新しい製品の革新は人間の専売特許ではない。チンパンジーは枝から葉を剝ぎ取り、シロアリを釣るために使う。ニューカレドニアのカラスはヤシに似たパンダナスの葉から釣り針を作りだし、枯れ木の穴から昆虫を釣り上げる。動物が創意工夫をこらす例は数あれど、この世界をちらりと一瞥しただけでも、人間がまったく異なる次元で活動をしていることは誰の眼にも明らかだろう。地球上のどんな環境のなかでも、わたしたちは快適な家を建てて住むことができる。多種多様な食べ物を収穫、貯蔵、供給し、食べることができる。地球の端から端まで互いに瞬時に交信できる。そして、あらゆる種類の複雑な道具を使って自らを楽しませることができる。 その多くはつい最近になって見つけだされたものであり、一世代前には存在さえしなかった。にもかかわらず、この地球における人間の生活はほかの動物のものとはずいぶんとちがって見える。一〇〇年前にさかのぼっても、一〇〇〇年、一万年、さらには一〇万年前にさかのぼってもそれは変わらない。これらのすべての期間、人間は自ら発明した衣服、住み処、道具、戦略を使い、捕食者と自然の猛威から自分たちの身を護り、はるかに大きく凶暴な動物を捕まえて食べてきた。 先祖や仲間たちのイノベーションは現代の生活のあらゆる側面に浸透している。それらのイノベーションのおかげで、わたしは明るさと温度が管理された家を一歩も出ることなく、キーボードをたたき、たまに食事やコーヒーのための休憩をとりつつ、会ったことのない人々に物語を伝えることができる。そのあいだも地球の裏側では、わたしの親戚であるチンパンジーはいまだ木の枝に坐り、強い陽射し、土砂降りの雨、寒い夜を耐えながら日々を生きている。人間の祖先が六〇〇万年前に別れを告げたときとまったく同じように、チンパンジーたちは素手のまま生活している。この両者の立場の差をなにより際立たせる特徴こそ、人間の創作力であることはまちがいない。ここで、ある矛盾が浮かび上がってくる。技術イノベーションが人類の決定的な特徴だとすれば、ほとんどの人が何も発明したことがないのはなぜだろう? 技術イノベーションについて調べる研究チームが、無作為に選んだ人々にこんな質問を投げかけるとする──道具、玩具、スポーツ用品、自動車、家電などを含め、なんらかの製品を家で改造したり、何かをゼロから作ったりしたことはありますか? この問いに対して、「三年以内にやったことがある」と答えるのはたいてい五パーセントほどだという* 1。革新者の割合は国によって少し異なるものの、一〇パーセントを超える国はない。これほど革新的な種にとって、一〇人か二〇人にひとりしか革新者がいない、というのはひどく低い数字のように思われる。とはいえ、わたし自身の人生を振り返ってみても、一度でも何かを発明した記憶などない。わたしには独創的な性格の友人が何人かいるものの、彼らのうち五パーセントが(過去三年どころか)これまでに何かを発明したことがあるとはとうてい思えない。 これらの数字は、種としてのホモ・サピエンスと個々の人間とのあいだにとてつもないズレがあることを教えてくれる。ほかの種を見てみると、決定的な特徴がメンバー全員によって共有されていることがわかる。たとえばゾウは巨大で強いが、この「巨大で強い」という表現はわたしがこれまで人生で見たほぼすべてのゾウに等しく当てはまる。チーターは俊敏、ライオンとトラは獰猛、イルカは陽気。これらの単語もまた、その種のほかのほぼすべての仲間に当てはまる。 ホモ・サピエンスという種と個々の人間とのあいだの革新性におけるこのズレについては、少なくとも三つの解釈が考えられる。ひとつ目は、わたしたちの多くには発明の才能がないというもの。ふたつ目は、ありきたりな発明はとうのむかしにすべて考えだされたというもの。三つ目は、多くの人には発明の才能があるが、その革新的な性格を新しいモノを作りだす方向に向けていないというもの。 では、ひとつ目の可能性から検討してみよう。ほとんどの人は革新することに不向きで、一握りの天才のみが新しいものを発明する能力をもっているとしたら? 電話、電球、ジェット・エンジンなどの並外れた技術イノベーションは、この第一の可能性を支持するものにちがいない。発明を生みだす洞察力は、ありふれた精神の持ち主とは無関係のもののように思われる。だとすれば、技術イノベーションは遺伝子変異と似ているのかもしれない。そのようなイノベーションが起きるのはきわめてまれなことで、ほとんどは取るに足りない変化か、あるいはまったく価値のないものばかり。しかし、ごくたまにある画期的な発明が全人類のあいだに浸透し、種に大きな影響を与える。この仮説が正しいとすれば、種と個人のあいだには根本的なズレがあるということになる。ほとんどの人間はまったく革新的ではなく、生活の質を向上させる発明を生みだしてくれるのはほんの一握りの天才だけ。残りのわたしたちはその立場をわきまえ、天才たちからただ恩恵を受けていればいいというわけだ。 あるいは、ほとんどの人には実際には発明の才能があるにもかかわらず、単純でわかりきった製品がすべて発明し尽くされているとしたら? だとすれば、つい数百年前までは誰にでも便利な発明品を生みだすチャンスがあったのかもしれない。この説が正しい場合、わたしたちは非常に珍しい時代に生きていることになる。発明がきわめて複雑になり、天才と大規模な技術屋のチームしかそのような発明を生みだせなくなった時代だ。たとえば iPhoneのような超複雑な発明は、この説に当てはまるようにも思われる。このたったひとつのツールを作り上げるには、文字どおり数百もの特許が必要になるからだ。人間の発明についてのこのような考え方はごく一般的なものであり、わたしがイノベーションについて話をすると、たいていこのような意見が出てくるものだ。そういう人には、わたしはきまってこう訊くことにしている──スーツケースの車輪は? 少なくとも蒸気船が発明されたあと、人々はわりと容易かつ定期的に世界じゅうを旅してきた。何世代にもわたってそのような旅行者がいたにもかかわらず、一九七〇年までスーツケースに車輪を取りつけようと考えた人はいなかった。それどころか発明後すぐには流行せず、車輪つきスーツケースが一般的になったのは、伸縮式ハンドルが装着された改良版が発売された一九八七年以降のことだった* 2。つい最近まで車輪つきスーツケースが存在しなかったという事実は、空港での一連の流れを考えるとより驚くべきものになる。当時の旅行客は、車輪のついていないスーツケースを空港まで持っていき、わざわざポーターに現金を支払って運んでもらった。ポーターは家族全員分の車輪なしスーツケースを持ち上げ、車輪つきカートに載せて楽々と押し、わずか五〇メートル先のチェックインカウンターまで運んでいった。 実際に車輪のないスーツケースをもって移動したことがなければ、それがどれほど面倒かを理解するのはむずかしい。一九八〇年代はじめ、アラスカの実家からはるか遠く離れた東海岸の大学に通っていたわたしは、毎年の夏休みのはじまりと終わりに、大きく重いスーツケースふたつを大移動させなくてはいけなかった。わたしはこの地球上でもっとも背の高い人間ではないので、肩をすぼめて肘を曲げるのを忘れるたび、スーツケースは地面にぶつかってしまう。車輪のないスーツケースを引きずっている姿はどこまでも無様なものだ(スーツケースも壊れやすくなる)。わたしはなるべく肩をすぼめて肘を曲げた姿勢を崩さないようにしつつ、巨大な空港の室内を急いだ。が、そのあいだに固いスーツケースが何度も脛や膝に激しくぶつかった。チェックインカウンターに着くころには、わたしの首は硬直し、脚は痣だらけで、全身が汗だくだった。 大陸を横断する飛行機の旅の幕開けとして、これ以上に悲惨なものなどあるだろうか? しかし大学生だったわたしにとって、ポーターに手数料を支払うというのは、寮に着いたときに食べられるピザが一切れ減ることを意味した。ほかの多くの学生と同じように、わたしもスーツケース運びの苦しみをただ我慢するしかなかった。信じられないほど単純で新しい何か──人生を楽にするどころか、大金をもたらしてくれるもの──を発明するチャンスが眼の
まえに転がっていたなど、ただの一度たりとも頭をよぎったことはなかった。わたしたちの生活のある側面を大いに改善する、信じられないほど単純な発明が次にいつ生みだされるのか? それを予測できるほどの洞察力をわたしは持ち合わせていないが、またいつか実際に起きるということは断言できる* 3。 このスーツケースの例は、三つ目の可能性へとわたしたちを導いてくれる──多くの人には発明の才能があるものの、進んで製品革新しようとはしない。この説が正しいと仮定すると、技術イノベーションは必ずしも天才的な才能を必要とするものではなくなる。結局のところ、車輪つきスーツケースの開発にそれほど高度な知識は要らないはずだ。むしろ技術イノベーションがまれにしか起きないのは、ほとんどの人が別の場所に力を注いでいるからにすぎない。では、別の場所とはどこだろう? この問いに答えるために、イギリスの動物行動学者ジェーン・グドールが目撃した一連の驚くべき出来事について考えてみたい。これは、彼女がタンザニアのゴンベ国立公園のチンパンジーたちを観察しているときに起きたことだ。これからお伝えする物語は、ひどく不快なものであることを事前にお知らせしておきたい。わたしの場合、はじめて読んだときには残像が何日も頭から離れなかった。 この物語の簡単な背景は次のとおり。メリッサは赤ちゃんを生んだばかりのチンパンジーだ。メリッサの群れには、パッションという名の別のチンパンジーがいる。パッションにはポムという思春期の娘がいるが、このパッションとポム親子は意地の悪いサイコパスである。そのときの様子についてグダールが綴った文章を、少し要約して紹介する。 一七時一〇分、メリッサは生後三週の娘ジェニーと一緒に木の下のほうの枝に登った。すると、パッションとその娘のポムが協力しながら攻撃を始めた。パッションがメリッサを地面に押しつけ、顔と手に嚙みついた。その隙にポムは赤ん坊を引き離そうとした。メリッサはパッションの激しい攻撃をなんとか交わしつつ、ポムと闘った。 パッションがメリッサの片手をつかみ、繰り返しその指に嚙みついた。同時にポムはメリッサの膝に手を伸ばし、赤ん坊の頭にかじりついた。パッションが片足でメリッサの胸を押すと、ポムもその両腕を引っ張った。 ついにポムは赤ん坊を奪い、そのまま木の上に逃げた。メリッサもあとを追いかけて木に登ろうとしたが、途中で落ちてしまう。彼女は地面にとどまり、木の上でパッションが赤ん坊の身体をつかみ、その肉をむしゃむしゃと食べる姿を見やった。わが子を失ってから一五分後、メリッサはパッションに近づいていった。二頭の母親は互いに見つめ合った。しばらくしてメリッサが血の滴る手を伸ばすと、パッションはその手に触れた。パッションがそのまま赤ん坊を貪りつづけるなか、メリッサは自分の傷をそっとたたきはじめた。彼女の顔はひどく腫れ、手の皮膚は引き裂かれ、尻からひどく出血していた。一八時三〇分、メリッサが再びパッションに近づくと、二頭のメスはいっとき手を握り合った。 この物語についてわたしをひどく悩ませたのは、共食いという行為そのものではなかった。それはそれで恐ろしいことだったが、わたしとしては、メリッサが二頭の殺し屋とすぐに和解したという事実に驚きを隠せなかった。それどころか、これは一度きりの事件ではなかった。パッションとポムは何年ものあいだ、群れの新生児を殺して食べつづけていた。三回連続で赤ん坊を失った哀れな母親までいた。群れの様子を観察していたグダールは、ここ三年のあいだに生まれた新生児のうち、一カ月以上生き延びたのは一頭しかいないことに気がついた。パッションとポムの攻撃は単純で予期するのも容易だった。にもかかわらず、ほかの母親たちは共食い親子に対処するための戦略を考えだすことができなかった。かくして、パッションとポムは群れの繁殖活動を破壊しつづけた。ほかの母親たちもメリッサと同じで、攻撃のあいだは徹底的に抵抗したものの、しばらくすると運命を受け容れたのか、それ以上何もしようとはしなかった。残酷ではあるものの、たやすく解決できそうな問題だった。それでも解決できない彼女たちの無力さが、わたしの脳裏に焼きついて離れなかった。 自分の赤ん坊の身体が眼のまえでむしゃむしゃと食べられているにもかかわらず、パッションに手を差しだしたメリッサが何を考えていたのかを知る術はない。わたしの予想はこうだ──パッションとポムを倒す方法を見いだすことができず、ほかの選択肢も何もないという事実にメリッサは困り果て、和解するのがいちばんだと考えた。チンパンジーは非常に賢い動物ではあるものの、認知能力の幅はきわめて限られている。多くの点において、チンパンジーの問題解決能力は人間の幼児のものと似ている。シロアリ塚に行くまえに釣り竿を準備するときのように、チンパンジーは計画を立てて実行に移すことができる。しかし、異なる結果につながる複雑なシナリオを作り、それを頭のなかで試すことはできない。むしろ、チンパンジーが計画を試す唯一の方法は、実際にやってみて何が起きるかを確かめることであり、複雑な問題を頭のなかであれこれ考えることはできないのだ。 想像力とシミュレーション能力は、人間の大型の脳がもたらす大きな利点のひとつである* 4。人生には、事前に考え抜かずに解決しようとすると危険なことがたくさんある。いったん計画を進めたら、中断してやり直すことがむずかしい場合も多い。たとえばわたしが寝ているパッションとポムを殺そうという計画を立てて実行に移したとする。しかし、どちらか一方を攻撃しているあいだにもう一頭が眼を覚ましてしまい、これ以上計画がうまくいかないことがわかる。その時点で「お願いですからまた寝てください」と頼み、住み処に戻って計画を立て直すというわけにはいかない。 人間の大きな脳はこのような問題を解決するために、多種多様な偶然の事態まで考え抜いた複雑な計画を立て、頭のなかでシミュレーションすることができる。パッションとポムの例の場合、自分の赤ん坊が攻撃されて食べられたらどう対応するべきかを少し想像するだけで、誰でも解決できる範囲にある問題だと気づくはずだ。もしわたしが、警察も政府もない世界に住み、パッションとポムに襲われたとしたら? まずはとっさに反撃しようと考えるにちがいない。しかし勝ち目のない絶望的な闘いだと知ったわたしは、はじめの衝動を抑え込み、和解するふりをしながらこのサイコパスたちを抹殺する計画を立てるはずだ。 眠っているあいだに攻撃するという方法もあるし、同じく犠牲になった友人の助けを借りるという手もある。大切なのは、問題を解くために実際に何をするかではない。むしろ大切なのは、計画を立て、機能するか頭のなかでシミュレーションし、シミュレーションをとおして計画の弱点を見つけ、更新・改善し、満足がいくまでこのプロセスを繰り返す能力を誰もがもっているということだ。さらにわたしたちは、ベッドに横になりながら、暖炉のそばに坐りながら、仕事場に車を走らせながら、このような計画を立てることができる。くわえて、このプロセスに没頭しているという眼に見える証拠は何もないため、相手が頭のなかであれこれ計画を立てているのか、ただ空想にふけっているのかは誰にもわからない。しかし、そのような思考プロセスはチンパンジーの脳の処理能力を上まわるものであり、常軌を逸した二頭の共食い親子をまえにしても、チンパンジーの母親たちはみな無力だった。 チンパンジーとは異なり、地球上のあらゆる社会の狩猟採集民は、集団内のやっかいなメンバーに向き合うことを得意としている。一般的にこれらの問題は、集団からの追放や共同的な暴力といった社会的戦略をとおして対処される。狩猟採集民の共同体のなかのもっとも力の強い人物や攻撃的なメンバーが問題を引き起こしたときには、仲間たちはきまって団結して対応しようとする。はじめに住民たちは乱暴者をあざ笑い、その振る舞いが受容しがたいものであるという警告を与える。嘲笑しても態度が良くならないときには、しばしば集団は乱暴者がいないふりをする。話しかけてきても無視し、あたかも相手がその場にいないかのように噂話をする。このような穏やかな種類の追放がうまくいかない場合、ある朝、乱暴者はたったひとりで眼を覚ますことになる。夜のあいだに、ほかの全員は荷物をまとめて去ってしまったのだ。それでもうまくいかないときには、ある朝、乱暴者は眼を覚ますことさえできなくなる。 先祖たちは団結することによって、集団内でいちばん力が強く攻撃的な個人でさえ、残りの全員を相手にしたときには無力になるという事実を知った。
ではこの事実は、ヒトという種と個々のメンバーのあいだの革新性のズレをどう説明するものなのか? 車輪つきスーツケースを発明するまでに長く時間がかかった理由とどう関係するのか? これら両方の問いに対する答えは、われわれの先祖が〝社会的革新者〟だったという点に注目すれば、おのずと浮かび上がってくる。彼らは新しい製品を発明することによってではなく、社会的に問題を解決した。現在のわたしたちも同じだ。なぜか? サバンナから移り住んだあとに進化した社会性は、人間の驚くべき問題解決能力を技術的な解決ではなく、社会的な解決へと導こうとするからだ。 ほとんどの人は、社会的関係や社会的相互関係を有意義なものだと考える。その結果、たとえ技術的解決策を生みだせるとしても、問題に対して社会的に解決することに人は自然と惹きつけられる。これは必ずしも、社会的な領域だけのために革新能力を進化させてきたという意味ではない。シナリオ構築やメンタル・シミュレーションといったイノベーションの下敷きとなるおもな能力はさまざまな領域で役立ち、社会的・技術的な問題の両方を解決するために利用することができる。大切なのは、それらの革新的な能力をどこに向ける傾向があるかという点だ。 わたしたちが社会的に革新するために進化したという可能性は、種としてのホモ・サピエンスと個々の人間のあいだの技術イノベーションにおける並外れたズレについて解明する手助けをしてくれる。技術イノベーションがまれにしか起きないのは、人々が問題に対して社会的解決策を見つけることに夢中になっているからかもしれない。さきほどの車輪つきスーツケースの例を振り返ると、歴史はこうわたしたちに教えてくれる──人間に本来備わった社会的志向(助けてくれる友人やポーターを探す)は、あまりにも明らかな技術的解決策(スーツケースに車輪をつける)を見つける能力を妨げていた。 たしかに、社会的思考と技術的思考とのあいだの競争は、人間の脳自体の機能の基礎となるようだ。心理学者マシュー・リーバーマンは著書『 21世紀の脳科学』のなかで、こう主張した──人間の脳のデフォルト設定である「休んでいる」状態は、じつのところ休んでいる状態などではなく、社会的な神経回路網が永続的に起動している状態である。このネットワークは、まだ社会について何も知らない新生児のときに起動され、成人期のあいだもずっと思考に影響を与えつづける。くわえて、社会的ネットワークの起動には、社会とは関係のない思考を止めるという効果がある(逆もまた然り)。結果として、わたしたちが世界についてあれやこれやと思案するあいだに、社会的志向がほかのアプローチによる問題解決法を頭のなかから締めだしてしまうのだ。 わたし自身の例でいえば、大量の荷物を持って空港に行かなくてはいけないとき、まず頭に浮かんだのは家族や友人に手伝いを頼むという考えだった。それがダメなとき、次に考えたのはポーターを雇う価値があるかどうかということだった。このような解決策によってつねに頭のなかが占領されていたため、わたし(とほかのすべての旅行者)は車輪という明らかな代替案に気づくことができなかった。一九七〇年代に旅行かばんメーカーがスーツケースに車輪を取りつけ、八〇年代後半により機能的な車輪と伸縮式ハンドルとともにデザインにさらなる改良が加えられると、ごく単純な技術的解決策がついにわたしたちの社会的志向を追い抜き、集団意識のなかに入り込んできた。それまで自分のスーツケースに車輪をつけようと考えたことなどなかったにもかかわらず、はじめて車輪つきのスーツケースを見た瞬間、わたしはそれを必要としていることを即座に悟ったのだった。社会革新とは何か? この〝社会革新仮説〟を裏づける証拠について検討するまえに、ひとつはっきりさせておきたい。社会イノベーションが、人間にまつわる何かであることは明らかだとしても、イノベーションが社会的であることの意味とはなんだろう? イノベーションとは、問題を解決するための新しい方法だ(世界にとっては新しくなくても、少なくとも解決者にとって新しい方法)。すなわち社会イノベーションとは、社会的関係を使って問題を解決するための新しい方法ということになる。ここで大切なのは問題の性質ではなく、解決策の性質のほうだ。 たとえば、遠くに住む友人や親戚と話をしたいという願望は社会的な問題であり、電話を発明することによって技術的に解決もできるし、あるいは友人にメッセージを伝えてもらうことによって社会的に解決もできる。同じように、脚を骨折したときに歩きたいという願望は技術的な問題であり、友だちに助けてもらうことによって社会的に解決もできるし、松葉杖を使って技術的に解決もできる。これらの解決策がいままでになく斬新であるとき、それは社会的あるいは技術的イノベーションとなる。一方、解決策が過去の例の繰り返し、またはほかの人から借用されたものである場合、それは社会的・技術的な解決策ではあるが、イノベーションとはいえない。知人に助けを求めることは社会的な解決策ではあるものの、(そのような助けを求めようと思ったのがはじめてでないかぎり)それは社会的イノベーションではない。 人類史上もっとも偉大な発明の数々について考えると、多くが社会的なものであることがわかる。たとえば、ホモ・エレクトスの重要な発明のひとつは、分業とそれにともなう社会的協調だった。作業を分割した集団での協力によって、ホモ・エレクトスはきわめて単純な道具で巨大な動物を狩ることができた。分業によって、各パートの総和以上の成果が集団にもたらされ、それが今日の人間の成功物語を築くうえで並外れて大きな役割を果たすことになった。 ホモ・エレクトスよりも地球に存在した時間はずっと短いにもかかわらず、ホモ・サピエンスは指数関数的により多くの技術的な発明を生み、数え切れないほどの社会的イノベーションを考えだしてきた。たとえば、お金への執着は諸悪の根源だとしても、貨幣は驚くほど便利な社会的イノベーションだといっていい。硬貨や紙幣といった物理的なお金そのものにたいした意味はない。お金について重要なのは、誰もがその価値に同意するという社会的慣習のほうだ。分業に次いで、貨幣の発明は史上二番目に大切な社会的イノベーションだと言っても過言ではない。価値のある何かを買うために利用されるお金が発明されたおかげで、あらゆる種類の市場取引──物々交換ではほぼ実現が見込めない取引──ができるようになった。新しいセーターを買うためにショッピング・モールに行くとき、物々交換のためにブタやヤギを連れていかなければいけないとしたら? それがひどく不便なことはあまりに明らかだが、貨幣が生まれるまえの世界ではそうやって人々は買い物をしていた。 分業が人間にとってもっとも重要な社会イノベーションで、二番目がお金だとすれば、その次はなんだろう? 少し変わった考え方かもしれないが、わたしとしては第三位に「列に並ぶ」を選びたい。列が存在しない世界を実際に体験するまで、わたしは列に並ぶという社会イノベーションについて考えたことなどほとんどなかった。あるとき、わたしは徒歩でのみ通行できる国境を越えようとしていた。国境に接した農村地域には、どうやら列に並ぶという習慣がないようだった。あたりには数十人の旅行者がおり、小さなブースにいるたったひとりの職員からパスポートにスタンプをもらおうと待っていた。が、誰ひとり列に並ぼうとする人はいなかった。出国手続きのブースを取り囲むように渦巻く人間たちを観察していたわたしは、 BBCのドキュメンタリー番組『プラネットアース』で見たある場面を思いだした──南極に棲む膨大な数のコウテイペンギンが一箇所に集まり、巨大な塊となって暖をとる姿だ。 この人間の塊をじっと見つめていると、自分の心が萎んでいくのが手にとるように感じられた。旅行の計画を変えるべきだろうか? しかし、どうしても国境を越える必要があったわたしは、塊のなかで適当な位置を選んで集団のなかに入り、タイミングを見計らいながら少しずつブースに近づこうとした。何度かあと一歩のところまで近づいたものの、最後の瞬間に人の流れが変わってしまった。ときに驚くべき速さで前進することもあれば、またうしろに押し戻されてしまうこともあった。 旅行者たちでごった返す埃っぽい汗まみれの塊のなかで、永遠と思えるほど長い時間が過ぎていった。この塊から抜けだし(それも容易ではなさそうだったが)、明日もう一度試そうかとぼうっと考えていた刹那、人波の流れが変わり、身体がブースの眼のまえにドサッと押しだされた。無愛想な職員にパスポートを突きつけたわたしは、やっと幸運をつかんだのだと安堵しかけた。しかし、すぐに群衆の波に飲み込まれ、身体がまたブースから離れはじめ
た。パスポートはまだ職員の手のなかだ──。わたしは必死になって両手でブースのベニヤ板のカウンターをつかんだ。職員がスタンプを押し、パスポートをわたしの指のあいだに滑り込ませた次の瞬間、足が地面から浮き、カウンターから手が離れた。以来わたしは、列に並んで待つことを世界の偉大な社会イノベーションのひとつだとみなすようになった。 お金と行列ははるかむかしの発明だが、最近になって生まれたインターネットもまた、先祖たちが望んでいただろう数々の社会イノベーションを可能にした。それぞれ意見はちがうとしても、わたしはソーシャル・メディアとデーティング・サイトこそがインターネット上でもっとも大きな社会イノベーションだと考えている* 5。 わたしがまだ若いころ、人生の伴侶と出会うには基本的に三つの方法しかなかった。まず、理想の結婚相手が遊びに来そうな場所でうろうろすること。次に、共通の友人に紹介してもらうという方法。そして、地元の新聞のうしろのほうに〝恋人募集広告〟を出すというやり方。新聞に載せるのは、身長、体重、年齢のほかに、アピール・ポイントを説明する四、五単語の宣伝文句だ。当時の新聞の写真は画質が粗く、さらに掲載料が高価だったため、多くの人は自分が魅力的な人間であることを文字だけで主張し、広告に写真を載せようとはしなかった。おそらく、この方法で実際にパートナーを見つけられる確率はどこまでも低かったにちがいない。事実、これが理想の結婚相手を見つける絶好の方法であるという評判はどこからも聞こえてこなかった。 ソーシャル・ネットワーク・サービス( SNS)とデーティング・サイトは、新聞広告の世界から一〇〇万マイル先まで人間を前進させた。そのようなサイトは、特定の興味や背景をもつ人々にそれぞれ特化した出会いの場所を与え、わざわざ会わなくても事前にお互いについて多くの情報を教えてくれる。そしてなにより、出会うことのできるパートナー候補の数を大幅に増やしてくれた。理想の相手と出会うことが数の勝負だとすれば(わたしはそう思う)、干し草の山のなかから一本の針を見つけだす後押しとして、インターネットはきわめて大きな役割を果たしているといっていい。近年の SNSとデーティング・サイトの利用者数はうなぎ登りで、ネット上で恋人を見つける可能性はますます高まっているという調査結果もある。 たとえば、シカゴ大学のジョン・カシオポの研究チームが、二〇〇五年から二〇一二年のあいだに結婚した二万人近くの夫婦を調査したところ、そのうち三分の一以上の夫婦がネット上で出会っていたことがわかった。調査が行なわれていた二〇一二年までのデータではあるものの、対象者のなかですでに別居・離婚した人の割合は、はじめから直接対面で会って交際を始めた夫婦の場合が七・七パーセントだったのに対し、オンラインで出会った夫婦の場合は六パーセントだった。これはわずかな差に思えるかもしれない。しかし、一パーセントが「一二五組の破綻した関係」を意味することを考えると、わずかな差として片づけるのはむずかしくなる。 さらに、 SNSとデーティング・サイト(ネット上で交際相手を見つける一般的なふたつの場所)で出会った四〇〇〇人と、職場、友人の紹介、学校、パーティーや合コン、バーやクラブ(ネット以外で交際相手を見つける一般的な五つの場所)で出会った八〇〇〇人を比べたとき、結婚後の満足度に大きなちがいがあった。オンラインで出会った夫婦と比べ、直接対面式で出会った夫婦の満足度はおしなべて低かった。学校とパーティーで出会った夫婦の満足度こそ悪くはなかったものの、友人の紹介やバーで出会った夫婦の満足度はとりわけ低い傾向にあった。これらのデータが示すのは、ネット上で始まる関係はほかのほとんどの場所で始まった関係よりも長続きする確率が高いということだ。 ソーシャル・メディアをより幅広い視点から見ると、フェイスブック、ユーチューブ、スナップチャット(写真共有アプリ)の高い価値を示すさまざまな事例が存在する。たとえば、二〇一〇年末ごろから起きた「アラブの春」は(いまのところは)大成功とまではいかなかったものの、フェイスブックはそのなかで大きな役割を果たした。フェイスブックの助けがあったからこそ、無力な個人が手に手をとって協力し合い、中東全域の一党独裁政権に対する大規模な抗議行動を起こすことができた。誰でもアクセスすることができるフェイスブックは、ときに社会的に大いに重要なツールとなる。わたし自身、フェイスブックをとおして高校の同級生と再び連絡を取り合うようになった。しかし、ソーシャル・メディアの力を語るうえで、わたしがいちばん好きな例はユーチューブだ。 わたしが子どものころ、名声と富への扉の鍵は門番に握られていた。映画スターになりたければ、あなたにスターになる才能があると誰かが判断しなくてはいけなかった。新たなテレビ番組のアイデアをもっていたとしたら、あなたのアイデアがおもしろいものだと誰かが判断しなくてはいけなかった。ユーチューブはこれらの門番を一網打尽にやっつけた。いまではコンピューターとアイデアがあれば、誰でも全世界に向けて動画を公開することができる。ユーチューブの普及によって、人々がほんとうに求めているものに対して門番が限られた感覚しかもっていないことが証明された。わたしが知るかぎり、これについてのもっとも説得力のある証拠は、コンピューター・ゲームをプレイする姿を発信するユーチューバーが信じがたいほどの人気を集めているという事実だろう。他人がゲームをする姿を見たい人がいるなど、わたしは想像すらしたことがなかった。しかしある日の午後、息子の部屋から叫び声が聞こえ、わたしは何事かと声をかけにいった。結局、叫び声は息子が見ていたユーチューブの動画のものであることがわかった。映像のなかでは、人々が一緒にゲームをプレイしながら画面に向かって雄叫びを上げていた。 そんなのは一部のコアなファン向けだろうと思っている方がいたら、それは大まちがい。本書の執筆時点で、このジャンルの絶対王者であるピューディパイのチャンネル登録者数は五四〇〇万人を超えている。わかりやすくほかの人数と比較すると、二〇一五年 ~一六年のシーズンのあいだにアメリカでもっとも人気の高かったテレビ番組は『サンデー・ナイト・フットボール』で、各回の平均視聴者数は二二〇〇万人だった。わたしがグーグルで調べたところ、先月一カ月のあいだのピューディパイの動画の視聴回数は一億四七〇〇万回で、『サンデー・ナイト・フットボール』の一カ月の視聴回数の九〇〇〇万回をはるかに超えるものだった。ピューディパイのチャンネルのほぼすべての動画の再生回数はそれぞれ数百万回に及び、彼は途方もない額の広告収入を得ている(言わずもがな、彼の動画の制作費はアメフトの試合の開催費用よりずっと安い)。 ピューディパイはユーチューブ上の唯一の成功物語などではない。ほかにもあらゆる種類のユーチューバーがおり、多くの人が動画の掲載によって生計を立てている。さまざまなメイク術を実演する、奇怪な陰謀説についておもしろおかしく解説する、仕事術を紹介する、日常生活の一部を見せる……。さらに、この世界には年齢の壁も存在しない。なかには、ただプレゼントを開けて遊ぶだけで大金を稼ぎだす小さな子どもさえいる。ユーチューブで大人気を博すチャンネルについてわたしがなにより興味を惹かれるのは、多くの大人にとってはほとんど魅力がないという点だ。大きな成功を収めるユーチューバーの多くは、芸能事務所に入ろうとしても入口で警備員に止められ、スカウト担当者に会うことさえできないだろう。しかし、対象となる視聴者のあいだで大きな共感を呼んでいることはまちがいない。ソーシャル・メディアは名声と富への道を民主化した。そのプロセスによって、満たされていない娯楽のための遠大なニーズ──他人がニキビを潰すところ、あるいは嬉々としてスニーカーを箱から出すところを見るニーズ──が満たされていった。社会革新仮説 だとすれば、一部の人だけが新たな製品を革新し、ほとんどの人が革新しないのはなぜだろう? 人間が問題を技術的にではなく、社会的に解決するように進化したとしても、すべての人がすべての場面で社会的な解決策を選ぶという意味ではない。むしろ、この社会革新仮説は、誰が新製品を革新し、誰が革新しないのかを予測するための出発点として用いることができるはずだ。 この問題に取り組むには、「あまり社会的ではない人々が技術的なイノベーションを生みだす可能性が高い」のではないかという仮定から始めるのが妥当だろう。社会性の低い人々はつき合いの輪が狭く、助けを求めることのできる人の数も少ない。さらに彼らの多くは、社会的な解決策にそれほど大きな
価値を感じず、それが信頼できる解決策だとは考えていない。結果として社会性の低い人々は、問題に対して技術的な解決策に眼を向ける傾向が強くなり、よって技術イノベーションが生みだされる割合も高くなるのではないか? 社会的および技術的志向を互いに関連しない特性だととらえる場合、人々はそれらの志向によって定義される四つの枠組みのどれかひとつに当てはまると考えることができる(図 6を参照)。社会的機能がわたしたちの先祖の成功にとってきわめて重要だったことを踏まえると、多くの人がこの図の上段のふたつのどちらかに当てはまることになるはずだ。左上に属する人々の技術力は比較的低いため、より社会的に革新しようと考える傾向があるはずだ。しかしここで重要なのは、高い技術力をもつ右上に属する人々もまた、技術的にではなく社会的に革新しようとする可能性が高いという点だ。
わたしたちの多くにとって社会への関与は楽しく価値の高いものであり、森を離れて以来ずっと、それが世界に対する既定の志向となってきた* 6。結果として、社交的な人々がモノを改良する才能をもっていたとしても、問題に向き合ったときに技術的な才能を発揮する割合は比較的低い。たとえば一部の人にとって、缶切りをトースターとオーブンのタイマーに接続し、飼い犬のための「外出時自動餌やり機」を作るのは簡単なことかもしれない。しかし、それほど器用な人々でさえも家を離れているあいだに代わりに飼い犬に餌をあげてほしいと友人に頼むことを好むものだ。したがって、社会革新仮説が正しいとするなら、技術的なイノベーションを生みだす人はきわめて少ないことになる。図 6の下のふたつの枠に属する(数少ない)人々のうち、技術的イノベーションを起こす可能性があるのは強い技術的志向をもつ右側の人だけだ。そのため、技術的なスキルを持ち合わせている人は比較的多いにもかかわらず、〝人間社会〟の存在によって技術イノベーションは比較的まれな現象となる。 これらの可能性が先祖にも当てはまるかどうかを調べることはきわめてむずかしい。とはいえ、社会革新仮説を裏づける現代的な証拠がふたつある。まず、社会性を数値で表わす方法のひとつに、自閉症が発生する頻度を調べるというやり方がある。自閉症スペクトラム障害のある人々の知的能力はそれぞれ異なるが、その知能に関係なく、彼らは総じて社会的な交流を苦手とする。社会的機能の低下は自閉症の特徴のひとつであり、知的能力の高い自閉症者も心の理論に問題を抱えている。彼らの脳は、第 2章で説明したようには他者の意図や感情を自動的に計算することができない。結果として自閉症者は、人の気持ちをうまく理解できず、社会的にかかわることに難儀する。 これらの事実を踏まえれば、営業の仕事をする自閉症者は少なく、人文科学や社会科学の分野で活躍する自閉症者がほとんどいないのも驚きではない。対照的に、おもな対象が人ではなくモノに向けられる工学や物理科学のような分野で自閉症者を見つけるのは容易なことだ。たとえば、ケンブリッジ大学の発達心理学者サイモン・バロン =コーエンの研究チームは、自閉症の発生率が一般人口よりも物理学者、エンジニア、数学者の家庭でより高いことを突き止めた。 バロン =コーエン教授らは続けて自閉症レベルを数値化するための尺度を作りだすことを試み、比較対象のひとつとして理系と文系の学生の差を調べた。すると、社交性の低さを含む自閉症スコアが、文系の学生よりも理系の学生のあいだでより高いことがわかった。物理科学、コンピューター科学、数学を専攻する学生のあいだでは、とりわけ自閉症スコアが高かった。一方、社会科学系の学生のスコアは、人文科学系の学生とそれほど変わらなかった。工学系の学生のスコアは、物理科学系と人文科学系の学生のちょうど中間だった。 当然のことながら、人文科学や社会科学の研究者よりもエンジニアや物理科学者のほうが、特許を保有する割合は高く、自宅で使うために技術製品を改良している人も多い。逆の見方をすれば、エンジニアや物理科学者のなかには図 6の右下に当てはまる人が圧倒的に多いということだ。 その顕著な例として、イノベーションの聖地であるシリコンバレーには自閉症者が並外れた割合で集まっている* 7。このような発見は(社会革新仮説が示すように)社会性が技術的なイノベーションを妨げている証拠にはならないが、社会性と技術イノベーションに負の相関関係が見られるという事実は、どちらか一方が他方に影響を与えている可能性を浮き彫りにするものだ。 社会革新仮説について調べるふたつ目の方法として、イノベーションにおける性差に注目することもできる。性差にかかわる話題になると、男女ともに客観的なデータの域を超えて感情的に考える傾向が強くなるため、このような問題について調べることにはつねに危険がはらんでいる。でも、ここからの議論をどうか我慢して読んでみてほしい。最後には、わたしの言いたいことを理解してもらえるはずだ。なるべく客観的なスタンスを保つことを意識しながら性差に関する文献をひもといてみると、嗜好におけるある本質的な性差が繰り返し登場することがわかる──男性はよりモノに関心をもち、女性はより人に関心をもつ。アメリカとカナダの五〇万人以上の男女の職業の好みを調べた分析でも、同じ傾向が明らかになった。 興味におけるこのような性差は、男女を区別する文化的な影響によって生みだされたものであることはまちがいない。しかし研究によれば、それらの好みは生まれながらもつ人間の傾向でもあり、どの文化にも共通するものだという。多くの研究によって、生後一歳未満の赤ん坊にもはっきりとしたおもちゃの好き嫌いがあることがわかっている(男の子はトラック、女の子は人形を好む)。また、男の子がおもちゃのトラックを好むという傾向は人間に限ったものではなく、サルのオスにも同じ傾向が見られる。 これらの性差が文化的な傾向か生物学的な差のどちら(あるいは、おそらく両方)の影響をより強く受けているかどうかにかかわらず、社会革新仮説が示すのは、社会性における性差が技術イノベーションにおける性差につながっている確率が高いということだ。この可能性を裏づけるように、技術的な解決策(たとえば数学や工学)がより必要になる職業の人々のあいだでは自閉症者の割合が多く、これらの職業に就く人は圧倒的に男性が多い。 数多くの異文化間研究によると、女性は一般的に空間能力よりも言語能力のほうが高く、男性は一般的に言語能力よりも空間能力のほうが高いことがわかっている。だとすれば、数学や工学の分野に男性が多いという事実は、たんに能力的な特徴の性差を反映したものにすぎないのかもしれない。わたしたち人間は自分が得意なことに自然と心を惹かれ、興味を搔き立てられる分野でよりよい結果を出す傾向がある。したがって、能力や興味における性差の因果関係の順番を明らかにすることはむずかしい。女性は〝人〟により興味があるため、互いにコミュニケーションをとる頻度が増し、言語能力もより高まっていくにちがいない。男性は〝モノ〟により興味があるため、モノを使うことに多くの時間を費やし、それが空間認識能力の向上に結びついていると考えられる。あるいは、因果関係の順番はその逆かもしれないし、両方向につながっているのかもしれない* 8。しかし驚くべきことに、高い数学的・技術的なスキルを同じようにもつ男女のあいだでさえも、男性はモノにより大きな関心を示し、女性は人により大きな関心を示すということも明らかになっている。 たとえば、バンダービルト大学のデイビッド・ルビンスキー率いる研究チームは、数学的な能力が高い米国全土の学生一五〇〇人以上を対象者として選び、長期間にわたって追跡調査した。中年期になった対象者を調べると、特許を保有している人の割合が女性よりも男性のほうが二倍も多いことがわかった。社会革新仮説を裏づけるうえでは非常に重要なことに、社会的な関心における性差が技術イノベーションにおける性差と一致したというわけだ。 仕事の好みについて尋ねたとき、この研究の対象者の男性は女性よりも「コンピューターや道具などのモノを使って働く」「影響力のある何かを発明・作成する」ことに興味があった。対照的に、男性よりも女性は「人と一緒に働く」「自分の仕事の結果が他者に大きな影響を与える」ことに関心があった。同じように、男性よりも女性のほうが「社交の時間」「強い友情」により興味をもっていた。つまり、数学的に才能のある男性と女性のあいだでさえも、社会的・技術的志向に大きな性差があるということになる。 社会的志向におけるこれらの性差はまた、人々が技術イノベーションにかかわる職業を選択するかどうかにも反映されている。わかりやすい例として、ピッツバーグ大学のミンテ・ワンの研究チームが行なった、およそ一五〇〇人の被験者を長期にわたって追跡した研究の結果を見てみよう。学生の大学進学適性試験( SA T)の点数にもとづき、ワンのチームは「高い数学力と高い言語能力の両方をもつ学生」と「高い数学力をもつが中程度の言語能力しかない学生」を区別した。彼らには数学が得意であるという共通点があったが、これらふたつの集団の学生のあいだにはいくつかの大きな差があった。まず、前者の高い数学力/高い言語能力の集団の三分の二が女性であるのに対し、後者の高い数学力/中程度の言語能力の集団の三分の二が男性であることがわかった。言い換えれば、数学の才能をもつ女性はあらゆる面において賢いケースが多い一方で、男性の多くは数学や科学だけが得意な傾向が強かった。さらに注目すべきことに、高い数学力と言語能力の両方を持ち合わせた学生は概して、数学だけが得意な学生よりも、人と接して働くことへの関心が高く、モノを相手にすることへの関心が低かった。 ワンはまた、あらゆる面において賢い学生よりも、数学だけが得意な学生は物理科学や工学の分野での仕事に就く割合がはるかに高いことを突き止めた。
これらの職業の選択は、学生たちが調査の早い段階で自ら語った興味と一致するものだった。人と接する仕事に興味がある人ほど、卒業後に物理科学の分野での仕事を選ぶ割合は低かった。一方、モノを対象とする仕事に興味がある人ほど、物理科学の分野での仕事に就く割合が高かった。 これらの調査結果には、とくに重要な側面がある。第一に、数学や物理科学の分野で活躍する女性が少ないという事実は従来の意味合い──そのような分野では女性に対して大きな障壁がある──での問題ではないかもしれない。女性の数学者や科学者が少ないのは、これらの分野で女性が冷遇されている証だと多くの人がこれまで考えてきた。この問題には賛否両方の研究結果があるが、ワンの研究が示すのは、「性についての固定観念」と「敵対的な雰囲気」がこれらの分野から女性を締めだす大きな要因ではないということだ。たとえば、かつては生物学の分野でも女性の存在はまれだったが、いまでは学部と大学院の両方で女性が半数以上を占めるようになった。数学、工学、物理科学(女性の割合の増加が遅い分野)と比べても、生物学(や女性の割合が急上昇したほかの分野)でより女性が歓迎されているわけではないはずだ。 むしろワンの研究結果が示すのは、言語と数学の両方の才能を兼ね備えた人の多くは、物理学者やエンジニアになることにそれほど興味がないという事実だ。数学が得意な女性はあらゆることに長けている傾向があるため、自分の好きな分野で好きな仕事を選ぼうとする。わたし自身の職業の選択について思いだすと、この結果がじつにぴったりと当てはまることがわかる。ワンの研究対象となった男性の三分の一がそうだったように、わたしは女性的な脳の持ち主であり、数学能力よりも言語的な能力のほうが高い。高校生のとき、わたしはエンジニアになることを考え、実際に工学部の入学試験を受けたが、そのうち数学やものづくりよりも人間を対象とした社会科学での仕事のほうにより興味があることに気がついたのだった。 ここで忘れてはいけないのは、文系の教育を受けても充分に豊かな生活を送れる裕福な国でわたしが育ち、そのような選択をする贅沢が許されていたということだ* 9。対照的に、良い仕事のほとんどが科学技術の分野で占められている貧しい国では、数学と科学が得意な人はその道で職業を選ぶ傾向がある。国の全体的な裕福さによって生じる職業選択のこの差は、ある意外な現象につながっている。一般的に貧しい国のほうが豊かな国よりも男女平等の意識が低い。しかし、これらの貧しく男女不平等な国のほうが、豊かで男女平等な国よりも、女性が科学分野の仕事に就く率は高い。かつて「女性はこうあるべき」という性差別や文化的慣習が女性を科学から遠ざけていたとすれば、この結果は多くの人の直感とは正反対のものにちがいない。その一方で、数学や科学分野で活躍する女性が少ないおもな原因が、興味の性差が職業選択の性差へとつながっているからだとすれば、この結果はまさにわたしたちが予想するとおりのものだろう。つまり単純に、ほかに選択肢がある社交的な人の多くは、工学、数学、物理科学にそれほど心を惹かれない可能性が高いということだ* 10。 女性はモノよりも人に注意を向ける傾向があるため、社会革新仮説ではこんな考え方が成り立つことになる──男性のイノベーションに比べて、女性によるイノベーションは技術的な解決策を目的としたものが少ない。実際の研究データもこの説とほぼ一致している。たとえば、一九九〇年代にヨーロッパの六カ国で認められた一万件近くの特許の出願者を調べた研究では、女性の割合が三パーセント未満であることがわかった。この数値は、女性の発明者にとって不利となる文化的・歴史的要因が大きく反映されたものであることはまちがいない。しかし注目すべきは、女性エンジニアが占める割合は全体の約一二パーセントであるのに対し、女性の特許出願者の割合はその四分の一以下だったという点だ。 同じように、約一二〇〇人のイギリス人を対象とした調査では、男性の八・六パーセント、女性の三・七パーセントが技術イノベーション(自宅で自分のために製品を作成・改良した)にかかわったことがあると答えた。これらのデータは、特許に関して実際に存在する制約、バイアス、障壁を取りのぞいたとしても、技術革新者の男女の割合には依然として倍以上の開きがあることを示している。技術イノベーションは男性と女性の両方にとって珍しいことではあるものの、公式の場でも非公式の場でも、女性よりも男性のほうが頻繁に新しい製品を生みだす。社会革新仮説にもとづけば、発明家の多くが男性であるという事実は、女性に発明の才能がないという証拠ではない。むしろ、高い社会性をもつ女性たちは別の場所で革新する傾向が強いという証拠だといっていい* 11。 発明の才能のある人などめったにいないと広く信じられているものの、社会革新仮説はほぼすべての人間が実際にはイノベーターであることを教えてくれる。しかし多くの人は、技術的な解決策よりむしろ社会的な解決策のために発明の才能を発揮しようとする。人間は毎日のように革新するわけではないが、たんにその必要がないからだ。わたしたちが共有する文化的知識は、眼のまえのほとんどの問題に対して既存の解決策を与えてくれる。その一方で、新たな問題にぶつかり、解決しなければいけないと思わせるほどの重要性があるときはいつでも、人間は革新することができる。メリッサやほかのチンパンジーの母親たちとは異なり、たとえ法執行機関がなかったとしても、ほぼすべての人間は集団内のサイコパスの問題に対する解決策を考えだすことができるはずだ。 必要は発明の母だと言われることは多々あれど、人によって必要性のとらえ方は異なる。さらに、社会的解決ではなく技術的解決を必要とする問題はめったに出てこない。わたしたちは凶暴な共食い動物に対処するための罠を発明することができる。同時に、犠牲となった集団メンバーの助けを得ながら、脅威を取りのぞくための新しい社会的解決策を見つけることもできる。新しい解決策を見いだす能力は、人間という種の普遍的な特質だと考えられる。しかし、この能力を社会的解決策ではなく技術的解決策に向けようとする傾向は、あまり一般的ではないようだ。ほんの少し技術的な訓練と経験を積むだけで、ほぼすべての健康的な成人の人間の精神は、必要に迫られれば技術的な解決策を生みだすことができる。そのような必要性がない場合、人間という種に発明の才能が普遍的に備わっているとしても、技術イノベーションが起きるのはまれだ。他者に興味のある人(ほぼ全員)は、発明の才能をもっているにもかかわらず、新しいものをそれほど多く発明しようとはしない。 人間が生まれつきもつ社会性は、新たな製品を発明する才能にとっては邪魔になる。ただしこの社会性が、ひとりの人間の発明をほかの全員の解決策に変えるうえで大きな役割を果たしている。人類の成功の物語はたんなるイノベーションの話ではない。新しい発明を他者に伝え、他者がそれを利用・改善するという物語でもある。人間は驚くほど社会的志向が強いため、技術的な問題解決が必要になることはそれほど頻繁には起こらない。でも社会性がなければ、技術イノベーションを広めることはできない。ホモ・サピエンスは、超社会性を武器に世界の支配者へと上りつめた。しかし皮肉なことに、人間とほかのすべての獣の生活を差別化する技術的発明を生みだしたのは──その発見についてわたしたちが感謝しなければいけないのは──どちらかといえば非社交的な人々のほうかもしれない。
*1 一般大衆に尋ねるには奇妙な質問のように思えるかもしれないが、驚くべきほど多くの貴重な発明は、自分の用途に合わせて製品を改造したことによって生みだされてきた。わたしのお気に入りの例のひとつは、一九一一年の第一回インディ 500での出来事だ。参加者のひとりだったレイ・ハルーンは、メカニックを乗せずにひとりで運転することを決めたが、そのためには背後の車の動きを確かめる方法を見つけだす必要があった。当時、それは伝統的に同乗するメカニックの仕事だった。この目標を達成するために彼は、レーシングカーにはじめてバックミラーを取りつけ、単独でも安全にレースに参加できると関係者を説得した(そのときのインディ 500のトラックコースはレンガ敷きで、バックミラーがひどく揺れて何も見えなかったとハルーンはのちに認めたが、彼はレースに勝利した)。ユーザーによるイノベーションのより一般的で有名な例としては、スケートボードの発明がある。一九四〇年代、アメリカやヨーロッパ各地の数多くの子どもたちがローラースケートを分解し、ホイールを金具ごと木箱や板に釘で取りつけたことによって、スケートボードが生まれた。 *2 数百年前の時代の人々にとって、車輪つきスーツケースはさほど便利な代物ではなかったにちがいない。泥だらけの道やでこぼこの石畳の上でスーツケースを転がすのは一苦労だ。しかしながら、少なくとも一八七〇年代以降のニューヨーク、ロンドン、ベルリンのような世界を代表する主要駅では、車輪つきスーツケースが大いに役に立っていたはずだ。つまり、この単純なイノベーションを誰かが思いつくまで、さらに少なくとも一〇〇年かかった計算になる。 *3 たとえば、グーグルで少し検索するだけで、あらゆる種類の賢く単純な発明品が世のなかに存在することがわかる。ベビーカー型スクーター。レモンやライムに直接差し込むだけで果汁を料理に吹きつけることのできるスプレー・ノズル。簡単に取り分けできるゴムベラつきピザ切り用はさみ。まわしたときにスパゲッティーが滑り落ちにくい、歯が波状のフォーク……。 *4 ユヴァル・ノア・ハラリは世界的ベストセラー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』のなかで、複雑な虚構を作り上げる人間の能力こそが、それぞれ別々に進化を続けていた集団の壁を越え、互いに協力し合う傾向を生みだしたのだと主張する。「もし何千頭ものチンパンジーを天安門広場やウォール街、ヴァチカン宮殿、国連本部に集めようとしたら、大混乱になる。それとは対照的に、サピエンスはそうした場所に何千という単位でしばしば集まる。サピエンスはいっしょになると、交易のネットワークや集団での祝典、政治的機関といった、単独ではけっして生み出しようのなかった、整然としたパターンを生み出す。私たちとチンパンジーとの真の違いは、多数の個体や家族、集団を結びつける神話という接着剤だ。この接着剤こそが、私たちを万物の支配者に仕立てたのだ」〔上巻、第 2章、 56頁から引用〕 *5 社会イノベーションと技術イノベーションの区別は二分化されたものではなく、連続するものであるという点を強調しておきたい。たとえば、フェイスブックはとてつもない社会イノベーションでもあり、同時に驚くべき技術的成功でもある。つまりフェイスブックは、社会・技術イノベーションというつながりの真んなか付近に位置するものだといえる。一方、「列に並んで待つこと」は、次の番が誰かという問題に対する純粋に社会的な解決策。電球は、暗闇を解消するという問題のための純粋に技術的な解決策だ。 *6 この考え方は内向的な人にも当てはまる。ほぼすべての人が社交的になることを好むが、内向的な人々はより少ない頻度で、より近しい少人数の友人たちとの交際を好むだけだ。 *7 自閉症の発生率は時期と場所によって変わる(それ自体が驚くべき事実ではあるものの、謎はほとんど解明されていない)。さらに、シリコンバレーは面積が広く、範囲もはっきりしないため、正確な自閉症率を突き止めるのは簡単ではない。バロン =コーエンのチームによる研究では、〝オランダのシリコンバレー〟( I T系の仕事が三割を占めるアイントホーフェン)と同規模のふたつのオランダの都市(ユトレヒトとハールレム)が比較された。アイントホーフェンの自閉症率が一〇〇〇人当たり二三人だったのに対し、ユトレヒトでは一〇〇〇人当たりわずか六人、ハールレムでは一〇〇〇人当たり八人だった。 *8 性差の理由はどうあれ、男性と女性の空間能力と言語能力は、異なる部分よりも重複する部分がより大きいという点に留意したい。 *9 とはいえ、こんな古くさい冗談もある。「心理学部の卒業生を玄関から追い払うにはどうすればいい?」「ピザ代をあげればいいさ」 *10 大学卒業率における性差は、数学や科学分野における性差よりもはるかに大きな問題となる危険性をはらんでいる。二〇世紀末ごろから、アメリカでは男性よりも女性の大学卒業率のほうが高くなった。かつて一部の名門大学への女性の入学が制限されていたという事実を踏まえると、これは歴史的な誤りを正す良い傾向だと考えることもできる。その一方で、女性は自分より学歴の低い男性と結婚することを避ける傾向があるので、近い将来、大学卒業率の差によって人間関係に問題が生じる可能性がある。教育におけるこの性差は、あらゆる種類の個人的・社会的な混乱へとつながりかねない。 *11 社会的イノベーションについての研究はほとんど行なわれていないため、女性のほうが男性よりも社会的に革新的であるという可能性は、本書の執筆時点ではまだ証明されていない仮説でしかない。
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