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徳は鉄牢よりも強し

すでに私は、経済の実社会に在ること六十余年になります。その間、多種多様の経営者の方々から限りない教訓をうけました。

私が二十余年の経営者としての任務をなんとか果たせたのも、それらの教えによるところがきわめて大であったといえます。

いまにして、すべての教えを集約しますと、

  • 仁(忠・恕・人格)
  • 智(創造・知識)
  • 勇(果断の勇)

の三つになります。

仁・智・勇は、古今東西、優れた指導者に共通するもので、この三条件をそなえた指導者が将の将としての器といえましょう。

しかし、そうした人は稀で、一、二に欠ける人も少なくないものです。

それでいながら将の将たるの任務を果たしているのは、それを補うに足るスタッフを用いています。

また欠けている条件を、生来のものとしてあきらめてしまっている人も少なくありません。しかし、これは誤りであることも、成功した経営者や歴史の教訓から学ぶことができます。

かつて関係した会社で組織を小規模化して分社したとき、大企業と小企業の格差がどうしてできたのか、と考えたことがあります。

その理由の最たるものは、指導者の「志」の違いにある、ということでした。「大器は人を求め、小器は物を求む」という言葉からも、おおよそのことは理解されましょう。

また現職時代に、組織の活性化は「恕」にある、とよく言ったものですが、歴史から学んだ古い言葉が、現代にも生きていることは、会社を再建した私の体験が証明してくれました。

この本は、これまで私が書いた十余冊の集大成とすべく七章九十四項におよんでおり、その各所に中国歴史からの教訓がでてきます。

それらは私の現職中、なにかの機会に実際に用いたものばかりで、いわば私の経営哲学といえるものです。その幾らかでも、経営に役立てていただくなら幸甚です。

本書出版に際し、日本経営合理化協会の本間編集長はじめ皆様のご高配をいただきました。ここに厚くお礼申しあげます。

平成元年二月十日

井原隆一


※本書は一九八九年に出版した「社長の帝工学」の新装版である。

目次

徳は鉄牢(てつろう)よりも強し

徳のない者は経営者としての資格がない。

経済社会のつながりの凡ては「信」によって結ばれ、組織内の人々は「敬」(己を慎み人を敬う)によって結ばれているからである。

いかに能力・財力があり、権力があっても、人格に劣る徳のない人間に心から従うものはない。一時は権力・財力につられて従うにしても、いずれは去り行くものである。

長期にわたって従ったとしても、本心は「心ならずも」ということであって心服してのそれではない。

古今東西、徳に反する者が、国、事業を長らえたものはない。個人にして有終の美を飾るものもない。

標題の「徳は鉄牢よりも強し」は王遵の詩を引用したものである。

「秦、長城を築いて鉄牢に比す、蕃戎敢て臨眺を過ぎず、焉んぞ知らん万里連雲の勢、及ばず尭階三尺の高きに」

(秦は万里の長城を築いて、鉄の牢屋のように匈奴を閉じこめてしまったので、臨眺からこちらに入ってこなくなった。このように延々雲に連なるような長城も、理想の帝王といわれた尭帝が土階三段の低い官殿によって立派に太平の世を築いたことにくらべると、まったく比較にもならない愚かなことであった)。

中国古代の名君、尭帝は治世よろしきをえたため、武力に頼ることなく五十年間も治めたが背く者もなかった。

秦は長城を築いて外敵を防ぐことはできたが、二世胡亥の代になって悪政を重ねたため三代十五年で滅亡している。これに類した例が、後世の隋である。

隋の二世煬帝(ようだい)は父の始祖文帝(ぶんてい)時代に蓄えた国力で大土木工事を起した。通済渠(つうさいとこ)、永済‐渠(えいさいきよ)なみつどの大運河を造って水上輸送の大動脈としている。

「河南熟れば天下足る」といわれたとおり中国南部の物資がぞくぞく北に運ばれ政治経済にも大きく貢献したものである。

それだけに止めておいたとすれば、万里の長城を築いた秦の始皇帝にも劣らないほど大事業をなしとげた偉大な人物として後世にもその名を残したに違いない。

しかし、煬帝は運河にそって四十余力所の豪華な離官を築いて贅の限りをつくした。さらに中国統一の勢いに乗って高麗を攻めたが完全に目的を果たすことはできなかった。

これらによって国力を使い果たし、各地の内乱に抗すべくもなく三世、三十七年で隋は亡びている。内乱が各地に起きても都にも帰らず江都の離宮で日夜酒宴にふけっていたというから自分まで忘れていたといえよう。

現代でもトップが徳を失なうようになれば、表面威権は行なわれているようにみえるが、部門内の人々の心は乱れ、ついには反抗心が士気の低下となって会社を窮地に追いこむ。

かりに、利につられて部下が協力しているとしても、外部の信用を失なって四面楚歌の苦境に立たされる。

金のサギ商法といわれたT商事の社長は「商売に道徳は不必要」とうそぶいていたが、その幾日か後には刺し殺されている。

企業マンとして利を追うのは当然であるが、人間として踏むべき道を踏み外してもよいということではない。孔子も「利を追うときには義を思え」と教えている。先ごろ故人になったO氏はほとんど無一物から日本一といわれるほどの大金持ちになった。

ためにする人を除いては、容易にまねることのできない人だ、立派なものだ、と賞讃され羨望されていたが、ロッキード事件にかかわりがあったということだけで著しいイメージダウンになっている。徳に背いているからである。

よく、組織内でも上に立つ者は人格に優れていなければならないというが、上下にかかわらず人格に優れていなければ、一時の繁栄はあっても上昇気流に乗りつづけることはできないものである。

「徳は孤ならず」というが人格に優れた者は孤独になえるが限りない味方がある。不徳の者は、一時的には華やかにみえるがいずれは孤独になっていくものである。

明の洪自誠が著した菜根諄という本に「道徳を棲守する者は、一時の寂真たり。権勢に依阿する者は万古に凄涼たり。達人は物外の物を観じ、身後の身を思う。むしろ一時の寂真を受くるも、万古の凄涼を取ることなかれ」

(人間としての道を守り通そうとする者は、一時的には不遇で苦境に立たされることもある。権力におもねり、へつらう人間は一時的には栄進もするし、虎の威を借りて居心地もよいが、やがては永遠の孤独に苦しむことになる……)

とある。

昔、魏の武侯が舟を浮べて黄河を下って中流にきたとき兵法家でもある呉起に向かって「山河の見事な堅固さよ。自然の要塞になっている。魏の国の宝である」と話したところ呉起はこう答えた。

「一国の安泰は山河の堅固に依るものではなく、君の徳によるものです。昔、三苗という。種族は山河沼湖の要塞を占めていましたが有徳の夏の高王に亡ぼされ、殷の国は大山大河の堅固の要塞に囲まれていましたが村王が暴虐であったため周の武王に亡ぼされています。もし君が徳を治めないときは、この舟の中もすべて敵国になりましょう」

武侯も感じいったという。「舟中の人皆敵国なり」の故事である。

これを会社におきかえると「社長が徳を治めなければ会社中の人は皆敵になります」ということになる。

「木に縁りて魚を求む」のいわれはこうである。

いまから二千三百年ほど前、孟子が斉の国へ行った。斉の王は、宣王といって立派な器量人であった。

宣王は大志を抱いており、中国統一が夢でもあった。富国強兵を国策としていただけに孟子に対しても、斉の桓公、晋の文公がどのようにして天下を統一したかをきこうとしていた。こうした考えは、孟子の説く王道政治とは手段が違うことになる。

「王は戦争を起されて、部下、人民の生命を危うくし、諸国の怨教を受けることが好きなのですか」と孟子がきいた。王は「いや、好きではないが、あえて自分がするのは私には大望があるからだ」。孟子は再びきいた。「戦いの目的は衣食でしょうか、人生の娯楽でしょうか」「いや、私の欲望はそんなものではない」。

そこで孟子は「王の欲望とは、領上を拡張し、秦、楚などの大国王をひざまずかせ、四方の匈奴などを従えよう、ということでしょう。しかし、いままでのやり方、つまり、武力だけで、そうなさろうとするのは、ちょうど「木に縁りて魚を求む」木に登って魚をとろうとするのと同じです」と。

宣王もことの意外さに驚いて「それほど無理か」「木に登って魚が得られなくとも、それまでのことです。後々の災難はありません。

しかし、武力を用いるだけでは、民を損ない、国を失なう、大災難があればとて、決して好ましい結果は得られません」と説いた。やはり、人徳をもって民を治める政治でなければならない、ということである。

現代でも、強引な商法、誇大な広告など、およそ消費者からかねを強奪するかのようなものも少なくない。

なるほど一時は繁昌しているようだが、いつのまにか会社ぐるみ消えている。

法にはかなっていても、徳に欠けるようでは長続きすることはないものである。

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