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六、近代化への夢想から覚めよ

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扶養家族

赤字に悩むT製作所は、約一五〇名の陣容でありながら、営業部門は部長と称する担当者ただ一人という、極端な営業軽視企業である。

社長は、自分では営業軽視とは思わず、わが社の技術力で経営ができると思っていたのである。しかし、営業部長一名では何もできない。電話の前に座って、お客からの注文をうけているのが精一杯である。つまり、受注部長なのである。

そのような状態であるから、主力製品の売上げが思うにまかせず、操業度の不足は同業他社のいやがる特注品で補っていた。

特注品といえども、特別に納期が長いわけではなく、その都度面倒臭い強度計算を伴う設計をしなければならず、 一二名の設計要員をかかえてもこれをこなしきれなかった。

平素世話になっている得意先からのものだけに、あまり高く売るわけにもいかず、『予算がこれだけしかないから』と安い指値で押しつけられることも、しばしばあった。

この特注品が、購買、外注活動の八〇%以上を食い、製造部門の仕事の二〇%にも及んでいた。それにもかかわらず、得られる付加価値は、全社の一〇%以下だったたのである。

このような経営構造そのものが赤字の原因なのである。この経営構造を、社長は、わが社の特色であり、強味であると思いこんでいたのである。

私は、製品分析の結果を社長に示し、赤字脱却のために打つべき手は、

  1. 特注品の受注を控えて主力製品の拡販につとめる。そのためには、営業活動の強化が絶対に必要である。
  2. 特注品の減少によって、手のすいてくる設計陣で、営業部長と協力して新製品の研究をすすめる。ことであることを説いた。

社長にとっては全くの意外事であった。今までの考えと全く逆だったからである。

それだけに私の勧告をなかなか納得しなかったが、最後のきめ手は製品分析の数字であった。結局はわかっていただき、方針を転換して赤字から黒字への転換もまた果たしたのである。

その転換に当たって困ったのは、営業部門の増強であった。私は新規採用よりも、まず、社内スカウトでまかなうことを強調した。この人手不足時代に、小企業に簡単に人がくるはずがない。くるやつは「ロクデナシ」と思わなければならないからだ。

社内スカウトの目当ては、製造管理部門である。現場事務所には、一五名ほどがズラリと机をならべて仕事をしている。いくらなんでも多すぎる。不要な仕事をしていることは、仕事の内容を調べなくても見当がつく。必要な仕事は、二〜二人でじゅうぶんであるはずだからだ。

現場の責任者は『うちは、あんなに大勢の扶養家族をかかえているんですよ。いつまでたっても私たちは楽はできません』と私にボヤイているのだ。私は、現場事務の人員を減らして、浮いた人員と経費を営業活動に回すことを進言した(現場事務から浮いた人員をそのまま営業に回せというのではない。社内スカウトの穴うめに回す手を考えるのだ)。

社長は『では何人減るか調べてもらいたい』という。私は『そんな調査をやってもダメです。それよりも、社長と私と二人で帳票類を調べましょう。今日仕事が終わったら、現場事務所の帳票類を全部三階の会議室に集めてください。今夜は徹夜ですよ』『えらい事になったな』ということになった。その晩、社長と私は帳票類を調べた。というよりは、社長が一人で調べて、私はそれをニヤニヤしながら眺めていたのである。

社長は一日見て、必要か不要かを判定していった。驚いたり、あきれたり、怒ったりしながら……。そして、たったの二時間で調べ終わってしまった。その結果は、何と八五%のものが不要と判定されたのである。

日報の山

S工業は、従業員約五〇〇名である。調査に出向して、社長室で社長のお話を伺った。その社長の机の上に、しかも中央に、同様式の書類が約二〇センチほどの高さに積んである。

見ると日報で、何と二二冊である。驚きである。社長がこんなくだらない書類に、いちいち目を通すはずがないし、時間もないはずだ。

聞いて見ると、事務を合理化し、社長に会社の中のすべての情報を毎日迅速に報告するために、最近会計機を四台買い入れ、専属の係を六名おいて計算している、とのことである。まさに形だけは完璧に近い報告制度である。

そこで私は社長に質問した。『あの日報のうち、どれとどれを特によく御覧になりますか』と。社長答えていわく、『売上日報を見るだけですよ』と。同感である。

私がその会社の社長であっても、日報は売上げしか見ない。というのは、その会社は標準品を継続生産している。品種も価格も、材料費も外注工賃も決まっている。社長とすれば売上げだけ見ていればよい。

経営者として― だけでなく、幹部でも全く同じである― 大切なことは「これさえ見ておれば大局を見誤ることはない」という情報……最小限の情報だけを見ているという態度である。つまり「ツボをおさえる」ことである。

ここまでは社長はりっぱである。

しかし、その後がいけない。社長の見ない三二種類の日報は全くのムダである。それをそのままにしてあるからだ。

私は社長に『こんなムダな報告書はやめさせたらどうですか』と言うと、『せっかく一生懸命になって作っている。それに、何か他の役に立つこともあるから』という返答である。いささか人情味すぎて、厳しい経営の現実を忘れているようだ。

私の知人で、あるすばらしい業績をあげている中堅企業の専務をしている人がいる。彼は、なにか必要な情報がほしいと、これを部下に命ずる。その時、『それならできています』と言ってくると、『作れと言わない資料をなぜ作るのだ。お前のところはよほどヒマがあるのだな。減員』と容赦なく人員を減らしたという。『これこれの資料を作れ』と言われたら、いつまでに作ったらいいかを聞いて、それに間に合うように作ればよいのであって、言われもしないのに作ることは相成らぬ、というのである。

資料というものは、明確な目的をもち、かつ、上司が要求するもの以外は作ってはならないのだ。原始記録は日常の仕事の中で自然にできていく。この原始記録さえしっかりしておけば、いつでも、必要な時に資料をまとめられる。目的の明確でない資料は作るべきではないのだ。

読まれない報告書

0社では、二年ほど前に会計機を入れた。当然のこととして、それ以来毎日試算表が作成されている。見ていると、女子事務員がなれた手つきで数字を打ちこんでゆく。完成した試算表をそのままファイルしてしまう。ハハア、だれも見ないらしいな、と思ったので、女子事務員に『この試算表はどなたが御覧になりますか』と質問してみた。『さあ……だれも見ないようですが……』という返答である。

だれも見ない試算表を毎日作っている。これが合理化であり、事務機械化であると思いこんでいるのだから困るのである。

だいたい、試算表を毎日見たとしても、あまり意味はない。時間のムダだけでなく、試算表ずれして、肝心なことがかえってわからなくなる。物には程度というものがある。一カ月に一回が適当である。それも経営者にわかりやすい形― ‐損益と資金運用― にかえて報告することは、ほとんど行なわれていないのだから本末転倒である。

E社の企画室長は私の友人である。用事があって訪ねた。机の上に工場月報がのっている。本社と工場が離れているので、月報ができたのであろう。B五版で厚さ約ニセンチ、部厚い報告書だ。『ちょっと拝見』と手に取ってパラパラとめくって見た。ビッシリと数字が詰まっている。労作である。

しかし、どこにも社長の検印がない。聞いてみると、社長は見ないという。君はどこを見るのかと聞いてみると、そのうちの一ページを、三カ月に一回、統計をとるために見るという。こうなると私の商売が顔を出してくる。

では、ほかにだれが見るかというと、常務だけだという。気安い会社なので、常務に聞いてみた。常務の答は『ぼくの見るところですか、毎月これだけですよ』とたった一ページである。部厚い労作も、読まれるところは、タッタニページであり、そのうち一ページは三カ月に一回だということだった。

防衛兵器

R社で工程管理改善のための調査をした時のことである。典型的な受注一品生産で、季節的変動が大きく、短納期であるうえに、飛び込み仕事が多いという、厄介なものであった。

混乱の原因は、無計画な受注にあった。そこで、受注の段階で工数の山積みをして次の受注の納期を調整する、というようなことになった。

それと同時に、外注業務もクッションとして重要な役割を果たすので、調査の重点になった。外注係の帳票を調べていると、外注品完成台帳というのがあった。まことに不思議な台帳である。

外注係の仕事は、これから外注する仕事の計画であり、現在外注している仕事を推進することである。外注先から完成して上がってきたものは、用済みなのである。その点を追及すると「それはそうですが……やはり、何がはいったかを記録しておかないと……」と言葉をにごす。

私は追及をやめてしまった。その理由がわかるからである。つまり、その台帳は彼の仕事のために必要なのではなくて、言い訳のために必要なのである。納期が遅れる。それに対して現場では、外注品が遅れたことを理由にする。今度は外注係が追及される。その時の言い訳の証拠書類となるのだ。

会社の中には、このような責任のがれのための証拠書類が意外に多いのだ。しかし、私はこれをとがめる気にならない。その行為は正当防衛だからである。

トップあるいは上司が、成果をあげる指導をせずに、死んだ子の年を数えるに等しい不達成の責任を追及するかぎり(マネジメントの先生方は、こうせよと教えているのだ)このような「防衛兵器」は永久になくならないのである。

常識でムダを省け

会社の中で、あまりにも多くのムダな活動が行なわれている。ここにあげた例は氷山の一角にも当たらないものである。しかし、やっている本人は大真面目であり、そのような「記録をとる」という活動をしないやつは近代化への熱意を疑われる。

逆にいえば、シャレたマネジメントの技法を導入している会社ほど、ムダを生む危険をその裏にはらんでいるということだ。それが間接人員を多くし、人件費、経費を増大させて、マネジメントのねらいとはうらはらに、会社の業績の足を大きく引っぱるのだ。

そのような危険があるので、それらのムダをなくす技法としての、職務分析や事務分析がある。

私もこれらについて一通りの勉強はしたが、阿保らしくなってやめてしまった。私の仲間がやった職務分析の実例も、数十社知っている。しかし、残念なことには、これによって大きな成果どころか、わずかな成果さえ得られた例を私は知らないのである。

専門家がどのように自画自賛しようと、会社側のクレームという事実は否定できないのだ。ということは、それらの技法そのものが、成果をあげる力がない、としか思いようがないのである。マネジメントの技法は、理論や分析のためにあるのではなくて、企業の成果を高めるためにあるのだ。

そんなむずかしい手法による分析なんかしてみなくとも、どんな仕事が必要であり、どのような活動が不要かは、知ることができるのだ。問接部門の仕事は、帳票類を使って行なわれる。だから、帳票類を見れば、ほぼ見当はつく。

その帳票がほんとうに必要なものかどうかの判定は、新入社員ならいざ知らず、一〇年も一五年も、その会社に勤めている幹部が、「見ただけではわからない」ということであれば、よほどの阿呆だ。それだけで幹部の資格はない。そして現実には、こんな阿呆はメッタにいるものではないことを、私は職業柄から、たくさんの人々に会って知っている。

それならば、なぜ、会社の中でいろいろムダな活動が行なわれているかというと、そのようなムダに関する検討がなされていないだけのことである。

会社の中の仕事は、内外の情勢の変化によって、いろいろな新しい活動が必要になってくる(職務分析には、新しい事態に対応するための、新しい活動に対する考え方がないのが致命欠陥である。この現実無視の観念論が、変化に対応しなければならない企業に定着するわけがない)。

会社が大きくなれば、仕事の分担はさらに細分化される。これらの変化にともなって、いろいろな帳票がふえてゆく。 一方古い仕事で、いらなくなるものがでてくる。しかし、惰性でそれらの仕事帳票類が捨てられずに生き続ける。かってに私製帳簿をつくるものもいる。このようなわけで帳票はしだいにふえていく。

それらの帳票を、忙しさにまぎれ、あるいは無関心、怠慢などによって放っておく。不便あるいは不要とは気がついていても、それが重大な支障をきたさないかぎり、直すのはめんどうだとばかり放っておかれるのである。あるいは下手にそんなことをすると、「藪蛇」になって、せっかく苦心して獲得した部下を減員で失うかもしれない、ということでそっとしておかれる。こんな場合もけっして少なくない。

だから、企業体では、定期的に、あるいは計画的に、業務と帳票類の検討を行なって、不要な帳票類を情け容赦なく捨て去ると同時に、人員の再配置をしなければなここにもまた、「捨て去ることの大切さ」があるのだ。そして、この決定にも苦しさが伴う。内部の反対を説得させていかなければならない。この苦しさに耐えられない経営者が、会社をつぶすのである。

ある検討会

K工場では、受注処理(生産指令)完成報告の手続が複雑で、そのくせ必要な情報がうまく伝達されなかった。生産計画書のごときは、なんと二十四部も発行されていた。それをなんとかしてくれというのだ。

私は『他人に頼らず、あなた方自身でやれ』と言って、関係者に現在の帳票類を全部もって会議に出てもらった。伝票類を、仕事の流れの順に黒板にピンで止めた。そして、順番に目的と問題点をあげ、対策案を討議しながら、それらを黒板に書きこんでいった。

その結果は、私の意見は全く不要であった。関係者の意見だけで、たちまちのうちに簡素化と円滑化の道が見つけだされ、その場で常務の決定が下されてしまったのである。

生産計画書は、たった八部で済むようになった。その間わずかに二時間たらずであった。こうして、数年間に亘って関係者を悩ませていた問題は、あっけなくかたづいてしまったのである。あくまでも常識に従って解決したのである。

もしも、専門的な技法で分析し、改善案の検討と作成、報告会などやっていたら、改善案をめぐって、やたらと論議が起こり、たとえ決まっても、押しつけられたという気持が残るくらいが関の山であることを、私は多くの経験から知っている。多くの時間と労力を費やすだけがよいのではない。否、これは知恵なしのやることなのである。

近代化への夢想から覚めよ

戦後の企業近代化への風潮は、それ自体誠に結構である。それが、厳しい企業戦争に勝ちぬくために必要であることはまちがいない。しかし、その道をいささか誤っている企業があまりにも多すぎる。そして、それは特に管理部門の業務においてはなはだしいといえよう。

まちがった近代化は、まず書類をつくることから始まる。なにもかも記録をとり、これを分析して合理化への道をみつけるということらしい。ところが、書類をつくることには、ひどく熱心なくせに、これを検討することになると、あまり熱意を示さない場合が大半である。書類をつくっただけで、管理していると錯覚してしまうらしいのだ。

極端な表現をすれば、遅延報告書を提出させることによって、わが社の遅延対策は万全であると思いこみ、書くことの苦手な現業員に詳細な作業日報を書かせて、作業管理をしていると安心してしまう。XIR管理図を書くことが品質管理であると勘違いし、出勤率記録をとれば出勤率が向上するような気になる。原価記録をとることが原価管理でもなければ、営業日報をつけさせることがセールスマン管理でもないのである。

「ガソリン節約のため、運転手は運転日誌を書いて課長に提出してください」というのにぶつかったことがある。まさに笑い話である。

そして、それらの記録を能率的にまとめるために、計算機や会計機が導入され、それでも間に合わずに、ついにコンピューターの登場となる。

いったんコンピューターがはいると、高価なレンタルを払うのだから、遊ばせておくのはもったいないとばかり、二四時間フル稼働を考える。フル稼働させるための経費の増大は考えないのだ。こうして、コンピューターから吐き出される膨大な数字の洪水をみて、わが社のMISはすばらしいと思って安心するというミス(誤り)を犯してしまうのである。これを、「経営の機械化」というのだそうだ。とんでもない、「計算の機械化」なのだ。見境なしに行なう計算の……。

ここで……考えなければならないことがある。それは、記録それ自体はいかに精緻なものであろうとも、過去の数字をかえることはできない、ということだ。われわれの関心は、活動によって作られた過去の数字を集計することではなくて、数字をつくりだす活動でなければならないはずである。

ところが、前向きに数字を作りだしてゆく活動に関する研究は、まさに恐るべき貧困さである。私はこの点についても、権威者と称する人々の奮起を強く促したいのである。

むろん、過去の数字がわかれば、それから前向きの対策を考えだすことはできる。しかし、これはごく短期的な戦術的決定である。だから、これらの数字は、常に最小限度に止めるために、定期的な検討をさせるのが経営者のつとめである。自らしてはいけない。

経営者が自らしなければならないのは、長期的な戦略的決定である。そして、その戦略的決定に必要なのは、企業内の過去の数字ではない(コンピューターから出てくる数字は、まさに企業内の過去の数字である)。

それは、企業外の数々の情報である。その情報は、数字で表わすことのできない、信頼度のうすい、切れ切れのものであり、きわめて不完全な「兆候」と呼ぶべきものが多いのだ。

それらの、不完全な兆候をよく観察し、その中から変化の本質や方向を見定めて、わが社の経営と結びつけ、その変化に対応するための道を見つけだし、危険を伴う決定を下し、果敢に前進しなければならないのが経営者である。

経営者が次元の低い、企業内の過去の数字にばかり目を奪われていたら、会社をつぶしてしまうのである。「近代化への夢想」から覚めて、経営者本来の仕事に精を出してもらいたいのである。

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