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十一 九側の功を一生貝に庸く

殷の村王を攻め亡ぼし、武王が周朝を開いたのは紀元前一千百年ごろで、いまから三千余年も前になる。

周の威令は四方に及び各地からいろいろな献上物があった。西方の旅という国からは薬という高さ四フィートにも及ぶ大犬が贈られてきた。葵はよく人の意を解するという珍獣であったので武王は大いに喜び、その珍しさに心を奪われ政務を怠るほどであった。これを憂いた召公は、周の創業を危うくしてはならないと考えて大いに諌めた。その中の言葉である。

「耳目に役せられざれば、百度惟れ貞し、人を玩べば徳を喪い、物を玩べば志を喪う。鳴呼夙‐夜勤めざるあるなかれ、細行を衿まずんば、終に大徳を累せん。山を為ること九初、功を一賞に庸く」(耳目の欲、即ち物質的な欲望に溺れてはならない。人をもてあそべば徳を失ない、物をもてあそぶと志を失ないます。王者たる者は朝から晩まで徳を積むことにはげまなければなりません。小さなことだからといって慎まないと、大きな徳をも失なうことになります。丁度高い山を築くのに最後の一籠の土を怠っても山が完成したといえず、いままでの功績を失なってしまうのと同じく、せっかく周朝を始めながら葵に心を奪われているようでは創業の功も無駄になってしまいます)と。

九初の初は八尺(八フィート)で、九初なら七十二フィートの山ということだが、高い山という意味である。

現代でも、顛難を重ねて会社を始めながらちょっとした油断で倒産した場合などに「九初の功を一管にかいた」といっている。

ことを志す者にとっての心得として短い文句の中にすべてをいい現わした名言といえるもので、私もこれを心に銘記しているわけである。

会社のトップが部下や周囲の信用を失なう第一は人を玩ぶことである。私利私欲、私情につながる人間を近づけ用いる。へつらい人間、イエスマンの言に耳を傾ける。あるいは血縁を近づけ、能者でもそれ以外は遠ざける。用なき者に禄を多く、能ある者に少なくなど、広くいえば玩ぶ類である。

トップがこれであれば、威権を失ない、権力も通ぜず、人の心まで失なうことになる。次に、物を玩ぶ類は限りなくある。トップの趣味に合った投資をする。倒産したら美術館が開けるほどの古美術品が出てきたとかの例もある。あるいは本業以外の物に投資し見栄のためにかねを使う。はなはだしくは女性に心を奪われて社長の椅子を失なった人さえある。まさに「小器は物を求む」である。

だいたい、会社が行き詰まったり、過ちを犯した場合、スタッフの誰かは諫言しているものである。それに耳を傾けなかったために大事にいたっている。

人間は神ではない。ときには誤った道を行くこともある。それにブレーキをかける勇臣を側臣とすることも必要だし、大志を全うするためには、それに耳を傾けることも欠かせない。

あえてトップに苦言を呈しようとする者には私心がない。トップの気を損じて首になるかもしれない。いわば身命を賭しての苦言である。そうした忠臣を退けるようではすでにトップとしての資格を失なった者といえるだろう。いまでもよく使われる言葉に「折檻」がある。

せいてい                                       かんがん

いまから二千年ほど前、前漢第九代の成帝のとき、宮中にあった外戚の王氏一族や、宦官たちが勢力をえ、忠臣は追われ、官吏や人民までが非難するにいたった。しかし成帝は反省もせず、かえって王氏一族を重用していた。

これを憂えた朱雲という知事が、帝の前へ進み「願わくばご秘蔵の斬馬の剣を賜りたい。悪人の首を刻ね、他の者のみせしめにしたいと思います」といった。それは誰かときかれ「王氏に味方する張高です」。

帝は激怒して「朕の師を侮辱するとは」と、死刑を命じた。捕吏が朱雲を捕えようとしたが手すりを握り離さない。ついに手すりは折れて二人はこわれた手すりとともに地面に落ちた。それでも「臣の身はどうなろうとかまいません。ただ陛下の御世が気にかかるばかりです。どうか御明察を」と叫びつづけた。

これを見ていた辛慶忌という将軍が、朱雲のそばに飛び降り、額を地面にたたきつけ、血を流しながら、朱雲を殺してはならないと諫めた。

帝も二人の国を思う真心に感じ、「悪かった。あたら忠臣を失なうところであった」とい一って機嫌をなおした。

後に、手すりを直そうと願い出たとき「あれを見るたびに朱雲を思い出し、政治を正す戒めにしよう」といったという。

しかし、この忠臣の功も無駄になるときがくる。王氏一族の専横は帝の死後ますます激しさを増し、王奔は帝位を奪い前漢は亡びることになる。

「巧言令色鮮し仁」(口先が巧教で、角のたたない表情で、いわば猫なで声で、へつらい言をいうような人間に、誠実な者はない)。

これは論語にある言葉だが、現代の組織内にも少なからず見かけるところをみると、浜の真砂とともに尽きることがないのかもしれない。こうした人間を近づけている人間がいるから絶えないわけで、言う者、聞く者を両成敗しないかぎり尽きることはない。

これを逆にいえば、飾り、へつらいの心をもたない人間は、誠実であるから近づけるべきであるが、こうした人にも自ら欠点がある。それは往々にして礼を欠くということである。公のためになることを、ずけずけ言うことはよいとして、その言い方、やり方に礼を欠くようでは、聞く者としては、昔流でいえば「無礼者、下がりおろう」ということになる。つま  ・り、直言にも徳がなければならないということである。ごうき ぼくとつ

ある会社に、全く飾ることのない、剛毅木訥ともいえる取締役がいた。利己的な打算もなければ、媚び、 へつらう心など微塵もない。

そのため、会社のためになると考えたことは、社長がいようと誰がいようと遠慮なく発言する。私も何度となく会っているが、理論も正しい。

しかし、その主張が用いられたことがない。会議の席上の発言にしても、○○節が始まったぐらいできき流される。社長以下幹部も、「いいことを言っているのだが」ということだけである。

これは、平たくいえば、発言に重みがないということである。なぜ重教がないのか。会社の欠点は目につくが、取締役でいながら、自分が率先して改めようとしないからである。会社の改めるべき点を、自ら買って出ても改めようとするなら、社内の人々は言を待たず改めるだろう。

剛毅・誠実を示すのに口先だけでは巧言令色とそれほど変わるものではないということである。

ことを志す者にとって、巧言令色にまどわされて、九初の功を一賞に膚くことのないよう心したい。このことを、日で言うのはやすいが、実際となると案外に難しいことは、歴史が教えるとおりである。

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