将の条件として、仁、知、勇があげられているように「勇」は、有力な条件の一つといえる)。
兵法に次の五つをあげているものがある。
管理 多数の部下をまとめ集団としての力を発揮させること
準備 いたるところに敵がいるものとして行動すること
決意 敵に対したとき、生きようと考えないこと
自戒 かりに勝っても、緒戦の緊張感を失なわないこと
簡素 形式的な規則、手続きを簡素化すること
このうち、生きようとする気持ちを捨てることは、別項でものべたとおり「己を捨てる」に通じる。現代の企業経営者にたとえれば、私利、私欲を捨てて会社のために誠を尽くすということになる。自分の名誉や私財をかばう心があるから勇気がでないのである。
ある本に、音の武将が戦場に行くとき、家来たちにも酒をふるまって出陣を祝った、というが、あれは人間の頭を麻痺させ、死を恐れなくするためだ、とあった。麻痺させれば自分まで忘れることになる。よく、飲むと太っ腹になるというが、酔って自分を忘れれば、矢でも鉄砲でも、もってこいという気にもなる。
さて次に、勇気を挫くものは、心にやましいことがあったり、やましいことをするときである。
よく、大胆不敵なふるまいで、よからぬことをするといわれる場合であっても、白昼堂々とするものはないし、するにしても、法を逃がれ、人目をそらしてやっている、ということは、それなりに臆病にとりつかれているといえるだろう。次は、劣等感を意識していたり、引け目を感じたりしているときである。
謙虚は美徳だが、自分が他に劣ると意識して自分の前進意欲にブレーキをかけているほど愚かなことはない。
まだ、弱小企業だから、だいそれた考えをもつべきではないとか、大きなものには従っていさえすればよい、ということでは生涯強大になろうという気力さえでてこないだろう。いまは弱小だが、鶏口であって牛後ではない。いまにみていろ俺だっての気概があれば顛難を突き破る勇気もでてくる。
もし、劣等感に悩むなら、それを取り除く努力をすべし、といいたい。財界総理といわれた石坂泰三翁が外国へ行くときは、いつも日本一の下着をきていくといわれていた。どんな下着でも相手にはわかるまいが、自分が知っていたら、一瞬でも引け目を感ずる。それをふさいでおこう、というのである。
また、なまじ名誉や財産があると、それを守ることが先立って勇気が失せる。中国の戦国時代は強国秦の他、燕、趙、韓、魏、斉、楚の六カ国が相争った時代である。
洛陽に住む蘇秦という男は、弱小六カ国を同盟させて、強国秦に対抗させたらどうか、と考え、六カ国遊説の旅に出たが失敗し、乞食同様になって家へ帰った。妻は織っていた機の台からも下りず、娘は食事の仕度もしてくれなかった。こうなるのも自業自得といわんばかりであった。
次いで蘇秦は再び遊説に出て六カ国の同盟、つまり合従(従に合わさる)に成功し、六カ国の宰相を兼務することになった。このときの各王を口説いた文句が「鶏日となるも牛後となるなかれ」(合従しなければ秦の各個撃破をうけて秦の家臣になってしまう。それよりも同盟を結んで、小さいながらも一国の王であったはうがよいではないか)である。
かくて蘇秦は合従の最高功労者としてまつり上げられた。洛陽の自分の家に立ち寄ったときなど、その行列の豪華さは王侯に匹敵するはどであった。出迎えた、妻も捜も、まともに蘇秦を見ることができない。捜は食事の給仕をするにも蘇秦の顔が見られない。
「前に私が帰ったときは食事も出して下さらなかったのに、今度は大変な変わりようです ・が、どうしたわけです」 292
「あなたの位がこうも高くなり、お金持ちになられたのを教れば誰でもこうなります」そこで蘇秦は考えた。前の自分も、いまの自分も同じなのに、地位やかねで人の見方はこうも変わるものか。身内の者でさえ、こうなのだから他人なら、なおさらだろう、といって親戚友人に千金を与えたという。
さて、私が自身を顧みて、自分を鞭打ってくれた鞭としているのが、そのとき蘇秦がいった言葉である。
「我をして洛陽負郭の田二頃あらしめば豊能く六国の相印を侃んや」(自分がもし洛陽城近くに八千坪余の田を持っていたら、どうして六カ国の宰相を兼ねるほどの人間になれたろうか。持っていなかったから、なることができたのである)。
蘇秦の歩き回った国は六カ国、中国の過半の面積になろう。そこを巡って、 一個の赤貧が国王を日説くという勇気はどこからでたのだろうか。蘇秦のこの言をかりる限り、無からでた、依存心脱却の厳しさからでたともいえるのである。
コメント