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第 5章 もう振り回されないための処方箋

自分を振り回す人から好かれる必要はない自分一人の影響力なんてたかが知れている振り回されるのは戦うことから逃げているからどんなに気をつけても、悪口を言われるときは言われるもっともらしい正義ほどうさんくさいものはないまずは分析する癖をつける意地悪な見方をすることが必要言いなりにならないために「部分交渉」する第三者も交え、証拠を必ず残すようにする自分の本当の欲望を見きわめるどんどんスルーする離れるという決断をする

おわりに

自分を振り回す人から好かれる必要はない 振り回されやすい人は、無意識のうちに八方美人になっていることが少なくない。ほとんど反射的に、相手の欲望を満たそうとしてしまう。これは、第 4章で述べたように、自己評価が低いため、他人から自分がどう思われているかということでしか自己確認できないからである。 いわば、低い自己評価を他人からの評価で補完しようとするわけで、そこにつけ込まれやすい。たとえば、上司からは「優秀な部下だと認めてほしいのなら、汚れ仕事も嫌がらずにやれ」、同僚からは「いい人と思われたいのなら、他の同僚の仕事も手伝え」という類のメッセージを暗に送られる。女性の場合であれば、夫からは「いい妻と思われたいのなら、家事を完璧にこなし、おれが何をしようと文句を言うな」、姑からは「いい嫁と思われたいのなら、私が息子の仕事や孫の教育に口を出しても、逆らうな」というメッセージを送られる。 この手のメッセージをまともに受け取り、その通りにしていたら、さんざん振り回されて痛い目に遭うのは、ちょっと考えればわかりそうなものだが、少しでも相手からよく思われたいと願っていると、むしろ相手の欲望を忖度して、それを満たそうとする。 それこそが、振り回される根本的な原因なので、まずそこを整理しなければならない。「あなたに迷惑をかけたり、あなたを攻撃したりする人は、あなたにとって本当に大事な人だろうか? その人に好かれることは、あなたにとって本当に必要だろうか?」 この質問を読者に投げかけたい。 あなたが、その人にどう思われてもいい、場合によっては嫌われてもいいと思えれば、「どうでもいい相手」のリストにその人を入れるべきだ。そんな割り切りができれば、その人に認められたいとか、好かれたいと思うあまり、理不尽な要求であっても断れず、振り回される関係から解放されるはずである。 この割り切りは、他人を平気で振り回す人から解放されるための第一歩だが、なかなかできないこともある。恋愛関係や夫婦関係でまだ相手にほれている場合がその典型だろう。これは、フロイトが「集団心理学と自我の分析」で指摘しているように、ほれこみという現象が愛する対象の「過大評価」だからである。ほれこみとは、愛する対象に対して「ある程度批判力を失ってしまって、その対象のすべての性質を、愛していない人物やあるいはその対象を愛していなかった時期に比べて、より高く評価する」ことにほかならない。つまり、相手を「理想化」して「あばたもえくぼ」になるので、判断を誤りやすい(ジークムント・フロイト『フロイト著作集第六巻』小此木啓吾訳、人文書院)。

こういうことは、結構あるはずだ。いくら振り回されても、その人にほれている間は、「どうでもいい相手」のリストに入れて割り切るのは難しい。そのいい例が、何度も取り上げている結婚を餌に振り回されている派遣社員の女性である。彼女は、まだ相手の男性にほれているようで、だからこそ翻弄され続けている。 これこそ恋愛の罠だろうかと、彼女を見ていて痛感する。同じような罠にはまっている方は少なくないだろうから、一つだけ言っておくと、アメリカの臨床心理学者、ジョージ・サイモンが指摘しているように、「マニピュレーター(振り回す人)」は、「相手を一段劣った地位にとどめておこうとする」。しかも、「人の弱みや不安定な感情を操ることにかけては達人であり、その正体を見抜ける人などほとんどいない」(ジョージ・サイモン『他人を支配したがる人たち──身近にいる「マニピュレーター」の脅威』秋山勝訳、草思社文庫)。 このことを忘れず、第 4章で示したサインや症状が出現したら、なるべく早く割り切ることをお勧めする。自分一人の影響力なんてたかが知れている 第 4章で述べたように、振り回されやすい人は罪悪感を抱きやすい。これは、自己評価が低いせいだが、それだけでなく、自分自身の影響力を過大評価していることにもよる。 たとえば、自分の職場で何か問題が起こったとき、罪悪感を抱きやすい人は、「自分の責任だ。自分がもっとちゃんとやっていれば、こんな問題は起こらなかったはずだ」と考える。このような思考様式につけ込むのが、他人を平気で振り回すタイプの上司であり、「君が悪い」「君の責任だ」などと責任を押しつけて、自己保身を図る。こういう上司を持つと、部下は全て自分に落ち度があると思い込まされてしまう。 ここで一つ言っておきたいのは、「あなた一人のミスで職場全体が窮地に陥るほど、あなたの影響力は大きくない」ということだ。たしかに、あなたがミスをしたのは事実かもしれない。それに責任を感じるのは職業人としてあっぱれである。 しかし、「全て自分が悪い」と責任を背負い込むのは「自分が頑張れば、物事は全てうまくいく」という万能感幻想の裏返しともいえる。たいていのことは一人で何とかなるわけではなく、みんなが力を合わせた結果出来上がるのであり、逆にどんな問題も、さまざまな要因や幾人もの落ち度が積み重なって起こるのだから。 にもかかわらず、実際以上に自分に責任があるように感じてしまうことが、罪悪感を抱きやすい人にはよくある。もちろん、そう思い込まされている場合もあるのだろうが、いずれにせよ目の前の事態を客観的に評価することができない。こうした事態を避けるためには、どこまで自分に責任があるのかをなるべく正確に見きわめなければならない。 これは、振り回されないために不可欠なのだが、実はなかなかできる人が少ない。 たとえば、 20代の会社員の女性は、母親の過干渉に悩まされており、「もういい加減にして!」と心の中で悲鳴を上げているのに、常に母親の顔色をうかがわずにはいられない。「今日お母さんが不機嫌な顔をしていたのは、私が一緒に買い物に行くことを断ったせいだろうか。あるいは、早く結婚しろといつも言われているのに、私にその気がないからだろうか」という具合である。 母親に「いい子」とほめられたいという欲望がいまだに強いのか、彼女は母親のちょっとした変化に敏感だ。そのうえ、何でも自分のせいなのではないかと思い込む傾向がある。この傾向に母親はつけ込んで、巧妙に罪悪感をかき立て、自分の思い通りに娘を操作しているように見える。 この女性のようにならないためにも、自分の責任範囲を明確に見きわめていただきたい。そのためには、目の前の現実をできるだけ客観的に観察することが必要だ。 また、「自分が悪い」「自分に全ての責任がある」という思考になりそうなときは、「自分の影響力を過大評価しているのではないか」「万能感幻想が出ているのではないか」と自らに問いかけていただきたい。 第一、自分の影響力はそんなに大きくないと思っておくほうが、肩の力が抜けて、楽な気持ちでいられるのではないだろうか。振り回されるのは戦うことから逃げているから 振り回されやすい人に話を聞くと、「言い返さないと思って、責任を押しつけられる」「自分ばかりに損な役が回ってくる」「都合のいい使われ方をする」などの不平不満がしばしば出てくる。こうした不平不満は、振り回されている当の本人が吐いた本音なのだろうが、振り回す人の言いなりになるほうが楽なはずと思い込んでいる場合もなきにしもあらずのように見受けられる。 こういうことを書くと、さんざん振り回されて困っている読者の方から、「楽だなんてとんでもない! こっちは、こんなに大変な思いをしているのに!」と反感を買いそうだ。だが、言い返さず相手の言う通りにする選択をすることで、うまくいかなかったときに、少なくとも自分の心の中では「自分のせいではない」と言い訳できる。「本心では、私はやりたくなかったし、できないと思っていたのに、無理矢理やらされた。だから、うまくいかなかったとしても、仕方がない」と逃げ道を残せるので、責任逃れをすることも、自己愛の傷つきから身を守ることもできる。 この手の自己防衛は、しばしば用いられる。第 3章で述べたように、他人を平気で振り回す人の特権意識や支配欲求は非常に強く、かつ傲慢で強引なので、そういう人に言い返すには気力とエネルギーが必要だ。そのうえ、いくら言い返しても、何も変えられない場合が多いので、「面倒くさい。言い返すのはやめて、相手の言う通りにしよう」となりやすい。これは、ある程度仕方がないとはいえ、他人を平気で振り回す人の言いなりになっている人に、戦うことから逃げている側面があるのはたしかである。 たとえば、 30代の専業主婦の女性は、一人息子の欠点を目にするたびに妻を非難する夫に閉口している。夫は、家事も育児も全然手伝わないのに、息子の欠点に気づくと「おまえの躾が悪い」と妻を責める。しかも、必ずしも欠点とはいえないことまで夫は非難する。息子の「優しい性格」は「気が弱いから」、「スポーツよりも読書が好き」は「協調性がない証拠」と、夫は解釈するのだ。 そのうえ、夫は何かにつけて自分の出身大学を自慢する。自分よりも学歴が低い妻は人間的にも劣ると思っているようにさえ妻の目には映る。こうした見方は、妻に限らず、妻の両親や友人をはじめ、あらゆる人に向けられるため、妻はいたたまれないという。 この夫が息子のあら探しをして妻を責めるのも、自分の学歴を自慢して妻をバカにするのも、とにかく妻より優位に立ちたいからだと考えられる。このように自らの優位性を誇示しないと気がすまないのは、他人を平気で振り回す人の特徴である。 こういう夫に妻が振り回されるのはやむを得ないとはいえ、問題は妻が夫に対して一切口答えせず、戦いを避けていることだ。夫が息子の欠点に気づいて妻を責めても、「この子は優しい子で、それはむしろ長所だと思う」とか「子供にはそれぞれの適性があり、スポーツに向かない子もいて当然」と子供を弁護するようなことはしない。むしろ、「気が弱くて、協調性もない息子の根性をたたき直すためにスポーツ教室に通わせろ」という夫の命令に従って、最近スイミングスクールに入れた。 これは、妻が夫に対して恐怖を抱いており、夫に何を言っても無駄だと無力感にとらわれているからだろう。この気持ちはわからないでもないが、そのせいで息子が夫を怖がっており、「プールなんか行きたくないけど、行かなかったら、僕はお父さんにだめな子と思われるの?」と尋ねることさえあるのだから、やはり息子を守るためにも、妻は夫の非難や命令に異議を唱え、息子をかばうべきではないか。 もちろん、家庭内に波風を立てたくないという気持ちは誰にでもある。だからこそ、できるだけ争いを避けようとするのだろう。そういう場合、うまくいかなかったときに自分で責任を取らなくていいし、第一面倒くさいから、とりあえず相手の言う通りにしておこうという心理が働きやすい。 これは、私自身の経験からもいえることだ。私は子供の頃から本を読むのが好きで、将来は文学部に進んで記者か作家になりたいと考えていた。しかし、私の両親、とくに母親は、私が医者になることを切望した。実家は開業医ではないが、親戚に医者がいて裕福な暮らしをしていたことや、私が育った田舎で高収入の職業といえば医者くらいしかなかったことが、こうした欲望を親に抱かせたのだと思う。 それに対して、私はきちんと戦わなかった。一度進路調査の際に、「文学部希望」と記入して提出したら、それを母親に知られて、「文学部なんか行って何になるの。就職もないし。だいたい、作家なんかになれるわけがない。医学部に行きなさい」と、こっぴどく叱られたからだ。私の母親は、自分にとって幸福なことは娘にとっても幸福なはずと思い込んでいて、自分の願望を娘に押しつけるところがあったので、何を言っても聞いてくれないだろうなあと私は思った。 そのときの私の気持ちを分析すると、だいたい次のようになる。まず、親に逆らって文学部に進んでも、就職できなかったら、その責任は自分で取らなければなら

ならず、それよりも親の言いつけ通り医学部に進むほうが安全だと思った。また、だいたいどこの大学でも医学部のほうが文学部よりも偏差値が高いので、医学部に入ったら自慢できるとも思った。何よりも、親に認められたいし、ほめられたいという気持ちが強かった。 そのため、結局、親の希望通り医学部に進んだのだが、それで、めでたし、めでたしとはならなかった。医学部での勉強や実習は、私の本当にやりたいこととは違っていたし、私は医者に向いているんだろうかと随分悩みもした。それでも、何とか医学部を卒業し、国家試験も突破したものの、そこからが茨の道だった。医者になってからの数年間、やはり私は医者に向いていないのではないかと悩み、本当に辞めようかと思ったことさえある。 そんなとき、母親が私に見合い結婚して、田舎で開業するように勧めた。その後、母親が私に内緒で医院を開業するための土地を探していたと聞いて、背筋が寒くなった。これ以上母親の欲望に振り回されるのは真っ平御免だと思い、以後ずっと断り続けている。母親はその後もことあるごとに「田舎に帰って開業すればいいのに」と愚痴をこぼすが、そのたびに私は「お母さんの幸福と私の幸福は違う。私が田舎に帰って開業することは、お母さんにとっては幸福でも、私にとっては不幸」と心の中でつぶやいている。 私自身の経験を振り返って痛感するのは、大学進学の際にもっと戦うべきだったということだ。文学部に進んで記者か作家になりたいという自らの欲望に私はもっと忠実になるべきだったのに、親との戦いから逃げたために、結局つらい思いをする羽目になった。 紆余曲折を経て、私は物書きとして生計を立てるようになり、著書もそれなりに売れている。もちろん、文章を書くうえで精神科医としての臨床経験は役に立つし、この本の執筆依頼も私が精神科医だからこそいただけたのだとは思う。第一、医学部で学び精神科医として勤務してきたこれまでの人生を全て否定することは、私にとって耐えがたい。そんな自己否定なんか、私はしたくない。 とはいえ、もし私が医者だけを続けていて、子供の頃からの夢だった物書きになれないまま現在の年齢を迎えていたら、「私の人生って何だったの」と自己不全感にさいなまれていただろうと思う。 だから、逆らわず振り回されているほうが戦うよりも楽だろうと考えて、戦うことから逃げている方に、私は声を大にして叫びたい。「言い返すべきときに言い返さず、戦うべきときに戦わないと、後から大きなツケが回ってくる」と。戦いを避けることは、一見楽なようだが、長い目で見るとそうではない。 第一、自らの人生の責任は、他の誰かが取ってくれるわけではなく、結局自分で取らなければならない。それを私は自分自身の体験から身にしみて感じているので、振り回されて嫌な思いをするくらいだったら戦うことをお勧めする次第である。どんなに気をつけても、悪口を言われるときは言われる 振り回されやすい人は、第 4章で述べたように、自己評価が低いせいか、「悪く思われたくない」「悪口を言われたくない」という思いが人並み以上に強いようだ。だからこそ、さんざん振り回されても、怒りを出せず、押し殺してしまう。 もちろん、誰だって悪口を言われたら、いい気はしない。できれば、悪口など言われたくない。だが、はっきり言ってそれは無理だ。どんなに周りに気を遣っても、相手のためを思って行動しても、他人の悪口を一切言わなくても、悪口を言われるときは言われる。 たとえば、 30代の女性は、ママ友に「 ○ ○ちゃんのママ、モンスター・ペアレンツって噂が広がっているみたい。いい人だけど、気が強いところがあるからね。誤解されちゃうのかしら」という悪口を言い触らされていることを最近知って啞然としたらしい。この女性は、かなり気を遣うタイプだし、悪口を広めたのは一番仲のいいママ友だったので、どうしてこんな悪口を言われるのか見当もつかなかったのだが、やっとわかったという。 悪口を言い触らしたママ友から、「最近、 □ □ちゃんのママと仲がいいみたいね」と冷ややかに言われて、どうやら自分より仲のいいママ友をつくることに嫉妬しているらしいと気づいたのだとか。悪口を広められた女性は、わが子がいじめられないためにも、どのママ友とも仲よくすることが大切と考え、誘われたらできるだけ断らないようにしていたのだが、そういう気遣いが逆にわざわいしたようだ。 こういうことは、どこにでもある。誰とでも仲よくしていたら、「八方美人」「いい子ぶってる」などと陰口をたたかれる。それでは困ると、特定のママ友とだけつき合い、他のママ友からの誘いを断っていたら、「お高くとまっている」「つき合いが悪い」などと悪口を言われる。したがって、こればっかりはどうしようもないとあきらめて、悪口を言われないようにするための努力など所詮無駄だと割り切るべきだ。 とくに、ママ友コミュニティーというのは嫉妬と羨望が渦巻く世界であり、何をしたって悪口を言われる。たとえば、知り合いの 30代の女性は、離婚して女手一つで娘を育てており、バカにされたくなくて、娘の入園式に一張羅のブランド物のスーツを着て行った。すると、「これみよがしに高価なスーツなんか着て来ちゃって」「自分が高収入だってひけらかしたいのかしら」などと悪口を言われたらしい。それに懲りて、卒園式にはラフな格好で出席したところ、こんどは「あんなラフな格好で来るなんて TPOをわきまえてないんじゃない」「そういうところがシングルマザーは非常識だから困るわよね」などと悪口を言われたという。 こうした経験から、彼女は「高級な服を着ても、ラフな格好をしても同じように悪口を言われるんだったら、もう何を言われても気にしないようにしよう。私がシングルマザーというだけで色眼鏡で見る人もいるけど、そういう人とはつき合わないようにしよう」と心に決めたらしい。 似たような経験を私自身もしたことがある。ある私立大学に勤務していた頃、たまたまテレビに出演する機会があり、その出演後に「先生の診察を受けたいのだが、どうすればいいか」という問い合わせの電話が大学に殺到した。受診希望の問い合わせは本来私が診療していた病院にしていただくべきで、大学では対応しきれなかったのかもしれないが、何人もの大学関係者から「あんなふうにテレビに出られると、事務が対応に困る」「迷惑だ」という文句や悪口を言われた。 私がテレビ出演のオファーを受けた一因に「大学の宣伝になれば」という思いもあったので、こういう反応が返ってきたことに当惑した。少子化の影響もあって、私立大学の多くが受験生を集めるのに苦労している昨今、大学の知名度を上げる一助になればと思って私はオファーを受けたのだし、そのテレビ出演が多少は大学の宣伝になったのもたしかである。にもかかわらず、返ってきたのが文句と悪口だったので、自分の耳を疑った。 そこで、次のテレビ出演の機会には、勤務先の大学名を伏せて「精神科医」という肩書だけで出演した。すると、今度は、「自分だけ有名になればいいのか」「自分のことしか考えてないのか」「大学への恩義は感じないのか」などと言われた。 結局、何をしたって悪口は言われる。というのも、悪口を言う側の心の奥底には羨望が潜んでいるからだ。羨望とは「他人の幸福が我慢できない怒り」と言ったのは、ラ・ロシュフコーだが、まさに名言である。私はこれまで主に病院や大学で働いてきたが、医者にせよ、学者にせよ、その多くがマスコミに出て注目されたいという欲望をひそかに抱いている。もっとも、その欲望が実際に満たされることはあまりないので、同じ組織の中にマスコミで脚光を浴びている人間がいると、陰口の一つもたたきたくなるようだ。 これについては、効果的な対処法はない。だから、悪口を言われないようにしようと頑張ることを今すぐやめていただきたい。 そもそも、悪口を言われないようにしようという発想を持つこと自体、「自分が頑張れば、悪口を言われずにすむ」と信じている何よりの証拠である。これまで述べてきたことからおわかりのように、この認識は甘すぎる。こんな甘い認識を持っていると、それが裏切られたときに受けるショックも大きいので、きれいさっぱり捨て去るべきだ。 率直に申し上げて、羨望はどんな人の胸中にも芽生えるので、悪口は誰だって言う。あなたに面と向かって言うくらいなら、まだましと思っておくほうがいい。むしろ、陰でコソコソ言ったり、心の中でつぶやいたりすることのほうが多い。したがって、「どんなに気をつけても、悪口を言われるときは言われる」と肝に銘じるべきである。 もっとも、自分が悪口を言われていることがわかれば、誰だって傷つくはずだ。そんなときこそ、相手がなぜ自分の悪口を言うのかをできるだけ客観的に分析することが必要だ。 誰かをおとしめて、相対的に自分の価値を高めたいと思っていることもあれば、絶え間なく誰かの悪口を言い続ければ、自分が悪口を言われずにすむと信じていることもある。その辺りの欲望や思惑を、後で述べる「分析癖をつける」という対処法で見きわめなければならない。 それでも、悪口を言われたショックから立ち直れないときは、悪口を言う人があら探しばかりするのは、その人自身にあらがたくさんあるからではないかと疑っていただきたい。 第一、悪口を言うこと自体、大きなあらにほかならないのだから。もっともらしい正義ほどうさんくさいものはない 正義というとちょっと大げさかもしれないが、自分の正しさを確信している人ほど、他人を平気で振り回すものだ。

その典型ともいえるのが、第 1章の「相手の領域に平気で割り込む人」のところで紹介した、娘のマンションに勝手に入り込む母親、単身赴任先から帰ってくるなり掃除や整理を始める夫、あるいは定年退職後細かいルールを決めて妻に押しつける夫である。第 3章の「自分の価値観を他人に押しつける強引さ」のところで紹介した、自説を嫁に押しつける姑や自分の育児法をママ友にしきりに勧める女性もそうだろう。 いずれも、程度の差はあれ、自分が正しいと信じている。それだけに厄介だ。自分はあくまでも正しいことを主張し、実践していると当の本人が思い込んでいるだけに、それが相手にどれだけ迷惑をかけるのかについて想像力が働かない。第一、想像してみようとさえしない。 この手の独りよがりの正義を振りかざす人が最近増えている。とくに、インターネットの出現以降、この傾向が顕著であり、不祥事があるたびにネット上で徹底的に攻撃する。 こうした攻撃で目立つのが、「警察は犯罪者ばかり」「公務員は、いい給料をもらっているのに働かない奴ばかり」「教師は、いじめを見て見ぬふりの奴ばかり」「生活保護受給者は、働けるのに働かない奴ばかり」といった乱暴な十把一絡げである。 たしかに、中には、犯罪に走る警察官も、あまり働かない公務員も、いじめを見て見ぬふりの教師も、働けるのに働かない生活保護受給者もいるかもしれない。しかし、真面目に頑張っている警察官もいれば、身を粉にして働いている公務員もいる。また、いじめと真摯に取り組んでいる教師もいれば、病気や障害のせいで本当に働けない生活保護受給者もいる。 にもかかわらず、十把一絡げにして激しく攻撃する人が増えている。ネット上では匿名で好きなだけ攻撃できるからかもしれないが、それにしても、「 ○ ○は × ×ばかり」という乱暴な十把一絡げの論法を振りかざして、他人を扇動し、ターゲットを徹底的にたたくやり口には、啞然とする。こうした過剰攻撃に走るのは、自分の主張する十把一絡げの論法があくまでも正しいと信じているからだろう。 同様の過剰攻撃の刃は、不倫が報じられた有名人に対しても向けられる。 2016年は、「ゲス不倫」という言葉が流行語のトップテンに選ばれるなど、不倫騒動が後を絶たなかったこともあって、不倫が報じられた有名人に対する世間の怒りや攻撃がすさまじかった。「不倫は悪」という正義を振りかざした攻撃が行われたのだが、そういう世間の反応に私は違和感を覚えずにはいられなかった。 というのも、不倫は夫婦間の信頼関係を損なう行為なので、浮気が発覚したら、配偶者にきちんと謝罪して、できるだけの償いをしなければならないとはいえ、あくまでも夫婦の問題だと私は考えているからだ。すべて当事者同士の話し合いに任せるべきあり、赤の他人がとやかく言うことではないというのが私の持論である。 ところが、不倫とは直接関係ないはずの世間が激怒しているのが現状だ。不倫が報じられた夫を許し、結婚生活を継続すると発表した妻に、「なぜ許すんだ」と怒りの矛先が向けられたケースさえある。 不倫の当事者ではない世間が怒るのはなぜなのか? このような怒りの根底に潜んでいるのは一体何なのか? この問いについて考えると、「不倫は悪」という正義を振りかざして攻撃する人の胸中に潜んでいる羨望や欲望が浮かび上がってくる。 まず、「けしからん」「許せない」と声高に叫びながら激しくたたく人の心の奥底には、羨望が潜んでいる可能性が高い。自分がやりたくてもやれないことや、やりたいのに我慢していることを他の誰かがやすやすとやってのけると、他人の幸福が我慢できない怒りを抱くところが人間という生き物にはあるからだ。 ただ、未婚者と既婚者では、その心理に少々違いがあるように見受けられる。未婚者、とくに結婚できない未婚者が既婚者の不倫をたたく場合は、自分は一度も結婚していないのに、向こうは少なくとも一度は結婚しておきながら、そのうえ他の異性とも関係を持つなんてけしからんという心理が働きやすい。 もちろん、「自分は結婚できないのではなく、結婚しないだけ」と主張する未婚者も少なくないだろう。たしかに、お互いに不平不満を募らせている夫婦は結構いるし、現在の婚姻制度が本当にそれぞれの個人に幸福をもたらすシステムなのかどうか、はなはだ疑問なので、あえて結婚しないという選択肢もあって当然だと思う。だが、そういう選択を主体的にしたにせよ、結婚しないことで周囲から責められ、肩身の狭い思いをしている未婚者からすれば、いったん婚姻制度の枠組内に入り社会から承認を得ておきながら、同時に他の異性とも肉体関係を持つという既婚者の「享楽」は許しがたいということになる。 一方、既婚者が他人の不倫を徹底的に攻撃する場合は、羨望だけでなく自己正当化の欲望もしばしばからんでいる。夫婦生活において大切なこととされている誠実さが絶え間ない誘惑をしりぞけてはじめて守られることは、既婚者であれば誰でも多かれ少なかれ経験しているはずだ。だからこそ、不倫願望を心の奥底に秘めていながら、我慢せざるを得ないとか、実行に移せないという人ほど、他人の不倫を激しくたたく。 また、不倫という他人の「悪」を徹底的に攻撃することによって、自分にはそんな「悪」などないかのようなふりをすることもできる。とくに誠実であるべき責任を分かち合う配偶者の前で、他人の不倫を攻撃すれば、自分には不倫願望のようなやましい欲望などないのだと自己正当化できるわけである。 ここで見逃せないのは、「不倫は悪」という正義を振りかざす人たちが、ドイツの哲学者、ニーチェが指摘しているように「復讐を正義という美名で聖なるものにしようとしている」ことだ。彼らはまさに「裁判官を装った復讐の鬼」であり、「『正義』という言葉を、毒のある唾液のように絶えず口の中に蓄えている」(フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』中山元訳、光文社古典新訳文庫)。 一体、何に対して復讐しようとしているのか? 羨望の対象である有名人が手にしている成功、名声、富などを自分は手に入れられなかった過酷な運命に対してである。だからこそ、有名人の不倫が報じられると、これでもかというくらい激しくたたき、引きずりおろさないと気がすまない。 このようなメカニズムが、「不倫は悪」という正義を振りかざして攻撃する人の根底に潜んでいることに気づけば、マスコミで盛んに取り上げられる不倫騒動にも冷静なまなざしを向けられるのではないか。 とにかく、もっともらしい正義こそ要注意である。そういう正義を振りかざす人ほど、さんざん他人を振り回しておきながら、後ろめたさも罪悪感も覚えない。正義が自分の側にあると思えれば、自らの攻撃を正当化しやすく、いくらでも攻撃的になれるからだ。 うがった見方をすれば、自らの攻撃を正当化するために、正義を声高に叫ぶのだともいえる。「テロとの戦い」という正義を掲げてアメリカが中東で始めた戦争が、シリアでの内戦やイスラム国( IS)誕生を誘発したことは記憶に新しいが、歴史を振り返れば、どれだけ多くの戦争が正義の名のもとに遂行されてきたか、一目瞭然である。 独りよがりの正義を振りかざす人の正しさを疑わず、うのみにしていると、とんでもないことになりかねない。一見もっともらしい正義ほどうさんくさいものはなく、危うさをはらんでいるのだと肝に銘じるべきである。 他人を平気で振り回す人に立ち向かうには、このような考え方を胸に秘めつつ、ときには戦う覚悟が必要だ。最後に実際の対処法について具体的に解説したい。まずは分析する癖をつける まず、他人を平気で振り回す人を徹底的に分析目線で観察する、つまり分析癖をつけることが必要だ。 そうすれば、二つのメリットがある。一つは、他人を平気で振り回す人と同じ目線、同じ土俵で向き合わずにすむこと、もう一つは、学術的に観察する習慣を身につければ、感情的に受け止めずにすむことだ。 たとえば、気分屋で、そのときそのときで対応が大きく違う男性上司を思い浮かべていただきたい。この上司の機嫌が悪いと、部下が委縮して、職場の雰囲気が悪くなってしまう。また、そのときの気分で指示を出すため、部下が段取りするのに困り、効率が著しく落ちる。とくに長期的な仕事に取り組む場合、そのときの気分次第で指示が変わると、後で大幅な軌道修正が必要になることが多く、深刻な問題に発展しやすい。もっとも、自分が気分屋だという自覚など、この上司には全然ない。そのときの気分で部下を怒鳴りつけたり、猫なで声でほめたりするので、みんな戦々恐々としている。 こういう上司がいたら、その姿を見るだけでストレスになるだろう。なぜそんなにストレスを感じるのかといえば、相手と同じ土俵に立って、状況を感情で受け止めているからだ。たいていの人は、ほとんどの出来事を感情で受け止めている。だからこそ、感情が揺さぶられる。 実は、これが一番のストレス源なのだが、感情は誰にでもあるので、感情が全然揺さぶられないようにするのは所詮無理だ。そこでお勧めするのが、できるだけ学術的な視点で相手を観察し、分析しまくることである。「この上司が自分の感情をコントロールできないのは、欲求不満を処理する能力が低いからかもしれない。しかも、気分次第で指示を出すことがどれほど深刻な影響を与えるかもわかっていないようで、想像力が欠如している。おまけに、少々部下を怒鳴りつけても自分は特別だから許されるという特権意識もあるみたいだし、かなり自己愛が強そうだ。もしかしたら、自己陶酔型のナルシストかもしれない……」 というふうに。このように、あなたが分析癖を発揮すれば、過剰な感情の揺らぎによるストレスが多少は軽減するはずだ。

本書では、これまで他人を平気で振り回す人の手段や精神構造について解説してきたが、これはすべて分析に必要な材料をあなたに提供するためだ。ここまでお読みくださったあなたは、他人を平気で振り回す人に関する知識が少なくとも普通の人よりは豊富なはずだ。だから、この本で得た知識にもとづいて、周囲の人たちを分析しまくってください。そうすれば、ストレスを軽減することも、あなた自身のメンタルを守ることもできるだろう。意地悪な見方をすることが必要 振り回されやすい人は、いい意味でも、悪い意味でも、素直で純粋なようだ。もちろん、それ自体はすばらしい美徳なのだが、他人を平気で振り回す人に立ち向かうには、それだけではやっていけない。意地悪なまなざしで見つめ、何でも疑ってかかることも、自分の身を守るためには必要である。 たとえば、上司があなたに何かを教えてくれたとしよう。そういう場合、素直で純粋な人は、「私のことを思って教えてくれたんだ」「貴重な時間を使って、私が仕事をしやすいようにしてくれたんだ」「本当にありがたい」と思うだろう。 実にすばらしい反応だ。しかし、そのときに「私に教えると、上司にはどんなメリットがあるのだろう?」とか「上司は何のために、私に教えてくれたのだろう?」と、ちょっと意地悪な見方をすることも、ときには必要である。 すると、「この上司は教えることで、自分のほうが上だと言いたいんだな」「自分の知識をひけらかしたいタイプで、承認欲求も自己愛も強いのかもしれない」「私に教えて、成長させることで、上司としての自分の評価を高めたいんだな」「私に仕事を丸投げすれば、自分が楽できるからかもしれない」などの答えが脳裏に浮かんでくるのではないか。 もちろん、こちらが勝手に想像しているだけで、これらがすべて真実だとは限らない。だが、たとえ間違っていても、心の中で想像している分には、それほど実害はない。大切なのは、物事を常に斜めから見て、相手の裏を探る練習を積み重ねていくことだ。 こんなことばかり考えていると人間不信に陥って、性格が歪んできそうだと思う方もいるかもしれない。だが、私利私欲のない人間はごくまれであり、「あなたのため」「君のため」などとことさら強調して、さも相手のことを考えているかのように振る舞う人ほど、実は相手を自分の思い通りに操作したいという欲望を胸中に秘めている。振り回されて痛い目に遭いたくなければ、この苦い真理から目をそむけてはならない。 意地悪なまなざしで相手を観察するには、「なぜ、こんなことを言うのか」「裏にどんな思惑が隠れているのか」を常に問い続けるといい。口先では、きれいごとを並べていても、実は自分のことしか考えておらず、裏で悪口を言い触らしたり、足を引っ張ったりする輩は掃いて捨てるほどいる。そういう人に振り回されないためにも、常に意地悪なまなざしを持ち、裏を読むことをお勧めする。言いなりにならないために「部分交渉」する 他人を平気で振り回す人がターゲットにするのは、要するに「自分の言いなりになる人間」だ。それでは、どういう人が言いなりになりやすいのかといえば、第 4章で振り回されやすい人の第一の要因として指摘した「低い自己評価」の持ち主である。つまり、自信がなく、自己評価が低いほど、相手の言いなりになりやすい。当然、振り回されやすい。 自己評価が低い人ほど、「自分にはどうせできない」「うまくいくわけがない」と考えやすく、傷つくことを恐れるあまり、どうしても戦うことから逃げる。私が大学進学の際に親ときちんと戦わなかったように、うまくいかなかったときに自分で責任を取るのが嫌なので、選択や決断を他人にゆだねる。いわば、失敗を想定して保険をかけるわけで、これも一種の自己防衛といえる。 自分の身は自分で守るしかないので、自己防衛を否定する気はない。ただ、うまくいかなかったときのために保険をかけるばかりで、戦うことから逃げ続けていたら、他人を平気で振り回す人にますますつけ込まれるだけだ。だから、本当の意味で自己防衛になっていない。この矛盾に、まずは気づいていただきたい。 そのうえで、具体的にどう対処すればいいのかということになるが、これまでの人生で戦うことから逃げてきた方に「他人の言いなりになったほうが楽だと思うのはやめよう」「自信を持って戦おう」と助言しても、すぐに実践できるわけではないだろう。そこでお勧めするのが「ちょっとだけ戦う」という手である。「戦う」という言葉が強すぎるようなら、「ちょっとだけ交渉する」、つまり「部分交渉」といってもいい。 たとえば、上司から仕事を任されるとしよう。実際には、体よく押しつけられるだけなのだが、そういう場合「 ○ ○さん、この仕事お願いね」と言われると、これまでは「はい」とそのまま受け入れるしかなく、せいぜい陰で「この忙しいときに、こんな仕事までできないよ」「うまくいかなくたって、私のせいじゃないから」と愚痴をこぼすくらいしかできなかったのではないか。 そこをちょっと変えていただきたい。これからは「今ちょっと忙しいので、明日まで待ってもらえますか」と時間的な交渉を一つ加えるのだ。あるいは、「今、別の案件を抱えていて、全部はできないので、この部分だけでもいいですか」と仕事の量やレベルについて、ちょっとだけ交渉するという手もある。 そもそも、部下を平気で振り回す身勝手な上司ほど、部下の忙しさなどお構いなく平気で仕事を振っておきながら、後で「まだできてないのか」「こんなレベルじゃ話にならん」などと文句を言う。それに対して、「別の仕事が忙しくて」と部下が答えると、「言い訳するな」とか「それなら、なぜ最初に言わないんだ」と怒鳴りつける。 こういう状況を少しでも改善するために、部分交渉は有効な手段である。全てを断るわけではなく、交渉して一部を断る練習を積み重ねていけば、交渉力が身につくはずだ。そうなれば、さまざまな場面で応用できるようになる。 この交渉力は、とくに、やりたくないことや無理なことでも頼まれると断れなくて悩んでいる方にとって、強力な武器になるだろう。「今日は無理だけど、明後日までならやれます」「一人では無理ですが、誰か手伝ってくれるのなら可能です」「全部は無理ですが、ここまでならやれます」「〇〇さんがここをやってくれるなら、残りはやります」といった言い方を練習すれば、少しずつ自分の主張を伝えられるようになる。 すると、向こうも「こいつは自分の言いなりになる」という印象を改め、何でもかんでも押しつけようとは思わなくなるので、こちらが振り回されることも減るだろう。要は、ちょっと面倒な奴になることだ。そのためにも、ちょっとだけ交渉する部分交渉をぜひ試していただきたい。第三者も交え、証拠を必ず残すようにする 他人を平気で振り回す人との間でよく起こるのが、「言った、言わない」のトラブルである。 たとえば、上司に言われた通りにやったにもかかわらず問題が発生した場合。こういう場合、上司が「そんなことは言っていない」としらばっくれることがある。これは、上司が本当に指示したことが明るみに出ると、責任問題になりかねないので、それを避けたいという自己保身欲求によると考えられる。上司が自分に非があると薄々感じていると、それを否認するために一層攻撃的になることも少なくない。 いずれにせよ、こんな上司と向き合っていると、あらぬ形で自分に火の粉が降りかかりかねない。こういう人とのつき合い方としては、基本的に二つしかない。一つは文書かメールでやりとりすること、もう一つは一対一にならないことだ。いずれも、証拠を残すためである。 先ほど述べたように、自分の正しさを確信している人ほど、他人を平気で振り回す。しかも、自分の過ちや間違いを指摘されると、それを否認するために、躍起になって自己正当化しようとする。だから、そういう人の主張を訂正するのは至難の業だ。 上司に対して「だって、〇〇さんがそうしろって指示したじゃないですか」「〇〇さんの言われた通りにやっただけですよ」といくら泣き叫んだところで、向こうは「そんなわけないだろ」「言い訳するな」と言うだけだ。そうなったら、ほとんど勝ち目はない。 だからこそ、そういう事態を防ぐために「大事な指示を忘れてしまってはいけないので、一度メールでやりとりさせてください」と言うとか、何かしらの文書にして共有しておくという対応策が必要になる。 あるいは、他人を平気で振り回す人とは可能な限り一対一にならないようにして、第三者を交えて話すことも、自分の身を守るために必要だ。これで問題を完全に回避できるとは言い切れないにせよ、少なくとも予防策にはなるはずだ。「言った、言わない」の問題で深刻な事態になりそうなら、それこそ ICレコーダーを忍ばせておいて、会話を録音するくらいの覚悟もときには必要かもしれない。大げさのように思われるかもしれないが、他人を平気で振り回す人の中には、自己保身のために信じられないようなことを平気で言い出す人も少なくないのだ

から。そんな上司のせいで退職に追い込まれたり、異動を命じられたりすることもあるので、自分の身は自分で守るという確固たる信念を持っておくことが必要である。自分の本当の欲望を見きわめる 自分は一体何をしたいのか? あるいは、自分が本当に望んでいるのは何なのか? それがわからないからこそ、相手の言いなりになって、結局振り回される。つまり、振り回されやすい人は、自分の欲望が何なのかがよくわかっておらず、周囲の誰かの言う通りにしていればいい、少なくともそれほど間違いはないと思っているわけである。 もちろん、日本人の国民性による部分もあるだろう。同調圧力の強い日本社会では、欧米人のように自己主張の強い人間は排除されやすく、むしろ周囲に合わせることが美徳とされている。そのため、自分の欲望を表に出すと、「わがまま」とか「はしたない」と非難される。 だから、日本人は欧米人に比べて振り回されやすいともいえるのだが、とくに、子供の頃からずっと〝いい子〟でいようと頑張ってきて、大人になっても〝いい人〟でいようとし続けている人は、人並み以上に振り回されやすい。というのも、〝いい子〟とは、親や教師の欲望を満たそうとする子供であり、〝いい人〟とは、職場でも家庭でも周囲の誰かの欲望を満たそうとする人だからだ。〝いい子〟も、〝いい人〟も、本質的に自分自身の欲望よりも「他者の欲望」を優先するので、必然的に自らの欲望を押し殺さざるを得ない。それによって生じる葛藤にさいなまれるのが嫌なら、「他者の欲望」を満たすことこそ自分の欲望だと思い込むしかない。 もちろん、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンが「人間の欲望は他者の欲望である」と言ったように、われわれはみな多かれ少なかれ「他者の欲望」を取り込みながら、自分の欲望を形成していく。たとえば、医者になってほしいという親の欲望を取り込んだ子供が、医者になりたいという欲望を抱く。あるいは、『巨人の星』のように、父親が息子にプロ野球選手になってほしいと願い、その欲望を取り込んで息子が父親の特訓を受け入れることもある。 こうして欲望が形成されることはよくあるので、それが悪いと決めつけるつもりはないが、そればかりだと、自分の欲望を持てず、親の操り人形のようになってしまう危険性がある。あるいは、かつての私のように、親の欲望を満たすために医者になったが、その選択は果たして正しかったのかと悩むかもしれない。 何よりも怖いのは、〝いい子〟や〝いい人〟でいようとして、「他者の欲望」を満たすことばかり考えていると、他人を平気で振り回す人につけ込まれやすいということだ。しかも、他人を平気で振り回す人は独特の嗅覚の鋭さでターゲットを嗅ぎ分けるので、あなたが「他者の欲望」を満たすことを最優先していたら、要注意である。 今すぐ、「自分は本当は何をやりたいのか」「自分は本当は何を望んでいるのか」と自らに問いかけていただきたい。自分の欲望を見きわめるためである。 もちろん、自分の欲望がわかったからといって、それをすぐに満たすのは現実には難しい場合のほうが圧倒的に多い。それでも、自分の欲望を知り、それが相手の欲望と違う場合は、「違う」と伝える練習を少しずつ積み重ねることは、振り回され続ける人生から抜け出す第一歩になるはずである。どんどんスルーする 振り回されやすい人ほど、生真面目なのか、スルーするのが苦手なようだ。相手に何か言われると、それを真に受けて、その通りにしなければならないと頑張る。それでも相手が満足せず、さらに理不尽な要求をすると、それも満たそうと一層努力する。そこにつけ込まれて、さらに振り回される……。その結果、悪循環に陥って、振り回され続ける。 これが典型的なパターンなので、まず最初のところで、真に受けず、スルーすることが大切だ。相手が何を言ってこようと、表面上は「そうですか」「すごいですね」「大変ですね」などと適当に答えておいて、心の中では「はいはい、ご苦労さま」「同じことばかり言って、もういい加減にしたら」「うるさい、アホじゃないの」というくらいの思いでスルーする。これができればいいわけだ。ストレスを感じることも、振り回されることもないだろう。 ところが、実際にはスルーできないからこそ、悩むし、振り回される。その最大の原因は、やはり割り切りができないことだと考えられる。この章で、「自分を振り回す人から好かれる必要はない」という考え方を最初に紹介したが、こういう割り切りができれば、もっと簡単にスルーできるようになるはずだ。 自分の身を守るためにも、人間関係を整理して、どうでもいい奴はどんどんスルーしていただきたい。離れるという決断をする 他人を平気で振り回す人への対処法で、何よりも大切なのは、近づかないこと。結局、これに尽きる。 ところが、職場の上司や同僚だったり、隣人や親戚だったり、ときには家族だったりすると、なかなか厄介である。近づきたくなくても、近づかないわけにはいかないからだ。友人や恋人であれば、つき合わないとか、別れるという選択肢もあるだろうが、そうはいかない場合もある。 その場合の考え方や対処法をこの章では紹介してきたわけだが、それでは状況が一向に改善しないこともあるだろう。いや、むしろ一層悪化することもあるかもしれない。そのときは、他人を平気で振り回す人から離れる決断をするしかないのではないか。職場であれば、異動を願い出るとか、退職を申し出るという決断。家庭であれば、家を出るとか、離婚するという決断。隣人や親戚とはつき合わないという決断。 もちろん、いずれも重大な決断であり、できれば避けたい。むしろ、こういう決定的な決断を避けるために、その前にできることをこの章では紹介してきたのだともいえる。しかし、あなたがさんざん振り回されて、第 4章で示した症状に悩まされているのであれば、そろそろ決断すべき時期である。何よりも、あなたの身を守るために。

おわりに 新たにアメリカの大統領に就任したドナルド・トランプ氏の言動を見ていると、他人を平気で振り回す人の典型だと痛感する。 記者会見で、特定のメディアの記者に「あなたの会社はひどい。質問させない。あなたのところは偽のニュースだ」と叫んで質問をシャットアウトしたり、ツイッターで、メキシコに生産拠点を置く自動車メーカーへの批判を繰り返したりして、とにかく自分の思い通りにしないと気がすまないようだ。それでも、世界最強の国のトップとして絶大な権力を握っているだけに、無視するわけにはいかないのか、大手自動車メーカーの中には、メキシコへの工場の移転計画を撤回したところもある。 こうした現状を目の当たりにすると、他人を平気で振り回す人が迷惑なのは、権力や影響力を持っているからだとつくづく思う。トランプ氏が何と言おうと、彼に権力も影響力もなければ、「うるさいおっちゃん。ちょっと静かにしたら」と心の中でつぶやきながら無視すればいいのだが、権力者であるがゆえに、その発言に耳を傾けないわけにはいかない。だからこそ、迷惑なのだ。 程度の差はあれ、他人を平気で振り回す人が迷惑なのは、同じ理由による。知らないおっちゃんが近所の路上で何かを叫んでいても、自分と関係なければ、目を合わせないようにして通り過ぎればいい。あるいは、口うるさいおばちゃんがいても、自分に矛先が向けられない限り、挨拶だけしていればいい。だが、上司や同僚だったり、友人や恋人だったり、親や配偶者だったりして、何らかの形で関わらないわけにはいかないからこそ、悩みの種になる。 誰かに振り回されるのを極力避けたいのか、他人との関わりをできるだけ避けようとする人が、とくに若い世代に増えているらしい。こうした流れの中で非婚化が進んでいるのかもしれないが、これは孤立と表裏一体である。そして、孤立が振り回されやすい要因の一つであることは、第 4章で指摘した通りである。したがって、誰にも振り回されまいとして他人との関わりを避けることが、皮肉にも振り回される一因になり得ることを理解しなければならない。そのうえで、他人との賢い関わり方を習得すべきだ。本書がその一助になれば幸いである。 なお、本書で引用したラ・ロシュフコー、パスカル、ラカンの言葉は、次のテキストを参照している。 La Rochefoucauld : “Maximes et Réflexions diverses” Flammarion Pascal : “Pensées” Folio Lacan : “Écrits” Seuil 本書刊行に際しては、 S Bクリエイティブ株式会社学芸書籍編集部の牧元太郎さんに大変お世話になりました。遅れに遅れた原稿を辛抱強く待ってくださったご厚意に心から感謝いたします。本当にありがとうございました。 2017年2月片田珠美

著者略歴片田珠美(かただ・たまみ)精神科医。広島県生まれ。大阪大学医学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。人間・環境学博士(京都大学)。フランス政府給費留学生としてパリ第 8大学精神分析学部でラカン派の精神分析を学ぶ。 DEA(専門研究課程修了証書)取得。パリ第 8大学博士課程中退。精神科医として臨床に携わり、臨床経験にもとづいて、犯罪心理や心の病の構造を分析。社会問題にも目を向け、社会の根底に潜む構造的な問題を精神分析的視点から研究。『他人を攻撃せずにはいられない人』( PHP新書)は話題を呼び、大ベストセラーとなる。『プライドが高くて迷惑な人』『すぐ感情的になる人』(以上、 PHP新書)など著書多数。

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