「動を好む者は雲電風燈、寂を嗜む者は死灰稿木なり。すべからく定雲止水の中に、鳶飛び魚躍るの気象あるべくして、わずかにこれ有道の心体なり」
(あまりに、活動的に動きすぎる者は雲間の稲妻や風にゆらぐ灯のように落ちつきがない。静寂を好むものは、あたかも火の消えた灰や、枯れ木のように静かに過ぎる。人間としては動かない雲の中を鳶が飛び、静かな水の中にあって、おどりあがる魚のような撥測とした気概があってこそ道を体得した人の心である)菜根諄。
会社、団体内にあっても、よくみかけるが、主張もなければ、動くこともない。反対もなければ賛成もない。難しいことは高笑いで吹きとばす。泰然自若、いかにも大人の風格である。
ことにあたって、率先して動き、成果を得るのであれば、静水に魚躍るの感が深く、さすがは大物という感じを与えるが、こうした人に限って動かない。いわゆる床の間の置物といわれるものである。
反対に、会議などでも、いりもしない差し出口をきいたり、たいしたこともないことで隣の人に話しかけたり、人の発言中に電話をかけたり、中座したり、こま鼠のように動いていないと気のすまないのではないかと思う人がいる。言わず動かずのときでも足を小刻みにゆすって貧乏ゆすりだけは怠らない人もある。
いかにも、日八丁、手も八丁のように見えるが、茶坊主的な仕事はできるが、大事に直面すると、貧乏ゆすりどころか胴体まで震わしてしまう人である。
こうしたトップを戴いている部下が最も困るのは、いずれの人も、優柔不断で決断がつかないことである。決断しても、いつ変更になるかわからない。いわゆる朝令暮改社長である。ことだ。
これでは、いかに大人物を装っても部下は大物社長とは見ない。また、こせこせ動き回っている社長を活動的社長とはみない。言わず、動かずであっても組織の最高責任者としての任務をびしりと決め、行なうことであれば優れた社長として敬うことになる。さらに、将来に大きな理想をかかげ、それに挑みつづける姿を見れば、現在の企業規模は小さくとも大社長としての刻印を押すことになるだろう。
要するに、企業環境も企業も、動かない雲のように平穏な時であっても、自ら雲を呼び、それに乗って大空を飛翔する鳶のようであり、波一つない水面におどりあがる魚のような気力に温れる統率者をのぞんでいる、ということでもある。
かつて、私が第二の会社へ関係していたとき、毎日、銀行通いするほどであった。その日暮し経営ともなると、そうでもしないと、いつ銀行に見離されるかわからないからだし、その日の小払い資金にもこと欠くからである。
しかし、そうした中にあっても社員教育には、かねも時間もかけた。ある人からは「教育費という名目で、かねをドブに捨てている」と陰口をきかれた。社員を教育しても会社が潰れては役に立たない、という意味だろう。
また、ある人は「再起を期している」「飛躍の時を狙っている」といわれた。私自身が、潰れることを考えていたなら、社員教育などにかねを使うはずがない。飛躍の時があると信じていたからである。
こうした心を強くもつと、自分で口に出さなくとも心から心に伝わる。いわゆる以心伝心である。
しかし再建は急を要する。私の再建にかける執念と確信を、社員全員の心に伝えたい、それも一挙に、である。
再建計画を発表したときに、全社員を前にして窓の外の明るさにたとえて、「間中の明」を説いたことは前にのべたが、それは、いささか演技的ではあったかもしれない。何としても、社員全員に闇中の明を感じてもらいたい、つまり不動雲の飛翔、静水の中の飛躍に目覚めてはしい、そうした気持ちが、発表する私の態度に出ていたのだろう。
「経営とは演技である」といった人がある。ただただ教科書どおりに動くよりも、そこに演技力が加わると、効果も大きくなる。
しかし、同じ演技するにしても、演技される人の心になるほどでなければ猿芝居の猿の演技になってしまうだろう。自らその人になりきることでなければ見る人を魅了することはできない。槍持ちが大名の形をしてもすぐわかるようなものである。松竹新喜劇の渋谷天外さんが演技について、こう話してくれた。
「その昔、私が、人力車の出る脚本を書いたところ師匠に〃おまえ、その車曳きをやれ″といわれ、ことわりきれず、芝居で師匠を乗せて走る車夫をやった。
ところが終って楽屋へ戻ると必ずヘタクソと文句をいわれる。あまり度々毒づかれたので、今夜こそ、女形の師匠を車ごと舞台から投げ出してやろうと思って、梶棒を片足ではね上げて、荒々しく曳きだした。車の上から″うまいものだ〃という声がする。楽屋へ帰ったら″今夜は上出来だった″といって褒められた。
お抱え車は梶棒を持ち上げるにも両手でていねいにするが、角待ち車は、梶棒を上げるにも足ではね上げ乱暴に走る。お抱え車の要領でやっていたので文句をつけられたが、やっばり師匠ともなると、どっかが違う」と。
会社の社長は社長らしく演技も必要だが、肝心要になることがわからないようでは名演技のつもりでいても馬脚を現わすことになる。
「風、疎竹に来たる。風過ぎて竹に声を留めず。雁、寒漂を度る。雁去って渾に影を留めず。故に君子は事来たりて心始めて現われ、事去って心随って空し」(風が吹くと竹の葉は鳴るが、風が吹き上んでしまうと元の静けさに戻る。雁が渡ると淵はその影を映すがとび去ったあとには影はない。君子の心も同じく、ことが現われればそれに対応し、事が去れば、元の静けさ、無の境地になる)菜根諄。
平素は、鳴かず、飛ばずでいながら、変化を予測すれば果敢に対応して静に戻る、ということであれば、ことの大小を問わず、生きている社長と評価されるだろう。もし、急変、大事が予測され、泰然自若を装っても、ただ動かぬだけであったら″石の地蔵″ぐらいにしかみられない。
関東大震災のとき、ある大地主が、ひと抱えもある自宅の大黒柱を背にして、うちが潰れるようなら、よその家はみんな潰れるといって座っていた。その地主は、柱に押しつぶされて地域でたった一人の犠牲者になった。勇気ある人といった人は一人もいない。動には動に応じ、静には静で応じることであれば安全も保たれるし、人の批判を受けることもない。
環境悪化に見舞われて「これくらいで会社はビクともするものではない」と考えて無為で過ごすのと、悪化の影響をいくらかでも少なくしようとするのと、いずれが高い評価を受けることになるだろうか。
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