信義は、約束を守る、義務を果たすことで、指導者の条件として格別にとりあげるほどのことではない、と考えがちである。
なるほど日常の商取引きにしても互いの信用から成り立っているもので、至極当然なことと考えているからである。
しかし、文書が取り交わされていたり、法律で定められている約束ごとについての信義であって、それ以外のことについては無視される場合も少なくない。
経済社会で恐ろしいのは、確約されたことに背くよりも、別に確約したわけではないといって信義に背くはうが恐ろしいものである。確約に背く場合はそれなりの代償がある。たとえば手形期日に支払いができなければ、その代償として不渡り、倒産ということになる。しかし、確約のないものに背いても代償を払うことはないが、不信、不徳のそしりを受けることになる。これが恐ろしいのである。
その音、ある大手電機メlヵlは、資金調達のため都市銀行はもちろん地方銀行の大部分にまで取引きを拡大して借入れた。しばらくすると金融が緩和し、自己資本も増加したため取引き銀行の借金を返済し一方的に取引きを中止してしまった。中止された銀行としては、長く取引きしてくれるものと考えて、金融逼迫の際でも貸出したはずである。
それから間もなく、その会社が社債を発行した。当時、社債の大部分は銀行が引き受けていた。したがって、銀行が買わなければ売れ残りになって信用をおとすのみか次の発行も困難になる。
しかし、取引きを中止された銀行が買うわけがない。市場には一ヵ月に何社からも債券が発行されるから、早く売り切るほど信用が高いことになる。その会社の社債は最後まで売れ残り、僅かなことで大恥をかいたことになった。
そのころ、前記会社のライバル会社が、株式を時価発行した。売出価額は六百何十円かであったと思う。ところが、売出価額が発表され、払込期日前に悪材料が出て株価が全体的に大幅値下りしたため、時価発行価額を下回るようになってしまった。払い込めば損になることは明らか。相当部分が売れ残るだろうと思われた。
ところが結果は応募超過になっている。多くの取引き銀行が競って応募したからであった。その会社は、借金返済後も、関係銀行との預金取引きだけは続けていたからである。
関係した会社が膨大な借金を完済した後で管理職全員に次のように話した。「当社は長い間の借金経営からようやく完全無借金会社になった。そこで、これまで助けられた恩を忘れないためにも、銀行との関係をいっそう密にしたい。ついては余裕資金ができたら、従来貸してくれた銀行へ預金をしつづけようと思う。当社は創立以来それは膨大な借金利息を払ってきたが、これからは預金利息として取り戻すぐらい預金を増やそう」と。
銀行もビジネスであり、借金利息を払ってきたのだから、その上に恩返しの必要がどこにあるのか、といわれるかもしれない。また、私が銀行の飯を食っていたから贔員したと、思われるかもしれない。
何ごとによらず、恩を授けたことなど忘れ去っているであろう人に恩を返すのが真の謝恩であり信義ではないだろうか。一時の打算で銀行をかえているような会社には、銀行としても義理がない。人情もない。ただ商売のみでつながっているだけで、銀行もまた節操のない会社とみている。人間、思えば思われるということがある。
関係した会社の子会社が成長し、株式上場を目指すほどになったときの話である。その子会社の主力金融機関は、創業以来、地元(群馬県富岡市)の甘楽郡信用金庫であった。
しかし、会社の規模も大きくなり手形の支払い場所が信用金庫では、体面にかかわるということで「主力銀行をかえて都市銀行、有力地方銀行にしたいという要望が再三出されていた。そんなあるとき、社長から、「井原さんは、株式に明るいから、上場の節は是非ご協力を」と頼まれた。
そこで、こう話した。「この会社は創立以来、甘楽郡信用金庫を主力として取引きして、今日にまで大きくなった。上場しても、この信用金庫を主力銀行とするならお手伝いしましょう」。
「上場会社が信用金庫をメインバンクとして法律的によいのだろうか」「法律はどうでもよい。恩義を忘れて経営はできぬ」と乱暴なことをいった。
「生みの親より育ての親というが、信用金庫は生み、育ててくれた恩人ともいえる。自分が出世したから親の名を口にするのも恥かしい、生みの親を取り替えたいという人間はないだろう。たとえ上場会社になっても、当社の主力銀行は信用金庫であると、堂々と発表してもらいたい」と。損得だけで判断すると、ことを誤る。信義という人の踏む道を考慮に入れると誤ることはない。
約束といえば韓非子という本にこんな記事がある。
晋の文公が原という町を攻撃したとき、作戦期間は十日であると部将たちに約束した。
ところが十日を経たが攻略できない。城内に潜入させておいた部下から、あと三日もすれば降服する、という報告があり、参謀たちも降服までの包囲を主張したが、「いや、 十日と話してある。原を攻略しても約束を破ってはなんにもならん」といって引き揚げ命令を出してしまった。
これを伝えきいた原は、それほど約束を重んずる人なら安心してついていける、と進んで降服してきた。
そればかりか、原の隣国の衛も降服を申し出てきた、とあるc三国志に登場する諸葛孔明は遠征して兵が長期に家を留守にする場合は二ヵ月間帰省を許した。
あるとき、敵と対陣して、 一時でも兵を減らすことはできない。しかし孔明は帰省を指示し、将兵たちは戦場にふ教とどまることを熱望したという。信義という徳に応えたからである。
マキタ電機製作所の創業者、後藤十次郎氏が、「その年一年間にやることを正月に発表する。しかも一番難しいことから真っ先に手がけるようにしている」と話してくれたことがある。実際、岡崎に省力工場を建てたときは、 一月四日に発表し、五日には設計に入ったという。社員を前に年内に建てると約束した以上、たとえ一日延びても経営者不信になるからというのである。
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