別項でのべたとおり、私の二十才当時は貧困失意のドン底であった。
発心して生涯設計を定めた頃、「人生とは何か」と考えたものである。何とか貧困失意から脱したい、ここから人生を発想することも無理からぬことであった。結局「人生とは準備である」ということに落着いたわけである。
人生わずか五十年、平均寿命が五十才といわれた頃に、五十才までを法律・哲学・経済・経営の勉学に費やしたのも「人生は準備」の現われといえるだろう。
病気・災害・貧困・失敗などの体験者は再びそれをくり返さないように、あらかじめ注意するようになるものである。人間は誰しも危険を避ける本能がある。体験者にはことに強く現われる。
かつて関係した会社で、埼玉の西北に分工場を建てた時のことである。室内貯水池を造るよう指示をした。何のために造るのか、専門の設計士にも判らない。製品の設計図をコピーして保全するのが目的であった。地震o火災の際に東京の本社工場一カ所に保存しておくだけでは万一の場合、生産に戸惑うことになる、と説明した。私には関東大震災で住宅が倒れ苦労した体験がある。若い人にはそれがない。
「震災なんかありませんよ」と一笑に付していたが池は造らせた。その池が無用の長物で終ればこれに越した幸いはない。
荘子という哲学者は金銭にも淡自で、自由気ままに生きることを楽しんだ。そのため、 一食代にもこと欠くことも少なくなかった。これが何度もつづいて、さすがの荘子も餓えに勝てず、代官のところへ借金に出かけた。代官も迷惑と思ったが断りきれず逃げ口上を言った。「承知した。二、三日中に領民から税金が入ってくるから、三百金ぐらいなら用立てよう、それまで待ってもらいたい」。
荘子にしてみれば三百金の大金より、いますぐ一食代がはしいのである。そこで荘子はこういってやり返した。
一吾輩がお前さんのところへくる途中、往来の車の轍の跡の水溜りにいる一尾の鮒から呼びとめられた。『こんなところへ迷いこんで水が少なくて息苦しくてたまらない。何杯かの水を運んできて私を助けてくれませんか』と。
そこで吾輩は面倒くさいから、こう答えた。
『二、三日のうちに南の方へ遊説に行くことになっているから、そのついでに西江の水をいくらでも流しこんでやろうじゃないか、それまで、二、三日待っていてくれたまえ』そしたら鮒のやつ、ぶんと怒って『私の必要なのは何杯の水で足りるんだ。それなのに二、三日待てというならもう要らないよ。あとで、乾物屋の店先へ私の死骸を見にきたらどうだ』と。いや、お邪魔したね」といって出て行った。これが「轍鮒の急」のいわれだが、いまでもさし迫った困難欠乏の意味に用いられている。
荘子の時代のように名利の達観が看板になっている人なら、これで通用するだろうが、いま時では乞食扱いされて相手にもされなくなるだろう。
また、個人ならいざ知らず会社などでは成り立たなくなる。少額でも不渡りを出せば何十年の歴史を誇る会社でも一巻の終りになる。それを防ぐ道はたった一つ″準備〃だけである。
関係した会社が資金ぐりに困難している当時、給料日の到来がなんとも早い。不安がそうさせるのである。
労働組合とボーナス交渉をしている最中に、財務担当部長から「なるべく交渉を長びくように努力してもらいたい」と頼まれた。前職時代から組合交渉は限りなくやったが、こういう依頼ははじめてであった。いうまでもなく、交渉が妥結しても払うかねがないからである。
ボーナス、給料、株主配当などは、それまでに得た利益から払うもの。かねがないという理屈はなり立たないわけだが、入ったかねを行方不明にして、払わなければならないかねに戸惑うのである。
昔、ある主婦は主人が給料を持ち帰ると古封筒に、これは米代、これは電気代という具合に入れ、支払いに支障のないようにしているときいたが、 一カ月の準備をまずしておくのである。
いまも昔も同じだが、裕福でなくとも、裕福になっても人の心は変わらないらしく、病気・災害・老後のために貯蓄をつづけている。
女房の顔を見ていると飽きるが、福沢諭吉の顔は見飽きることはない、といった人があるが考えようによると、準備には限度がないともいえそうである。
ある大金持ちにきいたことがある。「莫大な財産があるというのに、まだ儲けようとしているが、儲けてどうなさるつもりか」「損することもあるからだ。わしの財産はあるといっても限りがある。しかし、これから、いくら損するかわからない」と答えてくれた。
さて、私の準備癖ともいえるほどのものは若いころの貧困時代に芽生えているようであるが、なんとか生活できるようになった今日でもなおらない、不治のものらしい。五十才までを自己形成、五十才以上を蓄財とし、六十才からを晴耕雨読としたとのべたが、この晴耕雨読準備もちょうど五十才からである。
晴耕相手として椿を選んだ。上が適している。花・葉も美しい。将来住宅が増え、近所の人にも楽しんでもらえる。椿は整枝など植木専門家の手を借りないですむ。落葉がなく近所迷惑にならない。高く育たない。老後手入れがしやすい、などなど先々まで考えて選んだわけである。
雨読の準備として、梱包のといてない本が何百冊か買いだめてある。第一の私の人生は銀行、第二の人生はメlヵl、第二が講演執筆、第四が晴耕雨読。第五の人生と家内にきかれたので、「死んだときは冥土というからには土があるだろう、あの世とやらで百姓をやるから野菜の種を棺桶へ入れてくれ」といってある。こうなると準備病も「病膏盲に入る」とでもいうのであろう。
著者 井原隆一氏について
十四歳で埼玉銀行(現りそな銀行)に入行。十八歳で夜間中学を卒業するも、父親の死後莫大な借金を背負い、銀行から帰ると家業を手伝い寝る間も惜しんで借金完済。その間、並外れた向学心から独学で法律。経済。経営・宗教・哲学・歴史を修めた苦学力行の人。最年少で課長抜擢、証券課長時代にはスターリン暴落を予測し、直前に保有株式証券をすべて整理、経理部長時代には日本で初めてコンピュータオンライン化するなど、その先見性が広く注目され、筆頭専務にまで上りつめた。
六十歳のとき、大赤字と労働争議で危地に陥った会社の助っ人となり、 一挙に四十社に分社するなど独自の再建策を打ち出し、短期間に大幅黒字・無借金の優良会社に蘇えらせる。その後も数々の企業再建に尽力。名経営者としての評判が高い。
一九一〇年、埼玉県生まれ。主な著書に「人の用い方」「社長の財学」「財務を制するものは企業を制す」「危地突破の経営」「危機管理の社長学」「帝王の経営学CD」…他、多数。二〇〇九年逝去。
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