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七 勇気は準備に比例する

その昔、日経連の専務理事であった前田一氏と対談したことがある。

「創造性とは」と私がきいたとき、すぐハネ返ってきた言葉は「それは準備である」ということであった。

一つの目的を達成するため、真剣に準備をしているとき、新しい考えがでてくる、という意味である。

氏は毎年二回、労働問題についての見解を発表するが「春の発表が終った瞬間から、秋の内容をどうするか、表現をどうするかの準備に入る。それに集中して考えていると、いい考え、新しいことが次々に浮んでくる」と話してくれた。

そういえば、亡くなった松竹新喜劇の渋谷天外さんと話し合ったとき「僕は脚本も書いているが、さあ書こうとしても、なかなか書けないが、ぎりぎりまで追いつめられて待ったなし、ということになって、原稿用紙を二、三十分呪んでいると、考えが浮んでくる。それを一気に書きあげると、予想以上に良いものができる」。二、三十分間、精神を統一しての準備である。

このように、目的を強く意識し、それを達成するために、その目的に神経を集中しておくのが創造の源となる。

リンゴの落ちるのを見た人は数限りないほどいたろうが、上から下に落ちる、なにか地球に作用するものがあるのではないか、それは何だろうと目的意識を抱いて見たのはニュートンだけであった。

目的達成に力を集中している間、つまり準備している間に新しい考えが浮んでくるのである。

いまでもよくいわれている言葉に「先祖の知恵」などといって現代人でも及ばないことが、いまでも使われている。衣・食o住に例をとっても、その多くは、災害、病気などに備えたものである。

現在、企業経営についてあれこれ説かれているが、 一字で示せ、といわれたら「備」と答えるだろう。攻めに重きをおいた創造性、守るための準備、準備とは攻守両全の策といえるからである。

関係した会社で私は、よく、準備の重要であることを説いた「節約は準備なり」「かねはピンチに備えるものである」「社員教育も準備なら、技術開発も準備である」など、ことの多くを″準備″としたため「守って勝ったためしがない」などと批判されたものである。

これは、文句にとらわれているからで真意は攻撃にあることも理解されてくる。「備えあれば憂いなし」とか。備えがあるから、勇気もでる。備える間に新しい知恵もでる。

私事になるが、いま顧みて、先輩上司の言葉でいまに残っているものの大部分は「将来に備えよ」といえることであったと気づく。教訓、警句などというものは、相手のためにいうものであるため、過去より将来にふれることが多いのは当然といえるが、それでも老後を安楽に暮らすため、というようなことは一つもなかった。

前にもふれた「定年退職後、収入が減るようであったら現職中、怠けていたと考えよ」は、知力・財力の準備をせよということである。

「腰は曲っても初心をまげてはならぬ」

「会社が万一の場合を考えて、常に短刀を持っておれ」という物騒なのもあった。公事のために自分を捨てよ、という意味である。

「ケチは大志に近づく」。つまり現在のケチは準備であって、将来大きな志を遂げるためのもので、吝音ではない。ケチはケチなりの知恵をだすが、大志をもつ者のケチは大きな目的を遂げるためのものである。つまり大きな準備をしている間に新しい大きな構想もでてくる。言い換えれば大きな創造である。

「学は立志より要なるはなし」と前にのべたが、学は志をとげる準備でもあるわけで、ただ学んでいるだけでは学ばないと同じになる。

準備と創造といえば、いかにも竹に木を接ぐように考えがちだが立派に接ぐことができるのである。

また、創造といえば難しく考えるが、これこれをしようと考えている間に名案が浮んでくる。誰にもあることなのである。ただ、創造性がないといわれる人は、目的意識が足りない。あっても、それに集中しない、ということではなかろうか。

さて、なにごとを成すにも先立つものがなければ出発することができない。できないと思うから、考えようともしない。また、資金が少なければ、やろうとすることも小さくなる。

まえにのべた「奇貨おくべし」の呂不葦は、巨額のかねがあったから子楚を強国秦の太子にし、あわよくば自分も高い位を、より多くの財貨にありつこう、という大胆不敵ともいえる考えをおこしている。しかも、立派に成功しているのである。

「長袖善く舞い多銭善く買う」とは、同じ舞いを舞うにも長い袖の舞衣を着た者はよくひきたつし、商売をするにも資本の多い者はもうけも多い、ということで、なにごとをするにも条件のよいほうが有利である、という意味である。

事業をはじめた人にしても、最初は小資本で出発し、次第に利益を蓄積して資本を大きくしていく、次第に計画も大きくなってくる。すべて、準備をしつづけて大をなしたのである。終戦後一年はどたったころであった。銀行へ二十万円の融資を申し込んできた人がある。

戦時中廃品回収を営んでいた人である。早速応じたわけだが、そのとき、独り言のように「私の当面の日標は、 一年間に一千万円の利息を銀行に払うことと、 一千万円の法人税を納めることです」といっていた。年内に一千万円の利息を払うとなると一億円の借金をすることになる。現在の二十万円を一億円にするということを意味するが、昭和四十年代には、無借金で、売掛金だけでも数億円になっている。

売掛金といえば無利息預金と同じだが、 一度も催促したことがないという。そのため、買うほうも買いやすいし、義理でも買わざるを得なくなる。

こうしたわざも資本があればこそできること。その日暮らし経営ではできることではない。その昔、北関東にある有力製材会社の社長と話し合ったことがある。

「どうです。もう少し、不景気が深刻にならないものかね」と話しだした。不景気待望挨拶とでもいえるものであった。「不景気で困ります」と先にいわないでよかったと思う。わけをきいた。「国、県有林の立木の入札がある。不況、金詰まりが深刻化すると、応募する人が少なくなる。ほとんど最低入札価額で落札できるからだ」と。これにしても用意があるからできること。なければ、他人の儲けを羨むだけとなる。

よく、事業や蓄財に成功した人を指して「あの人は運がいい、頭がいい」という。しかし、それほどいいわけではなかろう。準備を大きくしている間に度胸もついて、目的も大きくなる。それを果たすための知恵もでてくるだけではないかと思う。またよく「あの人は大っ腹だから大きなことに成功した」といわれる人がある。最初から大っ腹だった人はない。かねがたまると腹が太ってくるという。なるほど、話すことも大きくなる。

それに対し私は「あの腹の中には大きなことを成そうとする、大志と自信が入っている」といったことがある。

また「勇気が入っている」といったことがある。勇気は準備に比例する、といえるからだ。勇気がないといわれる大部分は準備不足なのである。

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