一度の大儲けに終わることなく会社を永続的に発展させるためには、5年、10年と長い期間で事業をながめ、世の中の流れに合うように方向を修正していかなければならない。これから良くなるものを手掛け、悪くなるものを捨てる。これは業種業態。規模の大小は一切関係ない、まさに経営の定石である。
我が社スター精密が61年間、発展を遂げてこられたのはまさにこの定石を守り、世の中が、そして自社が身を置く業界がどう変わるかを読んで、そのなかでどう動いていけばよいかを10年のスパンで見極めて進んできたからに他ならない。そこで、我が社の社史をここでかいつまんで述べてみる。
スター精密は私の父である佐藤誠一が、精密部品加工業で創業した会社である。そもそも、なぜこの商売を選んだかというと、戦後の荒廃のなか、ヒト。モノ・カネのない一介の町工場が繁栄していくには、これからの製造業のあり方を見据えて、次の3つの条件に合う事業でなければならないという考えがあったからだ。
第一に、「材料をたくさん使う仕事はだめだ」。理由は、日本は資源がないために戦争に負けたのだから、これからは材料の要らないような仕事をやるべきだということ。
第二は、「輸送コストのかからない事業を選ぶ」。というのも、当時の静岡はお茶とミカンと木工以外に産業らしい産業のない、田舎の中都市であった。この地でメーカーとして事業を行う以上、東京、名古屋、大阪といった大都市に取引先を求めるしかないから、輸送コストのかからない仕事を選ぶべきだということ。
第二は、「人を使わない仕事を選ぶ」。なぜなら、当時は戦時体制下で抑圧されていた労働運動が一挙に吹き出した時期であった。戦後の復興に伴って、必ずや賃金も飛躍的に高騰するだろう。したがって、これからは人を大勢使う仕事はダメだ、人を使わない仕事を考えろということであった。
それから現在まで、創業の原則に外れるもの、つまり「小資本で高い付加価値を生む事業」以外は、たとえ儲かりそうなものでも一切手を出してこなかった。
創業からこれまで常に時の流れを読んで良くなるものを増やし、同時に悪くなるものを除く。とくに、不況時は売上高利益率を上げることが難しくなるので、B/Sを徹底的にスリムに保ち、総資本の回転率を高めることに注力する。こうすることで確実に利益を増やしてきたのである。
ちなみに現在の収益の柱である工作機械部門は、創業から10年の間に脱下請けを目指して、様々な合理化策を講じる中で育まれた事業である。1950年代は、製造に使う自動旋盤を自作したり、専用機を設計してオリジナル製品を開発したりと、掘っ立て小屋の零細企業ながら脱下請けを志向してきた。
そのおかげで大企業が逆立ちしてもできないような値段で、大企業に劣らない品質のものをつくる体勢を早くから確立し、現在は国産腕時計の70%は、スター精密の心棒やネジを使っていただいている。
1960年代、つまり創業から10年ほど経った頃からは、海外への販路開拓を始めた。
当時は池田内閣の所得倍増計画で、造ればいくらでも国内で売れた時代である。中小メーカーで海外輸出を考えているところなど、ほぼ皆無といってもよかった。
しかし、これからの製造業は国内だけを相手にしていたのでは伸びない。海外に販路を求めないと生き残れないという方向づけのもと、社員誰一人英語のわかる者などいない中で「儲かる輸出」を確立すべく動き出した。そして現在、我が社の売上の85%は海外である。なおかつ、国内で売るよりむしろ利益率の高い商売をさせていただいている。
製造業が「儲かる輸出」をするためには時間というものが必要だ。なぜなら、製造のみを手掛け、販売は商社まかせのような輸出ではなかなか利益が出ないからだ。したがって、海外に自ら販売拠点や修理センターをもち、直販体勢とサービス体勢を整えたのである。
それによって、お客様にスペアパーツー台売っても利益がしっかり出る、お客様の機械を1台修理しても儲かるような商売ができるようになった。これはやはり、時間をかけたからこそ実現できた体勢なのだ。
続いて、1970年代には生産拠点も海外へ広げた。1973年に初の海外生産工場を韓国に設立し、当時の主力製品であったブザー部門の部品加工から組み立てまで、 一貫生産体勢の充実を図った。
また、私がスター精密に入社した2年後の1977年には、ニューヨーク・マンハッタンのど真ん中に現地法人を設立した。当時、たかだが年商20億円程度の静岡のローカル企業が、アメリカに販売拠点を持つのかと新入社員の私はびっくりしたものだが、なにしろ小さな会社だったから、世界同時発売によって開発費を早く回収しないと、資金が回らなかったのだ。
1980年代は、エレクトロニクス時代の到来を予見、従来の精密加工技術との融合により、プリンター部門や小型音響機器部門など現在の収益の柱を育ててきた。そして、1990年に東証一部上場を果たしてからは、バブル絶頂の先にくる低成長時代に備え、中国やロシア、ブラジルなどの新興国への進出とともに、徹底的に財務のスリム化を進めてきた。
ちなみに、今でこそ2千社以上の日本企業が進出している中国の大連地区であるが、1989年に生産工場を建てたときには、スター精密のほかに2社しかいなかった。89年といえば天安門事件が起こった年で、その当時、進出を考えていた企業はすべて撤退した。それでも「ここで1年進出を遅らせれば、その損失は3年分も5年分もの影響が出る」ということで、スター精密は大連進出を断行し、現在は我が社の基幹生産工場となっている。
以上、スター精密の社史をかいつまんで述べてきたが、要するに1950年の創業から常に10年後の将来を見越し、10年タームで経営をしてきたというわけだ。まだ零細企業の段階から、自社で使う機械は自社で一番効率よくつくれ、これからは脱下請けだ、中小企業の生きる道は専門化だ、海外進出だと、いち早く会社の進むべき方向を見抜いて、手を打ってきたのである。
ただし、21世紀に入って、世の中の流れは急激に速くなった。このたびのアメリカ発の金融不安が、あっという間に世界的不況をもたらした今回の件をみても明らかだ。したがって、いまスター精密の経営の舵をとる私は、10年ではなく5年先を見る経営をしている。10年先を見ても予測の精度が低すぎるからだ。
5年先を見通し、同時に5年先に実現したい夢をしっかりと社員に示す。そして、常に儲かる事業にのみ経営資源を集中し、不要な借金をせずに、全社一九となって着々と成長する。これが資本力も組織力も弱い中小企業が、これからの低成長時代に徹する経営の定石であることは、スター精密61年の歴史が証明するところだと自負している。
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