論語に、こんなくだりがある。
孔子が弟子の子貢に、
「おまえは、私のことを多く学んだ物識りだと思うか」
「はい、その通りだと思います。間違っていましょうか」
「間違っている。私は一つのもので万事を貫こうとしているだけなのだ」(一以て之を貫く)。この一とは″仁〃つまり″忠・恕〃である。
また子貢が「一言にして以て身を終るまで之を行なうべきものありや」ときいたところ孔子はこう答えている。「其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」と。
″忠″とは、誠を尽くすことで、忠実・忠誠である。会社の社長であれば私心を捨てて会社に尽くす、ということになる。
″恕″は他人の心も自分の心の如く考えることで、相手の立場になる、思いやりの心の意である。社長であれば、株主・顧客・社員を思いやる立場になることといえる。忠と恕の二字は、人の踏み行なうべき道の基本ともいえるし、指導者の姿勢としても欠くことのできないものである。平たくいえば、商売の秘訣も部下統率の妙も、この二字から発しているといっても過言ではない。
現職時代、「商売のコツとは何か」ときかれ、とっさに「それは恕だ」と答えたことがある。
「恕とは心の如くと書くが、お客さんの心になって物を商うことが最高のコツだ。お客がお店に買いにきたり、食べにくるが、この店を儲けさせようと思ってくる人はない。いわば自分の利のためにくる。安くて品がよく行き届いたサービスをするから買ってくれる。お客に多くの利を与えることが唯一の商売のコツといえる」と。
前職時代、東京の街中で働いている人たちと誰彼となく話し合った頃のことである。あるとき、銀座の石焼芋屋に訪ねてみた。「石焼芋屋で三羽烏といわれるはど商売繁昌させる秘訣はなにか」と。
第一は、石焼芋は時代に合った有望な商品である、という自信をもって商売に打ちこむことだ、と答えてくれた。論語でいえば″忠″である。
第二に、泥芋を仕入れるが、良い芋がない日は休業する。泥芋は自分で洗い、女房子供にも洗わせない。砂粒一つ付いていてもお客さんに迷惑だし信用をおとしてしまう。これもまた″忠″である。
第三は独特の呼び声を研究する。奥まったビルの中にいても、あの石焼芋屋だと気づいてもらうためだ。-
第四は、時間を厳守すること。どこの角で″石焼芋″と呼ぶか時計の針と同じだ。
第五に一定量焼きあがってからでないと呼び声を出さないこと。お客さんの九十%は若いOLだし、あとの十%は時間に忙しい会社のおえら方と自動車の運転手さんだからという。いずれも、客の立場にたった″恕〃である。いわばお客さんは神様を地でいっているわけだ。自分を先に神様にするから売行き不振になるのではないか。
次は、東京神田で、イミテーションの指輪を行商している青年と話したときである。国電のガード下で「ちょっと時間をさいてくれますか」と声をかけたら「僕は宝石商だが指輪でも買ってくれたら」と答えた。
「いま、宝石を買うほどの持ち合わせがない」「一番高いので千円だから」「それなら一つ買おう」といってかねを渡した。街燈の下へ近づき、「旦那、ダイヤにしますか、それとも、ヒスイにしますか」「みつくろってくれ」。近くのバーに入った。店の彼女たちは顔なじならしい。
宝石商の商売のコツは彼女たちの自尊心を傷つけないことといっていた。イミテーションの安物なのにニカ月月賦で売っているといっていたが「いつものとおりで」と言うだけで″月賦〃とはいっていない。
それに「ほんものと同じ」などとも言っていない。そういえば、私が話かけたときも″宝石商″と言っている。
それにイミテーションをはめている彼女の指は決して見ないことだ、ともいっている。彼女たちの気持ちまで見通している。相手の立場になる″恕〃といえるだろう。
かつて、ダスキンの駒井社長、ヤマト運輸の都築社長と相ついで話し合う機会を得たが、お客の便利を先に考えたから、こうした商売ができた、と話してくれた。そういえば僅かな代金で掃除機を貸し、物を遠方まで運ぶなど手前ソロバンを先にしたら到底始められることではない・相手に損や迷惑をかけ暴利を得ている者もないではないが、長く続くことではない。
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