まだ四時だ、そんなはずはない。「この五〇万円で本日の不渡りを回避したいわけですね」「ええ、そうです。お願いします」「わかりました。じゃあ、一二月一日の日付で残りの融資残高二九五〇万円の小切手を切ってください。そうすれば本日の五〇万円は受け取りましょう」  何てことだ。一二月一日に全部耳を揃えて返せだと。  緊張の糸が、ここでぷっつりと切れた。  ぼくは、銀行が用意した紙にサインをした。五〇万円は受け取られ、とりあえず不渡りは回避した。そして同時にハイパーネットの Xデイが決まった。サインした小切手は二九五〇万円。そんなカネ、どこを見渡してもあるわけがない。  実は以前から、この銀行はぼくがどこかに個人資産を隠しているのではとしばしば追及してきた。会社の状況をいくら説明しても、うちから借りている三〇〇〇万円ぐらいは個人で持ちあわせているに決まっていると主張していた。もちろんぼくにそんなカネはない。三〇〇〇万円はおろか三〇万円もなかったのだ。  そう話すと、銀行の担当者は、それなら資産がない証拠を出せという。いったいどこの世界に資産がないことを証明する方法があるだろうか。むろん、彼らはぼくに三〇〇〇万円を返してもらう権利があり、ぼくは彼らに三〇〇〇万円を返さなければならない義務がある。すべては義務を果たしていないぼくの責任なのだ。  いずれにせよ、終末の日は決定した。  この頃、当社の取引先から奇妙な情報が寄せられた。当社が不渡りを出したというのだ。そんな事実はなかった。どこからそんな情報を得たのかとその取引先に聞くと、ある有名経済誌の記者が当社の複数の取引先に電子メールで「ハイパーネットの不渡りについて意見を聞きたい」という質問状を送ったということだった。  ぼくはすぐに、その経済誌の記者の出したメールのコピーを受け取り、同誌にクレームを入れた。当然なしのつぶてである。当社には営業妨害や名誉毀損などの訴訟をする時間も金もなかった。むろん彼らはそれを承知の上でやっているのだろう。  またちょうど同じ頃、ぼくの電話に住友銀行の調査部と称する人間から電話があった。この男はぼくに対して、当社が和議を申請したとの情報を得たというのである。おかしい。それがもし本当ならば、取引銀行がそんな情報を知らないわけがない。問い詰めると、男はいきなり電話を切った。住友の名をかたった嫌がらせ電話である。  当社の社員が大勢、再就職先を探していて、ぼくの知り合いの会社に集団でやってきたという、嘘か真かわからない情報も入ってきた。  自宅にも妙な電話が夜な夜なかかってきた。仕事に追いまくられていたこの当時、ぼくが家に戻るのは夜中の一二時をとうに過ぎていたのだが、そんな遅くに何本もの電話がかかってくる。受話器を上げる。と、同時に切れる。こんなのが毎夜続く。どう考えても嫌がらせであった。  さらに自宅には、個人保証をしているぼく宛に金融機関からの内容証明が毎日届く。もちろんぼくにはそれに対する資産なんて何もない。  いずれにしても、もはや残された手だてはなかった。一時は心機一転増資に走ったぼくだったが、もはや気力はなかった。当社の負債の九〇%は銀行やリース会社のものだった。ところがその銀行が、ぼくが必死で実現しようとした改善策、延命策を絶ってしまうかのような措置をとる。その繰り返しだった。助けようとしている人間に首を絞められているような気分だった。  生まれてこのかた、一度も思ったことのない感情がぼくの心の隅に宿り始めた。  ―――はやく、死んで、しまいたい。  それでも、まだ経済的にも肉体的にも死を遂げるわけには行かなかった。会社もさることながら自分のプライベートにおいてもさまざまな問題が山積みだった。まず家賃の滞納。だから引越しをしなければならないけれどその費用がない。個人の電話料、食費……会社とはケタが違っていたが、こうした問題はぼくの個人生活を直撃していた。  ぼくは疲れきって帰宅した。いつものように二匹の犬が大歓迎でぼくの帰宅を迎えてくれる。彼らには今のぼくの状況を理解してもらうことは不可能だ。むしろその無邪気な姿がぼくを少しだけ励ましてくれる。  問題は九六年一月からこの家で一緒に暮らすようになった彼女だった。  付き合ってから一年はすばらしく楽しい日々が続いた。ぼくにとって初めての家族だった。かわいい彼女と二匹の犬。自宅でのカラオケ大会。映画鑑賞。フェラーリでのドライブ。夏には犬を連れて家族全員でキャンプ。もちろん釣りも一緒に行った。それらの幸せな生活も会社の状態とともに徐々に崩れていった。「殿。もう食費がない」彼女はつかれきって帰ってきたぼくにこういう。「ああそうだったね。それじゃ、これ」ぼくはそう言って、財布の中から一万円札を彼女に渡す。「それから、保険料の支払いが遅れてるの」「ああそうか、いくら」  ここ数カ月、毎日このような話が続いていた。彼女に罪はないが、このころのぼくは、別の言葉を彼女に期待していた。慰めて欲しかった。励まして欲しかった。  でも無理はない。ここのところ会社の状況に押されていたせいか、彼女に対して何もしてやれなかった。それどころか、ときには彼女に対して暴言を吐いたこともあった。「あのお」、犬とじゃれていたぼくに、彼女が言いにくそうに切り出した。「何?」「私、殿の怒鳴ったりするところが、あんまりすきじゃないから、ちょっと考えさせて欲しいの」「えっ」  予想していなかったわけではないが、とどめの一言だった。  確かにそれも彼女の本当の気持ちであろう。しかもぼくは彼女の母と妹の生活費も援助していた。それも滞りはじめていた。これでは、彼女が逃げ出す

のもしょうがない。「考えるぐらいだったら、もう別れよう」  ぼくは、きっぱりと整理したいという気持ちをこめて、そう言った。そう、ぼくにしても、会社で必死に資金調達に動いている彼らと、彼女の気持ちの落差に満足できないでいた。もちろん彼女にはそんな義務はない。しかし当時のぼくはそれを納得できないでいたのも事実だった。  ぼくには究極の状況でぼくを支えてくれる人がいないことを実感した。そしてそれは結局それまでのぼくがいたらなかったせいだということもわかっていた。会社を早々に辞めた社員にしても、この彼女にしても同じだった。ぼくの配慮が足りなかった。  まさにそのつけがぼくに回ってきたわけだ。  次の朝、ぼくは引越しサービス会社に電話をした。数日後、ぼくの荷物(といっても釣り道具くらいだが)と犬はぼくの実家に、彼女の荷物と彼女は、彼女の母親の部屋へと去っていった。  白金の家ともこれでおさらばだ。ぼくは最低限の荷物を旅行カバンに積め、友達の部屋やホテルなどを転々とすることにした。一五年前、浪人時代に父親と喧嘩して、家を飛び出たときと、同じ境遇に戻ったわけだ。一一月も下旬にさしかかる頃だった。

[第 5章]倒産   1997年 11月 ~ 12月  ぼくは、完全に神経がやられてしまった。  もはや正常な心を保つには、すべての意志や野望をすべて捨て、ハイパーネットという会社をひとごとのように客観的に見ることにして、自分自身と切り離すしかなかった。  ぼくはこの会社の全責任を負っていた。債権者、株主、従業員とその家族、取引先……。会社がつぶれれば、これらすべての関係者に迷惑をかけることになる。まさに自分の招いたことだ。重い。あまりに重い。  会社がつぶれることで周囲に与える影響をまともに考えれば、ぼくは狂い出すかもしれなかった。だからこそ、あえて冷静にこの会社の状況を考え、適切な判断をしなければならなかった。  一一月下旬。ぼくや森下をはじめとするハイパーネット当事者の話は、外部の関係者にとって何の説得力もなくなっていた。  最後に期待していた例の華僑からの連絡はなかった。増資プロジェクトは、口頭でイエスを伝えてきた会社からも申し込み書類は届かなかった。リードインベスターが決まらなかったから当然である。  社員はまだ何人か残っていたが、ぎりぎりまで営業や開発の努力をする者もいた一方で、再就職先を探していたり、連絡のほとんど取れなくなった者もいた。  相変わらず銀行は連日アポイントメントもなしに来社してきた。  当社に対する風当たりは、それだけでも当社を倒産に追い込むほどの状態になっていた。広告代理店からは、当社の経営不安を理由に IMSサービスの同業他社への移管要請があった。さらに、海外における実績をニュースリリースとして発表するが、以前と異なり、どのマスコミも扱ってくれなかった。リリースを送付した一〇〇社近い媒体のどれもが記事を扱わなくなった。そして、ぼく宛のわけのわからない電話が毎日何本も入った。  もはや回復不能であった。  一一月二二日土曜日。ぼくは友人の家で目を覚ました。いや、正確にいうと携帯電話でたたき起こされたのだ。 「……もしもし?」「あ、やっと出た。俺です。森下です。いったいどこにいるんですか」  昨日の酒がまだ抜けていない。このところ、寝る前にはかならず強い酒をストレートで飲む習慣がついていた。酔っ払わないと眠れないのだ。素面のまま布団をかぶると、さまざまな悩み事が曼荼羅図のようにぼくの頭の中にひしめきあう。いろいろな人の顔が浮かぶ。悔恨の思いと絶望感が交互に現れる。こうなるともう駄目だ。夜明けまで一睡もできない。かくして酒の力を借りる。あと一カ月この状態が続けば、ぼくは立派なアル中になれるだろう。「友達のとこだよ」、すえたウイスキーの臭いをぷんぷんさせながら、ぼくは携帯電話に話し掛けた。「で、なんだよ。こんな朝早くに」「朝早くじゃない!  もう昼ですよ」森下はあきれて、こういった。「つぶれたんですよ」「は?  なにいってんだ。うちはまだつぶれちゃいねえぞ」  森下が叫んだ。「違いますよ!  山一、山一証券がふっとんだんですよ!  ほら、テレビでいまやってますよ」  友人はすでに外出したようだった。ぼくは部屋の隅の一五インチテレビのスイッチを入れた。  おそらく朝のしかも早い時間の映像だろう。普段ならば閉まっているはずの土曜日の薄暗いオフィスビルに、スーツ姿の男たちが次々に吸い込まれていく。追いすがるカメラとレポーターのマイク。手で遮りながら、扉の向こうに駆け込む社員。 「――というわけで、山一証券本社前からの映像でした」画面がスタジオに戻った。昼のニュース番組だ。もうこんな時間なのか。  ぼくはそのまま、ぼおっとニュースを眺めていた。電話の向こうで森下がいった。「日経のスクープみたいっすね。テレビじゃ朝からずっとやってましたよ」  いったん電話を切り、テレビをつけっぱなしにしたまま、カギもかけずに部屋を出て近所の駅まで歩いていき、売店で日経新聞とついでにポカリスエットを買ってきた。『山一証券、自主廃業へ、負債三兆円、戦後最大――顧客資産保護へ日銀特融』  日経新聞はこんな見出しを大きく掲げ、一面、社会面、それに経済面をたっぷり使って、山一が事実上倒産することを詳細に伝えていた。ぼくは、新聞をなめるように読んだ。テレビでは、本社前の緊急通勤風景を繰り返し放映していた。  山一の経営破綻報道を見て、読んで、このときぼくはどう思ったか。不謹慎かもしれないが、正直に書こう。ぼくはこう思った。  ――もういいや、倒産しても。  人間、本当にせっぱつまると案外つまらぬことを考えるものだ。でも、ぼくは心底こう思ったのだ。もういい。もうつぶれてもいい。あの山一がつぶれちまうんだ。おれがつぶれたって別におかしくない。  肩の力が抜けた。ぼくの中で、実にあっさりと決心がついた。  ぼくと森下は、森下の知人の紹介で西村総合法律事務所の大岸聡先生を訪問した。  ハイパーネットを法的に「処分」するためである。  弁護士は非常にクールである。ぼくたちは当然経験の無いこの状況について細かく質問をし、懸念される点について意見を言った。たとえばそれは当社の倒産によって IMSのクライアントが非常に多くの被害を受けることなどだ。  しかし大岸先生は冷静だった。当たり前である。彼はそんな会社を数限りなく知っている。建設会社が倒産したことによってビルの建築が途中で放棄され、何年も放置されているようなこともよくあることだという。  確かに、我々はもう考えを変えなければならなかった。これまでは、どうやって成長するかという思考に支配されていたが、今度は、どうやって片づけるかを考えねばならない。  この時点でぼくたちに残された決定と作業は、和議を申請するかそれとも自己破産にするかという判断、そして債権債務の詳細なリストを作成する作業である。  弁護士からの注意事項がいくつかあった。それは和議にしても破産にしても、その機密が非常に大切だということだった。つまり会社の倒産を目前にして、特定の債権者に対して会社の資産なりの回収を急がせたりするような行為に発展しないように、我々役員以外の誰であろうと、当社が和議なり自己破産

なりの準備をしているという情報を漏らしてはならないということだった。最悪の場合には刑事事件になる可能性があるという。  ぼくたちは、社内にも社外にもそれが漏れないように努力した。しかしそれは非常に難しいことだった。金融機関からの質問に対して、社員からの質問に対して、いったいどう答えればいいのだろうか?  破産もしくは和議申請を検討していることを言えないとすれば、増資がうまくいっているとでも嘘をつけというのだろうか。給与をここ数カ月受け取っていない社員からの質問に、明日払うとでも嘘をつけというのか?  ぼくと森下はなるべく債権者などとのコンタクトを避ける以外なかった。  法律事務所に行った翌日から、毎日数回の取締役会を開くことになった。  いよいよ店じまいの準備である。いずれにせよ社員や外部に知られてはまずかった。  大内は、信頼できる彼女の部下といっしょに債権債務表の作成を始めた。幸い当社はナスダック公開のための監査を受けていたので、この作業はさほど時間のかかるものではなかった。すでに資料がしっかりあったのである。  森下、筒井それにぼくは、和議か自己破産かを検討していた。  和議に賛成なのは森下だった。とにかく彼は粘り強いのである。どんな状況であれ、可能性を追いかけるのである。一方、ぼくと筒井は自己破産が妥当だと考えていた。それは IMSがあったからだ。和議申請をしても、 IMS関連の支払いができなければ、サービスが停止してクライアントから損害賠償請求を受けることは明白だった。  当時 IMSは一〇〇近いサービスを動かしていた。その中には多額の広告宣伝費を使ったキャンペーンの受付も含まれている。これらから想像される損害額は相当のものとなり、和議申請後もどんどん債務が膨らんでいく可能性があった。  もし当社が二四時間サービスの事業をしていなければぼくも和議を検討しただろう。しかし、和議の方向で話を進めれば、実際に再建可能かどうかはともかく、おそらくいったんサービスを止めなければならない。そうなると、二四時間サービスを活用しているユーザーたちに迷惑がかかるのは目に見えていた。ならば、破産を申請して、事業そのものをどこかに買い取ってもらい、サービスを止めないですむ道を選んだ方が、まだ良心的なように思えたのである。  問題は、破産のための費用である。裁判所への予納金と弁護士事務所への報酬をあわせて一〇〇〇万円の現金が必要であった。破産するにも金が要るのである。このころの当社にとって一〇〇〇万円は非常に大きな金額だった。現金があるわけがない。広告代理店からの売り上げは銀行で止まってしまうからだ。  それに和議となればさらに一〇〇〇万円ぐらいの費用が必要だった。  ぼくは自己破産の道を選ぶことを決定した。あとはそのための現金を作るしかなかった。大内は、前もって代理店からの振込口座を当社に対する債権のない銀行に変更していた。大きな代理店ではこの口座の切り替えに時間がかかる。だから小さな代理店からの売り上げを集めることで、この破産費用に当てることができた。  一一月下旬は、破産費用の調達が役員たちの仕事の一〇〇%を占めていた。  最後には特許出願権を売却しようとも考えた。ぼくは当社の特許に一番関心を持っていたマイクロソフトに打診をした。古川会長に一回お会いして事情を説明したが、その後連絡はなかった。どうやら脈はなさそうだった。  日本興業銀行の担当者ともしばらくぶりに話した。お互いに疲れていて、むしろ落ち着いた話し合いだった。この担当者の話では、興銀の内部では、ぼくの個人保証をとったことが今ごろになって問題になっているという。個人保証があると会社が倒産したときに融資額を特別損失扱いにできない。そしてそのときぼくが逃亡したらどうするのか、ということだった。銀行は、もはやぼくが夜逃げすることまでを想定しているのだ。当然の話だろうが、さすがに悲しくなった。何があっても逃げません、そういうのが精一杯だった。  一一月二五日のことだったと思う。当社を最後まで応援してくれていた NEDの担当者から面会の約束が入った。当日集まったのは、 NEDの担当者、親会社の長銀の担当者、そして長銀出身の古川加ト吉取締役である。  古川取締役が口を開いた。話はこんな内容だった。ハイパーネットの債権者の中で一番総額の大きいのは長銀グループである。そこで、ハイパーネットが立ち行かなくなる前に、特許出願権やユーザーデータベースなどの資産を加ト吉に譲ってほしい――。「それはできません」  ぼくは余計な理屈や説明を一切しなかった。長銀グループが多額の債権を当社に対して持っているのは事実だったが、倒産がほぼ確定している状況で特定の債権者に資産を譲渡することは、法的にも道義的にもできなかった。それに加ト吉がここで出てくる理由がぼくにはよく飲み込めなかった。加ト吉の加藤会長には株式を一部買っていただいたし、加ト吉からは八月に一億円融資してもらった。それは非常に感謝すべきことだが、今回の話とは別の問題である。  古川取締役はもう一度同じことを繰り返した。  ぼくも繰り返した。「それはできません」  結局首を縦に振らないまま、彼らには引き取ってもらった。  その日の午後、長銀は当社の取引先に対して、売掛金の債権譲渡の通知を送った。  債権譲渡通知というのは、当社に対して銀行が債権を持っているが、それが回収できない可能性が高い場合、当社が取引先に対して持っている債権(つまり売り上げ)を当社へ支払わずにその銀行へ支払うように要請するものである。つまり長銀は、当社が倒産する可能性が非常に高いことを当社の取引先に知らせたわけだ。  ぼくたちにとっては死刑宣告にも等しかった。が、不思議と感情が湧き上がってこなかった。言うまでもない。もはやこの会社は死んだも同然だったからである。  ここで蛇足のような話を一つ。  九七年一〇月三一日。アスキーがネットワークサービスから撤退する旨が大きく報道された。当社のハイパーシステムを利用する「アスキー・インターネットフリーウェイ」を一二月二四日(偶然にも当社が東京地裁から破産宣告を受けた日である)に、有料の「アスキー・インターネットエクスチェンジ」を翌九八年一月二四日に、それぞれサービスを打ち切る――日経新聞にこう報じられているのを見て、ぼくは正直ほっとした。  彼らのほうから業務を停止してくれたからだ。前にも書いた通り、当社の支払いの中でアスキーに対するメディア料の比率が一番大きかったのだ。当社はすでに OEMをはじめとするライセンス事業にその方針を切り替えていたから、できればアスキーのプロバイダー事業は契約をやめたかった。それを向こうから止めてくれたのである。

 一二月一日、月末の売掛金の中から破産費用を調達することができた。  財務担当役員の大内が、取引先からの入金口座を借入れのない銀行に変更してくれていたのである。破産申請日は明日、一二月二日と決まった。  ぼくはこの時から会社へいくことを止めた。それは、先にも書いたように押し寄せる債権者に破産のことを口にはできないし、かといって嘘を言うわけにもいかなかったからだ。  ぼくは一人で都内をうろついていた。いろんな思い出が繰り返し頭をよぎった。人間が死ぬときに、思い出が走馬灯のように走るというが、このような感覚なんだろうか。  街並みと自分との間に大きな溝があるように感じた。ぼくだけが別次元の生き物で、透明なまま、街を歩いているようだった。仮にぼくがそこにいる人に話しかけても、返事が返ってこないように感じた。  一二月二日、会社にいる大内から電話が入った。  会社の電子ロックの外には大勢の、多分三〇人ぐらいの債権者や取引先、それに新聞記者が来ているという。しかし弁護士はまだ裁判所に申し立てをしていないので、張り紙ができない。  大内の報告では、外に立った連中はぼくや大内の名前を叫んでいるらしい。中には女子社員の胸倉をつかんで罵声をあびせるものも出たという。  ぼくは現実から目をそむけたい気持ちでいっぱいだった。これまでのぼくは常に自身が感じる恐怖から逃れるために、むしろ現実に正面から向き合ってきた。そうすることで恐怖を恐怖と感じなくなるし、現実的に前進することもできたからである。  しかし前進というモチベーションを失ったぼくにとって、現実から目をそむけることはむずかしくなかった。しばらくして弁護士が裁判所へ自己破産の申し立てをしたことを聞いた。社員が張り紙をした。債権者はそれぞれに破産者代理人の連絡先をメモにとり、帰っていった。  ぼくはもう当事者でなくなった。当事者の能力が無くなったのである。あとは裁判所と管財人の指示の通り作業をこなすだけだ。  ぼくの一五年間にわたる起業家人生の節目であった。  金融機関がこぞって当社への融資を開始して、その残高がピークを迎えたときから一年も経っていなかった。  森下は最後まで、増資や身売りの話を模索していた。  筒井はクライアントへの損害を最低限にするために必死でサービスの移管を進めていた。  大内はぎりぎりまで時間稼ぎのための作業をしていた。  西沢さんは例の大日本印刷の提携話がなくなってから役員を辞任して、それから会社には来ていなかった。  当社に人生の夢を感じていた一部の若き従業員は、失望を隠せないでいたが、それでも自己破産というプロジェクトでさえも結構真剣に取り組んでいた。技術部門の従業員は目の前のバグと最後まで戦っていた。営業部門の残った従業員は、会社の状況をクライアントに聞かれるたびに、適当にごまかしながら、それでも少ない受注を取っていた。  そして、ぼくは途方にくれていた。少し前の流行り歌のタイトルのように。  一九九七年一二月三日。日経新聞の夕刊の三面にこんな見出しの小さな記事が載った。『負債三七億円、ハイパーネット、自己破産を申請』

[エピローグ]再び、 1997年 12月 24日  スピーカーからぼくの名前を呼ぶ声がした。  まるで市役所に住民票を取りに来たときのような平板なアナウンスである。違うのは、呼ばれたときに「恥ずかしい」とこちらが感じてしまうことだった。ここで「イタクラユウイチロウ」と名前を呼ばれるのは、破産を公表されているのと同じだからだ。  弁護士のあとについて、ぼくは破産課に入っていった。カウンターで自分の名前とサインをすると、奥の部屋に案内された。どこの会社でも見かける無表情でそっけない会議室のような部屋だった。  安物の折り畳み机と椅子が安物のパーテーションで区切られた部屋にあり、ぼくは弁護士の指示でそこに着席した。しばらくすると裁判官が部屋に入ってきた。まだ若い。おそらく同世代だろう。  ぼくは、裁判官という人種とどのように接してよいかわからなかった。当社の債権者でもないので、ぺこぺこするのも不自然だし、だからといってこの状況のぼくがふんぞり返るのもおかしい。とりあえず、普通に振る舞った。  いくつかの質問に対してぼくは淡々と答えていたが、突然その裁判官が怒鳴り出した。「君は一体何を考えているんだ!  ここにくる社長たちは、みんな涙を浮かべて債権者のために一円でも、というのに、君の態度はいったいなんだ!」  びっくりした。  ぼくは何人もの倒産した社長を知っている。でも、この裁判官の言うような「殊勝な」社長は見たことがなかった。破産者が裁判所で涙を浮かべるのは冠婚葬祭の儀式のようなものなのだろうか。どうやらここでは「すまなそうな」態度をとらなければいけないようだ。  実際この段階でどうあがいても、当社の債権者に多くの配当を期待できないことをぼく自身はよくわかっていた。泣き言まじりの態度をとったところで、ぼくの罪や債務が減るわけでもないし、債権者の配当が増えるわけでもない。でも今のぼくに反論できるものはなにもなかった。  説教が終わり、ぼくは、弁護士とともに部屋をあとにした。  霞ヶ関の雰囲気は大嫌いだ。もともと嫌いなうえに、今のぼくの感情がより一層この場所を嫌いにさせる。でもこれから何度かこの場にこなくてはならない。それを考えると憂鬱だった。  階段を降り、地下鉄日比谷線に乗った。  銀座方向に向かう列車は混んでいた。若いカップルがやけに目立つ。笑い声がする。クリスマスのあの浮かれた空気が車内に満ちていた。ぼくはますます憂鬱になって、空いた席に腰掛けた。  向かいの席に若い女性が一人座っていた。  黒のストッキングに包まれた脚を奇麗にそろえ、青山ブックセンターのカバーのかかった本を読んでいた。栗色の長い髪とはっきりした眉と二重の大きな瞳のせいで白い顔が余計に白く見えた。灰色のニットのワンピースの上に薄手のコートを羽織っていた。  ぼくの好みだった。もちろん赤の他人だ。だがその容姿から想像する彼女が、いまのぼくには理想の女性のように思えた。ぼくはしばらく彼女を眺めていた。ぼくに気づく風もなく、彼女は熱心に本を読みつづけていた。  先ほどまで頭の中を占めていたここ数年間の出来事が、いつのまにか蒸発したように体から抜けていた。ぼくの頭にあるのは、いま目の前で本を読む見知らぬ彼女だけだった。なにかが沸き上がってきた。  あんな女性をもう一度手に入れられるような勇気が、力が欲しい。  まるで小学校のとき、恋に目覚めて勉強を真剣に始めたときのように、無一文のぼくの中にある種の感情が芽生えていた。  もう一度はじめよう。とにかく前に進もう。  電車が東銀座駅につくと、見知らぬ理想の女性はぼくの前を通り過ぎ、降りていった。降り際に一瞬目があったような気がした。改札の方に向かってやや足早に歩いていく彼女を、ぼくは動き出した列車の窓からずっと眺めていた。

追記  第一回債権者集会   1998年5月 11日  最後に、債権者集会の話をしておこうと思う。  ハイパーネットとぼくの管財人は弁護士の田中早苗先生に決まった。破産宣告のときに、はじめて先生と会った。柔らかい感じの方だった。  破産宣告からしばらくの間、ぼくは管財人である田中先生からの質問や出頭に対する準備にひたすら追われていた。そして一カ月に二、三回程度、田中先生からの質問の電話をいただく。ぼくは知っている限りのことを話す。財務の細かな部分についてはぼくに対して質問はほとんどなかった。というよりぼくに聞かれてもわからないことばかりだから、この手の数字に関しては財務を担当していた大内が対応してくれた。  他にやることはなかった。時間はあっても金がない。ぼくは十数年振りに父親の家に身を寄せ、ここ数年の出来事をひたすらメモにしていた。  倒産から五カ月後、九八年五月一一日。  破産宣告のときから決まっていた第一回債権者集会の日である。ぼくは久しぶりにスーツを着て東京へ向かうことになった。行き先は、何度となく通った霞ヶ関の東京地方裁判所である。  この日を迎えるまで、債権者集会でいったい何が起きるのか、ぼくは心配でならなかった。夜中に夢にうなされて飛び起きることもあった。気持ちを少しでも整理するために、そして落ち着かせるために、ぼくはさまざまな「倒産物」の本を読み漁った。  本の多くはいわゆる「中小企業」のおやじさんの倒産物語だった。主人公や著者の方々は、このときのぼくと同様、「債権者集会」を大変恐ろしい地獄のさばきを受けるところと思っていたらしい。しかし、彼らが直面した実際の債権者集会は、参加者ゼロかせいぜい数人。ほとんどの債権者は顔を出さないという話であった。質問もなければ発言も強要されない。ほんの数分間で終わるまったくの儀式だということだ。それもそうだろう。破産してしまった人間から何も取れるわけはない。  こういった「実話」を読んで、ぼくはやや安心した。  その日は春風が時折ほほをなでる、とても穏やかな日だった。ぼくの混乱している心中をこの陽気が少なからず落ち着かせてくれた。  開会の三〇分ほど前に東京地方裁判所に到着した。建物の一階には、「破産者株式会社ハイパーネットおよび破産者板倉雄一郎債権者集会」という張り紙とともに集会の場所が案内されていた。  裁判所の入口を抜けると、急に不安に襲われた。自分が破産者であることをはっきり思い出した。  ぼくは周りに注意を払いながら、部屋へ向かった。後ろが気になってふと振り返る。もう一度前を見る。背広姿の中年男が前を歩く。あれ、ひょっとして債権者の人では……。違った。なにをびくびくしているんだ。たとえ債権者が横にいようと、東京地方裁判所でいきなり胸倉をつかまれるわけじゃない。そう自分に言い聞かせてエレベーターに乗った。  エレベーターには数人の男性が一緒に乗り込んだ。扉が閉まり、上昇し始める。皆がぼくをにらんでいるような気がして、思わずうつむいた。エレベーター独特のあのいやな〝間〟といやな沈黙といやな空気が、密閉された小箱に充満した。目的の階につくまでのおよそ十数秒が永遠のように長く感じられた。  債権者集会の部屋にたどり着くと、入り口にはすでに何人か顔見知りの人たちがいた。労働組合を結成した幾人かの社員。金融機関の担当者。一瞬動悸が高まったが、ぼくは腹をくくって歩いた。何を言われてもしょうがない身分だ。誰かがもし何かを言ってきたら、誠意を持って謝るしかない。  誰も声をかけなかった。それどころか目が合っても皆背けてしまう。挨拶する人もいなかった。なるほど、そういえば債権者集会では債権者と破産者との直接のコミュニケーションが禁止されているんだ。ぼくは読み漁った本で得た情報を思い出した。  管財人の田中先生。そしてハイパーネットとぼくの代理人である大岸先生。それぞれの弁護士に挨拶をして、ぼくは部屋の中に入った。  その部屋は、ぼくのそれまでかき集めた債権者集会のイメージとはかけ離れていた。裕に三〇〇人は入れる部屋で、前には端から端まで一段高くなった裁判官用の演台まである。その上にこれまた端から端まである長い木製のテーブル。まるでアメリカ法廷映画の舞台となる「公聴会」に出て来そうな部屋だ。ぼくとぼくの代理人が座るべき場所は、一番前の演題のすぐ下。入り口側に用意されていた。もちろん債権者の方を向いた席である。  ちょっと待てよ。「本」で読んだのと話が違うじゃないか。  とりあえず大岸先生から渡された債権者からの債権の申し立てというリストに目を通して、いや、それに無理やり集中することで、自分の気持ちを落ち着かせるしかなかった。ぼくは、債権者からの届出の総額を見た。  五九億六四〇〇万円。  ぼくが把握している当社の債権総額は、新聞でも報道されたように三七億円。それだけでもぼくにとっては天文学的な数字なのに、ここではさらに倍近くに膨れ上がっている。いったいどういうことなのだ?  リストを細かく見ていくと、とんでもない額の債権を主張している企業がいくつかあった。要するにもしハイパーネットが継続的に事業をしていた場合の予想される利益を債権として届け出ている企業があるのだ。もちろんこんなケースは管財人からの「異議」があった。  それに対し、当社の財産目録を見ると、財産の価格総額は一五億円あまり。売掛金およそ三億円。貸付金およそ三億円(これはほとんどハイパーネット USAの貸付なので財産価値はほぼゼロ)。その他什器備品や有価証券などである。確かに額面では一五億円だが、実際の評価額はわずかに五〇〇〇万円ほど。金融機関の担保になっていたり、売却とともに価値が減るものばかりだったからである。  債権届出リストを見ながら途方にくれていると、隣に座っている大岸先生が言った。「板倉さん、これだけの人に損害を与えたんだから、罪は重いよね」  ぼくは黙ってうな垂れた。ふと人の気配を感じて、顔を上げる。目の前には五〇人。いや一〇〇人を超える債権者がすでに着席していた。「倒産物」の本で読んだのとはえらい違いだ。ぼくが債権届出リストに夢中になっている間にこの部屋に入ってきていたのだろう。知っている顔が何人も見える。目線が合う。あわててぼくは下を向いた。  裁判官が第一声を発した。「それでは、これから破産者株式会社ハイパーネットと板倉雄一郎の債権者集会を始めます」  それから数分間、管財人からのレポート、裁判官からの二、三の決議を経て、債権者集会はあっけなく終わった。ぼくはその内容をほとんど覚えていない。ただただひたすら下を向いて、耳を意識的にふさぎ、自分のぬぐうことができない罪と戦っていた。  気がつくと債権者が腰を上げ、ぞろぞろと帰って行く。それもぼくの座っているテーブルの前を通って。ぼくは顔を上げることができなかった。ぼくの目には債権者の腰から下しか見えなかった。それでもほとんどの債権者がぼくの前でいったん立ち止まり、こちらをじっと見下ろしていくのがわかった。  脈が速かった。おそらく血圧も上がっていただろう。顔が火照ってくる。でも顔を上げることはできない。以前のぼくならば、たとえどんな罪を犯そう

とも、顔を上げ、胸を張っていたはずだ。しかしこのときのぼくの体は動こうとしなかった。何人かが、ぼくに挨拶してくれた。と思う。でもよく覚えていない。返事もまともにできなかった。  すべての人が部屋から出たころ、隣に座っていた大岸先生が言った。「板倉さん。行きましょう」「あっ。はい」  ぼくはそう言って、先生の後をついて部屋を出た。ちょっとした管財人との会話の後、ぼくは裁判所を後にした。地下鉄に乗り、帰途についた。

あとがき  株式会社ハイパーネットは、一九九七年一二月二四日、クリスマスイブに裁判所より破産宣告を受けた。負債総額約三七億円。そしてぼく個人も九八年一月二三日に破産宣告を受けた。いわゆる自己破産だ。負債総額二六億円。そのほとんどが会社の借り入れの個人保証である。  残されたのは膨大な時間だった。ぼくは、自分が起業してから倒産するまでの詳細な記録を残すことにした。以来一〇カ月ようやく書き上げたのが本書である。こんなにも長い文章を書くのは、もちろん生まれて初めての経験だ。  今回の倒産でぼくは多くの企業と人々に迷惑をかけた。今でもときどき投資家や債権者の方々に責められる夢を見て、夜中に飛び起きることがある。本当にお詫びのしようもない。一つの会社をつぶすということがいかに他人に影響をおよぼすのか、ぼくは身を持って知った。自己破産でゼロの状態に戻ったぼくだが、この「罪」は一生背負っていかねばならない。  そんな「罪」を背負った人間がこのような書籍を出版することに不快感を持つ人もいらっしゃるだろう。もちろん周囲からは反対もあった。ある著名な経営者は、ぼくにこう言った。二度とビジネスの表舞台に立てなくなるぞ――。自分の失敗をねたに、債権者や関係者への悪罵を連ねるのが本を出す目的だろう、こう思われる方がいてもおかしくはない。  しかし、ぼくは倒産の恨みつらみを晴らすがために本書を執筆したのではない。では、なぜ書いたのか。  ハイパーシステムを思いついた九五年秋のことだ。本文でも触れた通り、ぼくは人に教えられて「シリコンバレー・アドベンチャー」という本を読んだ。  著者のジェリー・カプラン氏は、ペン入力の小型コンピュータのアイデアを思い付き、会社を設立してコンピュータ業界で一気に名をはせる。が、そのアイデアを狙って、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長や当時アップルのトップだったジョン・スカリー氏など業界の大物、 IBMや AT& Tといった大企業が取り囲み、数年のうちに彼の会社は吸収合併という形で消失する。同書はその過程をカプラン氏自身の言葉で丹念に描写していた。  読書の習慣がほとんどなかったぼくが、偶然手にしたこの本に関心を覚えたのは、その内容もさることながら、経営者であるカプラン氏がみずからの失敗体験をわざわざ書籍のかたちで公表している、という点であった。 M B A取得者の社員に聞いてみると、米国のビジネススクールでは事業に失敗した経営者が「講師」となって自らの経験を語る授業が珍しくないらしい。またカプランのように本を執筆するケースも多いという。「経営者の失敗」をケーススタディとして伝承する文化が米国の社会にはある――、そこにぼくは強く興味を引かれた。  自己破産を申請し、事実上倒産が決定した九七年一二月、ぼくは二年前に読んだこの本のことを思い出した。そしてすぐに決意した。ここに至るぼく自身の経緯を文章に綴ってみよう――。  新聞や雑誌にはハイパーネットの倒産に関してさまざまな記事が載った。ほとんどの記事では、倒産の理由としてマーケティングの失敗、財務戦略の失敗、そして提携先のアスキーのプロバイダー事業撤退の三つを挙げていた。一流企業の広告主にこだわったがために思うように広告が獲得できず、金融機関の過剰融資に甘えたがために貸し渋りに転じたときに資金ショートを起こし、アスキーに頼り切ったがために同社のプロバイダー事業撤退で業務自体が立ち行かなくなった、という説明であった。  右の分析に的外れな部分が多いのは、本書を読み終えた方ならばおわかりになるだろう。マーケティングが失敗したのは事実だが、一流企業に絞ったから広告が獲得できなかったわけではない。ハイパーシステムの広告獲得数はインターネット広告の世界ではトップクラスだった。失敗はむしろ市場全体の成長のスピードを見誤った点にある。金融機関の過剰融資と貸し渋りに関しては間違いではないが、これは九七年から九八年にかけて倒産した多くの企業に共通の理由だ。ここにとらわれると、ほかの原因が見えなくなってしまう。アスキー云々はまったくの見当違いである。同社がプロバイダー事業の撤退を決めた九七年一〇月時点ですでにハイパーネットの倒産はほぼ確定していた。だからアスキーの撤退そのものは倒産と何のかかわりもない。  ハイパーネット倒産を報じる記事を読みながら、ぼくは考えた。企業の成功や失敗から何かを学ぶには、最後に示された「結果」だけに注目するだけでは不十分だ。その「結果」に至るさまざまな過程を丹念に追い、背景にある時代を透視し、分析する必要がある――。  ジェリー・カプラン氏の失敗の教訓をまったく生かせなかったぼくだが、今回のぼくの失敗から何らかの教訓を得てくれる人がもしかしたらいるかもしれない。そう思って、友人が貸してくれた中古パソコンのキーボードをたたくことにした。現在の日本の企業社会に「失敗のケーススタディ」を残す文化はない。この素人文章が、そういった文化を根づかせるきっかけの一つになれば……。  きれいごとめいて聞こえるかもしれないが、以上が本書を執筆した理由である。  執筆という行為を通して、ぼくは当時自分が置かれていた状況を今回改めて冷静に俯瞰することができた。そこで気づいたのが、ハイパーネットの成功と挫折が九〇年代中盤の日本経済に起きた三つのムーブメント――第三次ベンチャーブーム、マルチメディアとパソコンとインターネットのブーム、そして日本の金融市場におとずれた大改革――と連動していたことである。  ハイパーシステムのアイデアが生まれた一九九五年。この年、第三次ベンチャーブームが起こり、さまざまな新興企業が登場した。中でも注目を集めたのが、コンピュータ・マルチメディア関連のベンチャーだ。それは半ば必然だった。ベンチャーブームの背景にはマルチメディア関連の一大ブームがあったからである。ウインドウズ 95が発売され、インターネットの利用が本格化しつつあった。  そんな中、自己改革を図ろうとしていたのが日本の銀行業界であった。大蔵省の庇護の下、横並びの経営姿勢を貫いてきた銀行は、それまで企業への融資を実行するにあたって土地もしくは有価証券といった担保を求めるのが通例だった。銀行にとって融資業務は経営の根幹だが、日本においてはその根底に「土地資本主義」ともいうべき共同幻想が存在していた。バブル経済の一因がこの共同幻想に由来していたのは周知の通りである。  ところがバブル崩壊とともに右肩上がりの地価上昇の幻想は音を立てて崩れた。しかも、軌を一にして米国が閉鎖的な日本の金融市場の門戸開放を強硬に迫ってきた。日本の銀行は融資業務を本来の意味での企業戦略として捉え直す必要に迫られた。横並びの姿勢にメスを入れ、独自の融資基準を設けようとした。かくして大手都銀から地方銀行までが、当時勢いのあったベンチャー、とりわけハイテク、マルチメディア系のベンチャーに融資を実行する仕組みを次々に作り出したのである。知恵はあるがカネのないベンチャーに融資するため、独自に技術を評価したり将来性を予測するシステムを構築、審査に合格した企業には基本的に「無担保」で、銀行は融資を実行した。  ハイパーネットはこうした時代の波に乗った。当時の構図を要約するならば、「インターネット」を利用した新サービス、ハイパーシステムを開発した「ベンチャー企業」ハイパーネット、そのアイデアに銀行が「無担保で融資」を実行した、となろう。しかも、ハイパーネットがこの時代の波に乗ったとき、偶然にも以上三つのムーブメントの波動が重なり波の高さは最高点に達した。結果、ハイパーネットは明らかに世間から過剰なる評価を受けた。ニュービジネス大賞を授与され、ビル・ゲイツ会長がぼくのもとを訪れたのは、まさにその現われだろう。  しかし九七年、時代の波がプラスからマイナスに転じたことで、ぼくとハイパーネットの「栄光」も「挫折」に転じた。マルチメディアブームは一年足らず

で終息し、インターネット広告市場は、当初予想したほど成長しなかった。ベンチャーブームも沈静化した。そして、銀行は第二の改革に手をつけた。国際的にその水準の低さを指摘されていた自己資本比率を上げるために、貸出債権の圧縮に乗り出したのである。いわゆる貸し渋りの始まりだ。インターネット広告の収入が思ったほど伸びず業績が停滞していたハイパーネットは、取引銀行の融資引き揚げ攻勢にさらされた。売り上げをはるかに上回る融資を受けていただけに、ひとたまりもなかった。多額の負債を抱えたまま、九七年末、破産した。  当時を振り返ってみると、ぼくとぼくの会社は、日本における巨大な経済のうねりを世間一般にわかりやすく見せる「狂言回し」の役回りを図らずも演じていたようだ。そして、ぼくがこの狂言回し役となった理由は、そのままぼくの経営者としての成功と失敗の原因でもあった。  そもそも、ぼくは日本の企業社会において経営者を務めるうえで、致命的な欠陥を有していた。「組織」に対する理解がまったくなかったのである。社内人事、社外営業、金融機関との付き合い、広告主との付き合い、マスコミへの対応、そしてプライベートでの振る舞い。どの場面においても、企業や社会といった組織に対する根本的な理解を欠いていたがゆえのミスを、ぼくはいくつも犯してきた。そしてある意味で、これらのミスの集積が倒産につながったといっても過言ではない、と今では思っている。  なぜ組織に対して無理解だったのか。生得的な性格に加え、ビジネスライフをいきなり社長業からスタートしたというのが大きな理由だろう。人に仕えた経験はほぼ皆無。経営していた企業の社員数は、倒産までの数年間を除き、せいぜい十数人程度。結果、ぼくは大組織がどんな論理で成り立ち、その組織を構成する人間が何を行動規範としているかを学ぶ機会を逸してしまった。  ぼくのこの欠陥はしかし、別の角度から眺めると、ぼくが起業家になった前提条件でもあった。大学や大企業に入って組織に組み込まれることに興味を覚えず、あくまで個人としての自分を第一に考え、行動する――。ベンチャー経営者としてのぼくの特質は、組織に対する無知、無理解と表裏一体だったのである。  ハイパーシステムを開発して注目を浴びた一九九五年から九六年にかけ、日本経済の中で起きたさまざまな「ブーム」の根底には、組織の論理を重視する旧来の日本型経営の限界が明らかになり、それに代わる行動規範として個人主義に活路を見出そうという時代の流れがあった――、自分の体験とその後書籍などで得た知識から、ぼくはそのように解釈している。  個人がメディアを持つことを後押しするインターネットの普及、個人が経営の主役となるベンチャービジネスの台頭、いずれも「組織から個人へ」という時代の転換を象徴する出来事だったと思う。さらに象徴的なのは、こうした「個人が主役」の新興産業に無担保で融資を実行する措置を銀行というもっとも旧来型の日本型組織がとったことだろう。  以上の解釈はそのまま、一時的とはいえ都市銀行など大企業の人間がぼくに注目し、評価した理由につながる。銀行や証券会社といった旧来型組織の中で時代の変化に敏感に反応した――例えば住友銀行の国重さんのような――人間にとって、徹底した個人主義で業務を展開していたぼくは、古びてしまった規範や慣習を打ち壊す一種の「ルール・ブレーカー」であり、次世代のビジネスの旗手としての可能性を見出していたのではないか。ハイパーシステムの発表から一年弱の間に二〇億円以上の無担保融資を複数の銀行が実行したのは、その証左ともいえる。  しかしながら、時代は完全に組織至上から個人至上へと移行したわけではなかった。日本人にとって非常に大きなこのパラダイムシフトがそう簡単に完了するはずがない。ベンチャーブームはあっという間に終息し、銀行は自己資本比率の向上と国際競争力の強化という命題を突きつけられ、組織防衛を図らざるを得なくなった。  このように「組織に無理解な個人主義者」板倉雄一郎と彼の会社ハイパーネットは、奈落へと突き落とされた。銀行をはじめぼくを支えてくれていた大企業は、金融の国際化や不況といった壁にぶつかった瞬間、再び組織の論理を優先した。むろん、彼ら「法人」の判断が間違っていたのではない。間違っていたのは、当然ながらぼくの方だ。組織とそこに属する人間が逆風の環境下でどのような行動をとるのか冷徹に予測する必要があったのに、それができなかった。それこそ、ビル・ゲイツのように、個人主義的な自分を見失わずに一方で組織の論理を理解し、企業経営を推進できるだけの技量が、結局ぼくにはなかったのである。  かくしてぼくは、時代の狂言回しとなり、たかだか二年の間に人生の頂点とどん底とを経験することになった。  ここで、九五年から九七年の二年間の日本経済をさらに高みから俯瞰してみよう。インターネット・ブームや金融機関の一連の改革は、そもそもどこから生まれてきたものなのか。そう、いうまでもなく米国だ。となると、これらのムーブメントは、現在グローバル・スタンダードと皆が呼ぶ米国主導型の国際市場の枠組みに対応するための壮大なる試行錯誤だったようにも思える。  そしてその米国における行動原則は、たとえ大組織であろうと最終的には個人が責任を持つ。少なくともぼくはそう思っている。と考えると、この一連の流れはいったい何を意味するのか。  ぼくはまだ自分の経験から何を学べばよいのか総括しきれていない。ただ、本書の執筆で己の挫折の軌跡を辿りながら、ぼくはある時代の終わりと次の時代の始まりを感じた。明らかに時代は変わろうとしている。九七年末に破産してから現時点までの一〇カ月、ぼくのビジネスと関わりのあったさまざまな大企業 =組織が倒産したり、合併されたり、経営不振や経営破綻に陥った。日本長期信用銀行、 NED、日本リース、東食ファイナンス、アスキー……。  そしてぼくの感じた次の時代が現実となるのならば、いつか再びチャンスが巡ってくるのではないか――、自己破産者に転落してからまだ一年もたっていないぼくは、不謹慎にもそんな夢をいま見ている。  本文の人物、団体名は、一部を除き基本的に実名である。人物を実名描写するにあたっては以下の規準を採用した。一般に公人とみなされる立場、著名人であること、上場企業もしくはそれに匹敵する企業の取締役以上の地位についていること、ハイパーネットの役員であること、著者が直接当人に了解をとっていること、以上四つの条件のいずれかをみたした方である。肩書きや名称などは原則として当時のものを採用した。また元ハイパーネット社員に関しては敬称を省略させていただいた。本書の内容は基本として著者が直接体験したことであり、後日当事者から確認できた事象、新聞や雑誌などマスメディアで報道された内容を除き、伝聞情報は極力記さないよう務めた。  なお、本書に対するご意見、ご感想、異論、反論などは、次のホームページアドレスにお寄せいただければ幸いである。   http:// www. fbi. co. jp/ itakura/  最後に、本書を執筆するうえで積極的に情報を提供してくれた森下、筒井、大内ら旧ハイパーネットの役員や社員の方々、事実確認に協力してくれた複数のベンチャー経営者の皆様方に感謝の弁を述べたい。彼らのサポートがなければ、本書の完成は不可能だった。また発表の機会をつくってくれた日経BP社出版局のスタッフの方々にもお礼を申し上げる。  そして、喧嘩同然で飛び出して一五年、文字通り一文無しになって帰ってきた息子を家に上げてくれた父、板倉九十九にも、やや気恥ずかしいが、一言

いいたい。ありがとう。一九九八年一〇月  板倉  雄一郎

付録  ハイパーネット  年表 1991年6月  資本金 1760万円で株式会社ハイパーネットを設立 1992年3月期決算  売上高 1億 5200万円  経常損益 ▲ 2800万円          4月  ハイパーダイヤル  サービス開始 1993年1月  新サービス、 IMSの初受注          3月期決算  売上高 4900万円  経常損益 ▲ 1億 6000万円 1994年3月期決算  売上高 5400万円  経常損益 ▲ 1700万円           11月  日本合同ファイナンス( JAFCO)の出資決定 1995年3月期決算  売上高 1億 6300万円  経常損益 400万円          9月  ハイパーシステム事業の構想を思いつく           11月  住友銀行が 2億 5000万円を融資  その後 1年で 7銀行から約 20億円の融資が集まる           12月  ハイパーシステムの開発チーム発足 1996年2月  アスキーとプロバイダー契約を結ぶ                六本木ベルファーレでハイパーシステムの発表会          3月期決算  売上高 7億 700万円  経常損益 1億 9400万円          4月  ハイパーシステム  テストサービス開始                ソロモンブラザーズからナスダック公開の提案  野村證券も話に乗る          6月  ハイパーシステム正式稼動           10月  ニュービジネス大賞受賞           12月  マイクロソフトのビル・ゲイツ会長と東京で会談                米国でハイパーシステムのサービス稼動 1997年1月  韓国三星グループとライセンス契約          2月  日本長期信用銀行系の NEDなどの力で 6億円の第三者割当増資を達成          3月  取引 7銀行の要請にしたがって、総額 6億円を超す融資をいったん返済。          3月期決算  売上高 7億 8500万円  経常損益 ▲ 9億 8400万円          4月   7銀行からの折り返し融資を受けられず、いわゆる「貸し渋り」に会う          5月  東食の子会社、東食ファイナンスに 3億円の私募債を引き受けてもらう          6月  韓国でハイパーネットコーリアのサービス稼動          8月  各銀行からの融資返済攻勢が始まる                加ト吉から 1億円を融資してもらう          9月  社員の給与遅配           10月  日本リースなどリース会社からの資材回収攻勢始まる                各取引銀行も融資の全面回収方向に                 2回目の給与遅配           11月  法律事務所に会社の処理を相談。自己破産することに決定。           12月 2日  東京地方裁判所に自己破産を申請           12月 24日  ハイパーネットに東京地裁が破産を宣告。負債総額約 37億円 1998年1月 23日  板倉雄一郎に東京地裁が自己破産を宣告。負債総額約 26億円          5月 11日  第一回債権者集会が東京地裁で開催。                    債権者の債権届出総額 59億 6400万円

板倉雄一郎[いたくらゆういちろう]元株式会社ハイパーネット代表取締役社長一九六三年一二月二六日千葉県生まれ。独身。八三年、ゲームソフト会社設立。ダイヤルQ2サービス会社の社長を経て、九一年(株)ハイパーネット設立。九六年にインターネットと広告を結びつけた「ハイパーシステム」を開発。アスキーと提携しインターネット接続無料サービスを展開、注目を浴びる。ニュービジネス協議会の「ニュービジネス大賞」受賞。九七年一二月負債総額 37億円で破産。翌九八年一月、自身も同 26億円で自己破産現在、板倉雄一郎事務所( www. yuichiro-itakura. com)代表。過去の失敗経験から学んだ様々な知識を基に、株式投資や企業経営に関するセミナーの開催、講演、執筆、メディアでのコメンテーターとして活躍中。

社長失格ぼくの会社がつぶれた理由電子書籍版データ作成日   2012年 12月 25日  第 1版著  者  板倉雄一郎発行者  瀬川弘司発行所  日経BP社 © Yuichiro Itakura 1998 ●この電子書籍は、日経BP社より印刷物として刊行した『社長失格  ぼくの会社がつぶれた理由』( 2012年5月 9日発行  初版第 20刷)に基づき制作しました。掲載している情報は、刊行当時のものです。《電子書籍版について》 ●おことわり  本作品を電子書籍版として収録するにあたり、技術上の制約により一部の漢字を簡易慣用字体で表したり、カナ表記としている場合があります。  ご覧になる端末機器や、著作権の制約上、写真や図表、一部の項目をやむなく割愛させていただいている場合があります。また、端末機器の機種により、表示に差が認められることがあります。あらかじめご了承ください。  この電子書籍は、縦書きでレイアウトしています。 ●ご注意  本作品の全部または一部を著作権者ならびに株式会社日経BPに無断で複製(コピー)、転載、公衆送信することを禁止します。改ざん、改変などの行為も禁止します。また、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。

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