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第四章 果断の勇

目次

一 疾きこと風のごとく

「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知りがたきこと陰の如く、動くこと雷電の如し」(軍を動かすにあっては、攻めるべき時は、はやてのように敏速に行動し、動けば不利とみれば林のように静止し、攻めるには火が燃え広がるように動き、行動しないときは山のように不動の陣をしき、敵に動勢を知らせぬときは陰のようにかくれ、いったん動けば雷のように行動するものである)。

武田信玄の旗印「風林火山」で知られるこの文句は、孫子の兵法(軍争篇)にでてくるが、正と奇、静と動の組合せを現わしたものといえる。また進o退・休・止を現わしているともいえよう。

さて、攻めるか守るか、行くか帰るか、止まるか潜むか、その機に臨んで決断し行動しなければならない。それには果断の勇を必要としている。決断をためらって時を失なえば負け、正しく決断すれば勝つ。

秀吉は信長の訃報をきくや、間髪をいれず毛利と和を結び、備中から十三日目には戻って明智光秀を討っている。毛利側は信長の訃を知らず切歯掘腕したという。秀吉の先手勝ちである。

また、秀吉は柴田勝家と戦ったときも、勝家側の佐久間盛政の軍が味方の中川清秀の軍を破ったと聞くや、盛政の軍隊が自分の陣地に戻る前に、秀吉はこれを攻めて勝っている。その攻めるとき秀吉は馬上から百姓たちに、後から兵隊がどんどんくるから握り飯を食わせてやってくれ、と叫びながら走ったという。

こうした、時に応じ変に臨んでの思いきった行動は判断、即、断行の勇気がなければでき  ・ない。                                    墾

信長もまた、今川義元を襲うとき「人生五十年、下天のうちにくらぶれば、夢、まぼろしの如くなり、 一度生を得て、滅せんものはあるべきか」と謡曲を歌い、舞って一騎出城したという。死を決して時を争ったのである。

現代の企業間戦争では人の生死を争うことはないが、それに次ぐ名利を争うもので、経営者にとっては死闘にたとえられよう。人命を失なうことはないが名誉と財を失なう、いわば生ける屍とされる。経営とは死地なり(会社経営は命がけである)と前にのべたが、死地の気に乏しいものが多い。私心を捨てることができないからである。あるいは自信に乏しいからのいずれかである。

また、せっかく判断しながら行動に移しかねている者がある。判断、決断しなかったのと同じで結果は得られない。

結果の得られない経営者は「経営は結果なり」に従えば経営者としての資格に欠けるといえるだろう。

「論語読みの論語知らず」は「論語を読んでも行なわなければ論語を知らないのと同じ」ということであるが、いかに、経営学を学び、通じていたとしても、これを行なって成果を得なければ、通じていないのと同じである。

よく会社などにも、名論卓説をのべて行なおうとしない者がある。勇気がない、自信もないのである。

「生兵法」という言葉がある。未熟な武術、なまかじりの知識という意味だが、つきつめると勇気が伴わないことといえる。生兵法は怪我のもと、といわれているが、ためらいが怪我のもととなることが多いからである。

経営の失敗にしても、あのとき、こうしておくべきだったとか、こうしておけばよかったと後悔している。また、歌の文句ではないが、こうすりゃ、ああなるものと判っていながら後に悔いを残す。なかには、判っていたんだが、やれなかった、という人がある。判っていなかったのと同じなのである。

経営者ばかりでなく、サラリーマンも勇気のない者は高い地位につくことはできない。若いうちから窓際に座らせられる人、補助的仕事きり与えられない人の大部分は行動する勇気に欠けているもので活力ある組織のためには用なし人間なのである。

こうした中には御身ご大切人間も少なくない。なにごとをするにも、責任逃れから考える責任回避族は、管理職の風上にもおけない人種といえる。受け皿会社でも始末に困る存在だが、上がこうした臆病にとりつかれていると部下も、ただ平穏無事に一日が終ればよいということになる。

かつて私の息子が、ある会社に入って一年ほどして言うには、「上司がいつも責任追及を恐れてか、こうしては自分の責任になるからやめろ、ああされては責任問題だ、という。小心翼々としていては何もできなくなりそうだ。上に立つ者が、これでいいのだろうか」と。読んでいた夕刊の余白に、「無蓋の柩中に座せ」と書いて、こう説明した。

「新米のお前が気がつくようでは、幹部の多くが責任追及を恐れているのだろう。正しいことではないが、新米が日出しするのはまだ早い。ただ、自分がその立場になったら、決して責任を恐れるな。無蓋の柩中に座せ、とは要するにフタのない棺桶の中に座れ、という意味だ。棺桶の周囲と底の板は、法律、人間常識、社是社則のことで破ることは許されない。棺に入るのは一人だけ。入ったら死ぬ覚悟で目的に挑戦する。自分が果たしたことに対する責任は自分一人でとる。

ただし棺にフタはしない。これと信じたことは勇をふるって実行する。主張すべきは主張し、思いきった創造を行動に移す攻撃姿勢に自己をおくためである。他の批判や責任追及を恐れてはたいしたことはできないものだ」と話した。

そばで聞いていた女房、「入社早々のせがれを棺桶に入れなくてもよさそうなもの」というから、「これは男の度量をつけるためにたとえたもので、別に縁起の悪い話ではない。清水の次郎長の子分の桶屋の鬼吉が敵方へ果し状をもっていくとき、棺桶を背負って行ったという話がある。行けば敵は鬼吉を血祭りにあげるだろう。だから棺桶を用意して行った。しかし、鬼吉は斬られずに任務を果たしている。相手もその度胸にのまれたからで、その棺桶には男の度胸が入っている」と話した。

一一 果断の勇はどこから

「果断は義より来る者あり。智より来る者あり。勇より来る者あり。義と智とを井せて来る者あり。上なり。徒勇のみなるは殆し」

(思いきった決行は、人間として当然行なうべき正義からと、知恵から生まれるもの、勇気から生まれるものとがある。正義と知恵と合わせたところからでる果断が最もよく、いたずらに勇気だけの果断には危険が伴う)と言志四録にある。

なるほど、義にかなったことをする場合、知恵を加えて、そのやり方を上手にすれば、誰はばかることはない。正々堂々と決行できる。また、そのため失なうことがあっても誰もとがめだてすることはない。従って思いきって行なうことができる。

昔、司馬温公が幼少のころ、水の一杯入った大瓶の上で子供が遊んでいて、瓶の中に落ちた。見ていた大人たちはどうしたらよいか判らず騒ぐばかり。そのとき温公は、ためらいなく石で瓶を割り、落ちた子供を助けたという。割れた瓶を惜しむ者はなかったろう。「義をみてせざるは勇なきなり」というが、当然行なうべきことを知っていて行なわないのは勇気がないからである。しかし勇気だけはあっても、中にとび込んでともに蒻れては徒勇に終り、瓶を割るという温公の知恵がなければ、正しい果断にいたらない。現代の経営者が果断の勇をふるうにも、この義と知恵が必要といえよう。

第二の会社に入って早々驚かされたことは、会社の業績不振もさることながら、労使の激しい対立である。私も経営陣の一人として入った以上、組合の幹部にひとこと挨拶をと、会見を申し入れたところ、凄い剣幕で拒絶してきた。近隣からも″赤旗会社″の異名をつけられているだけに、労組が経営陣に強い不信感をもっていて、ストがひっきりなしの状況であった。

私が入社すると、早速、内外にアジビラが貼られ、工場のカベに電柱に私の似顔絵が目立一つ。ビラにいわく、「ケチを追い出せ」「ハゲケチを追放せよ」などの迷文句。出勤する社員に入口で労組幹部がビラを渡している。見ると私の悪口が一面に出ている。効き目があるとでも思っていたろうが、私としては闘志をかりたてる妙薬としていた。業績不振の原因のひとつとして、この労使対立がある以上、こうした人間を恐れて再建などできないからだ。

だいたい労使の対立は相互不信にある。加えて経営者に毅然たる経営姿勢がない。いわばバカにされていたのである。労組の不当な要求をハネのける勇気がなかったのである。

「義に刃向かう敵はない」といわれているが、義に背けば味方も敵になる。義に従えば敵も味方になる。義の強さはここにあるのである。経営者として会社の危機から脱出をはかることは″義″である。

そこで私は、労使の相互不信をなくするために、経営側には、組合の諸要求に対しかけひきなしに最大限の回答をすること、その後は、いかなる追加要求にも断固、応じてはならないと指示した。ヘタな腹のさぐり合いをやめ、義にもとづいて、従来の不信感をなくすことと、経営者としての毅然たる態度を示すためである。

最初のうちは真意も理解されず、ストも一層激化し、会社が一歩でも譲歩しない限り無期限スト突入は必至ということもしばしばあった。

無期限ストになれば、会社は潰れると会社幹部からも迫られたが、その度に私は「会社が給料払っていたから貧乏会社になったのだ。ストになれば給料は組合が払うことになっている。できるだけ多く組合に払ってもらえ」といって組合から咬みつかれたこともある。組合指向で動いている幹部社員の顔を会社に向かせようとしてのことであった。また「当社はストをやらなくとも潰れる会社だ。潰れてもともとだ」と公言して物議をかもしたこともある。

さらに態度で示すことも必要と考え、スト中だったが、年末休暇のある日、専門職に頼んで工場の最も高い場所へ大きな日の丸の旗を掲げてしまった。誰がたてた、というから、

「赤旗だけでは殺風景と考えた天の神がたてたのだろう、そうでもなければ、あんな高いところには立てられまい」と言っておいた。

これらにしても、勇気のない者からみれば、向こう見ずな振舞、頑固すぎると思うに違いない。しかし、会社発展の道をふさぐ者を取り除く″義″であると考えれば、むしろ当然といえるだろう。労組の要求に対し、なんとか削ろうということではない。現状からみて最大限を回答しているわけで神明に誓ちてやましいことはないのである。やましくないからこそ勇気がでてくる。

不況を克服するために、ゼイ肉落しを徹底しようという場合、社長が率先して合理化、節約に徹して会社を守ろうとするなら、社員も、その義に感激して協力するだろう。もし社長が、自分の財産、所得を守るためのものであったとすれば協力する者はなかろう。三国志に出てくる劉備玄徳は、人民の安泰という大義名分を掲げ賢臣勇者もよく従い、人民も親しんで一方の雄の座を保った。義に従っていたからといえるだろう。

ところが、勇将、関羽が呉に討たれたときは、周囲の反対を押しきって仇討ち戦を挑んで大敗している。劉備と関羽は義兄弟の間柄というが、これは私事に過ぎない。私事に公の軍を動かしたことになる。これでは勝味がない。

「敬は勇気を生ず」(尊敬の一念から勇気が出る)と言志四録にある。敬は己を慎み、人を敬うことであるが、敬の深い人には味方が多い。敬はまた義に通じ、刃向かう敵はない。

天下無敵となれば恐れるものはない。これが自信となって勇を発することになる。維新の倒幕にしても、最も威力を発揮したのは薩長の勇士でもなければ新鋭兵器でもない、錦の御旗ではなかったろうか。幕府側は、義に背いた弱味によって倒れたといえよう。現代組織の運営にしても社長が、真剣に会社の発展にだけ全力投球しているものと、なおざりにして、他の仕事に傾いているものとでは大きな違いが出てくる。同じ規模で同じことをやっているものでも差がでてくる。義に共鳴する社員の度合が違ってくるからである。

三 果断を求めるなら自ら示せ

いまでもよく使われる言葉に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」がある。

後漢のはじめ「漢書」を著した班彪の子として生まれた班超は二人の兄妹とともに清貧の家に育った。家計を助けるため役所勤めをしていたが、なんとか手柄をたてて世に出たいと考えていた。

そして、西域の部善という国(楼蘭)を屈服させて手柄にしようと同志三十六人とともに出かけた。

最初のうちは部善王の広も大国漢の使者ということで手厚く過してくれたがある日突然待遇が悪くなった。部善は西域交通の要衝にあり、匈奴もつねづね支配下に狙っていた。われわれには秘しているが、匈奴の使者がきたに違いない。早速、壮士の一人にさぐらせてみると想像どおり。そこで班超は同志三十六人を広間に集め、ことの次第を告げて宴を張った。

「このまま手をこまねいていては部善の術中におちいり、匈奴の国に送られ、狼の餌食にされるだろう。″虎穴に入らずんば虎子を得ず″。匈奴の宿合に火を放って夜襲をしかけよう」ということで宿舎に火を放った。そして三十六人、 鼓をならし、関の声をあげて突入し、数倍の敵を皆殺しにしてしまった。このため、部善までが屈服してしまったという。後に班超は西域政策に多くの功を立て西域総督に昇進している。果断の勇がもたらした功といえるだろう。

次に三国志を飾る故事に「赤壁の戦い」がある。三国志は、魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権が相争った史書である。

魏の曹操は、劉備、孫権が同盟を結んだのを知ると水上軍八十万の大軍を率いて、呉において一大決戦をしようと申し入れてきた。孫権がその手紙を多くの臣に示したところ、 一同恐れて顔色を変えない者はなかった。

張昭という巨などは、ここは戦わないで、曹操将軍を歓迎して和睦しようと主張した。これに反対したのが魯粛。

そのまえに周喩将軍の意見をきいてはどうか、ということになって周喩がよばれた。

周喩は「どうか私に数万の精兵を与えて下さい。これを率いて夏口に進軍し、孫権将軍のために、これを討ち破ることを誓いましょう」と。これをきくや孫権は、断乎曹操を迎え撃つ決心を固め、腰の剣を抜くや奏案(上奏文を置く机)を断ち割り「諸将や役人たちで、どうしても曹操を歓迎しようという者はこの机と同じく切り捨てるぞ」と叫んで周喩に精兵三万を与え赤壁に向かわせた。周喩は部下の黄蓋の計を用いて魏の艦船を焼き討ちにして全滅させた。

その後曹操は度々出兵したが呉を征服することはできなかった。曹操がため息をついて言ったことがある。

「子を生まば当にたいものだ)と。孫仲謀の如くなるべし」(もし、子を生むならば孫権のようなのを生み乱世の姦雄といわれた曹操も孫権の果断の勇には及ばなかったわけである。難事にあたって、突破する勇のでないものは死を選ぶようなもので後々の笑い草になるだけである。

銀行時代に、ある鉄鋼会社から融資の申込みをうけた。社長直々の来行であったが話をきくと、「財務部長からいわれたから来た」と呑気なことを言っている。ところが、銀行のみるところ、容易でない事態に陥っている。とことんまで追いつめられてから社長の耳に入れたらしい。緊急対策を講ずべきだと話した。

社長はことの急を知って会社へ帰り、役員を召集して緊急取締役会を開いた。「当社の非常事態宣言をする。直ちに、対策を決定し実行に移す」といって、本社ビルを敷金をとって賃貸することにし、本社機能を地方工場に移すことにした。その早わざが効を奏してピンチをきり抜けている。

後日、その社長曰く「銀行の融資拒絶は村正の名刀よりも鋭い」といっていたので「銀行の融資、社長の決断に如かずですよ」といって笑い合ったことがある。

熟慮断行ということがある。まかり間違えば会社の存立にかかわる、という場合は熟慮も必要だが日常業務では、まずそういうことはない。間違っても取り返しのつくこと、やり直しても足りることである。しかも権限は自分の手中にあるにもかかわらず熟慮、念には念を入れての美名にかくれて一日延ばしにしている者もある。それ以上に困るのは熟慮不断行である。このようなトップのもとでは幹部もまた権限内の決済を自ら決められない者が多くなる。

与えられた権力を行使するのが長のつく者の任務である。組織内の長に果断の勇を求めようとするなら、まず社長自ら範を垂れるべきである。この勇が組織の活性化の先達となることを知っておかねばならない。

歴史上のあらゆる瞬間は短いものであるが、この短い瞬間を巧みに生かした者のみに勝利の栄冠は与えられるのである。

また次の言葉も銘記しておきたい。
よる          すなわ ぼうぎよかた                              みんしん
「士気振わざれば、則ち防禦固からず。防禦固からざれば、則ち民心も亦モ固きこと能わず。

然れどもその士気を振起するは、人主の自ら奮いて以て率先をなすにあり」(士気衰えては防禦も堅固にできず、堅固でなければ団結心も強固でなくなる。士気を盛りあげるには統率者が自ら奮い起って先頭に立ち手本を示す以外にない)言志四録。この言葉を地でいった名将がある。北宋の秋青である。

宋時代は南北合わせて三百年以上の命脈を保ったが、漢民族の劣勢、匈奴、異民族の隆盛時代といえる時であった。

ここでのべる荻青は、 一兵卒から身を起し、ついに軍事長官にまで昇った人である。当時としては例外中の例外といえるほどの昇進は、偶然ではない。それを可能にしたのは、三度の戦いで、抜群の功をたて全軍に知られるようになったからである。

学歴、地位も財もない一兵卒が上から認められるには功績をあげる以外にない。言い換えれば、知を用い、勇をふるうことが昇進への道なのである。

あるとき、南方で大規模な反乱が起った。これを鎮圧する大役を買って出たときである。都からひきつれていく部下は数百騎と近衛軍の一部に過ぎず、現地の政府軍を指揮下におくことになる。

ところが、現地へ行って驚いた。反乱軍の勢いに恐れを抱いて全く戦意を失なっている。これでは、率いる者の戦意が旺盛でも勝つことはできない。そこで、狭青は一計を案じた。まず、住民が信仰している廟で部下とともに戦勝を祈願した。そのあとで、こう話した。

「ここに銅銭百枚ある。これを地面に放り投げる。一枚残らず表が出たら、われわれの勝利、疑いなしじゃ」。聞いていた部将たちは「そんな子供だましのことはやめて下さい」といったが、狭青は「いや、せっかくの機会だから神のお告げを確かめてみたい」といって銅銭を地面に投げた。

ところが驚いたことに百枚とも表と出た。将兵も、見ていた民衆もいっせいにどよめきの声をあげた。その日のうちに広くうわさが拡がり「神様のお告げで官軍が勝つ」ということで、将兵、住民の士気は一気に高まった。そのあとで狭青は、投げた銅銭を釘で固定させ、凱旋した後にそれを回収する、と告げた。

反乱軍を鎮圧し、帰途のとき、桂州に寄って廟にお礼の祈りを捧げて、銅銭を回収したが、その銅銭には裏、表も同じ文字が刻まれていた。演出効果満点ということになる。

このような昔話を書くと、いかにも、いまどき、そんなことを信ずる者はない、というが、大学志望の若人が神社に絵馬を奉納し、国民の代表を任じている国会議員がダルマに目を入れている。人の心は何千年たっても変わっていないようである。狭青はまたよく学んだ。

宰相の花仲掩から「将、古今を知らぎるは、匹夫の勇のみ」といわれて「春秋左氏伝」という春秋時代の治乱興亡をまとめた歴史書を与えられたとき、学のない自分を顧みて、素直にそれを受けた、とある。

「節を折りて書を読み、 悉く秦漢以来の将帥の兵法に通じ、これに由りて益ます名を知らる」と。つまり、意地や、独りよがりを捨てて書を読み、歴史を学ぶということで、敵も恐れる勇将の一面、きわめて謙虚であったといえる。

また、狭青の顔には入墨があった。宋代には兵の逃亡を防ぐため入墨をする習慣があった。名誉なことではない。とくに将軍ともなればかくしたくもなる。これを心配した皇帝が、薬で入墨をとり去るよう命じた。

狭青は「陛下は功によって自分を抜櫂してくださった。低い身分など問題にしないで、自分が今日あるのはこの入墨があったからこそです。入墨はこのままにしておき全軍の手本として勧めたい」といってあえて詔を奉じなかった、という。いまどき、 エリートを鼻にかけている人間には耳のいたい話である。

狭青とともに、ある地方の平定作戦を指揮した孫洒は「私は狭青に、始めはその勇気に感服し、のちには、その人柄のよさに打たれ、自分など足もとにも及ばない、と感心した」といっている。

それに荻青の第一に重んじたことは「先ず部伍を正し、賞罰を明らかにす」ということで、軍の綱紀を確立することにあった。

その反面、飢え、寒さの苦をともにし、たてた手柄はことごとく部下にゆずった。このため部下は狭青のためならばと奮い立ち、勇敢に戦ったという。さきに「将、古今を知らざるは、匹夫の勇のみ」とのべたが、古今の歴史のなかに、勇将のすべては部下を思いやる心の持主であったことを知るだろう。

四 己を捨てよ

「己を捨てきれない者は、会社を捨てるか、己が会社に捨てられる」これは、第二の会社に入ったとき、自分にいいきかせたことである。己を捨てる、の意味は、会社の利を先にし、私の利を後にせよということで、いわば「私事を以て公事を害せず」の精神といえる。なぜ、自分を捨てよ、といいきかせたのか。

それは、勇気を出すためである。自分が名にとらわれれば御身ご大切になって、勇気がでなくなる。私利を先にすれば、公利は後になって企業の発展は妨げられよう。第二の会社に入社した当日、社長にこう話した。

「何年ご厄介になるかわかりませんが、社長の自宅訪間はいっさいいたしませんから悪しからず」と。会社経営に私情は禁物と考えたからである。また、こうも話した。

「この会社には、子会社を含めて三社ありますが、命ぜられても社長にはなりません」

副社長で入社して社長の座を狙っては、混乱のもとになる。混乱しては、会社の再建など思いもよらない。だから、在職中、社長から直接に次の社長を引きうけてくれといわれ、子会社の社長に、ともいわれたが、入社時の約束だからと謝辞させていただいた。ただし代表取締役だけは引きうけてはしい、といわれた際は即座に引きうけた。経営の全責任を社長と同じくとることについては何の異存もなかったからである。ただ、名刺に″代表取締役″と印刷することは最後までなかった。

銀行時代も、私より地位の上の人については自宅をいっさい訪問していない。私の片意地からである。もし可愛げないと思われようとも、男一匹、権力にすがって出世しようとは思うまい、と考えたからである。そのかわり、お互いに現職を退いてからは、盆暮れに挨拶に伺うことを欠かしたことはない。これは人としての礼儀だからである。ところで、己を捨てる、捨身の勇といっても、いわゆる「暴虎潟河の勇」であってはならない。

暴虎潟河のいわれは、こうである。

孔子があるとき高弟の顔回に向かって、こう話かけた。「王侯に仕えて人の道や国の政治などについて話をするが、もし容れられないときは顔にも出さず、じっと胸中に収めておくことのできるのは、顔回、お前と私ぐらいのものだろう」と。これを側できいていた子路という弟子は、どうも面白くない。そこで孔子に問いかけた。

「道を行なう話は別にして、大軍を率いて戦いに臨もうとするとき、先生は誰と行をともにされますか」と。武勇については弟子中随一。ためらうことなく、子路、お前以外にはないではないか、と孔子が言ってくれるものと思っていたからである。

案に相違して「暴虎馬河、死して悔いなき者は、吾、与にせざるなり」(荒れ狂っている虎に素手でたち向かったり、大きな河を歩いて渡るような、むだ死にを悔いない者とは行動をともにすることはできない)。

一見、己を捨てた勇気ある行動にみえるが、自分の手柄を考えにいれた、血気にはやった勇を戒めたのである。

現代の組織内にも、己を捨て公利を先にする者もいれば、捨てきれずに自分を庇い忠臣を装う者もいる。さらには暴虎潟河の勇をふるう者もいる。これを判別することが、人を用いる者の課題といえるだろう。

前職時代、これは骨のある男だ、といえる者が次第に遠ざけられ、 ニセ忠臣だけが重く用いられた時期があった。こうした指導者は己の権力保持に汲々としているだけで、永遠の孤独を余儀なくされるものである。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」ということがある。

身を庇うから敵につけ込まれ、勇気もでなくなる。「列頸の交わり」の商相如は捨身になったからこそ和氏の壁を全うすることができたし、前漢の朱雲は、身を捨てて成帝を諌めたから忠言をききいれられた。そこに、何とか自分一人だけでも生き残りたい、良い思いをしたいというような考えが少しでもあったら、ことは成らないのである。

トップとして自らが、捨身の勇を発揮できるようになることはいざという時に大事なことであるが、部下もまた己を捨て、公利を先に、勇気をふるうようになれば、こんな頼もしいことはない。いまよく用いられる言葉に「背水の陣」がある。

この故事は、西漢の劉邦の臣、韓信が一万余の兵で趙の二十万の大軍を攻めたときのことである。韓信は綿曼水という河を背にして陣して(背水の陣)これを破っている。戦い終って部将からきかれた。「兵法には、山を背に、水を前にして戦えとありますが、今回は水を背にして勝っていますが、これはどういうことなのでしょうか」。

「いや、これも兵法なのだ。貴公たちが気づかなかっただけだ。別の兵法書に(これを死地において後に生き、これを亡地において後に存す)、味方を絶体絶命の場に追いこんで後に生きる、と書いてある。わが軍は遠征で疲れ、丘(の多くは補充兵である。万一の場合、逃げられる場所に陣を敷いたら、逃亡する者も出てくる。しかし、逃げたところで河でおばれ死ぬことを知れば、死力を尽くして戦うことになるからだ」と答えた。この故事を、私は分社経営を決断したときの参考にした。

前にものべたとおり、関係した会社がピンチに陥り、十四%、百五十人の削減案を示して協力を求めたのもつかの間、その翌年に第一次石油ショックである。日本経済は破産とまでいわれ、総需要抑制策が強行された。

それでなくても存続が危ぶまれた会社である。百五十人の人員削減では、とても追いつかない。そこで削減数を十四%から二十八%、百五十人を三百人に倍増する。どんなに苦しい時も、安易な人減らしはやらないという私の信念を貫くために、三百人の削減を退職勧告なしに達成すると約束した。新規採用を中止し、自然退職によって削減しようというわけである。ところが、石油ショックで、退職する者は皆無。他社でも人員整理に入り、中途採用なし、という状況。これでは計画倒れに終る。それなら分社することによって本社人員を減らそうと考えた。

この会社の規模が数百人の頃は順調に発展してきたのに、千人を超す頃になって傾きはじめている。セクショナリズムがはびこって、大企業病が早々に現われたと考えていたからでもある。しかし、立案した私としても初めての体験であり、文献も見当らない。全くの自作自演となる。

特に頭を悩ましたのは、販売店を中心に四十社の独立会社として細分化する点である。常識的には、対外競争力を強化するために、合併して規模を大きくする道を選ぶものである。分社はその逆のいき方であり、 一挙に四十社の中小零細企業をつくるのだから、表面的には強化どころか弱体化となる。大変な冒険である。

しかも、石油ショックの翌年、混乱の中で敢行しようというのであるから、無謀のそしりはまぬがれなかったろう。

当時、社内でこんな話をしたことがある。

「日露の日本海海戦で、連合艦隊司令長官、東郷大将は、バルチック艦隊が一列縦隊で進んでくるのに対し、敵前回頭のT字戦法で戦いを挑んで勝った。この戦法は、敵に船の横腹を見せて突っきっていくわけであるから危険この上ない。常識を逸したものといえる。当社の分社作戦も形は小さいが、これに似た冒険である。しかし海戦は大勝している、当社の作戦も成功するに違いない」と。

そうは言ってみたが、第二次大戦では、わが国の兵力を、大陸、太平洋諸島に分散して惨敗している。孫子の兵法に十を以て一を攻める、ということがある。敵の十の力を十に分断すれば一となる。味方を分断せず集中して攻めれば十で一を攻めることになる。必勝の作戦といえるだろう。第二次大戦は、アメリカが孫子の兵法を習い、わが国は無視して敗れたともいえそうである。

分社経営も、組織を分断するわけで、この兵法に逆らうことになる。内外の強敵に対し、この案が是か非か、最も悩んだところである。しかし、「背水の陣」の故事が、私の果断の勇を引き出した。

分社すれば、頼れるものは小人数の自分たちだけとなる。自分の会社を潰さないために、必死の努力をすることになる。大組織にいた時の依存心、責任回避は許されない。自利にとらわれ、困難を避けようにも、小人数では、そのまま自分にはね返ってくる。

一蓮托生、他の人と行動も運命も同じくする考えになり、協力一致の実もあがる。私は、その頃「小舟小社」「一舟一社」などと言ったが、運命共同組織にして危機を乗りきろうとしたのであらた。

孫子に「呉越同舟」という故事がある。

呉王の夫差と越王勾践が二十年以上も争ったため、呉の人と越の人もいたって仲が悪かった。しかし、どれだけ仲が悪くても、同じ小舟に乗り合わせているとき、突風が吹いて舟が沈みそうになると、お互いに力を合わせて沈没を防いだ(その舟を同じくして済り、風に遇うにあたりては、その相救うや左右の手の如し)。韓非子にも、次のような寓話がある。

肥えた豚にたかっている三匹のシラミが、ケンカをしていた。そこへ通りがかった一匹のシラミ。なんでケンカしているか、ときくと、肥えた場所の奪い合いからだという。すると一匹のシラミがいうのに、肥えた豚なら十二月のお祭りに茅の火で丸焼きにされるだろう。豚が丸焼きになれば、たかっている我々も丸焼きになる。ここのところは争いなどやめて、ともに丸焼きにされるのを防ぐことが先決ではないか。 一同、なるほどということで四匹が協力して血を吸いつづけた。そのため豚は痩せてしまい焼かれずにすんだ、とある。協力一致の妙手は、同じ危機感のもとに、利害を一致させることにある。

分社によって大舟を小舟にし、それまで他事のように感じていた危機を一人一人にもってもらえば、己を捨て、私利を捨て、公利を先にして、 一層の協力が得られる。命知らずほど恐ろしいものはない、といわれているが、昔も今も変わることはない。全員が、己を捨てたときに生ずる勇気ほど強いものはないといえよう。

五 知、行一体

明の王陽明は、知行合一を説いている。

「知は行の始め、行は知の成るなり。知行は分かちて両事と作すべからず」(知は行を予定し、行は知を前提として成り立つ。知の実現が行である。それ故、知と行は一体のものとして理解されなければならない)。

それをさらに理解させるため「そもそも知るということは、必ず行なうことに結びつくもので、知っていながら行なわないのは、まだ知っていない、ということである」としている。極端にいえば、知識を口にだして言うだけでは知っているとはいえない。たとえば、会社経営をいかに理論的に論じ立てても、経営の経験がなければ経営を知っているとはいえないということになる。

同じ経営の話をきいても、体験のある人の話をきくと「あれはほんものだ」というが、経営に本物、偽物の違いはない、体験の裏づけのあることを評価しているのである。

さらに、知だけのものと知行一体との大きな違いは、勇気があるかないかにある。知識だけでは勇気を必要としないが、知行には行なう勇気が要るということである。宋時代の話である。

宋は、北方から興った金の張大に押され、南下を余儀なくされていた。そのとき宋都を死守していたのが宗沢であった。その臣に若い岳飛という将校がいた。農民の子であったが剛弓をひき、果敢に行動してよく功をたてていた。

この青年将校をさらに伸してやりたいと考えた宗沢は、ある日、軍陣をしく方式をのべた陣図を示してこう言った。

「おまえの勇気、才能は、昔からの名将でも及ばぬほどだ。しかし、一つだけ注意したい。

おまえは、よく好んで野戦をするが、これでは万全とはいえない。これを見るがよい」と。このとき岳飛は「陣をしき、その後に戦うというのは、戦術の常であります。しかし、運用の妙は一心にあると存じます」と答えた。

戦術は方式であって、その型だけでは役にたたない。これを活かして成果を得るかどうかは、その人の心一つにかかわることで、活用しなければ、型にはなんの値打ちもないものです、という意味である。これをきいて宗沢は満足した、という。これを端的にいえば知だけでは敵に勝つことはできない。行なってはじめて知の値打ちがでる、ということになる。

よくのべることだが、創業者のすべては知行一致で功をあげている。後継者は、知だけで会社を潰している。学問では学ぶことのできない勇気に欠けているからといえよう。先年ある地方の同族会社の専務から相談を受けた。

「値上り見越しで土地を買って三年ほどもっているが、その利息と、不良商品在庫の借金利息で毎年数千万円の赤字になっている。土地は、いま売れば二億円ほどの売却益がでるが、それ以上の地価の値上りはみられない。なんとか、会社を建て直したいと思うが、どうしたらよいか」ということであらたo                          75

そこで「もし事情が許して私に一年経営を任せてくれたら、数千万円の赤字を、数千万円  一の黒字にすることができます」。

「その方法を教えて下さい」「その方法を教えることは私にはできませんし、どんな立派な経営学者でも教えられないでしょう」「それは一体、どういうことです」

「それは果断の勇気というもので、こればかりは、書物で学ぶことも人から教えてもらうこともできないことです。お宅の再建は勇気さえあれば誰にもできます。まず、土地を売って借金を返します。土地売却益で不良在庫の償却をします。それで会社の重荷はなくなり、本業の利益がそっくり計上されることになります。

土地をもっていれば、まだ値上りするかもしれない、と考えているでしょうが人口の増えない地域の地価の値上りは期待薄です。幸い値上りしても利息で帳消しされるでしょう。

また、社長が同業者の組合の理事長をしていて、土地を売ったとなると信用をおとし、名誉に傷がつくと気にされているが、倒産の不名誉を考えれば、土地売却の不名誉など些細なことでしょう」と話しておいた。

二、三日たって長距離電話が入った。「帰っておやじと相談した結果、土地を売却することにしました」と。それから約二年たつが音沙汰はない。

結果が良くて電話をかけてくれる人はほとんどない。多分成功したのだろうと私のほうは思っているわけだが、悪くすると計画倒れに終っているのかもしれない。

マキタ電機製作所の創立者故後藤十次郎氏と対談したとき話してくれた。

「昭和三十年にマキタを引き受けたが、大手会社と競合する小型モーターなんか造っていたら、いつになってもうだつがあがらないと考えて電気カンナに切り替えた。

昭和三十七年には商品在庫が山積みになってしまった。在庫整理は売る以外にない、と考え全国へ販売店を三十力所出せと指示した。抵抗が強かったが強行したおかげで翌年には任庫を一掃してしまった」等々。まさに決断経営ともいえるものである。

知ったら行ない、行なって知れ、経営の基本を知るためにも必要なことである。いわゆる、体現、体得を重んぜよ、ということである。

部下を説得するにも、体験して成果を得た人のそれには迫力がある。見聞だけの知識ではいかに名調名解であっても説得力がない。峻険をよじ登った体験者の話には引きこまれるが、映画で見ただけの人の話に感銘を受けることはない。これと同じく、実際に体験した人の話には魅かれるが、知識だけで体験のない人の話に魅かれることはない。

人を率いる場合も同じで、知恵もあり、体験のある人の命令には安心して従うことができるが、知識だけの人の命令には不平が伴う。昔の軍隊では、士官学校や大学卒業者は、見習士官といって少尉の下の位であった。二等兵から昇進していった者は歴戦を体験した者でも特務曹長が最高とされていた。見習士官より階級は下であったが兵隊は特務曹長を頼もしく考えていたものである。

「百聞は一見に如かず」という言葉はいまもよく使われている。漢の宣帝のとき、趙充国という七十才を過ぎた、歴戦の勇将がいた。

宣帝は匈奴討伐の将を誰にするか決しかねて趙充国に相談した。そのとき帝は「将軍がもし、匈奴を討つとすれば、どのような計略を用いるのか。また、どれはどの兵を用いればよいか」と尋ねた。充国はそれに答えた。「百聞は一見に如かず。百回きくより、 一度みるほうがよくわかります。およそ軍のことは、遠くからははかり難いもの。願わくは、 現地に赴いていただきたい、そこで図面を開いて説明します」と。帝はそれに従ったという。趙充国は現地の状況から屯田を上策と考え上申し、それを実行して一年その地にとどまって匈奴征服に成功したという。実践からでた計略が功を奏したわけである。知だけがあってでる勇気には少なからず危険が伴うが、知、行一致からでた勇には心配がない。部下の勇も安心感のうちにでるだけに強いともいえるのである。

六 ためらいと勇気

「已むべからざるの勢に動けば、則ち動いて括られず。狂ぐべからざるの途を履めば、則ち履んで危からず」(熟慮した上、これが最善と信じ、やむにやまれぬ勢いで行動すれば行き詰まることはない。曲げることのできない正しい道を進めば危険もない)言志四録。義に従って、誰はばかる心がなければ千万人といえどもわれ行かんの勇気もでる。

しかし、そこに、心にためらいがあれば勇気は半減するだろう。

そこでいえることは、勇気の門を全開しようとするなら、ためらいの元から絶つべきだということである。人間の神経というものはきわめて微妙である。かすかな神経の作用で信条を大きく左右することもある。

いまから千七百年はど昔になる。晋の国に楽広という人がいた。

この楽広が河南の長官であった時、親しくしていた友人がしばらく訪ねてこない。そのわけをきかせたところ「このまえ、お宅へ行ってお酒をいただいたときでした。飲もうとすると、杯の中に蛇が見えました。気持ちが悪いと思いましたが、飲んでしまいました。それから、どうも体の具合が悪いのです」という返事。

これで楽広はすぐ、うなずいた。あの部屋の壁には弓がかけてある。弓には、うるしで蛇の絵が画いてある。それが映ったに違いない。そこで再びその友人をよぶことにした。同じ場所に座らせ、酒を注ぐと、やはり、蛇が杯に映っている。「その蛇は、あそこにある弓の絵ですよ」

これをきいて、知人の病はたちまちなおったという。「杯中の蛇影」のいわれである。「幽霊の正体みたり枯れ尾花」ではないが、「疑心暗鬼を生ず」で、なんでもないことが神経をたぶらかし、勇気を妨げるどころか腰まで抜かすことになる。

次に勇を挫くものは、過去のにがい体験で、「過去の失敗で懲り懲りした」の類である。「失敗は成功のもと」というが、失敗に懲りてしまっては成功はない。

「七転八起」の教えもある。七度失敗してもそれに懲りることなく八起に挑めば成功の道は開かれているのに、七度も失敗すれば、もうたくさんといってしまっては成功軌道に乗ることはできない。

楚の詩人、屈原の詩に「熱羹に懲りて奎を吹く、何ぞ此の志を変えざらんや、階を釈てて天に登らんと欲す、なおさきの態あるなり」(あつものに懲りてあえものを吹くは、世の人の愚かさ、われひとりは天にも登る心で、節操だけは変えない。〔羹は熱い汁。謄は細かく切った生肉、奎は、酢や醤油であえる細かく刻んだ野菜のこと〕)。祖国愛に燃えた屈原が、昔の失敗に懲りて自分の信念を曲げるものではないということである。やけど

この文句は、以前に熱いものを口に入れて火傷をしたのに懲りて、冷たいなますやあえものを食べるにも吹いて食べる、ということで、 一度の失敗に懲りて過ぎた用心をすることである。

日常の業務、とくに、難事、大事に再び挑戦しようとする際など、なますを吹くことが多い。「だいじをとって」とよくいうものである。「だいじをとって一年計画を二年計画にした」という。別項でものべたが、過去に失敗しているから大事をとるので、いわば、なますを吹いているのである。

現職時代に、よく若い社員に「過去の失敗にこりて石橋叩いて渡る考えなど捨てよ、自分の渡る道は断崖につられた一本橋きりないと思え」と口ぐせのように言っていた。また「自分の進路を妨げるものはすべてとり除け」といったこともある。

あるとき、中国の能筆家に、唐詩選にある、陸亀蒙の「別離」という詩を書いてもらった。私は十八才のとき父に死別しているが、その野辺の送りのときを思い記した詩である、といって書いてもらったものである。

「丈夫涙なきに非ず、離別の間に灌がず、剣に伏って樽酒に対し、遊子の顔を為すを恥ず、崚蛇一たび手を甕さば、壮士疾く腕を解く、思う所は功名にあり、離別何ぞ嘆ずるに足らん」

(ますらおとて涙がないわけではない、それを離別の際に流さないだけである。剣によって酒樽を傾け、旅行く人の女々しい顔などするのを恥じる。毒蛇に一たび手を咬まれたら、壮士は、たちどころにその腕を切り落してしまうという。そうした気概こそ望ましい。男子たる者、 一旦功名を志した上は、 一時の別れなど、なんで悲しむことがあろう)。

これを、第二の会社を去るとき、人事部長に渡してきた。若い社員の教育資料だ、といっておいたが、いまでは、その上に、どのくらいの埃がたまっていることやら。志を遂げるためには、過去の過ちや取り返しのつかない劣等感などいっさい忘れ去れ。過去の失敗は成功への強力な栄養剤なのである。この項で最後にいいたいことは、自信である。

なぜ自信がないか。体験がない、学ばない、信念がない、これでは勇気もでなくなる。会社の会議の席上などで発言したり、反駁に対して反発のできる者は、知って行なっているから、行なって考えているからできる。自信、勇気が言わせるのである。会議できいているだけ、相槌を打っているだけ、という人は、ほとんど学んでいないし行なっていないものといえるだろう。

「学は勇に通ず」「知行は勇に通ず」とは私の持論でもある。

七 勇気は準備に比例する

その昔、日経連の専務理事であった前田一氏と対談したことがある。

「創造性とは」と私がきいたとき、すぐハネ返ってきた言葉は「それは準備である」ということであった。

一つの目的を達成するため、真剣に準備をしているとき、新しい考えがでてくる、という意味である。

氏は毎年二回、労働問題についての見解を発表するが「春の発表が終った瞬間から、秋の内容をどうするか、表現をどうするかの準備に入る。それに集中して考えていると、いい考え、新しいことが次々に浮んでくる」と話してくれた。

そういえば、亡くなった松竹新喜劇の渋谷天外さんと話し合ったとき「僕は脚本も書いているが、さあ書こうとしても、なかなか書けないが、ぎりぎりまで追いつめられて待ったなし、ということになって、原稿用紙を二、三十分呪んでいると、考えが浮んでくる。それを一気に書きあげると、予想以上に良いものができる」。二、三十分間、精神を統一しての準備である。

このように、目的を強く意識し、それを達成するために、その目的に神経を集中しておくのが創造の源となる。

リンゴの落ちるのを見た人は数限りないほどいたろうが、上から下に落ちる、なにか地球に作用するものがあるのではないか、それは何だろうと目的意識を抱いて見たのはニュートンだけであった。

目的達成に力を集中している間、つまり準備している間に新しい考えが浮んでくるのである。

いまでもよくいわれている言葉に「先祖の知恵」などといって現代人でも及ばないことが、いまでも使われている。衣・食o住に例をとっても、その多くは、災害、病気などに備えたものである。

現在、企業経営についてあれこれ説かれているが、 一字で示せ、といわれたら「備」と答えるだろう。攻めに重きをおいた創造性、守るための準備、準備とは攻守両全の策といえるからである。

関係した会社で私は、よく、準備の重要であることを説いた「節約は準備なり」「かねはピンチに備えるものである」「社員教育も準備なら、技術開発も準備である」など、ことの多くを″準備″としたため「守って勝ったためしがない」などと批判されたものである。

これは、文句にとらわれているからで真意は攻撃にあることも理解されてくる。「備えあれば憂いなし」とか。備えがあるから、勇気もでる。備える間に新しい知恵もでる。

私事になるが、いま顧みて、先輩上司の言葉でいまに残っているものの大部分は「将来に備えよ」といえることであったと気づく。教訓、警句などというものは、相手のためにいうものであるため、過去より将来にふれることが多いのは当然といえるが、それでも老後を安楽に暮らすため、というようなことは一つもなかった。

前にもふれた「定年退職後、収入が減るようであったら現職中、怠けていたと考えよ」は、知力・財力の準備をせよということである。

「腰は曲っても初心をまげてはならぬ」

「会社が万一の場合を考えて、常に短刀を持っておれ」という物騒なのもあった。公事のために自分を捨てよ、という意味である。

「ケチは大志に近づく」。つまり現在のケチは準備であって、将来大きな志を遂げるためのもので、吝音ではない。ケチはケチなりの知恵をだすが、大志をもつ者のケチは大きな目的を遂げるためのものである。つまり大きな準備をしている間に新しい大きな構想もでてくる。言い換えれば大きな創造である。

「学は立志より要なるはなし」と前にのべたが、学は志をとげる準備でもあるわけで、ただ学んでいるだけでは学ばないと同じになる。

準備と創造といえば、いかにも竹に木を接ぐように考えがちだが立派に接ぐことができるのである。

また、創造といえば難しく考えるが、これこれをしようと考えている間に名案が浮んでくる。誰にもあることなのである。ただ、創造性がないといわれる人は、目的意識が足りない。あっても、それに集中しない、ということではなかろうか。

さて、なにごとを成すにも先立つものがなければ出発することができない。できないと思うから、考えようともしない。また、資金が少なければ、やろうとすることも小さくなる。

まえにのべた「奇貨おくべし」の呂不葦は、巨額のかねがあったから子楚を強国秦の太子にし、あわよくば自分も高い位を、より多くの財貨にありつこう、という大胆不敵ともいえる考えをおこしている。しかも、立派に成功しているのである。

「長袖善く舞い多銭善く買う」とは、同じ舞いを舞うにも長い袖の舞衣を着た者はよくひきたつし、商売をするにも資本の多い者はもうけも多い、ということで、なにごとをするにも条件のよいほうが有利である、という意味である。

事業をはじめた人にしても、最初は小資本で出発し、次第に利益を蓄積して資本を大きくしていく、次第に計画も大きくなってくる。すべて、準備をしつづけて大をなしたのである。終戦後一年はどたったころであった。銀行へ二十万円の融資を申し込んできた人がある。

戦時中廃品回収を営んでいた人である。早速応じたわけだが、そのとき、独り言のように「私の当面の日標は、 一年間に一千万円の利息を銀行に払うことと、 一千万円の法人税を納めることです」といっていた。年内に一千万円の利息を払うとなると一億円の借金をすることになる。現在の二十万円を一億円にするということを意味するが、昭和四十年代には、無借金で、売掛金だけでも数億円になっている。

売掛金といえば無利息預金と同じだが、 一度も催促したことがないという。そのため、買うほうも買いやすいし、義理でも買わざるを得なくなる。

こうしたわざも資本があればこそできること。その日暮らし経営ではできることではない。その昔、北関東にある有力製材会社の社長と話し合ったことがある。

「どうです。もう少し、不景気が深刻にならないものかね」と話しだした。不景気待望挨拶とでもいえるものであった。「不景気で困ります」と先にいわないでよかったと思う。わけをきいた。「国、県有林の立木の入札がある。不況、金詰まりが深刻化すると、応募する人が少なくなる。ほとんど最低入札価額で落札できるからだ」と。これにしても用意があるからできること。なければ、他人の儲けを羨むだけとなる。

よく、事業や蓄財に成功した人を指して「あの人は運がいい、頭がいい」という。しかし、それほどいいわけではなかろう。準備を大きくしている間に度胸もついて、目的も大きくなる。それを果たすための知恵もでてくるだけではないかと思う。またよく「あの人は大っ腹だから大きなことに成功した」といわれる人がある。最初から大っ腹だった人はない。かねがたまると腹が太ってくるという。なるほど、話すことも大きくなる。

それに対し私は「あの腹の中には大きなことを成そうとする、大志と自信が入っている」といったことがある。

また「勇気が入っている」といったことがある。勇気は準備に比例する、といえるからだ。勇気がないといわれる大部分は準備不足なのである。

八 勇を妨げるもの
将の条件として、仁、知、勇があげられているように「勇」は、有力な条件の一つといえる)。

兵法に次の五つをあげているものがある。

管理 多数の部下をまとめ集団としての力を発揮させること
準備 いたるところに敵がいるものとして行動すること
決意 敵に対したとき、生きようと考えないこと
自戒 かりに勝っても、緒戦の緊張感を失なわないこと
簡素 形式的な規則、手続きを簡素化すること

このうち、生きようとする気持ちを捨てることは、別項でものべたとおり「己を捨てる」に通じる。現代の企業経営者にたとえれば、私利、私欲を捨てて会社のために誠を尽くすということになる。自分の名誉や私財をかばう心があるから勇気がでないのである。

ある本に、音の武将が戦場に行くとき、家来たちにも酒をふるまって出陣を祝った、というが、あれは人間の頭を麻痺させ、死を恐れなくするためだ、とあった。麻痺させれば自分まで忘れることになる。よく、飲むと太っ腹になるというが、酔って自分を忘れれば、矢でも鉄砲でも、もってこいという気にもなる。

さて次に、勇気を挫くものは、心にやましいことがあったり、やましいことをするときである。

よく、大胆不敵なふるまいで、よからぬことをするといわれる場合であっても、白昼堂々とするものはないし、するにしても、法を逃がれ、人目をそらしてやっている、ということは、それなりに臆病にとりつかれているといえるだろう。次は、劣等感を意識していたり、引け目を感じたりしているときである。

謙虚は美徳だが、自分が他に劣ると意識して自分の前進意欲にブレーキをかけているほど愚かなことはない。

まだ、弱小企業だから、だいそれた考えをもつべきではないとか、大きなものには従っていさえすればよい、ということでは生涯強大になろうという気力さえでてこないだろう。いまは弱小だが、鶏口であって牛後ではない。いまにみていろ俺だっての気概があれば顛難を突き破る勇気もでてくる。

もし、劣等感に悩むなら、それを取り除く努力をすべし、といいたい。財界総理といわれた石坂泰三翁が外国へ行くときは、いつも日本一の下着をきていくといわれていた。どんな下着でも相手にはわかるまいが、自分が知っていたら、一瞬でも引け目を感ずる。それをふさいでおこう、というのである。

また、なまじ名誉や財産があると、それを守ることが先立って勇気が失せる。中国の戦国時代は強国秦の他、燕、趙、韓、魏、斉、楚の六カ国が相争った時代である。

洛陽に住む蘇秦という男は、弱小六カ国を同盟させて、強国秦に対抗させたらどうか、と考え、六カ国遊説の旅に出たが失敗し、乞食同様になって家へ帰った。妻は織っていた機の台からも下りず、娘は食事の仕度もしてくれなかった。こうなるのも自業自得といわんばかりであった。

次いで蘇秦は再び遊説に出て六カ国の同盟、つまり合従(従に合わさる)に成功し、六カ国の宰相を兼務することになった。このときの各王を口説いた文句が「鶏日となるも牛後となるなかれ」(合従しなければ秦の各個撃破をうけて秦の家臣になってしまう。それよりも同盟を結んで、小さいながらも一国の王であったはうがよいではないか)である。

かくて蘇秦は合従の最高功労者としてまつり上げられた。洛陽の自分の家に立ち寄ったときなど、その行列の豪華さは王侯に匹敵するはどであった。出迎えた、妻も捜も、まともに蘇秦を見ることができない。捜は食事の給仕をするにも蘇秦の顔が見られない。

「前に私が帰ったときは食事も出して下さらなかったのに、今度は大変な変わりようです  ・が、どうしたわけです」                                292

「あなたの位がこうも高くなり、お金持ちになられたのを教れば誰でもこうなります」そこで蘇秦は考えた。前の自分も、いまの自分も同じなのに、地位やかねで人の見方はこうも変わるものか。身内の者でさえ、こうなのだから他人なら、なおさらだろう、といって親戚友人に千金を与えたという。

さて、私が自身を顧みて、自分を鞭打ってくれた鞭としているのが、そのとき蘇秦がいった言葉である。

「我をして洛陽負郭の田二頃あらしめば豊能く六国の相印を侃んや」(自分がもし洛陽城近くに八千坪余の田を持っていたら、どうして六カ国の宰相を兼ねるほどの人間になれたろうか。持っていなかったから、なることができたのである)。

蘇秦の歩き回った国は六カ国、中国の過半の面積になろう。そこを巡って、 一個の赤貧が国王を日説くという勇気はどこからでたのだろうか。蘇秦のこの言をかりる限り、無からでた、依存心脱却の厳しさからでたともいえるのである。

九 実力と修飾

「鷹の立つや睡るが如く、虎の行くや病むに似たり。正に是れ他の人をみ人を強む手段翌壁:= の処なり。故に君子は、聡明は露われず、才華は邊しからざるを要して

、縄に肩鴻任鍾的の力量あり」(鷹の立っているようすは眠っているようだし、虎の歩く姿は病気にかかってい
るようである。しかし、これは人に援みかかり咬みつく手段である。これをみても君子たる
ものは、自分の賢明さを外に現われないようにし、己の才能を振り回すことのないようにし
て、はじめて大事を双肩に担うことができる者といえよう)菜根諄。

鳥獣でも鷹や虎のように強いものはあえて威勢を示すことはないが、弱いものになると、むやみに威張ってみたり、虎の威を借る狐ではないが他の力をわがもの顔にして威張る。これは人間社会でも同じようである。実力のない者は姿、形で見栄を張る。かねのないものはあるふりをする。これを態度で示したり舌先三寸でつくろう。なにも誇るものがなければウソをつく。かねのある人は装うことはない。ない者はど装う。そこに実力以上の勇が生ずるはずもない。

銀行時代、ある会社社長の訪間をうけた。用件は融資依頼である。その時は、担当者に連絡することを約束したが、翌日担当者に「拒絶せよ」と連絡した。社長の話からすれば、相応の融資は可能であったが、なんとしても俳優ではないが演技が上手すぎる。かえって脆さ、弱さを感じさせてしまう。

しかも、帰り際に、そこに靴べらがあるのに当時最高額であった千円紙幣を出し、四つ折りにして靴べらに代用している。その瞬間私の頭には融資は「ノー」とひらめいた。二年はどしてその会社は倒産、社長はいまだに行方不明である。

これとは反対に、ある社長が地下足袋、作業衣姿で現われ、借入れ申込みを受けた。早速応じたが文字が書けない。奥さん代筆で書類を整えた。その社長に私は地下足袋社長の別名を奉ったが現職を去るまで地下足袋で通した。事業も大発展し財を成した後も同じであった。

かつて、西濃運輸の創立者田口利八氏と対談したとき坊主頭に気づいた。「私と同じようにバリカンのごやっかいになっていますね」といったら「一人前になるまで髪を伸ばさないことにしている」という。当時、すでに陸運王といわれていたが自身では半人前ぐらいに考えていたのかもしれない。

田口氏が現在の事業を思いついたのは、日中事変に戦車隊の一員で出征していた時である。

「将来日本の陸運はトラック中心になる。どうせ事業をやるならトラックの輸送と心に決めた。しかし父が百姓を継がせたい一心で猛反対。当時のトラックの運転手はならず者扱いされていた。事業をはじめるにも金がない。父に頼んでも出してくれないばかりか、親戚にも、利八が借りにきても貸さないでくれと、ふれが回っていた。

なんとか苦面して昭和二年に千百円の中古トラックを買い、 ハンドルを握ることになった。昭和十六年に戦争がはじまり統制も厳しくなり、会社組織に改める決断を下した。その際、事務所らしくするため机と椅子を買ったが、いまでも腰かけて苦労時代を偲んでいる。山村の役場の小使さんの机より粗末だ」と話してくれた。 一介のトラック野郎が天下の陸運王といわれるに至っても、相変わらずの坊主頭で創業時の机と椅子を使っている。その坊主頭には、いざというときの果断の勇がいっばい詰まっているに違いない。

「辺幅修飾」という言葉がある。辺幅とは布の縁のことで、粗末な布のはしを飾りたてる、いらざる虚飾のことである。

中国の西漢が亡び、朧西(甘粛省)に拠る院算、蜀の公孫述、洛陽の劉秀(光武帝)が天下を争った一時期があった。院算は、 劉秀、公孫述のいずれと連合するかを決めるため両雄の品定めをしようとしてまず馬援という男を公孫述のもとにつかわした。公孫述は自ら蜀帝と称して四年になる。馬援が面会を申し込んでもすぐ会おうとしない。

馬援は公孫述が同郷の誼もあり、歓迎してくれるものと思っていたが案に相違している。ようやく会うことになって驚いた。座席を豪華に飾らせ、百官を並ばせて馬援を案内させた。ややあって公孫述は車に乗り、着飾った兵士を従い、皇旗をひるがえして出御、高い座についた。そして馬援を見下ろしていった。「君が吾輩に仕えるなら、侯に封じ、大将軍の役を与えよう」と。

馬援は答えもせず席を立ち、引き止める人たちに吐き捨てるように言った。「いまだ天下の雌雄は決していない。もし天下を狙うなら士を厚く遇すべきである。三度哺を吐いてもすぐ迎えるものだ。だが述は辺幅を修飾している。まるで木偶人形のようだ」。かくて早々に帰り主君の院意に告げた。

「公孫述という男は、まったくの井蛙(井戸の中の蛙)で、小さな蜀の地で、威張る能しかない男で、誼を結ぶなどもってのほかです」と。次いで馬援は劉秀に会った。劉秀は居ながらにして会い天下の国士といって礼遇した。その後、朧西の院章が死に、朧は劉秀に降っている。光武帝劉秀が「人間足るを知らず朧を得て復た蜀を望む」といったのはこの頃であろう。そのとおり、公孫述は光武帝によって亡ぼされている。

現代経営者のなかにも会社が好調であればあるだけに派手にふるまい、不調になればカムフラージュするために飾る。井底の痴蛙にたとえる以外にない。実力の充実に優る飾りはないものである。魏の武侯が太子であったころである。父の師であった、田子方に道で会ったので車から降りて平伏し敬意を表した。

ところが、子方のほうは答礼もしない。そこで太子は怒っていった。「富貴な者が人におごりたかぶるものだろうか、それとも貧賤な者が人におごりたかぶるものだろうか。富貴な者が、おごりたかぶるのが当然である。諸侯の後継者である高い身分の自分が、たかぶることなく平伏しているのに、身分の貧賤な先生がおごりたかぶるのは逆ではないか」と。

子方がこれに対して言った。「貧賤なものこそ人におごりたかぶれるもので、富貴な者が、どうしておごりたかぶれるものか。もし、 一国の君主ともある者が、むやみに威張ったり、贅沢をしたなら、たちまち人望は失なわれて国を亡ばしてしまうだろう。大夫が同様な振舞をすれば家を失なうことになるだろう。

それにくらべれば自分は、貧賤ではあるが、自分の主張が認められなければ、さっさと立ち去るだけである。もともと貧賤の身であるから、どこへ行っても貧賤は得られる」と。太子も、なるほどと思って失言を詫びた、という。

貧富、貴賤を問わず、おごりたかぶるということは、人間として、あまり格好のよいものではない。竹光を差して、武士は食わねど、と気どるのも、自ら尊厳を失なっているものだし、借金抱えて高級車を乗り回しているのも哀れを感じさせるものである。そこには勇のかけらも感じさせない。

十 企業経営に玉砕はない

ぎよくさい

昔、日本軍が美徳としたものに玉砕がある。負ける戦いでも全員戦死してもよいから戦えというのが玉砕戦法。勝たなくともよい、華と散れ、これを男児の本懐と考えた。

いかにも勇ましいようだが、真の勇気とは受けとめかねる。玉砕してしまったのでは元も子もない。 一時の恥を忍んでも生きて再起をはかるほうが、よほど勇者といえるのではないカ

中国は春秋時代、呉と越は二十余年にわたって争った。

はじめ呉王聞間が越の勾践に破れ、傷を負って死に際し、子の夫差に、必ず越を破って自分の無念をはらせと遺言した。

夫差は薪の上に寝起きし復讐の心を固めた。これを知った越王勾践は機先を制すべく、賢臣滝贔の諌言もきかずに呉を攻めたが、大敗し会稽山に逃がれ、進退きわまって降服した。

「恥を忍んで降服し、生きて越を再興するに如かず」という荘議の忠言に従い、自分は夫差の臣となり、妻を夫差の妾にするという屈辱的な条件を示して、玉砕を避けたのであった。このとき、呉の忠臣子膏が、「勾践は将来必ず再起して呉を亡ぼそうとするに違いありません。勾践を断じてお許しなるな」と諌めたが、呉王は、勾践から賄賂をもらっていた執政大臣の伯素の言を容れて、勾践を殺さなかった。

許されて国に帰った勾践は、獣のにがい胆をなめて会稽の恥をそそごうと誓い、万全の準備を整え呉を三度攻め、ついに夫差は破れて降服した。先に勾践を許したことがあるので助命を願ったが越王の臣寵贔は許さず、夫差は自ら命を断った。死に際して「死んであの世へ行っても子骨に合わせる顔がない」といって顔を衣におおって死んだという。「臥薪嘗胆」の故事である。鰤

● しんじようたん                     一

もし勾践が施議の忠言を入れず、会稽山で玉砕していたら、「臥薪嘗胆」の故事は生まれなかった。破れて死ぬことは易いが、全財産をとられ、妻を妾に差しだして恥を忍んで生きることは難しい。よほどの勇気がなければできないことである。

現代の企業経営にしても、忍び難きを忍ばねばならないことはいくらでもある。

たとえば、深刻な不況に見舞われたり、 ニクソンショック、第一次石油危機、急激な円高、あるいは、中進国の攻勢等々窮地に追いこまれたこともしばしばであった。このとき勇気ある経営者は、工場閉鎖、人員削減などの果断の勇をふるっている。もっとも、足元の明るいうちに計画倒産をして、財産だけは保全しようという例もなくはないが、これらを会社経営者と奉るわけにはいかない。

玉砕を避けるために一時の後退を決して、すべてを生き残りにかけるわけだが、それには、前進よりもはるかに難しい勇気を必要とするものである。まず、社内から猛烈な抵抗の火の手があがる。場合によっては、外部から信用不安の火の手もあがる。こうした中で、生き残り戦術を展開するのであるから前進の何倍かの勇気が必要になる。

しかし、国際的、大局的な環境変化という、いわば、自然の移り変わりで、天の力ともいえるものが、企業の玉砕をせまってきたともいえる。

こうした、人力ではいかんともしがたい強敵に戦いを挑めば自滅するだけである。勇気をふるって退き、生き残るに如かず、である。

前にのべた「十をもって一を攻める」の孫子の兵法では、「十なれば、則ちこれを囲み、五なれば、則ちこれを攻め、倍すれば、則ちこれを分かち、敵すれば、則ちよくこれと戦い、少なければ、則ちよくこれを逃れ、若からざれば、則ちよくこれを避く、故に小敵の堅は、大敵の檎なり」(十倍の兵力なら包囲し、五倍の兵力なら攻撃し、二倍の兵力なら分断し、互角の兵力なら対戦する。劣勢なら退却する。勝算がなければ戦わない。少ない味方で大敵に向かって、がむしゃらに戦いを挑めば敵の餌食になる)と記されている。

このうち、前の四項は行ないやすいが、あとの二項、つまり、劣勢なら退却し、勝算がなければ戦わないについての勇がでない。

卑近な例だが、証券投資などでも買うことは誰にでもできる。売ることは難しい。さらに難しいのが損をみ切って売ることである。買うときは、儲けることだけが頭にあって損はないから、案外大胆にできる。

売る場合は、まだ上がるかもしれない。せっかく買ったのだから、これで日一杯儲けようという大欲がでるから売りきれない。売れば損とわかっている。この損をいくらかでも少な観くしようと考えるから見切りがつかない。いずれも人間の欲得感情からである。        .

会社の経営上の進退についても、たとえば工場を建て、人を増やすことは易い。希望にあふれ、大きな期待を夢みているからだ。

しかし、工場閉鎖、人員削減などの撤収作戦も、支出を減らして収支バランスを保つことが目的である以上、当然勇気をださなければならないことだが、それができない。結局は玉砕を余儀なくされることになる。

昔、梁の恵王が孟子に向かって「隣国との国交はどうすべきだと考えますか」と尋ねた。孟子は「大国は小国に事える気持ちで、謙虚な態度で交わらねばなりません。これは仁者にしてはじめてできる難しいことです。

また、小国は大国に事えなければなりませんが、これも容易なことではありません。これは賢者にしてはじめてできることです。

小が大に事えることは天の道理で当然なことです。大国の立場をもって小国に事えるというのは″天を楽しむ〃ものといえましょう。

また、この天の道理に逆らわぬように、大国に事える小国は″天を畏れる″ものです。天を楽しむものは天下を保つことができ、天を畏れるものは国を保つことができます」と答えた。

これをきいた恵王は、それでは、どこを向いても仕えているばかりで、なんとも威勢が悪い。がまんできそうもない。そこでいった。「私は、勇を好む気性がありますので」と。いかにも、辞を低くして仕えているばかりではやりきれない、という態度。それを悟った孟子は答えて言った。

「王よ、小勇を好んではなりません。剣を撫で、眼を怒らして、威丈高になっているようなものは″匹夫の勇″で、せいぜい一人の人間を相手することができるだけです。もっと大きな勇気をおもちにならなければなりません」と。

漢の韓信が楚の項羽を評して「項羽が怒ると群臣はひれ伏して頭を上げるものはありません。しかし、項羽は、賢将にも任せることのできない男です。つまり、匹夫の勇に過ぎないのです」といっている。こうした例をのべた理由は、勇は勇でも大きな勇と小さな勇があるからである。

俺は勇者だと誇っても婦女子の勇に劣ることがある。些細な勇と思ってやったことが大勇であったりする。時勢に逆らい、逆流に竿さすなど、まさに匹夫の勇でしかない。しかし、 一時の退く恥を忍んでも玉砕を避けるためには大きな勇が要る。

十一 身を退くの勇

勇で最も実行困難な勇は、引退の勇である。中国の史上で西漢の劉邦に仕えた張良と、越王勾践に仕えた施姦を、引退名人といった人がいる。

知将張良は、仙人の修業をするといって雲隠れしている。劉邦の死後、呂后の専横を見抜いてのことであった。事実、大功臣の一人韓信が捕えられたとき、「狡兎死して走狗烹られ、飛鳥尽きて良弓蔵せられ、敵国破れて謀臣亡ぶ」(兎がとり尽くされると犬はもう用がないから烹て食われ、鳥もとり尽くされると良い弓は倉庫にしまわれてしまう。同じように敵国が亡びてしまえば、 謀を立てて活躍した臣も不用のものとして殺される)と嘆いた。韓信だけではない、鯨布、彰越、陳猜など武功のあった者で晩年を全うした者はいない。

劉邦をして「われ爺何に如かず」と言わせた創業の功臣随一の爺何でさえ、全財産を投げ出して劉邦の疑念を解かねばならなかった。ひとり張良だけは、仙人修業に励むといって現世への未練を断ったため、晩年を全うできたのである。

「臥薪嘗胆」の項に登場した越王勾践が天下を得たとき、茫贔はその功により上将軍に任ぜられた。しかし、久しくその地位にとどまるべきではないと官を退き、秘かに妻子・召使までつれて海を渡って斉の国へ行っている。

「勾践という人物は、首が長く、日は鳥のように尖り、残忍な人相をしている。こういう人は、困難な時には互いに協力し合うことができるが、安楽になると相手を捨てて、ともに楽しむことはできないものである」と見抜いたからである。果たして、ともに協力した種は自殺を余儀なくされている。

「苦しみはともにすべきも、楽しみはともにすべからず」、創業の苦しみ、基礎固めの困難は手をたずさえ、二人三脚といってともにするが、ことが成って、さあ、これから楽しめるという段になると一人じめにしたいのが人の常である。

これに比べればわが国のホンダ、ソニーに代表されるように、苦もともにしたが楽しみもともにし、本田氏などは藤沢氏と同時に退いている。後世に範となる引退といえるだろう。

「鋭進の工夫は固より易からず、退歩の工夫は尤も難し。ただ有識者のみ庶幾からん」  一(まっしぐらの姿勢を貫いてことを成すことはもとより易しいことではない。それより難し  師いのは適期に引退する工夫である。これは識見のある者のみができることだ)言志四録。    .

これは私事になるが、第二の会社をやめるとき、社長に辞表を二回出した。ある人から辞表を出すことは引きとめてもらうことを前提にして出すものだ、とからかわれた。三度目は辞表を出さず任期満了でやめた。その理由は「文句をいう必要がなくなったからだ」といっておいたが、言い換えれば、自分がいなくとも立派に経営できる、さらに言い換えれば、私の代わりをする人が多く育っている、ということになる。本書の各所でのべてあるが、上に立った者の任務は優れた後継者を育てることにある、とのべてきた。その人を得れば自分の任務は終り、自ら引くのは、むしろ当然といえるだろう。

いま、「引退する工夫」とのべたが、工夫とは、自分の後継者としてふさわしい者を育て見いだすことといえる。もし、引退の時期がない、といっている者は、優れた人を育て見いだすことを怠っていた、いわば職務怠慢者といえるだろう。

菜根諄に「事を謝するはまさに正盛の時に謝すべし。身を居くは、よろしく独後の地におくべし。徳を謹むはすべからく至微の事を謹むべし。恩を施すは務めて報いざるの人に施せ」(官位を去るのは全盛を極めているときである。身をおくのは地位などの争いのないところがよい。徳を慎むのは小さいことから慎むべきだし、恩を施すのは恩返しのできない人に施すがよい)とある。

組織から身を引く場合は全盛のときがよい。全盛であれば未練も残る。地位収入からも離れることは忍びないだろう。しかし、そこが潮時なので、言い換えれば最も勇気が必要なときでもある。少なからず収入は減り権力から離れる淋しさもある。しかし、引き時を逃すことの恐ろしさにくらべればものの数ではない。

自分が盛りあげてきた隆盛の時に去ることはど心残りのすることはなかろう。心狭い者は、後継者に座をゆずることは残念でもあろうが、ここが、決断のしどころといえるのではないかと思う悪い表現だが、権力の座というものは、牢名主でも去るのを惜しむというが、どのような能力者であっても権力の座が長くなればなるほど批判も多くなってくる。能力が低下するからではない。権力にしがみつく、人間のみにくさが感じられてくるからである。

それを避けるつもりか、肩書きはゆずるが、権力をゆずらないものがある。院政などといわれるものである。菜根諄の言葉ではないが、身を独後におくことができないのである。任せきれないから、といっているが、任せられない人間をなぜ後継者としたか。

また、自分が残っていないと、会社がどうなるかわからない、という人もある。残っていないはうが良くなることを知らないのである。

さらに困るのは、生き甲斐のため、健康のために居残るという者である。収入が減らないため、高級車にただ乗りしたいため、に至ってはいうべき言葉もでない。

これらは会社のためと口ではいっているが己のためであることは自分の日がそれを証明している。ときおり権力争いが新聞種になっているが、これはどみにくいことはない。

権力の座に執着する者は、それをおびやかす者を、いかに能力者であっても除こうと考え

る。口先だけであっても権力の座にとどまることを望んでいるものを近づける。しかし、これはかえって墓穴を掘る結果を招くことになる。人を玩んで徳を失なうからである。これに反し、後継者を早く見いだし、ゆずって身を独後におく者は指導者の範として永遠の名誉を保つものである。

権力の座にあった者に、去る勇気をだせ、というはど酷なことはない。権力者が己の協力者に、辞めろということもまた酷である。

そのため、現代でもトップの座を巡ってトラブルが絶えない。これを円滑に気兼ねなく進めるのが役員の定年制度である。

ところが、この定年制度を設ける場合、決定するのが最高者であるため、そこはそれ、自分だけは制度外におきたい。そのため、トップだけに例外規定を設け、死ぬまでトップの座に居座れるようにしたり、会長とか、最高顧問など、余計な制度を設けたりしている。いかに権力に執着しているかがわかる。そうすることのほうが、いかにも名誉のようであるが、世評は反対で、死んでも成仏しきれない幽霊としか思われない。

「長生きすると恥が多い」といった人があるほど。権力の座というものは、適当な後継者を作って、さっさと辞めればよい。そのほうが世間は高く評価するのである。明王朝をはじめた朱元環、即ち、洪武帝の例がある。

朱元障は、中国でも珍しい流民から身を起したはどの貧賤の出身である。一兵士として紅巾軍に参加してから、わずか十六年、四十一才で明帝国皇帝にかけあがった人傑である。その秘密は第一に、軍団の綱紀が厳正であったこと。

第二は、西漢劉邦と同じく、天下の人材を集め、これを用いたこと、とされている。ところがである。天下を統一して、皇帝の位につくや、生き残った功臣たちに謀反の嫌疑をきせて、ほとんど殺している。

左丞相の胡惟庸が謀反を計ったとして謀殺されたときは連座して殺された高官とその家族の数は一万五千人に及んだとある。

軍事面の最高功労者藍玉が疑われて殺されたときは連座する者二万人とある。いずれも皇帝の座を安泰にするためにデッチあげた、いわば保身策なのである。権力の絶対の座ともいえる楽しみは二人でともにするよりも一人じめにしたいのが人情なのである。それが往々トップ争いの原因になっているのである。

ぜんじよう                                      ざよう しゆん″禅譲″という言葉は、理想の帝王といわれた、尭、舜のころからのものである。

舜は尭帝が死ぬと、衆望によって帝位についた。売からいえば、 一族ではない異姓の者に位をゆずったことになる。従来の世襲制度を改めたことになる。このとき、舜は、尭帝に仕えていたが、その人物に優れているのに感じ、自分の娘を彼のもとに嫁がせ、宰相に登用したのであるが、当時としては氏姓の違う者に位をゆずることは困難であったのであろう。

後年も、表面的には禅譲は行なわれているが、実際は、帝位を実力者が奪い取ったもので、この点、現代では先進国の最高権力は、楽屋裏を別にすれば奇麗な禅譲といえるが、企業ともなると、楽屋裏までさらけ出し恥を天下にさらしているものも少なくない。

最高の権力の座にあるものは、常に去る時を念頭におき、その期を誤らないようにすることが有終の美を飾る道であることを銘記すべきである。

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