″敬〃とは、己を慎み人を敬うということである。言志四録に、「己を修むるに敬を以てして、以て人を安んじ、 以て百姓を安んず。壱に是れ天心の流注なり」(自己修養に敬を第一とすれば、人を安心させ、人民を安んじることができる。敬は天の心が流れ込んだものといえるだろう)。
「敬給弛めば、則ち経営心起る。経営心起れば、則ち名利心之に従う。敬は弛むべからざるなり」(自ら慎むの心がゆるんでくると、なにかたくらむ心が起ってくる。たくらむ心が起ると名利に走る心が起ってくる。名利の心が起ると徳を失なうことにもなるので、敬の心は弛めるべきではない)とある。
また「敬は勇気を生ず」ともある。
以上の言葉を総合していえることは、常に自分を慎み謙虚に振舞っているような人は相手に尊敬の念を抱いているもので、相手からもまた尊敬される人ということである。相互の信頼、ことにあたる勇気、協力一致の実もここから生まれてくるものである。したがって人を用いるに″敬″をもってあたるということは、社長として欠くことのできない姿勢といえよう。
蜀の劉備玄徳は、自らの補佐役として諸葛孔明を迎えるに三顧の礼を尽くしたが、孔明もまた、劉備の″敬〃に報いるため「鞠期尽力死して後己まん」(懸命に力の限り尽くし死力をふるって倒れた後やむの覚悟で協力しましょう)と、身命を投げ出しての忠誠を誓っている。この二人を「水魚の交わり」といって、水と魚との間は切っても切れないとしている。
その形は主と従であるが、実はどちらが主でも従でもない。劉備は孔明を軍師として敬い、耳に逆らう言を素直に受け入れ、また孔明は主君を心から尊敬し、劉備亡き後も劉備の子を補佐しヽ2の立場を全うしている。
なぜ後世に伝えられるほど二人の仲がしっかりと結ばれるのか。それは″敬″という絆で結ばれているからである。主は従を敬い、従もまた主を尊敬して主の座を冒す野心もない。この結びつきを従の側からみて、主は人の用い方がうまい、という向きがある。しかし、こういう技術的な見方は間違っていると思う。 ″敬″は主が従を手なずけるためのものではない。
現代の企業において、社長が自分の補佐役として副社長をおいた、とする。二人三脚にたとえれば、そこに上下、強弱の差はない。副社長の副が一字多いだけである。もしまた、社長の不得手を補うための補佐役とすれば、社長の師ともいえる人である。当然に社長は副社長を敬ってよい。副社長を上手に使うための表面的な″敬〃というものであってはならない。そこに、本物の信頼関係が生まれてこよう。ただここで副社長が、我らは社長の師であるかのような態度であれば落第である。あくまで社長は社長として敬い、権限を侵すことなく誠をつくすことでなければならない。
よく、トップの座を狙ったトラブルが起きる。トップとしての任務を果たしていないから交替せよということであろう。しかし、それはトップに任務を果たさせなかった補佐役としての怠慢を暴露しているようなもので、トップの座を狙う資格はないといえやしないか。ここで心したいことは、「敬は己を慎み、人を敬う」の″人″についてである。
敬うべき対象は、社長を補佐する人とそうでない人、老若、上下の差があるのかどうか。とかく、上は敬うが、下は下僕扱いしている者もないわけではない。こういう向きは、肩書きだけは社長、専務とついていても、下からは下僕同然に見られているものである。敬とは、そう軽く狭く、便宜的なものではない。先輩上司を敬い、礼を尽くすことは当然だが下に対しては礼を欠いてもよい、ということはない。会社に貢献する一人と考えれば年令差などあってはならない、と思う。
私は一人一人の年令を記憶しているのも面倒であるため、誰彼の差別なく、さんで呼ぶことにしている。言動も上下で差をつけない。腰を曲げる角度も同じである。前職時代、東京で社会探訪をしたことがある。
ある冬の夕方、東京神田の国電ガード下にバタ屋の溜り場があった。一人のバタ屋が仕事を終えタキ火をしている。
「たばこの火を貸してくれませんか」といって近づき、話しこもうとしたところ「わしらは背広人間と話すのは好かない」といって取りつく島もない。そこで「おじさんはいいタバコを吸っているではないか。一ぶく吸わせてくれないか」といいながら彼の手から吸いかけのタバコを取って吸い始めた。
「旦那は何、吸っているんだ」「バットだ」「わしのは五十円の新生だ」。
三、四本残っていた新生と、私のバット一箱を交換して話しはじめた。世間話や身の上話で一時間半も話したろうか。
人はそれぞれ、立場や生い立ちなどによって劣等感をもつ。相手のそれを意識すると、相手もそれに気づく。相手も同じ人間と考えると相手も同じ人間と考える。これも相互の敬からである。
前職時代のある日、 一通の結婚式の招待状が届いた。差出人に記憶はない。知人、会社関係者でもない。当日の十日前に私の部屋へ入ってきた人が差出人であった。私が知らないはず。ビル管理会社から六カ月ほど派遣されていた雑役夫です、と名乗っている。顔は毎日見ているが名前は知らなかった。
「どこで、いつ出会っても先に挨拶されたり、話し合ってくれる。ただの他人とは思えなくなってきた。今度娘が結婚することになったので出席して主賓の挨拶をしてもらいたい」という。当日出席して役目は果たしたが上に立つ人間としていろいろ教えられたものである。人を用いる道は、権力、財力など力ではない。人を人と見る己の慎み、人を敬う心であると感じた。それでこそ、唐の魏徴ではないが「人生意気に感ず、功名誰か復論ぜん」の心にすることができるものであると。人を敬うということは、敬われた人だけでなく、当事者以外の人も感動するものである。
たとえば、中国春秋時代、斉の桓公に仕え稀になる名宰相といわれた管仲が、若いころからの友人、飽叔矛の友情をたたえて、次のようにのべている。
「私は、若くて貧乏だったころ、飽君と一緒に商売をやったことがあるが、いつも私のほうが儲けの分け前を余計に取っても、私を欲張りとはいわなかった。私が貧乏であることを知っていたからだ。
彼のためになると思ってやったことが失敗し、かえって彼を苦しめる結果になったが、私を馬鹿者とは言わなかった。ことには、当り外れのあることを知っていたからだ。私はまた、度々役所にでて、その度ごとに馘になったが、私を無能だとはいわなかった。まだ、運が向いてこないことを知っていたからだ。
戦争に出て、何度も負けて逃げ帰ってきたが彼は卑怯者とはいわなかった。私に、年老いた母のあることを知っていたからだ。戦いに破れ、召忽が自殺し、私だけが縄目の恥を受けたが、恥知らずとはいわなかった。私が小事にこだわらず、天下に功名の現われぬことだけを恥としていることを知っていたからだ。私を生んでくれたのは父母だが、私をはんとうに知ってくれたのは飽君だ」と。
十八史略に「管飽の交わり」として知られる美談だが、感謝されている飽叔矛がこれを知ったら、かえって管仲に礼の一つもいいたくなるだろう。
小学校時代だったかの教科書に、唐の詩人杜甫が詠んだ「貧交行」は、むしろ現代人に訴えているかのようである。
「手を醜せば雲となり、手を覆せば雨。紛々たる軽薄何ぞ数うるを須いん。君見ずや管飽貧時の交わり、此の道今人棄てて上の如し」
(手のひらを上に向けると雲となり、下に向けると雨になる。このように人情の変わりはいとも簡単で、軽薄の極みである。そうした人間がいまの世の中にも多くみられる。管仲、飽叔との貧乏時代の心から結ばれた友情はいまの人には、上のようにかえりみられなくなっている。残念なことである)。
現代にしても指導的立場にある人が、管仲の心であれば従う人も管仲の心になる。当然に心と心が通うことになる。よく、労使一体などというが、 一体の実は″敬″からともいえるのである。
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