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第六章 社長の統率力

目次

一 組織運営の要点

昔の名君は、即位すると人民の戸籍名簿を拝んで、人民あっての国王だという気持ちを忘れないようにした、という。現代であれば、社員名簿・お得意名簿・株主名簿などを拝むということになろうか。いろいろな会社の要請で、会社再建にあたってきて私なりに思うことは、組織の運営は人のつながりが重要だ、ということである。この人のつながりは、ちょうど鎖にたとえられる。

一個の環、 一部門の環が弱いと、他がどんなに強くても重い物を支えることはできない。社長とスタッフの環、中間管理者と平社員の環も同じく粒揃いでなければならない。社長は能力者だがスタッフに力がない、幹部は粒揃いだが社員がお粗末、というのでは、組織の力を発揮できない。

ある会社で中近東に工場を建て、現地従業員を採用した時のことである。管理職は大学出身者で有能なのだが、現場の従業員は電池の入れ替えもできない始末。それでいて覚えようともしない。いつまでたっても工場が正常に稼動しないのである。教育の行き届いたわが国では想像のつかないこともある。その国の教育水準の高低が、直接、産業界全体にも影響を及ぼしていることを思い知らされることになったが、組織の効率的な運営のためには、 まず、 一人一人の能力を高めることが第一歩といえるのである。そこに人選びとともに企業としての教育が痛感される。

昔、中国のある王は笛の合奏を好んで、必ず三百人に奏でさせた。そこで、われこそ笛の名手、と合奏に加わりたいと志願する者が多く、数百人にも達したという。そのあとを継いだ王は独奏を好んだ。ところが、合奏を好んだ前の王の時に笛を奏したいといっていた者で、次の王は独奏が好みだということを知ると、こそこそと逃げだす者が少なくなかった。一人一人吹かされたのでは自分の下手さがばれてしまうからである。

大組織ともなると、無能者も能者の陰にかくれて能者ぶりを装うこともでてくる。これを見逃しておくと、人の環が弱くなリクサリが切れてしまう。組織管理の前に人の管理ということが、統率者としての大事な要点となる。

本書の第一章「大器は人を求め小器は物を求む」の項でものべたように、大事に挑もうとする者は、有能な人材をブレーンとして選ぶ。また賢相は賢人を選ぶ。社長のスタッフの堅固な環づくりである。よく、部課長に優れた人材のいる会社は伸びるといわれる。最高統率者と卒をつなぐ重要なクサリの環を考えれば、それは当り前のことといえよう。

ところが、ある社長が「部課長などなまじ教育すると生意気になって、理屈ばかり言うから教育しても意味がない。俺の命じたとおりやっていればよい」といっている。社長は、何も言えない幹部の上に立って、絶対君主になっていい気分にひたっている。いずれは、社長自身も得意先に、関係機関に対していいわけ以外の日はきけなくなる、ということを知っているのだろうか。

企業は組織で動き、組織は人で動く。そのすべてを動かす者は社長だが、投網の裾には鉛のおもりがついている。おもりが一コ欠けても魚は逃げてしまう。網の投げ方・引き寄せ方・場所選びも肝心、投げるタイミングも肝心。しかし、凡てがうまくいっても網の一カ所おもりが欠けていたら徒労に終りかねない。ここにも社内で網打つ者の難しさがある。

本書でこれまで何度ものべてきたように、人選び、人づくりができての統率者である。社長の志をスタッフが体し、これを、それぞれの部門で具体化する。

木下藤吉郎は清洲城の上塀修理を三日でやり、信長以下を驚かせた。まともにかかって二十日は要する仕事を三日でやるなど、まさに神業である。その秘密は、ムリな仕事だが賃金はたとえ三日で仕上がっても二十日分払おう、疲れたら休んでよい、たら腹飲み食いして元気にやってくれ等々、職人衆など人間扱いされなかった時代に大切に扱ったからである。棟梁には″下請奉行〃の肩書きまで与えている。藤吉郎に大工・左官の技術があったとは思えない。あったのは、部下のやる気を起させる知恵だったのである。それなら、部下にやる気を起させるにはどうあるべきか。これは本書の各所でのべたとおり「部下を大切にする」の一語に尽きる。

なにも部下にペコペコすることはない、ちゃんと月給払っているんだ、といかにも食わせてやっているという態度の社長がいる。

社長がいかに学あり、地位あり、財あり、といっても社員を社員と思っていないようでは、右を向けと命じても心は左を向いてしまう、精を出せといって、舌を出されるのがおちである。厳しくとも部下を大切にしている心があれば、無理な命令でもきくことになる。

部下を率いて事にあたる場合、すべての部下の心を一つにすることができれば、事は半ば成ったに等しい。集中の力を発揮することができるからだ。その中に一人二人でもやる気を失なっている者があれば力は少なからず減殺されよう。

そのため、私は現職時代に、課・部単位で総力を結集しようとする場合、個人個人の気質、最近の心情、家庭での出来ごとなどまで心くばりしてメンバーを選んだ。

平素は元気だが最近失敗したことがあった、家庭に不幸があった、健康を害している等々に気づく。そうした人間を加えても力を集中することはできないからだ。

ある新種機械の開発を担当していた男が胃を病んで入院してしまった。補助社員一人だけでは手も出ない。

そこで私は、担当部長に指示し、他の仕事に従事していた技術者三人をその機械開発にあたらせ、病院へ度々出かけては成果を話せ、と指示した。十日もするとその病人が退院して五人で取り組んでいるという。開発に行き詰まり悩みに悩んだあげくの神経性胃炎だったわけだ。開発の目当てがついたとたん、退院したくなった。一週間後には、五人で共同研究の結果、ネックを見いだしたという。三人寄れば文殊の知恵というが、五人がかりででた知恵である。一人で長くかかるよりも、五人で短日時で仕上げたほうがはるかに有利でもある。

集団を率いる場合、不快、不平、不満、不吉、不穏、不興、不安、不幸、不能など、こうした「不」のつく人間を集団に加えることも好ましくない。

反面、平素から、こうした人間にしないよう努めるのが統率者の任務といえる。

二 激水の石を漂わすは

会社経営の体験から痛切に感じたことの一つに、士気の弛緩と組織内の不一致がある。弦のたるんだ弓のように、いくら引きしぼってもしばれない。放しても飛ぶことはない。これとは反対に、組織が一九となって集中力を発揮した勢いはど強いものはない。いわゆる集中した組織の威力である。

孫子の兵法に「激水の疾くして石を漂わすに至る者は、勢なり。鷲鳥の撃ちて毀折に至る者は、節なり。この故に善く戦う者は、その勢は険にして、その節は短なり。勢は弩を積るがごとく、節は機を発するが如し」(止めてある水が激流となって大きな石を流してしまうのは水の流れに勢いがあるからだ。鷲のような猛鳥が獲物を一撃で砕いてしまうのは瞬発力があるからだ。これと同じく、激しい勢いに乗じて瞬発力を発揮するのが戦い上手である。弓にたとえれば、引きしばった弓の弾力が勢いで、放たれた矢が瞬発力である)とある。このように現代でも組織の集中力をいかにして発揮するかが、勝敗のわかれでもある。

やる気を失なった者が集まった組織では源流のない腐った水たまりでしかない。これに人間が知恵を加えて勢いをつければ強力な電力まで生みだす。大木を倒しても、そこにおいた

だけでは朽ちるのを待つばかりである。これを断崖から落せば巨岩をも砕くことになる。孟子が「知恵ありといえども、勢いに乗ずるに如かず」といっている。

野球にしても先取得点を望んでいる。最終回に得点しても勝てる。逆転勝ちもある。しかし、そうあるためには、勢いに乗せておきたい、そのための先取得点である。

力士が初日を自星で飾りたいという。なにも初日に勝たなくともあと十四連勝しても優勝の可能性はある。しかし、そうなるためには、気持ちをよくし、希望をつなぐことが欠かせないのである。

このように考えると、現代経営にあたって、指導者は組織にどう勢いをつけるかが、重要な課題といえるだろう。

従業員一人一人の教育も欠くことはできないが、それを一九とした総合力の発揮がより重要といえるのである。孫子の兵法に「勢いに求めて人に責めず」とある。 一人の力は、いかに養っても一に過ぎない。集団の力を集めると二にも三にもなる。チームが勝ちに乗ってくると、失敗と思ったことが成功になり、不可能が可能になってくる。人間の徴妙な神経、カまでが味方するようになるからだろう。第二の会社で分社経営にふみきったことは前にものべたが、その狙いの一つに、勢いに乗せる、ということがあった。

組織が大きいと自己本位な考えも許される、というより見逃してくれる。「自分は地位など欲しくはない。好きな仕事さえしていればそれでよい」という者や、「ノルマや残業など真っ平ご免」とわがままをいっている者がある。こういう連中に「協力一致して目標に挑戦しよう」「全社一九となって危機を突破しよう」と呼びかけても「やりたい者だけでやればよかろう」というに違いない。

こうした人間に対し私は「自分のためだけで会社にきている者で、会社のためにきている者ではない」ということで組織から外してしまった。勢いに乗せようとする足を引こうとする者を頼ることはできないからだ。

織田信長は、桶狭間に今川義元の三万の大軍を迎え撃ったとき、ほとんど単騎で城をとび出している。追いっいた三千足らずの部下と神官に祈願をした後で告げている。「命の惜しい者は去れ云々」と。敵の十分の一にも満たない少数であれば一人でも多いのを望むはずであるが、命の捨てきれない者がいては足手まといになればとて役には立たない。いま組織の力を結集してことに当ろうとするとき「やりたい者だけでやったらよかろう」などと考える者を頼りにしては全体の士気にも好ましいことではない。そこで給与は与えるが頼りにはしない、ということである。

といって、能力が他に及ばず、ともに勢いに乗りたいが力及ばずという者もある。これを別扱いにすることはない。それなりの任務を与えて協力を求めている。かつて管理職の集まりで話したことがある。

管理職は戦略者である。ことにあたって知恵をだせ。いかに部下を勢いに乗せるかに集中せよ、と話したあとで、こうつづけた。「昔、牛に人の智を加えて国の危急を救った部将がある。牛が野原で草を食むありさまはのどかで、人が近づいても逆らうこともない。しかし、ひとたび怒れば虎もたじろぐ。

中国の戦国時代、斉の国は燕に攻められ二つの城を残すのみとなった。まさに危機存亡のときである。人々から推された田単は将軍となり城を守ることになった。将軍自ら兵とともに防備を固め、妻妾も隊列に加え防備を手伝わせた。

さらに城内を探して牛千余頭を集め、赤い絹の着物を作り、これに五色の龍を描いて着せ角には刃物をしばりつけ、尻尾には葦を結び油を注いで火をつけ、城壁に数十の穴をあけて牛を解き放った。そのあとに勇壮な兵士が続いて進んだ。牛は、熱さに怒り狂って敵陣に乱入したため敵はことごとく死傷した。これを見て城内兵は鐘、太鼓をならして攻撃し燕軍を敗走させた。これで斉は七十余城を取り戻すことができた。

これが、いまに知られる″田単火牛の計″というものだが、鈍牛といわれる牛も人間が知恵を加えれば猛牛と化すことができる。眠った組織では乱世に生き残ることはできない。活力ある組織にするための知恵をだすべきだ」と。

大組織だと、誰かが号令をかけてくれるだろうなどという従属意識が強くなる。小組織になれば、自分が号令者であるとともに行動者でもある。勢いに乗せるにも時間を要しない。

三 部下を思う心

部下を思う心が強ければ、部下が主を思う心も強くなる。主従一体の力は思い、思われる間から生まれてくるといえるだろう。

もし、部下を思う心が乏しければ、心よく命に服することはない。思う心が強ければ令を下さずとも従うことになる。

そこでいえることは、統率の妙を発揮しようとするなら、常に己の心を部下の心の中におくことといえるだろう。

新入社員を「金の卵」といい、「社員は財産」といったのは誰か。経営者である。それを、会社環境が悪くなったり、業績が悪くでもなると、土地やゴルフの会員権は手放さず、社員から手放している。「金の卵」も「社員は財産」も口先だけで、心の中では、使い捨て用具ぐらいにきり考えていなかったと思える。

こういうことが書けるのも、私は関係した会社が地獄の責苦にあうような苦しい時でも安易な肩叩きや人減らしはしていないからである。人員削減をしなければ、潰れてしまう事態となっても、自然退職で切り抜ける手を考えてきた。

会社が好調なときには人を増やし、逆境になると人減らしというのでは、社員を業績調整に使っているようなものである。とかく、人を減らせば財政が楽になると安易に考えるから、名案がでない。

昔の小咄に「小僧十人を五人に減らしたが、それでも用が足りる。残り五人を辞めさせたが、それでも間に合う。これなら女房がいなくともよかろう、というので離縁してしまった。しかし、それでも足りる。これは自分も余分だ、というので自殺してしまった」というのがある。仕事を増やし儲けを増やすか、他の削れるものを削れば、人から減らさなくとも、多くは済まされるものである。

いうまでもなく、会社の業績が不振とはいえ、社員を捨てた怨念を消すことはできない。それ以上に残った社員に経営不信感を植えつけることになる。

さて、こうした事例は例外中の例外であるが、言うことなすこと、すべて社員を思いやっているが結果的に思いやりがなかった、ということがある。その多くは、社長の過労、不摂生、不行跡などである。最高責任者が病気災害、周囲の非難につながる恐れがあったり、不幸にしてそれが実現した場合、最も心を悩ます者は社員である。また、趣味娯楽に打ちこみ過ぎているとしたら、好意的になる者は少ない。あれで、会社のほうは大丈夫なのだろうか、と心配するのも社員である。トップの多くは、なんとか理由をつけて美徳化しているが、見えないところに悪影響がしみこむことになる。最も端的に現われるのが指揮統率面である。これは、ある販売会社社長の専属運転手からきいた話である。

「社長は、お客様接待といっては、クラブ、バー、高級料亭などへ行くが、時には朝帰りで会社の朝令で訓示をしている。自分ではスポーツで鍛えた身体、といっているが、あれでは、身体がいくつあっても足らなくなるだろうし、それ以上に心配なのは会社の健康だ、と社内で心配しない者はない」

「親思う心にまさる親心、きょうのおとづれ、何ときくらん」とは吉田松陰の辞世だが、子を思わぬ親はない。社長といえば社員には親同然だが、親が子を思う心はなく、子だけが親を思っている。これでは、親が反省しない限り、会社は行きつくところへ行きついてしまうだろう。

中国の戦国時代、斉の国は楚に攻められ、趙に援軍を頼むことになった。その使者となった、小男で、滑稽、おしゃべりな淳予髭は十万の精兵を借りることに成功。そのため、楚は攻撃を中止してしまった。その祝賀の宴が開かれたときである。斉王は淳子髭に尋ねた。

「先生は、どのくらい飲むと酔いなさるか」

「私は一斗(日本の一升)飲んでも酔いますし、 一石飲んでも酔います」

「一斗飲んで酔う人が、どうして一石も飲むことができるのかね」

「まず、私が王から酒をいただき、私の横に法の執行支がおり、後には裁判官がいたとします。そうなると私は恐れ慎んで飲みますから一斗も飲まないうちに酔ってしまいましょλノ

また、私が、いかめしいお客の相手をしますときは、身なりを正して飲み、時々立って杯を捧げることになりますから二斗も飲まないで酔いましょう。

友人と久しぶりに会って腹蔵なく歓談するときなら、五、六斗ほどで酔いましょうか。

村里の会合などの際、男女入り乱れて座り、賭けごとに興じたり、相手の手を握ってもよい。そして私のまわりに、耳環や管が落ちているようなら、嬉しくなって八斗は飲むでし

さらに夕暮れともなり、宴も最高潮ともなれば、酒樽を片づけたあとで男女は膝を寄せ合い、履物は乱れ、杯盤狼藉^、つまり杯や皿が狼に藉かれた草のように乱れ散らばっているようになり、家じゅうの火が消え、主人が私を引きとめて私のそばで薄ものの襦袢の襟がとけ、色気のある香りがすれば、私は有頂天になって、 一石の酒を飲むでしょう」

こうして髭は、酒と女に溺れかかっていた斉王を諌めるために、こう言いきった。

「酒が極まると乱れ、楽しみが極まると悲しむといいますが極めてはなりません。極まると国が衰えます」と。

それからというもの王は、徹夜の酒宴をやめ、諸侯招待のときは必ず、髭を側においたという。自制のためである。
斉王のように、非といわれて、直ちに改めることになると、部下の信頼は一層強まってくる。意思の強さが評価されるからである。

上が下を思う以上に下は上を思っているものである。大黒柱が倒れれば主家がつぶれる心配があるからだ。指揮官を失なったら、どうなるかを百も承知しているからである。

歴史をみても、国の興亡、盛衰、人の運命など、よって来る理由は古今東西を問わず共通したようなものである。昔を今に引きなおせば、どうなるかがわかる。ここから下の不安は高じてくる。部下の不安が現実化して部下を嘆かせた例は限りなくある。

楚の項羽は、史記の著者司馬遷も「数百年の間稀にみる大人物」と讃えているほどの英雄だが、三十一才で雄途空しく烏江の露と化している。これを惜しんだ、社牧(唐の詩人)はこうよんでいる。

「勝敗は兵家も期すべからず、羞tを包み、恥を忍ぶはこれ男児、江東の子弟才俊多し、巻土重来未だ知るべからず」(いかなる戦術に優れ、武力に勝っていても戦いの勝敗は計り難い。

恥を忍んで亭長の勧めに従って郷里の江東に渡ったほうが、男児としてのほんとうの生き方ではなかったろうか。江東の若者の中には豪傑も多かったろうから、大風のように再び敵に向かって巻き返し天下を争ってもよかった。それなのにここで自決したのは惜しいことだ)。項羽が旗揚げして秦都に向かったときは江東の子弟七千人。いま帰る者一人もなし。部下の悲しみを招いた責は項羽自身が負わねばならない。

部下への歓心、関心、感心

常に部下に関心をもって、最後の一兵までよく知ることは統率の第一歩といえる。

そして、各所でのべたとおり、部下に感謝し、長所を見いだして、それを伸ばすことに努め、善行を褒めることも欠かせないことである。

しかし、いやしくも、上司といわれる者が、部下に好かれよう、気に入られよう、悪く言われたくないなどの下心あって部下の歓心を求めることは愚かなことである。尊厳を失ない、信用とかねとを失なうものである。

現代の職場にもあるようだが職場の長で、部下から話のわかる人、部下を可愛がる課長などといわれているものに、案外能力者が少ない。かね離れのいい課長といわれる者にも少ない。これらは、部下の上司を評価する基準が違うのである。話のわかる人とは、判断、決断力に優れているということではなく、部下に飲ませたり、食わしてくれる人が話のわかる者になっている。その証拠に、飲ませる度数が少なくなると、話のわからない人間に変わってしまう。再び飲ませると、わかる人間に早変わりすることになる。

こうした腰巾着部下に育てた上司に責任がある。なぜ部下の歓心を求めなければならなかったのか。上司としての条件に欠けているため、統率力がない。そこで、かねで統率力を買おうとするからだ。もし、社長としての実力を備えておれば歓心を買う必要は全くない、といえよう。

しばらく前に、何人かの社長と食事をしたことがある。

その中の一人が「このごろ、うちも人間が増えたので、時々飲ませにゃならんので、経費がかかってたまらん」といっていた。たまらんどころか、自慢話なのである。それに対し別の一人が「昔、飯場の長は労務者が増えると元締めからの酒代が増えた。飲ませて働かせるためだ。昔の武将は戦場へ行く時は必ず家来に酒を飲ませた。死の恐ろしさを忘れさせるためだった。

私は、社内での飲酒は厳禁しているし、管理職にも、部下の歓心を酒で買うような、飯場で上方を使うようなマネはやめろ、ときつく言ってある。その代わり、部下に特別の骨をおらせたとか、ことがよく運んだというときは、近くで一杯やれ、といってあるし、そのためのかねも与えてある」と話していた。筋の通った話である。

だいたい、酒や娯楽を求めて上司に集まる人間は桃太郎のキビ団子につられて集まった猿や犬、きじにも劣るさもしい心の持主といえる。猿・犬・きじは、桃太郎の鬼退治という大義に感じ、桃太郎の遥しさに魅せられて集まったといえるが、飲み食いで部下の歓心を買うような非力太郎に集まるほどの者は、たかる知恵があるだけでなんの能もない。これにかねを使うだけ、すでに上司としての資格に欠けるといえるのではないか。

もっとも、同じ部下に飲ませるにしても全く目的の違った人があった。自動車音響機器の雄クラリオンの創立者、滝沢左内氏である。

「私は、将来ある若い社員を連れて時々飲みに行く。はじめの頃は、これは、と思う若い社員一人をつれて食事に行ったが、どうもあとできいて教ると、社長にご馳走になっても肩がこるだけで、うまくないという。そこで今度は、真夏の間、何人かの有望社員の住所を調べ、その近くの牛乳配達所から、私の名を知らせずに牛乳を配達してもらった。これは喜ばれたし、安上がりでもあった。

最近は、青年将校の候補生何人かを連れ出して一風変わったところへ行く。たとえば、 一人五百円以上は飲ませぬ、という居酒屋へ行く。大入り満員だった。

そういえば、井原さんの近くにある、うなぎ屋へ行ったこともある。うなぎを丸々三匹くしざしにした蒲焼が一人前、全部食べきった人は女性で何人とかいっていた。また、そうした変わったところへ行って、飲み食いしながら、なぜ、五百円以上飲ませないのに大繁昌しているのか、うなぎを食いきれないはど出して、ああも混雑しているのかを話し合うわけだ。いい知恵のだしくらべだが、社員に身体と頭の栄養を一度にとってもらえる」と。これなら、社員としても、社長の歓心どころか、メンタルテストぐらいに受けとめるだろう。

部下に関心を注げば、部下はやる気をだし、部下に感心すれば部下を成長させることができる。部下に歓心を求めれば、部下を無気力とするばかりか、己の地位をも失なう、ということである。そのためには、社長としての実力を養うと同時に、歓心を歓迎しているような部下を近づけてはならない。歓心を買おうとしている上司なるものは、当然の権力を行使することさえできない。憎まれ者になりたくないという気が先立つからである。

それにしても、部下を育てることも難しいことだが、それ以上に、自分に役立つ部下を育て、心からの味方にすることはさらに難しい。

ある人は言う、「みかんや、ゆずを育てれば食べることもできるし、良い香りも放つが、からたちや、いばらを育てたのでは、トゲをつけて人を刺す」と。

組織内でも上が下の歓心を求めるようでは、食える香るような人材は育たない。いずれはトゲを出して上を刺すようになる。関心、感心、歓心とゴロ合わせで並べたわけではない。会社の将来を決するほどのものが含まれている。                                     一

五 部下に甘くみられるな

最高の職にある社長が、部下から、くみしやすいと甘く見られるようでは統率者としての値打ちはない。

少々のことは見のがして、おおらかな態度であることが好ましいが、時にはピリッとしたところを見せないと威令も届かなくなる。

昔、大きな農家では、常雇いの農夫や、日雇い農夫に農作業を任せていた。主人は、指図したり、時々見回って監督していた。

昔は全部手作業であるから、重労働になる。雇われた者は無責任だから主人の目の届かないところは手抜きをする。田の草取りなど畔道に近いところだけを取っておけば、主人が見回りにきてもわからないので、田の真ん中は、草をとらずにおくわけだ。そんなごまかしをされたのでは当然減収になる。

そこで考えたのが、田の真ん中に、ガラスビンを予めおいた。ビンが割れれば怪我をするから、当然に持ちだすはずだが、手抜きをすると、それに気づかない。主人に怒られることになる。以後、雇人もごまかしがきかなくなる。さらに昔、宋の宰相は、側近を市場の見まわりに行かせ、帰ってからたずねた。

「市場で何を見てきたか」

「別に変わったこともありませんでしたが、南門の外は牛車がいっばいで混雑しておりました」

「このことを誰にも話してはならぬぞ」

宰相は、直ちに市場係の役人を呼び出して叱りつけた。「南門の外は、牛糞で一杯ではないか」と。

役人は、いつの間に宰相がこんなことまで見に行ったのかと驚いた。これでは職務を怠ることはできないと以後、懸命に努めるようになったという。「千里眼」のいわれはこうである。

北魏の末のころ、楊逸という青年が、河南の光州の長官として赴任してきた。州民や、兵に対する心づかいも行き届き、法律も守り、率先垂範して人々から親しまれていた。

ある年、戦乱と飢饉が重なり、餓死する者も現われるようになった。これを知った楊逸は、食糧保存庫を開いて、飢えた人に与えようとした。担当者が、中央の認可を得なければというのに対し、こう話した。

「国のもとになるのは人だ、その人の命を保つのは食だ。領民を飢えさせてどうなるものか。罪を問われたら自分が甘んじて受けよう」といって倉を開いた。

さて、こうした一時的な困難よりも人々を困らしたことがあった。それは、光州の田舎へ中央の軍人、役人がくると、宴会を開いてもてなし、袖の下まで要求されていた。それが楊長官が赴任してきてからは、ばったりなくなった。そればかりか、弁当持参でくる。誰にもわからないように暗い部屋でご馳走を出しても箸さえつけない。そして日々に、こういっていた。「楊長官は千里も見とおす眼を持っていなさる。とうてい、ごまかせやしない」と。楊逸は、かねがね、お上の威光を笠にして威張り散らしているのを、やめさせたいと思っていた。そのため、州内至るところに手先をおき、軍人や、役人の行動を報告させていた。衛の嗣公はサクラを使ちて不正を正したという。

公は一人の部下を旅に出し、関所を通過させた。関所の役人が厳しく調べるので、金をやったところ、すぐ見逃してくれた。

そのあとで嗣公は関所の役人を呼び出して詰問した。

「いついつ、そのほうの関所を旅人が通り、そのほうは金をもらって見逃したであろう」これでは役人もふるえあがることになる。

こうした、いわば術を使ちて吾輩の目は節穴ではない、と無言のうちに、部下にいいきかせる方法もある。

また、態度で示す方法もある。

第二の会社に関係した際、責任追及を恐れて、不良在庫の山が隠されていた。いくら入社早々の私でも、帳簿上の数字からだけで、不良在庫の存在が推定できる。当時の常務が会議の毎に不良在庫があるのではないかと部門長を詰間するが、まさに馬耳東風にきき流している。次第に私にも実情がみえてきたので、ある時「不良在庫を放任することは許されない。この会社へ入った仕事始めに、私がその始末をやろう」と発言した。素人の銀行屋になにができるか、といわんばかりの顔つきが並んでいたが、私自身で現物調査を始めるしかない。

ところが、私の機械知識はゼロ。現物をみて、これは不良だ、といっても、良品ですといい張られて反論のしようがない。

そこで、商品に明るい技術者を同行させて、三日はど倉庫、工場巡りをした。別に機械を動かしたわけでもない。ただ見て回っただけである。もっとも、 一覧表の一枚一枚に、あれこれ記入していたから、周囲の人からすれば、つぶさに調査していると思ったに違いない。そして、会社の社長以下幹部の出席する会議で私は、おもむろに話しだした。

「この会社の技術水準は極めて高い、という話はきいていた。しかし、倉庫調査をして判ったことだが、これはど技術に優れているとは思わなかった。なにしろ、人体で最も精巧な働きをする場所を検査する機械が枢体、つまり箱だけで計れるという。

そこで、そういう高技術の機械なら、どんどん売れると思う。私は明日から、倉庫番から出荷係になる。ついては、どこへ出荷したらよいのか教えてもらいたい」と話した。誰も首を上げて答えるものはなかった。

その私は、うちで、テレビに手を触れないでくれ、といわれているほど機械音痴。引け目を感じている人には無知もひとかどの役に立つ。意地悪爺が入社してきた、と思ったろうが、それから間もなく会社の不良在庫は一掃されている。

あれこれのべたが、指導の立場にある者は指導される人から甘く見られるようでは権威もなくなり、命令も及ばなくなる。                            姻

私がいた会社で″腹痛支配人″というニックネームをいただいている人がいた。いやなこ  一と、難しい仕事に出会うと「腹が痛くなった」といい出すからである。また、課長で″急病課長″というのがいた。

「今晩部長の歓迎会で五千円会費」と幹事が言うと「頭が痛い」。「今日は誰々の送別会、会費六千円」と誘われると「どうも腹が痛む」。ある幹事は気がきいていて「今晩、これこれのことがありますが、今日はどこが痛みますか」と先回りする、という。ルゆせんど

こうなると、指導者どころか守銭奴扱いされてしまう。僅かなことで信用を失ない、宴会会費以上の代償を払わされることになる。

これとは逆に″はしご部長〃といわれている者もあった。二次会、三次会と、いやおうなしに部下と飲み歩くからである。帰りは、部下のほうが引率して家へ送り届ける。これでも、いざという場合、威令は及ばなくなろう。

六 厳、慈の使い分け

部下を率いる要領は、厳しすぎては萎縮し、慈愛にすぎても、緩み怠る懸念もでてくる。時と場合によって、厳、慈の用い分けが必要ではないかと思う。

また、厳しさに片寄らず、厳しさの中に、部下を思う心がなければならず、部下への慈愛に片寄らず、その中に厳しさがなければならない、ということである。よく、怒り叱ることはないが、なんとなく恐いといわれる人がある。備わった威厳があるからだし、激しく怒り、叱るが、どうも憎めないという人がある。慈愛の心が潜んでいるからである。

街道一の親分といわれた清水の次郎長は、激しく叱ることもあったが、決して人前で叱ることはなかった、という。子分の立場を考えてのことだ。

維新の大立者勝海舟が、次郎長に向かって「子分のうち、親分のために死ねる人は何人いるか」ときかれ、「一人もいませんが、私は子分のためならいつでも死ねます」と答えたという。子分も死ぬ気になるだろう。統率の妙は、まず、部下の心をとらえることによるともいえよう。

別項でものべたが、東漢の光武帝は、降将たちに、日頭ではなく態度で示して「赤心を推して人の腹中におく」といわせて心服させている。部下の心情を察して誠意を示すほど部下の心をとらえるものはないようである。

魏の呉起は、 一人の兵士が腫れものができ苦しんでいるのを見て自ら口を寄せて膿を吸いだしてやった。それを伝え聞いた兵士の母親は泣きだしてしまった。わけをきくと「先年あの子の父親も呉起将軍から膿を吸いだしてもらいました。その後、父親は出陣しましたが、将軍の恩義に報いようとして、敵にうしろを見せることなく戦い、ついに討ち死にいたしました。その息子も同じく膿を吸ってもらい、あの子の生涯も終ったようなものと考え、つい泣いてしまったのです」。

呉起は将軍の地位にありながら作戦中は、起居、飲食すべて最下級の兵士と同じくしたという。

言志四録に次のような文句もある。

「人主は最も明威を要す。徳威惟れ威なれば則ち威なれども猛ならず。徳明惟れ明なれば則ち明なれども察ならず」(君主は徳明と徳威が肝要。徳威は徳の備わった威厳であるから、威であっても暴威ではない。徳明も徳の備わった明察であるから苛察ではない。 つまり、細かいことは見て見ぬふりをするがよい)。

し             ごと            おそ    こ            一

言志四録に次のような文句もある。「敬を持する者は火の如し。人をして長れて之れを親  o6

な           おぼ                           ¨

しむべからしむ。敬せざる者は水の如し。人をして押れて之れに溺るべからしむ」(敬の心  .をもつ人は火のように人をおそれさせるが、親しめる人として尊敬される。敬のない人は水のように親しみやすいが、人から威厳がなく、侮られてしまう)。この一言は統率者として、あるべき心得のすべて、といってよい。

よく、威厳を示すために、大言壮語したり、居丈高に振る舞っている人がある。これは縫いぐるなを着た虎でしかない。

虎といえば、虎の威を借る狐の話もある。狐が虎に食われようとしたとき、狐が言った。天帝は狐を百獣の長と定めている。もしこの私を取って食えば、天命に背いたものとして罰せられよう。それが、うそと思うなら、私の後についてくるがよい。私の姿を見て逃げださない獣は一匹もいないはずだ。

なるほど狐のあとについていくと獣という獣が逃げだした。狐が恐ろしいのではなく後からついてくる虎が恐ろしかったのである。現代でも狐を気どっている者もいないではない。

トップの条件でものべたが、上に立つ者の最高の条件は仁徳、人格なのである。これの備わっている人からは徳威、つまり、徳から自然に、にじみでる威厳がある。この厳は、尊敬、敬慕の念をもって受け入れられても、抵抗、離反で迎えられることはない。これが、統率の妙といえるのではないかと思う。

言うこと考えること、なすことのそれぞれ違う多くの人を使うということは、仁、智、勇のある者で、大衆からみても頼りになる人、引っばっていくことのできる力のある人、言い換えれば統率力のある人といえるだろう。

優れた人々さえ用いられない、いわゆる統率力のない者が身を亡ぼすことは、むしろ当然といえるのである。

やはり言志四録に「人君たる者は、臣なきを患うることなく、宜しく君なきを患うべし。即ち君徳なり。人臣たる者は、君なきを患うることなかれ。宜しく臣なきを患うべし。即ち臣道なり」(君主たる者は、部下に賢臣のいないのを憂えず、明君のいないことを憂えるがよい。これが君主の徳である。臣たる者は、明君のいないのを憂えず、自分が賢臣であるか否かを憂えるがよい。これが臣の努める道である)とある。これも「敬」からでたもので、こうした心がけである限り、統率力は自然に養われてくる。

七信賞必罰

部下を統率する術は、権力、威厳を振る舞うだけが能ではない。

これを妙手とするなら、飯場の親方か夜盗の頭目で足りることになる。孫子の兵法に、「百戦百勝は、善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」とあるが、部下を自然に納得させ従わせることが最高といえよう。

では、どうすればそうなるか。それは信賞必罰である。賞に値する者は必ず賞し、罰すべきは必ず罰することである。さらに、より好ましくは、罰を次第に減らすことといえる。

言志四録に、褒めること七、叱り罰すること三の割がよいとあるが、この数字にこだわることはないとしても、人間誰にしても、怒られてやる気や改める気になるよりも、褒められて一層励もうと考え改めようと思うことの方が多い。褒められて抵抗心のでるものはないが、叱られれば反省よりも抵抗心がでるからである。長所と短所が半々の場合、長所を伸ばすことに努めれば、短所は次第に短くなる道理。上に立つ者は、部下の長所を見いだし、それを伸ばすよう努めよ、といわれるゆえんである。

ただ、褒めるに過ぎて叱るがないと、感激もなくなり、「おだてておいて、こき使う手段」ぐらいにしか受けとられないのでは、統率どころではない。

ある会社の社長は、社員が朝出勤するのを出迎えて、肩を叩いて「ご苦労さん」といっていた。最初の頃は、人の良い温かい心の社長と考えていたが、次第に、肩を叩こうとしてもそれを避ける者が増えてきたという。社長の手の内がわかってきたからである。その会社は、すでに倒産して今はない。心にもない演技は猿芝居にも劣るのである。

「駕籠にのる人、かつぐ人、そのまたわらじを作る人」というが、それぞれに応分の仕事があり一人欠けても困る。仕事に貴賤はないが、駕籠にのる人がわらじを作ることもない。

しかし、わらじを作る人の多くを知っておくことが統率者として肝心なことなのである。

ところが、多くの社長は、わらじを作る人に、単に″ご苦労さん″程度のこときり関心を示さない。それでも十分すぎるくらいだと思っている。

どんな下位の部下でも社長の協力者である。その協力者に、自分は社長の目の届かぬ縁の下の上台石と嘆かせるようでは足下からくずれる心配もでてくる。常に労を慰め、功を認める心が必要といえる。届かないと思っていた上司の目が届いたときの感激ほど大きいものはない。

関係した会社に表彰制度があって年一度表彰式が行なわれていた。いずれも受賞者は日当りの良い職場にいる者に限られていた。私が入社した翌年、部品整理、製品梱包係の二人の係長が完全な管理をしているのを見て、これを表彰した。当人たちも、きいたとき耳を疑ったといっていたがたいへんな感激であった。

上が賞を受けて影響するよりも、下積みの者が賞を受けて全社に影響する度合は大きいものである。認めるといえば前職時代こういうこともあった。

電話交換手の応対が悪いというので内外から批判されていた。外部に対しては社を代表している者が、悪評をうけるようでは業績にも影響してくる。

そこで、電話交換室を各店長と同程度の位置におき、什器なども入れ替えた上で話した。

「皆さんは、ここの店長と同格、店の代表だ、そのつもりで」と。その人たちの中から、東京都内の電話交換コンクールでの優勝者が出ている。

無言の心服とでもいおうか。こういう話もきいている。ある大手信販会社創立者からのものである。

「私の庭には大きな木が何本もあって秋になると木の葉が積もるようになる。近くに住む老人が毎日それを掃除にきてくれる。歩行もままならないので、チリ取りに入れても捨て場へ運ぶまでにこばれて半分になる。出入りの植木職がそれを見て邪魔者扱いして、怪我でもしたら困るので断らたらどうかと度々いっていた。もちろん裏木戸から老人が入ってきても植木屋は挨拶もしない。ところが家の飼犬だけは、その爺さんがくると尾をふって出迎えている。爺さんは植木屋にどんな目で見られようとおかまいなし、黙々として拾ってはこぼし、こぼしては拾っている。上から落ちてこなくなるにつれて庭の木の葉は減って、ついに全くなくなった。

減っていくにつれて植木屋の態度も変わってきた。しまいには、はち巻きを取って爺さんに頭を下げるようになった」という。爺さんの真心に感激したのだろう。「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」。その爺さんも戦わずして相手を屈服している。部下の統率もかくありたいものである。

八 下にゆずってはならない権限

韓非子に「明主のその臣を道制する所は、二柄のみ。二柄とは、刑徳なり。何をか刑徳と謂う。曰く殺象これを刑と謂い、慶賞これを徳と謂う。人臣たる者は、誅罰を畏れて慶賞を利とす。故に人主、自らその刑徳を用うれば、則ち群臣その威を長れてその利に帰す」(優れた指導者は、二つの柄=動かす力、を持つだけで部下を使いこなす。二つの柄とは刑と徳で、刑は罰を加えること、徳は賞を与えることである。部下は刑を恐れ、賞を喜ぶ、そのため指導者が罰と賞の権限を握っていれば部下を思いのままに操ることができる)とある。人の上に立つ者が、下にゆずってはならないものが、この賞罰の権である。

第二の会社に入ったとき、社長から「私は技術屋なので財務、人事など一般管理部門のことはよく判らない。任せるからよろしく」といわれた。それに対し「人事だけは社長直轄とすべきだ。事務的なことはいっさいやりましょう」といったことがある。その後、内部監査部を設けたが、これも社長直属としておいた。

自分は副社長、賞罰の権まで冒したくなかったからだ。賞罰の権限こそ、トップの座を安泰にする唯一の道なのである。

ところが、社長が賞罰の権まで部下に与えていたため、社長が軽視され、ロボット扱いされたり、部下の方が実力者として評価されるに至った例もある。なかには、社長の座まで追われた者もいる。多くは人事権、つまり賞罰の権を失なった結果である。

また、部下に賞を与えるのは自ら喜んで実行するが、罰や注意など部下から憎まれるようなことは次席に任せているトップがある。これも大きな間違いである。なにも下の下にまで賞罰の権を及ぼせということではない。管理職程度までであればよいのである。

この怠慢は、部下から憎まれやしないか、恐れられやしないかなど自己可愛さからでているものだが、これは八方美人を狙って四面楚歌の悔いを残すことになるだろう。賞は賞、罰は罰として公平に行なうところにトップの威厳があるといえるのである。あるグループ経営の社主を訪ねたことがある。

「これだけの子会社があっては、身体がいくつあっても足らないでしょう」と話かけたところ、「いやいや、身体をもてあましているほどです。なにしろ私の仕事というのは二、三年に一度行なう子会社の社長の首のすげ替えだけですから」と答えた。賞罰の二柄だけで幾十の子会社を制御しているのである。

忙しくて部下の賞罰まで見ていられぬ、といっているトップに限って、やらなくともよい仕事をしている。肝心のことを怠ってまで余計なことをすることはないのである。

言志四録に「下情と下事とは同じからず、人の君たる者、下情に通ぜざるべからず。下事には則ち必ずしも通ぜず」(将たる者は下情に通じなくてはならないが、下々の仕事には必ずしも通ずる必要はない)とある。

社員のことなどいっさい知らない、知ろうともしない社長が、新入社員や、パートがやることまでやろうとしている人がある。それで、このごろの若い者は、とボヤいている。よはど、このごろの社長は、といい返したくなる。社長は社長としての最高の権だけを握っていればよいのである。

ここで考えたいことは、社長としての威厳を保ち威令を示すには賞罰の権とのべたが、案外これをあいまいにしているということである。

それでいて、やる気がなくて困るとか、責任感、使命感がないといっている。二柄を公平に行使しない結果であることに気づかないのである。

相応の給与を出し、当然のことをしているのに賞を出すことはないとか、褒めてもつけ上がるだけで効き目がない、昇進させても有難く思っていないなどが理由である。

「功ある者を賞す」は人を用いる鉄則なのである。

罰ともなると己の不利まで考えてためらう。厳しさを忘れ、規律さえ乱れてくるのを知らない。人は、罰を当然恐れるものであるが、罰のないことをさらに恐れるものである。関係した会社で中途入社した人から言われた。「この会社は住み良いが、これで大丈夫なんでしょうか」という言葉が耳に残っている。かえって会社の将来が不安になってくるのである。

最高指導者は賞罰の権、つまり扇の要を握っていさえすれば足りる。率先垂範も欠くことはできないが二柄を忘れての率先はその効を少なからず失なうことになる。孔子が魯の哀公に仕えていたころである。

領内の人々が狩りをし、獣を追いだすために火を放ったところ、火は風にあおられて町にまで及びそうになった。心配した哀公が家来を率いて消火にかけつけた。ところが火を消している人は見当らない。獣を追うのに夢中になっている。どうしたらよいか孔子に尋ねた。

孔子は「獣を追うのは面白いし、罰せられもしません。火を消すのは、つらいうえに、火を消しても褒美がもらえません。それで消そうとしないのです」と答えた。

そして「いまは消すことが先決ですが、褒美をやっている暇はありません。また全員に褒美を出すほどのかねもありません。ここは罰を科すだけです」。

そこで孔子は「火を消さない者は敵に降服した者と同罪。獣を追う者は密猟者と同罪とする」と触れさせた。火はたちまち消されたという。

いまでも、賞などどうでもいいや、という人はあるが罪を受けてもいいやという人はない。罰のはうが効果朝面ということがわかる。罰などあえて行なうべきものではないが罰すべきを罰しない者こそ罰しなければならないと考えたい。

九 賞の与え方

人間ほど名利に聡いものはない。

他の動物は飢えれば食を求めるが、それ以上望むことはない。人間はまさに足るを知らず、である。ことに利につながることとなれば、無限といえるだろう。

芋虫と蚕は同じ形をしているが、蚕は手でつかみ、芋虫には手を触れることさえ厭う。蛇と鰻とは同じようなものだが、鰻を手づかみにしても、蛇を手づかみにする人は少ない。蚕と鰻はかねになるからだ。

昔、中国の宋の国のある町で、あまりに真面目に親の喪に服したため、痩せ衰えてしまった男がいた。国王は、これこそ親孝行の手本として役人にとり立てた。すると翌年には、喪に服したため身体をこわして死んだ者が十人を越したという(韓非子)。利で親孝行をさせることもできれば、蚕や鰻をつかむ勇気さえださせる、ということである。

昔の武士がなぜ戦いに命をかけたか、いまどきの人には考えられない。手柄を立てて取り立てられ高い禄を得ようという願いからである。主君に忠を真剣に考え、恩賞など考えぬ、といった忠義の臣でも、賞が少ないといって去った者さえある。現代社会でも、かねも名誉もいらぬ、といっている人であっても欲しいものは欲しいのである。

こうした人間共通の心情を察して、功ある者に賞を与えることは人を用いる常識ともいえるだろう。この常識に従おうとしない者は人使いの拙劣な者というも過言ではない。西漢の三傑といわれた韓信はもと項羽の部下だったが、そのもとを去った理由の一つに「項羽は、功ある部下に賞を与えるのをためらった」ということがある。

これとは逆に、この韓信が劉邦の臣になった後、逃亡を計ったことがある。引き戻された韓信を劉邦は大将軍に抜櫂して用いている。いわば、賞の前渡しである。

そういえば、源頼朝は、富士川の一番乗りを誓った梶原景季に愛馬″するすみ″を与えている。後からきた佐々木高綱に、″いけずき″という名馬を与えている。これも賞を功の前に与えて励ましている。

与えられた者にすれば、いやおうなしに一番乗りを果たさなければならない。両者競い合っているのを傍観するものはない。われ遅れじと競争に加わるのは必定。期せずして全軍の士気は高まる。

また、音の部将は賞を約束して士気を鼓舞している。この地を攻略した者には、この地を与える。城を奪った者には、その城主とするなど、 一層やる気を起させることになる。巧みな統率力とは個を集にまとめ、 一九の力を発揮させることにある。一九の力の起爆剤が賞といえるのである。こんな文句がある。

「賞誉薄くして護ならば、下、用いられず。賞誉厚くして信ならば、下、死を軽んぜん」(賞が薄く、しかも当にならないとなれば、部下はやる気をださない。賞が厚く、しかも、確実にもらえることになれば、部下は死ぬ気になって働く)。

別項でのべたが、関係した会社で、五カ年計画をたて、その目標を、○ (無借金) 一(東証二部から一部上場)二(三割配当)一二(年二回のボーナスを三回支給にする)とした。翌年僅かに黒字決算になったので三回目のボーナスを支給した。目に見えるように活気づいてくる。最も端的に現われたのが、設備の更新であった。それまでは、新鋭機械を導入せよ、旧型を新型機に変えよ、と号令しても、申し入れるものは少なく、せいぜい毎年の償却額の範囲であった。

ところが、三回日のボーナス支給の翌年には例年の十倍の申請になっている。それまでは、いまさら新鋭機を入れても会社の業績がどうなるものではない、というぐらいに考え、半ばあきらめていたと思われる。

そのとき社長から「うれしい悲鳴だが、資金のほうはどうでしょう」と相談を受けた。「社員の望みをかなえるのも褒美のうち、全部承認してはどうです」と答えたことがある。魏の呉起は、若いころ、秦と境を接する西河の長官に任命されたことがある。

赴任してみると、国境近くに秦の小さな砦があって農作業のはなはだしい邪魔になっている。なんとか、これを取り除こうと思ったが、正規の兵をさし向けることでもない。切そこで呉起は考えた。

まず、車のかじ棒を一本、北門の外にたてかけておいて「この棒を南門の外まで運んだ者には、上等の土地と家を与える」と布告した。はじめは誰も信じかねているようであったが、運んだ者が現われたので布告どおりの褒美を直ちに与えた。

次に、東門の外に赤豆一石をおいて「この赤豆を西門の外まで運んだ者には、前と同じ褒美を与える」と布告した。

すると今度は人々もためらわずに、競って運んだので、すかさず褒美を与えた。こんどは本番、「明日、砦を攻める。一番乗りした者は重く取り立てたうえ、上等の土地と屋敷を与える」と布告した。

人々は、われこそは一番乗り、とばかり馳せ参じ、たちまちのうちに攻略してしまった。この例からみてもわかるように、部下のやる気を引きだすポイントは、賞を与えることであるが、賞のもらえる確率、つまり成功率が高いことにある。

暴れている虎を素手で取りおさえたものには一億円与える、といわれても、確率ゼロということではやる気をだす人はない。

年間売上げ一千万円がせいいっばいというのに十億円売った者には、といっても志願する曇者はない。

第二は、賞に魅力があるということである。

一千万円売上げた者には千円の褒美をだすといわれても乗る気は起らない。百万円売上げたら十万円の賞をだす、ということになれば競って集まるだろう。第二は、約束した賞は、約束したとおり出すことである。

「賞は十万円と約束したが都合で出せなくなった」。あるいは、「ハワイ旅行を約束したが、近くの飲み屋で一杯飲むことにした」。これでは、どんなに張りきっていた者でも気落ちすることになる。

また、賞をだすなら、その場で与えるくらいな早さが望ましい。忘れたころにだすならださないほうがよい。

昔の部将が戦いに勝ったとき、最初の仕事は論功行賞であった。戦場で与えることも少なくなかったという。賞の効果を一層高めるものは、早い、ということである。

十 名統率者とは

賞にからんだこんな話がある。

西漢の劉邦が天下を得た後、論功行賞を行ない、「吾しようかれ爺何に如かず」と、第一等の賞を内政担当の爺何に与えたことは前にのべた。その話何につづいて、当初大功のあった二十余人については、すぐ褒賞の決定をみたが、他は自分の功績を主張する者が多く、容易に決定できないままでいた。

そんなある日、劉邦が回廊から外を見ると将軍たちが、あちらこちらで座りこんで、なにやら話し合っている。そばにいた軍師の張良に「何の相談だろうか」と尋ねた。「あれは反乱を計画しているのだと思います」。

「天下は安定したというのに、おだやかではない。どうしたらよいか」

「陛下は庶民から出発し、彼らを用いて天下を取りました。それなのに封地を与えられたのは謂何など、古くからのお気に入りばかりです。一方、罰を受けたのは、平素陛下から憎まれていた者ばかりです。いま担当者がそれぞれの功績を評定していますが、必要とする封地を合計しますと、全土をもってしても足りません。それを彼らはうすうす感づいて、陛下が全員に地を与えることができないのではないか。また、過去の過ちを理由に、誅罰を行なうのではないか、とそれが心配で、こうして集まって反乱をたくらんでいるのです」。劉邦は心配して「どうすればよいか」。

「陛下が最も憎んでいる人物はおりませんか。そのことを誰にも知られている人物なら、なおよいのですが」

「雄歯には昔から怨みがある。いっそ殺してやりたいほどだが、功も大きいので耐えているのだ」

「それでは、その雄歯に封地を与えて、群臣に示すことです。彼が封ぜられたことを知れば、 一同は自然に落ちつきましょう」と。そこで劉邦は酒宴を開いて、その場で、た歯を什方侯に封じ、 丞相を督促して論功行賞を促進すると発表した。

これをきいた部将たちは、た歯でさえ、諸侯に列せられたのであるから、いずれは自分たちにも、ということで不穏な動きもやんでしまった、という。これは、張良の智謀の一端を示したものであるが、賞の与え方としても興味ある話である。

現代の組織内にも「社長に盾をついたことがあるので、 一生椀があがらない」と最初からあきらめて、腐りきっている人がある。本人も損だが社長としてはなお損になる。

関係した会社で、酒を飲むと、社長にからなつく中年の課長がいた。あるとき、酒宴が終り、社長が席をでようとするのをとめて、えらい剣幕で談じ込もうとしている。その中へ入って私が「話したいなら俺に話せ」と、どっかり座ったため、ことなきを得た。なにか社長に怨みがあるらしい。他にも四、五人社長を心よからず思っている者がいることを知っていた。心に一物ある者が仕事に精を出すことはない。これを放っておいては、お互いの不幸である。

そこで、分社経営の際、それらの人たちを子会社の取締役に抜燿した。勤務態度から社長に対する考えまで変わってきたのか、酒を飲んでも、借りてきた猫のようになる。こと毎に社長に盾をついた人なのに、性格まで変わったのではないかと思われるようになった。私が退社した後、子会社の代表取締役になっているが、任命したのは、盾をつかれた社長である。

西郷隆盛はこうのべている。「爵位や賞を与える場合には、十分注意しなければならない。爵位(地位)は、その人の人格を尊重して授け、功のあった者には俸禄(金銭)を以て賞すべきだ」と。

会社でいえば、成績をあげたものには給与を多く与え、地位を与えてはならない。その人の徳が高まってきてから役職につけるがよい、ということである。

会社内には、年功賃金のおかげで、月給が高くなっているが、部門長などになれない人がある。かと思うと、年が若く、月給は安いが高い役についている人がある。これらのなかには、人格に見劣りするため高い役職の与えられない人がある。このことを、私にあてはめてみると心あたりがしないでもない。

なにしろ、私の課長時代、なんと七年の長きに及んで万年課長の異名を頂戴したほどだった。

毎年、昇給、ボーナスは高率で、トップグループだったのも、それなりの業績をあげたからである。しかし、夜の業績もすこぶる立派で、客の接待もあり、招待も受け、毎回毎回、午前まで務め、 ″午前様″といわれたはどだった。別に悪いことをしていたわけではないが、上司からみると疑問人物だったのだろう。そのためか、いつになっても、昇格から見離されていたらしい。

課長の終りごろ、相当重要なプロジェクトチームのチーフを命じられ、二つの課長を兼務したので私の椅子が三つもあった。そのため、午前様勤務もできなくなる。それに、そのチームの目的も果たせた。それで、この男は心からの不良行員ではないと認められたのかもしれない。プロジェクトが解散されると、部の次長に抜櫂された。その次長をたったの一ヵ月で通過し、経理部長に昇格、総務、人事各部長が一年で取締役になり、二年後には常務になった。出世頭などといわれたものだが、いまにして思うと、昇進を妨げるものの第一は、人格、即ち徳であったことに気づく。と同時に、上司の私を見る目が正しかったことに驚くのである。

現在企業のなかにも、業績に功のあったものには賞与を増やし、昇格、昇給を査定する場合には、人格、いいかえれば、指導、統轄力、識見、雅量などを重点にしているところが多い。

賞は本来、上から下に与えるものといえるが、下から上に与える賞というものを私なりに考えて教た。社長に対する部下の「信」「敬」が、それに当らないか。部下を思い、信賞必罰の統率者には、下から信頼、尊敬という賞が与えられ、会社に対してやる気をだしてくれる。賞とは一方的ではないともいえそうである。下から多くの賞を与えられる者が名社長、名統率者といえるのである。

十一 統率の失敗はこの一点にある

ことにあたって恐ろしいことは、以外なところに、抜け穴があったり、落し穴があることで、穴のあいた風船に空気を吹きこむように、いくら努力しても膨らまない。部下の統率もこれと同じように、万全をつくしたと思っても、いっこうに効き目がない。

いったんは膨らむが、たちまち、しぼみ、 一度はつくろったが次第にやぶってしまう。原因のわからない発熱のようなもので、トンプク薬ではなおらない。病源を取り除く以外、治療の方法はない。

まず、病源の第一は、信賞必罰を怠ることである。組織に活力がみられない、トップの命令が浸透していない、規律が正しくない、など業績の足を引くような状態に陥っているものをみると、賞罰が厳正に行なわれていない。社長もパートも新入社員も同じように見える。社長に威厳がない。はなはだしいのは社長に社内で出会っても目礼さえしない。これでは統率者が行方不明と同じである。統率者不在の組織に集団の力の発揮を求めることは木に登って魚を求めるより難しい。

もし、信賞必罰をもって部下に対すれば、社長が牙をむき、声高く咆嗜することはない。自ら、その指揮下に集まってくる。

「いかに社内規程とはいえ、この人間に対しては厳しすぎる」とか「規程のほうが厳しすぎる」といって罰を与えることをためらう。あるいは、「昔、恩ある人の関係者だから」といって罰することをためらったり、罰を減免する。はなはだしいのは肉親だから、親類だからといっていい加減な処置をして公平を欠く。

罰に手加減しておくと、いかにも、心の広く大きい人といわれるだろう、悪口ひとつ言われないと思うだろうが、これは自分よがりだけであって部下はそうはみない。統率者としての条件に欠けるとみる。信賞必罰を怠って功を奏した者はないことを知っているからであスリ。

前にものべた三国志の諸葛孔明が、軍律違反で馬謬を斬ろうとしたとき、重臣の一人が、「天下の戦乱の真っ最中に、あたら功ある知謀の士を殺すとは、洵に惜しいではありませんか」といった。それに、孔明はこう答えている。

「孫武が天下に武威を示すことができたのは軍法を厳格に適用したからだ。いま天下の風雲は急を告げているときにあたって、かりにも軍法を曲げるようなことをすれば、どうして逆賊を討つことができよう」と。

天下が急であるから、なお一層軍律を守らなければならない、というのである。また、鄭の国の宰相、子産は倒れて死の床についたとき、後任に予定されていたんでこう話した。

遊吉を呼

「そのほうが、これから国の政治をやることになろうが、そのときは、必ず厳しい態度で国民に臨むがよい。火というものは見るからにきびしいので人は恐ろしがり、かえって焼け死ぬ者は少ない。水は、その点、弱々しく見えるため、みんな、くみしやすいと教て、かえって湯れ死ぬものが多いものだ。そのため、そのほうも厳しい態度で臨み、へたに弱気になって、湯れ死ぬ人を増やしてはならない」と。

子産の死後、遊吉があとを継いだが、厳しくすることをためらったため、若い者どもが徒党を組んで盗みをはたらき、沼の辺に立てこもって大騒動になった。遊吉は軍を率いて討伐にかけつけ一日がかりで、ようやく鎮圧した。遊吉は早くに、子産宰相の教えを守っていたら、こうしたことにはならなかった、と反省したという。

第二の会社に関係した早々に、経営危機に陥り、労働組合はストを打ち、社長命令でもきこうとしなかったことは前にものべたとおりである。会社が明日にも倒れようか、というときに、周囲から「何をしても文句のいわれない会社だ」「社長の会社か労組の会社か判らない会社」「甘くて住みよい会社」などと言われていた。なぜ、こうなったかといえば、全く罰の行なわれない会社だったからである。罰が行なわれないから、社員は野放し状態になる。権利ばかり主張して、指示されたことをきこうとしない。きいても行なわない。これでは斜陽化するのが、むしろ当然である。やはり、企業マンとしての良識をあくまでも守らせる、守らなければ罰してでも守らせるという経営者の毅然たる態度が必要なのである。昔、楚の共王が晋と戦って破れ、自分も傷をうけた。

戦いが一時やんだので、次の作戦に備えるため、将軍の子反を呼びにやったが、胸が痛くて行けない、という返事。やむなく共王自ら子反の陣へ車で行ってみると、酒のにおいがすスυ。

共王は、そのまま引き返して「今日の戦いは、自分まで負傷するほどの苦戦だった。頼りになるのは将軍だけであった。その将軍が酒に酔いつぶれている。あれでは国のことも軍のことも、念頭にあるとは思えない。戦いはやめる」といって、軍を撤退させ、帰国するや、大罪を犯した者として、子反を斬罪としてしまった。かけがえのない干城の将よりも、軍律を守ることのはうが大切なのである。

昔から人事管理の重点は「厳」「寛」の均衡といわれてきた。厳にすぎては、命令に従わせることはできても、威服して従いはするが、心服することはない。「寛」にすぎれば、心が緩んで、甘えの構造が芽生えてくる。                          .

この均衡をどのように保つか統率者の腕のみせどころということになる。多くの例は、基本的に「厳」を優先している。

昔、魏の恵王が賢臣にたずねた。

「私の評判をきいているか」「きいております。たいへん慈恵な方という評判です」。恵王は喜んで「そういう評判なら私の将来は洋々たるものといえるな」「どういたしまして、国を亡ぼしてしまいましょう」「慈恵といえば、これ以上のことはない。それで国を亡ぼすとはどういうことか」「慈とは情深いこと、恵とは人に施すことを好むことです。情深いと罪を犯した人も罰することができません。施しを好むようでは功のない者にまで賞を与えることになりましょう。功のない人にまで賞をバラまいていたのでは国を亡ぼすのも当然といえましょう」と。

愛情にすぎると法は成り立たない。威信がなければ、下の者につけこまれる。罰も厳しくしないと、禁令も守られないのである。

この点について最も心したいことは、肉親、血縁の情にとらわれて公平を欠く、ということである。                                            」

自分の子、兄弟であるからといって過失を見逃して罰しなかったり、功もないのに抜燿したりする例を見かけるが、これでは、それ以外の者の過ちも見逃すことになる。

さらに、人情にはだされ、えこひいきに陥り、かえって善良な部下に背かれたり、経営者不信を招く。罪は罪として厳しく罰し、もし、人道的な配慮を必要とするなら他の道を選べ前職時代、人事担当役員であったころ、ある過失のため退職させなければならない社員に、再就職先を決めて、退職させたことがあった。孔明は馬談を斬ったが、その家族が生活に困るようなことはさせていない。厳と情の画然とした区分である。トップは情を失なうべきではないが情に流されて、必罰の基本を見失なってはならない、ということである。

別項で、トップの権は、賞、罰の二柄のみとのべたが、これを疎かにしたり、乱用するようでは、統率の全きを期待することはできない。

十二 トップの若さ

社長の若さは会社の若さに比例する、とは私の自論のひとつである。ここでの若さとは、戸籍上のものではなく、心の若さ、頭脳の若さである。

「二十の翁、六十の青年」という言葉がある。人生の半ばを越えても身心ともに健全、進歩的、柔軟な頭脳をもち、意欲的、創造的な人も少なくない。一方、戸籍年令は二、三十才代だが退嬰的な考えきりもたず、行動もないという若年寄りもまた、多いものだ。

「青春とは心の若さ」といった人があるが、まさにそのとおりで、年令とともに心の若さを失なっていくようでは、現代のように進歩の著しい時代には心の老令化も速度を増すことになる。

近年、高令化が急速に進み、高令者の再就職が問題視されている。世間は冷酷、高令者の再就職の道は狭い。職を望むほうは、自分は若いし体力も若い者に負けぬ、といっている。しかし雇うほうは使い道がないという。

肉体的な若さを主張するのに対し、頭脳的若さを求めているのであるから道が狭くなるのも当り前かもしれない。なぜ頭脳から老いるのか。学ばないからである。

飽食時代で、肉体的にははち切れるような健康を保ち、見かけは十才も若く見えるが、頭脳は全くの栄養失調、という人が増えてきた。

一日学ばなければ一週間、 一ヵ月も遅れる時代に、 一日も学ぶことがなくては頭の表面は黒髪でも内面は白髪化するのは当然といえる。

「青年老い易く学成り難し、 一寸の光陰軽んずべからず。未だ醒めず池塘春草の夢、階前の梧葉すでに秋声」(「偶成」朱薫) という若いころ歌った詩を思い出す。

またこれも若いころ職場の古老がよく解説してくれた詩の文句に「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず、言を寄す全盛の紅顔子、応に憐れむべし、半死白頭の翁、伊れ昔は紅顔の美少年……宛転たる蛾眉、能く幾時ぞ須哭にして鶴髪乱れて糸の如し……」(劉廷芝白頭を悲しむ翁に代わる)とある。

その老社員は、こう説明してくれた。「年々花は同じでも、年ごとに見る人は変わる。いま全盛の紅顔の若者たちよ、この半死白頭の翁を憐れんではしい。この翁とて、いまこそ憐れな白頭の翁だが音は君たちと同じ紅顔の美少年だったのだ。……思えば黒々とした美しいのもいく時の間か、たちまち鶴のような白髪が糸のように乱れかかってくる、という意味だ  ・が、この翁が僕で、紅顔の少年は井原君だ」といわれ、その人の頭を見た記憶がある。その  一

自分がいまや憐れみを乞う年になっている。まさに青春は再びかえらずであるが、悔いてもいかんともし難い。

それよりも、学んで若さを保つに如かずである。常に学んでいる人は因襲にとらわれて頭脳硬直をおこすことはない。常に柔軟である。

また、広く学んで創造資源を多くもつため戦略的である。平たくいえば、感度良好で、ヒラメキも鋭い。心に若さのある者は肉体的な若さよりも攻撃的である。端的にいえば気力旺盛である。

これらが、社内にも反映し、会社の士気も高まり、いわゆる若い気力ある会社といわれるのである。統率者として、こうありたいものである。

これに反して、新知識を学ばない者は、十年一日の如く、というとおり、因襲にとらわれたり、体験を唯一のより所としたりで進歩がない。気力流れる青年社員を率いることはできない。

トップは、会社の若さを保つために、自ら学びつづけなければいけない。これもまた統率者としての大切な仕事といえよう。

さらにつけ加えると、学ぶに心したいことは、不変の哲理とでもいうか、原点となる哲学を知っておきたいということである。

現代のように学問が専門化され細分化され各人各様の解釈がなされるようになると、何が何だかわからなくなる。「際に失なわずして、博に失ない、匝に失なわずして、通に失なう」(言志四録)ということは、前にのべたとおり。博識のためにかえって失敗し、よく通じているために失敗するのも、哲理をわきまえていないからではないか。

哲学、原理原則、帰一する原点を学ばないで進もうとしても迷路に入るだけである。私がよく故事を引用するのもそのために外ならない。

聖人孔子は「仁」を貫いた。つまり、 一以て之れを貫く、である。

おん

十三亡国の音

「歌は世につれ、世は歌につれ」といわれ、景気の良し悪し、時代の盛衰、国の政策、人間感情などによって歌の詩、曲まで変わってくる。

大正から昭和にかけての不景気時代よく歌われたのが「カチューシャ可愛いや別れのつらさ」とか「おれは河原の枯れすすき」など、哀愁にみちたものばかり。当時私は少、青年期であったが、よく父が焼酎を飲みながら詩吟をどなっていた。その多くは「賤民争いて採る首陽の蕨」という、御花園帝が足利氏の苛政に苦しむ賤民の哀れを詠んだものである。また、明治維新の志士が詠んだ「妻は病床に伏して児は餓に泣く」など涙を誘うものばかりであった。

それが戦争に突入すると、心を奮いたたせるような軍歌とか、根性をかきたてる歌に変わってくる。

歌は世につれて変わるだけではない。たとえば、優勝祝賀会など、大いに盛りあがっているときでも、 エレジーものを歌いだすと、静まり返る。沈みがちな会でも勇ましい歌がとび出すと、とたんに活気づいてくる。歌というものは人間の気持ちまで変えてしまう。

また、どういう歌が好きか、嫌いかによってその人の性格まで違うようである。前職時代、宴席で万年、安来節を歌うか、どじょう掬いを踊るかの人があったが、なかなか陽気で活力のある人だった。

どういう場所でも指名されると、枯れすすきを歌いだす人があったが、物静かで篤実な人だったが、気力に乏しいように感じられた。

さて、こうしたことをのべたのは、統率者は常に、部下の士気が衰えないよう心がけなければならない、ということである。そのためには、統率者自ら湿った顔をしたり、発言をしなさるな、ということである。

困難、不可能と考えるから、言葉より溜息が先にでてくる。顔も引きつり、言葉にも力がない。これでは、刀をかざして先頭に立っても藁人形としか部下の目には映らない。困難を嘆かず、可能を信ずれば、鎧袖一触の気迫が部下に伝わり、勇気も百倍する。

楚の項羽が劉邦に追いつめられ亥下に至って城壁の中に逃げこんだ。漢の軍は、これを幾重にも取り囲んだ。夜になって項羽は漢の陣営から自分の郷里の楚の歌が多くきこえてくるのを知って、大いに驚いて「漢皆日に楚を得たり、何ぞ楚人の多きや」と起って、とばりの中に入って宴を開いた。

十八史略では、この場面をこうのべている。「漢皆已に楚を得たるか、何ぞ楚人の多きや、と。起ちて帳中に飲し、虞美人に命じて起ちて舞わしむ。悲歌懐慨して泣数行下る。その歌に曰く″力山を抜き、気は世を蓋う。時利あらず離逝かず。離逝かざるを奈何すべき。虞や虞や若を奈何せん″と。離とは、平日項羽が乗る所の駿馬なり。左右皆泣き、敢て仰ぎ視るもの莫し」とある。

このとき愛妾の虞美人が和して歌った、というのが「漢兵、已に地を略し、四方楚歌の声、大王意気尽く、賤妾何ぞ生を柳ぜん」である。

このあと項羽は、夜八百余騎を従えて囲を脱したが大きな沢に落ちこみ、追ってきた漢兵に攻められ、本城に至ったときは、二十八騎に過ぎなかった。残兵の前で「今、ついにここに苦しむ。これ天、われを亡ぼすなり。戦いの罪にあらず。今日固より死を決す」といって、鳥江で一人自ら命を絶っている。

項羽が兵を起したのが二十四才、自害したのが三十一才、八年の間天下を争ったわけであ

抜山蓋世の英雄も、部下が敵陣に降って楚歌を合唱するようになっては勝味がない。八年間に七十余回も戦って一度も負けたことがない項羽も愛妾に″大王意気尽きぬ″と歌われるようになっては、もはや一巻の終りである。

現代企業のなかにも、抜山蓋世の気概をもち不敗を誇らた会社で、すでに倒産の憂き目をみたものもある。この多くは、環境悪化などの外圧ではなく内部の腐敗、ことに統率者の心の緩みといえるだろう。一

第一章でものべたが、韓非子に、トップが身を亡ぼす十の過ちの中の一つとして「女の歌  如舞に熱中して国政を顧みないと、国を亡ぼす」とある。                   

女に熱中して、国や会社を亡ぼした例は多い。「女の歌舞」とある点に注目したい。女の歌舞で国を守り、士気を高めるようなものは少ない。多くは、憐れみを乞い、哀愁に満ち、士気を挫くようなものが多い。そうした歌に魅かれ鼻の下を長くしているようでは、国、企業の安泰を保つことはできない。少しく、そうした場面を瞼にえがいてみるがよい。目を細め、肩を落して聴きいっている男から強い気力など見いだせるものではない。それも、お付き合い、気分転換などに一時を過ごす、ということなら別の話。それに熱中するということになっては企業の一大事である。

また、十の過ちの一つに「政治を怠って音楽に熱中すると自分を苦境に追いこむ」ともある)。

中国の春秋時代、衛の霊公が晋の国へ行く途中、撲水の辺へさしかかったところ、かつてきいたことのない新しい、妙なる音楽を奏しているのをきいた。霊公は、すっかり、それのとりこになり、供をしていた音楽師の師渦に命じてその譜を写しとらせた。やがて晋に着き、晋の平公にきかせた。その席には、晋きっての名音楽師といわれた、師噴も招かれていた。

師噴がその席についたときは、霊公も悦に入っているときであった。

その音楽を耳にした師噴は驚いて、師渦の奏でる手を押さえて「新しい音楽とは、とんでもないこと。これこそ亡国の音楽(亡国の音)です。すぐお止めなさい」と。驚く両公に師瞭は、そのいわれを話した。

「昔、殷の村王に仕えた師延という音楽師は、王のために、新声召里、靡々の楽など、涯靡な曲を作って聞かせましたところ王はすっかり、それが気に入り、日夜弾奏させてきき惚れていました。村王は、悪逆無道でしたから周の武王に亡ぼされていますが、村王が死にますと、その師延は楽器を抱いて撲水に行き身を投げて死んでしまいました。そのため、あそこへ行くと必ず、あの音楽がきこえてきます。死んだ師延の魂が迷ってあの曲を奏しているのです。新しい音楽だなんて、とんでもないことです」と。そういえばい戦争が始まると、敗戦、亡国に結びつくような歌舞の類はほとんど禁止された。

そういう私も終戦の三ヵ月前に伊豆の大島へ召集で出征した。くる日もくる日も軍歌と戦陣訓、軍人詔諭と合唱だった。

ところが、終戦になると、班長が民宿の蚊帳の中で「誰か、民謡の歌えるものはおらんか」と声を出した。私が、小唄勝太郎の″大島おけさ″を歌ったところ、班長から声があった。

「みんな覚えるまで、夕食後合唱するから、井原、そのときは音頭をとれ」。「ハッ」といっておいたが、亡国の後であったから、亡国の音にはならなかった。むしろ、殺伐とした戦後の人々に南風を吹きこんだのではないかと思う。

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