社長の若さは会社の若さに比例する、とは私の自論のひとつである。ここでの若さとは、戸籍上のものではなく、心の若さ、頭脳の若さである。
「二十の翁、六十の青年」という言葉がある。人生の半ばを越えても身心ともに健全、進歩的、柔軟な頭脳をもち、意欲的、創造的な人も少なくない。一方、戸籍年令は二、三十才代だが退嬰的な考えきりもたず、行動もないという若年寄りもまた、多いものだ。
「青春とは心の若さ」といった人があるが、まさにそのとおりで、年令とともに心の若さを失なっていくようでは、現代のように進歩の著しい時代には心の老令化も速度を増すことになる。
近年、高令化が急速に進み、高令者の再就職が問題視されている。世間は冷酷、高令者の再就職の道は狭い。職を望むほうは、自分は若いし体力も若い者に負けぬ、といっている。しかし雇うほうは使い道がないという。
肉体的な若さを主張するのに対し、頭脳的若さを求めているのであるから道が狭くなるのも当り前かもしれない。なぜ頭脳から老いるのか。学ばないからである。
飽食時代で、肉体的にははち切れるような健康を保ち、見かけは十才も若く見えるが、頭脳は全くの栄養失調、という人が増えてきた。
一日学ばなければ一週間、 一ヵ月も遅れる時代に、 一日も学ぶことがなくては頭の表面は黒髪でも内面は白髪化するのは当然といえる。
「青年老い易く学成り難し、 一寸の光陰軽んずべからず。未だ醒めず池塘春草の夢、階前の梧葉すでに秋声」(「偶成」朱薫) という若いころ歌った詩を思い出す。
またこれも若いころ職場の古老がよく解説してくれた詩の文句に「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず、言を寄す全盛の紅顔子、応に憐れむべし、半死白頭の翁、伊れ昔は紅顔の美少年……宛転たる蛾眉、能く幾時ぞ須哭にして鶴髪乱れて糸の如し……」(劉廷芝白頭を悲しむ翁に代わる)とある。
その老社員は、こう説明してくれた。「年々花は同じでも、年ごとに見る人は変わる。いま全盛の紅顔の若者たちよ、この半死白頭の翁を憐れんではしい。この翁とて、いまこそ憐れな白頭の翁だが音は君たちと同じ紅顔の美少年だったのだ。……思えば黒々とした美しいのもいく時の間か、たちまち鶴のような白髪が糸のように乱れかかってくる、という意味だ ・が、この翁が僕で、紅顔の少年は井原君だ」といわれ、その人の頭を見た記憶がある。その 一
価
自分がいまや憐れみを乞う年になっている。まさに青春は再びかえらずであるが、悔いてもいかんともし難い。
それよりも、学んで若さを保つに如かずである。常に学んでいる人は因襲にとらわれて頭脳硬直をおこすことはない。常に柔軟である。
また、広く学んで創造資源を多くもつため戦略的である。平たくいえば、感度良好で、ヒラメキも鋭い。心に若さのある者は肉体的な若さよりも攻撃的である。端的にいえば気力旺盛である。
これらが、社内にも反映し、会社の士気も高まり、いわゆる若い気力ある会社といわれるのである。統率者として、こうありたいものである。
これに反して、新知識を学ばない者は、十年一日の如く、というとおり、因襲にとらわれたり、体験を唯一のより所としたりで進歩がない。気力流れる青年社員を率いることはできない。
トップは、会社の若さを保つために、自ら学びつづけなければいけない。これもまた統率者としての大切な仕事といえよう。
さらにつけ加えると、学ぶに心したいことは、不変の哲理とでもいうか、原点となる哲学を知っておきたいということである。
現代のように学問が専門化され細分化され各人各様の解釈がなされるようになると、何が何だかわからなくなる。「際に失なわずして、博に失ない、匝に失なわずして、通に失なう」(言志四録)ということは、前にのべたとおり。博識のためにかえって失敗し、よく通じているために失敗するのも、哲理をわきまえていないからではないか。
哲学、原理原則、帰一する原点を学ばないで進もうとしても迷路に入るだけである。私がよく故事を引用するのもそのために外ならない。
聖人孔子は「仁」を貫いた。つまり、 一以て之れを貫く、である。
おん
コメント