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第一章 オーナー社長業の基本実務

目次

まえがき

事業は、たった一人の社長によって栄え、たった一人の社長いかんで亡びるものである。

事業を創業し、繁盛させ巨億の富を築いた社長でも、度重なる危機や変化に上手に対応し、永く幾代にもわたって、その繁栄や富を子孫に、上手に、幸福に伝えた例はそう多くはない。それはなぜか、どうしたらよいか……幾百年も続いている希少の指導会社をみていると、その秘伝が凝縮して存在している。

不況、天災、市場変貌、国際化、戦争、ライバルの台頭、制度改革、素材革命、システムの急変更など、考えられないほどの異常に耐え、良く対応してきた社長たちは、 一体どういう思想や哲学や戦略戦術を用いて凌いできたかを知っておくべきである。どれほど啓示になり、役立つか計り知れない。

今、私たちは、政治にも、経済にも旧来とは異った混乱を感じ、未曾有の不況や、変革や、統合や、新設といった、地球が一つになるための、いわばグローバリゼイションの激しい波に洗われ、 一喜一憂を余儀なくされている。しかし、これさえも先見し、上手に対応し、凌いで生き残っていかなければならない。

これからは、社長自身の考え方、処し方こそが根本の根本であり、それによって事業経営の興亡が決まる岐路に立たされていることを銘ずるべきである。

こういう激変に応じて経営を進める時に、大事なことは、視点を誤らないことである。確とした考えを持っていることである。

たとえば、 一事業を永く営むに当たって、本当の財産、後継する者に残すべき財産とは一体何だろうか、を深く考えた時に、必ず突き当たる認識の間違いがある。それは、多くの社長たちが財産だと信じて、額に汗してせっせと築いた金品や土地や建物が、実は本当の財産ではないということである。錯覚だということである。

本当の財産とは、どんな時代になっても、危機や変化を乗り切ることができる手腕を身につけさせることに他ならない。このことを間違っている人が多い。永く、幾代も続く繁栄を伝えていくためには、子孫にその秘伝を教え、手腕を磨く以外にはない。

手腕こそ本当の財産である。手腕さえ身につけば、金品も土地も建物もいつでも買うことができる。特にオーナー社長が事業の繁栄を永く幾代にもわたって続けるためには、それを継ぐ子孫の手腕を磨く修業こそ最重要な課題である。

激しくなる国際競争に耐える援助や、施策も、政治の力も、景気の浮揚策も大切ではあるが、個々の事業が生き残っていくためには、 一人一人の人間、特に、オーナー社長の考え方、処し方が卓抜でなければならない。

二十一世紀は、資本主義が成熟し、いよいよ地球が一つになる世紀である。経営に対する深い思想や哲学から、儲けるための戦略や戦術、知恵や判断力が大事である。世界の動向、成長産業の交代、商習慣の混じり合いなど、処世の大道を実学で身につけなければ役に立たない。

どんな時代でも社長自身の考え方、処し方こそが根本である。企業は、たった一人の社長によって繁栄するかわりに、たった一人の社長によって亡びることを肝に銘ずるべきである。

本著は、これからのオーナー社長の時代対応のあり方、その中での大野望の描き方、人生計画、事業繁栄の戦略、盛運、魅力と性格の有り様、親兄弟の考え方、株、資産、部下、物、金、美学の持ち様、徳、お客様、後継と選び方、師、友人、所有と経営、煩悩、家庭、結婚、健康、死生観、生き方……など、そのすべてに幾度となく直面する危機や変化を乗り越えて繁栄するための、オーナー社長としての根本的な処し方と精神デザインを書いたものである。

平成十年十二月吉日

牟田 學

遠くに、旗を立て続けること

多くの創業者は、時流に乗って事業を興す。しかし、それは事業家にとってほんのスタートにすぎないことを知っておくべきである。時流がブームを呼んで、ただ儲かるというだけで、次々にライバルが生まれ、臆面もなくそっくり類似した物やサービスが売られる。供給過剰から過当な競争が起こり、ついには、生き残って栄える企業はごく僅かだという状態になってしまう。

「糸偏」ブームが来た。カメラのブームも起こった。家電ブームも来たし、自動車のブームも来た。やがて少し豊かになると、外食やレジャーや海外旅行ブームもやって来た。市場は国内から海外へ広がり、情報は衛星を利用するようになり、交通機関は地球を狭くしてしまった。コンピュータが普及し、そのソフトは旧来のシステムを大変革させている。

こういうブームの度に、誰もが大儲けを企て、ドッと参入した。しかし、市場が飽和状態になると、大半の事業は次々に倒れていった。

事業を永く続ける哲学や思想がない事業家は、次代を担う生命の根源である商品や顧客を磨き、追加し、新しく育てることを忘れ、事業を維持できなくなる。資本主義は競争が原理で成り立っている。悪いものが浄化されるように、自由競争は自然に良いものだけを残す。

これからは、人類を幸福にするというコンセプトに価値観が絞られる時代に移っていく。こういう時代の流れは、誰も変えることができないごく自然な、そして確実な流れである。

言語も、宗教も、哲学も、文化も、スポーツも混合し、そこで生きる企業も、人も、国という垣根を越えていく時代が到来している。

先見力は、事業家にとって欠かせない大事である。特に、これからどんな産業分野が栄えるかを掴んで、事業経営の方向性を決定することに鈍い人は、リーダーとして不向きだと言わぎるを得ない。時流は、まず捉えるべき第一の旗である。

時流に乗って事業を繁栄させることは、決して難しい事ではない。時流に逆らったものの方が、かえって難しいし、儲けるのに五倍も六倍もの努力をしても大して成果が得られないのが普通である。

しかし、次の旗はもっと難しい。

時流が味方している間は、さほど卓抜の手腕がなくても、稀には大した努力をしなくても儲かることが多い。なかには、幸運にも、偶然に自分が踏み込んだ事業分野が未成熟で、たまたま需要が多かっただけで、その繁栄を自分の実力によるものだと錯覚することも起こりやすい。これが怖い。

努力をしないで儲かることが一、二年も続けば、それが当たり前になって、社長も、役員も、社員も、怠情になってしまう。儲かることは、永くは続かないのだ。新しい顧客の開拓に腐心し、新しい事業の柱を作り、商品を絶えず改良し、追加していかなければ会社はだめになってしまう。

だから、難しいのは二本目の旗、三本目の旗だと言っているのである。環境や状況が一変した時でも、 一つの事業を足掛かりに、危機や大変貌に対応し、素早く手を打って、他の不振や混乱をよそに、売上も利益も伸ばし続けていくことを目指していかなければならない。これが難しい。

ドトールコーヒーは、東京株式市場に公開している。ここの社長は、鳥羽博道氏である。鳥羽さんは、学校を出てすぐにブラジルヘ一旗揚げに渡った人である。

渡った先のブラジルのコロラドというコーヒー園で、現地人と一緒に働いた。だから、コーヒーに関しては滅法詳しい。

また、働いたコロラドというコーヒー園が厳しかった。最高の豆を育て、収穫することに命を賭けていた。コーヒーに無知だった鳥羽さんは、そのガッツにすっかり惚れ込んでしまい、さまざまな影響をここで受けている。

おいしい豆の選び方から、果ては焙煎の細かい名人芸まで詳しく学んだわけだが、第一の旗はコロラドと同じようなコーヒー園を経営することではなかった。

この品質の良いコロラドの豆をどうしても日本へもって行き、日本人においしいコーヒーを飲ませたいという夢であった。

帰国して、これ程おいしいのだから、「当然、黙っていても売れるし、客は買わせてくださいとお願いするに違いない」と思い、熱い期待を胸に、喫茶店という喫茶店を何軒も訪問してみた。

ところが、そういう自分の期待とは逆にさっぱり注文をくれない。訪問先の喫茶店には、UCC、アートコーヒー、キーコーヒーと先発の有名な業者がすべて入っていたのだ。系列化が進んでいて、後発ではもう買ってくれるところがなかったのだ。普通の場合は、ここで終わりである。

鳥羽さんは、輸入した最高の豆をどうしたら売ることができるか苦しんだ。そして、自分で喫茶店を作ることに挑戦するという考えを発見した。第二の旗を立て替えたわけである。

東京の渋谷と二軒茶屋に、十坪、二十坪、三十坪ほどの、必ずしも一流店ではない三軒の喫茶店を問もなく開業した。

この三軒のパイロットショップで、「顧客の集め方」「コーヒーのいれ方」「紅茶のいれ方」「トーストの焼き方」「サンドイッチの作り方」から「接客のありかた」「損益計算のやり方」まで、店の繁盛への手の打ち方を掴んだ。

それでも、立地が良くなかったせいもあって、 一日の売上は、 一店につき三万円だ、五万円だという程度であった。

原価計算をしてみると、これでは喫茶店のチェーンは望むべくもなかった。展開できない。売上を増加するためにはどうすればよいか、悩んだ。

その苦労があったから、今日のドトールがあるわけだが、売上増のために、様々なイベントやパッケージ商品の開発に着手してみた。

その一つが、インスタントコーヒーではなく、おいしいコロラドの豆を焙煎したレギュラーコーヒーを挽いて「缶入り」「袋詰め」にした商品を開発し、夏には「テトラ入リアイスコーヒー」を開発して、喫茶店の店頭でのテイクアウトを狙ってみた。一日の売上が三倍、三倍、四倍と増えた。

この成功を基礎に、戦略を立て直して挑戦した。喫茶店チェーン「コロラド」の展開である。家庭の主婦で自立心の強い人達を中心に、喫茶店経営者をフランチャイズ方式で募集した。

こうして、コロラドのチェーンは東京から首都圏に広がって、五百店を越えるに至ったのだ。やっと実った夢である。

事業は、成長拡大しなければ倒れてしまう。もし、縮小均衡を旨とすれば、あらゆる原価を一定にし、決して上げないという条件が必須である。人件費も、家賃も、原材料費も、 一切を上げなければ、縮小均衡も可能である。しかし、現実には、公共料金も、医療費も上昇するのであるから、売上や利益を上昇させなければ破綻してしまう。店を増やし、地域を広げ、商品を追加し、顧客を増やしていかなければ、経営維持は困難である。

コロラドは、関東一円に五百店以上を展開したが、それ以上の展開が難しいことに鳥羽さんは気づいた。旗をもっと遠くに立て直す機会の到来である。こうして生まれたのが、新しい業態である「ドトールコーヒーショップ」の展開戦略である)。

大都市の駅前には、立ち食いソバの店がある。ソバは元来が和食である。和食に食い飽きた人は、必ず洋食が欲しくなるに違いない。駅前に立ち食いソバがあって、さらに、その隣に立ち食いパンやコーヒーショップがあつた方が便利なのではないか、というのが発想である。

立ち食いソバが、通常のソバより安価なように、コーヒーを百五十円程度の安価で売ったらどうだろう、という考え方である。

パンは焼き立て、コーヒーは安価で挽き立て、というわけだ。この時の問題は、「コロラド」と一部抵触することだった。「フランチャイジーとの間で拗れた関係が生じるに違いない」と、意見を聞かれたときに話した記憶が、私にはある。

しかし、これは、別のコンセプトの店であり、コロラドのオーナーも「ドトール」に新しく参加すれば良いことでもある。

新しい店は、駅前や人通りの多い都市部でフランチャイジーが募集され、次々にオープンした。既にテストでも分かっていたことだが、立地さえ良ければ、新しい業態のドトールコーヒーショップは、 一店舗で一日五十万円とか二百万円も売るところが出てきた。

こうして、ドトールコーヒーショップに多くの大企業のフランチャイジーが加盟し、経営の基礎が強くなった。

ドトールコーヒーの株が東京の株式市場に公開された時、人気上々であったことは言うまでもない。時々感じることだが、人間は貧乏からの脱出を願い、屈辱をバネに、金持ちになりたいという欲望の実現のために事業を興す。 一つ目の旗は、こういうことが起爆剤になっているだけに、飽くまでも小さな小さな旗でしかない。すぐ手が届くだけに、目的は達しやすい。しかし、この小さな成功に安住して、次の旗が立たない事業家が多い。

欲望を野望に替え、あくなき起爆剤をつくって心を高揚させ、ついには雲をも掴むほどの遠いところに旗を立て続けることを、幾代にも亙って教えることが大事である。遠くに、旗を立て続けることを断てば、事業は自分の代で終わりである。

長い繁栄を狙う「五本の柱」を築くこと

救い難い会社というのがある。なかでも、稼ぐ柱が一つしかなくて危険に陥っている会社がそうである。得意先が一社しかない、単一商品、 一店舗、 一つの技術……こういう会社が結構多い。社長が事業をロングランに考えていない証拠であり、危機に対策がとれない会社になってしまう。

事業は、収益源となる柱が多いほど安定性が高い。まず、 一本の柱からスタートし、二本、三本……と、五本以上の柱の構築を目指すべきである。 一本しか柱がない場合に、もし、三〇%以上の売上減少を来したら、経験的に言って、助けることに大苦労を強いられたり、ほとんど助けることができない状態になってしまう。

大半の会社は、粗利益の範囲が二〇%を内外しているからである。だから、マイナスの範囲が二〇%以内であれば、自信をもって助けることができる。三〇%が、生死を決定する経験値なのだ。

もし、柱が一本しかなければ、そのマイナス三〇%の売上減少は致命傷である。しかし、二本の柱があれば、 一本の柱のマイナス二〇%は、全体のマイナス一五%でしかない。それぞれの柱が同じ程度のボリュームだとしたらであるが……。優秀な会社は、幾つもの柱を持っている。

リョービは、浦上浩氏が経営している。この会社は、ダイカストという自動車エンジンの受注生産が一つ目の柱であった。

受注は、数量と単価の決定権を発注側が持っている。つまり、いつでも売上高は数量と単価の積であるから、発注側に成長性から、収益性まで握られていることになる。儲からない会社に陥ってしまうことを懸念した浦上社長と先代は、幾つもの完成品を製造販売する経営を指向した。柱の開発に意を注いだわけだ。

私は印刷会社のオーナー経営者をやっていて詳しいのだが、リョービはアメリカの小型印刷機メlヵlであるマルチプライの約半額で高性能の小型印刷機を開発している。自社開発の商品であるから、日本の約二万一千社の印刷会社に自社で決定した値段で商品を販売している。私の会社でも小型の両面印刷機が七台入っているが、評判はすこぶる良い。今や、小型印刷機分野のトップとなっている。

昨今、釣リブームであるが、リョービは、印刷機メーカーとしてょりも、はるかに釣り具メーカーとして有名である。全国の釣り具の販売店に来る顧客にリョービのファンは多い。また、電動工具メーカーとしてのリョービを、建築関連の職人で知らない人はいない。電動工具分野から生まれたのが建築用品であるが、ここにも進出している。

私は、時々、このリョービの浦上社長とゴルフをするが、ロングヒッターである。それは、自社にゴルフ道具の部門があるからだ。東京企業情報管理協同組合の代表理事をしている友人の眩ヶ山さんがデパートのスポーツ用品のコーナーでリョービの短尺のクラブを見つけてこっそり贈ってくれたが、なかなか手触りが良い。

このように、柱が多く、また、それぞれの柱の展開を海外で積極的に進めている。一つに偏重することは、危ない会社をつくる典型である。旭化成は宮崎輝氏の社長時代から多角的な柱の構築をしてきた会社で、三百三十もの分野を持っている。多少の不況には耐えられる態勢である。鐘紡も、紡績以外にカネボウ化粧品や、ハリスをM&Aしてカネボウ食品を築き、機械や住宅まで柱を作って久しい。

大きくても、小さくても、業種や業態が異なっていても、事業家は新しい柱の構築を怠ってはいけない。

ホリプロは、芸能プロダクションとしてはじめて東京証券取引所に店頭公開した会社である。公開する何年も前に、社長(当時)の堀威夫さんは、和田アキコをはじめ、どんなメインタレントでも、 一人の全体に占める売上比率は二五%以上にしないと言っていた。つまり、柱が少ないと危機に耐えられないことを、賭け事のような芸能業界で既に知っていたのだ。事業を長く続けていくためには、事業も、商品も、得意先も、マーケットも、店舗も、工場も、 一つから、二つ、三つと増やし、五つ以上の収益の柱を築いていくことを勧めてやまない。

そうすることが危機へのヘッジであり、永く続けていくための急所なのだ。企業は、急激な根本の変化に追随できない。原材料の変化、システムの変革、法律の改正、マーケットの変貌、敵の急登場、地震をはじめ天変地異、方法の変化など、根本の変化に対応するためには、長期の視点で考えると、五つの柱を築く以外にない。

つまり、 一つが三〇%のマイナスになっても、全体が五つあれば全く問題ないし、もし、五つのうち一つが完全にゼロになっても、全体では二〇%のマイナスでしかない。そういう要素を作ることだ。

実学・実務を身につけること

経営学は、実学でなければ役に立たない。現実の経営で類型的な事象が幾度となく起こって、はじめて学問体系を成すのが経営学である。

しかし、その現実の経営では、独自性や差別化で競っていくことが戦略戦術の大課題となっているから、次々に新しい独自性が誕生し、学問体系になったときには、既に遅れていることになる。変化の激しい環境のなかで求められるのは、 一種の臨機応変の学問であるから、実務対応学、実学こそ価値がある。したがって、新しい環境に対応した実務の事例、事業家の伝記、現役の経営者の言動のなかにこそ、学んで身につくことが多い。

もちろん、会計や法律といった定まった経営学も存在しているわけだが、定まっていることは机上でも分かる。それらは、行動の規範ではなく、違反の規範であったりするが、経営学の一部分だということも忘れてはならない。これまで多くの後継者に出会ってきた。

頭脳明晰で、ハンサムで、オシャレで、学歴も高く、時には女性にもてるような若者が多かった。

学問の場も多いし、交際の機会も多かったに違いない。日本が平和で幸福な時代を謳歌している証しである。私は、この若者達に大いに期待している一人である。

しかし、今、私が付き合っている友人で一番多いのは、この若者達の親である。息子達とは大いに異なった感覚で、親達とは付き合っている。特に、社長達と付き合う機会が多いわけだが、頭が良いとは限っていない。価値観も息子達と異なっている。

子は英語の単語を知っていても、親は単語を知らないし、そんなことを大事なことだとは思ってもいない節がある。親は、英語というと、まず喋ることにしか価値観を置いていない。

日本語でも、漢字の一つや二つ知らなくても恥ずかしいとも思わないし、生きて行けるからと言う。漢字よりも、文章がうまく書けるとか、演説が上手だということに価値を見いだしている。だから、そういう私の友人に別の友人が学歴を尋ねた時に、「あなたは、いつまでも

家庭の主婦と同じようなことを言うんだね。未だオタマジャクシで、蛙になっていない」と、酷評したのを聞いたことがある。そして、この親達は、こと金儲けに関しては滅法強い。儲けの感覚では、息子とは比べようもないほど優れている。

規制緩和が新しい事業を産むと言う人もいるが、規制緩和が古い事業を殺すという方がはるかに多い。これまで、企業の数が少なかった分野だけは新しい事業が産まれるという意味である。細川護熙元総理は事業家ではないから、批判をしても始まらないが、少し痛みを伴うという表現を使って、これを進めた。そのために、他の政治家も、役人も、経営者ですら、何でもかんでも規制緩和を叫んだ。実務や実態があまり分からない人達まで、「少しは痛みを伴いますよ」と言った。こんなことは、無責任で下手な評論でしかない。

日本人は、今から数年前まで海外旅行のお土産に免税品であったブランディーやウイスキーを三本ほど持って帰ったものである。重いのにである。そういう時代だった。だから、サッチャー元英国首相のプレッシャーに、頃合いだと中曽根康弘元総理は思ったに違いない。しかし、頃合いだったそのことで死んだ会社は数知れない。

もともと、アルコールは専売品で、販売は大蔵省の免許事業であった。人口が密集した都市部では、五百メーター間隔に酒屋と称する小売店が免許をもらって営業をやっていた。田舎では、千二百メーターに一軒である。アルコールが自由に輸入されるようになっても、この小売網はそのままである。

ところが、ここへ来て、酒屋を営んでいる親の店を継がないという息子が大勢出てきた。3Kは嫌だという風潮で、重たいとか、格好悪いとか、犬に吠えられるとか、御用聞きはしたくないとか……というわけだ。

先進的で、戦略的な事業家は、こういう店の免許が欲しかった。親は、息子が継がないのであるから、誘われるまま、店ごと委託経営に任せることにした。委託を受けた戦略的事業家は、すぐに駐車場を大きく設け、商社を通じてヨーロッパや、アメリカや、その他の世界中から酒類を輸入した。酒類のディスカウンターと称される店は、こうして日本全国に広がった。

元来、五百メーター間隔というのは、顧客が歩いて店へ来たり、御用聞きに客のところヘ店の者が行ったりできる商圏である。すごく古い。机の上で書いたテリトリーで、車時代に合わない。そもそも、お客様は明確な約束事があって、特定の店にしか行かないということではないから、五百メーターを越えて酒を買いに行っても誰にも文句は言われない。勝手である。安価で、酒類が世界中から豊富に集められ、広くチラシが配布され、宣伝されたら、少々遠いところでも行く。自由なのだ。

酒のディスカウンターが、半径十キロメーターもの商圏を形成していることさえ珍しいことではない。

こうなると、その半径十キロメーターの内側に位置している酒屋という酒屋の経営が困難になる。当たり前のことだ。最近では、この半径十キロメーターが、ディスカウンターの乱立で、都市部では既に五キロメーター、三キロメーターと短くなってきている。お役所は、実情の変化に対応しなければならない。

胸に手を当てて考えて欲しい。今では、海外旅行をして三本の酒を持って帰ること自体おかしい世の中になってしまったが、それと同時に、多くの酒屋が犠牲になったことを知っておくべきだ。

規制一つでも緩和すればどうなるか、ガイドラインを明確に教えるべきである。信じて、経営してきた人達を裏切ってはならない。

「爾の俸、爾の禄は、民の膏、民の脂なり。下民を虐げるは易し。しかれども、上天を欺くは難し」(第五代二本松城主・丹羽高寛の言葉)……である。

こうなると、経営者は、自分自身で種々に生き残り策を考慮し、手を打っていくべきである。事業の方向性も、方法論も、外部が考えてくれたり、また、部下が決定してくれたりはしない。メーカーでも、小売店でも、すべて社長が決めなければ、永い繁栄を勝ち取ることはできない。

アルコールが自由化された時に、 一番危機意識をもっていたのは洋酒のメーカーである。ニッカウヰスキーも、サントリーも、その他の洋酒メーカーも、自分達が命を賭して作ってきた日本製の洋酒が本場物の洋酒に顧客を奪われてしまうからだ。

これまでは、価格差があった。関税で保護されていたわけだ。しかし、規制緩和とともに、これからは、安くなった本場物の洋酒と戦っていかなければならない。まず、ニッカは株式をアサヒビールに売って危機を回避した。名を残しただけだ。

サントリーは、独自の路線を開拓する戦略をとった。これまでの酒屋中心の販売ネット以外に、自動販売機のネット、コンビニエンスストアのネット、量販店のネットなどを加え、そこにさまざまな商品を流す戦略である。

また、メーカー機能以外に商社間屋機能、小売機能をもつことである。国内から海外へ市場を広げた。

商社機能では、ヨーロッパ、アメリカをはじめ世界の有名な酒の産地から、ワイン、ウイスキー、ブランディーなどを集め、小売網へ流す。小売機能では、自動販売機を設置し、拡販する。

こうして、商品も、今では新しいブランドのウイスキーや食品類を開発している。鳥龍茶、緑茶、ジュース類、紅茶、清涼飲料、水……と数多く、これらのほとんどが、新しく加えた酒店以外の販売ネットにも流された。缶入りが開発され、ベンディングマシンも、自社用が二十万台を越え、他社と相乗りするマシンを合計すると、コカ・コーラを凌ぐ数に達するほど巨大になっている。

さらに、同じ商品がペットボトルになり、コンビニエンスストア、スーパーストア、食品店で売られているが、これらも酒類だけでは開拓できなかった新しい販売ネットである。ニッカも、サントリーも、日本を代表する洋酒のメーカーであるが、環境の急変に対する処置は、事業の戦略から商品開発、販売ネットに至るまで、全く異なっている。

サントリーは、酒類でも成功しているが、酒類に片寄っていた頃よりもはるかに体質強化に成功している。会長職の佐治敬三氏も社長の鳥居信一郎氏も後継の経営者であるが、戦略は実に創業者的である。実務に強い。

ある二代目の結婚式で、佐治敬三氏の「ローハイド」という歌を聞いた。とても上手だった。佐治さんは、古代南九州に住んでいた日本人の種族「熊襲」が東北人の祖先であるがごとき教養のないことを言ったと、だいぶ輩盛を買ったことがある。もともと、この人は性格が極めて綿落で、愛すべき人である。「熊襲がどこの祖先であってもよいではないか、そんな知識などどうでもよい」と、思わせるタイプの人だ。経営は、大変化の時に実力が出る。

社長が決断しなくてはならないからだ。下手をすれば、そこで会社がだめになるという程の大決断を迫られる時が、 一生に二、三度は来るものである。その時、何をどうすべきか、実務が分かっていないと失敗する。実学、実務をきちっと身につけるべき所以である。

独立不覇の精神を持ち続けること

事業の独立に際し、家賃がかからないようにと、自宅を事務所や工場にし、労働力も他人を雇うよりも安くあがるというので親兄弟を頼み、万事に節約をもって事を運ぶ人が多い。そうなると、確かに安く作ることも、安く売ることも可能であるが、そんなことで、本当に良い会社は築けない。立派な会社を創りたいなら、 一年以上そんなことを続けてはならない。一時のことにすべきである。

だいたい、安い値段の商品しか買わない顧客で固めてしまえば、値上げは不可能になり、いつまでも自宅で親兄弟と経営を行わぎるを得なくなる。家業ならともかく、本当の意味で、独立した会社を創業することはできなくなるからだ。甘えて事業をやるのは、 一年が制限時間である。

事業は、独立して採算に乗ることが、最初の大事な課題である。乗らないものは生きていけない。世間水準の家賃を払い、社員を雇用して世間水準以上の給料を払い、それで採算に乗らない会社は存続できない。いわば、 一個の生命体として力強く存続できるように努力することがスタートの大事な視点である。

「他に依頼する心は、家産を滅ぼす心である」と言うが、依頼心こそ事業家にとって最も不必要な心である。

依頼心が強く、いつまでも親の力や兄弟の力を借り、時には親会社の力を借りていたら独立はできない。そんな関係を長い問続けた結果、資本が親会社に移ってしまい、会社が大きくなるにつれて支配権を失う例を数多く見てきた。残念の極みである。また、親兄弟の力を借りて自立しているように見えた会社が、親を失い、兄や弟の力を借りられないようになって、急に挫折することも多い。

最終的には、持つべきも頼るべきも自分自身の頭と手足であることを寸亀も忘れてはならない。独立不覇の精神が分からない人は、成功するものも成功できなくなる。

私は、若いころに雇われ社長を数社でやったが、依頼を受けた中身は、オーナーの人柄や度量によって、差がだいぶあった。

今、思うと、日本では資本主義の歴史も浅く、欧米に比べ、経験も乏しいというのが実感であった。

社長が病気したというので急に頼まれたり、業績が悪化したので再建のために入ったり、子会社を作ったり、上場を手伝ったり……ということで雇われ社長になった。しかし、なかには、金も無い、人もいないのに、二つ目の会社を作って支配したいからというので、新しい会社を立ち上げるように依頼されたこともあった。不愉快であった。

欧米では、資本主義の歴史が長い。その分、様々な進んだ思想、工夫、システムが存在している。その一つが、会社を所有することと経営することの分離である。つまり、会社の株主であるオーナーが何の不自然さもなく、経営者というプロの専門職に経営を委ねることが少なくない。プロ野球やプロサッカーのように、である。日本の会社では、オーナー即経営者であり、未上場会社では、これが常識である。日本と欧米では、この点でだいぶ差がある。

今のところ、日本では会社の売買も少なく、株を上場しておきながら、株の買い占めは乗っ取りだと思われたりするほど、オーナーや会社に対する社員の忠誠心は強いし、オーナー社長の社員に対する依頼心も強い。しかし、これからは、欧米の考え方との差が急激に埋まってくる時代にさしかかっていることを忘れてはならない。いつまでも、依頼心だけでは安住できないのだ。

私が雇われ社長を辞めたのは、こういう日本のオーナー即経営者という、いわば、遅れた考え方のせいでもある。努力が報いられない。オーナーの理解度も低かったからだ。私の場合は幸運にも、こういう悶々とした二十四歳の時に、大谷米太郎さんに出会った。

「君は、自分の思う通りの会社を作りなさい。そのためには、まず、『種銭』を蓄えなさい」と、幾度もアドバイスをしてくれた。大谷さんは、「資本金」とも「資本」とも言わなかった。大谷重工の社長室であった。

大谷米太郎さんは、富山県の出身の事業家で、関取から身を起こした苦労人であった。腰を悪くして相撲を諦め、身体を利して馬車引きにでもなろうとしたが金がない。そこで、リヤカーを買って自らが馬になって荷物を運んだことを話してくれた人である。坂の多い東京では、苦労も尋常一様ではなかったと思う。「種銭」はそういう話の中から出てきた大事なアドバイスであった。

やがて、大谷米太郎さんは、大谷重工を創り、星製薬、星薬科大学を創った。

私も、二十五歳で日本経営合理化協会を設立した。初代会長を引き受けてくれた船田中先生に、「自分が元気な時に財団法人か社団法人にしてはどうか」と、幾度も勧められた。私は、苦労は多いが、政府の援助は受けないことにした。経営コンサルタント機関として諸々の会社の再建を行うに当たって、役所の力は余りにも無力なことが分かっていたので、 一時の安泰を望むよりは、 一生懸命、自分達だけでお客様に尽くすことにした。事実、商品開発でも、販売促進でも、資金調達でも、天下って来た人には、現場は余りにも苛酷で難しかった。お客様に頭を下げること一つをとっても、役所の経験がマイナスに働くことが多い。

はじめは、信用も、金も、顧客もなかった私達が、信じて尽くし、勉強した結果、二十五年間生き続け、今では年間十一万を超える会社が、私達の団体の活動を利用されるようになった。慢心をしない。いかなることがあっても、お客様の会社が良くなること、そこに働く方々が豊かに幸福になるように信じて励むことを最優先にしている。余談だが、大谷米太郎さんとは、その後、幾度も会った。ある時、白い大きな建物の模型を見させてもらったことがある。「これは何ですか」と尋ねると、

「ホテルですよ。これから東京オリンピックが開催されるが、東京にはホテルが少ない。不足しているので、紀尾井町の屋敷をホテルにしてくれと頼まれている。これは、その模型だ」と言うのである。

少し経営のことが分かるようになった私は、大先輩のことが心配になって、「ずいぶん金もかかるでしょう」「オリンピックの後はお客さんが減るでしょう」と、僣越にも聞いた。その時、大谷さんが言った言葉を今でも忘れない。

「もう後へは戻れない。やると決めたからには、五割の成算があればやる。後の五割は、何が何でもやり抜く」という覚悟であった。

結果は、オリンピック後の昭和四十年不況が因となって、大谷さんはグループの核であった大谷重工を失い、星製薬を失ってしまった。現在の五反田にある卸売センターは、星製薬。星薬科大学の跡地である。しばらくして、私は、日本経営合理化協会で開催する大きなセミナーを、恩返しの万分の一のつもりで、ホテルニューオータニで開催し続けたことがある。やがて、ホテルニューオータニの社長を退かぎるを得なくなった大谷米太郎さんの後に、ソ連の大使をやった門脇季光氏が就任した。大谷さんは相談役であったが、門脇さんは偉かった。門脇さんは長く社長を務めたが、退任する時に、大谷米太郎さんの息子である大谷米一氏に社長の座をバトンタッチしてくれたのだ。

しかし、大谷米太郎さんは、その時既に亡くなっていたので、息子の就任は知る由もない。門脇さんは、本当に偉かったと思う。

ともかく、他に頼って成功する例は実に少ない。所有と経営が分離していない日本では、殊の外むずかしい。信じられる人を得たら、良く用い、報い、互いに人生を尊重し合い、腹を割って話し合うことが幸福を築く急所である。どちらか片方が損をする関係にならないことだ。

幾代も事業を続けていくためには、他人の登用は避けられない。特に、今後の世界の趨勢を考えた時に、システムや習慣や風土が変わることが予測される。これが片方の真実である。

もう一方の真実は、自分の子孫に独立不覇の精神を叩き込むことだ。この精神を幾代にもわたって伝えていくことこそ、いかなる時代でも生き残っていける事業家の思想である。

質素倹約を旨とすべきこと

事業は幾代にもわたって、人の協力を得ることについても、商品の良悪についても、お得意様での人気についても、後継者の人となりについても、厳しく考え続けなければ真の繁栄は築けない。

事業を取り巻く環境がいつでも順調で、自分の会社にとって良い時期ばかりが続くとは決まっていないからだ。むしろ、悪い方が多いと考えることが真ち当かもしれない。

売上や利益が、現業そのままで幾十年も順調に伸びることなど決してない。借金に対する金利一つ取っても、今が低金利だといっても、十年単位で考えれば、平均的には七%だという厳しい考え方で計算してもらうことにしている。

低金利が続くのは、不況という異常事態が長く続いて起こったからであり、高金利が続く事態は、好況が過熱しそうな時に採る金融政策である。

金利一つとっても、このように上下の波動が激しい。会社の売上も利益も、黙っていたら上下波動があって当たり前である。だから、 一時の儲けに騎奢になってしまえば、永く繁栄を維持することは困難である。

「黄金種なし、独り勤倹の下に生ず」と言うが、いかに学識に富み、才知に長じ、万事に抜け目なく、良く金儲けを知っていても、こと質素や倹約という美徳が分からず、奢修に流れる社長が多い。特に、俄に金儲けをして使い道が分からないのではないかと思うことさえある。これでは、永く続く訳がない。

質素倹約は、致富秘訣中の大秘訣である。会社と一家を挙げて行うべき重要事として掲げておきたい。

私は、職業柄、社長の自宅へ招かれることも多い。特に、私自身が絵を描くせいもあって、家そのものも、照明器具や椅子やテーブルや装飾品や壁紙にいたるまで、色や形や素材が気になる。敏感に反応する。家は、新しくても古くても良いものは良いし、大きくても小さくても素晴らしいものは素晴らしいという主義である。掛けてある一枚の絵を見ても、そこに住んでいる人の個性が滲んでいると思えてならない。

時々、万事に派手な社長の家へ行く。残念だが、概して、そういう家庭では子供までもが、親の影響を受けて派手好みになってしまっている。こんなことを書くと、余計なお世話だと文句を言う人もいるかもしれない。しかし、忙しすぎて家庭で子供の相手をする時間を持てない方々のために申し上げておきたい気持ちで一杯である。

子供は、注意して育てることが大事である。親が派手で、子供が地味だという例はごく稀である。長じて、親と同じようになる。質素倹約の美徳を教えることは実にむずかしい。

戦後三代日、四代目を迎え、「親苦労し、子楽をし、孫乞食する」という諺が当てはまる例も多いし、そうならないことを願う心で一杯である。家屋、衣類、食にいたるまで、騎風に化して永く続いた例はないのだ。

今日、外観ばかりを飾り、内事を顧みない、自然に、遊惰となって、時間を浪費し、職に身を入れない、儲かればたちまち乱費をする社長にも大勢出会ってきた。決して倹約の美徳を忘れてはならない。晩年を寂しく送ることがないための戒めとすべきである。

私共の協会で出版した『二宮翁夜話』の述者。二宮尊徳も、上杉鷹山も、木綿服以外は長い問用いなかったが、藩の再建を成し遂げている。

石川島播磨重工の社長から、東芝の再建社長となり、経団連の会長をやった土光敏夫氏も質素倹約を旨とし、粗食で有名であった。玄米で、おかずもメザシぐらいで、菜食が中心であった。こういうことは、洋の東西を問わない。

米沢藩の再建を行った上杉鷹山は、養子の城主であったが、周りの贅沢を戒めて、自ら倹約に励んだ。この上杉鷹山をアメリカの大統領ジョン・F 。ケネディが尊敬し、褒めていたことは有名な事実で、ケネディの口から上杉鷹山の名前が出てきた時は、外国人はおろか日本人の記者までも、その名を知らなくて慌てたと聞く。しかし、贅沢も経験すべき大事である。

贅沢は、経験しないと分からない。最初から否定すべきではないし、良さも一杯ある。多くの社長たちの子息にも会うが、概して、彼らは人見知りをしない。

幼児の昔から、親の友人や社会的地位の高い人達に囲まれて育った子も多い。さまざまな種類の人に会った長所がある。こういう体験は、なかなか得難い。

普通では考えられない地位の人とも、平気で話ができる。もちろん、持って生まれた素地もあるが、物の考え方や見方に、まるで親からの遺伝のようなものを感じることもある。これは、そういう家庭に育った後天的なものではあるが、良さがある。

幼児期に贅沢の経験があれば、たとえ戦争で父を失って貧乏のドン底に落ちても、もう一度、贅沢をしたいという旗を立てて頑張ることもできる。

坪内寿夫さんが言っていたが、長い問苦労をさせた妻に贅沢の経験をさせてやろうと思い、好きなものを買ってやると言った。奥様は、食べ物も、着物も、宝石類も、次々に買った。

おしまいには、もう買いたい物がなくなって、宝石にいたっては、「一か月前に買ったダイヤの指輪をどこかに忘れた」とか、「ネックレスはきっと台所にあるんじゃないかしら」と、粗末に扱うようになってしまい、ついには、贅沢に厭きてしまった。「贅沢は、大したことではない。止めた」と言っていた。

行くところまで行けば、良心が正常な人は、贅沢を止めて、倹約の美徳に戻るものであろヽつ。

人間は、不思議なもので、無いものをねだる心を持っている。自分を律することなどなかなかできない。だから、贅沢は美徳ではないが、やってみることだ。

私の妻は、とても人に会うのが嫌いであった。「嫌いなことを無理してやることはないよ」と、私が言ったので、好きな人にだけ会い、好きなパーティーや会合にだけ出席した。そのうち、最初は嫌いだと言っていた人とも会合でバッタリ会ったりして、誘われて、ごく稀には、嫌いな会合にも顔を出した。

それでも、嫌いな会合にはなかなか出なかった。

ある時、二人で一緒に出ることになっていたパーティーに、私だけが突然の用件ができて、遅れて出席することになってしまった。少し心配はしていたが、約束より三十分も遅れた。行ってみて驚いたことに、妻は、椅子に座って、当時、衆議院議長をしていた福田一氏と笑いこけて話し込んでいた。あの取っ付きにくい福田一氏とである。

「人間、みんな同じね」というのが、その時の妻の言葉である。それ以来、私は、様々な会合に連れて行くようになったが、自信を得たのか、どこへでも平気で出掛けるようになった。私の代役としても……である。これは、明らかに後天的な訓練の賜物である。贅沢は、物品だけではない。人に会う贅沢ほど良いものはない。人を育てる力になる。

集中した強い目的意識を持つこと

およそ十年ほど前に、富士の「やぶ北茶」を売っている駿河園という会社の一杉紹至社長が尋ねてきた。

BE研究所の行徳哲男氏の紹介で、赤字に陥った会社を再建してくれというのである。

経営をみて、驚いた。小さな会社で、年商は僅か七千万円で、年商の七倍もの借金を抱えて喘いでいた。借金は、年商の三分の一を超えてはならない。それが借金のメドである。三分の一を超えると、途端に資金繰りが困難になるのである。

年商の七倍もの借金があるというのは、それだけで異常な会社である。これでは、年商の全額をそっくり借金の返済に当てても、七年もかかるわけである。経費を一銭も使わず、借金の返済に七年もかかるような会社は、とうに倒産していて何の不思議もない。どうしてこんなに赤字を重ね、借金を作ったか、当然のことながら糾してみた。事情はすぐに分かった。

つまり、化粧品の会社、レストラン、不動産会社など、新しくやった事業がことごとくうまくいかず、整理してみたら、後に残ったのは借金の山と、先祖代々続いたお茶の小売店が二軒だけだったというわけだ。

借金は、決算書にゼロを一つ二つ余計につけて、銀行に持っていったら貸してくれたという。借金の名人である。

後に残ったお茶の小売店は、東京の新宿と池袋にあるデパートのコーナーに二軒だけだった。この二店で、月に六百万円前後、年間七千万円の売上にすぎなかった。

商品も、販売の状況も、残金がいくら使えるかも、社員の質も見たが、何よりも、社長本人にやる気があるかどうかを見たいと思った。

そこで、まず、商品のお茶を持ってきてもらうことにしたが、噛んでみたり、飲んでみたりしたが、これが旨くない。焙煎が下手なのだ。食べ物や飲み物は、おいしいことが一番大事である。たまには、健康に良いとか、独特の味が贔員を作ることもある。まず、おいしくないと二度と買われないのであるから、幾度も、焙煎をやり直してもらうことになった。

温度を変え、乾燥状況をみて、茶の葉の巻き加減を試した。香りの高い日本茶が出来上がったのは、十回ほどもやり直してからである。とうとう出来上がった。やれば出来るのである。

こうして作ったお茶を、美しい茶筒に入れて売りたいと願い、筒を見せてもらったが、その肝心の茶筒に今度はガッカリしてしまった。茶筒は、自っぽいアルミ色をしていた。いかにも安っぽい。とてもおいしいお茶が入っているとは感じられない。しかも、筒に巻いてある紙までが自ちぼくて安く見える。急いで作り替えなければならない。

私の友人に伊藤隆雄さんというデザイナーがいて、時々、商品開発や社名・店名の決定を手伝ってもらったりしていた。 一緒にやった仕事も多かった。すぐに、この友人を呼んで、作り替えることにした。

まず、茶筒は、漆の黒色をイメージして高級感を出してもらうように頼んだ。筒の胴巻きも気に入らないので、何か良い案がないか、みんなで探すことにした。その時、伊藤さんが、広重の版画で「富士山の麓で茶摘みをしている光景」を、長野の人が持っているはずだという。本当に、富士のやぶ北茶にとって信じられないほどピッタリの絵がこの世にあったわけであるが、この絵を人を頼って探し出し、やっとの思いで許可をいただいた。少し薄クリームの和紙に、この絵を印刷してもらった時に、「これで、この商品は成功する」と感じたほどである。

しかし、この一本だけのデザインでは、複数の筒を並べた時にくどいと思い、もう一本別のデザインを作っておきたいと願っていたら、芭蕉に、「駿河路や花橘と茶の香り」という句があることを知った。 一日でこの句に惚れ、書家に書いてもらい、和紙に斜めに印刷をし、茶筒に巻いた。中身のお茶の旨さも、筒もよく出来上がった。

お茶を三本セットにする時には、広重の絵を真ん中に、両サイドに「駿河路や……」を入れることにし、二本の場合には、それぞれ一本ずつ、 一本の場合には、「広重」を買っていただくことにした。

商品作りは、ざっとこんな按配で、苦労はしたが、考えられないほど短期の二週間ほどで完成した。すべてを並行してやったからである。商品の出来には、私も、伊藤さんも、 一杉社長も満足していた。自信があった。次は、売ることである。

どんな良いものでも、売らなければ会社の維持はできない。 一杉社長に客層を尋ねているぶしゅうぎ時に、関東では不祝儀の引き物にお茶が使われることが分かった。これは、私にとってすごい好情報であった。電流に打たれたように閃きが走った。

そこで、すぐに、私は知人のサンライフの竹内恵司社長に電話で尋ねることにした。今、このサンライフは上場しているが、その頃は未上場の優秀な会社だった。主に冠婚葬祭が業務の内容だった。竹内社長は、人柄も尊敬できるし、何よりも男前が良かった。電話で、「竹内さん、不祝儀に毎月どの程度の引き物を使っているの」と、まず尋ねてみた。

「毎月、五千万円は引き物を買うよ」という返事があった。私は、胸を躍らせて、それを聞いていた。

「ここに、とてもおいしいお茶があって、見栄えもいいのですが、これを少し使ってもらうわけにはいきませんか」と言って、事情を説明してお願いをした。

そしたら、ほとんど間髪を入れず、竹内さんは、「じゃあ、牟田さん、すぐその人を、商品を持たせて寄越してください。良ければ、毎月、使う量の半分は買いましょう」と言ってくれたのだ。嬉しかった。涙が、思わずこぼれ落ちた。

半分と言えば、二千五百万円である。年間二億円である。本当に感謝の気持ちで一杯であった。

ところが、その日、私は、この嬉しいニュースを駿河園の社長に急いで伝えようと思ったが、肝心の一杉社長がいないのだ。

捜しに捜して、駿河園の社員の口をやっと割らせて聞いてみたら、ゴルフに興じているというのだから、腹が立った。また、「電話一本で、二億円もの年商が決まることなど、全く信じられない」というので、生返事をしていた。

やっと連絡をとったら、こんな調子であったから、すごく怒鳴った記憶がある。それ以降、この一杉社長には、ゴルフも、赤坂村や銀座村で飲むことも禁止することにした。もし禁を破ったら、本気でそれっきり指導しないことにしようと思った。

封印である。私は、自分の著書を、その時、 一杉社長にプレゼントしたが、その表紙の裏の見返しに、約束事を戒めに書いて渡した。社長本人がその気にならなければ、周りがどんなに言っても、動いても経営はうまくいかない。経営も社長業も、そんな生易しいものではないから、灸を据えたわけである。

やがて、 一杉さんは、竹内社長の好意を全面に受けて、月に二千五百万円のお茶を買ってもらえるようになった。勇躍して、報告があったことは言うまでもない。それでも、まだ、

むち

この竹内社長への恩を思う時に、人間としての情や義理が分かっていないと、愛の鞭を振るわずにはいられない。

一杉さんが竹内社長のサンライフから帰って来た直後に、葬儀店には、お茶の需要があることを強く説いて、調べてもらうことにした。

その時点で、東京に約六百軒、神奈川と埼玉と千葉に約六百軒、合計一千二百軒もの葬儀店が存在することが分かった。竹内社長のサンライフは最大手であった。それから一年間、 一杉社長は、竹内社長の紹介もいただき、また、教えてもらいながら、一生懸命に頑張った。

おかしい話であるが、結婚式は二人が一つの宴を開くわけであるから、年間、日本中で六十万人が結婚しても、披露宴は三十万組程度にしかならない。それに対して、葬儀は、必ず、一人が一人で死ぬわけで、しかも結婚式と異なって、 一人ずう式をあげるのであるから、成長性が高い。来る日も来る日も、葬儀店へ営業をかけ、他に意識を向けず、ひたすら業に徹し励んだ。

一年経って、売上は飛躍的に伸び、二十億円を超えた。それから八年が経ちた。

ある朝、行き掛かり上、私が会長を引き受けている「無学会」という社長ばかりの愉快なゴルフ会に行った。

そこに、封印が解けた一杉社長が入会したいと来ていた。きっと仲間が誘ったんだと思う。新入会員としての自己紹介があって、すごく嬉しかったことがある。それは、 一杉社長の挨拶である。

「私は、今から、八年ほど前に、牟田さんの門を叩きました。その頃は、会社の規模も零細で、大赤字で、絶望しながら毎日生きていました。もう、ヤケになって遊んでいて、自分には社長業は無理だとさえ思っていました。

その時、牟田さんに『社長業』という本をもらいましたが、何と、表紙を開いた見返しにサインがしてあって、『百億を目指せ』と書いてありました。こんなことはウソだと、そう思いました。また、もう一冊の『社長業のすすめ方』という本には、『たった三年間、寝食を忘れて業に徹すれば、生涯の富も、産も、幸福も築ける』と書いてありました。

不思議なことに、今、私の会社の年商は、七十億円ほどにもなり、百億はもう目と鼻の先のように思えているのです。夢のようですが、今は、人生、出来るんだという気持ちで一杯です。皆さん、ゴルフの仲間に入れてください」というような主旨であったように思う。一杉社長は、ヤンヤの喝采を博して入会し、以後、 一緒に遊びのゴルフをやっている。ほとんど、人の才能は、意識の差だけであると思う。

物事は、大事であればあるほど、強い達成の目的意識がなければ成就できない。「一つのことを、長く持続して、集中的に念じ込むこと」からしか生まれないことが多いからだ。意識を集中していれば、人間だれでも、ほんの少しのヒントですぐに理解できるし、閃くことも多い。見るもの、聞くもの、すべてが血肉となって活かせるものである。

窮地を脱するすばらしい戦略や、工夫や、知恵は、いつでもそういう目的意識を集中している人からしか生まれない。商品の売れ筋も、物事の善し悪しの判断も、価値観の変化も、景気変動の先見さえも、集中していれば誤ることは少ないものだ。

苦労して開発した新商品の名前を、いざ全社を挙げて付けることになった時に、誰よりも良い名前を考え出したのは、当の担当者だったという経験が私には多い。指導先のことであるが、担当者が一番集中しているからである。

物置のメーカーとして有名な田窪工業所の田窪社長が「生ゴミの処理機」を作ったといって、尋ねて来た。全国のホームセンターを販路にして、「喰い太郎」という名前で売り出したいが、というので意見を聞きに来られたのだ。

ちょうど、野球の開幕戦があるというので、中学生のご子息も一緒に来て、私の意見を聞くことにした。

ところで、「喰い太郎」などと妙な名前をどうして付けたか、父親である田窪社長に聞いてみた。生ゴミの処理機にはライバルも多く、そのライバルを喰ってやろうとか、生ゴミを喰うバクテリアを中に入れるので「喰い太郎」と付けただけだという。どうも、自分でも納得していないから、良い名前がないかと言うのだ。そこで、この息子さんと一緒に考えることにした。

これまでの「喰い太郎」の新聞折り込みチラシの見本や、販売用のパンフレットが用意されていたので、息子さんと二人で文章を何回も読んでみた。

そうすると、「地球環境の汚染」のことが長々と説明してあった。何回も地球とか、環境とか、汚染とかいう文字が躍っていたので、地球という文字は使いたいと感じていた。聞いてみると、この息子さんも地球という文字が良いと言い、「地球」の上か下に何がフィットするか、言葉か文字を探すことにした。二人で色々な文字を並べ、考えたが、結果として、「地球の友だち」と、生ゴミ処理機に名前を付けた。

また、生ゴミの処理に使うバクテリアは、「地球の友だち菌」とした。これが、日刊工業新間がその年に選んだ商品名コンクールのベストテンに入賞した。

一緒に名前を考え出したこの子のすばらしい感性を活かして、「地球の友だち」を大いに売るのは父親の役日であるが、この子が大人の世界を垣間見た良い思い出になることを祈ってやまない。

何の気無しに読んだ折り込みチラシの文字にも、目的意識さえあれば、目に飛び込んで来て、見逃せないものがあったことを覚えておいて欲しいと願っている。

どうしても売りたいという強い意識がこびりついているというだけで、電車の中吊り広告を読んでいても、新聞に目がいっていても、飛び込んでくるものは多い。歩いていても、眠っていても、夢の中でも、日や耳が付いて行ったということも多い。集中とは、そういうものだ。

逆に、自分の担当している部門の業績回復に、自分の案を持たず、答えを社長に伺いにくるという幹部が結構多い。情けないことだ。

こういう幹部には、幾ら説いても甲斐がない。たとえ社長が、その時、指示して業績が回復しても、自分で考えたことでないと、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の通り、幾度も同じような失敗を繰り返すことになる。強い集中した意識を持たないからだ。

優れた工夫や、知恵や、戦略は、長く集中した強い目的意識を持っていないと生まれない。

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