しゆつらん はま
夜学へ通いはじめたころ、ある人が私にこう話をしてくれた。「君たちが夜学に行けるようになったのは、あの支配人代理が上司に話をつけたからだ。自分は中学(旧制)の学歴きりないので後輩の君たちを夜学へ通わせることにしたのだから怠けずに通学しなさい」といわれて感激したことがある。
人の親は自分に学がなければ、子をむりしてでも学校へやって学ばせようとする。誰からも強制されてのことではない。親の本能ともいえるものである。また子はこれにこたえて学ぼうともする。人間社会が発展しつづけてきた理由の一つはこの親心にあるとも考えられる。
企業もまた同じで、前記支配人代理のような心ある上司が多くいる企業は発展が期待される。現在の人よりも優れた人々が絶えることなく現われてくるからだ。あとにつづく者も、先輩を追い越すことが恩返しと考えるようになる。 切
ゆず しんじひやつばん す そんじよう た こころぎし
,
なわ 一
言志四録に「志は師に譲らず」として「人事百般、都べて遜譲なるを要す。但だ志は則ち師に譲らずして可なり。又古人に譲らずして可なり」(世の中の諸々のことについてはヘリくだりゆずるべきだが、志だけは師や昔の人にゆずることはない)とある。この志を学におきかえるとよくわかる。
昔からいまに至るまで誰にも遠慮することなく抜きん出ようと努めてきたから今日の発展がある。これは人間が他の動物に優れた最も大きな点といえるだろう。百獣の王のライオンにしても先祖や親に負けないように努力しよう、より優れた能力をもつようになろう、とは考えない。人間と動物の差が出てきた理由の一つともいえる。
こうした人間がひしめき合っている社会で先んずるには、常に、親は子を、上司は部下を己より優れた人材に育てようとし、子も部下も、これに応える心構えを欠くことはできないということになる。
よく私は、先輩、先輩と威張り散らしている人たちに「自分より優れた後輩を育てあげてから先輩風を吹かせ。育てられない人間が先輩という資格はない」ときめつけた。
紀元前二百数十年も前に中国の儒者荀況という人は「学は、以て已むべからず。青はこれを藍より出でて藍よりも青く、水は水これを為りて水よりも寒し」(学問はいつまでも止まるということはないし、怠ってはならない。青がもとの藍― 青色は植物の藍玉からとる― よりも青いように、氷がもとの水よりも冷たいように先生をしのぐ学の深さをもった弟子も現われる)といっている。「出藍の誉れ」で知られる教えである。
李説という人ははじめ孔塔について学んでいたがその進歩が著しく、数年後には師の孔塔は弟子の李論のほうが自分より学問が進んだと考え、進んで李説の弟子になったという。藍よりも青くなったからである。
ところが現代の職場などでも見られることだが、部下が専門書を読んだリセミナーに参加しようとすると目の敵にする者がある。自分が追い抜かれて地位が危うくなるからだろう。
また、部下が頭角を現わしてくると出ないように頭を打つ、あるいは伸びようとする足を引く、槌で打ち、網を引くから上方といっているわけだが、こういう土方型管理職を飼っておくようではトップの目が疑われてくる。
さて、ここでいいたいことは、学ぶ者は、こうした仕打ちや非難に負けてはならないということである。誰がなんといおうと学ぶ意思を捨てなさるな、といいたい。
三十代の私は哲学書、宗教書を学んだとのべたが、十年というもの私の手にあったものは、死生禅、般若心経講話、菜根諄など、およそ抹香臭い本ばかりであった。上司からは、そんな本は一%にして銀行に関係する本を読めと叱られたり、私の坊主頭を見ながら、いよいよお寺入りですかとひやかされたりしたが、とうとう、これをおし通した。それら本の文句は忘れてしまったが、その教えは心のどこかに残っている。それが大きく、いまに役立っている。終戦後の課長時代、浦和・東京間の国電は超満員で本も読めない。三倍の料金を払って駐留軍専用車に乗って本を読んだ。課長の分際で特別車とは、という批判をうけた。しかし、この往復二時間の読書がどれはど役に立っているか計り知れない。それに老後計画に晴耕雨読がある。晴耕準備とし椿を増やしているし、雨読の用意に二百冊ほど買いだめしてある。先年孫に整理させた。「おじいちゃん、これ、いつ読むのか」ときくから「老後読む」といったところ、「七十にもなって、まだ老前か」といいおった。
さて、二十才のとき、失意貧困の悩みのなかから、生涯設計、生涯信条を定めて将来の行路を定めると、文字どおりの心機一転である。一頁の本を読むことも億劫であったものが、何頁読んでも倦むことがなくなる。一時間働いても飽きてしまったものが、飽きを忘れるようになる。なにを読み、やっても希望に結びついてくるから不思議である。身心ともに充実していく気になることも事実である。当時、奈落の底から這い上がろうとしている自分を喜んでいたものだが、あるとき、なにかの本で「部郎、夢の枕」の記事を読んで、はっとしたことがある。つまり、希望を抱いて学ぶことはよいが、どうやら自分の学問は成功だけが先走って、いわば、うわ滑りしていやしないだろうか。競争でいえば、優勝杯だけを夢みて、地についた練習をしていないということである。
たとえば、菜根諄に「逆境の中におれば、周身、皆鍼貶薬石にして、節を砥ぎ行を幅きてしかも覚らず。順境の内におれば、満前尽く兵刃女矛にして、膏を鉛し骨を靡してしかも知らず」(逆境にあるときは身辺すべてが鍼や良薬となり、節操を高め、行ないを砥ぎ、真剣にことに当っているが自分はそれを悟っていない。順調のときは周囲すべてが、刀や文のようで、体があぶら抜き、骨抜きにされるが、自分ではそれに気づかない)とあるが、これを読み、知っただけでは、バラ色の夢を追ってもその実現は難しい。これを読んだら、自分を逆境の中に追いやって体験させることが、実現へ一歩ふみ出すことになる。もっとも、当時は厳しい状況に自分自身があったから、厳しい教えを学んでも全く抵抗なしに読むことができたといえる。
いまのべた「部耶、夢の枕」の話を読んだときも、慮生の夢に終ってはならないと考えたからである。
唐の玄宗帝の時代、呂翁という道士が、趙の旧都、部邸に来て、旅宿で休んでいるところへ、貧しそうな若者が入ってきて翁に、しきりに、あくせく働かなければならない不平をボヤく。名を慮生といっている。
そのうち、その若者は眠くなったので呂翁から枕を借りて眠ってしまった。
その枕は陶器でできており、両端に孔があいていたので度生は眠っている間にその孔へ入って行くと立派な家があり、唐代の名家であった。慮生は、その家の娘と結婚し、進士の試験に合格して役人となった。それから、とんとん拍子に出世して首都の長官になり、出陣しては匈奴を破って功をたて、さらに抜燿されて御史大夫に昇進した。ところが、あまりの出世にねたまれ、宰相に忌まれて、州の長官に左遷されてしまった。
しかし、そこにいること三年で戸部尚書に挙げられ、しばらくして宰相にされた。相にあること十年、よく天子を補佐したので賢相の誉が高かった。こうして位、人臣を極めたが、無実の罪をうけ捕えられてしまった。
慮生は嘆いて妻子にいった。「私の山束の家には田があった。あれを耕していさえすれば食べるにも困らず、寒さ暑さもしのげたろうに、なんだって、禄にありつこうとしたために今はこのありさま。昔、日舎道を散歩していたことが懐かしい。しかし、今となってはどうしようもない」といって自殺しようとしたが妻にとめられ果たせなかった。ところが、ともに捕えられた者はことごとく死罪になったが慮生だけは流罪になり命は助かった。
それから数年すると、天子も度生の無実であったことを知り、呼び戻されて、燕国公に封じられることになった。五人の子も高官になり、極めて幸福な晩年を送ることができた。退官を願い出たが許されず、年老いて病気になると天子から良医良薬を賜るほどだった。しかし病には勝てず慮生は死んだ。
ここで慮生は眠りから醒めた。見回すとさっきの旅宿で寝ているし、呂翁も、そこに座っている。宿の主人が慮生の眠る前に黄梁を蒸しはじめたが、まだ出来あがっていなかった。
「ああ、夢だったのか」と憮然としている慮生に翁はいった。「人生とは、みんなそんなものではないのかな」。慮生は感謝して呂翁にいった。
「栄屠も、貧富も、死去も、すべてを経験しました。これは、先生が私の欲を塞いで下さったものと思います。ありがとうございました」といって去っていった。
この話のように、人生すべては夢として過ごしてしまうには惜しい。小さな足跡でも残したい、と考えたものである。
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