企業の任務は「経済的価値の創造」である。●
経済的価値とは「富」のことである。富を創造することによって企業は社会に貢献するのである。さらに、富だけでなく、その過程において、「雇用をつくりだす」のである。
※経済的価値とは、「富」のこと。富を創造することによって企業は社会に貢献する。そして、富を想像する過程において、「雇用を作り出す」。
これこそ社会の最も基本的な要請である。国政の基本は国民生活の安定と向上にあることはいうまでもない。不況対策、失業対策が、内政の最大課題となっている。
※社会の基本的な要請である。
ケインズ理論は、不況対策としての雇用の創出を主題としている。「不況対策として政府は公共事業を起せ、これによって雇用を創出することができる。そのためには、政府は財政力を持たなければならない。財政力を持つためには「金本位制」を否定し、金の重圧から開放されなければならない」というのだ。
これによって不況は克服された。ケインズ理論の威力である。その反面「インフレ」という病を持ちこんでしまった。
現代は、機械化の進歩によって公共事業の雇用増大はあまり期待できずに、インフレのみがフランケン・シュタイン博士のつくった怪物のように暴威をふるい、世界中を苦しめているのである。
そのインフレは貨幣価値の下落となり、それがわが国にベース・アップを生み出し、わが国のインフレの第二の主要原因となっているのである。
このような状態の中で企業は経済的価値をつくり出し、ベース・アップに耐えながらの事業経営をしてゆかなければならないのである。企業の存在価値と重要性は益々高くなってゆくのである。
※どのような状況においても、企業は経済的価値を創造し、ベースアップを行いながら、事業経営をしていかなければならない。
それにもかかわらず、経済政策の不手際というより不在によって平成初期にバブル経済という鬼子を生み落し、一時期これが暴威をふるい、バブルに乗らない企業は「阿果」よばわりされた。借金をして不動産や株に投資することによって、労せずして巨大な利益を手に入れることができるからである。
しかし、所せんバブルは「虚」の経済である。バブルは経済的価値を生みださないからである。
虚なるが故に長続きする筈がない。たちまちのうちに崩壊し「実」の借金による「虚」の投資は「虚」が消えて「実」の借金だけが残ってしまったのである。この経験は、企業経営者にとっては極めて貴いものといわなければならない。
それは、『自らの努力を伴わない「虚」の経済は、危険この上ないものである。営々とした努力を続けることによる経済的価値の創造こそ、長期的に自らの企業の存続と繁栄を実現する』ということである。別の実例で考えてみよう。
※自らの努力を伴わない「虚」の経済は、危険この上ないもので、経済的価値の創造こそ、長期的に自らの企業の存続と繁栄を実現する。
第一次オイルショックは、日本とドイツを叩くためのアメリカの媒略であったことは、今は衆知のことである。
経済の根幹の一つである石油の大暴騰と、これに伴って発生したインフレによって、日本経済は大苦境に追いこまれた。
しかし、日本人は立派であった。この大ピンチを、死にもの狂いの努力によって乗りきり、これがかえって日本経済の大躍進の基をきずくことになった。
これに反して、アメリカでは政府の経済戦略によって低価格の石油を供給され、日・独より遥か有利な立場に立ったにもかかわらず、これを「虚」である大型自動車の生産継続をすすめて利益の増大に走ってしまったのである。
これが、省エネ自動車を要求する顧客の反発を買い、日本車に鞍がえしてしまい、アメリカの自動車メーカーの没落を来してしまったのである。
下って、 一九八五年頃からは、アメリカの世界に誇る巨大優良企業であったゼネラル・モーターズ、シーアズ・ローバック、IBMが揃って大ピンチに立ってしまう程になってしまった。(これについては、『社長の姿勢』を参照されたし)
何れも、自らの利益が大きい大型・高級品のみに固執し、時代の変遷、技術の進歩、顧客の要求の変化に気がつかず、あるいは気がついていたが、これに合わせて自らを変えなかったためである。
※社内的に利益が大きい大型・高級品のみに固執して、時代の変遷・技術の進歩・顧客の要求の変化に気が付かず対応せずにいると衰退してしまうこととなる。
教 訓
- 企業は、経済的価値の創造という本来の任務を果たすためには、営々たる努力によって、長期繁栄を実現しなければならない。
- 客観情勢の変化に対する企業の正しい姿勢と対応こそ肝要である。その姿勢と対応如何によって、ピンチはチャンスとなり、チャンスがピンチに変ってしまうものである。
その正しい姿勢と対応とは、「経済的成果達成によって社会に富を貢献する」という姿勢をふまえた上で、既に『社長の姿勢』のところでのべた事業経営を行なわなければならない。
※経済的成果の達成によって社会に富を貢献するという姿勢を持ち、正しい事業経営を行わなければならない。
その事業経営とは、くり返すが、『変転する市場と顧客の要求を見きわめて、これに合わせて我社をつくりかえる』ことである。
ところが、これを理解していない会社は数多い。一つには「事業経営とは何か」を教えてくれる人や文献が極めて少ないことであり、もう一つは、事業経営を誤まらせるような思想や文献、指導が多いということである。
※事業経営とは何かを教えてくれる人や文献がほとんどないために、事業経営を理解していない会社が多くある。逆に、事業経営の認識を誤らせるような思想や文献が数多くある。
それは、経営学と称する経営学にあらぎるもの―内部管理である。内部管理は、事業経営に必要なものではあるが、それが事業活動ではない。
※内部管理は事業経営に必要なものではあるが、事業活動ではない。
これらのものは事業活動には全くふれない。いや関心自体がないのではないか。事業経営にふれない経営学なるものがある筈がないではないか。この点をハッキリしなければならないのである。
※内部管理は、全く事業活動について触れない。
事業とは「市場活動」である。市場にはお客様と競争会社が存在する。競争会社とお客様を奪い合いをするのが事業なのであることの認識が基本である。その認識を次にのべることとする。
※事業とは「市場活動」である。市場には、お客様と競合他社が存在する。競合他社とお客様を奪い合いするのが事業であるという認識が基本。
内部管理からの脱出●
私の「社長ゼミ」は、もう二十五年続いている。セミナーの後に「相談の時間」を設けていたのだが、はじめてゼミに参加された社長からの相談というのは、この二十五年間に一千人を超すが、それらの社長の相談は、すべて「内部管理」に関することである。
いかに内部管理について社長の悩みが多いかの実証がここにある。これは、同時に、それらの社長には事業経営が全く分っていない証拠でもある。
※ほとんど全ての経営者の悩みが内部管理に関するものである。
それは、それらの社長がいままで勉強したことが内部管理のことばかりで、事業経営に関する勉強は全くといっていい程していないし、受けていないのだ。
だから、内部管理が事業の経営であると思いこんでしまっているのである。目標管理華やかなりし頃である。
※内部管理が事業経営だと思い込んでしまっている。
ある会合で、数人のコンサルタントといっしょになったことがある。控室での雑談の中で、電々公社の経営相談室だか指導室だか忘れたが、日本でも超一流といわれたコンサルタントがいて、この人は熱心な目標管理の指導者であった。
その人が盛んに目標管理の素晴らしさを話していた。
いわく、「目標は公正で納得のいくものでなければならない」「目標はノルマではない」「上から押しつけるのではなく、各人の自発的意志にもとづいている」「上下のコミュニケーションによる良好な人間関係醸成の過程から目標が設定される」「目標は各人の能力に応じたものでなければならない」式のものである。
私は、その人の話の切れ目に「電々公社はつぶれないからなあ」と半分は一人言のような発言をした。その人は顔色をかえて黙ってしまった。
※つなり内部管理の目標管理は大手のつぶれない企業の理論である。
その後この人は目標管理の話は一切しなくなってしまった。自らの誤りに気がついたのは立派である。
- 「社長の設定した目標と自主的に設定した社員の目標が食違うが、どうしたらよいか」
- 「目標を達成したが赤字になってしまった」
- 「ミスを許せというが、小さなミスでも許されないのだ」(ある建設会社社員)
というような質問が、当時、私のところへ殺到したのである。
私は「目標管理は会社をつぶします」と答えることにしていた。
※目標管理は会社を潰す
目標管理というのは、シューレの「結果の割りつけによる管理」という著書を、勝手に美化し、拡大して、もっともらしく見せかけたものにしかすぎない。
シューレは、その著書の中で「職長は……」という言葉を使っていて、「管理職は……」「経営者は……」という言葉は一切使っていない。それどころか、その本の中には「私は管理職のことについては全く興味をもっていない」ということを明言しているのだ。つまり、職長のためのものである。
それを勝手にひねくりまわして、とんでもないものに仕立あげ広めて、多くの企業に害毒を流したものである。この手の類は今でも後をたたない。こういうものに迷わされてはならないのである。
その真偽の見分け方は「それが内部管理や人間関係のこと」ならば、それがどんな美しい衣をまとって来ても、全部ニセモノと思えばよい。事業経営は市場活動なのだ。
※本物か偽物かの見分けかたは、それが内部管理や人間関係のことならば、すべてニセモノ
内部管理が経営学と思い違いを起してしまったのは、もとをたぐってゆくと、テーラーの時間研究。作業研究による。これは、当時の賃金制度の非科学性を、科学的な出来高払制賃金にかえるべきだというテーラーの思想にもとづくもので、公平な賃金をきめるために時間や作業の研究が必要だったからである。
これが、人類始まって以来最初に、「仕事に科学を導入した」もので、テーラーは後に、「科学的管理法」という著作を発表している。
これが急速に企業内に導入され、一方では様々な科学的な手法が開発されてきた。
エルトン・メーヨー博士は、シカゴの郊外にあるウエスタン・エレクトリックのホーソンエ場において、リレーの組立工場の六人の女子作業員について、三年間の継続調査を行なった。テーマは「人間関係」である。
これは「経営における人間関係」という著作となって発表され、人間関係ブームがまき起り、カウンセラー、システム、モラル、サーベイと続き、X理論とY理論その他様々な人間関係論が生れた。
これらの人間関係論は、アメリカにおいては、あくまでも「ブルー・カラーのみに限定」されていたが、日本では経営のきめ手のような過剰反応をまき起し、人間関係至上主義がはびこって、その影響が今もって尾を引き、企業に対して逆に悪影響を及ぼすことが決して少なくないのである。目標管理など、その代表的なものの一つである。
※人間関係至上主義がはびこって、今もその影響が尾を引いている。
次は原価計算の害毒である。企業経営の実態を知らない学者が、自らの持っている観念論によって作りあげた空理空論の固まりであって、企業経営にとって最も重要なものは収益(付加価値つまり粗利益)であることに思い及ばずに、費用に焦点を合わせてしまったという根本的な誤りをおかしてしまっている。
その費用についても、企業経営全体に関するものは全くなく、すべて「原単位」に焦点を合わせただけでなく、外部から仕入れた価値と内部で発生する費用の特性さえも分らずに、クソもミソも一緒にして考えてしまっている。
そして、「すべての費用は製品に配賦されて補償されなければならない」という大錯誤をおかしてしまい、企業経営全体に計り知れない害と、大混乱を巻き起してしまっているのである。
しかも、その害毒には企業人といえども、ごくごく少数の人がその大錯誤を知るだけで、殆んどの人々は全くこれに気がつかないのである。それは、企業の知らない間に、企業を倒産に追いこんでいるのである(筆者がかつて勤めていた会社の倒産がその実例)。
それにもかかわらず、会計学者も企業もこれに気がつかないという恐ろしいものである。とはいえ、法律できめられた企業会計原則がその原価方式をとっているという厄介極まるものなのである。
これに対する道は、外部報告(税務署、銀行、株主)には企業会計原則を使い、事業経営には正しい計算方式をとり、これを使って未来指向のための実践的な数字を使わなければならないということになる。
これは、直接原価計算(ダイレクト・コスティング)の方式を使って、収益計算を行ない、これを事業経営の要請に従って組上げてゆくものである。(これについては『増収増益戦略』で述べる)
しかし、この方式は一般化していない。「全部原価」の天下である。全部原価計算方式のもう一つの罪悪は「原価は安いほうがよい」という考え方を広く深く植えつけてしまい、これが正しい事業経営に無視できない障害となっているのである。
※原価は安い方が良いという考え方は危険。
次は組織論である。組織論は、経営学の中核的な存在になっている。
ところが、企業の経営に奉仕する筈の組織は、実はその反対に重大な障害となっている。組織というものは、いったん出来上ると、奉仕すべき対象よりも、組織それ自体の存続のほうが常に優先するという危険をはらんでいるからである。(臨調に対する官僚の大反対がこれ)
企業組織は、産業革命によって企業の誕生と同時に生れた。しかし、それをどう管理していいか分らなかった。
そこで、人類が昔から持っている組織―役所、軍隊、宗教団体、学校の組織理論をお手本として作られた。これが大きな誤りだったのである。
これらの組織には、「市場」がない。だから、管理といえば内部だけを対象としている。そして、組織存続という至上命令を実現するには、「変化」を阻止しなければならない。変化は組織のピンチや指導者の失脚をもたらす危険があるからだ。「変化を阻止する」という特性こそ、これらの組織の特性なのである。
企業組織は、このような特性を持った組織をお手本として作られてしまったのである。ところが、企業には「市場」がある。いや市場の要求を満たすために企業が生れたのである。
市場というものは絶えず変化する。当然のこととして企業はその変化に合わせて自らを変えていかなければならない。市場の変化に対応できなければ企業はつぶれてしまう。
当然のこととして、企業組織は変化に対応するという特性を持たなければならない。
さあ、大変。変化に対応しなければ生きられない企業に、変化を阻止するという特性を持った組織理論を導入してしまったのである。
企業組織がうまく機能しない根本原因がここにあるのだ。ムリに機能させようとすると、企業の要請から外れてしまうのである。
では、どうしたらいいかということになる。何がどうなっていようと、企業をつぶすわけにはいかない。といって組織を無視するわけにはいかない。
この問題の解決は、まず正しい組織理論を持つことから始める。その理論は、従来の伝統的な組織理論を百八十度ひっくりかえせばよい。
いわく「責任の範囲は明確にしてはならない」「仕事の分担は、その境目を明確にしてはならない」というようにするのだ。これは、かつての松下電器の指導方針である。今はどうなっているか知らない。
※責任の範囲は明確にしてはならない・仕事の分担はその境目を明確にしてはならないというようにする。全て既存の組織理論と180度逆にする。
複数の部門に関係するプロジェクトは、横断的なプロジェクトチームを組織する。仕事の繁閑に応じて、お互いに応援し合う。というように、いくらでもある。
※複数の部門に関係するプロジェクトは、横断的なプロジェクトチームを組織し、仕事の繁閑に応じて、お互いに応援し合うという形を取る。
要は方針の問題であり、指導であり、そして知恵の分野である。事業の目標に焦点を合わせた(実はこれが極めて難しい)柔軟な頭脳の問題である。
頭の回い観念論者は、日本とは全く違う事情にもとづくアメリカの組織管理論をふり廻したがるが、借り物はやめたほうがよい。
※外国から取り入れた組織管理論の借り物はやめたほうがいい。
筆者は「変化に対応する組織論」を(『内部体勢の確立』でのべている)持っているのである。
内部管理で無視できないのが、コンピューターの流す害毒である。
ここで断わっておきたいのは「一倉はコンピューター反対論者である」ということを言われるが、私はコンピューター否定論者ではない。
コンピューターの特質を知らない多くの社長が、誤った使い方をして企業の業績を落してゆく姿を多く見すぎているというところから来る警告が否定論者ととられるだけである。
「コンピューターによる経営」「コンピューターによる戦略的決定」なんて全く間違ったことをいうから、「そんなことはできない」というだけである。
私は、多くの会社でコンピューターのデーターを使って戦略的な決定をしたことは一度もない。ないというより「出来ない」のである。コンピューターを止めさせて赤字を黒字にした会社は可成りあるが……。
そもそも、コンピューターというのは、ソロバンとメモ用紙と鉛筆と複写機を組合わせたものにしか過ぎない。
ただベラボーにスピードが速いというにしかすぎないのだ。原理は完全な理論の産物なので「足し算」しかできない。引き算も掛算も割算も、すべて足し算で行なう。「九×九=八一」という計算はできないのだ。
九を九回足して答えを出す。これを数学的自痴という。また、断面データーはとれても、時系列データーはとれない。厳密な意味では、とれなくもないが、煩わしくて実用にならないのである。
戦略的情報は時系列データーでなければダメなのだ。断面データーしかとれないコンピューターが戦略的決定に使えないわけがここにある。
さらに、量的な情報はとれても、質的情報はとれない。質的情報は数量化できないからだ。企業にとっては数量化できない質的情報のほうが遥かに重要なのに、である。これもコンピューターの大きな弱点である。
※質的情報は数値化できない。
このような様々な欠陥があるのに、その欠陥を知らずに万能のように思いこみ、膨大な資金をつぎ込んで配送センターのコンピューター処理システムを導入し、ラックシステムとのアンバランスによって、かえって処理能力を落し、業績を大幅に低下させ、中には倒産に追いこまれた会社さえある。
また、POSの導入は、売りきれによる売損ないの情報はPOSでは把えることができないことを忘れて売上げを大幅に低下させてしまった。
ある食品のメーカーは、取引先でPOSを導入した途端に売上減少を起すので、「納入先のスーパーでPOSを導入しないように祈るしかありません」と私に語るのであった。
これは、POS以前にコンピューターを使用していながら、これが殆んど何の役にも立っていなかったことを同時に物語っている。無用の長物である。もしも、これがうまくいっていれば、POSなんか導入する必要がないからだ。
コンピューターは、技術計算、CAD、CAM、CG、などでは威力を発揮しているが、仕事の管理には殆んど役に立っていないのである。
毎日コンピューターから吐き出される情報の殆んどは役に立たず、紙屑製造機になっているのである。これらは、コンピューターが悪いのではなくて、間違った使い方をしている人間の側にすべての責任があるのだ。
高額の費用を要するコンピューターの使用は、根本的に見直されなければならないのである。
内部管理は、高度化すればする程費用が急激に増大する。その割りに効果は少ないことを知らなければならない。むしろ簡素化すべきである。
※内部管理は、高度化すればするほど費用が急激に増大していく。その割に効果は少ない。
会社の中の活動は、円滑にゆくことがよいことではなくて、真に事業経営に役立つような活動を行なうことである。
※会社経営は、円滑にゆくことではなく、真に事業経営に役立つ活動を行わなければならない。
事業経営に役立つということは、お客様の要望を、よりよく満たすものでなければならず、それは円滑化よりも、むしろ混乱をより多く伴うものなのである。
※事業経営は、お客様の要望を、よりよく満たすものでなければならず、それは円滑化よりもむしろ混乱を多く伴う。そしてその混乱こそが正しい。
お客様はたくさんいらっしゃる。その多くのお客様が、それぞれ自分の都合だけで、ああせよ、こうせよ、という要求をしてくる。
※お客様は自分の都合で様々な要求をしてくる。
こちらは一社である。それらの会社の要求を満たすためには我社の事情など全く考えられないのだ。ムリとムダとムラが発生する。混乱が生れる。お客様の要求を満たすために混乱することこそ正しい。ムリ・ムダ・ムラを防ぐというようなマネジメントの教えなど一切通用しないのである。
※お客様の要求を満たすためには、ムリムダムラが発生し、混乱が生まれる。混乱することこそ正しい。
このことを知らずに、我社の都合だけを考えていたら、お客様はすべて我社を見捨ててしまう。そして倒産。企業はお客様があるから生れたのである。お客様の要求を満たすことこそ企業本来のつとめなのである。
※そもそも企業はお客様があるから生まれた。お客様は我が社の都合は全く関係ない。
会社の中の仕事の円滑化など考えていたら、会社はつぶれてしまうことを心に銘記して、お客様の都合だけを考えて行動するのが企業本来の姿なのである。
※社内の円滑化を考えていたら、会社はすぐに倒産してしまう。お客様の都合だけを考える。
環境整備なくて事業なし●
「環境整備こそ、すべての活動の原点である」ということは、既に『社長の姿勢』のところで述べたので、詳しくはそちらに譲ることとして、ここでは復習の意味で、その威力の一端をのべることとする。
※環境整備こそ、すべての活動の原点である
F社は、小型土産品のメーカーで、業界有数の地位を占めている。
バブル不況で業界は沈滞していた。その中で平然としているF社をねたんで、誰がいったか分らないが、F社に対するデマが飛んだ。
「この不況時にF社長はベンツを乗り廻している。こんな会社は遠からずつぶれてしまう」というのである。
むろん、こんなデマを相手にするようなF社長ではそんなデマの最中に、ある大手の問屋の社長がF社を訪問した。デマの真偽をたしかめるためであることは間違いない。
その社長は、数万点の商品が目を見張るような整然たる保管をしているだけでなく、会社の隅々までチリ一つない状態を見て、内心はかなり驚いたに違いなかった。
問屋の社長は、帰社するや直ちに「あんな清潔で見事なばかりの整頓をしている会社が、つぶれる筈がない」という感想をもらした。
これが業界に伝わって、「F社倒産近し」のデマは、アッという間にけし飛んでしまったのである。
K社は、エレクトロ部品の大手メーカーである。
社長自ら男子トイレの清掃をしている。便器はブラシなど一切使わずに素手で行なうのである。この社長の姿を見て、社員は負けじと懸命の環境整備を行なう。どこもかしこもピカピカに磨かれているのである。
ある時、主要得意先の幹部がTQC査察に来た。
K社長は、この人を男子トイレに案内して、自ら便器の排水孔の最下部まで、新しいタオルを使ってゴシゴシ拭った。タオルは全くよごれなかった。
次に、素手で爪を立ててガリガリ掻いたが、やはり爪には何もつかなかった。
これを見た来訪した幹部の方は「分った。現場を見る必要はない」と言って帰っていったという。具眼の人である。
K社の主要得意先のうち、工賃が安くてどうしても採算に乗らない一社の仕事を返上した。年商にして二億円であった。
これを知った数社の社長が打診のためにK社を訪れた。
社内を一巡して見て歩いた社長たちは、あまりにも素晴らしい環境整備に、一様に感嘆し「何も聞くことはない。うちの仕事をしてもらいたい」といって帰られた。
それらの会社からの仕事は年商四億円に及び、しかも採算性はズッとよかったのである。もう一つ同じF社の話。
F社は、新潟県の赤倉スキー場の傍にあるスキー客向けの旅館を一軒買いとった。
F社長が先頭に立ってその旅館の環境整備を行なった。「狭い、古いは恥ではない。環境整備をしないのが恥である」というスローガン通りに、F社長が先頭に立って整備を行なった。F社流の徹底したもので、どこもかしこもピカピカに磨き上げたのである。
旅行業者がつけた宿賃は、シーズン初めは四千円であった。それが翌年の四月には六千円にまで上がった。
それにもかかわらず、高いとか、サービスが悪いとかのお客様のクレームは皆無で、みな満足して帰っていったという。
「宿賃を値切られるのは、値切られるほうが悪い」という私の主張は、ここでも証明されたのである。
環境整備は、これを行なった人々の心に革命をもたらす。
「如何なる社員教育も、どんな道徳教育も、足許にも及ばないものだ」というのが私自身でイヤという程思い知らされていることである。しかも、ただ一社の例外もないのである。
多くの社長は、というよりも日本中の殆んどの社長がこのことに気がついていないのは誠に残念である。
社運の隆盛は、運というよりも、自らの努力で勝ちとるものである。というのが私の持論だが、それは、まず環境整備から始めるべきである。これは、既にのべているように、音の人がわれわれに教えていることであるのに、それに気付かないのは誠に残念である。
環境整備の土台の上に、経営計画を導入すると、全社員が懸命にこれの実現に努カする姿は、社長自身の驚嘆と社員への感謝が同時にわき起るのである。
「他山の石」に学べ――倒産企業の教訓●
佐世保重工と来島ドック
筆者が佐世保重工にお伺いしたのは、日の出の勢いだった造船業界の前途に、不安の影がちらつき始めた頃だった。韓国造船業の躍進のためである。
各社はそれぞれに新事業に進出することにより、業績低下に備える戦略をとって佐世保重工も新事業のための手を打ってはいたように見えたが、危機感の薄いためか、どうみても新事業に懸命の努力をしているようには見えなかった。
ある時、社長は佐世保工場に出向いた。私も同行した。社長は、工場巡視と工場幹部との会話をまず行なった。次は職長との懇談会だった。職長との懇談会を終った社長をつかまえた私は社長に直言した。
「社長、あなたは一体何を考えているのか。今、あなたの会社の最重要問題は、来るべき造船不況に備えての新事業の推進である筈だ。造船各社は、それぞれに懸命の努力をしているではないか。それなのに、あなたの会社の新事業の方向づけはまだできていない。 一刻も早くこれを決定して行動に移らなければならない重要な時だ。
そのための社長の行動は明らかに市場の情勢把握による新事業の決定である。場合によったら外国に出向く必要がある。それをやらずに我社の工場観察を行ない、職長と懇談会を開いている。職長と懇談会を開いたら、新事業の方向が決まるというのか」と。
社長は何もいわなかった。やがて、造船不況が来た。そして、まっ先に倒産した大手は佐世保重工だったのである。他社は新事業が物をいって、何とかしのいだのだが、佐世保重工は力になる新事業は何も育っていなかった。
社長の役割は事業の存続を第一とすることは論を待たない。来るべき我社の危険を発見し、これに備えることである。それをやらずに、内部にばかり目を向けていたのでは倒産しない方がおかしいのだ。
その佐世保重工の再建を引受けたのが来島ドックの坪内寿夫である。
当時の坪内寿夫は「経営の神様」として、殆んどの経営者やマスコミの絶賛をうけていた。その中で、私だけは真向からの坪内批判を行なって多くの人々から「一倉は経営の神様を批判しているのはおかしい」と思われていたのである。
私の坪内批判は次のような理由による。
l、企業再建で忘れてはならないことの一つは、何の罪もない社員の生活を、如何にして守るか、である筈なのに、反対のことをやっている。再建計画自体が社員の生活を守るという目的を持っているのだ。
2、事業の最高責任者であることを全く忘れて、見当違いの「部課長特訓」を真っ先にやっている。会社の運命をきめるのは部課長ではないのだ。
3、佐世保重工破綻の教訓を来島ドックの経営に生かすことを知らない。
という三点がその主なものである。少しく補足しよう。
まず第一には、佐世保重工の社員の給与を大幅にカットしたことである。その理由は、「来島ドックの給与より遥かに高い。倒産した会社の社員の給与が、再建を引受けた会社より高いのはおかしい」というのだが、これは理論的には正しい。しかし、非情極まるやり方である。
人間というものは、所得に合わせて生活設計をする。給与が高ければ、この高い給与に合わせて住宅ローンを設定する。マイカーを買う。
それを、いきなり大幅な給与カットにあったら生活はどうなるか。日常生活を切りつめたくらいではとても追いつかない。ローンが払えなくなる。車の月賦が払えなくなる。生命保険の掛金が払えなくなってしまう。
だから、この生活のピンチに労働組合ではストライキをした。
「つぶれた会社の社員がストライキをするとは何事か」というのは、冷たい批判である。
では、「どうすればよいか」が再建を引受ける人の自らに対する設間ではないか。それには、再建を引受ける前に来島ドックの労組を説得すべきであろう。
「佐世保重工の給与は来島ドックより大幅に高い。だからといって大幅に切下げたら佐世保重工の社員の生活は成立たない。だから月々の給与を下げるわかない。そのかわり、ボーナスは来島の半分とし、昇給は来島と同一水準になるまで行なわない。
これが「社長案」である。不服ではあろうが、佐世保重工の社員とて、諸君と同じ労働者ではないか、その生活を守るために我慢してもらいたい」と。
もしも、この案を来島ドックの労組が呑まれなければ、再建を引受けなければいいのだ。
何も佐世保重工の経営を引受けなければならない義理はないのである。また、この案を佐世保重工の労組が呑まなければ、これまた再建を引受けなければいいのだ。
これが筆者の考えである。
第二の、部課長特訓とは何事であるか、と私はいいたい。部課長に倒産の責任はないのだ。またこんなことをしたところで、再建には何の効果もないことは明らかである。
再建を引受けるのなら、まず再建計画をつくるのが第一である。この再建計画を、銀行、債権者、労組に示して了解をとることではないのか。もしも、この了解工作がうまくいかなければ、これまた再建を引受けなければいいのである。
これが、責任ある人の態度ではないだろうか。それを、再建を引受けてから給与のカットを行なうというのでは明らかに間違いである。
「会社の運命は社長ただ一人できまるものなのだ。佐世保重工の再建は坪内寿夫できまるのだ。(アサヒビールの再建は、樋口廣太郎社長ただ一人で行なったではないか)
部課長がいかに優秀であろうと、懸命な努力をしようと、再建には何の力もないのだ。それの分らぬ社長には、社長の資格が始めから欠けているのである。
再建社長は、役員、幹部社員に対して自らの決意を披涯し、再建計画を示してその困難さをよくよく認識させ、社長を中心として全社一丸となっての死にもの狂いの努力を要請すべきである。いうまでもなく、その結果の責任は社長只一人が負うことを明確にしなければならない。そして、役員以下は実施責任のあることをである。
これが社長ではないのか。
第二の、佐世保重工の破綻の教訓を、いかに生かすか、である。破綻の最大の原因は、タンカーしか作っていない、という完全な単品経営にある。急激に変ってゆく客観情勢に、単品経営では変化に対応できないからである。
「佐世保重工は単品でつぶれた。多角化というのは口先だけで真剣に取組んでいなかったからだ。まてよ、わが来島ドックも実質単品経営ではないか、これは危険だ。真剣に多角化を進めなければならない」と。
日本の繊維業界は、沖縄返還の代償として、対米輸出制限を受けて大不況に落ちこんでしまった。しかも、政府からは見捨てられて、何の援助も特典も与えられなかった。
その中で、各繊維会社は必死の努力で革新を行なって見事に生れ変った。売上げの五〇%以上を繊維に依存している会社は、大手には一社もなくなってしまった。
かつての停滞企業は成長企業へと大変身をとげたのである。かつての繊維会社がコンタクトレンズの大手になり、紡績会社が工作機械を作っているという変身ぶりである。
楽器メーカーが二輪車をつくり、さらにキャディー・カート、ウォーター・スクーターなどにも乗り出している。
かつてのカメラの大手が、カメラで十分やってゆけるのに、新たに事務用什器やオフィス用品に進出して、カメラ業界の不況時にも、全くビクともしない総合業者になってしまった。
カメラメーカー専業に近い業者は、新商品競争に精も根も尽きんばかりの努力をせぎるを得なくなっているというのにである。来島ドックとて、早くから多角化に取組んでいれば、現在のような状態に陥ることはなかったであろう。
たとえば、鉄骨、橋梁、鉄塔のような事業なら、来島ドックとて十分にできるのである。
東京発動機「トーハツ」として知られた二輪車のメーカーで、太平洋戦争後にいち早く二輪車の生産を開始し、名門の名をほしいままにしたのである。
トーハツの名声は、そのガッチリとした頑丈な車体にあった。戦後の、これといった運搬手段がなかった時には、トラックとしての機能と機動性を併せ持つ唯一の二輪車だった。
そのために、いち早く二輪車業界のトップとして君臨したのである。
経済の復興とともに運搬手段も次第に充実してきた。ダイハツのミゼットは、三輪車のはしりで、「ウバ車」の愛称によって急速に普及した。
次第に大きな三輪車が現われ、四輪トラックも姿を見せて、かなりまとまった運搬ができるようになってきた。それにつれて、ダイハツのオートバイは次第に運搬車の役割よりも、本来の乗りものとしての機能を要求されるようになっていった。
昭和三十年頃になると、ホンダ、ヤマハの人気は高まり、依然としてトラックのイメージの抜けない泥臭いトーハツの人気は落ちていったのである。
それにもかかわらず、トーハツの設計方針は変らなかった。そして、 一九五七年型では致命的ともいえる売上減少を来して大ピンチに追いこまれてしまった。
その頃、東発の下請工場に勤めていた筆者などは、東発の資金繰り悪化による支払いの遅延で、今では死語になってしまったク給料遅配クに泣いたのである。
あとは、ズルズルと業績低下が続いた末に倒産してしまったのである。私の勤めていた会社はそれより早くつぶれてしまった。
私は、この経験から二つの大切なことを学んだ。一つはお客様の要求の変化を把えることができなければ、会社はつぶれてしまうということである。もう一つは、オンリーさんの危険である。
それまでの筆者は、もともと生産技術者だっただけに、企業内の生産性の向上にばかり目を向けていて、生産性さえ上げれば企業の業績は上がるとばかり考えていたことの誤りを痛感させられたのである。オンリーさんの危険についても同様である。
この経験が、私に「事業の経営」について、開眼のキッカケとなったのである。
マミヤ光機
マミヤ光機のスタートはカメラである。
一時はかなりの業績を上げたが、冷厳な市場原理(競争原理)により売上げは次第に落ちていった。市場戦争に破れた企業の生きる道は、輸出に活路を見出すか、新商品である。
マミヤ光機はプロ用カメラヘの進出である。そして、従来の民生用カメラとの二本建てで事業を行なっていた。
ディーラーは大沢商会であった。その大沢商会の倒産による連鎖倒産である。「技術あって経営なし」これがマミヤ光機の倒産原因である。
その第一は、「我社は作ればよい。売るのは他社に任せる」という職人経営だった。
いかに優れた商品だろうと、他人任せの販売ではダメである。その販売会社がつぶれてしまえば、それで終りである。
「自らの商品は自らの手で売る」これが正しい態度である。その販売も、「最大の得意先でも、総売上げの三〇%以内」として我社の安全性を確保することこそ、社長の正しい態度である。
ところが、流通業者は「我社を総代理店にせよ」という要求をしてくる場合が多い。これは「謝して断わる」でなければ社長ではない。というのが私の持論である。
もう一つの誤りは商品政策である。誤りというよりは無知というほうが正しい。
民生用とプロ用という二本建は、実は本当の意味での二本建ではない。民生用は市場原理からいえば「限界生産者」だからだ。
限界生産者の運命は、長期的には生き残ることができないからである。だから、マミヤ光機は実質的には単品経営であり、しかも、将来の見込のない民生用カメラに我社の貴重な資源を投入していたからである。
この資源は、プロ用カメラに投入すべきである。こうした商品は、大手の参入は考えられず、高収益安定商品だからである。そして、プロ用のカメラで世界のトップを狙うべきである。もしも、現在トップで世界占有率四〇%以上ならば、その強味の上に立って、何か別の将来性のある事業又は商品に投入することこそ本当である。
そして、二本柱から三本柱という総合化の道をである。このように、企業の資源というものは、将来の優れた機会に投入するものであって、将来性のない商品に投入して、資金と時間をムダにしていては、事業の繁栄は望めないのである。
社長たるもの、商品の市場特性を知らず市場原理を知らずして、事業の経営はできないことを知らなければならないのである。
サンウエーブと日本熱学
どちらも、倒産した会社である。サンウエーブは再建に成功しているが……。どちらも、資金運用倒産といわれている。
サンウエーブは、戦後の住宅産業の波にのり、ステンレス製の流し台を開発して、住宅公団の指定を受けてから急成長を開始した。それも、ただただ増産に次ぐ増産である。
そのために、ムチャクチャな設備投資を繰返していった。始めのうちは銀行が資金を貸してくれたが、あまりのムチャクチャぶりに融資をしなくなった。それでも確固たる資金計画もなく、なお投資を続けたために、ついに資金繰りに詰まっての倒産であった。
日本熱学の倒産の原因は、「コイン・クーラー」だといわれている。使いたい時だけコインを投入すればいいという時間制であった。これは、実質的には、「リース」である。
リース業は、使用者が増えるにつれて運転資金が急増する。結局はこれがネックになって業績は停滞し、果ては倒産に追いこまれてしまったのである。
どちらの会社も、資金運用を知らなかったのである。売上げが増えると、資金繰りが苦しくなることは誰も知っている。
それに加えてサンウエーブは放漫な設備投資、熱学はリースというのだからたまったものではなかったのである。
資金運用は、事業経営の中で最も大切なものの一つでありながら、これの分っている企業は極めて少ない。
特に、大型の設備投資をする時には、資金運用計画は絶対的なものである。これを知っていれば、サンウエーブも日本熱学も倒産しなかったかも知れないのだ。この可能性は大きいのである。
大型借入金返済のための年度別新規長期借入金額も、借入金残高の最高になる年度も、― これを過ぎれば、次の設備投資が可能となる。―そして年度毎のバランス・シートも、財務分析もすべて前向きにできる。五年後の姿でも、十年後の姿でも、掌の上で指さすように明らかになるのだ。
「こよなき道じるべ」―これが資金運用計画なのである。資金運用計画については、『経営計画・資金運用』篇に詳述してある
業績不振の会社は見ただけで分る●
人には「人相」があり、家には「家相」があるように、会社には「社相」というものがある。「相」というのは外部に現われたものである。
では、業績不振の会社はどんな「社相」をもっているか、この点にまずふれることとしよう。それは、どんなものだろうか。
- 環境整備ができていない
- 事務所の建物が身分不相応に立派で広く、事務員が大勢いる
- 事務所の机の配列が「学校式」になっている
- 貼紙が多い― その多くは社員の姿勢や心得についてのもの
- ハヤリモノの精神運動をやっている
というのが主なところである。以下、少しく補足説明をさせていただく。
環境整備ができていないということは、活動の原点からしてダメだということで、これができていないのでは、何をどうやっても効果は不十分で中途半端になっている、ということである。くわしくは既述してあるので、ここでは述べないが、私が親しくさせていただいている優れた社長各位は、この点を十分に心得ている。
そして、得意先、購買先についての評価は「環境整備を見るだけで十分」と口を揃えておっしゃる。この評価は絶対に誤ることがないことは、私自身の数多くの経験からもいえるのである。
第二の、事務所の建物が立派すぎるというのは、社長の虚栄的な性格を象徴しているからである。こういう会社の社長室は一段と立派である。広い部屋にジュータンが敷きつめられ、デラックスな家具、額、置物がある。
立派な社長室、立派な事務所に入ると、社長をはじめ社員には必ずホンワカムードが起るものだ。「うちの会社も、こんな立派な建物に入れるようになった」という気持を持つようになるからである。
もう一つ、事務所は、それ自体収益を生みださない。それに貴重な資金をつぎこむのは明らかに厳しさが足りない証拠である。
机の配列が学校式になっているのは、誤ったマネジメント病にかかっているシルシである。内部管理指向型である。机の配列をどう変えようと、会社の業績には全く関係ないのだ。それを、ワザワザ、スペースを多く要する配列をするのは明らかに間違っているのである。 一坪一坪に、血の出るような金がかかっていることを忘れるようでは落第である。
貼紙には、何等かの社員の心得が書いてある。「整理整頓」とか、「期待される社員像」とか、様々である。こんな、お説教めいたことをいくら貼りだしても、社員は全く関心を示さないものである。こんなことで社員にドライブをかけても、効果はゼロである。
第五に、ハヤリモノの精神運動を行なっているのは、社長のリーダーシップが欠けていることの証拠である。
ハヤリモノだから、次々と変ってゆく。ヤレ、目標管理だ、ZDだ、CIだというが、それらは何れも社長自身のものではなく、誰かが提唱したものである。つまり、「借りもの」なのだ。
社員を指導するのに、「借りもの」とは情ない。つまり、自分では何も持っていないのだ。他人がどうであれ、自らの信ずるところを堂々とのべて、これを行なわせるのが指導者である。
そうしたことは、経営計画書に自らの方針として明示すべきものであって、そのようなものがない証拠である。自らの指導理念がなくて、正しい事業経営など、できる筈がないのである。
何故、こんなことが大まじめで行なわれるかというと、事業の経営とは何であり、社長は何をしなければならないかと、誰も教えてくれる人がいないために、社長は自分だけの考えで事業を経営しなければならないからである。
どうしてよいか分らずに悩み苦しむ。そこで経営学と称する経営学にあらぎる「内部管理学」にとびつく、そして、内部管理学の教えに従って間違ってしまう。
こんなことを行なっていてもうまくいく筈がない。悩み悩んだ末に、ワラをつかむ思いで、あるいはタメシに、或いはヒヤカシで私の社長ゼミに参加された社長は大ショックを受ける。
「日からウロコが落ちた」「横腹に短刀をつきさされた」「ハラワタをつかみ出された」というような感想を私に語って下さる社長さん達が大勢おられる。そして、その時から社長が変ってしまう。
初めて、「社長は何をしなければならないか」が分り、正しい道を歩み始める。すると、ボロ会社が立派な会社に変ってゆくのである。
それは、
- お客様あっての会社である。
- お客様の要求を満たすことによって、初めて経済的成果を手に入れることができる。ということを認識するからである。
今まで、何年も何年も迷い、苦しみながら堂々めぐりをした会社が、正しい道をみつけ遅れを取戻すために、「身体が三つほしい」ということになるのである。
経済的価値の創造原理●
業績不振の会社の社長は共通的な考え方があるのと同様に、優秀会社の社長にも共通的な考え方と行動がある。それは、業種、業態、規模などの一切の違いを超越している。
※業績不振の会社の社長は共通的な考え方があり、優秀会社の社長にも共通的な考えと行動がある。
優秀会社に共通している考え方や態度こそ、「経済的価値の創造原理」であることは間違いない。
それをまとめてみると、次のようになる。
- 怠慢追放
- 成果はお客様から得られる
- スクラップ・アンド・ビルド
- 集中
- 動機づけ
である。これについて、少しく述べてみよう。
1 怠慢追放
社長の怠慢は次の3つになる。第一には「自分で決めようとしない」ことである。躊躇邊巡、陣後督戦、民主経営などなど社長に無用のことである。
※自分で決めること。躊躇せずにすぐに決定すること。また人に決定を委ねない。それは逃げになる。
社長の役割は「決定」にある。会社の運命は決定によって決まるのであって、「やり方」によってきまるのではない。決定ができない社長程始末に悪いものはない。会社自体の動きがとれないからだ。
※社長の役割は「決定」にある。会社の運命は決定によって決まるのであって、やり方によって決まるのではない。
決定に「誤り」はつきものである。「誤り」を恐れたら何もできない。誤りをおかさない社長など絶無である。名社長の条件は誤りを犯さないことではなくて、「誤り」を素早く発見して、これを正す、ということである。
※決定に「誤り」はつきものである。誤ってもすぐに修正して、迅速な決定を繰り返す。
誤りを恐れて決定が遅れ、機を失してしまうことこそ恐ろしいのだ。会社をつぶす危険があるからだ。
第二には、「お客様のところに行かない」ということである。これこそ致命的な怠慢である。
※お客様のところに行かないことは怠慢である。事業経営において致命的な怠慢である。
第三には、「会社の数字」を見ない社長である。ゆるすべからぎる怠慢である。社長の役割は、「数字をつくりだす」ことではないか。数字を見ずに、何をどうしようというのか、ということになる。
※社長の役割は「数字をつくりだす」ことである。そのためには会社の数字を見ることが必要である。毎日確認すること。
会社の数字なんか、加減乗除という初歩の算数ではないか。社長として「どんな数字を見なければならないかが分らない」というのも、実は数字を見ていないことになる。分らなければ勉強すれば分るようになるのだ。
※数字なんて加減乗除という小学生レベルの算数である。
私が永年、定期的に行なっている、「経営計画実習ゼミ」でも、数パーセントの社長は数字が全く分らないという嘆かわしい状態があるが、そういう社長は自分の責任をどう考えているのだろうか。
2 成果はお客様から得られる
合理化、能率、品質というようなものは、それ自体は結構なことではあるが、それは内部管理の優秀さの実証であっても、必ずしも優秀企業の実証であるとは限ら商品の収益性が低かったり、販売力が弱くては、優れた業績は期待できない。企業存続に必要な収益を手に入れることによってのみ会社は生き続けることができるのである。
この、何とも当り前のことが、意外な程分っていない。収益は、ただ一生懸命努力することによって得られるのではなくて、商品が売れることによってのみ手に入れることができるのである。
収益は会社の内部にはない。内部にあるものは費用だけである。収益は外部にあるのだ。つまりお客様のところにあるのだ。
それは、お客様の要求を満たすことによってのみ手に入れることができるのであって、他の如何なる手段によっても手に入れることは不可能なのである。
だから、企業のすべての考え方は、お客様の要求から出発し、ここに返ってくる。この認識にもとづく活動のみが会社を存続させることができるのである。
3 スクラップ・アンド・ビルド
市場の変化は目まぐるしい。お客様の要求はドンドン変ってゆく。そのために、我社の事業や商品は、市場とお客様の要求に合わなくなってゆく。過去において、優れた収益をあげた商品が、次第に、ある場合には急速に収益力を失ってゆく。
反対に、新しい商品、新しいサービスが生れる。その中には、お客様の要求に合うものもあれば合わないものもある。その中からお客様の要求に合ったものだけが生き残る。
だからこそ、いかなる会社でも新しい商品を開発してお客様の判定を受けなければならないのだ。
これがスクラップ・アンド・ビルドでありこれをどうやるかで会社の運命がきまってしまう。という厳しい競争社会になってきたのである。社長がグズグズしていると、たちまち置いてゆかれてしまうのである。
ということは、逆に考えれば、我社の発展の機会は多くなってゆく、ということである。その機会をつかめるか、つかめないかは、社長がどれだけお客様のところへ行って、お客様の要求を教えてもらうことができるかどうかできまるのである。
4 集中
企業の持っている資源(人・物・金・時間)は有限である。それにひきかえ、お客様の要求は無限である。
だから、どんなマンモス企業であろうとも、お客様の要求をすべて満たすことは、初めからできない相談である。お客様のすべての要求を満たそうとすると、すべての要求が満たせなくなってしまうのである。
とすると、有限の資源しか持っていない企業のあり方は自然にきまってくる。それは、お客様の要求の特定の部分に限定し、その中でお客様の多様な要求を満たす。ということである。
お客様の要求の特定の部分に事業を絞り、これに我社の資源と努力を集中することである。これが集中の原理である。古くからの諺に、「二兎を追う」「ニ足のワラジをはく」というのがあるが、これらは分散の危険をいましめたものである。
5 動機づけ
この原理自体の意味は自明のことなので説明の必要はないだろう。従来のマネジメントの分野で、これ程多く論じられているものはない。そして、これ程実効の上っていないものもない。
「社員にどのようにしてやる気を起させるか」というような次元の低いことばかりあれこれいわれているが、これが間違っている。
最も重要なことは社長自身の動機づけなのだ。これなくして社員の動機づけなんか考えてもダメである。
社長の動機づけは、社長自らが、自らの動機づけを行なわなければならないのだ。それの最良の方法は社長自らのお客様訪間である。お客様から動機づけられることが第一である。
これをふまえて、社長自ら経営計画を立てることである。計画を立てている段階で次々と動機づけられてゆく。経営計画ほど強い動機づけはないのである。
さらに、経営計画発表会によって全社員が動機づけられた。そして、社長のリーダーシップによって全社員が変ってゆく。
しかし、何といっても最大の動機づけを受けるのは、経営計画を作った社長自身である。その実証は、社長各位の私に対する次の言葉である。「身体が三つほしい」というものである。
右の五項は、単独に或いは複合して経済的成果を高めることができるわけであるが、では、実際にはどのようなことだろうか。
それを、次章以下において実例によって考えてみることとしよう。
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