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第二章 長い繁栄を築く四つの体系

幾代にも亙る長い繁栄を願う場合、代々会得してきた秘伝を伝承し、更に新しい現象に合致した対処の有り様を取り入れ、明文化して、絶えることなく伝えていかなければならない。

事業経営は、安定だけで幾百年も続く訳がないし、種類の異なった危機が無限に存在する訳もない。その時々の対処の有り様を願いをこめて伝えていくことこそ大事である。

戦争。革命。天災。経済大変動・制度改革・素材変化。エネルギー源の変化。新システム・ブーム……など、これまでの思想や技術の根幹を、 一定期間、揺るがすほどの出来事に誤りなく対処していかなければ、永い繁栄は計れない。

また、こういった変革と異なって、徐々に起こっているファンダメンタルな大移行というものにも耐えていかなければならない。世界的規模の経済と政治の変化、人口増減、食糧不足、宗教問題、言語。生活文化。人種の混合……といった世界が一つになるための過渡期の混乱にも事業経営は大きな影響を受けるようになってきている。社長業は、こういった大中小の数々の変化に上手に対応していかなければ務まらない。

事業の永い繁栄を築いていただくために、大事な指針として申し上げておきたいことがある。それは、事業経営を四つの体系に分けて考え、伝えてもらうことである。ぜひ、お勧めしておきたい。

一、(理念)

ロマン・思想・哲学。目的。信念。使命感。人生観・宗教観…に属する指針が理念である。

二、(戦略)

戦略とは、方向性である。①環境や状況の変化に対応して決定すべき戦略、②事業の体質によって決定すべき戦略、③社長自身の考え方や手腕によって決定すべき戦略の二つがある。いずれも、儲かる方向性を社長として決めなければならない。

三、(戦術)

戦術とは、戦い方、方法である。言うまでもなく、資本主義は競争が原理で成り立っている。したがって、競争相手の存在は免れない。ライバルとの戦いにおいて、どういう戦い方や方法が効果的。効率的であるか、社長はその方法を示さなければならない。

四、(日標)

目標は、必ず数値化すべきである。売上でも、利益や経費でも、本来のあり方を数値化し、その数値ヘチャレンジしていくことが大切である。特に、掲げた目標と実績のズレに対する素早い対応こそ事業の命運を決するものである。社長には、社長のための数字がある。命をかけて挑戦すべき数値をだして欲しい。

理念

理念とは、本来どうあるべきかという根本の考えを指しているが、それは、人生観。思想・哲学・ロマン・使命感。信念。目的。世界観・宗教観といったことの総称である。

これが希薄な社長は、決して大を成すことはできない。理念は、事業経営の根本だからである。確かに、時には理念がない社長でも、偶然にその道に入ることもある。それは、物事に偶然は付き物だからである。しかし、こと事業経営に関しては、偶然は駄目である。偶然では、次の成功の約束が出来ないからだ。必然こそ永い繁栄と幾度もの成功を決定する鍵である。理念は必然で、社長自身が自分自身のものとして固めていかなければならない。

オーナー社長の「ロマン」

事業家のロマンとは、事業に恋をすることである。心をかき立てられる思いを事業にもつことで、夢や野望が膨らんで成功の可能性が出てくる。何に対しても同じことだが、事業も好きにならなければ成就しない。

町工場を世界的にした事業家も、ガード下で身を起こし全日本を席巻した流通業界の覇者も、その創業期から完成期まで、永く思いを焦がし続けてきた。思い込みが激しく、持続すればするほど大をなしている。

顧客も増え、店も増え、商品も増え、味方も敵も増えたのである。「千年の時を刻む街」づくりに恋をした一人の男がいる。ハウステンボス社長の神近義邦さんだ。

かつて地元の農業高校定時制を卒業し、町役場に就職した若者が、高邁な志を立て、今、五千億円以上もの資金を動かして、日本の西の外れ長崎に壮大な夢を実現しようとしている。ロマンに満ち溢れた事業人生の毎日である。その人生の転機は、 一瞬にして訪れた。

昭和五十四年、当時は、高橋高見氏率いるミネベアグループの親会社・啓愛社の取締役に転進していたのだが、神近さんはヨーロッパ出張帰りのひと時、オランダを訪れた。北海とアイセル湖を仕切っている三十四キロメートルにも及ぶ大堤防を車で走っていると、堤防はコンクリートを一切使わずに、無数の石が積まれてできあがっていることに気づいた。

不思議に思って、なぜ、コンクリートの擁壁にしないのか、オランダ人の運転手に聞いてみると、

「オランダは、千拓地にできあがった国だ。堤防は、国とともに永久にもたなければならない。あの石垣の箱穴の中には、海の生物と陸の生物が交じり合って棲んでいる。そこに浄化作用が生まれ、生態系が保たれる。あなたは、何も知らない。コンクリートの擁壁で固めてしまえば、生物の棲めない土地がどんどん広がっていってしまう。そんなことはできない。だから、はるばるアルプスから石を切り出して運んできたんだ」

神近さんは、びっくりしたという。学者や専門家が言うのなら分かるが、ごく普通のオランダ人がこんなことまで平気で言ってのけた。急速、物見遊山をやめて、じっくり千拓地を見学することにした。それは、感動の連続だった。

そこには、人間の知恵の営みのすばらしさがあった。「神は世界をつくったが、オランダはオランダ人がつくった」という彼らの自負に納得がいった。深い感動を覚えた。

四百年以上も前に湖る干拓の歴史、その培ったノウハウによれば、堤防で遮断した見渡す限りの干拓地は、まず、雨に打たせてじっくり塩抜きをする。それが済むと、小さな木を一本一本全面に植えていき、林をつくるまで約二十年間放置する。林ができたところで、木を伐って道路を通し、運河を流し、教会や学校や病院を建てて集落をつくっていく。牧草地や花畑をつくっていく。

街ができあがるのに、ゆうに三十年もの歳月を要するという。しかし、神近さんが真に感動したのは、そのことではない。

人が利用しなかった土地をオランダ人はどうしたかということである。干拓地にまんべんなく木を植えて自然を創り、利用するところだけ木を伐って街をつくり、そして、残りの手つかずの地は本をいつまでも大事に育てて森にするということである。樹齢三百五十年を超す木がうっそうと生い茂る森をつくり、鳥が飛び交い、昆虫が棲息し、雑草が生えている。神近さんの琴線に触れるものがあった。日本で、特にオランダと縁の深い我が故郷。長崎の地で、この街づくりのノウハウを何とか活かせないものかとロマンを強くかき立てられた。

最新のテクノロジーを駆使したエコロジカルな街、人が集い、憩い、癒される街、そんな街づくりの夢が大きく膨らんだ。

帰りの飛行機の中、スキポール空港からアンカレッジ空港までのたった十時間で、それこそ無我夢中で書き上げたのが「オランダ村計画」だった。

この一瞬間から、神近さんのロマンと、その実現に向かう藪難と喜びのドラマが始まった。お金も信用も無ければ、ついてくる人間も、土地も、何にもない、文字通リゼロからの出発だった。それでも、熱くたぎる胸のうちはいかんとも押さえがたい。

勢いにまかせ、事業計画書を携えて地元の親和銀行の支店に飛び込んだ。百万坪の土地、一千億円の融資をいきなり切り出した神近さんの言葉に、銀行の支店長はただただポカーンとするばかり。支店長の裁量で貸せる限度額は三千万円、桁外れの非常識ぶりに、言葉にこそ出さなかったが、「お帰りは、あちらです」と顔に書いてあった。

「ならば」と、本店へと行ってみたが、応接室にも通してもらえず、立ち話で軽くあしらわれ、担当者はそそくさと姿を消してしまう。ほかの銀行、生保・損保を手当たり次第回ってみたが全て門前払い、挙げ句の果ては、誇大妄想で勇名を馳せてしまう始末。

もうダメか、と一瞬あきらめがよぎったが、いまさら後戻りできないという勇猛が勝り、お金が無くても計画を実現する方法を必死に考え抜いた。血の滲むような努力と東奔西走の甲斐あって、有能な建築家、四千坪の土地、建築費だけは何とか確保できた。

最後に残ったのが、運転資金。お金が無ければ、人も雇えない、宣伝もできない、物品の仕入れもできない、最低二億五千万円は必要である。振り出しに戻って、最初に訪ねた親和銀行の支店に行った。

「私は、設計もできる。土地もできた。建設費も工面した。二億五千万円貸してくれれば、オランダ村のプロジェクトがスタートできる。これは、この町にたったひとつしかないあなたの銀行の社会的責任じゃないか。貸さなければ、支店長としての資格がない」と、理屈も何もなく一気にまくし立てた。

「一千億円の次は、二億五千万円ですか」と、さんざん厭味を言われ、あれこれやり取りしているうちに、支払い能力のある保証人を立てろと策を授けてくれた。そして、リゾート開発だから、当時、長崎観光連会長であった長崎バス社長の松田塙一さんがうってつけではないかとほのめかす。

さっそく、松田社長と面会し、事業計画を説明しはじめたが、みるみる社長の顔が鬼みたく真っ赤になっていった。

「親和銀行の保証を、長崎バスにしろって言うのか。十八銀行の間違いではないのか」神近さんは、親和銀行と十八銀行が地銀のライバル同士で、松田社長は十八銀行から来た人だということを知らなかった。そればかりではない、松田社長の父親が十八銀行の頭取で、祖父もかつての頭取、曾祖父がつくった銀行で、長崎バスは十八銀行の大株主だということも、まるで知らなかった。しかも、松田社長は、十八銀行の現役の監査役で、十八銀行の頭取である父親が長崎バスの役員をしているという、両者は、いわば一体企業であった。

「いい加減にしろ」と怒鳴られ、這々の体で逃げ帰ってきた。親和銀行の支店長にまんまと一杯食わされ、怒り心頭に達したが、支店長は何食わぬ顔で、「じゃあ、松田さんの個人保証をもらって来い」と、涼しげに言ってのけた。

今更と思ったが、「戸を叩かざれば開かず」の覚悟で、どうにか再訪のアポイントを取り付けることができた。その、 一途な思いには驚かされる。

長時間またされたが、会ってはくれた。怒られて帰るだけかと思ったが、意外や、ニコニコして部屋に入ってきた。

「個人保証をお願いにまいりました。断られても結構です」と、思わず言ってしまった。居たたまれなかったと、神近さんは述懐する。

ところが、すんなり個人保証を認めてくれた。未だ半信半疑で、お礼も言わずに証書を引ったくるようにして帰りのエレベーターに駆け込むと、松田社長が後を追ってきて、「まあ、しっかりやれ」と、励ましてくれた。神近さんが、我に返って、初めてお礼を言おうとした刹那、エレベーターのドアが閉まってしまった。

涙が溢れて溢れて仕方なかったという。男のロマンとロマンが相呼応したのだ。

神近さんは、すぐに二億円の生命保険に入り、「万一のことがありましたら、この保険金で個人保証を抜いてください」との念書を認め、松田社長に差し出した。まさに、命懸けのロマンである。立派だ。

こうして、 一九八二年、長崎オランダ村がオープンした。初年度から、百二十万人の入場者を数え、二年目から黒字を出して一割配当を実現し、「東のディズニーランド、西のオランダ村」と並び称されるまでの高い評価を得たが、神近さんは、決してこれで満足しなかった。時あたかもバブル突入前夜、時の運を得て、投資総額五千四百億円のハウステンボス計画を間髪入れずに打ち上げた。

西の果てに五千四百億円の投資、しかも全額借金、無担保……予想通り、どこの金融機関も相手にしてくれなかった。二十年返済、金利六%として、 一日一億円の金利、そんなことが果たして成り立つのだろうか。

神近さんは、銀行をはじめ政財界の実力者を次々に説得して回った。

「これから二十一世紀に向けて、哲学やコンセプトのない企業は生き残れない。存在価値を問われる時代になった。個人も会社も同じだ。存在価値があるかどうかで、生き残れるかどうかが決まる世界になってくるはずだ。ハウステンボスは、まさにエコロジーとエコノミーとの共存をテクノロジーが可能にしていく未来都市の壮大な実験場なんだ。これは、日本にとっても、アジアにとっても絶対に必要なんだ」

そのなかに、中山素平氏がいた。中山素平氏は、日本興業銀行の元頭取で、「新日鉄を誕生させた男」「財界の鞍馬天狗」と呼ばれ、幾多の難局を救ってきた人物である。神近さんの熱意が中山氏の個人的な信用を獲得し、中山氏の個人的信用が三井不動産の当時の会長。江戸英雄氏の熱心な応援を得て、全ての流れが一変した。大きなうねりが、具体的な力となって現出してきた。「これは、もう勢いだった」と、神近さんは言う。

ついに、ハウステンボス計画を旗揚げすることができた。年商一兆円以上の企業三十社が株主になり、そして、 一部上場二十一社が企業参加してくれた。今度も、 一番の問題は無担保、施設完成後の持ち込み担保で一切の金をつくらなければならなかったことだ。しかし、銀行も理解を示し、十六行の協調融資団を結成してくれた。神近さんは、こうも言っている。

「結局、五千四百億円を、五年間無担保、信用だけで銀行は貸してくれた。これは、何万分かの一、何千万分かの一の恵みで、奇跡に近いことかもしれないが、仕事の質と、事業家の熱意と、人々がその事業に期待し、かつまた参加しているという社会的意義とが一致すれば、どんな状況下でも出る金は出るものだ。

だから、私は絶対にあきらめない。あきらめない人は、可能性が豊かだということだ。あきらめなければ、必ず何かが見えてくる。可能性を追求し、前へ前へ突き進め、倒れるときにも前に倒れる、そう私は社員にも教えている。九百九十九人があきらめたら、最後の自分一人の言う通りになる。

必ずうまくいくという確信と強い意志が事業家にとって何よりも大切だ。どんなに苦しくても後ろを振り返らない、そう思って仕事をしている。

京都が唐の長安をモデルに平安京として誕生した時、周囲と比較して明らかに違和感があったはずだ。それが、千三百年の時をかけて周囲の生活文化と溶け合って、今や日本を代表する都市となっている。

ハウステンボスも、この発想と全く同じである。千年の時を刻んで、日本のみならずアジア各国の人々と融合して、世界を代表するような街にしたい。私は、今、その土台造りをしているんだと思っている。千年続く街をつくるには、三十年くらいは土台造りに専念しなければならない。着工してからたった十二年、まだまだ土台造りを続けていくつもりだ。土着して、死ぬまで新しい街づくりに自分をかけたいと思っている」この、崇高な志には頭が下がる。

ハウステンボス計画は、単なるリゾート開発ではなく、神近さんの言う通り「千年の時を刻む街づくり」なのだ。街であるからには、当然、そこで人々が生活し、文化を形成していく。マンション。一戸建合わせて三千五百戸、 一万人以上の人々が近い将来ハウステンボスで暮らす計画となっている。これが、前人未踏の「夢の街づくり」に思いを焦がす神近さんの事業ロマンだ。

オーナー社長の「人生観」

現代の社長の人生は、大別して二つに分かれている。

ゼロ歳でオギャーと誕生した人生は、二十歳前後まで修行の期間を迎える。これが第一番目の節である。

私たちが、読み。書き。算数ができるのは、学校教育のお陰である。勉強がよくできるに越したことはないが、それは次の時代に決める職業によって大きく価値が異なってくるものである。

学校の教師になりたい、政治家になりたい、スポーツを職業にしたい、芸術家になりたい、役人になりたい、会社に勤めたい、そして、事業や経営をする社長になりたい……という場合、それぞれの職業で修行すべき要素が異なってくる。

実際に、漢字をよく知っているという利点のために実業家よりも教師を選択する場合も起こってしまうし、その方が本人のためには幸福だという場合もある。だから、人生は難しい。

しかし、漢字を他人より余計に覚えていることが教師には利点であっても、社長業にはほとんど利点にはならない。漢字を他人より余計に知っているから売上や利益がその分だけ多く上がることなどないからだ。

ただ、考えるレベルを高めてくれる基本だということを忘れてはならない。また、良い学校、良い友人、良い先生をもつ機会を得るということは、事業人としての人生に大いに役立つものだ。逆に、学問が良くできても、良い学校、良い会社へ就職するという一般社会の流れを嫌って塾にも通わせないという勇気ある人も希少ながらいる。学校名よりも、学問を取るわけだ。

本田技研の創業者である本田宗一郎氏が、私の主宰する日本経営合理化協会での講演時の質問に、「人は刀の鋼ににている。良質の鋼は、千回も叩けば刀の体をなし、既に切れるが、悪質の鋼は、 一万回叩いても切れる体にはならない」ということを、笑いながら答えられていた。ついでに、「俺の部下には、大学卒がいっぱいだ。しかも、中にはご丁寧に海外の大学院まで出た奴がいる。俺は、小学校卒だが、出来の悪い奴はそれだけ長く勉強しなければならないわけだ。まあ、オートバイに関しては、俺の方が上だな」と言われていたのを思い出す。

他の職業と異なって、社長業には様々な能力が要求される。今の学問、特に記憶力というのは、 一つの能力でしかないわけだ。

実際には、屈しない勇気や、打ちひしがれない積極心や、学問だけでは得られない本能のような先見性や、創造力や、指導力や、身体の強健さや、根性や、時には他人の痛みを感じる心……などが、もっと大切なものとして強く要求される。

幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学院、海外留学、他社への修行、自社への入社など、 一生涯のベースが人生の一つ目の節で決まる人も多い。

よく社長たちに質問を受けるが、子供の才能は、原則的に十代では見分けがつかない。二十代でも未だに目覚めない人もいるほどだ。西郷隆盛ですら、島津斉彬に見いだされる二十六歳までは凡庸の人だった。お庭番に取り立てられ、マンツーマンの教育を受けたのがきっかけで目覚めている。

悟りは瞬時に来るものであるから、早い遅いに迷わないことだ。要は、本人自身が本当に学んでいるかが尺度でなければならない。

人生の第二番目の節は、二十歳前後から六十五歳前後までの四十五年間である。

この期間こそ、人生の青春時代、実行中心の時代である。職業をもち、恋をして結婚をする。男の人生では、三十歳になると子供が生まれる。

その子は、親としての自分が六十歳になれば、三十歳に成長し、自分と同じように結婚して孫をつくる。男の人生の時間差は五歳前後しか異ならない。ほとんど同じような過程を経る。

親は、いつまでも生き続けることが出来ない。 一生涯が六十歳の頃は、その七掛けの四十二歳を厄年と決めて、子供が四十二歳になって、親の死に遭遇することを教えた。現代では、およそ、男親は女親よりも五歳年上である。そして、女親の方が男親より長命である。

事業を創業した社長は、やがて、事業を後継しなければならなくなる。その年齢は、幾つか。それは、身体、精神の個体差で決まる。人間は、記憶力が衰え、少しずつ身体の疲れを感じ、意欲の減退を自覚するようになる。それが人生である。自分がそうなる前に、少なくとも十年、会長職を務めるつもりで、若い社長に譲ることを勧めてやまない。

その十年こそ、若い社長の教育が肝腎である。

自分に子供が複数いて、後継する子の出来が悪いために、財産の分与をめぐって骨肉の争いをすることすら起こる。偉ければ偉い人の子ほど、継ぐべき財も多く、争いも多い。なかには、先妻・後妻と、それぞれの子供と、複雑な生き方をした社長も多く、社長ならではの問題も起こる。

相談役、引退、贈与、相続、遺言、ライフワーク、死という過程を経る。残念ながら、変更は不可能だ。

妻も、子育て、主婦を通過し、自分と同じように生涯を終える。どんなに子供を愛していても、それが一生である。

子を、自分の会社へ入社させ、営業、経理、生産、仕入れ等を経て、課長、部長、取締役、常務と昇進させていく。五割の社長は、子の社長昇進を知らないで亡くなるが、長寿の社長は、子を社長にし、自分は会長に就き、引退、贈与、そして遺言まで書いて没する人もいる。没するというその日、枕元に子供を呼び、息を引き取るその直前に、「お父さんは、立派な事業家として生きて来たつもりだ。お前たちは、お父さんの名前を胸を張って伝えなさい」と、見事に言ってのけた人もいる。

要するに、二十歳前後から六十五歳、七十五歳までの第二の人生は、事業家にとって四十五年から五十五年間も続く実行の時代である。その間に、事業を興したり、また事業を継承したり、人生のドラマがスタートし、やがて幕を閉じるわけである。

会社を大きくする……しかし、大きくしたがために幾代も続けていけないという現実と理想のジレンマで苦しむ人も多い。逆に、会社は小さいが安定して幾代も続けていける人もいる。また、事業の柱を幾つも築いて時代の大変貌や危機に対応する事業家、地方から出て全日本へ進出し、さらに世界を目指す事業家もいる。

やがて、第二の人生の終盤には、必然的に、わが子に会社を後継すべきか、他人に譲ってしまうかで迷うことが起こるものだ。いずれにしろ、幾代も続けていくためには、卓抜の経営手腕を後継者につける以外にない。手品じゃないから、油断しないことだ。また、事業家の人生には、重大な決断を迫られることが三度や三度は起こる。法律・システム・素材・エネルギー等が突然に変わって生存出来なくなることさえ起こる。

たとえば、自分の分野に大企業が進出してきて食えなくなるとか、企業的な大失敗がテレビや新聞で世間に報道されて全く事業経営が不可能だ……など、生死を賭けた大転換を決断しなければならないような一大事も起こる。事業には、これらの危機を回避するために、五つも、六つもの事業の柱の構築が肝要である。

人生の第二番目の節は、六十五歳とか七十五歳を過ぎて、人生を成就させる時期である。社長職を退き、会長・相談役・引退・趣味・ライフワーク・贈与。相続・遺言……死と続く。

人間はみんな同じで、早いか遅いかの差だけである。死がこわくてジタバタと見苦しく死ぬのも人間らしくていいし、「ありがとう、お世話になった」と、立派に死ぬのもよい。そんなものに差はない。みんな同じようなものだ。もう役目は終わったのだから、存在する理由が薄らいだだけである。先に書いた西郷隆盛の死生観は、すばらしかった。

最近の総理は知っていても、歴代の総理となると、ほとんどの人が知らないのに、総理の経験者でもなかった西郷隆盛だけは誰もが知っている。なぜかといえば、偏にその死生観ゆえにである。

主君の島津斉彬は、江戸時代の末期に、既に通信事業とか造船事業とか、いろいろなものを手がけていた程に、相当の先駆者だった。西郷に目をつけ、そして、事業を永らく一緒にやっていたが、やがて島津斉彬のほうが先に死んでしまう。あとを継いだ島津久光が毒殺したといううわさもある。島津久光は、並の人だったから、造船事業も通信事業も、すべて閉じてしまう。

げっしょう

ある時、西郷が、清水寺の当時の管長だった月照という僧侶を島津藩へ連れてきた。すると、「こんな札つきの勤皇の志士を、なんで島津へ連れて帰ったんだ」と、島津久光の逆鱗に触れたために、西郷と月照の二人は錦江湾に身を投げる。二人は、本当の友達だった。ところが、西郷は助かり、月照は死んでしまう。それがもとで、西郷は島流しを食う。島流しにあった西郷は、その間、儒学の大家である佐藤一斎の『言志四録』にある千百ほどの項目から、自分が本当に身につけるべき百余りを選び、それを、日夜、そらんじていた。そして、自らの生き方を決めた。つまり、個人の生き死にを超えて、国家のためとか、人々のために生きるという決意をかためていった。

吉田松陰も、渡辺華山も、西郷も、みんな佐藤一斎の流れを汲んでいる。いずれも、徳川から明治へと変わっていく歴史を演出した人たちである。

明治維新が成り、しばらくたつと、大久保利通が政治を司るようになり、朋友であった西郷は野に下る。国へ戻って、隠居の身になっているにもかかわらず、周りに担ぎ出され、西郷は嫌々ながら西南の役を起こす。担がれて、兵を起こさぎるを得ない事情が、そこにはあったに違いない。

そして、田原坂の戦いで敗れ、延岡に逃れるわけだが、西南の役では、数多くの他藩の武士が西郷隆盛についてきていた。その中に、大分の中津藩の増田宋太郎がいた。自分の村の配下を連れて、参戦していた。西郷は、他藩の武士に、「負け戦だから、くにへ帰れ」と命令した。当然、増田宋太郎も「帰れ」と言われた。しかし、帰らない。

すると、 一緒に中津藩を出てきた武士たちが、「汝は、なぜ帰らない」と言ってなじる。なじられた増田宋太郎は、部下に、「西郷先生は妙な人だ。 一日、先生に接すれば、 一日の愛を生じる。三日、先生に接すれば、三日の愛を生じる。親愛、日に加わり、去るべくもあらず。この上は、善悪を超えて、先生と生死をともにせん」と言う。

増田宋太郎は西郷についていき、城山の戦いに敗れて、共に死ぬわけだが、西郷の首だけは見つからない。

敵も味方もなく、西郷を愛していたから、西郷の首は見つからなかった、というより、敢えて見つけなかった。大久保利通でさえ、西郷を愛していたから、号泣する。

これが、死生観である。要するに、どのように生きていくかを知っている者は強い。その人と生死をともにしたいと思う。それは、その人の魅力のなせる業である。そして、その魅力は死生観に基づいている。

若くてはちきれるような健康をもっている多くの人たちは、人間の死というものを考えたことがない。しかし、死は必ず訪れる。死があるから生があると言っても良い。死を知って、人生計画の中に「死」を書き入れた途端に、自分の残された人生がいかに短いかがわかり、真人間になる。 一生懸命に仕事をやるようになる。次頁に示したのは私の「人生計画書」の様式だが、これを基にアレンジして、 一人一人が自分流の人生計画を書き上げてもらいたいと切望している。

オーナー社長の「哲学」

人でも、物でも、会社でも、個人でも、有機体でも、無機体でも、存在しているものはすべて生きている。この哲学はキェルケゴールが確立した実存主義であるが、フランスのサルトルもボォヴォワールも、インドのタオも、強く必要とされるものはすべて存在できることを唱えて久しい。

会社の繁栄は、まず、顧客に強く必要とされる商品やサービスを創り出すことでしか起こらない。「あなたの会社の商品はすばらしい」と言われ、社員もお客様に、「この人からしか買いたくない」と指名され、強く必要とされなければ、売上は伸びないものだ。

一個の人間である女は、母になったり、妻になったり、恋人になったりするが、母は子供に強く必要とされる存在である。また、妻は夫に強く必要とされて活々と生きている存在である。その母がわが子を失うと、自分の生命さえ断ったりする。妻は、夫に裏切られて死を選んだりする。互いにそういう存在である。相手にその生命を生かされている存在なのだ。

人間の有り様、物の存在価値や存在する理由、職業の存在する理由や価値の本質を良く見つめ、強く必要とされるように、磨くことが自身を繁栄させることだという認識がなければ、スタートから間違うことになる。

子孫にも、そういう哲学を伝え続けなければ、永い繁栄を続けることは困難である。洋服でも、靴でも、カバンでも、ボールペンでも、テレビでも、何でも生きている。

たとえば、グラスで水を汲む。グラスは、完璧な形を保って水が汲めるから、グラスとしての存在価値がある。必要とされ、生きているわけである。つまり、グラスを、お客様が買ってきて、使おうと思う。そこに、グラスをつくっている会社の繁栄がつながっている。

グラスが割れれば、使いものにならないから、捨てられる。使えないものは存在価値がなくなる。つまり、死ぬわけである。同様に、お客様に嫌われる社員は存在の価値がないし、おいしくないものを売っているレストランも存在の価値がない。

長く繁栄していくためには、社長は、まず事業経営の中で存在価値を大いに高めていくことを全社員に教えなければならない。それと同時に、商品とか社員たちをそういう視点に立って鍛えていくべきだ。

私は、大きな白い犬を一匹飼っている。

それは、私の子供達が、いよいよ親離れするという時期に飼ったものである。子供達を心配するよりも、妻が子離れするのを手伝ったという方が正確であり、また、子供達がいないので、私の方をジーッと見るのではないかと案じたからでもある。

ピレネーマウンテンドッグというフランスから輸入した犬で、小さく愛らしい子犬だったが、三日で一キログラムも大きくなるといわれる通り、アッという間に妻の体重を超えて、今では七十六キロにもなった。雌犬だったので、オードリーと名付け、妻はわが子のように可愛がっている。

あるとき私は、三階の書斎で原稿書きをしていた。すると、「早く来て!」と、階下から妻が大声で叫ぶ。何事かとびっくりして、階段を二、三段すっ飛ばし、大急ぎで駆け降りた。

「ちょっと見て、ちょっと見て」と、テレビの画面を指さし、食い入る面持ちで妻が言う。そこに、 一匹の年老いた茶色の雌犬が横たわっていた。白髪も交じっている。倒れてオッパイをだらんとたらし、舌も出してあえいでいる。「あっ、この犬、危ないね」と言いながら、画面を一心に見ていた。

ムツゴロウさん、畑正憲さんという動物文学者が、老衰で危篤の犬の前に、しゃがみこんでいた。すぐそばにも、獣医らしき人が中腰になりながら、犬を診ていた。舌をダラッと出し、日は宙に浮いたようになっている。数秒たってから、急に犬の腹が何かクッと縮こまり、それから、息が急に遠のいて、腹が膨れる間隔が三十秒に一回、四十秒に一回、 一分に一回、一分二十秒に一回、とうとう三分に一回ぐらいになった。

獣医らしき人がムツゴロウさんに、「かわいそうに、もうだめです」と、肩を落としてつぶやいた。ムツゴロウさんは、犬の上に覆いかぶさると、首をかき抱いて、ワーッと大声をあげて泣いた。大粒の涙を犬の首にボトボト垂らしていた。

ムツゴロウさんは、動物文学者として本当に一流だと思う。他の人ではとてもできないようなことを、平気で動物にやってあげている光景を見たことがある。馬のオシッコを手に取り、ペロペロなめていたことがある。猛獣のジャガーに抱きついたり、野生のアナコンダを首に巻いて締めつけられているのを見たことがある。すごいものだ。私は、ムツゴロウさんを信用している。世界中の動物文学者の中で、 一番信用している。

それぐらい信用している人がワーッと泣くから、「ああ、これはだめだなあ」と、胸を鋭くえぐられる思いがした。こっそり妻を見やると、妻も目を真っ赤にして泣いていた。

ムツゴロウさんはいっぱい犬を飼っているので、片方で犬が死のうとしているのに、そこから十メーターか十五メーター離れたところでは、子犬が生まれていた。こうなると、まさに人生と全く同じだ。生まれて一週間か十日たったぐらいの、その子犬の、六、七匹いる中の二匹が、今にも死にそうな老犬の方ヘョチヨチ歩いてきた。「あれっ、あれっ」と思った。

オッパイにでもあぶれたのか、二匹の子犬は、死にそうな、その年とった雌犬のオッパイに食らいついた。足で押さえながら、チュッチュ吸うが、オッパイが出ない。誰が撮したのか、それからが素晴らしいビデオを見せてもらった。

しばらくたつと、ムツゴロウさんが泣きながらかき抱いていた犬の首を、驚いたようにして下におろした。みるみる犬の容態が変わっていって、三分に一回しか腹が膨れなかったのが、三十秒に一回、二十秒に一回、十五秒に一回、十秒に一回、膨れるようになって、やがて頭を持ち上げ、二匹の子犬をベロベロなめ始めたのだ。これには、びっくりした。

それから、その親犬は二年生きた。 一年たち、二年たったとき、二匹の子犬、自分が生んだのではない子犬、しかも自分より大きくなった子犬を従えて歩いているのがちゃんとテレビに映っていた。おしまいには、何とオッパイも出たというナレーションもあった。犬でもそうだが、強く必要とされれば、すべて長く生きることができる。

人間も、犬と同じように、他の存在に対して存在する価値がなくなった時に死を迎えざるを得ないようになっているとさえ思えてならない。私は、時々、こういう不思議さに戸惑うことが多い。天にもし神様がいるとすれば、「強く必要とされる存在になることが、命を長く保つ秘訣だ」ということを、訊ねてみたい気持ちで一杯である。

小田急線は新宿と小田原を結ぶ電鉄であるが、新宿から走って約二十分、新百合ヶ丘の駅で降り、線路を直角に右へ約十分歩いたところにオナーズヒルと名付けられた住宅街がある。そこを開発した人は津島亮一さんと言い、株式会社「私たちとミサワホーム」という実に長い名をもつ会社の社長であった。

このオナーズヒルは、五千坪、わずか二十九区画の小さな街であるが、周りの大企業が開発した雛壇式の造成地とは全く異なってつくられている。すべて生垣で区切って、その中に家があるのだ。

小高い丘の斜面をうまく活かし、緑の生い茂る豊かな自然と環境を復元することを、その開発のキーコンセプトとして出発している。街の中央にわざわざ幅広のS字の石畳の道路を配し、その左右に何本もの散策路を設けている。画一を避け、個性的な建物が目を引くが、すべて色が統一されているために決して調和が乱されることがない。道路ひとつとっても、わずか二十九区画に九千百本の街路樹を植え、その一本一本から家々の郵便受けに至るまで細心の注意が払われ、自然と環境とのバランスが見事に図られている。住む人々の満足や誇りだけではなく、道行く人々を楽しませ和ませてくれる。オナーズヒルはそんな街である。

津島さんは、「戦前の田園調布や芦屋に勝るとも劣らない立派な功績を、今に創造し、幾久しく後世に残したい。人の寿命は、百年にも満たない。しかし、良い街を残せば、五百年も千年も続く。二十一世紀への文化をつくるんだ」と、言っている。

お粗末な家をつくって売ってる会社が、生き残れるわけがない。物が売れる根源も、会社が維持できる根源も、まず事業の哲学とか経営の理念に由来する。利益を法外に出すことでも何でもない。哲学や理念に全エネルギーをつぎ込んでいって、はじめて会社は繁栄する。

私は、数多くの会社を診てきて、つくづくそう思う。いい会社、お客様の列ができるような会社は、みんな哲学や理念をもっている。それを忘れないで欲しい。

住宅の会社は、憩いとか、あるいは健康とか、さらに美とか、誇りとかをコンセプトにしていなければならない。家は、つくった商品が人の目に長い問見えるから、いい会社がつくったのか、悪い会社がつくったのか、すぐにわかる。その時に売りやすいからといって、買う人の心を高揚させない家をつくっても、長く人気を博すことはない。長く事業を考えた時には、決して妥協しない。そういうことが非常に大切である。

幾代も続くためには、商品も、サービスも、システムも、永く続いて生きていく価値がなければならない。特に、見てすぐ分かるものは幾代にもわたって、その価値が評価されるものだ。

悪いものは続かない。哲学とは、 一口で言えば原理原則である。存在する価値のないものは、永く続いて生きた例はない。

オーナー社長の「思想」

思想とは、物の見方・考え方である。ある時、ブラジル商工会議者に所属しているという十人ばかりの経営者と懇談する機会があった。その折に、

「日本人は、資源が不足していると言いながら、すごく無駄なことをしている。今日、子供に土産を買いたいと思ってデパートを歩いていたら、美しいパッケージが目についた。それが飴であることが分かったので、十箱ほど買った。

余り奇麗なので、 一箱開けてみた。そうしたら、驚いたことに、 一粒一粒が薄いオブラートに包んであり、その一粒一粒が、さらにパラフィンのような紙に包んであって、さらに十粒が美しく印刷された箱に入っていた。もっと驚いたことに、その箱が、さらに厳重にセロファンで包装されていて、おまけに、箱の比較的上の方に赤い帯が巻いてあり、そこを引っ張るとセロファンが切れるようになっていた。しかも、私が買った十箱の飴は、デパートの包装紙に包まれて、紙袋に入れられて手渡された。

何という過剰包装なんだ。無駄で、贅沢をこれ程やりながら、恒常的な資源不足に悩んでいるという。これでは、不足して当たり前ではないか。

私の国の子供達は、飴を買いに行って、素手で受け取るか、小さな粗末な紙袋に入れてもらっている。あなたは、これをどう思うか」と、ざっとこんな質問を受けたことがある。「あなたが言っていることは、こと『資源』に関しては正しいかもしれない。しかし、それは、私に言わせれば、五〇%は間違っていると思えてならない。

もし、あなたが言うように飴を素手で受け取ったり、粗末な袋に入れて買えば、資源は、一部、節約できることは確かである。だけれども、その代償にオブラートの会社も、セロファンの会社も、パッケージの会社も、印刷の会社も成り立たなくなるに違いない。結果として、失業者が出ると思う。ブラジルは、資源は豊かであるが、会社の数は少ないのではないか。それをどう思うか……」というような会話をした記憶がある。

現代は、農業経済でも漁業経済でもない。ある程度の食料の自給率を維持すべきだが、多くの企業を興して食べていくという企業振興こそ立国の概念である。

昔は、農業や漁業が中心で、村長は村民を挙げて米を作り、網元は大漁を祈願して、互いに収穫したものを物々交換して人々を食べさせてきた。この時代が人類の歴史の中で最も長

しかし、双方の村とも人口が急激に増えて、増産をしなければ生きていけないようになった。冷害や不漁に悩むと、姥捨て、間引きが行われた。悲しい時代である。

苦しんだ人々の中から一人が立ち上がって、「私が土の中に眠っている鉄鉱石を掘り出し、鉄の鋤、鉄の鍬、鉄の船を作るから、大いに増産して欲しい。私の鉄の道具と、あなたがたが獲った米や魚と交換してくれるか」と、叫んだわけである。そこから、様々な物々交換経済が行われるようになった。衣類も、家も、牛馬も、機械も…である。

やがて、大きい物、運べない物、重い物が出現し、貨幣経済に移っていった。

資本主義とは、こういう貨幣経済の過程の中で育った競争を原理とする経済運営の考え方である。もちろん、欠点も多い。特に、公平という視点では欠点が目立つ。実際に「貧富の差」は避けがたい。そこで、人間の知恵で税金を徴収し、再配分するという救済方法でやってきた。競争が過度になると、環境を壊す公害や、多くの悪弊が放置されるようになり、それと同時に法律や規制が施行されるようになった。

考えてみて欲しい。日本の資本主義は、まだ歴史も浅い。欧米のように、数多くの欠点を修正して出来上がったものでもない。日本の資本主義は、第二次世界大戦後からスタートしたと考えてもいいほどだ。わずか五十二年である。今、我々は、この資本主義を根幹の思想とし、姥捨てや間引きの悲しみを止めて、企業で立国するようになった。農業でも漁業でもない。企業振興を立国の概念として選択し、国際競争力をつけていくことにしたのだ。

しかし、リーダーとして、人間を食べさせていく、幸福に全員が生きていくという観点からジッと見詰めていくと、農業や漁業と、会社を経営するという考え方は寸分変わらない。我々は、形として米を作ったり魚を獲ったりこそしてはいないが、米や魚を、物やサービスに置き換えただけである。

原点は、人間が幸福に暮らすことであり、そのために米を作り、魚を獲ってきた。

資本主義は、農業とか、漁業を置き去って、村長の代わりに社長を誕生させ、懐に飛び込んできた社員や、その家族、自分の家族を食べさせていることを、肝に銘じるべきである。間引きをしたり、姥捨てをしたり、悲しい出来事を捨て去って、企業立国を唱え、自動車を開発し、飛行機を創り、コンピュータを使い、金で金を売買し、家を売っているが……人間の幸福が目的であれば、全く同じである。人間のやることには、そんなに変化はない。

体のいい言葉に置き換えてはいるが、不況になると勧奨退職や馘首を激しく行い、食べていけない失業者の群れを世に送り出している。

悲しいリーダーシップである。

資本主義の欠点は、様々である。企業立国を唱える日本が名ばかりであったら、と心配である。

企業が日本国の税収の中心である。法人所得税も、そこに働く人々の個人所得税も、消費税ですら、企業が不振であれば増えない。

不況とは、あらゆる意味で、企業の売上利益が減ることである。それ以外の何物でもない。それが不況の具体的な形であり、そこで働く人々の給料やボーナスが減少し、消費が起こらないことを言うわけだが、好況とは、その逆で、企業の売上利益が増え、税収が増え、働く人々の給料やボーナスが増えることなのである。

日本は、資本主義の中で企業を決して優遇していない。どこに眼を向けているかと思うことも多い。

資本主義は、農業や漁業から進化し、企業に眼を向けることをしなければならないように出来上がっている。資本主義は、芸術や、スポーツや、医療や、宗教のために存在しているのではない。それらが、人間生活の向上にどんなに大事かということも分かり切っているが、決して税収の中心ではないからだ。つまり、資本主義の根幹ではない。人間の幸福を企業の繁栄によって創り出そうというのが資本主義を選択した理由であるからだ。

これから、地球は確実に一つになり、資本主義という一つの思想で運営される方へ向かっている。政治もやがて地球政治に移り、各国の政治は地方自治体のようになって、そこから代表者を送り出す時代になってくる。言葉も、文化も、人種も、ルールも一つになるための混合混乱の時代のスタートである。こういう流れは、誰も変えることができない。急激で、しかも確実な流れである。二十一世紀は、世界を挙げて人間の幸福が叫ばれる時代に違いない。

事業経営の「目的」

社長にとって、目的とは、何のために事業経営を行うかということである。根本のことである。それは、「自分の懐に飛び込んできた社員とその家族、また自分自身の家族を幸福に豊かに生活させること」である。これこそリーダーとして事業を営む者の目的でなければならない。

そのためには、ライバルのどこよりもお客様に可愛がってもらうように努力することが大事である。自分の事業で一番大切なものは一体なんだという、お客様に可愛がっていただくコンセプトを絞り、磨き上げなければ目的達成はできない。

食べ物を売っている店は「おいしい」ことが一番大切な磨くべきコンセプトである。レストランでも、お菓子店でも、ラーメン店でも、おいしくない食べ物はお客様に三度と買われない。このことが良く分からない社長が多い。自分の磨くべきものが何であるか、分かってない者が目的を達成できる訳がない。

友人の一人が三十六年も勤めていた大企業を定年前に勇退した。日頃からの夢であった小さなレストランを経営するためである。

彼が退職金を使って、小さな中華料理店を東京の神田に開いたのは、退職して一年後である。会社に勤めていた時も、最終の持ち場は営業で、商売は上手であった。「おまえのアドバイスは不要だ。商売には自信があるから……」と、自ら言う程であった。

ところが、開店してから一年も過ぎた夏の終わりに、青息吐息の状態で尋ねてきた。「退職金を使い果たしそうだ」と言う。

開店時には花束を差し入れて、料理も食べさせてもらっていたが、念のためにと、約一年ぶりに味見をすることにした。メニューにあるすべての料理を少量ずつ盛ってもらい、食べてみた。すると、全体的にうまくない。

私は、「標準的な日本人の舌だ」と言って、テーブルを三卓使って並べてみた。つまり、「おいしいテーブル」「普通のテーブル」「まずいテーブル」に、次々と料理の皿を置いていった。 一目瞭然である。レストランを診る時には、最初に試食をすることが何よりも大事だ。

この店では、五割以上が「まずい」、約四割が「普通」、僅か一割程度が「うまい」だった。友人は、「おまえは厳しすぎる」とも、「開店時とシェフが代わった……」とも言い訳をした。私はそれから、毎日、出張して遠隔に宿泊している時以外は、どんなに夜遅くとも必ず帰宅前に味見をした。

味のほかには、サービス・挨拶。言葉遣い。掃除……などを厳しくチェックした。こういうことは、会社の大小に関係なくビジネスの基本だと言っておいた。最近では、タクシーの運転手や、ゴルフのキャディーや、医者や、政治家や、役人や……不遜な人が多い。どちらが客か分からないような態度の店や会社や、人にでくわしたりするが、そんな二流事をやっていて繁盛や成功を期待しても、実現できる訳がない。そんなことを教えながら、厳しくチェックしていった。

また、この店では、玄関まわりを少し改装した。イベントを打つときに、「新装」は使いたいキャッチコピーだし、玄関まわりの色も変えてフランス料理店に見えるくらい上品にしたかったからである。

文句を言いはじめてから一か月が過ぎて、別の友人たちを幾度か同伴してみた。全員が、「おいしい」と、味を褒めるようになって、新しいメニューの作成にかかった。赤や黄色といった中華風よりもフランス風の皿を選び、テーブルも塗り替えてみた。

こうして、イベントを打った。

第一弾は、わずか五十席の中華料理の店なのに、二千人分の中華料理コースの無料券を配布するイベントを企画した。友人は最初は猛烈に反対であったが、私はこれまでの経験値から説得を強く行った。最後には、友人に対し、「おまえはアマチュアだ」とも言って、後で叱られたほどである。

ともかく、「おいしい中華店」ということを広く知らせることが成功の決め手だと説得した訳である。普及の戦略である。

無料券の配布は、半径五百メートルに所在する会社への訪間を主体に行った。全部手渡しで、ポスティングはしない。挨拶に伺い、メニューと新装オープンとお土産の中華鰻頭、それに三か月有効の無料招待券三回分を封筒に入れて手渡した。

たった五十席に二千人分の無料券である。配布したその日から大勢のお客様が次々に来店された。来る日も来る日も満席状態が続いたが、お客様は不思議と一人では来られない。無料券を使うのに一人では恥ずかしいのか、お客様のことごとくが部下や友人と一緒であった。

また、酒代は別料金だったので、イベントの三か月間は大いに儲かった。期間が過ぎて、お客様が絶えてしまうのではないかという友人やスタッフの心配をよそに、

次の月も、次の月も大繁盛していたのだ。半年が過ぎて、お客様へのお礼というので、来店されたお客様に、今度は、 一人分ずつ中華コースの招待券を配った。店は、さらにお客様を増やした訳である。

友人に、お客様と仲良くし、 一生可愛がってもらうようにアドバイスをして、文句を言うのをやめた。

このように、レストランがおいしくないと流行らないのと同じように、どんな事業も、どんな職業も、磨くべき大切なものが存在している。ブティックは流行こそ生命である。

流行を追い求め、やがて、流行を自ら創り出し、仕掛けていく意識がない人には、ファッションは無理である。

これから流行る色は何だとか、形はどうかとか、素材や機能は一体どういうものが流行るか、感性を研ぎ澄まし敏に反応しなければ、アパレルの仕事はできない。ヨーロッパやアメリカを頻繁に見て歩くべきだ。私でさえ、日頃から『エル・ジャポン』『クラッシィ』『マリクレール』……などなどの雑誌に気を配っている。ブティックは流行が生命で、 一番大切な売り物である。お客様に、それが提供できない店は流行らない。

たとえ、会社でなくても、それが職業であっても同じことである。

医師は、健康で快適な生活の指導者である。心身双方の有能なコンサルタントたることに生命をかけるべき聖職である。

政治家は、住み良い世の中をつくり出す使命感に燃えていなければ務まらない。そのための職業以外の何ものでもない。

教師は、その子の適性を見抜き、磨き上げ、良い子を世に送り出すことに生命を賭けるベき職業なのだと思う。

少し意地悪い言い方をしてみる。ある時、農家に経営の指導に行く機会を得た。

指導が終わって、ついでに、野菜を農協に出荷する作業風景を見せてもらった。収穫されたばかりのナスや胡瓜やピーマンが山をなしている中で、大小、形の良し悪しを選り分け、段ボールの箱に詰めていく。 一定の規格があって、大きすぎるものや、虫食いや、曲がったものは商品にならないからだ。ところが、農家の主人が私に意外なことを言った。

「先生は、あんなもの、食べない方がいい。私らだって食べやしない。化学肥料と農薬づけだ。だから、あんな規格が保てる。私らが食べるのは、自然まかせ、不揃いで見栄えはしないが、無農薬で有機栽培だから、安全だし、第一、おいしさが全然違う」

これを聞いて、 一遍に興ざめしてしまった。新鮮で、おいしくて、安全な野菜を供給すべき農家が、まるで使命感をもっていない。哲学も、目的意識も、何にもない。それどころか、逆に不実を世の中に撒き散らしている。何のために、骨を折ってここまで指導に来たのか、根本が吹っ飛んでしまった。こんな農業がいつまでも続く訳がない。自己矛盾もはなはだしい。

オーナー社長の「世界観」

あらゆる意味で、人間は場数を踏むことで利口になり、視野を広げ、成長するものである。人が人に惚れるのは、最終的には相手の性格に惚れてしまうものであるが、その性格は、場数の多寡によって形成される。

単純で明快な諺に、「可愛い子には旅をさせろ」とあるが、旅が我が子の世界観を広げてくれるからに外ならない。

親の庇護のもとにあった温室育ちの我が子を、旅が変えてくれるからだ。腹が減ったり、他人様の厳しさや小さな親切が身に染みたり、多様な考え方の人々に会って世界観を広げる機会になるからである。いわば、鬼にも神にも会って、その度に忍耐や、勇気や、強さや、機転や、優しさや、痛さを会得する場となる訳だ。

旅だけではない。本を読むことも世界観を広げる場の一つである。小説も、伝記も、専門書も数多い。いろいろと手に取るうちに、その善し悪しも、好き嫌いも判断できるようになり、良書からは強い影響を受けるものだ。経営者には、思想書や哲学書や芸術書も良い。中でも、伝記の愛読は必須である。伝記には、多少の脚色や誇張があるから、余計に分かりやすくて夢を膨らませてくれる。生き方を大きくしてくれるものだ。音楽や、芝居や、映画や、絵画といった文化や芸術も疲れた心を癒してくれるものだ。

志水陽光さんは、第二次世界大戦の時に、終戦を知らず、部下を率いて北満の広野で戦っていたが、いつのまにかソ連軍に囲まれていた。多勢に無勢で捕虜にされてしまい、極寒のシベリアで強制労働をさせられた人である。

一日、わずか一杯の高梁の粥をすすりながら、凍てついた土を一本のツルハシで掘る作業が続いた。

極寒の中でも、颯は衣服の縫い日にしつこくたかっている。その風が縫い日から逃げ出すと、人は必ず二日以内に死ぬ。栄養失調で体温が三度三度と落ちていく訳だが、すると縫い目に列をつくっていた風が逃げ出す。地獄のような収容所生活を送って、 一冬が過ぎると部下が半分に減ってしまった。春になって新しい部下を補充されたが、二冬目も同様で、冬を越せない人達が大勢死んでいった。

そんな時に、他の部隊に最初からいた一人の若い兵隊を見た。自分たちと同じように高梁の粥を一日に一杯しか食べていないのに、痩せてはいたが、眼を輝かせ、とても死にそうには見えなかった。早くから不思議に思っていた志水さんは、「君は、どうしていつも元気なんだ」と尋ねてみた。

その時の若い兵隊の答えを、志水さんは一生涯忘れられないと私に話してくれた

「私には、心に歌がある」と、若い兵隊は志水さんに言ったのだ。そんなことは幾度も聞いてきたし、幾度も学んできた。知っていたのに、結局、何も分かっていなかったのだ。心を積極的に保つことも、教えられ、自らも勉強して知っていたが、初めて、その時、歌の存在する意味が分かった。

胸を衝かれた志水さんは、すぐに自分の部下を集め、「毎日、歌を歌いながら作業をして欲しい」と命じたのだ。しかし、部下は異口同音に、「歌なんか国の端にものぼらないし、出てこない」と反抗した。志水さんは、それでも先頭きって歌い続けた。「麦と兵隊」「月の砂漠」「おてもやん」といった具合である。こうして少しずつ、少しずつ全員が口ずさむようになって、三度目の冬が訪れた。凍てついた氷土を掘る作業が、また始まった。

日本人も、ポーランドの兵隊もいた。 一様に疲れ、ひどく作業は手間取って能率が上がらなかった。時々、ソ連の兵隊が監視に来た。「来たぞ」と、前の方から合図がある。合図がきたら、ツルハシを動かして作業をする。「行ったぞ」と合図があれば、ツルハシを投げて作業を中止する。

しかし、歌を歌いはじめて三、四か月と続くうちに、志水さんの隊は群を抜いて作業が進んだ。不思議なことにツルハシもスコップもスムースに動いた。リズムに合わせて手が動いたのだ。歌声は口をついて耳に伝わり、心に響いた。地獄のような生活に、小さな小さな灯火がともった。

半年が過ぎると、全員があの若い兵隊のように眼に輝きを取り戻していった。その冬は、 一人の部下も死ぬことはなかった。

春になって、志水さんは、突然、ソ連人の上官に呼ばれた。そして、「君たちが全隊のなかで最も作業能率が高い。褒美に、内動を命ずる」というので、工場勤務になった。

工場の勤務になるや、朝・昼・夜の挨拶を笑顔で、大声で行うように全員に命じた。もちろん、心の中で歌を歌い続けるよう強く申し付けることも忘れなかった。やがて、銃口を向けていたソ連の兵隊たちが、自分たちの食料であるジャガイモや黒パンを分けてくれるほどに変わっていった。ロシア語も覚え、意思の疎通が少しできるようになって、部下たちの顔に明るさも戻ってきた。

昭和二十六年、終戦から六年も経って、志水陽光さんの率いる部隊は、あの歌を歌い始めてから一人の落伍者もなく、日本へ強制送還された。歌こそすばらしい。家でも、会社でも、歌を絶やさないことだ。芝居や、絵や、映画で後ろ向きの考えを前向きに変えた人が大勢いるものである。

また、致命傷にならない小さな失敗も人間を成長させる場数には必須のことであるし、同じように成功の機会も人間を大きく育てるものである。金持ちの経験、貧乏の経験、顔から火が出るほどの恥ずかしい体験も大事である。

人間の器の大小、視野の広い狭い、魅力の根源はその人の世界観によって決まるものだ。

しかも、その世界観が性格を形成することを、私は知っている。人が人に惚れるのは、性格に惚れるものだ。

オーナー社長には、特に、「鳥腋」の世界観が不可欠だ。鳥腋、鳥の目である。空を飛んでいる鳥のように、とらわれない自由な目で冷静に将来を見ていく先見の明が強く求められる。先見性はどこから出てくるかというと、天空高く飛ぶ鳥の目のような視点から出てくる。

飛んで、どこに深い森があるか、どこに蛇行した大河が流れているか……向こうに雪をかぶった山が連なり、陽が燦々と降り注ぐ田畑があって、そこに五穀が実り、果物がなっていて、獣がいて……ということを上から見る。

上から見ることが、今の日本人には大切である。しかし、それが日本人は非常に不得意だ。いきなり森の中に入って、迷って、何も見えないという経営者は、最も危険である。

だから、いま自分がいる位置を上から見てみる。この商品とか、この事業の将来性はあるかどうか、残された市場がどの程度あるかということを、冷静に判断できないとだめである。鳥轍の日で判断できないとだめだ。

世界観は、自分の経験からしか出てこない。本とか友達とか家族とか、学んだ師匠とか、そういうもので決まっていく。しかし、そこにとどまらずに、天空高く大きく羽ばたき、鳥の日で時代の流れとか、事業の大局を見ていく。そういう鳥の目が不可欠の大事である。

オーナー社長の「宗教観」

そうし         まつナハ                                                           にわとり

『荘子』に、「木鶏」という言葉がある。木鶏とは、読んで字のごとく、「木の鶏」のことである。その由来は、こうである。紀惜子という男が、非常に闘鶏を好きな王様のために鶏を育てていた。

闘鶏を訓練し始めて十日たった時に、

「もういいか」と、訓練をしている紀恰子に王様が聞くと、

「まだ、だめです」

「どうしてだ」

「虚勢を張っています」

また、十日して、

「もういいか」と聞いた。

「まだ、相手の動きに心を動かすところがありますので、だめです」

さらに十日たって、

「どうなってる、まだか」と聞くと、

「もうよろしいでしよう」

「どうしてだ」

「木の鶏のようになって、敵が来ても動かないようになりました。これを見ては、どんな相手でも戦う気力を失い、逃げ出してしまいます」と言ったという。

「木鶏」が一番強い。敵が来ても、「木のごとくある」と、動かずして自然に威圧を感じさせてしまうからだ。

日本経営合理化協会の三代日会長の福田一氏が衆議院議長をしている時に、尋ねると、一幅の掛け軸が自室の一番大事な正面を占めていた。氏は、不動明王を信仰し、成田山新勝寺の別院を故郷の福井県三国町に建立した程である。

掛け軸には、成田山新勝寺の当時の貫主松田照應翁の筆で、「風動くに非ず 旗また動かず唯心動く耳」(原文は漢字)と認めてあったように記憶しているが、木鶏と酷似した不動の姿勢に美を感じたものである。眼光が鋭く、いかにも孤高を守った福田一氏が偲ばれてならない。

日本人の心の中に住んでいる教えは、大概にして、神道・仏教。儒教の二つである。ほとんど、日本人の精神が似ているのは、三つの教えが程よく混じり合って上手に普及しているからに違いない。

どの教えも、「他人に優しく、己に厳しく」と教えている。

コスモ石油(かつての丸善石油)を創った和田完治氏は、「宇宙の宮」を築いて、自然や宇宙の原則といった宗教のような考えを事業に持ち込んだ。ケントクを創業した鈴木清市氏は、「祈りのケントク」と呼ばれるほど、社員の一人一人にまでも感謝や祈りを教え込んだ。鈴木清市氏は、後にダスキンを創業したが、フランチャイザーのリーダーとして神に仕えるもののようにフランチャイジーを集め、教え、育て、苦楽を共にして大をなした人だ。

秋本インターナショナルの秋本賢一社長は、私感だが、どこか博徒のような風貌があるが、フィリピンのセブ島でホテルやゴルフ場やコンドミニアムの分譲をやっている。お客様には、アジア人も、ョーロッパ人もいるが、日本人は少ないと思う。

セブ島のラグーン(潟)を境界線に、現地人を立ち入らせないリゾートを経営しているが、ラグーンに一本の橋を架けて、その橋の上に機関銃をもった現地人の歩哨を立たせている。前の持ち主のフランス人が、そういう設計をし、運営していたからだが、日本の平和と比べ、これには驚いたものである。

ラグーンの内側のホテルと外側の現地人の生活の差はひどい。天国と地獄のようである。内側には贅沢があって、外側には貧乏のドン底がある。外側の人達はパンツ一枚の生活で、素足の人も多い。ほとんどの光景を見るにつけ、終戦直後の我が身を思って眼が向けられないほどの悲しさが胸に込み上げた。

ある時、秋本氏と一緒に、その外側の世界へ出かけたことがある。そこは、ラグーンを隔てたすぐ近隣であった。しかも、現地の子供達が通っている小学校と中学校を一緒にしたような、要するに、そんな学校を訪問した。学校とは名ばかりで、バラック建て、部屋によっては屋根がないほど貧しい。私たちの一行は、社長ばかりの勉強会で、約二十人いたが、秋本氏は黙って帽子を回した。二十人は、無言のうちに一人一万円ずつを帽子の中に入れた。

つまり、三十万円がわずか一、三分のうちに集まった。集まった金を、私が代表だというので、その学校の校長先生に渡した。物価の安いセブでは、屋根をつけるだけでなく、その三十万円で「校舎を建てたい」という意向を、校長先生が私たちに伝えてくれた。 一行三十名のなかの幾人もの方々が、帰国後も、娘や息子の衣類や学用品を長い年月送り続けている。

ともかく、その学校の門や壁に、「SIR KENICHI AKIMOTO」と書いたものを見つけた。たまたま、彼は私の疑間に答える形で二十名を案内してくれたが、彼自身でも、年に何回となく学校に寄付を行っていたことを校長先生に聞いて、さらに驚いた。現地の人々が彼に協力を惜しまないのは、こういう彼の行為があればこそだと心から拍手を送りたくなった。

仕事柄、『孫子』を読んだりするが、兵法を学ぼうと思ってはいない。資本主義は競争が原理で、戦っているという意識が必要だからである。時には、軍神の研究をしてみると良い。

上杉謙信は毘沙門天を信仰し、戦いに明け暮れ、不犯の誓いを立てて、生涯、姿らなかったほどである。とても常人とは思えない。信仰とはそういうものだが、宗教心は、信じないものには不明の心の境地である。

鞭声粛々 夜 河を渡る

暁に見る 千兵の大牙擁するを

遺恨十年 一剣を磨き

流星光底 長蛇を逸す

上杉謙信と武田信玄が戦った、有名な川中島の合戦を詠じた頼山陽の詩句である(原文は七言絶句)。

謙信は、積年の恨みを晴らすために、勇猛果敢にもたった一騎で信玄の陣地に斬り込むが、すんでのところで信玄の軍配に阻まれて、宿願を果たせなかった。馬の頭を巡らすと、千曲川を渡って、疾風のように自陣に引き上げたと伝えられている。

謙信と信玄は、互いに勇猛と覇を競い、戦いに命を賭けた好敵手であった。正攻を重んじ、卑怯や謀略を退けた。「合戦」で、まっとうに勝ちたいがために、越後の謙信は、海のない甲斐・武田軍が塩がなくて困っているのを見て取ると、永の恨みを越え、すぐにも塩を送って元気付けたほどである。戦いに明け暮れ、戦いそのものに徹した両者には、兵糧攻めや奇計を弄して勝っても全く無意味だという信仰があった。戦いは、まさに宗教的で崇高な営みなのである。二人とも入道している。「謙信」も「信玄」も、その法号である。

その後、信玄の子の勝頼の代になって、織田信長が一番恐れたのは、信玄と勝頼の二代にわたって軍師役を務めた、恵林寺の住持・快川和尚である。宗教的で、軍神を街彿とさせたからに違いない。信長が甲斐に攻め込んで、真っ先に殺したのは快川だった。寺が兵火によってまさに焼き払われようとする、その時、快川は火の中で座禅を組んで、

「安禅は必ずしも山水を須いず 心頭滅却すれば火自ずから涼し」と唱えて死んでいったと、広く伝えられているが、この旬のそもそもは『碧巌録』の中にある。それはともかく、戦いとは非常に宗教的で、神がかったものである。宗教心は、時に、信仰する者に実力以上の力を発揮させもする。

リーダーたる社長はいつでも、もしどこかに神がいるとしたら、何のために自分をこの世に遣わしめたかを思うことだ。そう思うことで、本来へ立ち返らせ、強い宗教心で物事に当たる事が出来るようになるものだ。

二、戦略

繁栄の方向性を決める

事業を具体的に展開していくには、トップ自ら「どちらが儲かるか」という方向性、すなわち戦略を決定していかなければならない。

方向性、戦略は、物事を長期的、かつ全体的に考えることだ。したがって、思想とかロマンとかの領域により近い。

方向性を、社員は決定してくれない。それどころか、全く無頓着である。だから、社長自らがどちらの方向へ行けば儲かるかという戦略を社員に明確に打ち出し、その方向へ全社挙げて邁進させなければならない。それを怠っているようであれば、社長業をやめたほうがい

たとえば、ブランドが古くなったら、すぐに新しいブランドを出していく。状況や環境の変化に対応して、社長自らが方向性を的確に決定していく。だれも方向性を決定してくれないのだから、自分で苦心惨愴しながら、儲かる方向を見つけていく以外に道はない。

また、方向性を大きく決め直すという大事が、人生の中で二度や三度は起こってくる。その時、間違ったら取り返しがつかなくなる。

時代が移り変わっていくと、事業そのものが存在できなくなることが多い。いま、駕籠屋は存在できない。馬車も、機関車もだめである。千変万化の世にあって、繁栄する分野はどこだという方向性を間違いなく決定していかなければならないのである。方向性の決定には、三つの要素がある。

一番目の要素は、環境。状況への対応、二番目は体質、二番目は手腕とか考え方である。これらの二つの要素を後代にもわたって正しく教えていかなければならない。

環境・状況変化への対応のやり方

一番目の要素、環境・状況の変化にどう対応するかということから説明していく。

マリンフードの吉村直樹さんという社長がいる。現在はマーガリンを主体にやっているが、以前はチーズだった。消費構造が変わり、チーズは太るというので、マーガリンや脂肪分が少ない植物性の油をやるという方向性を下した。機を逃さなかった。

しばらくして、その二つとも市場が満杯になりそうになってきたので、次にジャンボ・ホットケーキという特大のホットケーキを開発した。それを全国の喫茶店で売ってもらった。すると、かなり食べ応えがあるので、オヤツというよりも昼食代わりにみんなが食べるようになった。即座に、「売れる」と判断するや、コンビニエンスストアのネットに流して、 一挙に全国に広げていった。見事な状況判断である。実行力も優れている。

ジャンボ・ホットケーキの市場が満杯になる前に、今度は、固形化したスープの素をはじめ、新商品を次々に開発していった。いまでは、上場を予定するぐらいの企業にまでなっている。

吉村さんが、そういう方向性をすべて決定している。

要するに、ブランドが古くなった、商品が売れなくなった、市場が満杯になった……環境とか状況の変化に対応して的確に戦略を変更していく必要があるという証左である。

四国の香川県に七宝産業という漬物を製造販売している会社がある。三谷哲也さんが、そこの社長で、彼は私が主宰する社長塾「無門塾」のメンバーの一人でもある。

「七宝漬け」がそのブランド名で、裏山の七宝山にちなんだネーミングである。江戸時代や明治時代に先祖が売った名前だ。確かに地元の限られた地域では有名である。ただ、 一歩外へ出ると、「何かの宝石を漬けている会社ですか」と、よく冗談に聞かれる位だから、あまり繁盛していなかった。そこに、「井の中の蛙」の典型を見た。

今や、ダイエーでもイトーョーカ堂でも、全国各地の漬物の名産を売っている時代だ。いたって競争激甚である。全国ネットで商売を展開していくには、商品に余程のインパクトがなければだめである。「七宝漬け」では、まったく通用しない。三谷さんは、環境とか状況の変化に対応して戦略を的確に変更していくことができないで困っていた。

そこで、私は、十五人から構成している無門塾の同期のメンバーに、四国から発信して全国ネットに乗るような名前を考えてくれるように課題を出した。

社長たちの口をついて矢継ぎ早に名前が出てきた。それを、 一切の批判やコメントなしに次から次へと黒板に書いていった。さすがに感覚の研ぎ澄まされた社長たちで、三十番目くらいに友人の杉山社長から、「四国の糟糠の妻、『一豊の妻』が良い」と言われた瞬間に、私はパッと提案を打ち切った。

「これしかない。四国から発信して全国に通用する名前は、『一豊の妻』に決まっている」と、私は断言した。

三谷さんをはじめ、全員が即座に賛成してくれた。

次のステップとして、形のない名前がお客様の視覚に訴えられるように、具象化する必要があった。そこで、質問をした。

「三谷さんのイメージする『一豊の妻』は、どんな人物? 年齢は? 体型は?…」すると、年齢は四十歳前後で、少し小太り、色白だという。このイメージをもとに、さっそく私の知り合いの女流画家に「一豊の妻」を描いてもらった。

さらに、この顔絵をデザインしなければならない。私には、 一つの確たるコンセプトがあったので、「あか抜けしないデザイナーを知らないか」と、三谷さんに聞くと、地元に打ってつけの人がいるという。何の迷いもなく任せて、できあがってきたものを見ると、まさに私のコンセプト通りだった。「一豊の妻」の顔絵を、包装紙からパッケージまでベタベタ貼り付け、都会的なセンスというものがまるでない。だからこそ、良いのである。私は、絶賛した。漬物という商品は、近代的なイメージや、機械的なデザイン、都会的なセンスでは、絶対に売れないことを知っているからだ。

全国の流通ネットに乗せると、「一豊の妻」は飛ぶように売れた。元々が非常においしい漬物だったから、とにかく買って食べてさえもらえれば、多くの支持を得られる自信があった。長い間、先代、先々代……が、て今日に至った漬物である。

きんごう

近郷の農家と提携して一級の大根や胡瓜を育て、吟味し続け

今、自分の会社やブランドがおかれている環境とか状況がどうなっているのか、立ち止まってよく考えるべきだ。ローカルのままでいいのか、全国に打ちて出るのか、その進むべき方向性をよく見極め、柔軟でタイムリーな戦略を組み立てていかなければ、会社は永く続かない。機を逸することほど、危険なことはない。

環境とか状況とかの把握が、全くといっていいほどできていない人が結構多い。

出店の相談に来られる方がいる。「土地を持っているから、そこで何かをやりたい」という人は、痛い日に遭う。大概、失敗する。

なぜ失敗するか。土地を持っているから失敗する。つまり、なまじ持っている土地が邪魔をして、状況とか環境の把握ができなくなってしまうからだ。最適立地という発想が頭に浮かばない

小売業にとって一番大切なことは、「立地」である。立地が、その店の繁盛の人割を決定する。私にいわせれば、 一〇〇%決定すると言いたいくらいに、立地は大切な要素なのに、土地を持っているということだけで、そこに店をつくってしまう人がいる。そこに莫大な投資をして、大やけどをする。だから、まず、道路とか、商圏の人口とか、世帯数とか、事業所数とかを正確に調査する。

そして、地図上で候補地を五か所も六か所もピックアップすべきである。それにもかかわらず、自分の事業がその環境に合うかどうか、ぜんぜん把握しようともしない。いいかげんに店を建てて、失敗する。無鉄砲にも程がある。スーパーをやりたいなら、最適立地と思われる所を五、六か所、探し出すことが先決だ。

そこにテントの仮店舗を建てる。そして、実際と同じ商品構成で、付近一帯にチラシをばらまく。給料日後の一週間、特に土曜日。日曜日に注意しながら実験してみる。 一番人が集まったところが一番いいに決まっている。そこに店をつくる。

自分が他の所に土地を持っていたら、その土地と最適地を等価交換する。あるいは、売却してでも、最適地を手に入れる。こういう努力が、ぜんぜん足りない。

土地があっても、大きな川や道路があれば、そこで商圏が削られてしまう。公園があって風光明媚であれば、その分だけ人口が減ってしまう。学校があれば、これまた人口が減ってしまう。駅があって、周辺を多くの動め人が往来しても、晩のおかずなどの重いものは、あくまでも自宅周辺の店でしか買わない。いずれも、だめである。理の当然ではないか。環境調査が、繁盛の第一のカギを握っている。

以上の物理的な環境だけではなく、景気の変動というものも環境の中に入ってくる。そういうことがわからない人が、特に経験の薄い後継者に多い。

だから、自分が経験したことを正確に記録して、「環境や状況の変化に対しては、こういう手を打ちなさい」ということを、後代にも残していく。息子に伝え、息子が孫に伝えられるようにしておくべきだ。

たとえば、自分の店の近くに全国ネットの大きなスーパーが進出してきたとする。自分の商圏は小さく、スーパーの商圏は巨大で、アッという間に潰されそうだ。「どうしよう、どうしよう」と悩みに悩んで、円形脱毛症になったり、胃潰瘍になったり、はては癌になったりという人がたくさんいる。

「突然、大型スーパーがやってきた」とか言い訳するが、大型店舗は許可をもらって出店するように法律できまっている。それに、三年も五年も前から土地を買収したりしているはずだ。「なにが突然だ」と怒鳴りつけたくなる。

ところが、千葉にあるフレックの雲田孝夫社長などは、逆に、これこそチャンスだと大喜びする。そこには、考え方に天地の開きがある。

雲田社長は、どうしているか……敢えて大型スーパーのすぐそばに土地を借りたり、買ったりする。そして、敵を分析する。たとえば、これは中国物やトンガ物の野菜だ……とかである。そして、千葉県の農家と提携し、良質の種や苗を渡したり、土壌を改良したりして、新鮮でいいものを作ってもらう。地元の野菜で、新しくて、安いことを大声で叫ぶ。叫び足りなかったら、周辺にチラシを撒いて宣伝をするから、大型スーパーもかなわない。それが、だんだん評判になる。

「あそこのスーパーと比べてください。うちのほうが、はるかに安くて新鮮ですよ」などと言われたら、大型スーパーの方がかえって真っ青になってしまう。そして、お客は大型スーパーの駐車場に堂々と車をとめてフレックで買っている。これを「コバンザメ商法」と名付けている。また、いまの店舗がだめになったら、別の商圏にもっていくのも一つの方向性、戦略である。店舗を売って、そこの商圏から離れたところに別の店舗をつくれば、いくらでも生き残れる。あるいは、商圏や商品構成を少し変えただけで、見違えるように繁盛したりする。現在の店舗をパチンコ店にしても構わない。レンタルビデオ店でも、塾でも、何でも良い。店頭販売では、土地利用はいくらでもできる。

悩みに悩んで、オロオロするだけでは能がなさすぎる。社長が一番大事な方向性の決定を放棄しているも同然である。それは、固定観念に凝りかたまって、発想が萎縮してしまっているからである。強い主義主張や固定観念ほど後向きなことはない。人の言うことが聞こえないし、見ても見えなくなる。頭を空にして、他人の言うことも、他所で見ることも、聞いたり認めたりすることが大事である。空の境地を知って、もっと自由闊達に発想し、社長自ら積極的に活路を開いていくべきだ。いくら役員会を開いても、オーナーではないから、そんな重大事は誰も決定してくれない。勇気を奮ってほしい。

儲かる体質の築き方

方向性の決定の二番目に、体質がある。事業のやり方には二つしかない。 一つは受注であり、もう一つは見込みである。この二つしかない。受注体質か、見込み体質か、あるいは、その二つを合わせた体質かということだ。体質は、業種ではなく、経営そのものである。

受注でやっている会社の特色は、相見積りを取られるということである。つまり、根本は安いから受注できるということである。大体、お客の方が決める安価な仕事で、会社が儲かったためしは歴史上ない。それが受注の基本的な体質である。

どんな会社でも、売上は単価と数量の積である。単価を得意先が安く決定し、数量も得意先が決定する体質では儲かるわけがない。

私は印刷会社も経営している。値段は原価を積み上げて計算し、相見積りを取られて競争している。受注の数量もまた相手が決定する事業である。たとえば、「値段はこれだけ。それで、本を一万冊つくってくれ」と言われたら、 一万五千冊はつくれない。トヨタの下請をやっている会社でも、「この部品を十万個つくってくれ」と言われたのに、二十万個つくったら、トヨタは十万個分の余計な金は払ってくれない。これが受注というものだ。下請けだけではなく、印刷業やゼネコンや造船業や設備業も、産業構造上の受注事業である。

運送業も、厳しい競争の中で相見積りを取られ、公共料金みたいな運賃をさらに値切られる。少しでも嫌な顔をすれば、「文句があるのか。なに言ってんだ。君のところでかかる経費は、運転手の人件費とガソリン代と車の償却費、それ以外に何が欲しいんだ」と言われて、値段はより一層たたかれていく。

安く買いたたかれると、自分のところの社員に払ってる人件費を節約、家賃を節約、接待費を節約、節約、節約……つまり、上のほうへ伸びないで、下の方をずっと抑えにかかる以外に手の打ちようがなくなる。これでは、儲かるわけがない。手品ではないのだから、だれが何といっても、値段を自分で決められない事業が儲かったことなどない。そういう体質になっているのだから。何十年も、下手すると一生涯あくせく働いても、少しも報いられないという受注の会社が結構多い。体質の勉強は、社長にとって事業をやる以上避けては通れない重要事である。

社長が事業をやるのは、 一番早くても二十歳前後からだ。そして、六十五歳とか七十歳までの四十二年とか五十年間である。父親がいて、途中から社長になった人などは二十年間ぐらいしかやれない。受注で、その一生を費して、財産が何にも残らなかったという悲しいことがあってはならない。売上経常利益率は、受注事業では、三%以下なんていうのもザラで、よほどよくて五%から一〇%である。

それを儲かるようにするためにどうしたらいいか……これは、受注が持っている基本的体質をどのように変えていくかというテーマである。

従業員が百名もいながら、営業マンは一人もいないで、社長だけがピストンのように、親会社や発注先へ行き来して仕事をもらっている会社を私は何社も知っている。そういう会社は、親会社が衰退すると一緒に衰退し、あるときバサッと切られて、「どうしよう」と、私の

ところへ相談にやってくる。営業マンが必要ない会社は、本当に危険である。受注でお得意様が一社しかないという会社がその典型である。たった一社の得意先がだめになったら、すべてだめになるに決まっている。

私の指導先で、長い間、お得意様が一社しかなくて、バブルが崩壊した後、苦しみに苦しんでやっともう一社から仕事をもらい、柱が二つになった会社がある。いつでも、好調な業種から好調な業種へと開拓していって、お得意様を十社、二十社、百社と増やしていけば、どんな不況が来ようともヘッジできるというので、今、新規の開拓に努力を入れ始めた。その場合でも、単一業種ではなく、新しい固有技術を追加し、いろいろな業種にまたがって開拓することが重要である。見込みの事業をやらずに、あくまでも受注を通すつもりならば、多業種にわたる開拓を積極的に推し進めていく必要がある。

そのためには、他社にできない高い技術、万全のサービス、抜群の品質、提案力、企画力…こういうものを磨いていくことが大切だ。 一日も早く、上下関係に縛られない自主独立型の体質を築くことが、受注事業の最大課題である。

さらに、受注を土台に、自社ブランドの商品を開発して積極的にヘッジしていくように体質を転換していかなければならない。徐々に見込み体質を加味していくということだ。それが受注事業をやっている社長の最終的な大課題である。

一方、私が知っている見込み事業の製薬会社では、経常利益が五割とか六割でる会社がたくさんある。「冗談でしょう」と言うかもしれないが、実際に決算書を見れば一目瞭然である。年商十二、二億円でも、経常利益が四億円でるなんていう会社も知っている。

薬のメーカーではないが、機械設備を見込みでつくっているキーエンスは、六百五十億円売って、何と二百八十億円の経常利益をだしている。値段も数量も自分で決定しているからである。これが、すべての利益の根源だ。なぜかといえば、売上の総額は商品の単価掛ける数量以外の何物でもないからである。受注のように、単価と数量を相手に決められていて、儲かるわけがない。体質が根本的に違う。

見込みの会社は、自らのリスクで商品を作ったり、仕入れたりした物を売る。数量、値段を自分で決定できるから、大儲けできる可能性が大である代わりに、大損の危険性も大である。宿命的に不安定で、「見込み違い」が命取りとなることがある。「大儲け」と「大損」が常に背中合わせになっている。

戦後大きくなった松下電器も、ホンダも、ソニーも、みんな大局を知って、自社ブランドの商品を開発し、自分で値段を決め、数量を決めた。下請に仕事を出しながら、製造原価をどんどん下げていった。そして、販売ネットを国内はもとより先進諸国にまで広げていった。いまや、国内では取扱店がない地域などないぐらいまでに販売網を整備し、成熟化を果たした。

大きくなった会社とか、非常に儲かった会社とかは、商品を顧客の層別に開発して、それぞれの客数を正確に掴み、その数しか作らないようにしている。リスクの回避が非常に巧妙だということである。「大体これぐらい売れるだろう」という全くの見込みから、だんだん利口になり、市場調査を十三分にして不良在庫を極力抑えつつ、固定客づくりを一生懸命にやってきた。こういう会社は、より一層儲かる。基本的に値段も数量も自分で決定し、なおかつ不良在庫を徹底的に排除して、経営効率を高めているからである。

私は見込事業の出版会社も経営しているが、当然のことながら受注事業の印刷会社とは趣がぜんぜん違う。どこの出版会社でも、印刷会社に本を印刷させるときは、叩いて、叩いて印刷の単価を下げておきながら、本の値段はべらぼうな値段で決める。こと値段に関しては、本当にいいかげんだ。

特に、受注と見込みの体質の違いは、カーテンやカーペット・壁紙などのインテリア商品を扱う業界に最も典型的に見ることができる。

私は、カーテンを受注で生産して間屋に納めているS社と、その発注先である間屋兼小売のN社の両方を良く知っている。

S社は、値段を叩かれても、叩かれても、 一生懸命にやり繰りしながらカーテンを作っている。販売ネットをN社に押さえられているからだ。

一方のN社は、いざ小売する段になると、限界まで叩いて仕入れたカーテンにベラボウな値段を付ける。こと値段に関しては、本当にいいかげんだ。たとえば、S社の商品が、仕入値の実に十倍もの値段で小売されていることも知っている。十倍で小売しているということは、原価が一割だということである。その一割の仕入値でさえ、S社はN社に叩かれ続けている。逆に、こうして安く買い叩くことができるからこそ、N社はいいかげんな値付けで売ることができるのだ。

私が、家を新築するときに、N社にカーテンを買いに行くと、「やあ、牟田さん、五割引きにしますよ」と、いとも涼し気に社長が言う。それでも、原価の四倍は儲かっているはずだ。私が、わざとOKをすぐに出さないでいると、「それでは、七割引きにしましょう」ということになった。この間、ものの五分もかからなかった。値段など、あってないようなものだ。思わず、微笑が漏れた。

いいかげんでなければ、儲からない。計算して、細かく細かく原価を積み上げて値段をつけている会社は、儲かるわけがない。そうに決まっている。

儲かっている会社は、いずれも、そうしている。これは、体質がそうなっている会社と、そうなっていない会社の差だ。ただ熱心にやっているだけで儲かったという会社は、ほとんどない。いいかげんな方が儲かる。「おかしいじゃないか」と憤慨するかもしれないが、要するに商売が上手だからである。自分の周りを見れば、よくわかるはずだ。

一千万円の年俸をとっている社長と、 一億円の年俸の社長を比べてみよう。 一千万円の年俸をとっている社長の方が、確実に長い時間にわたって働き、汗水を垂らしている。しかも、儲からない会社をやっている。 一億円の社長は、ゴルフをやり、ョットに乗って、海外旅行し、それでいて、儲かる会社を悠々とやっている。戦略、つまり方向性は、そういう差を生み出すものだ。

それは、体質がどうなって、環境がどうなってという大局を知っているからである。つまり、儲けの上手な社長は、そういう方向性の研究を十分にしてる。方向性が悪いと、どんなに努力してもだめだ。儲からないところで仕事をやったら、十倍も二十倍もの努力をしていかなければならない。環境が変わって、満杯になってしまった市場で事業をやったりするが、それには努力を何倍もしなくてはならなくなる。

儲かる事業、儲かる商品、儲かる場所、儲かる人に資源を投下しなければ、基本的に努力は報いられない。儲かる体質を、早急に築いて欲しい。

手腕の磨き方

方向性を決定する二番目の要因に、社長自身の手腕と考え方がある。これによって、方向性の決定が全く違ってくる。

事業の永続繁栄には、「成長拡大」と「安定」の両方が不可欠の大事である。成長拡大だけでは長続きしないし、安定だけでも栄えない。幾代もの繁栄を築くには、どちらを欠いてもだめである。

成長拡大と安定を同時に実現していく力が、即ち社長の手腕である。手腕を遺憾なく発揮できて、初めて事業の永続繁栄が可能となる(「成長拡大」と「安定」については、第二章で詳しく書く)。

第一のコンセプト「成長拡大」には、三つある。①増客すること、②商品やサービスの売価と粗利と数量を検討すること、③経営態勢を整えること、この二つである。

もう一つのコンセプト「安定」にも、やはり三つある。①繰り返すシステムを構築すること、②売り物を磨くこと、③お客様第一主義を実践すること、この二つである。

未来永劫に亙って自社の繁栄を築くとは、この六つの手腕を身につけ、成長拡大と安定を共に追求し続けることである。どんなに多くの会社を見ても、繁栄の究極は、そういうことでしかない

お客様第一主義という安定だけをやっていたら、会社は大きくならない。良い会社にはなっても、やがてじり貧になっていく。そうかといって、成長拡大だけをやっていたら、お客様はどんどん逃げてしまう。だから、両方を同時に追求することが事業の命題である。要するに、社長は、成長拡大に必要な手腕と、安定に必要な手腕を兼備しなければならないということだ。

第一のコンセプトの成長拡大について言えば、事業の規模は事業を起こしたときにほとんど決まってしまう。なぜならば、市場の規模と事業の規模とは、非常に密接な関係にあるからだ。

つまり、どこの市場を狙うかという考え方と、その市場を具体的に攻略していく手腕によって、すべての事業の規模が決定されてしまうということである。世界の人口が五十八億五千万、そしてアジアに二十五億四千万、日本に一億二千五百八十七万人いる。

人口を超えて物が売れるということはない。携帯電話が一人一本ずつの時代になったところで、人口を超えない。テレビでも、世帯に二つ、三つと普及してきても、日本の世帯数は三千六百五十万と決まっているから、おのずと上限が知れる。人口の半分が男と女で、これも決まっている。

そうすると、事業の規模は、市場の規模で決まってしまうということである。何か事業をやるときに、 一地域で事業をやったら、それよりも大きくなることはない。事業の規模を大きくしようとするなら、地域を飛ばしたり、地域を拡大していくしか道はない。また、市場規模が大きすぎても、事業はなかなかうまくいかない。手腕がないまま不用意に飛び込めば、すぐに大企業が参入してきて、手痛いダメージを受けることが多い。

しかし、市場が身の丈に余るからといって、すぐにあきらめる必要も無い。こういう場合は、大きな市場のどこか一点に絞り、最初は間口を広げずに専業でやっていく。そして、徐々に力を付けていって、事業を複合化していくことが非常に大切だ。これが、優れた手腕というものだ。朧げなまま、いきなり複合化したり全体化しては絶対にいけない。

店舗を展開する場合ならば、たとえば全国に千店舗つくることが可能だとしても、まず最初は、狙いとする顧客の人口が多い好立地を綿密に絞り、十店舗ほど出店してみる。そして、立地の良いところだけを選んで、少しずう店舗を増やしていく。

ビデオやCDのレンタルをやっているカルチャー・コンビニエンス・クラブの増田宗昭社長は、事業を展開するに当たって、まず、日本全国を二十五キロメートルの升目で区切り、人口密度の高いところだけをピックアップした。それを、さらに五百メートルの升目で区切り、特に人口密度の高い約二千の地域を絞り込んだ。この二千くらいの地域は、さしたる営業努力をしなくてもやっていけるほど人口の密度が高い。そういうことを予めきちっと把握したうえで、資金があるとか無いとかを勘案しつつ、最初、どの地域からスタートすべきかを決めていった。

そして、現在、日標二千店のうち九百店近くを全国に展開している。まだまだ新店舗をつくっていける状態だが、増田社長は意図的に拡大をストップしている。それは、なぜか?増田社長自ら設立に参加しているディレク・ティービーをはじめ、他の様々なデジタル衛星テレビ放送が普及し、近い将来、レンタルビデオと競合する数百チャンネル時代が必ず到来することを予見しているからである。

次に、事業のもう一つのコンセプトである安定は、商品を購買する頻度で決まる。 一回買ったら二度と買われない、あるいは長い問買われないような商品を扱えば、事業は安定しない。それは、理の当然である。

たとえば、トヨタや日産は、 一番最初、国内に販売ネットをつくっていった。日本でどんどん売れた。私は、東名高速道路が昭和三十九年の東京オリンピックをめざして開通したときに、 一分間に何台の車が通れるかを、ある一か所を切って調査したことがある。その結果を、大阪の商工会議所で話した。

そのとき、「いまに自動車が一家に二台、三台という時代が来る。テレビも一家に三台、四台、五台という時代が来る」と言ったら、社長たちがみんなワーッと笑って、「牟田さん、夢のようなうそばっかりついては、だめだよ」と言われてしまった。大阪の商工会議所にして、この反応である。それが、いまでは、「牟田さんが言ったとおりになった。だから、私はあんたを信用して講演を聞きに来てるんだ」という年配の方が何人もいる。事業規模は、人口を超えてはいかないが、自動車やテレビは物すごい勢いで伸びてきた。

東京オリンピックで、テレビがなかった世帯がみんなテレビを買うようになった。いま日本全国の町々で、家電の小売店がない町はない。ということは、家電業界は非常に成熟化したということである。そこで、各社は余勢をかって、日本から海外へ出て、アメリカやョーロッパの購買力がある先進諸国に売っていった。市場が未成熟な間は事業は物すごい勢いで成長する。しかし、成熟化は事業の成長を急速にストップさせる。

自動車でも、全く同じだ。トヨタも日産もホンダも、購買力がある先進諸国に販売ネットをくまなく築き、これまた国際的に成熟化してしまった。売上が伸びない。そうすると、買い替え需要しかないから、定期的にモデルチェンジをしたり、車種を増やしたり、販売ネットも車種別で多岐に分けたりしていった。要するに、売り物を磨き、チャネルをたくさんつくってキメ細かなサービスに努め、繰り返すシステムを構築していって、安定化を図った訳である。これが戦略である。

やがて、国内市場も先進国市場も成熟化の頂点に達した。たとえば、中国とか、あるいはロシアの経済が軌道に乗って、購買力のある国になるまでに十年から十五年はかかる。これらの発展途上国が完全なマーケットになるまでの間、どうやっていくかといえば、どこかライバルの市場を奪っていかなければならない。どこかと言えば、 一番弱い者の市場に外ならない。そこをみんなが寄ぅてたかって奪うていく。

なぜ、奪わないといけないか……事業は成長拡大が一つのバランスで、安定ばかりに止まっていることは許されないからである。人件費も公共料金も、すべて凍結したら、固定費は変わらないから、値段も変えなくて済む。しかし、現実には統制経済ではなく、自由競争であるから、値段を高くしたり、逆に値段を安くしたら数を多く売っていかなければならない。

人件費も、公共料金も上がる。いつか必ずバランスが崩れるようになっている。そういう中で生きていくことは、非常に難しい。どうしても、いままでのお客様に新しいお客様を加えていく必要がある。縮小均衡など、事業家の考えにあってはならないことだ。

弱者の市場をみんなで奪うていく。ますます弱者は安定を脅かされ、苦境にあえいでいるというのが日の前の現実ではないか。自由競争とは、それぐらい熾烈な戦いを強いられる。各社の経営計画書を見ると、ことし一年の短期的な戦い方ばかり書いてあって、残念ながら方向性の決定とか長期的な考え方が多くの会社で欠如している。五年とか十年先どうするか、 一生をどうするかという考えを、明確に書いておくべきだ。

命を賭けてどれぐらいの大きさの会社にしたいのかという考えも書いておく。経営の手腕は、この「考え」を究めて、成長拡大と安定を実現することである。ところが、社長と話をしてても、どっちの方向へ事業を進めていくかという考えが全くない。だから、卓抜の手腕が身につくはずがない。残念でならない。

戦略展開のやり方

事業の方向性を決めるうえで非常に参考になる事例を、ここで紹介しておく。京都に平八茶屋という四百二十二年続いている老舗の料亭がある。京都の洛北、宝ヶ池の近くで、若狭街道と高野川に面している。川側にすばらしい庭と料亭がある。それが平八茶屋、正式には「山ばな平八茶屋」という。

園部平八さんがそこの社長で、二十代目の当主を襲名している。二十代目ともなると、売上の規模とか利益の規模とかは関係なく、とにかく永く続けることが一番の大切になっている。

平八茶屋へ行くと、「騎牛門」という門がある。この門は、既に百年以上もたっていて、古びて、朽ちている。いたるところに虫食い跡もついている。そこで、土台の、虫食い柱の中に樹脂を入れて固めることにした。すると、古びた感じが残り、いままでとほとんど変わらない。相変わらず少し傾いている。そこに非常に味がある。

母屋も江戸時代に建てたもので、相当に古い。

また、庭が広く、その裏側の川沿いに棟の長い座敷があって、懐石料理を食べさせてくれる。この座敷の方は、ここ何年間のうちに建て直そうという計画になっている。平八茶屋の売上規模は、大きくはない。しかし、安定性が高い。

社長の園部さんは、「事業発展計画書」の最初に、自分は「伝承」、すなわち、伝えていく「中継人」だと書いている。ちょうど駅伝で、いま第何区を走っているというのと同じようなものだ。園部さんは、このような考え方を最初から持っている。

二人の息子がいて、長男は大阪の老舗の料亭へ修業に出した。次男は、跡を継がない。継がないというのは、 一店しかやらないという考え方だ。これを、「一子相伝」という。それは、実に厳しい考え方である。

次男は、四年制の大学を出て、日本経営合理化協会に就職した。大学が情報管理の大学だったので、私の協会ではコンピュータ部門の仕事をしている。ダイレクトメールとか、その他、インターネットやマルチメディアに対応するさまざまな情報とかデータベースをつくる仕事を一生懸命にやってくれている。

女のお子さんもいるが、たった一人しか跡を継がせない。なかには、次男、三男まで自分の会社に入れている人もいるし、それが悪いわけではない。ただ、平八茶屋は一子相伝という哲学を古くから持っていて、そうすることによって事業を維持してきた。

四百二十二年というと、安土・桃山時代から続いていることになる。平八茶屋は私の指導先の中で一番長い歴史をもっている。三百年ぐらいとか二百五十年ぐらいというのは結構多くある。百年なんていうのはザラだ。そういう長い歴史を持つ経営者に共通しているのは、きちんとした長期の哲学を持っているということである。

平八茶屋の社長は、平人、すなわち、平成八年の人月八日を自分の店の日と決め、新しいメニュー「本膳料理」を開発した。これは、平八茶屋が創業された二十代前の初代が、 一番最初に開発した料理の再現である。ここに「本膳料理お献立」の実際のメニューがある。

木膳料理お献立

これは、四百二十二年前のものを、新しく書きかえたものだが、それが残っていること自体、相当古いということである。よくこういうものを残していたなと、つくづく感心する。

このメニューは、現代風に相当書きかえているが、見事にオリジナルを再現している。一人当たり二万円の本膳料理で、料理としては結構高いが、おいしいから、東京とか名古屋とか大阪とか、遠いところからでもやってくる。夏場から秋には、整理券を出さないと入り切れないぐらいのお客様が、この店へ来られた。京都のお客様もいるが、二〇〜三〇%で、残りは、遠いところからやってきている。二千キロメーター先からでも来ている。

これはどういうことかというと、たとえば風邪を引いたり、腹痛を起こしたときは家からニキロ以内の病院に行くが、手術をしなければならないような大病にかかった場合には、人は紹介をもらって、大阪、九州から東京まででも行ったりする。つまり、そこに腕のいい医者がいるから、遠くからやってくる。選ぶ条件が「便利」ということよりも「信頼性」に変わる。

そうすると、平八茶屋みたいなところは、信頼性、とてもおいしくて、そこへ行かなければ食べられないというコンセプトを前面に打ち出さなければならない。店をたくさんつくることは失敗だということを、彼はちゃんと知っていたわけである。知っていたからこそ、先祖がなぜ昔から一子相伝にこだわってきたのか、その理由にもすぐに気がついた。

前述のように、平八茶屋の園部さんは、「伝承者」という言葉を、「事業発展計画書」の最初に明確にうたっている。「伝承者だから、先祖代々ずっと栄えてきた店を、自分の代で滅ぼしたくない」ということを中心に、ひたすら、おいしい懐石料理を作り、お客様に喜んでいただける環境で提供することを事業発展計画書に書いている。

平八茶屋は、あくまでも一子相伝でやる。ところが、私には、東京に同じような食べ物の商売をやっている別な指導先があり、そこは会社を大きくしようと考えているから、 一子相伝ではやらない。

その会社は、全国ネットで多店舗化し、ファーストフードに近い商売をしている。なぜかと言うと、お客様が最寄りにしかいないからだ。ファーストフードに限らず、レストランでも、ガソリンスタンドでも、あるいは衣料品でも、病院でも、店の半径ニキロメーター以内(第一次商圏)に八〇%のお客様がいる。そうすると、ある間隔を取ってもう一つの店をつくれば、また別のお客様がいることになる。さらにもう一つ店をつくれば、また別のお客様がいる…… つまり、そこにたくさん店をつくらないと、大きくならない体質の店である。平八茶屋とは、やり方や考え方が全然違う。つまり、そういう体質を持っている事業だから、多店舗展開した。いずれにしろ、優れた会社や店を冷静に分析すると、その根底には必ずしっかりした考え方が根付いていることが分かる。

ガソリンスタンドでも、お客様は会社とか家の周辺三キロメーター以内の店に行っている。

百五十キロメーター先までガソリンを入れに行って、帰ってきたら空だった、「ちきしょうめ」と、また行く……そんな馬鹿なことはしない。法律と同じように人間の行動は決まっている。ガソリンスタンドをやるならば、 一店ではなく、二十店、三十店、五十店とやったほうがいい。私の知人がガソリンスタンドを百五十店やって、 一千億円以上売っている。

多店舗展開の考え方の一つに、フランチャイズシステムや特約店方式を導入するやり方もある。つまり、他人の信用を頼る方向である。そのことに関して、次のような質問を受けたことがある。

「全国に向けて特約店を募集したところ、約二十社の応募があった。その中で、福岡県で三社、愛知県で三社の応募があり、どの会社も県内をウチ一社に任せるといっているが、どこと契約するか決めかねている」とのことだった。

このような場合には、まず、売上ランクを調べる。そして、上位の一社、なるべく一位の一社と契約するようにする。その地域で、三社、四社と応募してきても、いずれも上位ではなくて下位で低迷していたら、やらせないほうが会社の発展のためにはいい。市場ランキングの高いところと契約するのが鉄則である。

もう一つつけ加えれば、市場ランキングが比較的低くても、社長が若くて熱心で、市場開拓力が相当ありそうな場合には、例外処理で、そこの会社に任せてもかまわない。選定に当たっては、社長が若いかどうか、熱心であるかどうか、よく人物を見極めることが大切だ。

考え方一つで経営のやり方、方向性は全く違ってくる。すべて、どっちの方向に進むのかという社長の考え方次第である。そして、戦略、方向性を決定するには二つの要素がある。まず第一に環境や状況の変化、第二に体質、第二に自分の考え方や自分の手腕……これらの二つを踏まえたうえで、戦略、方向性を決定していかなくてはならない。これは忘れてはならない鉄則だ。

三、戦術

戦略が決まったら、さらに戦術を決める。

戦術とは、戦い方、方法論である。資本主義は、競争が原理になっている。つまり、必ず敵がいる。なかには、全くそっくりなイミテーションをつくって、自社より安い値段で売るような敵もいるくらいに、非常に激しい競争を強いられている。特許でヘッジができずに、そっくりそのままの商品を安く売られて、しかも、敵の品質の方が高ければ、自社が負けるに決まっている。

戦術、すなわち戦い方は、「ライバルに向けて、この一年間こうする」ということであるから、戦略に比べると短期的で、しかも、部分的な考え方である。そして、いろいろな方法論が主体であるから、領域が思想よりも、技術の方に偏っている。戦術、すなわち戦い方には、五つしかない。

販売力の付け方

その第一は売り方、販売力である。まず、売り方を他社より強くしていく。

販売には、五つの戦い方がある。①店頭販売、②訪問販売、③従来の通信や最新のマルチメディアを用いた媒体販売、④配置販売、⑤展示販売の五つのやり方、つまり戦術がある。できる限り同業他社と異なった販売方法を採っていくことが大事だ。また、販売の方法を複合化させて、 一つの商品でいろいろな販売をやるような時代に移ってきている。そういうことを、よく知っておく。

明太子で有名な「ふくや」は、売上高百九十億円である。そのうち店頭販売は約百億円で、いま福岡に二十七店舗構えている。これ以上あまり店舗をつくれない。せいぜい五、六十店が限度だと思われる。そこで、通信の分野を開発し、五十二万件ぐらいのデータベース、要するに顧客リストを持つようになった。そして、お中元、お歳暮の時期になると、そこヘダイレクトメールを一斉に出しただけで、二十七店舗の売上とほぼ同等の売上をあげるようになった。店頭販売業者が通信販売もやっている。そういう時代になっていることを、肝に銘じておいて欲しい。

売り方を複合化するようになった。そういう研究を日々怠らないようにしないと戦いに負けてしまう。

戦い方の方向性を決定するのが戦略だ。方法を実施していくのが戦術である。サントリーでさえ、状況の変化に応じて、新しい販売ネットが必要だという方向性を決定した。そして、それを戦術の領域へおろして実行していった。最初、自動販売機を置いてくれるところには、機器をすべて無料で提供した。中身だけ売ればいいという考えのもとに、配置販売を強力に推進していったのである。販売力がすぐれている会社は、不況に強い。

企画力の付け方

戦術の二番目に企画力がある。いつでも、「異」を創るのは企画力である。競争に勝つためには、自社の独自性をお客様に知らしめるということが大切だ。「差別化して独自性を仕掛けていくこと」が、企画力の基本である。

情報が氾濫していても、お客様は、自社の商品やサービスについて何にも知らないのが実態である。

レストランがおいしいメニューを作るのも、人の心を打つDMの挨拶文を書くのも、買う気をそそるパッケージを作るのも、大増客のイベントを開くのも……すべて企画力がないとできない。お客様に仕掛け、知らせることがスタートである。

企画力は、人間がもっている。機械がもっている訳がない。企画力をつけるということは、取りも直さず企画力のある人間を採用するということである。

企画力は、知識や記憶の善し悪しと全く関係ない。多くの会社で、「今年は、頭の良い子を採用した」と、自慢する。私が会ってみると、少しも頭が良いとは思わない。確かに知識や記憶力は抜群で、「1+1=2」と正解を出す。それを「頭が良い」と称しているが、彼らは事務方にしか向かない。「正しい」とか「正しくない」という尺度ばかりで会社をまとめているから、いつまでたっても新事業や新商品の開発ができないのである。見当違いもはなはだしい。

企画力は、学校の試験で「1+1=5」とも「6」とも答えて、平気でバツをもらうような感性豊かな人間からしか生まれない。私は、どんなに知識に優れていても、ゴルフの十ヤードのパットで、距離も方向も目茶苦茶に外すような人間は、少しも「頭が良い」と思わない。はっきり、「頭が悪い」と言っている。目で見て十ヤードであれば、十ヤードの感覚で打てなければ、脳と手の感覚が鈍い、感性が悪いわけである。こういう人間を採用して「頭が良い」と称しているだけのことが非常に多い。冗談ではない。

これからは特に、感性型人間が会社にとって不可欠だ。なぜか……人は豊かになって、「好き嫌い」が尺度で物を買うようになったからである。ネクタイでも、家でも、自動車でも、映画を見るのでも、好き嫌いによって選択が決まる。自らの感性に訴えるかどうかが最優先される。感性が悪い人間は、ネクタイ一本、シャツ一枚だって作れない。「異」を創造する企画力は、優れた感性から生まれる。企画力で優劣が決まってしまう時代を迎えた。

子供の商品を企画するなら、本当に子供の心が分かり、何がおもしろくてドロンコになるか、背広がヨレヨレになるまで遊びほうけるくらいの人間でないとだめだ。感性は、競争に勝つための哲理である。そういう人間を積極的に得て、用いていくべきだ。差別化して、仕掛けていって、敵の市場を奪っていける人間でないと役に立たない。企画力には色々あるが、商品企画力と販売企画力が最も重要である。

商品企画力では、これから売れそうな物に、絶えず目を光らせていることがポイントである。自社の業界や商品だけではなく、ライバルから他業界、広くアメリカからヨーロッパまで目を広げ、あらゆるものを引っくるめて何が売れそうか探り続ける。

過日、ドイツにあるジーメンスの役員で二十年来の親友であるザヴァダ氏夫妻が、私の自宅を訪問した。身長が百九十センチメートルくらいあるので、歓談の合間に、ためしに体重を計ってみた。約九十キログラムとデジタル表示されたが、同時に表示されたもう一つの数字を指さして、「これは何だ」と不思議な顔をしている。体脂肪も一緒に計れると教えると、びっくりして、「これはドイツにない。欲しい、欲しい」と言って、まるで赤子のようだった。

もちろん、新品を贈って、お土産としてドイツに持って帰ってもらった。それはともかく、「他国にあって、自国にないもの」を発見することは、企画力を付けていく上での第一歩である。

今、「プラスワン」の発想を身につけることも重要だ。普通の体重計の市場は完全に成熟し切って、新たな需要は見込めない。そこで、体脂肪計を「プラスワン」することによって、旧来の市場を一挙に奪い取ることが可能となった。普通の体重計は役目を終え、古くなったから捨てられる。存在価値がなくなったからである。代わって、存在価値の高い物を新たに作る……これが事業の鉄則である。このイノベーションを実現するのが企画力だ。

北海道のハドソンという会社に、「テクテクエンゼル」という大ヒットした商品がある。 一世を風靡した「タマゴッチ」は誰でも知っているが、それと同じようなキャラクター育成型商品に、従来からあったデジタル型の万歩計を「プラスワン」して、ただ組み合わせただけである。小まめに歩くと、「テクテクエンゼル」は良く育つが、怠けていると、途端に太りだし、ついには家出してしまう。健康グッズに遊び心を持たせたのが何ともユニークだ。当初、二十万個の売上見込みだったが、四十万個を越え、アッというまに百万個を突破してしまった。玩具店だけでなく、コンビニエンスストアやドラッグストアの流通にも乗せたからだ。これも、企画力である。

商品企画力を付けるには、目的意識を常に持つことが特に肝要である。

若者でも年配者でも、年齢に関係なく目的意識を持たせ、集中力を養っていくと企画力が強くなる。テーマを持てば、町中を歩いていても、ましてや海外に出れば、耳を傾け、目を皿のようにして売れる商品の発見に努める。英語が喋れない人でも、英語が聞けるようになって、重要なことは一言でも聞き逃さなくなる。見えない物も見えるようになってくる。今まで捨て去っていた物の中にさえ、アイディアの宝庫を見いだすことができる。むだに過ぎ去る物は何もない。持続して目的意識を集中すると、感覚が研ぎ澄まされていくからだ。

優れた販売企画は、それこそ企業の数ほど多くある。本書の随所にその事例を記載したので、ここではポイントだけを書く。

販売企画力では、「どこと組むか」「どの販売チャネルに乗せるか」もポイントの一つである。

仙台に菓匠三全という和菓子を製造販売している会社がある。田中裕人さんが、そこの社長だ。「萩の月」という単品だけで、年に百五十億円も売り上げてしまう。

田中さんは、同じ仙台の名物である「阿部笹蒲鉾」の星川社長と、「寿の三色最中」の堀池社長と提携し、本当に仙台を代表する三店だけをテナントにして店舗を新たに持え、ロードサイドに次々と展開していった。たちまち相乗効果を発揮し、三社とも旧に倍して売上を伸ばしていった。組み合わせの妙である。有象無象は、組み合わせの対象にしない。互いに足を引っ張り合うだけだ。

平八茶屋の販売促進として企画した一つに、やはり「組み合わせの妙」を取り入れたものがある。

まず、京都の本当の老舗で、互いにバッティングしない店を五つ、「京の老舗五店」と称して提携した。五人の当主が握手して大きなポスターを作り、京都市観光局のハンコをベタベタ押してもらって、JRの駅に次々に貼っていった。観光局とJRのお墨付きをもらったようなものだから、当然、五店だけにお客が集中するようになった。

さらに、ポスターとメニューを持って、私が紹介した旅行会社を回り、販売チャネルの開拓に努めた。「高級料亭だから、バスを連ねて大勢で来てくれという訳ではありません。高級なお客さんだけで結構です。多少は割り引きますが、売値が高い分、マージンも大きいはずです」と、敢えて横柄に言った。高級指向のお客が最近とみに増え、また、名だたる老舗が五店も揃えばすぐにパックが組めると判断して、旅行会社は飛びついてきた。この企画は、大成功だった。居ながらにして旅行会社が良いお客様を連れて来てくれる。

そのお客様が旅行から帰ると、「平八茶屋は素晴らしい。料理が最高だ」と言って、今度は自分たちだけで行くようになった。固定客になった訳だ。 一年も経たずして、売上が三倍以上になった。

企画力を発揮するためには、社長直轄のプロジェクトチームを作ることが最も効果的である。企画力のある感性豊かな人間を採用しても、その人間を動かせなければ何にもならないからである。

プロジェクトチームは、社長の下に専任者を一、二名置く。小人数の方が良い。そして、プロジェクトの期間を明確に決め、権限と予算を与える。午後五時過ぎたら、専任者の命令は社長命令と同じで、プロジェクトに協力しなければならないことを全社員に宣言しておく。

たとえば、試作品が必要な場合、工場から人員がすぐに来てくれるようにする。金のことなら経理が、販売のことなら営業がすぐに来て、進んで協力する。とにかく、動きやすくしてやることが、企画力を発揮するうえで非常に大事だ。

そして、十の企画のうち七つ失敗しても、二つ成功すれば良いというつもりで、何年も何年も続けていく。そうすれば、必ず、企画力が付く。

組織力の付け方

戦術の二つ目は、組織力である。会社は、人の集合体から成り立っている。

人の力を組織して、業績を上げるために良い人材をいかに効率よく用いていくかということである。

組織力を高めるには、優秀な部下を持つのが第一条件である。そのためには、社長は、部下が働きやすい組織環境や状況を意図的に作っていかなければならない。

部下の働きと給料とは、非常に密接な関係にあるものだ。また、地位とも密接な関係にある。さらに、会社の将来性や社長の考えといったものにも大きく左右される。この四つのことが組織力を考えていくうえで非常に大切だ。

給料は、多いに越したことはない。ただし、無制限に払える訳もない。そこで、業績がよくなったら、それに応じて多く支払うというシステムをきちっと作っておく必要がある。これをインセンティブ(刺激策)という。

たとえば、業績がよくなったら、二か月分のボーナスのところを四か月分、容易に払えるような態勢にしておく。 一生懸命に働いて、業績がよくなったのに、ボーナスにも給料にも反映されないというのが一番よくない。

ボーナスをケチって利益を多く出したところで、どのみち、総額の五七%は税金に持っていかれるのであれば、経費で落ちるボーナスを思い切って多くした方が賢明である。

仮に、 一億円の経常利益を出したら、税金は五千七百万円である。したがって、残額である純利益は四千三百万円になる。この会社が社員に特別ボーナスとして三千万円支払ったら、経常利益を八千万円申告することになる。税金は、八千万円の五七%、すなわち四千五百六十万円である。

そうなると、残額である純利益は三千四百四十万円である。純利益の差はわずか八百六十万円しかない。つまり、ボーナスとして支払った二千万円から差し引いた一千三百四十万円は、政府が持ってくれたことになる。経営者は、そのくらいの負担は、社員の努力に報いるためにも喜んで受容すべきだ。何としても、社員が努力のし甲斐があるシステムを採って欲しい。そして、実力を正当に評価すべきだ。

第二のインセンティブに、地位がある。よく働いて業績を伸ばした者には給料もボーナスも余計に与えるが、地位だけは、そう簡単に与えてはいけない。地位と給料は全く異なる。

野球の首位打者だった者が、えてして名監督になれないのと同じである。人を上手に用いたことで有名な徳川家康や西郷隆盛が、同じようなことを言っている。「功労あった者には禄を与えるが、地位は見識がなければ与えてはならない」というのが、その教訓である。

地位は、人を使う上での優しさとか、柔軟性とか、リーダーシップとか、先見性や計画性とかいわれるような人格や見識がなければ、与えてはならない。つまり、給料は業績に応じて与え、地位はその人物を見極めて、見識があってはじめて与えるようにする。こういうことは、今も昔も変えてはならない。

第二のインセンティブに、表彰制度がある。これも、野球のMVP表彰と同じで、月間で表彰するとともに年間でも表彰する。たとえば、月々、新規顧客開拓のナンバーワンからナンバースリーを表彰し、年間合計で最多の者に最優秀新規顧客開拓賞をあたえるといった具合である。人間は、こういう競争に対する生存の本能を捨て去ることはないからだ。

組織の力を結集し、最大に発揮させるには、もう一つ、社長の心の姿勢を忘れてはならな長たる者の理想は、父親の強さと母親の優しさを兼備することだ。すなわち、大慈悲を有する人物であることだ。父親の愛を慈愛という。父親の威厳ある背中を見て子供が育つように、ベストを尽くしている社長の必死な後ろ姿を見て社員は育つ。「子供は、親を演技する名優だ」という言葉があるほど父親像は大事である。また、髪を振り乱して一途に守り育てようとする母親の愛を悲愛というが、社員の成功を共に狂喜し、悲しいときは共に涙を流す母親像も大事である。

社長は、社員の父親であり、母親である。自分の一生懸命な背中を見せ、愛情をふり注いで欲しい。社員に対する精神の有り様は、親になることが基本である。子を憎む親はないからだ。

組織力を高める「組織の原型」について後で詳しく書くが、取り敢えずここでは、次のことを社長は知っておいて欲しい。

組織の原型を考えた場合、組織には、①社長の代行をする役員、②誰よりも上手にものをつくる、あるいは仕入れる部門長、③それを最も多く売る部門長、④売って得た粗利益を効率よく分配する部門長、この四人が絶対に優秀でなければならない。そして、この四人に際立った人物を充て、生涯を共にし、社員を親の愛情をもって特に面倒をみてやることが、磐石の組織を築くうえでの基本だ。どんな大企業でも、本当に動かしているのは、優秀なこの四人である。給料とか、地位とか、システムとかいった組織のハード面以外に、ソフト面での確固たる心構えが社長にとっては不可欠である。そうでないと、永続繁栄を築く良い社長にはなれない。

財務力の付け方

四つ目は、財務力、金の力である。金は、自社の信用の担い手である。資本主義の世の中では、金の力で解決できることが多い。このことが、むしろ、極端な逸脱に対する歯止めとなっている。

社会主義や共産主義では、思想や理想が全面に強く打ち出されているから、反対派がいたら、根を絶つために粛清せざるを得ない。資本主義のように金が媒介している場合、金の途を断てば人の命まで断つ必要は無い。この点を考えれば、資本主義の方に利がある。

ただし、資本主義にも欠点がある。その最たるものが、貧富の差である。個々人の間だけではなく、会社という法人の間で、しかも同業の間で相当の貧富の格差ができる。また、国の貧富の格差は、いろいろな意味で、これから確実に大問題になる。

私達は、競争が原理の資本主義を選択している。資本主義の世の中で、強い会社になることは、金の力、財務力をつけることである。

そのためには、まず第一に、経常利益を出し続けることが大切である。経常利益が出せない会社は、銀行も金を貸してくれない。銀行による格付けがCランク以下になれば、資金調達が苦しくなる。A、Bへのランクアップのためには、まず、経常利益を出すことが大事だ。

次に、経常利益をコンスタントに出せるようになったら、経常利益を恒常的に減らしていって、余った分を資産形成に回すことが必要だ。経常利益を減らすということは、資産形成分を償却資産などの経費で落とすことで、浪費することではない。

たとえば、 一億円の経常利益を出すところを、八千万円しか出さないで、二千万円を経費で落とせるものに使って、償却資産を貯める。

経常利益を出している会社に、銀行は優先的に金を貸してくれる傾向が、最近、特に強まってきたのは事実だ。それでも、昔からの習いで、資産を多く保有する会社は、それを担保に金を借りることが容易である。

いずれにしろ、自社努力で財務力をつけていくのが基本である。売上を増大し、コストを下げ、経常利益を出し続けていく。あるいは、上場して資本市場から資金を調達する方法もあるが、これには非上場でいきたい経営者もいるし、また長所短所があるので、後でもう少し詳しく書く。

技術力の付け方

五つ日は、技術力である。技術は、ライバルと戦う武器である。

技術は、製品開発と結びついていなければ意味がないし、また、その製品が用途につながらないものであれば、最終的には売れないことになる。

技術力を強くするには、三つのことが大切である。

まず第一に、欠点とか不便とか、たとえば大きすぎる、重すぎる、値段が高すぎるといったことに挑戦し続けることである。欠点を取り除き、不便を便利に変えていく技術だ。

第二に、新しい素材、性能、機能……に、挑戦し続ける。

最近、とみに新しい素材が目立つようになってきた。車庫のシャッターなども、金属でガタピシ騒音を出していたものから、新素材でスムーズに開閉できるものが現れてきた。自動車でも、あちこちの部品に強化プラスチックが用いられるようになった。窓枠も、いまだアルミサッシが主流だが、私の指導先の会社では、本を削ったものを樹脂の中に入れて木材と全く同じように見える樹脂サッシを作っている。腐ることがない。寿司屋や和風レストランなどでは、こういう窓にすべきで、アルミサッシでやっているところは、今後、リフォームするに違いない。

第二に、模倣を侮ってはいけない。

優れた技術でありながら、特許が取られていないものが多くある。自社で使える技術なら、迷わず流用すべきである。また、眠ったままの特許も相当ある。特に、大企業の場合、市場規模が百億円以下だと、その特許に着手しないものだ。超大企業ともなると、 一千億円規模の市場でも見向きもしない。これらの特許は、中堅企業にとっては打ってつけである。休眠特許については、それを紹介したり売買を斡旋する専門家がいるので、積極的に人脈を結んで欲しい。

これとは逆に、技術力の発揮を阻害する要因についても一言触れておく。

メlヵlにとって、「技術屋」の固定観念が一番恐ろしい。技術屋は、業種を問わず、どこの会社でもマーケットの変化に疎いものである。したがって、工場長や技術のリーダーには、社交的な人物を意識的に選ぶようにすべきだ。

技術屋は、もともと世の中の流れに鋭敏でなければならない。それが、何を狂ったか、社交的でないのが技術屋の専売特許のように思っている。こうした錯誤を正すためにも、ハノーバーのメッセや、ミラノの見本市、シカゴの工作機械見本市、パリ近郊ポルトデュベルサイユの住宅見本市、バーゼルの食品見本市などを見せて勉強させる必要がある。世の中の変化に疎い技術屋など、足を引っ張るだけで、何の役にも立たない。

技術屋のもう一つの欠点は、別の技術を否定する傾向が強いことだ。新しい技術を示唆すると、頭ごなしに馬鹿にする。だから、いつまで経っても、自社に新しい技術が導入されな

こういう人間に対しては、固定観念を脱ぎ捨てるように徹底的に教育する必要がある。技術屋上がりの社長も相当いるだろうが、そういう社長は自らを本当に戒めて欲しい。主義主張の激しい人の欠点は、他人の言うことを聞いたり、新しいものを見た時に、すぐにバリアを張り巡らして頭の中に何も入っていかないようにしてしまう。危険極まりない。

以上のことを留意して、新しい固有技術、新しい設備の追加を永遠にやり続けていく。技術は、積極的な戦う武器であることを決して忘れない。他社と比べられた時に、品質も、コストも、納期も戦う武器であるが、すべて技術によってつくりだされる。あたら技術の大切さを疎かにしないことだ。事業を繁栄させるには、思想と技術の両面が重要であることを肝に銘じて欲しい。

五つの戦術、販売力、企画力、組織力、財務力、技術力について、視点だけを書いてきたが、どれ一つ取っても大切なことばかりである。望むらくは、すべてと言いたいが、差し当たっては、二つか二つでもよいから、際立ってライバルよりも強くしておかなければならない。売り方がズバ抜けている、常に斬新な企画でリードしている、会社に人材があふれている、潤沢な資金でビクともしない、他社のまねのできないユニークな技術を持っている……

すべて良ければ、これに越したことはないが、少なくとも二つや二つ、戦う武器としてライバルより強いものを保有しておく。そして、五つの戦術を後の世までずっと磨かなければならないことを、後継者に教え続けて欲しい。

四、日標

繁栄目標の決め方

目標とは、思想や哲学から発した事業経営の目的を具体的な数値に置き換えたものである。売上目標とか利益目標とかが、その代表である。

目標は、単年度の目標もあれば、長期にわたる目標もあるが、できるだけ長期の目標を立てていく。多くの社長が書く経営計画書は単年度のもので、戦術レベルに終わっている。

数字には、過去の数字と未来の数字の二つがある。「いま」というのは、ほとんど過去である。税理士や公認会計士からもらう一年間の決算書、すなわち損益計算書と貸借対照表はすべて過去の数字だ。

数字に非常に弱い社長がいる。はっきり言って、数字に弱い社長は、もう少し本腰を入れて勉強しないとだめだ。

社長には、たった二つの数字しか必要ない。決算書にある貸借対照表と損益計算書の二つの数字をどのように展開していくかということだけで十分である。あとは何も必要ない。経理マンがさまざまな仕訳けをしていくような簿記の知識は、ほとんど必要ない。要所を押さえるべき社長の数字は、損益計算書と貸借対照表の二つのなかにあるだけである。そこで、貸借対照表と損益計算書を以下でごく簡単に説明しておく。

自分の会社の財産の状態が、「いま」の時点でどのようになっているかをつかむのが貸借対照表だ。売上とか利益とかの状態ではなく、財産の状態である。

分かりやすく説明すれば、たとえば結婚して一家を構え、二十年たったとする。妻がいて、子供ができて、そして土地を買った。土地が何坪あって、借金が幾らあるというような、財産の「いま」の状態をかいつまんで知るためにあるのが貸借対照表である。

貸借対照表は、左側に資産の項目がある。右側に負債の項目がある。この負債は経営的に見ると、すべて資金調達をあらわしていると思えばいい。そうすると、どのような資金調達の状態をあらわしているかということを、そこから読み取る必要がある。

以下では、わかりやすいように、代表的なものだけを説明する。

まず、負債の一番上に流動負債がある。

流動負債とは、 一年以内の資金調達をあらわしている。流動負債の中で一番代表的なものは、 一年以内の短期借入金だ。ここに数字が記載されていれば、短期借入金で資金を調達したということになる。

流動負債のすぐ下に、固定負債がある。固定負債は、 一年以上の長期借入金が中心となる。ここに数字が記載されていれば、これも長期借入金で資金を調達したということだ。

次に、本来ならば引当金等があるが、それは省略して、社長にとって必要なものだけを説明していくと、固定負債の下に資本と利益の部がある。ここに数字が記載されていれば、資本金プラス毎期毎期の利益で資金を調達したということである。右側の負債項目は、これだけである。

そして、資本の部を自己資本という。資本の部の上は短期と長期の借入金であるから、ここの数字は借金を示している。つまり、他人資本である。

自己資本と借金を合わせて、資金調達した全体を総資本という。総資本の中で自己資本がどれぐらいあるかということが、自己資本比率である。

右側の負債は資金調達をあらわしたが、左側の資産は、調達した資金の使途をあらわしている。

一番上に流動資産がある。代表的な項目は、 一年以内で流動している現金。預金である。ここに数字が記載されていれば、負債の部で調達した資金を現金。預金に回した、つまり、それらに使ったということになる。

その次に、固定資産がある。固定資産の代表的なものは、負債の部で調達した資金で買った土地や機械。設備である。ここに数字が記載されていれば、土地を買って使った、あるいは長期にわたって償却しなければならないような機械。設備を買ったということだ。

一番下に、繰延資産がある。繰延資産の代表的なものは、会社の登記とかに使った金で、これは償却できない。会社を設立したときに使った金は、登記料をはじめいろいろなものがあるが、いずれも会社が潰れない限り、そのままずっと残っていく。したがって、これはわざわざ書いて覚えなくてもいい。

将来の財産目標の立て方

それでは、決算書から財産の状態をどのように掴むか。

税理士、公認会計士から決算書を見せられて、「うちの財産はこうなってる」と、「いま」の断面を知っても何にもならない。つまり、未来の数字を自らつくっていくべきだ。たとえば、長期の住宅ローンで土地を買って、家を建てた。しばらくたって支払いがだいぶ楽になったので、また新たに長期借入金を起こして、今度はアパートを建てようとする。

「老後を考えると、固定収入があるようなマンションやアパートを建てて、悠々自適に暮らしたい。そのための現金・預金を少しずつためていこう」と、夫婦で話し合う……要するに、個人でさえも未来をしっかりと見詰めている。

いわんや、会社はなおさらのことだ。「何で、会社の未来を考えないの?」と、声を大にして言いたい。

たとえば、現金・預金が期首で一千万円あったとして、「期末には二千万円にしよう。しかも、もっと長期の固定的な預金にしよう」というように、社長自らが未来のことを明確に意図していかなければならない。

ほとんどの社長が、未来の貸借対照表を考えていない。資金調達とその資金の使途の代表的な項目をよく見て、「これは増やすべきだ」とか「これは減らすべきだ」とかいうように、一年後、二年後、三年後、五年後にはこうしておきたいという強固な意志をもたなければならない。貸借対照表は、そういう計画をするためのものだということをよく覚えておく。そして、これが「事業発展計画書」の基本となる。

利益目標o売上目標の立て方

それからもう一つ、損益計算書がある。

損益計算書は、ことし一年間、あるいは去年一年間の経常活動を見るためにある。たとえば、ことしの四月一日から来年の二月二十一日までの一年なら一年間の経常利益をどうやって出すかという活動を数字で示したものが損益計算書である。財産の状態ではない。経営者は、過去ではなくて、特に、これから先のことを考えていくべきだ。

損益計算書は、経常利益を出す活動をあらわしたものであるから、 一番上に売上がある。二番目に変動費がある。変動費は、メーカーの場合は原材料費と外注加工費で、商社とか問屋とか小売店の場合は仕入費となり、期末棚卸から期首棚卸を差し引いた数値を加減する。

その下に、粗利益がある。

そして、次に固定費がある。固定費は、地震が起こっても、台風が来ても、売上が半分になっても、払わなければならない金だ。人件費が、その代表的なものである。家賃とか光熱費とか電話料は一般の経費だが、これも必ず払わなければならない。

設備投資をして、その減価償却で費用が返ってくる……本当は返ってこないのだが、費用を期間で割り振っていくことができる。

粗利益から固定費を引いた残りを営業利益という。

営業利益の下に、営業外収支がある。これは利息、すなわち受取利息と支払利息の差額である。

そして、営業利益に営業外収支をプラス・マイナスすると、経常利益が出る。経常利益から税金を引いた残りを純利益という。純利益から配当と役員賞与とを払った残りを内部留保金という。

損益計算書は、このようになっている。

今のように変動が非常に激しい時代には、損益計算書を考えるに当たって、順番通り一番上から売上目標を決めていくことは、なるべく避けた方がいい。そういうやり方もあり、それが悪いわけではないが、会社を安定的に大きくしたいのであれば、最初に売上を入れていくよりも、むしろ下から上ヘロ標数値を入れていった方が間違いない。

どういうことかと言うと、まず、自社の固定費が今年一年で幾らかかるかを計算して欲しい。 一年分を、間違いなく出す。かなり大きな会社でも、百万円とか三百万円ぐらいの誤差で出すことができる。ところが、自社の固定費が一年間に幾らかかるか知らない社長も多数いる。百万円のずれがないぐらいに知っている社長は、ほんの一割もいない。

固定費を、まずつかんで欲しい。とにかく、 一年分の人件費を合計すれば、あらかたの必要人件費がすぐに出てくる。どこで新入社員を入れて、ボーナスをどこで何か月払って……と、具体的な数字が全部出てくる。そのほかの固定費についても同様である。

その固定費は、いかなることがあっても払わなければならない。売上が大幅に減って、粗利が半分になったから、給料は半分、ボーナスはカットなどと言っていたなら、社員はみんな辞めてしまう。したがって、何が何でも、まず固定費分だけは稼がなければならないのである。

二番目に、営業利益を稼ぐ。

借金の元金返済は、最終的に内部留保金で払う。そのためには、営業利益を絶対に出さなければならない。もちろん、経常利益も出さなければならない。ただし、借金がない会社は利息がいらないから、受取利息だけとなる。

たとえば経常利益を一億円出したとする。税金が六割で、六千万円を払った。そうすると、純利益は四千万円である。役員賞与と配当を一千万円としたなら、内部留保金は三千万円しか出ない。 一億の経常利益を出した会社で、こんなものである。もし、二億円の借金をしていて、均等に十年間にわたって毎年、元金の返済に二千万円を払わなければならない会社の場合、三千万円の内部留保金で返済金に二千万円使い、資本繰り入れは、わずか一千万円となる。経常利益で一億円は必ず出さないといけない。計算は、実に簡単だ。アッという間に計算できる。

一億円の経常利益を出した会社でも、資本への繰り入れ分をゼロとしてマックス三千万円しか借金返済できない。三千万円を払ってしまえば、現金はすでに原材料などに化けていて、一銭もない状態になってしまう。つまり、三千万円を返さなければならない会社は、経常利益で一億円必要だ。借金二億円の利息を三%とすれば、営業利益は六百万円を加算し、 一億六百万円を出さないといけない。このように、逆算していけば、すぐに計算できる。

もっと経営状態が悪い会社は、この三千万円を返すために、経常利益を二億円出さないといけないというケースもある。借金がたくさんあって、莫大な利息を払わなければならない会社である。

そうすると、自分の会社は幾らの営業利益を出さなければならないか、すぐにわかるはずだ。最低限、営業利益と固定費とを足した分の粗利益を出さないと、会社は潰れる。

この一年間、自分の会社が稼がなければならない粗利益が幾らになるか、今すぐ計算してみるべきだ。この必要粗利益を掴まないで、上からそのまま売上目標を掲げていって、結局、赤字だったということをやっていたら、会社は絶対だめになる。そんなのは、経営者の掴むべき数字ではない。いかなることがあっても、まず営業利益に固定費を足して、ことし稼がなければならない粗利益を出していくべきだ。

そして、粗利益の総額を粗利益率で割ると、最低限の必要売上が出てくる。そうして出した売上は、いかなることがあっても達成せずにはおかないという強い覚悟が必要だ。それができなければ、会社は潰れてしまう。そのように決まっている。だから、潰れないためには、最低必要売上高を何としてもクリアしていかなければならない。以上の数値目標を踏まえたうえで、自社の将来のビジョンを描いていく。

いま、かりに自分の会社の年商が五十億円だとする。それを、「五百億円までに何年でする」「五百億円にするためには、いまの事業以外に何をつけ加えていかなければならないか」……そういう目標を順次、書いていく。

「自分が先代からバトンタッチされたときは、年商四十億円だった。自分が大体六十五歳まで事業をやるとして、これから二十五年ある。そのとき、父親から引き継いだ事業を十倍にしたいが、そのためには、どういう事業や商品をつけ加えていかないといけないか。この五年で何をし、次の五年で何をし、次の五年でまた何をしていって……」というように、二十五年の計画を立てる。さらに、自分の子供、父親からいうと孫に、どこでバトンタッチをするかということも、「事業発展計画書」のなかに書いておかなければならない。このようなビジョンの描き方を、明確に教え続けていくことが大切である。

目標と実績のズレはどうするか

目標と実績のズレを、毎月、素早く捉えることが社長にとっての一番のテーマである。売上や粗利益が落ち込んで目標から乖離しているのを、三か月も四か月も放置しているようでは、社長業失格である。

日標と実績のズレをキャッチし、素早く手を打っていくには、前述の損益計算書を月々に展開し、月ごとに目標と実績の欄を設けて、その都度チェックしていくようにする。それには、まず、計画の段階で一年先までを見通して月別の日標を決め、事前に書き込んでおく。そして、月々の実績を書き込んで対照すれば、チェックが簡単である。

日標と実績のズレ、特に実績の目標割れが傾向的な場合には、放置すれば、それこそ会社の命取りとなる。たった三か月でも放置すれば、ズレを挽回することは非常に困難になる。

そこで威力を発揮するのが、 一年二百六十五日の販促カレンダーである。手帳などを拡大コピーして、 一か月を一メーターくらいの長さにとり、六か月分つなぎ合わせて壁に張っておく。六メーターくらいの販促カレンダーができあがる。なるべくなら、後半の六か月分も併せて掲示するようにしたい。これを活用して、 一年中、いかに売上。利益を伸ばしていくか、具体的な販促策を事細かに記入し、正確に手を打っていく。

たとえば、DM 一万通打つにしても、今日の明日というわけにはいかない。少なくても、三、四か月前から入念な準備にかかる必要がある。名簿をそろえ、内容物を印刷し、封筒の宛名書きをして、封入して……驚くほどの手間暇がかかる。その前に、どんな企画をDMに乗せ、どんな挨拶状やパンフレットにするかも考えなければならない。場当たりのいい加減な企画が、販促に結び付くわけがない。

つまり、五月の売上をあげようとするならば、DMの準備は二月以前にやっておかなければならないのだ。そうしないと、五月の売上には、絶対に間に合わない。それくらいの長いスパンを要することを知っておくべきだ。

DMひとつ取っても、こんな状態である。イベントを開いて、落ち込んだ売上・利益をカバーしようとするならば、相当の努力と工夫、準備期間が不可欠である。

苦し紛れに、飛び込み訪間をしてみたところで全くのムダである。受付に障害壁があって、中に入れてもらえない。個人宅でも同様である。留守が多かったり、在宅でも玄関のドアは容易に開けてくれない。

受付の壁や玄関のドアをたやすく通過するものは何か……電話やファックスやDMである。これを突破口にして、イベントを組んでいく。社長には、こういう知恵を巡らす能力が非常に大切だ。そして、それを社員にキチッと指示できなければならない。何もやらなければ、何も起こらない。売上は、下がる一方である。

即効性の高い販促の一つに、ベストセラー法がある。過去十年間の売上ベストテン商品をピックアップし、ほんの少し改良しただけでかなり売れる。そういう何らかの手を具体的に打てなければ、日標と実績のズレをただただ見逃しているに等しい。一日も早くズレを捉え、挽回の方策を講じる、これが社長の務めである。

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