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七 大器は人を求め小器は物を求む

昔、斉の威王が魏の恵王と郊外で会合した。

恵王が「斉の国には何か珍しい宝物がありますか」ときくと「何もありません」と威王が答えた。恵王は、いかにも自慢げに「私の国は小国ですが、それでも直径一寸ばかりの珠で、これを車の上に置きますと前後十二台ずつ計二十四台の間を輝き照らす珍しい宝物があります」と言った。

それに答えて威王はこうのべた。

「私の国の宝物は、王のいう宝物とは違っていますが、私の臣に檀子というのがおります。この男は、南の国境の城を守らせますと、彼の武勇におそれて楚もけっして洒上の付近に侵入して乱暴をしなくなったばかりか、十二諸侯がみな入朝して、臣下としての礼をとるようになりました。

また、吟子という者がおりますが、西方の高唐という所を守らせましたら、趙の人々は自分の国の東の国境の黄河へ出て漁をしなくなりました。

また、治夫という者がおりますが、彼に徐州を守らせましたところ、その威風におそれて、燕の人は北門で、趙は西門で神を祭って、攻めないようにと祈っているありさまです。

さらに種首という者がおりますが、これに盗賊を取りしまらせましたところ、道に落し物があっても拾う者がなくなりました。

この四人の家臣の威光は、まことに千里の遠くまで照らすもので、たったの兵車十二台を照らすものと比べものになりましょうか」と。恵王は、すっかり赤面してしまったという。

優れた人材を求め、育てれば自分を助け、事業を発展させることができる。そうすれば、物財はたくまずして得ることになる。

物財を先に人を後にすれば、人は育たず、育った者まで去り、結局は物まで失なうことになりかねない。現代の経営者にして、この理屈を知らない者はない。

ところが、なすことは人材よりも物財を先にしている社長が少なくはない。

ある業界随一といわれた会社の社長は、インフンヘッジには物に限ると、書画o骨とう・盆栽・名石などを集めまくり、その額は数十億円にも及んだ。しかし経営の破綻によって倒産したとき、社長を補佐する者は皆無に等しかった。

優れた者は一人減り二人減りして、最後には伝臣一人だけとなったわけである。一方、集めた物財は、私財提供という形で処分されたが、倒産を支えるだけの力はなかった。

よく環境に恵まれたり、 一つの商品がヒットしたりして一時の花を咲かせる会社があるが、そこで人を求めず物財を求めていたのでは有終の美は飾れない。

物財などというものは人の力によって、どうにでもなる。物はいかに貴くても志ある人を動かすことはできない。この点によく心をとめて経営にあたることも欠かせない。

中国の戦国時代、群雄が立って天下を狙ったが、力を蓄えるためと、人材が敵方に行くのを止めるためか、大貴族たちは一芸一能に通じた者を競って客分として招き集めた。これが食客である。

斉よの名相孟)嘗i君そ|まん食客千人その中ンこ|ま後でのベる長;鋏i帰らんかの馬;膳カもいれャ「鶏鳴狗盗」の故事で知られるコソ泥の名人、物まねの名人も入っていた。また趙の平原君も食客数千人に及び、また楚の春申君、魏の信陵君はともに三千人の食客

を数えていたという。そのころ強国秦の相国(総理大臣)となった呂不葦もまた食客集めに負けておられないとばかり、かねに糸目をつけず人を求め、またたく間に三千人を数えたという。

不葦はまた、各国の賢者が書を著していることをきき、よし、そのほうも負けまい、ということで、食客たちに命じ二十余万言に及ぶ大冊をものにした。そして「この中には天地万物古今のすべてが入っている。こうした大事業は、わしでなければできぬことだ」と自慢し、自分が作ったものということにして『呂氏春秋』と題をつけた。

しかもその大作を、成陽城の門の前に陳列させて、大きな札を出した。「能く一字を増損する者あらば千金を予えん」、つまり、この本の文章を添削できた者には一字について千金の賞を出すと。

実は、これも、食客を呼び集めるための手段だったわけで″一字千金″のいわれである。唐の大宗は有名な儒者を多く集めて博士、助教とし、学舎を千二百室にも増築させて人づくりに力をつくしている。

わが国でも、ある大名が重だった家臣に、自慢のできる宝物を持参致せ、と命じたとき、三人の男の子を連れて行き、殿から随一の宝としてお褒めをいただいたという話がある。現代のように千変万化とまるところを知らない時代に対応できるものは、物ではなく人であることを知るべきである。

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