「鷹の立つや睡るが如く、虎の行くや病むに似たり。正に是れ他の人をみ人を強む手段翌壁:= の処なり。故に君子は、聡明は露われず、才華は邊しからざるを要して
、縄に肩鴻任鍾的の力量あり」(鷹の立っているようすは眠っているようだし、虎の歩く姿は病気にかかってい
るようである。しかし、これは人に援みかかり咬みつく手段である。これをみても君子たる
ものは、自分の賢明さを外に現われないようにし、己の才能を振り回すことのないようにし
て、はじめて大事を双肩に担うことができる者といえよう)菜根諄。
鳥獣でも鷹や虎のように強いものはあえて威勢を示すことはないが、弱いものになると、むやみに威張ってみたり、虎の威を借る狐ではないが他の力をわがもの顔にして威張る。これは人間社会でも同じようである。実力のない者は姿、形で見栄を張る。かねのないものはあるふりをする。これを態度で示したり舌先三寸でつくろう。なにも誇るものがなければウソをつく。かねのある人は装うことはない。ない者はど装う。そこに実力以上の勇が生ずるはずもない。
銀行時代、ある会社社長の訪間をうけた。用件は融資依頼である。その時は、担当者に連絡することを約束したが、翌日担当者に「拒絶せよ」と連絡した。社長の話からすれば、相応の融資は可能であったが、なんとしても俳優ではないが演技が上手すぎる。かえって脆さ、弱さを感じさせてしまう。
しかも、帰り際に、そこに靴べらがあるのに当時最高額であった千円紙幣を出し、四つ折りにして靴べらに代用している。その瞬間私の頭には融資は「ノー」とひらめいた。二年はどしてその会社は倒産、社長はいまだに行方不明である。
これとは反対に、ある社長が地下足袋、作業衣姿で現われ、借入れ申込みを受けた。早速応じたが文字が書けない。奥さん代筆で書類を整えた。その社長に私は地下足袋社長の別名を奉ったが現職を去るまで地下足袋で通した。事業も大発展し財を成した後も同じであった。
かつて、西濃運輸の創立者田口利八氏と対談したとき坊主頭に気づいた。「私と同じようにバリカンのごやっかいになっていますね」といったら「一人前になるまで髪を伸ばさないことにしている」という。当時、すでに陸運王といわれていたが自身では半人前ぐらいに考えていたのかもしれない。
田口氏が現在の事業を思いついたのは、日中事変に戦車隊の一員で出征していた時である。
「将来日本の陸運はトラック中心になる。どうせ事業をやるならトラックの輸送と心に決めた。しかし父が百姓を継がせたい一心で猛反対。当時のトラックの運転手はならず者扱いされていた。事業をはじめるにも金がない。父に頼んでも出してくれないばかりか、親戚にも、利八が借りにきても貸さないでくれと、ふれが回っていた。
なんとか苦面して昭和二年に千百円の中古トラックを買い、 ハンドルを握ることになった。昭和十六年に戦争がはじまり統制も厳しくなり、会社組織に改める決断を下した。その際、事務所らしくするため机と椅子を買ったが、いまでも腰かけて苦労時代を偲んでいる。山村の役場の小使さんの机より粗末だ」と話してくれた。 一介のトラック野郎が天下の陸運王といわれるに至っても、相変わらずの坊主頭で創業時の机と椅子を使っている。その坊主頭には、いざというときの果断の勇がいっばい詰まっているに違いない。
「辺幅修飾」という言葉がある。辺幅とは布の縁のことで、粗末な布のはしを飾りたてる、いらざる虚飾のことである。
中国の西漢が亡び、朧西(甘粛省)に拠る院算、蜀の公孫述、洛陽の劉秀(光武帝)が天下を争った一時期があった。院算は、 劉秀、公孫述のいずれと連合するかを決めるため両雄の品定めをしようとしてまず馬援という男を公孫述のもとにつかわした。公孫述は自ら蜀帝と称して四年になる。馬援が面会を申し込んでもすぐ会おうとしない。
馬援は公孫述が同郷の誼もあり、歓迎してくれるものと思っていたが案に相違している。ようやく会うことになって驚いた。座席を豪華に飾らせ、百官を並ばせて馬援を案内させた。ややあって公孫述は車に乗り、着飾った兵士を従い、皇旗をひるがえして出御、高い座についた。そして馬援を見下ろしていった。「君が吾輩に仕えるなら、侯に封じ、大将軍の役を与えよう」と。
馬援は答えもせず席を立ち、引き止める人たちに吐き捨てるように言った。「いまだ天下の雌雄は決していない。もし天下を狙うなら士を厚く遇すべきである。三度哺を吐いてもすぐ迎えるものだ。だが述は辺幅を修飾している。まるで木偶人形のようだ」。かくて早々に帰り主君の院意に告げた。
「公孫述という男は、まったくの井蛙(井戸の中の蛙)で、小さな蜀の地で、威張る能しかない男で、誼を結ぶなどもってのほかです」と。次いで馬援は劉秀に会った。劉秀は居ながらにして会い天下の国士といって礼遇した。その後、朧西の院章が死に、朧は劉秀に降っている。光武帝劉秀が「人間足るを知らず朧を得て復た蜀を望む」といったのはこの頃であろう。そのとおり、公孫述は光武帝によって亡ぼされている。
現代経営者のなかにも会社が好調であればあるだけに派手にふるまい、不調になればカムフラージュするために飾る。井底の痴蛙にたとえる以外にない。実力の充実に優る飾りはないものである。魏の武侯が太子であったころである。父の師であった、田子方に道で会ったので車から降りて平伏し敬意を表した。
ところが、子方のほうは答礼もしない。そこで太子は怒っていった。「富貴な者が人におごりたかぶるものだろうか、それとも貧賤な者が人におごりたかぶるものだろうか。富貴な者が、おごりたかぶるのが当然である。諸侯の後継者である高い身分の自分が、たかぶることなく平伏しているのに、身分の貧賤な先生がおごりたかぶるのは逆ではないか」と。
子方がこれに対して言った。「貧賤なものこそ人におごりたかぶれるもので、富貴な者が、どうしておごりたかぶれるものか。もし、 一国の君主ともある者が、むやみに威張ったり、贅沢をしたなら、たちまち人望は失なわれて国を亡ばしてしまうだろう。大夫が同様な振舞をすれば家を失なうことになるだろう。
それにくらべれば自分は、貧賤ではあるが、自分の主張が認められなければ、さっさと立ち去るだけである。もともと貧賤の身であるから、どこへ行っても貧賤は得られる」と。太子も、なるほどと思って失言を詫びた、という。
貧富、貴賤を問わず、おごりたかぶるということは、人間として、あまり格好のよいものではない。竹光を差して、武士は食わねど、と気どるのも、自ら尊厳を失なっているものだし、借金抱えて高級車を乗り回しているのも哀れを感じさせるものである。そこには勇のかけらも感じさせない。
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