現代の社長の人生は、大別して二つに分かれている。
ゼロ歳でオギャーと誕生した人生は、二十歳前後まで修行の期間を迎える。これが第一番目の節である。
私たちが、読み。書き。算数ができるのは、学校教育のお陰である。勉強がよくできるに越したことはないが、それは次の時代に決める職業によって大きく価値が異なってくるものである。
学校の教師になりたい、政治家になりたい、スポーツを職業にしたい、芸術家になりたい、役人になりたい、会社に勤めたい、そして、事業や経営をする社長になりたい……という場合、それぞれの職業で修行すべき要素が異なってくる。
実際に、漢字をよく知っているという利点のために実業家よりも教師を選択する場合も起こってしまうし、その方が本人のためには幸福だという場合もある。だから、人生は難しい。
しかし、漢字を他人より余計に覚えていることが教師には利点であっても、社長業にはほとんど利点にはならない。漢字を他人より余計に知っているから売上や利益がその分だけ多く上がることなどないからだ。
ただ、考えるレベルを高めてくれる基本だということを忘れてはならない。また、良い学校、良い友人、良い先生をもつ機会を得るということは、事業人としての人生に大いに役立つものだ。
逆に、学問が良くできても、良い学校、良い会社へ就職するという一般社会の流れを嫌って塾にも通わせないという勇気ある人も希少ながらいる。学校名よりも、学問を取るわけだ。
本田技研の創業者である本田宗一郎氏が、私の主宰する日本経営合理化協会での講演時の質問に、「人は刀の鋼ににている。良質の鋼は、千回も叩けば刀の体をなし、既に切れるが、悪質の鋼は、一万回叩いても切れる体にはならない」ということを、笑いながら答えられていた。
ついでに、「俺の部下には、大学卒がいっぱいだ。しかも、中にはご丁寧に海外の大学院まで出た奴がいる。俺は、小学校卒だが、出来の悪い奴はそれだけ長く勉強しなければならないわけだ。まあ、オートバイに関しては、俺の方が上だな」と言われていたのを思い出す。
他の職業と異なって、社長業には様々な能力が要求される。今の学問、特に記憶力というのは、一つの能力でしかないわけだ。実際には、屈しない勇気や、打ちひしがれない積極心や、学問だけでは得られない本能のような先見性や、創造力や、指導力や、身体の強健さや、根性や、時には他人の痛みを感じる心……などが、もっと大切なものとして強く要求される。
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学院、海外留学、他社への修行、自社への入社など、 一生涯のベースが人生の一つ目の節で決まる人も多い。
よく社長たちに質問を受けるが、子供の才能は、原則的に十代では見分けがつかない。二十代でも未だに目覚めない人もいるほどだ。
西郷隆盛ですら、島津斉彬に見いだされる二十六歳までは凡庸の人だった。お庭番に取り立てられ、マンツーマンの教育を受けたのがきっかけで目覚めている。
悟りは瞬時に来るものであるから、早い遅いに迷わないことだ。要は、本人自身が本当に学んでいるかが尺度でなければならない。
人生の第二番目の節は、二十歳前後から六十五歳前後までの四十五年間である。
この期間こそ、人生の青春時代、実行中心の時代である。職業をもち、恋をして結婚をする。男の人生では、三十歳になると子供が生まれる。
その子は、親としての自分が六十歳になれば、三十歳に成長し、自分と同じように結婚して孫をつくる。男の人生の時間差は五歳前後しか異ならない。ほとんど同じような過程を経る。
親は、いつまでも生き続けることが出来ない。一生涯が六十歳の頃は、その七掛けの四十二歳を厄年と決めて、子供が四十二歳になって、親の死に遭遇することを教えた。現代では、およそ、男親は女親よりも五歳年上である。そして、女親の方が男親より長命である。
事業を創業した社長は、やがて、事業を後継しなければならなくなる。その年齢は、幾つか。それは、身体、精神の個体差で決まる。
人間は、記憶力が衰え、少しずつ身体の疲れを感じ、意欲の減退を自覚するようになる。それが人生である。自分がそうなる前に、少なくとも十年、会長職を務めるつもりで、若い社長に譲ることを勧めてやまない。その十年こそ、若い社長の教育が肝腎である。
自分に子供が複数いて、後継する子の出来が悪いために、財産の分与をめぐって骨肉の争いをすることすら起こる。偉ければ偉い人の子ほど、継ぐべき財も多く、争いも多い。
なかには、先妻・後妻と、それぞれの子供と、複雑な生き方をした社長も多く、社長ならではの問題も起こる。
相談役、引退、贈与、相続、遺言、ライフワーク、死という過程を経る。残念ながら、変更は不可能だ。
妻も、子育て、主婦を通過し、自分と同じように生涯を終える。どんなに子供を愛していても、それが一生である。
子を、自分の会社へ入社させ、営業、経理、生産、仕入れ等を経て、課長、部長、取締役、常務と昇進させていく。五割の社長は、子の社長昇進を知らないで亡くなるが、長寿の社長は、子を社長にし、自分は会長に就き、引退、贈与、そして遺言まで書いて没する人もいる。
没するというその日、枕元に子供を呼び、息を引き取るその直前に、「お父さんは、立派な事業家として生きて来たつもりだ。お前たちは、お父さんの名前を胸を張って伝えなさい」と、見事に言ってのけた人もいる。
要するに、二十歳前後から六十五歳、七十五歳までの第二の人生は、事業家にとって四十五年から五十五年間も続く実行の時代である。その間に、事業を興したり、また事業を継承したり、人生のドラマがスタートし、やがて幕を閉じるわけである。
会社を大きくする……しかし、大きくしたがために幾代も続けていけないという現実と理想のジレンマで苦しむ人も多い。逆に、会社は小さいが安定して幾代も続けていける人もいる。また、事業の柱を幾つも築いて時代の大変貌や危機に対応する事業家、地方から出て全日本へ進出し、さらに世界を目指す事業家もいる。
やがて、第二の人生の終盤には、必然的に、わが子に会社を後継すべきか、他人に譲ってしまうかで迷うことが起こるものだ。
いずれにしろ、幾代も続けていくためには、卓抜の経営手腕を後継者につける以外にない。手品じゃないから、油断しないことだ。また、事業家の人生には、重大な決断を迫られることが三度や三度は起こる。法律・システム・素材・エネルギー等が突然に変わって生存出来なくなることさえ起こる。
たとえば、自分の分野に大企業が進出してきて食えなくなるとか、企業的な大失敗がテレビや新聞で世間に報道されて全く事業経営が不可能だ……など、生死を賭けた大転換を決断しなければならないような一大事も起こる。事業には、これらの危機を回避するために、五つも、六つもの事業の柱の構築が肝要である。
人生の第二番目の節は、六十五歳とか七十五歳を過ぎて、人生を成就させる時期である。社長職を退き、会長・相談役・引退・趣味・ライフワーク・贈与。相続・遺言……死と続く。
人間はみんな同じで、早いか遅いかの差だけである。死がこわくてジタバタと見苦しく死ぬのも人間らしくていいし、「ありがとう、お世話になった」と、立派に死ぬのもよい。そんなものに差はない。みんな同じようなものだ。もう役目は終わったのだから、存在する理由が薄らいだだけである。先に書いた西郷隆盛の死生観は、すばらしかった。
最近の総理は知っていても、歴代の総理となると、ほとんどの人が知らないのに、総理の経験者でもなかった西郷隆盛だけは誰もが知っている。なぜかといえば、偏にその死生観ゆえにである。
主君の島津斉彬は、江戸時代の末期に、既に通信事業とか造船事業とか、いろいろなものを手がけていた程に、相当の先駆者だった。西郷に目をつけ、そして、事業を永らく一緒にやっていたが、やがて島津斉彬のほうが先に死んでしまう。あとを継いだ島津久光が毒殺したといううわさもある。島津久光は、並の人だったから、造船事業も通信事業も、すべて閉じてしまう。
ある時、西郷が、清水寺の当時の管長だった月照という僧侶を島津藩へ連れてきた。すると、「こんな札つきの勤皇の志士を、なんで島津へ連れて帰ったんだ」と、島津久光の逆鱗に触れたために、西郷と月照の二人は錦江湾に身を投げる。二人は、本当の友達だった。ところが、西郷は助かり、月照は死んでしまう。それがもとで、西郷は島流しを食う。
島流しにあった西郷は、その間、儒学の大家である佐藤一斎の『言志四録』にある千百ほどの項目から、自分が本当に身につけるべき百余りを選び、それを、日夜、そらんじていた。
そして、自らの生き方を決めた。つまり、個人の生き死にを超えて、国家のためとか、人々のために生きるという決意をかためていった。
吉田松陰も、渡辺華山も、西郷も、みんな佐藤一斎の流れを汲んでいる。いずれも、徳川から明治へと変わっていく歴史を演出した人たちである。
明治維新が成り、しばらくたつと、大久保利通が政治を司るようになり、朋友であった西郷は野に下る。国へ戻って、隠居の身になっているにもかかわらず、周りに担ぎ出され、西郷は嫌々ながら西南の役を起こす。担がれて、兵を起こさぎるを得ない事情が、そこにはあったに違いない。
そして、田原坂の戦いで敗れ、延岡に逃れるわけだが、西南の役では、数多くの他藩の武士が西郷隆盛についてきていた。その中に、大分の中津藩の増田宋太郎がいた。自分の村の配下を連れて、参戦していた。西郷は、他藩の武士に、「負け戦だから、くにへ帰れ」と命令した。当然、増田宋太郎も「帰れ」と言われた。しかし、帰らない。
すると、 一緒に中津藩を出てきた武士たちが、「汝は、なぜ帰らない」と言ってなじる。なじられた増田宋太郎は、部下に、「西郷先生は妙な人だ。 一日、先生に接すれば、 一日の愛を生じる。三日、先生に接すれば、三日の愛を生じる。親愛、日に加わり、去るべくもあらず。この上は、善悪を超えて、先生と生死をともにせん」と言う。
増田宋太郎は西郷についていき、城山の戦いに敗れて、共に死ぬわけだが、西郷の首だけは見つからない。
敵も味方もなく、西郷を愛していたから、西郷の首は見つからなかった、というより、敢えて見つけなかった。大久保利通でさえ、西郷を愛していたから、号泣する。
これが、死生観である。要するに、どのように生きていくかを知っている者は強い。その人と生死をともにしたいと思う。それは、その人の魅力のなせる業である。そして、その魅力は死生観に基づいている。
若くてはちきれるような健康をもっている多くの人たちは、人間の死というものを考えたことがない。しかし、死は必ず訪れる。死があるから生があると言っても良い。死を知って、人生計画の中に「死」を書き入れた途端に、自分の残された人生がいかに短いかがわかり、真人間になる。一生懸命に仕事をやるようになる。
次頁に示したのは私の「人生計画書」の様式だが、これを基にアレンジして、 一人一人が自分流の人生計画を書き上げてもらいたいと切望している。
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