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経営者、指導者として著しい進歩の世界を生き抜くためには、それに対応する知識が必要である。
いかに過去の知的蓄積があっても時代は進歩してやむことはない。進歩に比例した知識を得なければ必ず取り残されることになる。人間は生涯勉強だ、といってきたが現代ほど痛感することはない。
言志四録に「人各分あり。当に足ると知るべし。但だ講学は則ち当に足らざるを知るべし」(人には天与の本分があるのであるから、それに満足し心安くすべきものである。ただし学問だけは、なお足らないことを知るべきである)とある。なんとかなるだろうと考えている人には、学問は必要と思う者はない。学問しなくともなんとかなると考えているのであるから当然である。
また、困難を先に考え可能を信じない者も学問をしようとする考えは起らない。学んでも、どうなることではない、と考えては学ぶ気にもなれないだろう。
同書に「学は立志より要なるはなし。而して立志も亦之を強うるに非ず。只だ本心の好む所に従うのみ」(学問、事業をする場合、目的を抱き、これを果たそうとする心を固めることほど肝要なことはない。他から強制されることではなく自分の本心から出たものでなければならない)とある。まさにこのとおりで志を遂げようと強く考えている人が進んで学ぶのである。
また、こういう言葉もある。「学問を始めるときは、必ず大入物になろうとする志を立て、然る後に書物を読むべきだ。ただ、見聞を広くしよう、知識を増やそうということでは、結果は傲慢になったり、悪事を隠すためになったりの心配がある。 ″害敵に武器を貸し、盗人に食を与える″の類で、恐るべきことだ」。
「学は己の為にするを知るべし。これを知る者は必ず之を己に求む。これ心学なり」(学間は自分のためにするものだということを知るべきだ。これを知る者は必ず自分から進んで学び役に立てようと考える。これが心を修める学問である)と。他人のために勉強する者はない。自分のためにするからやる意欲も高まるのである。
学ぶ者にはそれぞれ動機があるが、同書に「立志の功は、恥を知るを以て要と為す」(志を立てて成果を得るには恥を知ることが第一である)。「憤の一字は、是れ進学の機関なり」(発憤することは学問に進むため最も必要な道具である)ともある。
恥を知って発憤して学に励むにまさる鞭はないようである。これは私の些細な体験からもいえることである。
貧農の長男として生まれた私は高等小学校半ばで銀行へ入り、旧制中学の夜学へ四年通った。十八才の三月卒業したが、その一週間後に長患いしていた父に死なれた。家計の苦しいことは知っていたが三千五百円もの借金があるとは知らなかった。当時の私の年収は三百円。いま流でいえば三百万円の年収の者が三千五百万円の借金をゆずられたことになる。田畑、宅地で一万平米の土地もゆずられたが昭和三年当時の地価はタダ同然。農村不況下であったため売り手はあっても買い手はない。〓T 三平米が一円五十銭か一円七十銭。大部分処分しないと借金は返せない。当時の利率は年一割だったから、私の年収を全部あてても足らない始末
しかし私は母の気持ちを察して、 一握りの土地も売らずに完済しようと考えた。そのためには母の農耕を手伝って農収入を増やさなければならない。休日はもちろん、出勤前後に田畑で仕事をし、夜遅くまで作業をしたこともある。勤めから帰って農作物を荷車に積教、町じゅうの商店に売りに行ったこともある。
ところが、夜学に続いての農作業で腸疾患をおこし、栄養失調になって頭髪がほとんど抜け落ちてしまった。その治療のため半年ほど休職したが治らない。当時一年も休職すれば月給ストップか、退職を余儀なくされる。恥を忍んで出勤した。
昭和二、三年といえば金融大恐慌の年でもあり、世界大恐慌の前年でもある。どこの会社も昇給はストップ状態であった。私の勤め先も三年ほどストップされていたが、私が休職したあと出勤してみると昇給再開。しかし私は休職がたたってストップのまま。三円、五円の増収も欲しかったが、これも身から出たさび、職場内での序列も最下位に転落。
「学なし、地位なし、かねもなし、頭髪もなければ青春もなしの五無才」と自嘲したのもそのころである。私の生涯中もっとも失意貧困のときといえるだろう。そのころ私は、気晴しのつもりで、よく中国の史書を読んでいた。最初は「漢楚軍談」だったと思う。
あるとき漢書の「淵に臨みて魚を羨むは退きて網を結ぶに如かず」という言葉に出会った。この一行の言葉が私の目を覚ましてくれたわけである。川の淵を泳いでいる魚を見て、うらやんでも仕方がない。それよりも家へ帰って網作りをしたはうがよい。
いま自分は五無才を嘆き、他人の高い地位や、裕福な生活、黒々とした頭髪を羨んだところで誰も借金は返してくれない。毛が生えてくるわけでもない。それよりも、学んで実力を養ちておくはうがよい、と考えた。
また、あるとき「和漢朗詠集」を読み「東岸西岸の柳遅速同じからず、南枝北枝の梅開落日に異なり」(大河の東岸に生えている柳は速く芽を出し、西岸の柳は氷の解けるのも遅いので芽を出すのも遅い。同じ一本の梅でも南側の枝は日当りもよいので速く花を咲かせ、北側のそれは遅い)。
自分の現在は西岸の柳、北枝の梅と同じ立場にある。しかし、柳や梅にしても芽を出し花を咲かせる時の差はあっても東岸の柳、南枝の梅と同じ芽を出し、花を咲かせる。同じ水と栄養を吸収しているからである。自分も力をつけておきさえすれば、他の人々と同じ芽を出し花を咲かせることができる、と考えた。
この二つが私の発憤の動機といえるものである。人間というものは気分を転換すると不思議に先々の光が輝いて見えるようになる。ここで一つ生涯計画を立てようと考え十年刻みの計画をたてた。
二十才代は銀行実務と法律の勉強
三十才代、哲学を学ぶ
四十才代、経済、経営の勉学
五十才代、蓄財
六十才以上、晴耕雨読
一生を五段階としたので五段作戦と銘打った。
次に、生涯信条も定めた。
一、厳しさに挑戦する
二、時代の変化に挑戦
三、自己能力の限界に挑戦
四、疑問(先見)に挑戦
これを四挑戦とした。
さらに、これらが中途で終らないように楽しみにブレーキをかけた。
勝った負けた、損した得したにかかわる趣味娯楽を絶つことにした。いまだにゴルフ、マージャン、囲碁などを知らないのもそのためだが、いまとなっては悔いないわけでもない。
以上私の恥をのべたが、私としては生涯前進のレールを二十才のときに敷いたわけで、この上を歩みつづけてきたため、途方もなく見当違いの道を歩くことなく今日までこられたわけである。
それにしても、人生僅か五十年といわれた当時、五十までを自己形成期間としたのであるから、いかにも遠回りしたようであるが、急がば回れを地でいったのである。
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