前職時代、雑誌の依頼でのべ四十人はどの創業経営者や各界の成功者と対談する機会に恵まれた。
成功者の一家言を伺う、ということで、創業のいきさつ、経営哲学、成功の秘訣など多岐にわたっての話し合いであった。それぞれから素晴しい話を伺ったが、共通していることは、「恩を知り、報いる心が極めて強い」ということであった。全員が一人のこらず「自分の今日あるのは何々のおかげ」ということを話してくれた。
東京上野にある小泉グループの社主、故小泉市兵衛氏は、子会社の社名が「東天紅」に代表されるように鳥にちなんでいる。創立者である小泉氏のお母さんの干支が酉年であったから、というわけである。母に対する感謝である。
そういえば私の甥が医療器械会社を創立した際、社名を「はなこメディヵル」としている。母の名、はなこを社名にしたものである。
また、イトーヨーカ堂の本社ビルの完成式に招かれたことがある。十時の開店のとき、テープカットを誰がするのか、注目していた。
東京の政財界の大物でも加わるのではない力、と思っていたところ、伊藤社長は、お母さんを誘い母一人のカットであった。無言の感謝といえるだろう。大阪の高槻市にあるムネカタ株式会社の宗形社長のネクタイは万年無地の真紅色である。
創業早々本業に行き詰まり、自殺を覚悟して遺書を七通書いた。今夜こそ淀川へとび込もうと考え、見納めのため空家同然の工場を夜遅く覗いてみた。そこに意外なものを見た。二十才前の若い見習工三人が明日の倒産も知らずに、機械の修理をしている。ふと考えた。自分は死んでしまえば、それですむが、あの若い工員たちの将来はどうなるだろう、と。これは自分だけが死ぬわけにはいかない、と考えついた。その瞬間、彼らの上にあった薄暗い電燈の光が赤く輝いてみえた。それをネクタイにしたのであって真紅色の無地は若い工員に対する感謝である。
作曲家の遠藤実氏は奥さん、 コメディアンの故左卜全さんは「私はゴマ粒一つ落しても拾って食べないと気がすまない」といっている。かねで買ったものだからもったいない、ということではない。人の口に入るすべては自分の生命を人間のために犠牲にしたものであるから、という、物に対する感謝である。
スポーツの美津濃の創立者水野利八氏と話し合ったとき、昔読んだ本にあった、といってこんな話をしてくれた。
アメリカのある農婦は男の子供三人を養うために苦闘していた。ある年、秋の収穫を予想してみると、自分が三食たべたのでは子供に三食与えることはできない。そこで一日二食に 一した。収穫までの半ばで計算すると、二食では不足することがわかり一日一食としてしまった。
これを知った子供たちは、発憤し、 一人は大統領、 一人は大学教授、あとの一人も出世したという。母への謝恩である。
夫が妻に対する感謝に「糟糠の妻」の故事がある。
後漢の始祖光武帝の姉に未亡人の湖陽公主がいた。大司空の職にあった宋弘と結ばれたいと願っていた。これを知った帝は、姉を隣室に呼び、宋弘の意をさぐろうとした。
「身分が高くなれば交わりを易え、富裕となると妻を易える、といわれているが貴公はどう思うか」。宋弘は答えた。
「いや私はそうは考えません。貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さず」(地位も低く貧しかったころの友を忘れてはならないし、粕や糠を食うほどの難難をともにした妻は富み栄えるようになっても粗末に扱ってはならない、と考えるのが正しいと思います)。これでは見込みなしと、姉の再婚をあきらめたという。友や妻に対する感謝である。
さて、成功者に共通している点は感謝の念が強い、ということであるが、これも人として当然にもつべき道である。しかし、往々にして自分一人で育ち、成功したかのように考える。悲しいのは「婆抜き」などといって自分の夫を生んだ母親まで抜き捨てようとしている。そして、あなたは成功してくださいと願う。一人の母さえ養うことのできない人間が何人何十人の上に立つことはできないのである。
さて、それなら、感謝の念と成功に何のかかわりがあるのか、これを理論的に解明することはできない。思うに、発憤の動機になり、信条、根性の糧となるなど、精進の鞭となるからである。
これは、NHKの人生読本で話した私の恥ともいえるものである。
貧農の長男として生まれた私は、小学三年、十才の晩秋、父に本を買うかねをねだった。父は前の畑の一隅にある柿を指さして、あの実を採って売り、かねをつくれといわれ、売り先の地図を書いてくれた。
翌早朝、三十一コもぎ取り、ザルに入れてニキロほど離れた浦和市内にある″八百久〃という生鮮食料品屋へ行った。雨戸が締まっている。しばらくして主人の石塚久蔵さんが戸を一枚あけた。そこに、うずくまっている私を見つめながら確かめるように人定尋間を受けた。了解した久蔵さん、柿のヘタの近くの皮を爪でとってなめた。渋が残っている。「すぐ売り物にはならないが、かねを何に使うのだ」「本を買う」「それじゃ買ってやろう。よく勉強するのだぞ」といって、ギザのついた十銭銀貨三コを手に握らせてくれた。生まれて初めて自分で稼いだかね、喜び勇んで帰りながら考えた。いまにえらくなったらあのおじさんのところへお礼にいこうと。
それから四十年。ちょうど私の五十才のとき銀行の取締役に就任した。株主総会が終るのを待って八百久さんへ行き久蔵さんに面会を求めた。十年前に亡くなられたという。若主人に昔話をしても、その話はきいたことがないという。ようやく納得してもらい仏前で礼をのべた。四十年ぶりに思いを果たしたわけであるが、その柿はいまだに残っている。毎年同じ実をならせているが、 ヘタ近くの渋はいまだに昔と同じである。四十年間私を励ましてくれた人は石塚久蔵さんではなかったろうか。
最後に、妻に対する感謝で、こんな剰軽な話がある。前漢武帝のころである。武帝は、広く天下から有能な士を募った。
そのとき、簡贖三千枚に書いた上申書を提出し、自分を推せんする者があった。武帝は二ヵ月もかかって全部読んでみたが筋も通り文章も堂々としていたので郎という役を与えた。と,まうきく
名を東方朔といったが、機知にもとんでいたので、帝のお気に入りになった。やることなすことも人とは違い、たとえば帝から時々食事を賜ったが、食べ終ると、余った物をさっさと懐に入れて帰るので衣服は汚れて台なしになる。かとり畠を下賜すると、肩に無雑作にかけて持ち帰る。それを見る人たちから半ば気違い扱いされていた。当時、三伏の夏には帝から廷臣に肉を下賜するならわしがあった。
その日、朔が肉を分ける場所へ行ったが、切り割いて分ける担当者がきていない。朔は腰の剣を抜いて肉を切り懐に入れて引きあげてしまった。これを知った武帝に呼び戻された東方朔は、武帝の詰間に冠をとり平伏して答えた。
「まことにもって詔を待たず、勝手に肉をいただくとは、なんと無礼なことでしょう。剣を抜いて肉を切る、なんたる壮烈。切り取った肉はほんの僅か、なんと廉直なことでしょう。持ち帰った肉は細君に贈る。なんと愛情あふれるわざでしょう」
これには武帝も笑い出して、酒一石と肉百斤を贈り、「帰って細君につかわせ」と。これから、妻のことを細君というようになったという。この東方朔はわが国の落語にも顔を出す「厄払い」という落語で賜る。感謝といえば、西漢の劉邦を補けた韓信にこんな話がある。
さら韓信は仕事もなく毎日川で釣りをしていたとき、川で数人の女たちが木綿を晒していた。
その中の一人が韓信の飢えている様子を見て、飯を与えた。それが晒し作業が終るまで数十日間もつづいたので韓信は大いに喜び「いつか必ず、ご恩返しをします」と礼をのべた。女は、それに文句をつけた。「大の男が自分で食うこともできない、あわれな者だと思って食わせてやっただけだ。お礼なんか欲しくて恵んでやったわけではない。ばかなことをいいなさるな」と。
また、あるとき、居殺場のやくざ者から、なんくせをつけられた。「体ばかり大きく、長い剣だけは下げているが度胸はないんだろう。どうだ、その剣を抜いて殺す度胸があるならやってくれ。それができないなら股をくぐれ」。韓信はしばらくして地に這って股をくぐった。見ていた人々は、臆病者とののしつた。
また、韓信は一時南昌の亭長の家に居候していた。それも数力月もつづいたので亭長夫婦もいや気がさした。ある朝、自分たちは早起きして朝食をすませてしまい、韓信が起きてきてもしらん顔をしていた。これに怒った韓信は以来亭長の家との交際を断ってしまった。
さて、後日諄となるが、韓信は、楚王に封じられ故郷に着任すると、早速、木綿晒しの女を招いて千金を与え恩に報いた。
次いで、股くぐりをさせられた屠殺人夫を呼び出して将校に取り立てた。居候してきらわれた亭長には百銭を与え、貴公は使気のない人だ、面倒をみるなら最後までなるべきだった、と語ったという。
辱しめられた股くぐりの人夫など、こらしめてもよさそうなものだが、将校にした際「辱しめられたのを耐え忍んだから今日の自分があるのだ」という意味のことを言っている。大器を思わせる言葉である。
コメント