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二卵を以て干城の将を棄つ

昔の人は、戦いに勝つためには飼いならされた馬に乗るより野生馬に乗れ、と教えている。なれた馬は乗る人の思いのまま動くが、野生馬は荒々しく何をしでかすかわからない。しかしそのぐらいの荒々しさがなければ、矢玉の飛び交う戦場に突入していくことはできない。

人間も同じこと。泥にまみれるのを恐れる者、べからず主義で教育された無難な者は、日立った失敗や欠点のない分、行動力は鈍く、感度はさらに鈍い。一方、個性をむきだしにして荒削りな者は失敗する危険もあるが思いきった発想・行動をするものである。

ところが、そうした個性的な人間はとかく危険人物視される。なるほど可もなし、不可もなし、温厚篤実人間からみると、危なっかしくて信用できないかもしれない。一つの大きな功よりも小さな過失を恐れるからである。

前職時代の上司に、二十余年間無事故運転をつづけていると自慢している人がいた。ところがご本人は殆んど自分で運転したことがないのだから無事故で当り前、過失もなければ成功もないということで、別に自慢にもならない。怪我をするくらいの子供の方が頼もしい、とよくいわれたものだが、多少のやんちゃをし、少々の失敗をしても、なすべきことを成せることの方が大事ではないか。

関係していた会社の社長から、取締役の人選についての相談をうけた。ある営業所長を取締役に抜燿したいのだが、問題があるという。

「この出張所長は先年、下取り商品を売って交際費に使い、罰俸処分を受けたことがある。額も小さく、使途も明瞭だったが、帳簿記入を怠った、という誤りであった。そういう人間を子会社といっても取締役にすることは、という理由で一部に反対者もいるが、どうしたものだろう」というものであった。そこで私はこう答えた。

中国の故事に「涙を揮って馬談を斬る」がある。これは三国志に出てくる蜀の劉備の軍師、諸葛孔明が将来の大成を楽しみにしていた馬談を軍律違反ということで斬った故事である。馬譲の過ちによって蜀は一時窮地に陥ったほどの大罪であったからだ。その所長がむかし犯した過ちを理由に「馬談を斬る」にならって取締役抜櫂を拒否するか、それとも「二卵を以て干城の将を棄つ」という故事に従うか。

孟子の師にあたる子思が衛に仕えていたときである。子思が荀変という男を将に取り立てようとした。衛公は「あの男は下っ端役人のころ領民から鶏卵二個を物納させて飲んでしまった者だ、そういう人間を取り立てることには反対する」という。              .

そこで子思が言った「聖人が人を用いようとするときは、丁度大工さんが木を選ぶように短いのは捨て、長いのを選ぶ。長ければ数尺の朽ちたところがあっても削り取ってしまえば使えるからだ。いま君は、この戦国の世に、卵ニコのために国を守る大黒柱ともいえる将を捨てようとしている。こういうことは隣の国に聞かせてはならない」と。

過去の小さな過ちを根に思うか、それとも忘れてしまうか、いずれかでしょう。人事は社長の権限です、私は助言だけにしておく、とその判断をお任せしたわけである。

翌日、社長は出勤するなり「昨日のことは卵二つに決めました」といってくれた。その卵二つの彼は現在、子会社の代表取締役として立派な成績をあげている。部下を容れる心が大きいはど部下もまた大きく育つものである。

関係した会社が分社経営を実行した。創業三十年足らずの若い会社が二年の間に四十人の代表取締役、百二十人の取締役をどうして選んだか、よほど不思議に思ったのかよくきかれたものである。分社経営をテーマにした講演会などで必ずといってよいほどこの質問が出た。

「二百人の社員のなかから百二十人を選ぶのは困難だが男女一千二百人の社員のなかから選ぶので全く困難はなかった」

「能力、体験不足、若過ぎたり、役員としての条件に欠けたりの者も多かろうに」

「完全無欠な取締役を選ぼうと考えては百年たってもできますまい。取締役にしてから勉強して条件を満たしてもらえばよいと考えている」

「若い者に重い責任をもたして危険はないか」

「過ちを犯して会社をつぶしてしまうようなことは万に一つだ。それを恐れては何もできなかろう。危険を冒す勇気を買っているくらいだ。経営者として絶対欠かせないものは部下を信頼することだ。

それに、親より子、先輩より後輩のほうが優れていると私は考えている。優れている者を取り立てているだけのことだ」と説明しておいた。

かつて西漢の劉邦が項羽とはげしく覇権を争っていたころ、劉邦が食糧難で窮地に陥って項羽に和睦を申し入れたことがある。項羽がこれを受け入れようとしたが、亜父(父に次ぐ者)池増が、後日に悔いを残す、ここで打ち果たすべしと反対したため、劉邦の居城である榮陽を包囲した。困ったのは劉邦。和睦を申し入れて、味方の無力を敵に知らせ加えて籠城に追いこまれ、落城を待つばかり。

このとき、劉邦の知将、陳平は考えた。項羽が強いのは、池増がいるからだ。両者の間を割けばよい。そこで、楚軍の中へ間者をやり、ひそかに「池増は功賞に不満で項羽を怨んでいる」というデマをとばさせた。

項羽は、これにあわて、池増に内密に講和の使者をよこした。陳平は漢の首脳勢揃いで、この使者を歓迎し、最高の料理を使者の前に出し、丁重に言った。「亜父はお元気ですか」と。

使者たちは、主君、項羽の使者としてきたのに臣の荘増のことをきかれ、意外に思った。「私たちは項王の使者としてきたのです」と。

すると陳平は、わざと、これは、しまったといわんばかりに驚いたふりをして「亜父の使者とばかり思っていたのに項羽の使者だったのか」といって、 一度出した料理を片づけさせて粗末な料理と取りかえさせた。そして自分たちもその座を外してしまった。

まんまと、陳平の策に引っかかった項羽は、使者の話をきくと、施増に与えていた権限を奪らてしまった。

このとき、激怒した砲増は「天下の大勢は定まったも同然です(天下を得る者は敵の劉邦と決まった)。これからは、王自身でなんでもおやりになることです。私は骸骨を乞うて、民間に、うずもれることに致します」と申し出たとある。

現代でも、辞職する際「自分の一身は主君に捧げたものだが、そのむくろを下げ渡して下さい」という意味で″骸骨を乞う〃といっている。

項羽は、かくして、唯一人の知将を失なって次第に滅亡への道を歩みつづけることになる。

部下を容れる心のない狭量な将は、いかに、智o勇に優れていてもいずれは孤独になるものである。

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