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三 財力充実への道

関係会社の幹部と雑談していたときである。

誰かが「貧乏よりつらいものはなし。この会社もなんとかならないものか」とボヤいている。もう一人は「働けど働けど楽にならぎる、じっと手を見るか。啄木の気もわかるよ」と同調している。                                    ・

そこで言った。「この会社は高収益会社で有名であったこともある。それが、だんだんじり貧になって、いまでは、その日暮らし。皆さんは儲かる会社にもしたが、じり貧にもしている。とすると皆さんは裕福よりも貧乏好みかと思っていたが、そうではなかったのかね」

「とんでもないこと。貧乏が好きという人は一人もいませんよ。ただ、どうしたら昔のように儲かる会社に戻すことができるのか見当がつかないで困っているだけだ」

「それは、皆さんが儲ける時代をつくり上げてきたことを再びやるように心がければよいだけではないのかね」

「そういわれれば、そうなんだが、どんなことをしていたかな」

「当時私は、この会社にいなかったが、どういうことをしていたか、おおよその見当はつく」「それはなんだか教えてもらいたい」

「会社が金持ちになる道は三つある。第一は″目先の利益にとらわれないこと″である。一つの例をあげてみるが、当社の創業は、世界的な医療機械の発明から出発している。そのため、製造するにも販売するにも初めての体験、まず社員の教育から始めなければならなかった。人材教育を優先したわけだ。ところが売上げも増え利益も増えてくるに従って人材教育など後まわし、速く多く造って売ればよいという目先ソロバン経営に堕落している。近年社内研究会など見たことはなかろう。新入社員が入ってきても、ロクな教育もせずに工場の作業を手伝わせる。月給を払っているのだから一日でも働かさなければ損というような目先の打算からだろう。遠謀深慮ある者なら、まず社員をみっちり教育することから始めるものだ。

ある著名な機械販売会社の社長は新入社員をまず教育する。ついでセールスに出す。六十円の機械部品一コでも売ってこい。売ってこない者は帰宅を許さぬ、としている。根性鍛練である。

また、この会社には見られないが、堅実な財テクなら許されるとしても、投機で儲けようとしているものもある。遠き慮りなく、近く憂いのあることを忘れているのである。

第二は、会社を食いものにしないことである。

当社も創業以来、高利貸しを頼るはど金銭的苦労をつづけてきた。その当時は、交通費、通信費にもこと欠くありさまであったから経費のムダ使い、公私混同は見られなかった。

ところがその後の高収益時代に入り、かねの有難みを忘れてからは、ムダをムダと思わない。逆境時のムダも好調のムダも、ムダに変わりはないが、好調になれた後はムダをムダと思わなくなる。

苦しい創業時期には公私混同はやりたくともできなかったろうが、いまでは、私を誘って堂々とやろうとしている。当然と考えて罪悪感さえなくなっている。

昔、唐の大宗は「国王が人民から税を重く取って財をつくり、贅沢をすることは自分の肉を割いて食ってしまうようなもので、食い切ったあとは自分が死ぬ」(肉を割きて以て腹に充つ)と戒めている。

こういう寄生虫がいるようでは会社も肥えることはない。

第三は、前にものべたが、まず出ずるを制すということだ。

この三点を守るようになれば、この会社も金持ち会社になれる。いっていることは、まことに当り前のことだが、当り前とは言うはやすく、行なうは難い、といえるだろう」と話した。東京大学名誉教授で林学博士の本多静六という先生は、生涯詰め襟で通したという。先生の著書からいくつか引用してみたいと思う。

「人間の一生をみるに、誰でも早いか晩いか、 一度は必ず貧乏を体験すべきものである。つまり物によって心を苦しまされるのである。子供の時や若い頃に贅沢に育った人は必ず貧乏する。その反対に、早く貧乏を体験した人は必ず後がよくなる。人間は一生のうち、早かれ晩かれ一度は貧乏生活を通りこさねばならぬのであるから、どうせ一度は通る貧乏なら、できるだけ早くこれを通りこすようにしたい」

「貯金生活をつづけて行く上に、 一番さわりになるものは虚栄心である。いたずらに、家柄を誇ったり、今までの仕来りや、習慣にとらわれることなく一切の見栄をさえなくすれば、四分の一天引き生活ぐらいは誰にでもできるのである」

こうして、月給の四分の一と、賞与、出張手当などの臨時収入はまるまる貯金し、これを株式や土地に投資した。そして、それが三倍に値上りすると、半分を売却して投資し資金を回収して、残り分はタダにしておく算用である。

月給の三分の一だけで生活し、よほど困っても貯金を引き出すことはなかった。月給日前になるとゴマ塩だけで過ごしたこともある。そのくらいであるから洋服も詰め襟で、それを十年も着つづけ、裏返してまた五年着たという。それでいながら、次のようにも書いている。

「あるとき、私の家内が少しばかり世話した苦学生がきて、肋膜で二〜三ヵ月はど転地療養の必要があるというから、自分の日光旅行の費用を出してもよいか、といい出した。実は家内は長年の慢性萎縮腎で、予後不良と断定されていた。まだ日光を見ないでヽあの世に行って結構といえないでは気の毒ゆえ、かねて日光行きの五十円を渡しておいたので『お前の好きにするがいい。しかし、それだけでは不足だろうから、僕の服を作る予定の分もやろう』と二人で百円にしてやったが、その後その学生は丈夫になり、立派に卒業して妻子もで  靱き、ついに博士になった、という報告をきく度に、私の家内はついに日光を見ずして亡くな  ¨り、また私の服も長く染め直しのままであったが、そのこと柄は私どもの最も楽しい思い出の一つである」と。

こうして蓄積した財産を六十才のときことごとく公共事業に寄付し、あい変わらず詰め襟生活をつづけ、昭和二十七年に故人になっている。

先生はこうも記している。

「人生の最大幸福は、その職業の道楽化にある。富も名誉も美衣美食も、職業道楽の愉快さには遠く及ばない。……かつて私が埼玉県人会で、この職業道楽説をのべた後に渋沢栄一翁が立たれて『若いとき、自分の故郷に、阿賀野九十郎という七十余になる老人がいて、朝から晩まで商売に励んでいた。あるとき孫や曽孫が集まり、おじいさん、そんなに働かないでも、家は金も田地もたくさんあるのだから、どうか伊香保へでも湯治に行って下さい、とすすめたところ、九十郎のいうには、おれの働くのは長年の癖で、まるで道楽なのだ、いまさらおれに働くなというのは、おれに道楽をやめろというようなもので、親不孝なやつらだ。それに、おまえたちはすぐ金々というが、金なんか、おれの道楽のかすなんだ、といわれたが、青年諸君は、本多君の説に従って、盛んに職業道楽をやられ、ついでにその道楽のかすも沢山ためるように』と説かれた」

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