楚の荘王は、位についたが政令一つ出さず、日夜遊び楽しんでいた。そして国中に布告し、「あえて意見をのべようとする者は死刑に処す」と。これでは諌めるものがない。ところが伍挙という臣が、婉曲に、王を鳥にたとえて風刺した。
「丘の上に鳥がいますが、三年たつのに飛びもしないし、鳴きもしませんが、どうしたことでございましょう」。それに対し王はこう答えた。「三年も飛ばずにいるのは一度飛んだら天をつき上げるはど高くとぶためだ。また三年も鳴かずにいるのは鳴いたら最後人々を驚倒させるためである」と。暗に、大志をとげるために英気を養っているのだと自分の気持ちを現わした。
次に、蘇従という臣が諌めたところ王は、その忠誠をよろこび蘇従の手をにぎり、右手で腰の剣を抜き、日夜遊びに使っていた鉦や太鼓の釣り紐を断ち切り、「よく諫めてくれた、いまから遊びをやめて政務に励む」といって、伍挙と蘇従を重く用いたため楚の人々は大いに喜んだ。かくて荘王は春秋時代の名君五人のうちの一人に数えられるようになった。「大器は人を求む」というが、それにしても人材発掘もここまで徹底した例は稀である。
中国春秋時代の名君五人を春秋五覇といっているが、その中でも筆頭にあげられるのが斉の桓公である。これも名宰相管仲の補佐によるものとされている。その管仲も年老い、政務をとることもかなわず家にひきこもるようになった。そんなある日桓公は管仲を見舞って尋ねた。
「もし、不幸にして再起不能となった場合後を誰に任せたらよいか」
「老いの身では、どう答えてよいかわかりません。しかし″臣を知る者は君に如かず、子を知るは親に如かずとか。意中の人物がおりましたらおきかせ下さい」
「飽叔矛はどうかな」
「なりません。あれは剛情で頑固な性格です。それに妥協することを知りません。剛情であれば、人民を乱暴にあつかい、人心が離れます。妥協することを知らなければ大衆を使いこなすことはできません。こういう強気一点張りの人間は補佐役には不適当です」
「竪弓ではどうか」
「なりません。人間は誰でも体を大切にするものです。ところがあの男は、あなたが女好きで、嫉妬深いと見てとると、自分から進んで去勢して、後官の宦官になりました。自分の体も大切にできない者が、なんで自分の主君を大切にいたしましょう」
「それなら、衛の公子開方ではどうか」
「なりません。あの男は、わが国から衛まで、僅か十日の道のりですが、あなたの歓心をかいたいばかりに、ここ十五年の間、 一度も両親のもとに帰っておりません。これは人の道に反します。両親さえかえりみない男がどうして主君を大切にいたしましょう」
「それなら易牙にしたいと思うがどうか」
「それもなりません。あの男は料理番をつとめておりますが、山海の珍味にあきた君に、いまだ食べたことのない人肉を賞味させたいといって、自分の長男を蒸しやきにして差しあげました。人間は誰しも子を愛しているものです。ところが、あの男は、わが子を蒸しやきにして君の食卓に供しました。自分の子供さえ愛さない男が、どうして主君を愛することができましょう」
「それでは、誰にせよというのか」
「曝朋がよいと思います。かれは志が堅いうえに、行ないが清廉で、大きな仕事もまかせることができます。また私利を求めず、信義を重んずる人物で人々の手本になります。信義を重んずる人物なら、隣国と争いごとを起す心配もありません。まさに、内政外交、うってつけの補佐役といえましょう」それから一年後に管仲は死んだ。しかし、桓公は後任宰相に限朋ではなく、竪可を用いた。
それから三年後である。桓公が南方へ遊びに出た留守につけこんで竪「は易矛、開方などと語らって反乱の兵を起した。桓公は驚いて都に帰ったが捕えられ幽閉され、飢えと渇きに苦しんで死んだ。死体は三ヵ月も放置され、ウジ虫が部屋からあふれ出るほどであった、という。覇者の筆頭になったほどの人物が、賢臣の言を用いなかった咎めといえるのである。
現代経営でも同じで、優れた人を求め、用いることを欠いては千載に悔いを残すことになスつ。
そこで、名君は、どのような条件を備えた者を補佐役である宰相として選び、用いているかを考えてみた。
もちろん、仁・智・勇に優れた人材であることはいうまでもないが、特にいえることは、第一に、己を捨てて、国や君主に誠を尽くしていることである。現代でもよく用いられている言葉に「列頸の交わり」がある。
紀元前二百八十年ごろ、中国の戦国時代である。趙の恵文王が持っている″和氏の壁″という宝玉を秦王が熱望し、城十五城と交換したいと申し入れてきた。応じなければ攻められ、応じても壁は取って城を渡すまい。
このとき、王の寵臣の食客でしかなかった蘭相如が申し出た。自分が秦に使いし、万一の場合でも壁を完うして帰りますと。
相如が秦王に会ってみると果たして壁は取りあげたが城を渡そうとしない。相如は偽って壁を手にすると大声で叫んだ。「約束を破るならこの壁と自分の頭を同時に砕く」と。秦王はその勇に感じ、壁を持ち帰ることを許した。この功により相如は上大夫となり、その後の
池池の会で、秦王から趙王が恥をかかされるのを救った功で上卿に任じられ、名将の廉頗より上になった。
廉頗はいたく憤慨し、今後相如に会ったら恥をかかせてやる、といきまいていた。これを知った相如は廉頗に会うことを避け、朝廷にも、席次争いになるのを恐れて欠席し、外で出会うと車をわき道にそらせた。
相如の家臣のうちには、それを恥として暇をもらいたいと申し出る者がいた。
相如は、これを引き止めてきいた。
「廉将軍と秦王とどちらが恐ろしいか」「もちろん秦王です」
「私はその秦王を恐れるどころか、叱りとばし、居並ぶ群臣をも辱しめてきた。その私がなんで廉頗将軍一人を恐れようか。思うに、いま秦がわが国に攻撃をかけないのは、廉将軍と自分がいるからだろう。ここで両虎争えば、いずれか倒れる。自分が廉将軍を避けているのは、国家の危急を先にして私讐を後にしているからだ」と。
これを伝え聞いた廉頗は、上半身を裸にして刑に用いるトゲのある茨を背負い、これでム ・チ打ちの刑を受けたいという気を現わして相如を訪ねた。そして友人のためには自分の首を 侶はねられても悔いはないという交わりを結んだという。 .
昭和の例頸の交わりは、権力と金の交わりで、自分の利を先にした交わりであつたが、故事にあるそれは国の利を先にした交わりである。趙の恵文王は名君だけあって「国家の危急」を先にし、個人的な怨みを後にしている人を重く用いている。つまり自分を捨てきれる人を重く用いる、ということである。
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