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人の痛味を知る

社長には、ある程度の学問も必要だが、ふてぶてしさも必要だ。「孔子」の愛情も必要だが、「韓非子」の非情も必要である。味方がいて、敵がいるからだ。

部下を持った時には、部下は味方だから、愛さなければいけない。ライバルは、冷徹に叩いていく。そして、お客様第一主義で、「お客様、お客様」とやっていくような器量も必要だ。

しかし、自分がお客になった時には、相手をいじめてはいけない。これが難しい。相手を目茶苦茶に言う人が結構いる。こんな狭量は、だめに決まっている。

胸に手を当てて考えた時に、誰しもお客様に叱られることが一番苦しいに違いない。自分がお客になったときに、相手を叱るなどということは、心の浅い人がすることだ。

社長業は、高度な芸術のようなものである。いろいろな場面に遭遇しながら器量を磨いていく、そういう職業だ。

老子に、次のような言葉がある。

「兵は不祥の器にして、君子の器に非ず。己むを得ずして之を用うるときは、悟淡を上と為す。勝ちて美とせず。而るに之を美とする者は、是れ人を殺すことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、則ち以て志を天下に得べからず」

意訳すれば、「武器は不吉の道具であって、君子の道具ではない。本当にやむをえず、これを用いる時は、それに執着しないようにした方がいい。勝利しても、喜んではいけない。もし、喜ぶなら、人を殺すことを楽しむものである。人を殺すことを楽しむようなら、結局、志を天下に得ることなどできはしない」ということだ。

老子は、さらに続けて言う。

「吉事には左を尚び、凶事には右を尚ぶ。偏将軍は左に居り、上将軍は右に居る。喪礼を以て之に処るを言うなり。人を殺すこと多ければ悲哀を以て之に泣く。戦い勝つも喪礼を以て之に処る」これも意訳すると、「普通、吉事には左を貴ぶが、凶事には右を貴ぶものである。ところが、軍隊では、副将軍が左にいて、上将軍が右にいる。それは、戦争を葬式と同様に凶事として処するからだ。多くの人を殺したなら、哀悼を棒げ、戦争に涙する。戦いに勝っても、葬礼をもってこれに処すべきである」ということである。

この老子の言葉を、非戦論者のシュヴァイツァー博士は、 一九四四年五月七日、ドイツ軍が降伏し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が終了したとの報に接した時に、アフリカの奥地の病院で、ひときわ感慨深く味わったというエピソードが今に伝えられている。仏語訳の老子を読んだに違いない。

戦争では、勝つ方が、より多くの人を殺すことになる。殺したら、これを悲しいこととして泣く気持ちがないと、人はだめである。「勝つ事ばかり知りて、負くる事を知らぎれば、害その身に至る」という一節が、徳川家康の「東照宮遺訓」にもある。老子と同じことが書いてある。

勝った者は負けた者に、喪に服する気持ちで当たっていかないといけない。成熟化市場で、ライバルを潰す。強くないと、社員を食わしていけないから、他社を潰していく。その時、ややもすると恨みを買う。恨みを買わないためには、「ごめん」という気持ちがないといけない。ライバルに対して勝つことは、非常に大切だが、「人の痛み」がわかる心を常に持っていることが、大将の器の一番の中心である。勝つことばっかりに夢中になっていると、必ずだめになる。

社長がこれから永く事業をやっていくには、人の痛みをよく理解しないとだめだということだ。大将の器量の中にもう一つ補足することがあるとすれば、先述したように、自分は村長だ、自分は網元だ、自分の懐に飛び込んできた者は食いっぱぐれさせないという基本姿勢を加えて欲しい。

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