「己を捨てきれない者は、会社を捨てるか、己が会社に捨てられる」これは、第二の会社に入ったとき、自分にいいきかせたことである。己を捨てる、の意味は、会社の利を先にし、私の利を後にせよということで、いわば「私事を以て公事を害せず」の精神といえる。なぜ、自分を捨てよ、といいきかせたのか。
それは、勇気を出すためである。自分が名にとらわれれば御身ご大切になって、勇気がでなくなる。私利を先にすれば、公利は後になって企業の発展は妨げられよう。第二の会社に入社した当日、社長にこう話した。
「何年ご厄介になるかわかりませんが、社長の自宅訪間はいっさいいたしませんから悪しからず」と。会社経営に私情は禁物と考えたからである。また、こうも話した。
「この会社には、子会社を含めて三社ありますが、命ぜられても社長にはなりません」
副社長で入社して社長の座を狙っては、混乱のもとになる。混乱しては、会社の再建など思いもよらない。だから、在職中、社長から直接に次の社長を引きうけてくれといわれ、子会社の社長に、ともいわれたが、入社時の約束だからと謝辞させていただいた。ただし代表取締役だけは引きうけてはしい、といわれた際は即座に引きうけた。経営の全責任を社長と同じくとることについては何の異存もなかったからである。ただ、名刺に″代表取締役″と印刷することは最後までなかった。
銀行時代も、私より地位の上の人については自宅をいっさい訪問していない。私の片意地からである。もし可愛げないと思われようとも、男一匹、権力にすがって出世しようとは思うまい、と考えたからである。そのかわり、お互いに現職を退いてからは、盆暮れに挨拶に伺うことを欠かしたことはない。これは人としての礼儀だからである。ところで、己を捨てる、捨身の勇といっても、いわゆる「暴虎潟河の勇」であってはならない。
暴虎潟河のいわれは、こうである。
孔子があるとき高弟の顔回に向かって、こう話かけた。「王侯に仕えて人の道や国の政治などについて話をするが、もし容れられないときは顔にも出さず、じっと胸中に収めておくことのできるのは、顔回、お前と私ぐらいのものだろう」と。これを側できいていた子路という弟子は、どうも面白くない。そこで孔子に問いかけた。
「道を行なう話は別にして、大軍を率いて戦いに臨もうとするとき、先生は誰と行をともにされますか」と。武勇については弟子中随一。ためらうことなく、子路、お前以外にはないではないか、と孔子が言ってくれるものと思っていたからである。
案に相違して「暴虎馬河、死して悔いなき者は、吾、与にせざるなり」(荒れ狂っている虎に素手でたち向かったり、大きな河を歩いて渡るような、むだ死にを悔いない者とは行動をともにすることはできない)。
一見、己を捨てた勇気ある行動にみえるが、自分の手柄を考えにいれた、血気にはやった勇を戒めたのである。
現代の組織内にも、己を捨て公利を先にする者もいれば、捨てきれずに自分を庇い忠臣を装う者もいる。さらには暴虎潟河の勇をふるう者もいる。これを判別することが、人を用いる者の課題といえるだろう。
前職時代、これは骨のある男だ、といえる者が次第に遠ざけられ、 ニセ忠臣だけが重く用いられた時期があった。こうした指導者は己の権力保持に汲々としているだけで、永遠の孤独を余儀なくされるものである。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」ということがある。
身を庇うから敵につけ込まれ、勇気もでなくなる。「列頸の交わり」の商相如は捨身になったからこそ和氏の壁を全うすることができたし、前漢の朱雲は、身を捨てて成帝を諌めたから忠言をききいれられた。そこに、何とか自分一人だけでも生き残りたい、良い思いをしたいというような考えが少しでもあったら、ことは成らないのである。
トップとして自らが、捨身の勇を発揮できるようになることはいざという時に大事なことであるが、部下もまた己を捨て、公利を先に、勇気をふるうようになれば、こんな頼もしいことはない。いまよく用いられる言葉に「背水の陣」がある。
この故事は、西漢の劉邦の臣、韓信が一万余の兵で趙の二十万の大軍を攻めたときのことである。韓信は綿曼水という河を背にして陣して(背水の陣)これを破っている。戦い終って部将からきかれた。「兵法には、山を背に、水を前にして戦えとありますが、今回は水を背にして勝っていますが、これはどういうことなのでしょうか」。
「いや、これも兵法なのだ。貴公たちが気づかなかっただけだ。別の兵法書に(これを死地において後に生き、これを亡地において後に存す)、味方を絶体絶命の場に追いこんで後に生きる、と書いてある。わが軍は遠征で疲れ、丘(の多くは補充兵である。万一の場合、逃げられる場所に陣を敷いたら、逃亡する者も出てくる。しかし、逃げたところで河でおばれ死ぬことを知れば、死力を尽くして戦うことになるからだ」と答えた。この故事を、私は分社経営を決断したときの参考にした。
前にものべたとおり、関係した会社がピンチに陥り、十四%、百五十人の削減案を示して協力を求めたのもつかの間、その翌年に第一次石油ショックである。日本経済は破産とまでいわれ、総需要抑制策が強行された。
それでなくても存続が危ぶまれた会社である。百五十人の人員削減では、とても追いつかない。そこで削減数を十四%から二十八%、百五十人を三百人に倍増する。どんなに苦しい時も、安易な人減らしはやらないという私の信念を貫くために、三百人の削減を退職勧告なしに達成すると約束した。新規採用を中止し、自然退職によって削減しようというわけである。ところが、石油ショックで、退職する者は皆無。他社でも人員整理に入り、中途採用なし、という状況。これでは計画倒れに終る。それなら分社することによって本社人員を減らそうと考えた。
この会社の規模が数百人の頃は順調に発展してきたのに、千人を超す頃になって傾きはじめている。セクショナリズムがはびこって、大企業病が早々に現われたと考えていたからでもある。しかし、立案した私としても初めての体験であり、文献も見当らない。全くの自作自演となる。
特に頭を悩ましたのは、販売店を中心に四十社の独立会社として細分化する点である。常識的には、対外競争力を強化するために、合併して規模を大きくする道を選ぶものである。分社はその逆のいき方であり、 一挙に四十社の中小零細企業をつくるのだから、表面的には強化どころか弱体化となる。大変な冒険である。
しかも、石油ショックの翌年、混乱の中で敢行しようというのであるから、無謀のそしりはまぬがれなかったろう。
当時、社内でこんな話をしたことがある。
「日露の日本海海戦で、連合艦隊司令長官、東郷大将は、バルチック艦隊が一列縦隊で進んでくるのに対し、敵前回頭のT字戦法で戦いを挑んで勝った。この戦法は、敵に船の横腹を見せて突っきっていくわけであるから危険この上ない。常識を逸したものといえる。当社の分社作戦も形は小さいが、これに似た冒険である。しかし海戦は大勝している、当社の作戦も成功するに違いない」と。
そうは言ってみたが、第二次大戦では、わが国の兵力を、大陸、太平洋諸島に分散して惨敗している。孫子の兵法に十を以て一を攻める、ということがある。敵の十の力を十に分断すれば一となる。味方を分断せず集中して攻めれば十で一を攻めることになる。必勝の作戦といえるだろう。第二次大戦は、アメリカが孫子の兵法を習い、わが国は無視して敗れたともいえそうである。
分社経営も、組織を分断するわけで、この兵法に逆らうことになる。内外の強敵に対し、この案が是か非か、最も悩んだところである。しかし、「背水の陣」の故事が、私の果断の勇を引き出した。
分社すれば、頼れるものは小人数の自分たちだけとなる。自分の会社を潰さないために、必死の努力をすることになる。大組織にいた時の依存心、責任回避は許されない。自利にとらわれ、困難を避けようにも、小人数では、そのまま自分にはね返ってくる。
一蓮托生、他の人と行動も運命も同じくする考えになり、協力一致の実もあがる。私は、その頃「小舟小社」「一舟一社」などと言ったが、運命共同組織にして危機を乗りきろうとしたのであらた。
孫子に「呉越同舟」という故事がある。
呉王の夫差と越王勾践が二十年以上も争ったため、呉の人と越の人もいたって仲が悪かった。しかし、どれだけ仲が悪くても、同じ小舟に乗り合わせているとき、突風が吹いて舟が沈みそうになると、お互いに力を合わせて沈没を防いだ(その舟を同じくして済り、風に遇うにあたりては、その相救うや左右の手の如し)。韓非子にも、次のような寓話がある。
肥えた豚にたかっている三匹のシラミが、ケンカをしていた。そこへ通りがかった一匹のシラミ。なんでケンカしているか、ときくと、肥えた場所の奪い合いからだという。すると一匹のシラミがいうのに、肥えた豚なら十二月のお祭りに茅の火で丸焼きにされるだろう。豚が丸焼きになれば、たかっている我々も丸焼きになる。ここのところは争いなどやめて、ともに丸焼きにされるのを防ぐことが先決ではないか。 一同、なるほどということで四匹が協力して血を吸いつづけた。そのため豚は痩せてしまい焼かれずにすんだ、とある。協力一致の妙手は、同じ危機感のもとに、利害を一致させることにある。
分社によって大舟を小舟にし、それまで他事のように感じていた危機を一人一人にもってもらえば、己を捨て、私利を捨て、公利を先にして、 一層の協力が得られる。命知らずほど恐ろしいものはない、といわれているが、昔も今も変わることはない。全員が、己を捨てたときに生ずる勇気ほど強いものはないといえよう。
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