一 志は変えるべからず
経営者の姿勢で欠くことのできないものに″初志貫徹〃ということがある。これをやり遂げよう、この士心で貫こうと堅い決意で出発しながら中途で目的を変えてしまう。結局はなにも成らずに終る。信念が弱いか、思いつき、日先の打算で出発するからである。
ことを成す人は、環境の変化などに戦術を変えて対応し、ときには戦略を変えるが、志そのものは変えないものである。
私事で恐縮だが、第二の会社で再建にあたった頃の話である。社内は膨大な借金と労使対立で火の車の状態、しかも第一次石油ショックがおこり企業環境は最悪のとき、再建五カ年計画を発表した。その目標を、
○ (借金を五カ年で返済し、無借金会社となす)
一(当時二部上場会社であったが、 一部に上場する)
二(無配当から二割配当を実現する)
三(ボーナスは年三回支給する)
その発表のとき、内外から夢物語などといわれたが、私は目標達成に執念を燃やした。
まず、借金返済に集中攻撃をかけた。財務の改善は、その日から効果が現われるから、あれこれ手を出して達成を遅らせるよりも、借金返済ひとつに絞ちたわけである。一日でも早く完済すべく他の犠牲はすべて無視する、という覚悟でとり組んだ。
幾十億円の借金をかかえていた当時、「千円でも余分なかねがあったら返せ」と指示する。すると財務担当長が、「それは焼石に水です」といっている。「五十億円の借金は、千円返して四十九億九千九百九十九万九千円になる。たとえ少額でも、なんとかやり繰りして返せ」といいつづけたものである。
今月は経費を百万円節約した、在庫が一千万円減った、といえばすぐ返済させる。前年一億円借金が減れば、「今年は一億八百万円返せ。八百万円は、 一億円の利息分だ、その分払ったつもりで借金を減らせ」と。かねというものは便利なもので、手許にあれば何かに使ってしまう。これでは、いつになっても借金を返せない。
マキタ電機製作所の創立者後藤十次郎氏と対談したときの話である。
後藤氏は、借金過多を解消するため、返済資金に充当すべく、毎月売上高の五%を強制貯金することにした。あるとき「今月は給料・経費などを払った後、現金がないので、五%の積立てができないが」というから、「銀行で借金してでも積み立てろ」と指示したという。こうして、全国でも有数の優良会社に成長している。
そのこと私も、無借金会社になってからの話である。十五億円ほどで省力工場を建てたときに、財務責任者から、こうきかれた。「無借金経営を貫くというが、建築費支払いのため手形の割引きぐらいはやらないと間に合わない。借金してもよいか」と。 ・
「当社はあくまで無借金を貫くつもりだ。一時借入れすることにも賛成できない」
「それでは建築関係への支払いもできなくなる」
「その程度のことが判らないようでは困る。工事を一時中断すればよい」と非常識ともいえる指示をした。
「損害賠償しなければならないので損になる」「生産計画が狂ってしまう」と抵抗がでてくる。
「一時の損得ではない。無借金経営という初心を貫くはうが大切である」と退けた。志を変えることによる損のほうがはるかに大きいからである。結果は、借金せずに完了している。そのころ財務担当者に、桑名の山林王といわれた諸戸精六翁の人となりについて話した記憶がある。
翁は、二十才のとき親の残した千両の借金を返すため「立志二十力条」をつくり実行した。
第一条 川の渡賃一銭五厘を節約するため寒中以外は泳ぎ渡ること。
第二条 砂利道以外は、はだしで歩くこと。
第三条 旅籠に泊るときは夕食を済ませてきたとして泊ること。半旅籠(料金半分)ですむからである。
このほか、食事をだす家へ行くときは空腹で行くこと、腹持ちのよいものから食すること、など二十力条並べてある。翁はこれを実行し十年間で完済、さらにかねをためて桑名の米相場に挑み、その儲けで山林を買いつづけ後に山林王とまで呼ばれるようになったのである。それにしても、借金返済のためとはいえ、二十才の若さでよくこれだけの知恵がでたものである。また、よく、十年間もつづけたものである。初志一貫といえば、列子にこんな寓話がある。
北山に住む愚公という九十才に近い人は、高さ一万例もある、太行山と王屋山の二つの山を切り崩して南に通じる平坦な一本道を作りたいと考え家族に相談した。子と孫は全員賛成したが、その細君だけは賛成しかねている。
「あなたの力では丘の一角さえ崩せないのに、あれだけの山、それも二つを崩そうとしても到底無理でしょう。それに切りとった石や土はどうするつもりですか」
「渤海の浜へでも捨てればよかろう」といって三人の子と孫を連れ、石を割り、土を掘って、箕やモッコで渤海の浜へ運び始めた。なにしろ山から浜までの一往復が一年がかりというから気が遠くなる話。
これを見た黄河のほとりに住む智隻という男、笑いながら愚公に言った。「馬鹿もいいかげんにしたらどうだ、老い先短いあんたの力では山の一角さえ切り開けまいに」。すると愚公は「お前さんのような浅い考えきりないものにはわかりますまい。たとえわしが死んだとしても子は残る。子は孫を生み、孫は子を生む。子々孫々絶えることはなかろう。ところが山は切りとれば大きくなることはない。いつかは平らになる時がこようというもの」。これには智隻も二の句がつげなかった。
愚公の真心に感心した天の神が二人の力持ちの子供に山を背負わせ別の場所に移してくれた、という話である。
この寓話をあるわが国の学者は次のように評している。「世のいわゆる愚は却って智なり、世の智は却って愚なり」(知者がやったことが結果をみると愚か者がやったようになっていたり、愚かなことをしたようだが知恵者がやったのと同じ結果になっている)と。
だいたい昔から移り気のある人で、事業や蓄財で成功した者は少ない。あれこれと手を出し、かねと時間は費やすが効果は少ないからである。
また、新しもの好きといわれる人がいる。新しいものに目が奪われ、いままでのものごとに興味が失せていく人も大成はおぼつかない。時のムードに巻きこまれて自分の進路さえ見失なってしまうからだろう。限りある人間の力を分散しては中途半端になる、獅子でさえ弱い兎を捕えるのに全力を投入するという。限りある人の力でも一つに的をしばって考れば、たいがいのことは成る。
これも列子に出てくる″多岐亡羊〃という寓話である。楊子という人の隣りで羊一匹が逃げ、 一家総出、隣人の助っ人まで頼んで探しにでた。
「一匹の羊を探すのに、なぜ、大勢狩りださねばならないのか」
「逃げた方角にはわかれ道が多いからだ」
しかし、 一同は探すことができないで疲れて帰ってきた。わけをきくと、わかれ道の中にまたわかれ目があったからだ、といっている。
学問の道も、わかれ道、わかれ道と迷い込んでしまうようでは帰一する大切なポイントを見失なってしまうことに楊子は気づいたと。
なにごとを成すにも目的をしっかりと定め、それに、わき日もふらず突進することが成功への道なのである。
後でものべるが、私は二十才のとき生涯の信条、生活設計という死ぬまでのレールを敷いたため方向を誤ることはなかった。
あれもこれもと多くの目的をもって一つも成らないよりは、 一つでも目的を達成したはうがよいのである。一一 自らを信ずる
ことを成すには、まず自分を信ずることである。
自分の能力では、これはできそうもない、困難だと考えているようでは、成ることもならなくなる。他の人にできて自分にできないことはない、と強く自分にいいきかせることが成功への第一歩といえるだろう。昔から、勝ちを信じないで勝った者はいない。自分でさえ信じられないなら、やらぬことである。
人間の自惚れほど困ることはないが、勝つ自信がないと思っている指導者はど困る者もない。たとえどんな小さな可能性でも見いだしたなら、それを大きくしていこうと努めることはど、男児としての魅力はないものである。
指導者が無限の可能性を抱いていれば、部下も、その可能性を全面的に信じないまでも、一績の光ぐらいは見いだすものである。これが相互の励みにもなる。
第二の会社の再建計画を社員に発表したときのことである。
一前項にのべたとおり目標〇、一、二、三計画を知らされて、まともに信ずるものはいなかったのも当然かもしれない。しかし、そうなってくれたら、どんなに素晴しいことかという淡い期待も、また、もったに違いない。
再建計画を発表したとき、社員にこうつけ加えた。
「皆さんは、この目標を信用できないようだが、窓の外を見てもらいたい。いま太陽が出ていて真っ昼間、すべてが明るい中で、どんな光も、明るさにまぎれて見いだすことは難しい。しかし真の暗闇では、遠くの小さな光でも見いだせるはず。″明中明なし、間中明あり〃というじゃないか。その明りが、〇、 一、二、三だ。私はかならず達成できると確信しているが、皆さんも信じてもらいたい」と力強く話した。
長いトンネルから先の明りを見いだしたときは格別のもの。必死の財務改善と併行して、社員の協力を得るために、一二(ボーナス支給三回)だけは早期に実現させようと、翌年に三回目のボーナス支給を突然発表したときなど、 一緩の光明どころか、闇夜に万燈を得た思いであったろう。僅かの人でも、心に一綾の光明を見いだせば、光明の数は増してくる。これが組織の中を明るくし、活性化となって現われる。
上が可能性を信じてことにあたれば、自然に下にも反映される。武田信玄の歌ではないが、成ることまで成らぬと思い込んでしまうから、能力まで引っこんでしまう。できる、必ず成功すると考えれば、ない力までどこからともなく出てくる。
可能を妨げるものに「杞憂」がある。つまり取り越し苦労、無用な心配である。遠謀深慮は必要で、経営にも欠くことはできない。しかし、あり得ないようなことや心配してもどうにもならないことを心配するほど愚かなことはない、ということである。
自分に万一のことがあったらどうするか、そのための準備をしておくことはトップとして当然である。しかし、葬儀の日のお天気が雨だとどうなるか……これは余計な心配で、どうなろうと、いかんともしがたい。
大橋の下に野宿していた乞食のおやじ、子供に向かって「江戸中丸焼けになったら住む家がなくなるから、こうして住んでいる。ちゃんはなかなか先が見えるだろう」という小咄がある。あり得ることを予想して備えることはよいが、過ぎると心配が心配を生んで、意欲さえ失なわれてくる。自らを信じられない経営者には、このような心配症が多いようである。言志四録に、こんな文句がある。
「人情、事変、或は深看を倣して之を処すれば、印て失当の者有り。大抵軽看して区処すれば肯繁に中る者少なからず」(人間社会で起るもめごとや、事変を余り深く考えて処理しようとするとかえって失敗することがある。大抵は軽く考えて処理すると核心をついていることが多い)。
深く考え過ぎるから、あれこれ、取り越し苦労までするようになって頭も狂ってくる。「困難に直面したら楽観主義になれ。順調のときは悲観主義になれ」これも私の自論である。
再建計画実施にあたって、ともかく借金返済の一点にしばって全力投球にあたったが、犠牲にする面をあれこれ心配するときりがなくなる。たとえば金利負担の軽減のためには売掛金の早期回収、受手の短縮、在庫の圧縮を計らなければならない。これを実行して手形期間を短くすれば売りにくくなるt、在庫を圧縮すれば納期遅れの心配が生ずる。
しかし、他の犠牲は一時の損であるが、金利は借金のある限り永続して負担となる。また、 一時の損といっても、短縮、圧縮されてもなお販売するにはどうすべきか、知恵をだすことを期待してのものである。事実、その後に借金が減るにつれ士気も高まり、むしろ販売高は累増しているのである。
三 執 念
経営は結果である、とはよくいわれることだが、結果が得られないことには経営とはいえない。リーダーであれば、何としても望む結果が得られるようにしなければならない。
私がかつて、 ″根性〃をテーマに講演したとき、質問に対し「根性とは、 一つの目的を達成するために全知全能を傾ける気力である」と答えたことがあるが″執念〃も同じである。先に困難を嘆く人に執念はない。志なかばに中断してしまう人間は、執念ある人材とはいえない。
企業のためになる目的を達成するため、執念を燃やしつづけるところに経営者としての遅しさもあれば尊さもある。
ことに、会社が逆境から抜け出そうとする際など、脱出を選ぶか、倒産を選ぶかのいずれかしかない。倒産を選ぶなら、ここで何もいうことはない。あくまで逆境脱出を期すなら不退転の決意が必要になる。脱するまでは、なりふりかまわず、他人が何といおうと執念を燃やしつづけて、他のすべてを捨てても脱出せねばならぬ。沈没の危険が迫った船を救うには、何としてでも船を浮かしておかなければならない。船が沈んでしまうか救えるかは、社長の執念の差、ということである。
第二の会社が膨大な借金でピンチに陥り、銀行から追加融資を受けられなくなった頃のことである。主力銀行までが、「一度倒産して再出発してはどうか」というほど窮地に追いこまれていた。これを社内に発表するわけにはいかない。なにしろ、退職を希望する社員が相次ぎ、部門長などは徹夜で思いとどまるよう説得したという話もきくし、退職届を郵送し、他社へ勤めている人さえ何人も出ているほどである。
また、社員は持株を手放すことを急いでいる。倒産しないうちに株だけは換金しておこうという考えである。いずれも会社に見切りをつけている証拠である。こうしたなかで、銀行からも見離されたことがわかれば、たちまち動揺不安の渦がまき、倒産に追いこまれることは必至である。
もちろん銀行の融資がストップになれば不渡り宣告は時間の問題となる。そこで、社長以下全役員と部門長が出席する月例会議でこう話した。
「皆さんは退職希望の社員を引きとめるために徹夜までしているそうだが今日限り、引きとめは中止してもらいたい。社員から退職届が出たら直ちに受理し、人事部長に渡してもらい、人事部長は手続きを即日実行すること。
また、社員の持株処分希望者が多いようだが、社員の分に限って私が買い取る。株式譲渡証に取引税相当額の印紙を貼り、株券とともに株式課まで届ければ前日の株価で買い取る」いずれも社員の不安を解消しようとする狙いであった。
といっても私としても株が欲しかったわけではない。銀行から見離されれば株券はチリ紙同様になる。それにかねもあるわけではない。とりあえず株式課にたまっている株を買わなければならない。元いた銀行から借りると、元役員ということで監査書に記載されるので別の銀行から借金することにした。
その銀行から利息計算書が自宅に郵送され、家内の知るところとなった。早速膝詰め談判。「あなたは銀行からいただいた役員退職金の大部分で、先行きどうなるかわからない会社の株を買い、それでも足りずに何千万円も借金している。また、あの会社の株を買ったんでしょう。食べられなくなったらどうするつもりですか。これからも借金して買うんじゃないでしょうね」「身体をかけて、あの会社へ行ったんだから、財産をかけるぐらい当然だろう」「勝手にしたらいいでしょう」。
敵を欺くには味方まで欺かねばならない。
しかし、これは後日談になるが、自分を捨て、かねまで捨てるつもりで買った株は会社再建とともに値上りしてひと財産になっている。当時は、それどころではない。会議で、こうつづけた。
「私は入社して二年、あまりきつい発言をしなかったが、今月は二つの提案をしたいので協力願いたい。その一つは、会社を再建するまで総支出を前年実績より絶対増やさない。二つに、三年間に百五十人(グループ総員の約十四%)減員する。強制退職はしない。自然退職者の補充をしなければ可能である」と話した。
いろいろな抵抗が出た。集約すると、人を減らせば生産が落ちる。経費を削れば売上げが落ちる。当然に利益も落ちる、それでもいいのか、というもの。今日限りの命とも知らず「利益が落ちる」とは何ごとかといってやりたい。まだまだ危機感がない。そこでいった。
「利益が落ちることを心配しているようだが当社に限って、生産、売上げが落ちても利益は落ちないことになっているからそうしたご心配は無用だ」「そんなことはないはず」「当社は現在欠損であるから利益が落ちることはない」。
それでも「人を減らしては社員の士気が落ちる、対外信用が落ちる」と呑気なことをいっている。「会社が奈落の底に落ちない限り何が落ちてもかまわぬ。それに、この提案は最低なものだ、このくらいで驚いては困る」。
「皆さんは〃騎虎の勢い下るを得ず″の故事を知っているかどうか。
中国の南北朝時代、北周の宰相楊堅は、漢民族の国でありながら異民族に占領されているのを残念に思い、いつか漢人の天下にしようと画策していた。宣帝の死後、子が幼少だったので帝位をゆずり受け″隋〃を建国し、文帝と称した。この文帝が八方画策しているとき妻の独孤皇后から言伝が届いた。
すでに大事を起すことを決心し行動に移したことは、ちょうど一日千里を走る虎に乗ったのと同じです。途中で降りたら虎に食い殺されます。虎とともに最後まで行くべきです、と。
これが、この故事のいわれだが、今日の私が提案したことは会社再建を賭けたもので、千里の虎に乗ったのと同じ。皆さんが妥協を申し入れても応じないし、抵抗にも屈することはない」と言いきった。それに対し「そういう重要なことなら会議を開いて協議してはどうですか」「こういう会議は一人でやるべきだ、 一人の会議も一万人の会議も再建に同調するものであれば結論は一つである。皆さんのやろうとする会議は総論賛成各論反対会議で百害あって一利なしである」と突っばねた。
出血多量の人間を救うために、出血を止めるのを忘れて栄養剤を飲ませようとしている者には毅然たる所信をたたきつける以外にないのである。
四 商売のコツは仁
論語に、こんなくだりがある。
孔子が弟子の子貢に、
「おまえは、私のことを多く学んだ物識りだと思うか」
「はい、その通りだと思います。間違っていましょうか」
「間違っている。私は一つのもので万事を貫こうとしているだけなのだ」(一以て之を貫く)。この一とは″仁〃つまり″忠・恕〃である。
また子貢が「一言にして以て身を終るまで之を行なうべきものありや」ときいたところ孔子はこう答えている。「其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」と。
″忠″とは、誠を尽くすことで、忠実・忠誠である。会社の社長であれば私心を捨てて会社に尽くす、ということになる。
″恕″は他人の心も自分の心の如く考えることで、相手の立場になる、思いやりの心の意である。社長であれば、株主・顧客・社員を思いやる立場になることといえる。忠と恕の二字は、人の踏み行なうべき道の基本ともいえるし、指導者の姿勢としても欠くことのできないものである。平たくいえば、商売の秘訣も部下統率の妙も、この二字から発しているといっても過言ではない。
現職時代、「商売のコツとは何か」ときかれ、とっさに「それは恕だ」と答えたことがある。
「恕とは心の如くと書くが、お客さんの心になって物を商うことが最高のコツだ。お客がお店に買いにきたり、食べにくるが、この店を儲けさせようと思ってくる人はない。いわば自分の利のためにくる。安くて品がよく行き届いたサービスをするから買ってくれる。お客に多くの利を与えることが唯一の商売のコツといえる」と。
前職時代、東京の街中で働いている人たちと誰彼となく話し合った頃のことである。あるとき、銀座の石焼芋屋に訪ねてみた。「石焼芋屋で三羽烏といわれるはど商売繁昌させる秘訣はなにか」と。
第一は、石焼芋は時代に合った有望な商品である、という自信をもって商売に打ちこむことだ、と答えてくれた。論語でいえば″忠″である。
第二に、泥芋を仕入れるが、良い芋がない日は休業する。泥芋は自分で洗い、女房子供にも洗わせない。砂粒一つ付いていてもお客さんに迷惑だし信用をおとしてしまう。これもまた″忠″である。
第三は独特の呼び声を研究する。奥まったビルの中にいても、あの石焼芋屋だと気づいてもらうためだ。-
第四は、時間を厳守すること。どこの角で″石焼芋″と呼ぶか時計の針と同じだ。
第五に一定量焼きあがってからでないと呼び声を出さないこと。お客さんの九十%は若いOLだし、あとの十%は時間に忙しい会社のおえら方と自動車の運転手さんだからという。いずれも、客の立場にたった″恕〃である。いわばお客さんは神様を地でいっているわけだ。自分を先に神様にするから売行き不振になるのではないか。
次は、東京神田で、イミテーションの指輪を行商している青年と話したときである。国電のガード下で「ちょっと時間をさいてくれますか」と声をかけたら「僕は宝石商だが指輪でも買ってくれたら」と答えた。
「いま、宝石を買うほどの持ち合わせがない」「一番高いので千円だから」「それなら一つ買おう」といってかねを渡した。街燈の下へ近づき、「旦那、ダイヤにしますか、それとも、ヒスイにしますか」「みつくろってくれ」。近くのバーに入った。店の彼女たちは顔なじならしい。
宝石商の商売のコツは彼女たちの自尊心を傷つけないことといっていた。イミテーションの安物なのにニカ月月賦で売っているといっていたが「いつものとおりで」と言うだけで″月賦〃とはいっていない。
それに「ほんものと同じ」などとも言っていない。そういえば、私が話かけたときも″宝石商″と言っている。
それにイミテーションをはめている彼女の指は決して見ないことだ、ともいっている。彼女たちの気持ちまで見通している。相手の立場になる″恕〃といえるだろう。
かつて、ダスキンの駒井社長、ヤマト運輸の都築社長と相ついで話し合う機会を得たが、お客の便利を先に考えたから、こうした商売ができた、と話してくれた。そういえば僅かな代金で掃除機を貸し、物を遠方まで運ぶなど手前ソロバンを先にしたら到底始められることではない・相手に損や迷惑をかけ暴利を得ている者もないではないが、長く続くことではない。
五 指導者と仁
経営者が部下を思いやり、相手の立場になることは、指導者の姿勢として欠くことはできない。
「桃李もの言わざれども下自ら曖を成す」の教えで知られる漢の李広は、匈奴制圧にも功の多い将軍であった。下賜された恩賞はそのまま部下に分け与え、飲食もつねに兵士と同じものをとり、しかも兵士全員に行きわたるまでは決して手をつけようとしなかったという。そのため部下は心から李広を慕い、厳しい命令にもよく服したという。
「李将軍は話は上手ではないが、桃やすももの花が美しく咲くのを見にくる人が多いために、その本の下に自然に細い道ができるように、将軍を慕って人々が集まる」。これが桃李もの言わざれども云々という言葉になっている。
また兵法書「呉子」で知られる呉起も、魏の将軍であったころ、つねに下っ端の兵士と同じものを着、同じものを食べ、寝るときも薦を用いず、行軍するときも車馬に乗ることなく、自分の食糧は自分で持ち歩き、苦労を兵士と同じくしたとある。
第二次大戦も終るころ私も召集されて伊豆の大島へ渡って教練を受けた。水不足、食糧難には悩まされたが、夕方、将校宿舎を覗くと食卓にはビールがおかれ、銀飯が並べられている。これでは忠君愛国を強いられても合点がいかなくなる。さて、部下の立場となるといっても部下が何を考えているのか、何を望んでいるのかを知らなければ思いやるにもやれないことになる。
部下の望むことは、第一に名利で、地位を望み、収入の多いことを願うことは誰も同じである。
第二に、生き甲斐、働き甲斐を望む。意欲的人間であれば、危険を冒しても新天地を開拓してみよう、創造的分野に挑戦してみようという意欲がある。いわば発展への自由を求めている。さらには、定年後の不安の緩和に努めることも部下の立場に通じる道である。
つまり社員の立場を思い、欲求をかなえてあげようとする心、これが″恕〃といえるだろう。それらに不満を抱いたり、かなえられなくなったりすれば、たちまち士気は衰え、もてる力さえ発揮できなくなる。
そのため賢明な指導者は希望に上限を設けていない。名利にしても最上まで得られるようにしてある。
ある国王は宰相の率いる敵に攻めこまれ亡国寸前まで追いつめられた。そこで敵の宰相に使者を送ってきかせた。
「あなたは宰相で民として最高の位にあるが、ここでわが国を攻め亡ぼせば、 功によって、その上の位が与えられるのですか」
「いや、私の上は国王であるから、どんな功をたてても国王になることは許されない」
「それではわが国を亡ぼしても手柄にはならないということになりませんか」
宰相はそのため攻撃を中止してしまったという。
功も認められず与えられもしないということになると意欲もとたんに落ちるということである。これを逆にすれば部下の意欲を限界なく認めることが士気を長続きさせる道といえるのである。
関係した会社の社長は創立者でありながら株式上場の際開放してしまい、発行株数の四%以下の持株でしかない。能ある者ならトップの座も夢ではないことになっている。誰にもな 一れることではないがトップまで出世の道が通じていることは働く者にとっては大きな魅力に Шなる。 .
客の立場になれば商売繁昌とのべたが、これと同じく社員の立場になり社員の欲求を満たすことは代価以上に士気昂揚が計られ、会社を発展に導くものである。かつてある地方で講演したあと、帰り際に質問を受けた。
「円高をまともに受けて赤字決算になりそうなので夏の社員ボーナスを出すまいと思いますが、どんなものでしょうか」
「それでは、無配転落ですね」
「対外信用も考慮しなければなりませんので積立金をくずして前期並みの配当をしようと思います」
「株主は多いのですか」
「いや、私が大部分持ち、あとは家族と親戚です」
「社員にボーナスを出さないということでは、すでに社長さんの月給は三分の一かゼロにしているのですか」
「そこまでしなくてはいけないでしょうか」
こうなると、さすがの私も二の句がつげなくなった。「然るべく、おやりになることですね」といって別れた。控え室に戻ってから主催者の人に話した。
昔、唐の老詩人曹松は、こういう詩を作っている。
「沢国の江山戦図に入る。生民なんの計ありてか樵漁を楽しまん。君にたのむ語るなかれ封侯のこと、 一将功成りて万骨枯る」(江淮の山も、川も、戦火にまきこまれ、木を切り、魚をとったりする、のどかな生活もどうしてつづけられようか。君にたのむから、功をたてて諸侯に封ぜられるなどの話はしないでもらいたい。 一人が諸侯に封ぜられるそのかげには、骨となって朽ち果てる名もない人が何万人もいるのだから)と詠んでいる。昔はそれでもすんだろうが、いまでは一将枯れても万卒を生かすということでなければ人はついてこないのではないだろうか、と。このように部下の立場を無視し、自分の利を先にしたのでは、いずれは自分の生活さえおびやかされるのではないか。
ふん
六 憤の一字は進学の機関
経営者、指導者として著しい進歩の世界を生き抜くためには、それに対応する知識が必要である。
いかに過去の知的蓄積があっても時代は進歩してやむことはない。進歩に比例した知識を得なければ必ず取り残されることになる。人間は生涯勉強だ、といってきたが現代ほど痛感することはない。
言志四録に「人各分あり。当に足ると知るべし。但だ講学は則ち当に足らざるを知るべし」(人には天与の本分があるのであるから、それに満足し心安くすべきものである。ただし学問だけは、なお足らないことを知るべきである)とある。なんとかなるだろうと考えている人には、学問は必要と思う者はない。学問しなくともなんとかなると考えているのであるから当然である。
また、困難を先に考え可能を信じない者も学問をしようとする考えは起らない。学んでも、どうなることではない、と考えては学ぶ気にもなれないだろう。
同書に「学は立志より要なるはなし。而して立志も亦之を強うるに非ず。只だ本心の好む所に従うのみ」(学問、事業をする場合、目的を抱き、これを果たそうとする心を固めることほど肝要なことはない。他から強制されることではなく自分の本心から出たものでなければならない)とある。まさにこのとおりで志を遂げようと強く考えている人が進んで学ぶのである。
また、こういう言葉もある。「学問を始めるときは、必ず大入物になろうとする志を立て、然る後に書物を読むべきだ。ただ、見聞を広くしよう、知識を増やそうということでは、結果は傲慢になったり、悪事を隠すためになったりの心配がある。 ″害敵に武器を貸し、盗人に食を与える″の類で、恐るべきことだ」。
「学は己の為にするを知るべし。これを知る者は必ず之を己に求む。これ心学なり」(学間は自分のためにするものだということを知るべきだ。これを知る者は必ず自分から進んで学び役に立てようと考える。これが心を修める学問である)と。他人のために勉強する者はない。自分のためにするからやる意欲も高まるのである。
学ぶ者にはそれぞれ動機があるが、同書に「立志の功は、恥を知るを以て要と為す」(志を立てて成果を得るには恥を知ることが第一である)。「憤の一字は、是れ進学の機関なり」(発憤することは学問に進むため最も必要な道具である)ともある。
恥を知って発憤して学に励むにまさる鞭はないようである。これは私の些細な体験からもいえることである。
貧農の長男として生まれた私は高等小学校半ばで銀行へ入り、旧制中学の夜学へ四年通った。十八才の三月卒業したが、その一週間後に長患いしていた父に死なれた。家計の苦しいことは知っていたが三千五百円もの借金があるとは知らなかった。当時の私の年収は三百円。いま流でいえば三百万円の年収の者が三千五百万円の借金をゆずられたことになる。田畑、宅地で一万平米の土地もゆずられたが昭和三年当時の地価はタダ同然。農村不況下であったため売り手はあっても買い手はない。〓T 三平米が一円五十銭か一円七十銭。大部分処分しないと借金は返せない。当時の利率は年一割だったから、私の年収を全部あてても足らない始末
しかし私は母の気持ちを察して、 一握りの土地も売らずに完済しようと考えた。そのためには母の農耕を手伝って農収入を増やさなければならない。休日はもちろん、出勤前後に田畑で仕事をし、夜遅くまで作業をしたこともある。勤めから帰って農作物を荷車に積教、町じゅうの商店に売りに行ったこともある。
ところが、夜学に続いての農作業で腸疾患をおこし、栄養失調になって頭髪がほとんど抜け落ちてしまった。その治療のため半年ほど休職したが治らない。当時一年も休職すれば月給ストップか、退職を余儀なくされる。恥を忍んで出勤した。
昭和二、三年といえば金融大恐慌の年でもあり、世界大恐慌の前年でもある。どこの会社も昇給はストップ状態であった。私の勤め先も三年ほどストップされていたが、私が休職したあと出勤してみると昇給再開。しかし私は休職がたたってストップのまま。三円、五円の増収も欲しかったが、これも身から出たさび、職場内での序列も最下位に転落。
「学なし、地位なし、かねもなし、頭髪もなければ青春もなしの五無才」と自嘲したのもそのころである。私の生涯中もっとも失意貧困のときといえるだろう。そのころ私は、気晴しのつもりで、よく中国の史書を読んでいた。最初は「漢楚軍談」だったと思う。
あるとき漢書の「淵に臨みて魚を羨むは退きて網を結ぶに如かず」という言葉に出会った。この一行の言葉が私の目を覚ましてくれたわけである。川の淵を泳いでいる魚を見て、うらやんでも仕方がない。それよりも家へ帰って網作りをしたはうがよい。
いま自分は五無才を嘆き、他人の高い地位や、裕福な生活、黒々とした頭髪を羨んだところで誰も借金は返してくれない。毛が生えてくるわけでもない。それよりも、学んで実力を養ちておくはうがよい、と考えた。
また、あるとき「和漢朗詠集」を読み「東岸西岸の柳遅速同じからず、南枝北枝の梅開落日に異なり」(大河の東岸に生えている柳は速く芽を出し、西岸の柳は氷の解けるのも遅いので芽を出すのも遅い。同じ一本の梅でも南側の枝は日当りもよいので速く花を咲かせ、北側のそれは遅い)。
自分の現在は西岸の柳、北枝の梅と同じ立場にある。しかし、柳や梅にしても芽を出し花を咲かせる時の差はあっても東岸の柳、南枝の梅と同じ芽を出し、花を咲かせる。同じ水と栄養を吸収しているからである。自分も力をつけておきさえすれば、他の人々と同じ芽を出し花を咲かせることができる、と考えた。
この二つが私の発憤の動機といえるものである。人間というものは気分を転換すると不思議に先々の光が輝いて見えるようになる。ここで一つ生涯計画を立てようと考え十年刻みの計画をたてた。
二十才代は銀行実務と法律の勉強
三十才代、哲学を学ぶ
四十才代、経済、経営の勉学
五十才代、蓄財
六十才以上、晴耕雨読
一生を五段階としたので五段作戦と銘打った。
次に、生涯信条も定めた。
一、厳しさに挑戦する
二、時代の変化に挑戦
三、自己能力の限界に挑戦
四、疑問(先見)に挑戦
これを四挑戦とした。
さらに、これらが中途で終らないように楽しみにブレーキをかけた。
勝った負けた、損した得したにかかわる趣味娯楽を絶つことにした。いまだにゴルフ、マージャン、囲碁などを知らないのもそのためだが、いまとなっては悔いないわけでもない。
以上私の恥をのべたが、私としては生涯前進のレールを二十才のときに敷いたわけで、この上を歩みつづけてきたため、途方もなく見当違いの道を歩くことなく今日までこられたわけである。
それにしても、人生僅か五十年といわれた当時、五十までを自己形成期間としたのであるから、いかにも遠回りしたようであるが、急がば回れを地でいったのである。
しゆつらん はま
七 出藍の誉れ
夜学へ通いはじめたころ、ある人が私にこう話をしてくれた。「君たちが夜学に行けるようになったのは、あの支配人代理が上司に話をつけたからだ。自分は中学(旧制)の学歴きりないので後輩の君たちを夜学へ通わせることにしたのだから怠けずに通学しなさい」といわれて感激したことがある。
人の親は自分に学がなければ、子をむりしてでも学校へやって学ばせようとする。誰からも強制されてのことではない。親の本能ともいえるものである。また子はこれにこたえて学ぼうともする。人間社会が発展しつづけてきた理由の一つはこの親心にあるとも考えられる。
企業もまた同じで、前記支配人代理のような心ある上司が多くいる企業は発展が期待される。現在の人よりも優れた人々が絶えることなく現われてくるからだ。あとにつづく者も、先輩を追い越すことが恩返しと考えるようになる。 切
ゆず しんじひやつばん す そんじよう た こころぎし
,
なわ 一
言志四録に「志は師に譲らず」として「人事百般、都べて遜譲なるを要す。但だ志は則ち師に譲らずして可なり。又古人に譲らずして可なり」(世の中の諸々のことについてはヘリくだりゆずるべきだが、志だけは師や昔の人にゆずることはない)とある。この志を学におきかえるとよくわかる。
昔からいまに至るまで誰にも遠慮することなく抜きん出ようと努めてきたから今日の発展がある。これは人間が他の動物に優れた最も大きな点といえるだろう。百獣の王のライオンにしても先祖や親に負けないように努力しよう、より優れた能力をもつようになろう、とは考えない。人間と動物の差が出てきた理由の一つともいえる。
こうした人間がひしめき合っている社会で先んずるには、常に、親は子を、上司は部下を己より優れた人材に育てようとし、子も部下も、これに応える心構えを欠くことはできないということになる。
よく私は、先輩、先輩と威張り散らしている人たちに「自分より優れた後輩を育てあげてから先輩風を吹かせ。育てられない人間が先輩という資格はない」ときめつけた。
紀元前二百数十年も前に中国の儒者荀況という人は「学は、以て已むべからず。青はこれを藍より出でて藍よりも青く、水は水これを為りて水よりも寒し」(学問はいつまでも止まるということはないし、怠ってはならない。青がもとの藍― 青色は植物の藍玉からとる― よりも青いように、氷がもとの水よりも冷たいように先生をしのぐ学の深さをもった弟子も現われる)といっている。「出藍の誉れ」で知られる教えである。
李説という人ははじめ孔塔について学んでいたがその進歩が著しく、数年後には師の孔塔は弟子の李論のほうが自分より学問が進んだと考え、進んで李説の弟子になったという。藍よりも青くなったからである。
ところが現代の職場などでも見られることだが、部下が専門書を読んだリセミナーに参加しようとすると目の敵にする者がある。自分が追い抜かれて地位が危うくなるからだろう。
また、部下が頭角を現わしてくると出ないように頭を打つ、あるいは伸びようとする足を引く、槌で打ち、網を引くから上方といっているわけだが、こういう土方型管理職を飼っておくようではトップの目が疑われてくる。
さて、ここでいいたいことは、学ぶ者は、こうした仕打ちや非難に負けてはならないということである。誰がなんといおうと学ぶ意思を捨てなさるな、といいたい。
三十代の私は哲学書、宗教書を学んだとのべたが、十年というもの私の手にあったものは、死生禅、般若心経講話、菜根諄など、およそ抹香臭い本ばかりであった。上司からは、そんな本は一%にして銀行に関係する本を読めと叱られたり、私の坊主頭を見ながら、いよいよお寺入りですかとひやかされたりしたが、とうとう、これをおし通した。それら本の文句は忘れてしまったが、その教えは心のどこかに残っている。それが大きく、いまに役立っている。終戦後の課長時代、浦和・東京間の国電は超満員で本も読めない。三倍の料金を払って駐留軍専用車に乗って本を読んだ。課長の分際で特別車とは、という批判をうけた。しかし、この往復二時間の読書がどれはど役に立っているか計り知れない。それに老後計画に晴耕雨読がある。晴耕準備とし椿を増やしているし、雨読の用意に二百冊ほど買いだめしてある。先年孫に整理させた。「おじいちゃん、これ、いつ読むのか」ときくから「老後読む」といったところ、「七十にもなって、まだ老前か」といいおった。
さて、二十才のとき、失意貧困の悩みのなかから、生涯設計、生涯信条を定めて将来の行路を定めると、文字どおりの心機一転である。一頁の本を読むことも億劫であったものが、何頁読んでも倦むことがなくなる。一時間働いても飽きてしまったものが、飽きを忘れるようになる。なにを読み、やっても希望に結びついてくるから不思議である。身心ともに充実していく気になることも事実である。当時、奈落の底から這い上がろうとしている自分を喜んでいたものだが、あるとき、なにかの本で「部郎、夢の枕」の記事を読んで、はっとしたことがある。つまり、希望を抱いて学ぶことはよいが、どうやら自分の学問は成功だけが先走って、いわば、うわ滑りしていやしないだろうか。競争でいえば、優勝杯だけを夢みて、地についた練習をしていないということである。
たとえば、菜根諄に「逆境の中におれば、周身、皆鍼貶薬石にして、節を砥ぎ行を幅きてしかも覚らず。順境の内におれば、満前尽く兵刃女矛にして、膏を鉛し骨を靡してしかも知らず」(逆境にあるときは身辺すべてが鍼や良薬となり、節操を高め、行ないを砥ぎ、真剣にことに当っているが自分はそれを悟っていない。順調のときは周囲すべてが、刀や文のようで、体があぶら抜き、骨抜きにされるが、自分ではそれに気づかない)とあるが、これを読み、知っただけでは、バラ色の夢を追ってもその実現は難しい。これを読んだら、自分を逆境の中に追いやって体験させることが、実現へ一歩ふみ出すことになる。もっとも、当時は厳しい状況に自分自身があったから、厳しい教えを学んでも全く抵抗なしに読むことができたといえる。
いまのべた「部耶、夢の枕」の話を読んだときも、慮生の夢に終ってはならないと考えたからである。
唐の玄宗帝の時代、呂翁という道士が、趙の旧都、部邸に来て、旅宿で休んでいるところへ、貧しそうな若者が入ってきて翁に、しきりに、あくせく働かなければならない不平をボヤく。名を慮生といっている。
そのうち、その若者は眠くなったので呂翁から枕を借りて眠ってしまった。
その枕は陶器でできており、両端に孔があいていたので度生は眠っている間にその孔へ入って行くと立派な家があり、唐代の名家であった。慮生は、その家の娘と結婚し、進士の試験に合格して役人となった。それから、とんとん拍子に出世して首都の長官になり、出陣しては匈奴を破って功をたて、さらに抜燿されて御史大夫に昇進した。ところが、あまりの出世にねたまれ、宰相に忌まれて、州の長官に左遷されてしまった。
しかし、そこにいること三年で戸部尚書に挙げられ、しばらくして宰相にされた。相にあること十年、よく天子を補佐したので賢相の誉が高かった。こうして位、人臣を極めたが、無実の罪をうけ捕えられてしまった。
慮生は嘆いて妻子にいった。「私の山束の家には田があった。あれを耕していさえすれば食べるにも困らず、寒さ暑さもしのげたろうに、なんだって、禄にありつこうとしたために今はこのありさま。昔、日舎道を散歩していたことが懐かしい。しかし、今となってはどうしようもない」といって自殺しようとしたが妻にとめられ果たせなかった。ところが、ともに捕えられた者はことごとく死罪になったが慮生だけは流罪になり命は助かった。
それから数年すると、天子も度生の無実であったことを知り、呼び戻されて、燕国公に封じられることになった。五人の子も高官になり、極めて幸福な晩年を送ることができた。退官を願い出たが許されず、年老いて病気になると天子から良医良薬を賜るほどだった。しかし病には勝てず慮生は死んだ。
ここで慮生は眠りから醒めた。見回すとさっきの旅宿で寝ているし、呂翁も、そこに座っている。宿の主人が慮生の眠る前に黄梁を蒸しはじめたが、まだ出来あがっていなかった。
「ああ、夢だったのか」と憮然としている慮生に翁はいった。「人生とは、みんなそんなものではないのかな」。慮生は感謝して呂翁にいった。
「栄屠も、貧富も、死去も、すべてを経験しました。これは、先生が私の欲を塞いで下さったものと思います。ありがとうございました」といって去っていった。
この話のように、人生すべては夢として過ごしてしまうには惜しい。小さな足跡でも残したい、と考えたものである。
し げん とうと
八 師厳にして道尊し
「師厳にして道尊し」とは礼記にあることばで、人を教え導く者は己に厳しくして、手本になるような行動をしなければならない、ということである。
社長は最高まで登った者、これ以上勉強することはないが、下の者は勉強せよ、というのでは厳とはいえない。自ら学んで、しかる後に学べというなら怠け者も学ぶことになる。それに、権力のため学ぶのではなく、時代の進歩に対応するために社長自ら、より多く学ぶ必要があるのである。
ところが、地位が上がるはど学ばない者が多くなる。自身は軌道に乗ったとでも思っているだろうが、軌道は軌道でも窓際行きのレールなのである。関係した会社で「本一冊読んでいない者は、名刺をいま社長に返してこい」と管理職に言ったことがあるが、新知識も吸収しないで職責を果たすことはできないからだ。中国故事に「復た呉下の阿蒙に非ず」がある。
三国時代の一方の雄、呉の孫権は家臣にこう語った。「学問というものは、自ら進んでやるべきものだ」。家臣の一人、呂蒙は武勇にはすぐれていたが学問がなかった。そこで、 いったん志した呂蒙は、それこそ寝食を忘れて学びつづけた。
そのうち学のある魯粛が呂蒙と議論をしてみると魯粛のほうがかなわないはどの博識ではないか。魯粛も驚くとともに喜んで言ったという。「貴公が武略に長けていることは知っていたが、それだけの能とばかり思っていた。しかし、いま話してみると、どうして、博識になって、もう呉にいたころの蒙さんとは大違いだ」(阿蒙の阿は″さん″という敬称である)すると呂蒙は昂然といった。「およそ士というものは、別れて三日たったら、次に会うときは目を見開いてみるものだ。日に日に進んだことがわかるだろう」と。
この呂蒙は、知将魯粛が死んだあと孫権を補け、蜀の勇将関羽を捕殺し、呉の地歩を一層強固にしている。いわば孫権は呂蒙に学問をすすめ、呂蒙はそれにこたえて学び文武両道の将となって国の基盤強化に寄与している。
現代経営者のうちにも自ら学び、学ばせて企業の発展に役立とうとしている人が少なくない。会社を大きく発展させようとする社長は、 一人の力には限界のあることを知っている。また、自分一人が学んだとしても協力する人たちが学ばなかったら半身不随と同じくすることも知っている。
そのため、自ら学ぶのである。指導者が自ら学べば、部下は命じないでも学ぶことになる。指導者についていくこともかなわなくなり見離されることを恐れるからである。
し げん とうと よろ
また言志四録に「師厳にして道尊し。師たる者宜しく自ら体察すべし。如何なるか是れ師の厳、如何なるか是れ道の尊き」(人の師たる者=上司は尊厳が備わって教えの道の尊いことが知られると礼記にある。したがって師たる者は自ら、師の厳とはいかなることか、道の尊きとはいかなることかを体験して知るべきである)とある。
いわば、口先だけではダメ、体験し、その厳しさを知ってから口に出せということである。
権力のある人が、どれはど強く部下に、ああせよ、こうせよ、と命令しても、自分で行なっていないなら、なんの尊さもない、価値もない。自ら行なっていることを部下に言うのであれば千金の重さがある。言わずとも行なうようになる。「上の好むところ、下これをならう」は昔もいまも変わらない。
前職時代、小唄に熱中している支店長がいた。次長以下が支店長とおなじ師匠に弟子入りさせられた。不治の音痴まで仲間入りしたという。支店長転勤で次長が抜櫂されたが、これもすでに小唄病に冒されていたため依然たるものだった。その交替のとき、私が言ったわけだ。「新支店長を読書家、勉強家にしてはどうか」と。
しかし、これは不発に終ったが、勉強家支店長にしても、勉強だけは下が上にならわないようである。これを、ならうようにするにはどうするか。上に立つものが自ら学び、学ぶ者を取り立てる、ということである。学ばざる者管理職にあらず、というムードを高める。学ばない者は会議で発言もできないように仕向ける。試験制度を実施するなど、学ぶ者だけが社内を大手を振って歩けるようにしたり、社長が主催して学習会を開くなど方法はいくらでもある。
師厳にして、の戒めは学問に限らない。人の長となる者は、常に自分を厳しい境地におき、自らを厳しく律するはどの気がなければ、部下が従うことはない。
社長として過半数を出資しているから、何をしようと自由と考えている向きがある。たとえ全額出資していようと、会社を私物化することは許されないのに、社長自ら、あいまいな考えで経費の公私混同を招くと、次第に部下がまねることになる。関係した会社の幹部を前に、こんな話をしたことがある。
唐の名君、太宗が重臣を前にして言った。「君主というものは、国のおかげで立つものであり、国は、民があって成り立つものである。それなのに、民から重い税を取り立て、君一人が財を蓄え、ぜいたくをすることは、ちょうど、自分の肉を切りさいて腹いっばい食べるようなもので、腹がいっばいになるころには自分が死んでしまうように、君が富んだときには国が亡びてしまうだろう」と。
また、あるとき太宗が侍臣にきいた。「西域の蛮人の商人は、みごとな珠を手に入れると、盗まれないように、自分のからだを切りさいてかくすというが本当のことか」と。
実際にありますという答えをきいて「役人が、フイロを受けて罰せられるのと、帝王が奢修欲望に身をまかせて国を亡ぼすのと、なんで蛮人の愚かで笑うべき行ないと違うことがあろうか」。すると重臣の一人魏徴が言った。「昔、魯の哀公が、孔子に向かって、よくものを忘れる人がいて、家の引っ越しの時に妻をつれて行くのを忘れた人があった。すると孔子が、いや、それより、ひどい人がいます。夏の条王、殷の村王は、わが身を忘れて奢欲におばれ、国を亡ばしてしまいました、と答えたといいます。ちょうど陛下のいまのお話と同じことであります」。この話は十八史略にあるものだが、「国という言葉を当社と変えてみるのも参考になるのではないか」と話したことがある。毎日毎日の公私混同は些細なものでしかないだろうが、これには白蟻の恐ろしさがある。気づかないうちに会社の大黒柱は空洞になる。物的ばかりではない、そこに働く人間の心まで食いつくす恐ろしさである。また、若い課長連中の会合で次のように話した。
皆さんは、商売柄、クラブ、バーなどにも行くだろうが、彼女たちに嫌われない秘訣を教えておこう。これも先輩の役目だ。
前職時代、私は東京銀座のクラブで働く、ナンバーワンという女性と対談したことがある。そのとき、嫌いな客と好きな客の品定めをしてもらった。
まず、嫌いな客として、頼みもしないのに名刺を出す人(肩書きだけが自慢の種の人間)、油頭を衣類にこすりつける人(相手の立場を考えない人)、飲みながら仕事の話きりしない人(世間知らずで融通のきかない人、まじめぶっている人)などの他、最もいやな客として「明日は日曜日だ。ピース五個もってきてくれ」「今晩は遅いからタクシーで帰る。一万円ばかり立て替えてくれ。その分も公給領収書へうまく含めて会社へ取りにこい」「接待客を帰したあと二人できて、領収書には四人としておけ、という知能犯もあるし、彼女と一緒にきたときの勘定まで今晩の分に含めてくれ、というのもある」と。私が、そのほうが売上げも増えて、貴女がたの収入も増えるではないか、と言ったら「詐欺犯に協力してまでナンバーワンになりたくありません」といって柳眉を逆立てた。もし皆さんが、彼女たちに好かれようとするなら、この話の逆をやりなさい、と話した。
「天網恢恢、疎にして漏らさず」(天の網は広大であって、その目は粗いが、善悪の応報は必ず下して見のがすことはない)とか、いずれは代償を払わなければならない。
九 一億先生、万物これわが師
NHKテレビに「生活の知恵」という番組があった。その中の交際術をテーマにしたとき私も出たことがある。
別項でものべたとおり、私は街中で働く人たちと話し歩いていたからである。司会の酒井アナウンサーから「都市銀行の専務さんが、石焼芋屋さんやサンドイッチマンのような商売の人たちと交際しているとは珍しい。何か特別の目的でも」ときかれ、とっさに日から出たのが「一億先生、万物これわが師」の文旬だった。老幼男女も、見聞するすべてが自分の先生である、という意味である。天地自然はもちろん森羅万象わが師ならぎるはなし、ということだ。
文字通り、浅学非才、独学、書物も図書館と借本ですませたはどであったから、なにごとをも教科書にしてしまったわけで、貧乏性は死ぬまで直ることはない。ものの本に、わからないことがあったら歴史にきけ、とあるが、なるほど現代は歴史の縮図ともいえる。万物わが師ではあるが、なかでも歴史は、すべてを教えてくれる。前記のように、私は漢書、朗詠集を発憤の動機にしたり、その後の経営に、指導者のあり方に、兵法・十八史略・菜根諄・韓非子など、どれはど役に立ったかわからない。今に残る故事にしても、いわば哲学ともいえるもので、時代が移り人が変わっても不変の真理を伝えてくれる。
家康は、唐の大宗の貞観政要を学んで三百年の基礎を築いたというが、古今東西の武将も孫呉の兵法を学んで覇を成している。
平安の才女清少納言は唐の詩人白居易の詩を知っていたため一層その誉を高めたという。清少納言が中官に仕えていたとき、ある雪の日「香炉峰の雪やいかに」とおおせられた。清少納言は直ちに立って簾をかかげたという。簾をかかげても中国にある香炉峰が見えるわけではない。清少納言は次の詩を知っていたのである。香炉峰の下に新たに山居を卜し草堂初めて成り偶々東壁に題す。
「日高く睡足りて猶起くるに傭し、小閣会を重ねて寒さを柏れず、遺愛寺の鐘は枕を欲てて聴き、香炉峰の雪は簾を撥げて看る、匡慮はすなわち是れ名を逃るるの地、司馬は伽お老を送るの官たり、心泰く身寧きは是れ帰する処なり、故郷何ぞ独り長安にのみ在らんや」
(日が高く、十分眠っているのだが起きるのは、おっくうである。小さな部屋で蒲団を重ねているので寒いことはない。枕をそばだてて遺愛寺の鐘の音をきき、簾をかかげて香炉峰の雪を見る。昔から慮山は名利を捨てた人々が住むところだし、司馬という官職は老人にふさわしい閑職である。身心ともに安泰であることこそ安住の地というものだ。なにも故郷は長安に限ったことではない)。
また、小倉百人一首の清少納言の歌に「夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」は、「鶏鳴狗盗」から出たもので、千年も前の故事を歌としている。そういえば、もう一人の才女、小野小町は「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」と詠んでいる。あるいは小町も、白居易と同じ時代の詩人劉廷芝の詩を知っていたのではなかろうか。
「洛陽城東、桃李の花、飛び来たり飛び去って誰が家にか落つる。洛陽の女児顔色を惜しみ、 行落花に逢うて長く嘆息す。今年花落ちて顔色改まり、明年花開いて復た誰かある・‥・‥」
「知識をたくさんもつことは企業を豊かにする」ともいえそうである。言い換えると、なにを見聞しても自分の経営や処世に役立つことを考え出せるほどのガメツさがある人が多いほどその会社は豊かになるともいえるのである。
これも私事になるが、私は自分自身をはめていることがたった一つある。それは、見間の多くを自分に役立たせることができるということで、悪くいえば貧乏根性といえるだろう。
まえに私の借金返しの話を書いたが、返済に全力投球しなければ追いつかない。そのためあらゆる知恵をしばってかねをかき集めたが、どうやら、かねばかりではない、かねを生み出す知恵までかき集めたガメッさが、万物をわが師にするようになったのかもしれない。この借金は十四年がかりで三十二才で完済したが、その十四年間に学んだことは限りなくある。第二の会社で借金過多を短期間に解消するにも大きく役立っている。借金もまたわが師だったわけである。
三十二才で借金返済が終ったときである。
「働く場とは、かねを稼ぐ場である」としか考えていなかった。年二回の僅かなボーナスも家に持ち帰ることは稀であった。右から左へ債権者に渡すことが多かったからだ。
さて、返し終ってみると「働く場」に対する考え方も変わってくる。結局、ある人の言に従って「働く場とは自己成長の場である」となった。こうなると、上下の差もなければ今昔もない、怒られ、褒められるのも自己成長のためということになる。
よく人様から「あんたの怒った顔を見たことない」といわれるが、怒りに耐えるのも、自己反省も自己成長に役立つと思えば、この相手もまたわが師となる。
十 敬
″敬〃とは、己を慎み人を敬うということである。言志四録に、「己を修むるに敬を以てして、以て人を安んじ、 以て百姓を安んず。壱に是れ天心の流注なり」(自己修養に敬を第一とすれば、人を安心させ、人民を安んじることができる。敬は天の心が流れ込んだものといえるだろう)。
「敬給弛めば、則ち経営心起る。経営心起れば、則ち名利心之に従う。敬は弛むべからざるなり」(自ら慎むの心がゆるんでくると、なにかたくらむ心が起ってくる。たくらむ心が起ると名利に走る心が起ってくる。名利の心が起ると徳を失なうことにもなるので、敬の心は弛めるべきではない)とある。
また「敬は勇気を生ず」ともある。
以上の言葉を総合していえることは、常に自分を慎み謙虚に振舞っているような人は相手に尊敬の念を抱いているもので、相手からもまた尊敬される人ということである。相互の信頼、ことにあたる勇気、協力一致の実もここから生まれてくるものである。したがって人を用いるに″敬″をもってあたるということは、社長として欠くことのできない姿勢といえよう。
蜀の劉備玄徳は、自らの補佐役として諸葛孔明を迎えるに三顧の礼を尽くしたが、孔明もまた、劉備の″敬〃に報いるため「鞠期尽力死して後己まん」(懸命に力の限り尽くし死力をふるって倒れた後やむの覚悟で協力しましょう)と、身命を投げ出しての忠誠を誓っている。この二人を「水魚の交わり」といって、水と魚との間は切っても切れないとしている。
その形は主と従であるが、実はどちらが主でも従でもない。劉備は孔明を軍師として敬い、耳に逆らう言を素直に受け入れ、また孔明は主君を心から尊敬し、劉備亡き後も劉備の子を補佐しヽ2の立場を全うしている。
なぜ後世に伝えられるほど二人の仲がしっかりと結ばれるのか。それは″敬″という絆で結ばれているからである。主は従を敬い、従もまた主を尊敬して主の座を冒す野心もない。この結びつきを従の側からみて、主は人の用い方がうまい、という向きがある。しかし、こういう技術的な見方は間違っていると思う。 ″敬″は主が従を手なずけるためのものではない。
現代の企業において、社長が自分の補佐役として副社長をおいた、とする。二人三脚にたとえれば、そこに上下、強弱の差はない。副社長の副が一字多いだけである。もしまた、社長の不得手を補うための補佐役とすれば、社長の師ともいえる人である。当然に社長は副社長を敬ってよい。副社長を上手に使うための表面的な″敬〃というものであってはならない。そこに、本物の信頼関係が生まれてこよう。ただここで副社長が、我らは社長の師であるかのような態度であれば落第である。あくまで社長は社長として敬い、権限を侵すことなく誠をつくすことでなければならない。
よく、トップの座を狙ったトラブルが起きる。トップとしての任務を果たしていないから交替せよということであろう。しかし、それはトップに任務を果たさせなかった補佐役としての怠慢を暴露しているようなもので、トップの座を狙う資格はないといえやしないか。ここで心したいことは、「敬は己を慎み、人を敬う」の″人″についてである。
敬うべき対象は、社長を補佐する人とそうでない人、老若、上下の差があるのかどうか。とかく、上は敬うが、下は下僕扱いしている者もないわけではない。こういう向きは、肩書きだけは社長、専務とついていても、下からは下僕同然に見られているものである。敬とは、そう軽く狭く、便宜的なものではない。先輩上司を敬い、礼を尽くすことは当然だが下に対しては礼を欠いてもよい、ということはない。会社に貢献する一人と考えれば年令差などあってはならない、と思う。
私は一人一人の年令を記憶しているのも面倒であるため、誰彼の差別なく、さんで呼ぶことにしている。言動も上下で差をつけない。腰を曲げる角度も同じである。前職時代、東京で社会探訪をしたことがある。
ある冬の夕方、東京神田の国電ガード下にバタ屋の溜り場があった。一人のバタ屋が仕事を終えタキ火をしている。
「たばこの火を貸してくれませんか」といって近づき、話しこもうとしたところ「わしらは背広人間と話すのは好かない」といって取りつく島もない。そこで「おじさんはいいタバコを吸っているではないか。一ぶく吸わせてくれないか」といいながら彼の手から吸いかけのタバコを取って吸い始めた。
「旦那は何、吸っているんだ」「バットだ」「わしのは五十円の新生だ」。
三、四本残っていた新生と、私のバット一箱を交換して話しはじめた。世間話や身の上話で一時間半も話したろうか。
人はそれぞれ、立場や生い立ちなどによって劣等感をもつ。相手のそれを意識すると、相手もそれに気づく。相手も同じ人間と考えると相手も同じ人間と考える。これも相互の敬からである。
前職時代のある日、 一通の結婚式の招待状が届いた。差出人に記憶はない。知人、会社関係者でもない。当日の十日前に私の部屋へ入ってきた人が差出人であった。私が知らないはず。ビル管理会社から六カ月ほど派遣されていた雑役夫です、と名乗っている。顔は毎日見ているが名前は知らなかった。
「どこで、いつ出会っても先に挨拶されたり、話し合ってくれる。ただの他人とは思えなくなってきた。今度娘が結婚することになったので出席して主賓の挨拶をしてもらいたい」という。当日出席して役目は果たしたが上に立つ人間としていろいろ教えられたものである。人を用いる道は、権力、財力など力ではない。人を人と見る己の慎み、人を敬う心であると感じた。それでこそ、唐の魏徴ではないが「人生意気に感ず、功名誰か復論ぜん」の心にすることができるものであると。人を敬うということは、敬われた人だけでなく、当事者以外の人も感動するものである。
たとえば、中国春秋時代、斉の桓公に仕え稀になる名宰相といわれた管仲が、若いころからの友人、飽叔矛の友情をたたえて、次のようにのべている。
「私は、若くて貧乏だったころ、飽君と一緒に商売をやったことがあるが、いつも私のほうが儲けの分け前を余計に取っても、私を欲張りとはいわなかった。私が貧乏であることを知っていたからだ。
彼のためになると思ってやったことが失敗し、かえって彼を苦しめる結果になったが、私を馬鹿者とは言わなかった。ことには、当り外れのあることを知っていたからだ。私はまた、度々役所にでて、その度ごとに馘になったが、私を無能だとはいわなかった。まだ、運が向いてこないことを知っていたからだ。
戦争に出て、何度も負けて逃げ帰ってきたが彼は卑怯者とはいわなかった。私に、年老いた母のあることを知っていたからだ。戦いに破れ、召忽が自殺し、私だけが縄目の恥を受けたが、恥知らずとはいわなかった。私が小事にこだわらず、天下に功名の現われぬことだけを恥としていることを知っていたからだ。私を生んでくれたのは父母だが、私をはんとうに知ってくれたのは飽君だ」と。
十八史略に「管飽の交わり」として知られる美談だが、感謝されている飽叔矛がこれを知ったら、かえって管仲に礼の一つもいいたくなるだろう。
小学校時代だったかの教科書に、唐の詩人杜甫が詠んだ「貧交行」は、むしろ現代人に訴えているかのようである。
「手を醜せば雲となり、手を覆せば雨。紛々たる軽薄何ぞ数うるを須いん。君見ずや管飽貧時の交わり、此の道今人棄てて上の如し」
(手のひらを上に向けると雲となり、下に向けると雨になる。このように人情の変わりはいとも簡単で、軽薄の極みである。そうした人間がいまの世の中にも多くみられる。管仲、飽叔との貧乏時代の心から結ばれた友情はいまの人には、上のようにかえりみられなくなっている。残念なことである)。
現代にしても指導的立場にある人が、管仲の心であれば従う人も管仲の心になる。当然に心と心が通うことになる。よく、労使一体などというが、 一体の実は″敬″からともいえるのである。
十一 五ケンの自戒
ここでのべる五ケンとは「堅実、謙虚、倹約、憲法(法律、定款、社是社則、人間常識など)、研鑽」でいずれもケンに始まるからであって自作自戒の文句である。前職時代の私は、課長代理が八年、課長が七年で昇進の遅いほうでは人後に落ちなかった。 ″万年代理″ ″万年課長″と陰口をたたかれたものである。 ・ところが、昭和三十年に、ある特命を果たした後は部次長が一ヵ月、経理、総務部長を各 聾一カ年、取締役人事部長を一年で常務取締役に昇格し、当時、出世頭などといわれた。 .
万年課長から部次長、部長に昇格すると鬼の首でもとったかのような気持ちになる。一番若い取締役などといわれると天にも昇ったかのような気にもなる。これは貧賤から身を起した通弊かもしれない。万年課長代理から課長に昇格したときも同じであった。二百人も支店長、課長がいる中で年が最も若いといわれて、いい気になった記憶がある。エリート意識だけが頭をもたげてくるわけだ。エリートコースを進もうとする意識は捨てるべきではないが、エリートを鼻にかけるようになったらスクラップヘの第一歩となる。ということで、これを一掃しようと考え、東京上野のモク拾い、次いでバタ屋、乞食などと付き合った。このことは、すでにのべたと思う。そうした人たちと話し合うことによってエリート意識を払拭しようとしたわけだ。
その後、出世頭といわれるようになったときも、やはり心の病気の発作が起きてきた。これに鉄槌を加えない限り、自分の前途はなくなると考え自分の心に厳重に諭したのが五ケンの戒めである。
好調の波にのって有頂天になれば自制さえ忘れて堅実処世、経営から脱線する。また、ヘリくだって自分を戒め、人を敬う心も忘れ、人の長所さえ見失なうことになる。倹約は感謝にも通じ、家を治め、企業を守る基本であるが、好況ともなればムダを見る目も曇ってくる。
また、経営者であれば法律、定款を守ることは当然であるが、好調で上気し、自己過信に陥って、これを破る。己の信念さえ失なうことにもなる。研鑽は常に怠るべきではないし、好調のときはど研鑽に励むべきなのに、好調は長年続くと考えて、新時代に対応する研鑽を怠ることになる。
とかく、人間というものは他人に対しては強いが自分に対しては極めて弱い生きものである。自分に克つために努めることが無難な前進を約束づけてくれるものである。関係した会社がピンチから脱出して収益が出はじめたころである。
それまで社長と私は一時間ほどの出勤距離であったがハイヤーを利用していた(現在一部上場会社で無借金で、 二割配当、相当の余裕資金を持つが社長以下役員の乗用車はない)。それを当時の国電に乗り換えた。二人が国電に乗り換えたので国鉄は黒字になると冗談をいって笑ったことがある。
それに私は、真夏、厳寒をとおして握り飯ニコの腰弁通勤にした。また、年間の経費予算を大幅に圧縮し、昼食時間の電燈を消すことから僅かなムダまで注意した。
よく、それなら晩酌がうまいでしょうとか、利益が出るようになったのだから、いくらか余裕を考えてもよさそうなもの、などといわれたが、収益が増加しはじめたからケチることにしたわけだ。収益を好転させたのは皆さんではないか、いまさら私を責めなさんな、と逆襲したことがある。放漫経営で苦杯をなめた人たちは、好転して締めることを歓迎しているかのようであった。
「ことの成るは失意のとき、ことの破るるは得意のとき」の戒めがある。得意のときは、心のタガが緩教、僅かな油断から大失敗を招く。
兵法にも、はじめに負けたものは心を引き締め、必死に勝つための準備をするから次には勝つ。先に勝ったものは気も緩み、準備も怠るから負けるとある。勝って兜の緒を締めないものは、いずれは兜もつけられない頭になる。中国の東晋の時代、秦帝の荷堅は、賢宰相王猛を用いて一代で晋に数倍する領地を持ち全国第一の強国にのし上がった。その王猛が死ぬとき「晋にだけは手出しをなさらぬように」と遺言した。ところが荷堅はそれを無視して王猛の死後八年たって晋を攻めた。
進攻の会議を開いたとき「晋には揚子江という大河があり、それを渡らなければ都を占領することはできず、無理な戦いです」と反対する者があった。それに対し荷堅は「わが大軍をもってすれば、鞭を河に投げ込んでも流れを止めることができる。渡れぬはずはない」と
豪語し、兵六十万人、騎馬兵二十七万人を率いて晋に向かった。晋では宰相の謝安の弟の謝石を大都督、兄の子謝玄を先鋒として迎え撃たせた。その数八万で秦の十分の一でしかない。
大軍を率いた荷堅は肥水に面して陣し、自ら城に登って晋軍を眺めると軍略によく整って一分のすきもない。対岸にある八公山にも大軍が陣しているように見える。しかしこれは草木であった。有堅の心の迷いから兵に見えたのであった。
こうしたとき、謝玄は荷堅に使いを出した。「貴公の兵が河岸に陣しているため、当方は渡河できない。幾分兵を後退させ、当方が渡河してから勝敗を決したいと思うが」。荷堅は敵が半ば渡ったとき攻めれば勝てると判断して、それを受け入れ、味方に少なく退くよう命じた。ところが、退きはじめると限りなく退き、風の音、鶴の声も晋兵が追撃してくるものと思い秦は総くずれになった(風声鶴嗅)。これを肥水の戦いというが、 このとき晋の宰相謝安は、別荘を賭けて知人と碁に夢中になっていたという。この戦いで騎っていた荷堅は傷つき、属していた国にも背かれ、ついに殺され秦は亡びている。騰る平家久しからずは、わが国のことであるが、いずれの国も同じである。
さて、騎る心を抑えることを怠ってはならないが、なかなか、自分で自分の欠点を見いだすことは困難である。その音、私が先輩に「私の長所はどういうことでしょうか」ときいたところ、「そういう質問をすること自体、君の短所だ」といわれ赤面したことがある。うぬばれが短所を見る目を曇らせるのである。
昔、斉の国に、身の丈も高く容姿も人に優れた美男子がいた。名を郷忌といった。鏡を見ながら「城北の徐公は斉の国きっての美男子というが、この私と、どちらが奇-麗だ」ときくと妻は「もちろん、あなたです」と答えた。次に妾に同じことをきくと、やはり「あなたのほうが」と答えた。郷忌はそれだけでは信じられなくて翌日客がきたので、同じことを尋ねた。客からも、妻、妾と同じ答えがハネ返ってきた。ところが、その翌日、徐公に会ったので、つくづく見ると、どうして、どうして彼のほうがはるかに美しい。到底及ばないと思った。
そこで、冷静になって考えてみた。妻は私を身びいきにしているから、そう見えるのであり、妾は私に手を切られるのを恐れているからであり、客は、ほめておけば後日、なにかよいことでもあると思って、私のほうが美しいといったのだ、ということに気づいた。そこで郷忌は朝廷に出仕したとき王に進言した。
「斉は領土は広く、城も百二十を有する大国です。多くの女官、宦官は王を身びいきします。家臣は王を恐れています。国中の者は王の機嫌をとろうとしている者ばかりです。そのため王は見る眼を覆われております」と。
王は、この意見を受け入れて、国中へ布告した。「王に対し、非を指摘した者には賞を与える」と。これを見た多くの人々が、王の非を諌めるために集まって官殿の前は市ができたかのようになった。
王は、これを政治に生かしたため、 一年後には諌言にくる者が一人もいなくなってしまった。諫言したくとも王の非がなくなってしまったのである。こうして斉の国が立派になったので、他の諸国から貢物が届くようになった、という。
これとは反対に、周の属王は民を虐げた。召公が「人民は王に不満をもっています」と諌めたところ、大変怒って王の悪口をいった者を告げさせて殺してしまった。人々は恐れて悪口をいわなくなった。王は喜んで「王の悪口をいう者は一人もいなくなった」と召公にいうと「それは大変な間違いです。人民の口をふさぐのは川の氾濫を防ぐより難しいことなのです。流れを上手に治める者は、川底をきれいにさらい、流れを良くします。同じように人民の苦言をどんどん出させて、それを生かさなければなりません」と。
会社でも、社長のために言っているのに、頭から押えつけたり、根にもってしまう人がある。これでは「ものいえば唇寒し秋の風」というが、会社の将来に秋風が吹いてくる心配がある。
十二 無為にして化す
「傍にいて教え導くは常道。邪道に入るのを戒めるのは時を得た教え。自ら率先するは教えの根本。言わずに教えるは極致。一度抑えて褒め励ますは一時の方便、臨機の教えである」(言志四録)。
十八史略によると、史上最初の人君は天皇氏といい、兄弟十二人で、各々一万八千年王位にあったというからまさに神代の時代といえる。この天皇氏は、なに一つ言うでもなく、無言のうちに徳をもって民を感化し、よく国は治まったという(無為にして化す)。その昔、私も「怒って人を導くのは下で、教えて導くのは中、無言で導くのは上」と教えられた。
昔、五覇の筆頭に数えられた斉の桓公から八代目の景公のときに、晏子という宰相がいた。質素倹約で職務に忠実であったので斉の人々に重んじられていた。 一枚の狐の毛皮を三十年も着ていたし、神に供える豚肉も豆粒より小さかった。しかし、人の世話はよくし、七十余世帯もの人が晏子のおかげで生計をたてていた。
ある日、晏子が外出したので御者の妻がひそかに見ていた。夫の御者は大きな日傘をさしかけ、四頭立ての馬に鞭打って、大いに自慢げであった。
やがて夫が帰宅すると妻は「どうか今日限り離縁していただきたい、あなたの主人の晏子さまは高い位にあって諸侯の間でも有名であるのに、心が大きく人に謙虚で少しも威張ったところがありません。あなたは、御者として使われている身分でありながら、いかにもえらそうに自慢しています。まことに情けないことです。離縁をお願いしたのはそのためです」といった。それからというもの御者は人が変わったように謙虚になり、騎りたかぶる振舞をしなくなった。晏子が不思議に思ってきくと御者も正直に答えた。晏子はそれに感心し、大夫(士の上)に推せんしたという。晏子は、無言で御者を感化し、領民から重くみられている。無為にして宰相の任を果たしているともいえよう。些細な体験が私にもある。関係していた会社で一万平米ほどの分工場敷地を買った、三月である。
六月のある日、土地管理と工場管理の責任者が、敷地に雑草が生えてきた、なんとかしなければ、といっている。早めに雑草は退治しないと手におえなくなるから一日も早いほうがよい、といっておいた。
七月上旬にきくと「もう少し時間を貸してください、何とかします」。八月中旬にきいた
ところ「もう少し時間を、しかし、八月半ばですから秋も近いし自然に枯れてきます。十一月には建設開始になります。雑草などブルドーザーでやれば簡単です」といっている。「なんでもよいからすぐ刈り取れ」と指示することは知っているが、これでは私の真意がわかるまい。そこで、その日帰宅してから、十八リッター入りのポリタンク五コを集め、それに水を入れ、除草剤と背負い噴霧器、にぎり飯を車に積み、長男に有給休暇をとらせて現場へ行ってみた。さながらジャングル同然。三日の予定も一週間で終るかどうか。
午後三時に帰宅すると会社から一人の幹部がきている。どこからか嗅ぎつけたらしい。
「副社長に草退治されてはわれわれの立場がなくなる。担当者も頭を抱えているからやめてもらいたい」といっている。
「迷惑をかけると思って誰にもいわずに行ったわけだが知れた以上仕方がない、とりあえず明日は出勤する」といつておいた。
翌朝出勤すると担当者が詫びにきた。そこで話した。「何回言っても時間を貸してくれといっていた。私は銀行出身だから、かねは貸したが時間を貸したことはない。一時貸しても同じ時間を返してもらえないからだ。それに、秋になったら枯れる、ブルでやれば取れるといったが、私が除草剤をかけた草は、いつになっても枯れず、何をしても取れない草だ。その草は会社の多くの人たちの頭のなかに生えている草だ。
高度成長時代には、少々過ぎたことをしてもなんとかなったが低成長時代ともなるとそうはいかない。将来、損や危険が予想されるようなことは、芽が出たら、すぐ刈り取る。あるいは芽の出ないうちに始末しておかなければならない。その理屈がわかれば、あの草などはどうでもよい」と。
その日、せがれとにぎり飯を食べた際、お前はこれをどう思うかときいた。
「上場会社の代表取締役副社長がしかも七十才にもなって草退治とは、ただただあきれるばかりだ」といっている。「お前の頭にも除草剤をかけるぞ」と言ったあとで、こうつけ加えた。
昔荘子に向かって「おまえの学問は何の役にも立たない無用の学問だ」という人があった。荘子は「人間が立っているのに必要な地面は足が乗っているところだけで、あとは無用な地面だ。無用だからといって取り除いてしまったらどうなさる」と逆襲した。無用の用というものだ。私が除草剤をかけるなど余計なことのようだが、その裏には大きな用があるのだ、といっておいた。
それまでは期首に受注が少なく、売上高目標が達成するかどうか心配されても、担当長はまだ、先が長いと、悠長にかまえていた。期なかばに経費の使いすぎがわかっていても、これから節約すればよいという態度であったが、雑草退治からは何もいわなくても早め、早めに手を打つようになっている。無用が大きく役立ったわけである。
十三 静 と 動
「動を好む者は雲電風燈、寂を嗜む者は死灰稿木なり。すべからく定雲止水の中に、鳶飛び魚躍るの気象あるべくして、わずかにこれ有道の心体なり」
(あまりに、活動的に動きすぎる者は雲間の稲妻や風にゆらぐ灯のように落ちつきがない。静寂を好むものは、あたかも火の消えた灰や、枯れ木のように静かに過ぎる。人間としては動かない雲の中を鳶が飛び、静かな水の中にあって、おどりあがる魚のような撥測とした気概があってこそ道を体得した人の心である)菜根諄。
会社、団体内にあっても、よくみかけるが、主張もなければ、動くこともない。反対もなければ賛成もない。難しいことは高笑いで吹きとばす。泰然自若、いかにも大人の風格である。
ことにあたって、率先して動き、成果を得るのであれば、静水に魚躍るの感が深く、さすがは大物という感じを与えるが、こうした人に限って動かない。いわゆる床の間の置物といわれるものである。
反対に、会議などでも、いりもしない差し出口をきいたり、たいしたこともないことで隣の人に話しかけたり、人の発言中に電話をかけたり、中座したり、こま鼠のように動いていないと気のすまないのではないかと思う人がいる。言わず動かずのときでも足を小刻みにゆすって貧乏ゆすりだけは怠らない人もある。
いかにも、日八丁、手も八丁のように見えるが、茶坊主的な仕事はできるが、大事に直面すると、貧乏ゆすりどころか胴体まで震わしてしまう人である。
こうしたトップを戴いている部下が最も困るのは、いずれの人も、優柔不断で決断がつかないことである。決断しても、いつ変更になるかわからない。いわゆる朝令暮改社長である。ことだ。
これでは、いかに大人物を装っても部下は大物社長とは見ない。また、こせこせ動き回っている社長を活動的社長とはみない。言わず、動かずであっても組織の最高責任者としての任務をびしりと決め、行なうことであれば優れた社長として敬うことになる。さらに、将来に大きな理想をかかげ、それに挑みつづける姿を見れば、現在の企業規模は小さくとも大社長としての刻印を押すことになるだろう。
要するに、企業環境も企業も、動かない雲のように平穏な時であっても、自ら雲を呼び、それに乗って大空を飛翔する鳶のようであり、波一つない水面におどりあがる魚のような気力に温れる統率者をのぞんでいる、ということでもある。
かつて、私が第二の会社へ関係していたとき、毎日、銀行通いするほどであった。その日暮し経営ともなると、そうでもしないと、いつ銀行に見離されるかわからないからだし、その日の小払い資金にもこと欠くからである。
しかし、そうした中にあっても社員教育には、かねも時間もかけた。ある人からは「教育費という名目で、かねをドブに捨てている」と陰口をきかれた。社員を教育しても会社が潰れては役に立たない、という意味だろう。
また、ある人は「再起を期している」「飛躍の時を狙っている」といわれた。私自身が、潰れることを考えていたなら、社員教育などにかねを使うはずがない。飛躍の時があると信じていたからである。
こうした心を強くもつと、自分で口に出さなくとも心から心に伝わる。いわゆる以心伝心である。
しかし再建は急を要する。私の再建にかける執念と確信を、社員全員の心に伝えたい、それも一挙に、である。
再建計画を発表したときに、全社員を前にして窓の外の明るさにたとえて、「間中の明」を説いたことは前にのべたが、それは、いささか演技的ではあったかもしれない。何としても、社員全員に闇中の明を感じてもらいたい、つまり不動雲の飛翔、静水の中の飛躍に目覚めてはしい、そうした気持ちが、発表する私の態度に出ていたのだろう。
「経営とは演技である」といった人がある。ただただ教科書どおりに動くよりも、そこに演技力が加わると、効果も大きくなる。
しかし、同じ演技するにしても、演技される人の心になるほどでなければ猿芝居の猿の演技になってしまうだろう。自らその人になりきることでなければ見る人を魅了することはできない。槍持ちが大名の形をしてもすぐわかるようなものである。松竹新喜劇の渋谷天外さんが演技について、こう話してくれた。
「その昔、私が、人力車の出る脚本を書いたところ師匠に〃おまえ、その車曳きをやれ″といわれ、ことわりきれず、芝居で師匠を乗せて走る車夫をやった。
ところが終って楽屋へ戻ると必ずヘタクソと文句をいわれる。あまり度々毒づかれたので、今夜こそ、女形の師匠を車ごと舞台から投げ出してやろうと思って、梶棒を片足ではね上げて、荒々しく曳きだした。車の上から″うまいものだ〃という声がする。楽屋へ帰ったら″今夜は上出来だった″といって褒められた。
お抱え車は梶棒を持ち上げるにも両手でていねいにするが、角待ち車は、梶棒を上げるにも足ではね上げ乱暴に走る。お抱え車の要領でやっていたので文句をつけられたが、やっばり師匠ともなると、どっかが違う」と。
会社の社長は社長らしく演技も必要だが、肝心要になることがわからないようでは名演技のつもりでいても馬脚を現わすことになる。
「風、疎竹に来たる。風過ぎて竹に声を留めず。雁、寒漂を度る。雁去って渾に影を留めず。故に君子は事来たりて心始めて現われ、事去って心随って空し」(風が吹くと竹の葉は鳴るが、風が吹き上んでしまうと元の静けさに戻る。雁が渡ると淵はその影を映すがとび去ったあとには影はない。君子の心も同じく、ことが現われればそれに対応し、事が去れば、元の静けさ、無の境地になる)菜根諄。
平素は、鳴かず、飛ばずでいながら、変化を予測すれば果敢に対応して静に戻る、ということであれば、ことの大小を問わず、生きている社長と評価されるだろう。もし、急変、大事が予測され、泰然自若を装っても、ただ動かぬだけであったら″石の地蔵″ぐらいにしかみられない。
関東大震災のとき、ある大地主が、ひと抱えもある自宅の大黒柱を背にして、うちが潰れるようなら、よその家はみんな潰れるといって座っていた。その地主は、柱に押しつぶされて地域でたった一人の犠牲者になった。勇気ある人といった人は一人もいない。動には動に応じ、静には静で応じることであれば安全も保たれるし、人の批判を受けることもない。
環境悪化に見舞われて「これくらいで会社はビクともするものではない」と考えて無為で過ごすのと、悪化の影響をいくらかでも少なくしようとするのと、いずれが高い評価を受けることになるだろうか。
十四 悟り
経営者のうちには、朝から晩まで仕事に追われて走り回っている人がいる。毎日のスケジュールをぎっしりと書きこんだ手帖を見せて、手帖に追いとばされているようなものだと忙しいのを自慢している人がある。
そうかと思うと、少々の失敗を気に病んで浮かぬ顔をしている人もある。また、取り返しのきかない生来の弱点などに悩んでいる人もあれば、迷信などにとらわれて気力を欠いている人もいる。
いずれも自分を損ね、経営を疎かにしていることで感心したことではない。社長が忙しく走り回っていることは勤勉な社長のようであるが、多くはやらなくともよいことで自分を忙しくしているに過ぎない。大部分は部下に任せられるのに、任せられない。ということは悟っていない、ということになりはしないか。
さらに、仕出かした失敗に悩み、取り返しのつかぬ欠点などに気を重くしているほど愚かなことはない。 一刻も早く、その愚かなことを悟って、忘れるべきである。
ある大手スーパーの社長の手帖は年末には一枚になる。きのうの分は切り捨ててしまうからだ。それには、過去にとらわれてはならぬということもあるに違いない。
誰しも、明日は何をしようか、来年は何をしようか、と先を考えるもので、昨日は何をしたろうか、去年は何をしたかを考える人は少ないものである。過去の過ちは早く改めて忘れ去ること。生来の短所など、怨み、悩むよりも改めることに努めれば自然に気にもしなくなる。私など、二十才で頭髪を失ない、学なし、地位なし、かねもなし、頭髪もなければ青春もなし、と自嘲したが、天は、こうした劣等感をとり去るような力を自然に与えてくれるものである。悟り、である。
菜根諄にこんな文句がある。
「人心に個の真境あり。糸にあらず、竹にあらずして、おのずから悟愉し、煙ならず者ならずして、おのずから清芥あり。すべからく念浄く境空しく、慮忘れ形釈くべし、わずかにもってその中に沸術するを得ん」
(人の心の中には一個の悟りの境地がある。この境地を得た人は琴や笛がなくとも自然の音楽を楽しみ、香や茶がなくとも芳しい香りに浸ることができる。この境地に達するには雑念を去り、名利を捨て、思慮することを忘れ、自分の存在さえ忘れることだ。そうなれば悟りの境地に遊ぶことができるのである)。
これをそのまま読むと、いかにも、生きた仏にでもなれといっているようだが、企業経営者が生き仏になったのでは経営は成り立たなくなる。不要な思慮、雑念、私利、私欲などを忘れる、ということである。
同書には、こういうのもある。
「性天澄徹すれば、すなわち餓えて喰い渇して飲むも、身心康済するにあらざるなし。心
ぜんたん げのはろう
地沈迷すれば、たとい禅を諄じ偶を演ぶるも、すべてこれ精魂を播弄せん」
のど
(心が澄みきっておれば空腹に飯を食い、喉がかわけば水を飲むという簡素な生活をしても心身をそこなうことはない。心に迷いがあれば、禅の話を聞いても偶を唱えても、それは .心をおもちゃにしているだけである)。まことにこのとおりで、経営者が、迷い、悩んでいるようなときは、どんな忠言、教訓も耳に入らない。
ところが、なんとか迷いから醒めよう、悩みからのがれよう、と考えただけでも、それらの言葉が自然に耳に入ってくる。
そのこと私も、前述したように、長い煩悶期間を過ごしてきたが、これは天が自分に与えた試練である、と自分に押しつけつづけている間に、いつとはなしに、悩み、迷いを打ち消して試練を突破してやろうという気になった。悟り、というものであろう。銀行時代、東京銀座五丁目の「春日」というサンドイッチマンの会社社長春日輝子さんと対談した。
春日さんはこう話してくれた。
「私は三十才を過ぎたころ男の幼児三人を抱え夫に先立たれた。夫の病気でおかねを使い果たしてその日から食べるにも困った。手に職はなし。サンドイッチマンでプラカードを持つぐらいならやれると思って、サンドイッチウーマンになった。稼ぎのない日など重い足を引きずるようにして帰ってみると、火もないところで三人が抱き合って寒さを凌いでいる。
おなかのすいていることはよくわかるが、米粒一つない。外へ出て八百屋の軒先にキャベツの表皮が捨ててある。それを拾ってきて塩で煮、これが夕食といって食べさせたことも何度か。食堂の仕事をしたとき、どんぶりご飯を出してくれたが、おなかが、ぐうぐう鳴るが自分で食べるわけにはいかない。周囲の客の目を盗んでハンカチに包み、急いで帰って三人に食べさせる。
ある夜など、やくざに取りまかれ『だれの許しを得て商売やっている』と短刀をつきつけられて、すごまれた。
『私は、三人の子を食べさせるために働いているが満足に食べさせられない。いっそ、子供をしめ殺して私も死のうと考えたが、それもできない。ドスがあるならちょうどいい。ひと思いに刺し殺してくれ』といったら『せいぜい稼ぎな』と、行ってしまった。
さんや くつ
ある夜、仕事もなく、山谷の貧民窟へ帰る途中『なぜ、自分だけが、こうも苦しまなければならないのだろう』と考えた。『これは前世に悪いことをした罪の償いではなかろうか。
もし、そうだとすれば、苦しむたびに償いは減っていくはず。いずれは、償い終ることになる』。そこに考えついたとき、胸のなかにたまっていたものが一度に出てしまったような気持ちになった。それからというもの、苦労に出会うと、これで前世の償いが一つ終る、と考えるようになって、音を苦と思わないようになった」と。
対談の日「いま南青山のマンションを買い、代金を払ってきた」といっていたが、音の苦労を彼女の顔から見いだすことはできなかった。
コメント