韓非子に「明主のその臣を道制する所は、二柄のみ。二柄とは、刑徳なり。何をか刑徳と謂う。曰く殺象これを刑と謂い、慶賞これを徳と謂う。人臣たる者は、誅罰を畏れて慶賞を利とす。故に人主、自らその刑徳を用うれば、則ち群臣その威を長れてその利に帰す」(優れた指導者は、二つの柄=動かす力、を持つだけで部下を使いこなす。二つの柄とは刑と徳で、刑は罰を加えること、徳は賞を与えることである。部下は刑を恐れ、賞を喜ぶ、そのため指導者が罰と賞の権限を握っていれば部下を思いのままに操ることができる)とある。人の上に立つ者が、下にゆずってはならないものが、この賞罰の権である。
第二の会社に入ったとき、社長から「私は技術屋なので財務、人事など一般管理部門のことはよく判らない。任せるからよろしく」といわれた。それに対し「人事だけは社長直轄とすべきだ。事務的なことはいっさいやりましょう」といったことがある。その後、内部監査部を設けたが、これも社長直属としておいた。
自分は副社長、賞罰の権まで冒したくなかったからだ。賞罰の権限こそ、トップの座を安泰にする唯一の道なのである。
ところが、社長が賞罰の権まで部下に与えていたため、社長が軽視され、ロボット扱いされたり、部下の方が実力者として評価されるに至った例もある。なかには、社長の座まで追われた者もいる。多くは人事権、つまり賞罰の権を失なった結果である。
また、部下に賞を与えるのは自ら喜んで実行するが、罰や注意など部下から憎まれるようなことは次席に任せているトップがある。これも大きな間違いである。なにも下の下にまで賞罰の権を及ぼせということではない。管理職程度までであればよいのである。
この怠慢は、部下から憎まれやしないか、恐れられやしないかなど自己可愛さからでているものだが、これは八方美人を狙って四面楚歌の悔いを残すことになるだろう。賞は賞、罰は罰として公平に行なうところにトップの威厳があるといえるのである。あるグループ経営の社主を訪ねたことがある。
「これだけの子会社があっては、身体がいくつあっても足らないでしょう」と話かけたところ、「いやいや、身体をもてあましているほどです。なにしろ私の仕事というのは二、三年に一度行なう子会社の社長の首のすげ替えだけですから」と答えた。賞罰の二柄だけで幾十の子会社を制御しているのである。
忙しくて部下の賞罰まで見ていられぬ、といっているトップに限って、やらなくともよい仕事をしている。肝心のことを怠ってまで余計なことをすることはないのである。
言志四録に「下情と下事とは同じからず、人の君たる者、下情に通ぜざるべからず。下事には則ち必ずしも通ぜず」(将たる者は下情に通じなくてはならないが、下々の仕事には必ずしも通ずる必要はない)とある。
社員のことなどいっさい知らない、知ろうともしない社長が、新入社員や、パートがやることまでやろうとしている人がある。それで、このごろの若い者は、とボヤいている。よはど、このごろの社長は、といい返したくなる。社長は社長としての最高の権だけを握っていればよいのである。
ここで考えたいことは、社長としての威厳を保ち威令を示すには賞罰の権とのべたが、案外これをあいまいにしているということである。
それでいて、やる気がなくて困るとか、責任感、使命感がないといっている。二柄を公平に行使しない結果であることに気づかないのである。
相応の給与を出し、当然のことをしているのに賞を出すことはないとか、褒めてもつけ上がるだけで効き目がない、昇進させても有難く思っていないなどが理由である。
「功ある者を賞す」は人を用いる鉄則なのである。
罰ともなると己の不利まで考えてためらう。厳しさを忘れ、規律さえ乱れてくるのを知らない。人は、罰を当然恐れるものであるが、罰のないことをさらに恐れるものである。関係した会社で中途入社した人から言われた。「この会社は住み良いが、これで大丈夫なんでしょうか」という言葉が耳に残っている。かえって会社の将来が不安になってくるのである。
最高指導者は賞罰の権、つまり扇の要を握っていさえすれば足りる。率先垂範も欠くことはできないが二柄を忘れての率先はその効を少なからず失なうことになる。孔子が魯の哀公に仕えていたころである。
領内の人々が狩りをし、獣を追いだすために火を放ったところ、火は風にあおられて町にまで及びそうになった。心配した哀公が家来を率いて消火にかけつけた。ところが火を消している人は見当らない。獣を追うのに夢中になっている。どうしたらよいか孔子に尋ねた。
孔子は「獣を追うのは面白いし、罰せられもしません。火を消すのは、つらいうえに、火を消しても褒美がもらえません。それで消そうとしないのです」と答えた。
そして「いまは消すことが先決ですが、褒美をやっている暇はありません。また全員に褒美を出すほどのかねもありません。ここは罰を科すだけです」。
そこで孔子は「火を消さない者は敵に降服した者と同罪。獣を追う者は密猟者と同罪とする」と触れさせた。火はたちまち消されたという。
いまでも、賞などどうでもいいや、という人はあるが罪を受けてもいいやという人はない。罰のはうが効果朝面ということがわかる。罰などあえて行なうべきものではないが罰すべきを罰しない者こそ罰しなければならないと考えたい。
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