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総勢六人、一二坪の工場で創業

総勢六人、 一二坪の工場で創業

現在のスター精密は、 一九四七年、わたしが二〇歳のときに産声をあげた。

そのきっかけは一通の手紙からであった。

当時、三菱重工にいたわたしは、知人の鈴木良一氏から「こんど静岡で仕事を始めたいが、

佐藤君、三菱をやめて手伝ってくれないか」という手紙をいただいた。鈴木氏は、現在のシ

チズン時計の創業役員で、戦争中、同社が軍需部門に進出することに反対して退社、故郷の

静岡に帰っていて終戦を迎えたのであった。わたしといえば、戦後の三菱重工が軍需産業か

ら撤退したこともあり、ナベやカマを作っているような惨めな状況であった。しかも東大卒

や京大卒のエリートがごろごろしていて、わたしのような中卒は、機械の歯車どころかネジ

一本にもならないような寂しさをつくづく味わっていたころであったから、 一も二もなく、

鈴木氏の申し出に飛びついたのである。

どんな事業を始めるのかと意気込むわたしに、これからの製造業のあり方として鈴木氏は

次の二つの提言をした。

一つは、これからは材料をたくさん使う仕事はだめだ。日本は資源がないために戦争に負

けたのだから、これからは材料の要らないような仕事をやるべきだ。

二つ目は、静岡という土地で仕事をする以上、お客さんは東京や名古屋や大阪中心だから、

輸送コストのかからない仕事を選ぶべきだ。

三つ目は、当時、それまで抑圧されていた労働運動が一挙に吹き出していたことを踏まえ

て、これからは人を大勢使う仕事はだめだ、人を使わない仕事を考えないと大変だ、という

ことであった。

そこでわたしは、若さにまかせてあらゆる縁故を訪ね、さまざまな工場を見学し、この三

条件に合う仕事を一生懸命に探し歩いた。しかし、なかなか思うようなものが見つからない。

材料が少なくて輸送コストのかからないものというのは、小さなものと分かりきっているの

だが、人を使わなくてすむというところでひっかかってしまう。カメラも時計も、当時は人

海戦術で、女の子がずらっと並んで組み立てている仕事ばかりであった。

たまたま時計メーカーの工場を見学していて、奥の方の工場へいくと、今でいう自動旋盤

が一〇〇台くらい並んで、数人の作業者が管理しながら小さな部品を作っていた。ああ、こ

れだ、こういう小さな部品を自動的に加工する仕事だ、これなら三条件を満たす、というこ

とで、早速、鈴木氏に報告した。

ところが鈴木氏はいい顔をしない。あとで分かったことだが、用意されていた資金は当時

の金で五〇万円、自動旋盤の機械は一台二七万円もして、しかも最低限の規模でも五台は必

要であったから、金が足りなかったのだ。あれこれ議論を重ねて、結局、五〇万円を担保に

銀行から借り、中古の機械を譲ってもらって、間口三間、奥行四間、 一二坪の木造平屋の建

物を工場にして、とにもかくにもスタートしたのであった。工場を建てる材木も、少しでも

安くあげるためにわたしが自転車にリヤカーをつけて、山の製材所から直接運んだものであ

る。

三年後の一九五〇年、鈴木良一氏を初代社長に、わたしも発起人となって、株式会社スター

製作所を設立、総勢六人の文字どおり零細企業の誕生となった。

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